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この夏は、令和になり初めての終戦記念日が控える。否応なしに昭和の時代を振り返ることになるが、戦後になってもなお異国の地で最後まで闘っていた男が小野田寛郎少尉だ。終戦から29年、51歳で帰還した残留兵は、持ち前の慧眼で大新聞の変節を察知していた。

1974年(昭和49年)3月、元上官の命による武装解除に応じるまで、小野田少尉は帝国軍人として生き、フィリピンはルバング島の山中を舞台に、米軍基地や現地住民への遊撃戦を仕掛けていた。

平和を謳歌する戦後ニッポンに、突如現れた帝国軍人の姿は国民に衝撃を与えた。実際、帰国の模様を中継したNHKの番組は、視聴率40%超えを記録したが、「小野田さんブーム」はこれに止まらなかった。

小野田さんと親交のあった関係者はこう振り返る。

「寛郎さんに対して、“選挙に出ないか”とか“ウチの役員に”とか、利用しようとする人たちも多くいました。結婚話も山のようにあって、親族の家にまで結婚を求める手紙や電話が多く来たので、電話番号を変えたほど。家にまで押しかけ“娘を貰ってくれ!”と言う父親もいましたよ」

報道各社のスクープ合戦も熾烈を極め、中でも彼の「独占手記」を得るために、水面下では露骨に札ビラが舞っていたというのだ。

「朝日はアカだから」

「朝日新聞は1億出すと言ったそうですが、小野田さんは3500万円しか示さない講談社を選んだのです」

とは、小野田さんが帰国した年に初めて出版した著書『わがルバン島の30年戦争』の構成を務めた津田信氏の次男・山田幸伯氏だ。

「理由は小野田さんが『朝日はアカだから』と言って、毛嫌いしたためと聞きました。現地では捜索隊が日本の様子を伝えようと新聞を残していきましたが、彼はそこから終戦を知ると同時に、各紙の論調を把握するほど熱心に、事細かく読み込んでいたのだと思います」

戦時中、率先して戦意高揚に筆を揮った大新聞の変節を、帰国直後の小野田さんは見抜いていたのである。

また山田氏は、彼のこんな一面を目の当たりにしたと続ける。

「私の父は、手記を書くために伊豆で小野田さんと2カ月間、共同生活を送りました。まだ大学生だった私も何度かお会いしましたが、滞在した家の池には鯉を食べようと鷺がやってくるんです。小野田さんはその様子をどうしても写真に撮りたいと、一日中ずっとカメラを構えていました。非常に意固地で、決めたことはやり通す人だと思いました」

5年前、91歳で往生を遂げた小野田さん。晩年まで慰安婦問題に抗議する活動を熱心に行っていたという。

小野田寛郎氏

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https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20190623-00567361-shincho-soci



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