太平洋戦争末期、松代大本営地下壕(ごう)(長野市)の建設工事に動員された朝鮮人の名簿と戸籍調査史料に記載された労働者家族のうち、少なくとも15人が韓国で生存していることが13日までに、信濃毎日新聞の取材で分かった。うち8人から、韓国で工事や当時の生活などに関する証言を得た。亡くなった人も含めると、名簿記載の少なくとも53人が実在したことも確認した。

 名簿は、同地下壕を中心とする県内の労働現場に動員された朝鮮人とその家族計約2600人分。1945(昭和20)年8月の終戦後に帰国する際、工事事業者や警察署が作ったとみられる「帰鮮関係編纂(さん)」などで、創氏改名後の名前や本籍地、年齢が記されている。記載された朝鮮人の数は、これまで見つかった史料では過去最多。2018年、信濃毎日新聞の報道で存在が明らかになった。

 戸籍調査史料「内地在住朝鮮同胞戸籍及(および)寄留調査手帳」は、45年2月に日本の司法省が朝鮮人の徴兵に向けてまとめたとみられる。手帳6冊に当時の清野村(現長野市松代町清野)に住んでいた計166人の名前や本籍地、職業を記載。名簿と人名の一部が重複している。

 秘密工事だった地下壕の工事は残された史料が乏しく、実態は不明な点が多い。信濃毎日新聞は名簿と調査史料を基に19年10月、韓国で取材を開始。今年1月下旬までに記載者が最多の慶尚南道と、次に多い慶尚北道で計100人余の消息を探った。

 実在を確認した53人には、工事に従事した労働者が含まれていたが、生存者はいなかった。生存が確認できた15人はいずれも当時10歳以下の子どもで、現在は70〜80代。本籍地と性別の内訳は、慶尚北道醴泉(イェチョン)郡の女性2人、同清道(チョンド)郡の男性2人、女性1人、慶尚南道陜川(ハプチョン)郡の男性4人、女性1人、同居昌(コチャン)郡の男性1人、同咸陽(ハミャン)郡の男性1人、女性1人、同固城(コソン)郡の男性1人、女性1人=地図。現在は釜山(プサン)や大邱(テグ)などに暮らす。

 証言した8人は終戦時は0〜8歳。松代で家族と暮らし、主に父親が工事に従事した。工事の飯場(作業員宿舎)があった清野村で生まれた人もいた。いずれも日本の敗戦で韓国に帰国。取材に、日本に渡った経緯や日本での生活を証言した。

 一方、地下壕の壁には「密城」「相天」の文字が残されており、名簿の記載から、この文字が慶尚南道固城郡出身の人名ということが判明していたが、今回、親族への取材で実在が裏付けられた。韓国名は「朴相天(パクサンチョン)」で、帰国後に40、50代で亡くなったという。名簿の存在が明らかになるまでは、この文字は地名と考えられていた。(井口賢太)

信濃毎日新聞
(2月14日)
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