「新聞記者の諸君とは話さないことにしているんだ」。佐藤栄作首相は引退を表明した1972年6月、集まった記者にそう言い放ち・・ [朝一から閉店までφ★]
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
コラム|滴一滴
「新聞記者の諸君とは話さないことにしているんだ」。佐藤栄作首相は引退を表明した1972年6月、集まった記者にそう言い放ち、一人でテレビカメラに向かいあいさつをしたことで知られる
▼秘書官には「最後に俺のわがままを通させてくれ」と、テレビを通じ国民に語りかけたいと事前に伝えていた。だが、調整を巡るボタンの掛け違いから散々な結果に終わった(村井良太著「佐藤栄作」)
▼第2次内閣発足からの連続在職日数が、大叔父の佐藤を抜いて歴代単独1位になってからわずか4日後のことである。安倍晋三首相が辞任する意向を表明した
▼体調不良が伝えられていたとはいえ、官邸での記者会見は2カ月以上なかった。唐突さも否めない会見に注目した人は多かろう
▼約7年8カ月を振り返れば、看板政策の「アベノミクス」をはじめ「地方創生」「1億総活躍」「全世代型社会保障」など毎年のように乱発した標語が浮かぶ。しかし、コロナ禍では国民向けに発信しない姿勢に批判が高まり、政治的遺産(レガシー)は何かも厳しく問われている
▼佐藤は引退表明で、日米友好なくして日本の繁栄なしとの信念が新しい時代に引き継がれることを求めたという。沖縄返還は果たしたが、業績にはさまざまな評価がある。それを超す長期政権はどう評価され、引き継がれるか。
(2020年08月29日 08時00分 更新)
https://www.sanyonews.jp/article/1046254?rct=tekiitteki 新聞記者の諸君とは話さないことにしているんだ
もともと新聞記者は
「政治家を目指して」学問しその後挫折して
「奴隷のような」記者になった経緯があるので・・・・・・
政治権力がないのに政治家におもねって情報をききだして威張り腐っている。。。。。
薄みっともない存在。時が過ぎればなにもなし・・・・・・・
親戚筋では笑われている。 日本マスゴミは会ってやるとある事ない事どころかない事ばっかり書くからな 新聞記者はゴミクズのカスってとこまで読んだ。
まじでくたばれ。 当時スパイに牛耳られてソ連が「日本での新聞を使った世論誘導は簡単だ」とうそぶいてたんだから慧眼だよ
国賊とまともに話す必要は無い ある事ない事書かれたんだろうね
国政に大きな影響を与えかねないから、捏造する記者とは話さないのが正解 安倍総理の辞任会見の記者質問聞いてたらバカらしくて・・・・・・・・・・
新聞記者ってのはこんなんしかいないんかい >政治的遺産(レガシー)は何かも厳しく問われている
ま、ブン屋は書き飛ばしてケロっと忘れる楽な商売だからなwww
記者会見で新聞は出て行けと追い出したからね。テレビは中継だから正確に伝わるが、新聞は都合のいいように嘘を書くからな。 報道機関そのものの報道姿勢が古いな。
大変だ大変だどうしようとまくし立てて不安をあおる。
ネット上の冷静な視点でのニュースを読んでから見ると
シビリアンコントロールの方向性が見える。
一日に5時間もニュース番組枠あるから繰り返し繰り返し
同じことを語らせている。
編集した悪意に満ちた報道も目立ってきた。
安倍政権の果たした功績はマスコミの中に日本の敵がいることを示したことだ。 政治的遺産は日韓関係。
「大人の対応」が口にするのも恥ずかしいレベルで陳腐化したのは素晴らしい。 1954年、自由党吉田茂内閣は検察庁により、造船疑獄の追及を受けた。疑獄の
中心人物として同党幹事長佐藤栄作は4月20日に逮捕寸前であった。ところが
翌日犬養健法務大臣が指揮権を発動し、逮捕をまぬがれた。
同年、NHKラジオ番組『ユーモア劇場』で、三木鶏郎らトリローグループに
より、造船疑獄に対する辛辣な風刺コントが放送された。これに佐藤栄作が
激怒し、同年6月に同番組は打ち切りとなった。
1960年自由民主党岸信介内閣の後を受けて池田勇人内閣が発足した。しかし
1964年10月25日、池田首相は喉頭がんのために辞任を表明し、同年11月9日に
佐藤栄作が後任に決定した。
この時代、野党は日本社会党とそれから分派した民主社会党が近親憎悪で
激しく対立し、票のつぶしあいをしたため、与党の自民党は楽々と国政選挙で
勝利し、佐藤栄作内閣は延々と1972年7月7日まで大過なく続いた。政策は
池田内閣の遺産を食いつぶしただけで目新しいものはなにもない。
日韓基本条約(1965年)はつめの部分がずさんであったために、いまに至るも
両国の確執がぶり返されている。沖縄返還 (1972年) は池田前首相が
米国との交渉に身を削った賜物である。佐藤栄作はその果実に便乗して
ノーベル平和賞を受賞した。
佐藤栄作はアメリカのベトナム戦争にのめりこんで行き、反中国の旗印を
高々と掲げるのを喜びとした。このようにして米国のニクソン大統領に
忠勤を励んだつもりだったが、ニクソンはキッシンジャー補佐官を極秘裏に
北京に派遣し、1971年7月15日に米中交渉を世界に発表し、翌年2月21日に
北京を訪問した。
アメリカから完全に存在を無視された佐藤栄作は党内で急速に求心力を
失った。日米繊維交渉などの重要な外交案件は通産相田中角栄に全面的に
頼った。用済みとなった首相は党内からよってたかって退任を迫られ、
6月17日の惨めな退任表明記者会見となった。
https://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/ms/1593801997/180 >>8
佐藤栄作政権時代で新聞がやらかしたと言えばいわゆる西山事件が代表例だな ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています