あの光景は子供たちの目にどう映ったのだろうか。9月27日に東京・日本武道館で営まれた安倍晋三元首相の国葬(国葬儀)。近くの九段坂公園に設けられた一般献花台にも多くの人々が弔問に訪れたが、国葬反対を訴える集会やデモの様相に一抹の不安を覚えた。

むろん国葬に反対することやデモを行うことは自由である。問題視したいのは、そのありようだ。国会議事堂前では、国葬が始まる午後2時ごろに合わせて「国葬反対」などのシュプレヒコールのボルテージを上げ、黙禱(もくとう)が行われている時間帯に打楽器を打ち鳴らす場面もあったという。

これまでの世論調査などでは、若い世代になるほど国葬への賛成が多いという傾向がみられた。物心ついた頃から長期にわたって日本のトップとしてリーダーシップを発揮してきた安倍氏の姿が目に焼きついていることが一因だろう。それだけに、あのようなデモを目の当たりにした若者や子供たちは戸惑いを覚えるのではないだろうか。

野党の一部国会議員らも加わった国葬反対の集会やデモの参加者は、いわゆる「モリカケ」問題などを挙げ、安倍氏の政治的評価をことさらおとしめようとしているように見える。彼らは一様に「安倍氏の追悼とは別の問題」と前置きするものの、真にその意思があるのならば、冒頭で触れたように、せめて黙禱時にシュプレヒコールや打楽器を中断するといった配慮があっていいはずだ。

外国人も違和感を覚えたようだ。国葬を控えた9月14日、日本外国特派員協会で行われた反対デモなどを主催する団体の記者会見で、インドネシアの記者がこう問うた。

「わが国では、国のリーダーが亡くなった場合、丸1日か、場合によっては1週間ほど国全体が喪に服す。賛成派も反対派も同様に、リーダーに対する尊敬の念を示すためだ。本当に国葬当日に国会前でデモを強行するのか」

これは平成11年8月に成立、施行に至った国旗国歌法に通じる面がある。国民が敬意を持って接すべき国旗を学校で掲揚せず、国歌斉唱時に起立しない教職員が目立ち社会問題化したが、国際社会において奇異の目で見られてきた。インドネシアの記者が国葬当日のデモに素朴な疑問を抱いたように、国際社会の常識からかけ離れた対応だったからにほかならない。

国葬当日に合わせて上映を急いだ山上徹也容疑者(42)=安倍氏に対する殺人容疑で送検、鑑定留置中=をモデルにした映画もしかりだ。

安倍氏は日本のトップとして内政・外政に尽力し、志半ばで凶弾に斃(たお)れた。国葬や政治的評価への賛否、さらに思想信条の隔たりはさておき、少なくとも故人を静かに送るべき日には遺族の心情に寄り添う配慮があってもよかったのではないか。

大人たちがそうした品位を若者や子供に示すことができれば、あらゆる思想、行動が自由である民主主義を担保しながら、礼節を学ぶ「道徳教育」として絶好の機会になったであろうに。残念でならない。(社会部次長 津田大資)

https://www.sankei.com/article/20220930-IBKHVFAGKBLXPMCRYCKNGAX2OA/