このスレのウヨクに、日本が加害国であったという事が分かる資料を提示して差し上げよう。


(出典:小学館版 少年少女 日本の歴史 18・近代国家の発展 19・戦争への道 20・アジアと太平洋の戦い参照)

明治中期  この頃,朝鮮では封建的な政府の圧力がひどく,民衆は新しい時代を求めていた。
1894(明治二七)年,朝鮮で甲午農民戦争が起こり,朝鮮政府のやり方に我慢できなくなった農民達が反乱した。やがて農民軍は朝鮮南部を支配するようになった。
1894(明治二七)年6月 朝鮮政府は農民達を鎮圧するために,清に出兵を求めた。
これに対し,日本の大鳥公使一行は6月10日にソウルに到着,6月12日に日本軍も到着し,そこで日清両国軍がにらみ合うことになった。
日本は清に対し,朝鮮の政治改革を両国共同で行うように提案したが,「朝鮮の改革は朝鮮自身に任せるべきだ」とする清国に拒否された。
1894(明治二七)年7月23日,日本軍は朝鮮王宮をおそい,清国に好意的な朝鮮政府をたおした。大院君を摂政におしたて,日本に好意的な朝鮮政府をつくった。
1894(明治二七)年8月1日,日本は清に宣戦を布告した。日本軍は清に連戦連勝し,旅順,威海衛を占領した。やがて戦争は日本の勝利に終わった。
1895(明治二八)年4月,下関で講和条約が結ばれた。内容は,一,清は朝鮮が独立国であることを認める。二,台湾,澎湖島,遼東半島を日本の領土とする。その他
1900(明治三三)年,清国では欧米列強や日本が入り込み,民衆の生活を圧迫していた。義和団という結社が中国民衆を集め,勢力を広げて行った。
1900(明治三三)年5月下旬,義和団が北京に入り,6月20日,各国の公使館を取り囲んだ。
1900(明治三三)年6月21日,清国政府は義和団の力を頼みに,各国に対し宣戦布告した。しかし,日本軍を主力とする連合国軍は8月に北京を占領,義和団の乱をしずめた。
1902(明治三五)年,ロシアは満州を占領していたが,ロシアは中国に対して撤兵の条約を結んだ。
1902(明治三五)年10月にロシア軍は第1次撤兵を行ったが,条約で決められていた翌年4月の第2次撤兵は行わなかった。
1903(明治三六)年4月21日,京都で政治家要人が集まり,ロシアに対する方針(満韓交換論)を決めた。これは「ロシアが満州を,日本は朝鮮を占領する」というものだった。