そして、金子書記長は8月27日にチャウシェスク大統領と会談、両党の友好関係を再確認している。

しかし、9月に入ると東欧革命は急展開を見せる。東ドイツ国民がハンガリー経由で大量に西ドイツに出国、そのハンガリーでは、10月23日に新憲法が制定され、ハンガリーの社会主義体制は崩壊した。

東ドイツも大規模デモが各地で発生、11月10日、ついにベルリンの壁が崩壊した。日本共産党がルーマニア共産党をいつ見限ったのかは不明だ。

しかし、ベルリンの壁崩壊後、11月20日に開幕したルーマニア共産党第14回に、緒方靖夫幹部会委員が日本共産党から出席している。イタリア共産党はこの党大会には欠席した。日本共産党は、この党大会にメッセージを送っている。

プラハで大規模なデモが発生している最中の11月23日、緒方靖夫幹部会委員はチャウシェスク大統領と会談を果す。

12月3日には体操選手のコマネチがアメリカに亡命。ここに来て日本共産党も観念したに違いない。ルーマニアが提唱した国際会議に反対を表明、ルーマニア共産党との関係が悪化しているとのアリバイ工作を始める。

しかし赤旗読者以外には共産党の必死の動きは分からない。日本共産党の幹部がこの年に3度もチャウシェスク大統領と会ったことも多くの日本人が知らない