東京新聞 2018年2月27日 07時05分
http://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2018022790070520.html

 東京電力福島第一原発事故で全域避難した七町村のうち、避難指示が最初に解除された福島県楢葉町(ならはまち)。
二〇一五年九月の解除から二年半たっても、住民は32%しか帰還していない。三月末には町外にある
仮設住宅の提供が打ち切られ、全員が退去を迫られる。町に帰るか、町外に移り住むかの選択を強いられる住民からは、
怒りや不安の声が上がっている。 (辻渕智之、写真も)


 未明からの雪がうっすらと残る。ドアに「空室」の張り紙が増えた仮設住宅地はひっそりしていた。
福島県いわき市にある「高久(たかく)第9、10仮設住宅」。原発事故で楢葉町からの避難先の一つになった。

 「もう一年、いられればよかったんだけどね」。四畳半の居間。干した洗濯物に囲まれ、
西川ノリ子さん(66)はため息をつく。あと一カ月で、今も暮らす約二百世帯四百五十人全員が退去するしかない。

 西川さんの居間に、新しい遺影があった。仮設暮らしで持病が悪化し、寝たきりになった夫が昨年五月、七十七歳で亡くなった。

 「夫と楢葉に帰るにしても、訪問介護に来てくれる人がいない。この仮設なら来てくれたから。
そんなこんなでなかなか決められなかった」。帰町を決心したのは、夫の初盆が過ぎた昨秋のことだった。

 実際、楢葉町の訪問介護サービスは人手が足りない。多くを担う町社会福祉協議会では、原発事故前に十八人いた
動けるスタッフが今は三人だけだ。

 西川さんの自宅は避難中の放置で住めないため新築するが、完成は今年秋。それまでの間、いわき市内の別の仮設へ
入居が特別に認められた。それでも、同居している八十代の両親とともに「二度の引っ越しは大変」と言う。

 楢葉町の自宅そばには、除染廃棄物の入ったフレコンバッグが並ぶ。除染は家の敷地から二十メートルまでで、
山林はなされていない。


(続きは記事元参照)