川崎市の差別禁止条例は7月1日に全面施行される。理念法にとどまる国のヘイトスピーチ解消法から踏み込む規制に、市内外の期待は大きい。差別と戦い続け、「ヘイト禁止」の先頭を走る川崎の取り組みから、コロナの時代の「共生」を考える。(この企画は上下2回で、大平樹が担当します)

◆聞くに堪えない言葉

 「え、これってデモなのか」。2015年11月と16年1月、在日コリアンたちが多く暮らす川崎市川崎区の桜本地区に乗り込もうとしたヘイトデモに、「重度(75)は言葉を失った。
 「ゴキブリ朝鮮人は出て行け」「殺す」。聞くに堪えない言葉を投げかける集団が警察に守られながら地域に迫ってくる。
 戦時中に生まれた在日二世の「は露骨な差別にさらされてきた世代だ。現状を変えようと、地元で差別をなくす運動の先頭に立って、児童手当や公営住宅入居などの差別的扱いをなくしていった。

 目の前を通り過ぎるヘイトデモに、長い時間をかけて積み上げてきた共生社会の理想が崩れるような感覚に襲われた。「は「これまでの差別とは異質なものを感じた」と振り返る。
 共生社会の危機を感じたのは在日コリアンだけではない。自民党の元国会議員、斎藤文夫(91)は「同じ川崎市民が狙われて困っているのに手をこまねいていては、保守政治家とは言えない」との思いから新たな条例づくりを後押しした。
 2019年12月12日、全国で初めてヘイトスピーチに刑事罰を科す差別禁止条例が川崎市議会で成立した。

◆1つ1つ解消

 川崎市の社会福祉法人「青丘社」の理事長を務める在日コリアンの「は若い頃から差別に苦しめられた。大手企業が在日コリアンを採用しなかった時代、親類の縁を頼って就いた零細の町工場では社長から「波風が立つから」と通名を名乗らされた。まともに就職できない現実に心は屈折していく。自らのルーツを恨んだときさえあった。
 「学校では差別はいけないと教えるけど、何が差別かは教えてくれない。俺たちの扱いは間違いなくいじめだった」
 1970年に在日コリアンの男性が国籍を理由に採用内定を取り消された日立就職差別事件を機に、市内では当事者たちが声を上げ始め、差別的扱いを一つ一つ解消していった。こうした動きが、88年に川崎市が全国で初めて設置した公設の多文化交流施設「ふれあい館」(川崎区桜本)につながった。差別をなくすために生まれた希有な公的施設だ。青丘社が運営を任され、「も10年前まで館長を務めてきた。
 開館当初、念頭に置いていたのは在日コリアン支援だったが、すぐにフィリピンや中国から来日した「ニューカマー」も公的サービスから取りこぼされていることに気づく。ふれあい館では、障害者や高齢者も含めて行政の手が及びにくい人々への支援に手を広げ、地域の課題に向き合った。
 ヘイトデモが桜本に乗り込んだとき、すぐに立ち上がったのは「の子どもたち世代。ふれあい館が目指した「共生」の精神は着実に受け継がれていた。

◆やらせない努力
 「共生」を大切に思うのは日本人も同じだ。地元の自民党国会議員を長年務めた斎藤文夫は、ヘイトデモ直後から市に罰則付きの条例を強く求めた。
 工業地帯の川崎には戦前から、多くの朝鮮半島の人たちが労働者として移り住んだ。斎藤は戦時中に学徒動員された工場で一緒に働いた、朝鮮人の鄭という二歳上の若者が忘れられない。鄭は斎藤をいつも敬称付きで呼んだ。「朝鮮の人だから肩身が狭いのか」と思いつつ、礼儀正しく、働いた後も夜学で学ぶ鄭に敬意を抱くようになった。
 ヘイトデモを報道で知った斎藤は「コリアンだって長年苦楽を共にし、地域の発展を支えてきた川崎市民だ」と、後輩の自民市議らへの根回しに奔走した。「人口減少を迎えた日本で外国人を排斥しては国家の将来が危うい」
 ヘイト行為を犯罪とする全国初の条例を、斎藤は「他でやれないことを川崎はやる。良識が示された」と歓迎する。
 一方、コロナ禍で横浜中華街には「中国人は出て行け」との手紙が相次ぎ、社会の差別意識が噴き出した。私たちの社会は前に進んでいるのか。不安と希望が交錯する胸中を吐露しながら「は言う。「差別をやめろと言い続け、やらせない努力を続けるしかない」
(敬称略)

 川崎市の差別禁止条例 昨年12月に成立した「差別のない人権尊重のまちづくり条例」は、国籍や人種、性別などを根拠にした差別を禁止する。特にヘイトスピーチには、市長の勧告や命令にもかかわらず3回繰り返した場合に限り、50万円以下の罰金刑の対象となる。

東京新聞
2020年06月28日 05時50分
https://www.tokyo-np.co.jp/article/38350