>>276
... 政党政治のロジックは、皆で仲良く建設的に「会話」することと同じではない。
現在の「政治教育」では「野党」の意義はむしろますます見えにくくなる。

政治家の感覚が庶民感覚からズレていることを問題にすることも、ときには大切である。
しかし政治を身近なことに引きつけて「わかりやすく」論じようとするがあまり、
自分たちのコミュニケーション・スタイルの基準でしか政治を論じられなくなっているとすれば、それも政党政治を閉塞させる。

「コミュ力」が賞賛される世界では、野党が野党であることで評価してもらえる可能性はない。

違いや軋轢を避けたり、笑いにしたりするのではなく、その対抗性をそれなりに真面目に引き受けること。相手の批判に腹を立てても、それなりにそれと向き合うこと。
こうした可能性の乏しいコミュニケーションは同調過剰になり、表層的になり、深まらず、退屈で、そして疲れる。

いまの政局の行詰まり感は「コミュ力」のユートピアが政党政治の世界に投影された結果の成れの果てではないか。

みんみんよく読んどけよ