>>105つづき
天津条約(1885) 
甲申の変後,日清両軍は朝鮮で待機し続けたが,伊藤博文が天津に赴き,李鴻章と天津条約を結ぶに至った。
その内容は,1)日清両国の朝鮮よりの撤兵,2)出兵の際の相互事前通告,3)軍事教官の派遣停止,などで,
これにより朝鮮における日清両国は,軍事的・外交的に同等の地位を占めたが,その後政権を回復した閔氏一派(事大党)が清と結びつきを強めたので,
日本の朝鮮における地位はむしろ後退した。

防穀令問題
しかし日本の商業資本の朝鮮進出は年々増大し,多量の米国などの農産物を買い占めた。
そのため朝鮮政府は,凶作に際して穀物の輸出禁止を命ずる防穀令を発令したのであるが,日本政府は,
朝鮮政府を圧迫して1890年春に防穀令を撤廃させ,さらにこれによって日本人商人が損害を受けたとして賠償を要求した。
このような事情は,朝鮮民衆の対日感情を悪化させるばかりであった。