沖縄県知事・翁長雄志の急逝を受け、辺野古問題の行方を左右する選挙が9月13日、始まった。翁長からバトンを託された「沖縄アイデンティティー」のまとめ役は、「沖縄戦後史の体現者」玉城デニー。しかし一方で、団結の前提となる戦後史への共通認識は新世代から急速に失われつつある。30日投開票の選挙は、幾重にも「歴史的」な政治決戦になるだろう。ノンフィクションライターの三山喬が沖縄知事選を追う。(敬称略)

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 那覇市中心部の街並みは平成を代表するスター安室奈美恵の写真と歌声で埋め尽くされている。彼女の故郷沖縄では、目前に迫る引退に惜別の声が高まる中、時をほぼ同じくして歴史的な政治決戦・沖縄県知事選の火ぶたが切られた。

 翁長雄志急逝を受けた選挙。自公中央などの全面支援を受けるのは、前宜野湾市長の佐喜眞淳。革新・中道の県政与党などでつくる「オール沖縄」が急遽(きゅうきょ)立てた翁長後継者は、自由党幹事長を務める前衆議院議員の玉城デニーだ。

 選挙の焦点は翁長が命がけで阻止しようとした辺野古への米軍基地移設問題。佐喜眞陣営は態度を示さないが、主たる争点がこの一点にあることは、地元有権者の大半が理解している。

 自民党県連幹事長などの経歴を持ちながら「反基地」で保革共闘の闘いを牽引(けんいん)した翁長には、傑出したカリスマ性があった。それだけに、その立場を継承する後継者の人選には、ひと際注目が集まった。

 玉城はまったくのダークホースだった。オール沖縄幹部らの「調整会議」では、当初その名前は検討されなかったが、翁長が死の直前、後事を託したい人物のひとりとして指名したことから、急遽その意向が確認され擁立が決定した。

「意表を突く名前でしたが、すぐに『なるほど』と思いました。翁長さんはやはり“政治のプロ”。その着眼には唸(うな)らされました」

 県幹部のひとりは驚きをそう語った。

 自民党県議、那覇市長時代の翁長は、選挙の仕掛け人として知られた。20年前の知事選では、革新の現職大田昌秀の対抗馬に保守系経済人の稲嶺惠一を擁立し、県政奪還に成功した。民主党那覇市議だった島尻安伊子に目をつけて、自民推薦候補として参議院に送り出したのも翁長だった。

 玉城への着目には、そんな翁長ならではのセンスを感じるという。叩(たた)き上げの老練な保守政治家である翁長と日米ハーフで市民派の玉城。異質なタイプにも見えるが、翁長は玉城について「戦後沖縄の歴史を背負い、沖縄を象徴する政治家になる」と評したという。

「イデオロギーよりアイデンティティー」

 翁長はそんなスローガンで保革共闘を実現し、「腹八分目、六分目」と党派的主張の自制を呼びかけた。

 基地問題を巡る演説では、沖縄の戦後史を振り返る表現を多用した。

 1950年代、保革が共闘して米軍と対峙(たいじ)した島ぐるみ闘争を例に団結を呼びかけ、安倍政権の強硬な姿勢を「(米軍統治時代の強権的統治責任者)キャラウェイ(高等弁務官)を思い起こさせる」と60年代の米軍人にたとえて批判した。元知事の稲嶺はかつて、自分より17歳年下の翁長を「歴史感覚の人だった」と評したことがある。翁長は自らの誕生前、あるいは幼少期の歴史にも言及し、不条理の連続だった米国や本土との関係改善を訴えた。

 一方で玉城は、翁長ほど深い歴史への造詣(ぞうけい)や重厚な表現力はない半面、米兵の父を持ち、貧しい母子家庭で育った彼自身の生い立ちが、沖縄の戦後を物語る立場にいる。もちろん政治家としての資質も認めてのことだろうが、翁長は何よりも「歴史の子」として玉城の存在そのものに可能性を感じたのだった。

「私には産みの母と育ての母がいます。育ての母親は『人の容姿は一枚の皮の違いだけ』『手の指の長さはそれぞれ違っていて、それが個性なんだ』と大切なことを教えてくれました」

 翁長の意図をくみ、ここに来て玉城は自身の生い立ちを積極的に語っている。

「過去の衆院選の演説では、ほとんど語らずにきたことです」と、玉城陣営のスタッフは言う。

つづく

週刊朝日
2018/9/21 07:00
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