【政治】野中氏(92)死去に村山元首相(93)「保守の政治家の良心そのもの」[18/01/27]
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野中氏死去に村山元首相「保守の政治家の良心そのもの」
2018年1月27日15時31分 朝日新聞デジタル
https://www.asahi.com/articles/ASL1W4SV1L1WUTFK007.html
閣僚会議に出席した村山富市首相(真ん中)、野中広務国家公安委員長(右)=1994年11月、国会
https://www.asahicom.jp/articles/images/AS20180127001633_commL.jpg
自民党幹事長などを歴任した野中広務元官房長が26日に92歳で死去したことを受け、元社会党委員長の村山富市元首相(93)が27日、コメントを出した。
野中さんは、ハト派リベラル政治を目指した自社さ政権づくりに尽力され、村山内閣では、自治大臣、国家公安委員長として支えて下さり、阪神淡路大震災や地下鉄サリン事件などこれまで経験したことのない災害や事件に見舞われた際には、優れた政治力で陣頭指揮をとっていただきました。また、何よりも一人の政治家としても本当に親身に助けていただきました。
常に社会的に弱い立場の皆さんに温かいまなざしを向けられ、また沖縄にも心を寄せられていたことが忘れられません。何よりも、ご自身の戦争体験から、反戦、護憲の筋を通された気骨のある信念の政治家でした。政治家の潔さが感じられる、保守の政治家の良心そのものという存在でした。引退後も今の政治に警鐘を鳴らされてきましたが、惜しい政治家を失ったことは本当に残念であり、一つの時代が終わったと感じます。
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http://fate.5ch.net/test/read.cgi/seijinewsplus/1516972410/ この人イタリア料理で食あたり以外になんかしたっけ? >>1
お爺ちゃん物忘れぐらいならいいけど
自分が死ぬの忘れちゃだめだよ 初期の拉致家族会が社会党へ陳情に言った際
「まぁ、お父様の国で暮らせるなんて羨ましいわぁ
拉致されただなんてトンデモナイ、あなた方のお子さんは選ばれたのよ!」
と社会党女性議員たちに言われ目を白黒、そして
北朝鮮からの指図でだまし討ち採決した村山談話 55年体制でプロレスやって国民騙してたんだから
そりゃ仲良しだよな 保守の仮面を被った極左政治家
村山ノー天気おやじとは話が合うわけ
神戸の大震災で何もしなかった愚かな総理大臣村山として覚えていますよ 野中の毒まんじゅう食らった村山さんね。
神輿は軽くてなんとか言うよな。 カルト
趣味は悪態をつくこと
自己愛性人格障害であるがゆえに他人をののしることで己のアイデンティティーを保つ虫けら
ノルアドレナリンに支配された生ける屍 北朝鮮からパチンコマネーをもらってたのが 皇室やら自民党議員連中やら公安幹部だからね
それを隠しとおしたんだよ野中さんは 麻生なんか堂々と北朝鮮でビジネスを展開中
でもだれもな〜んも言わない そら日本の支配層が昔の高句麗系だからだよ 村山談話の総理でおなじみの明治大学
日本そのものを貶め、国民に足かせをした責任は重い
反日とは明治であり、明治とは反日である 明大は創設期から反政府主義者の牙城だった
校歌にもそのDNAが如実に受け継がれている
古賀政男 『自伝 わが心の歌』 展望社
http://tembo-books.jp/books/books-058-1.html
私は明治大学の商学部予科に入学した。大正12年の4月のことであった。
その頃の明大の試験は比較的容易であったのと、商業学校出身の私には、
ほかに適当な学部はなかったからだ。
明大に入ると、私はマンドリン・クラブの創設に取りかかった。
当時の明治大学の校風は明治時代の自由民権派の書生気質をそのまま残していて、
バンカラの標本のようにいわれていた。ストライキなども全く朝飯前のことで、
「白雲なびく駿河台」に暗雲がたれこめることも珍しくないことだった。(75-76ページ)
「白雲なびく駿河台」に暗雲がたれこめ・・・これか。
「認められざる校歌の反逆性」
校歌ができた1ヵ月半後の12月、学長排斥と「校風革新」を叫んだ学生たちの動きは、
いわゆる「植原・笹川事件」を起す。学生側は結束してストライキに突入した。
この時、学生たちが反逆的姿勢で唱ったのがこの校歌であった。学校側にとって、
校歌は学生たちを結束させる忌々しい象徴としか思えなかったのだろう。
この歴史的な出来事を、山田耕筰は鮮明に記憶していた。
校歌ができて1ヵ月も経ったと思う。明治大学にストライキが勃発した。すると私の家に
職員の一人から電話があった。『あなたの作られた校歌で吾々は殺されそうです。
何とか鎮める方法はないものでしょうか』と言うのである。私は返す言葉に窮した。
然し心中密かに思った。それだけの威力を持った校歌を書き得たとなれば(略)、
そうだ、それでいいのだ(『紫紺』第45号)
(『明治大学百年史 第三巻 通史編T』 575-576ページ)
植原・笹川事件
http://www.city.kitami.lg.jp/docs/2453/
明治大学校歌(歴史的音源)
http://rekion.dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3568589 法政のほうが今はタチ悪い
明治は堅実なイメージがある 生まれてこの方、他人に本心から○ね
とおもったこと、あんまりないんだけど、
さすがにこの人と菅直人と福島みずほは別格でした。 北朝鮮砂利利権結局どうなったの
こんな昭和の利権政治屋を良心とかアホだろ
いや呆けてる 金丸−田辺から梶山−村山へ
金丸さんと田辺さんの関係は、
私が政界入りしたときにはすでにあったような気がするが、
記憶は定かではない。
それほど、この両者の結びつきは古く、長きにわたっているということだ。
はっきりした与野党のパイプとして金丸−田辺ラインができたのは、
田中内閣時代の昭和四十八年(1973年)ごろだ。
金丸さんはその前年から自民党国対委員長だったが、
当時、田辺さんはまだ社会党の国対委員長だった。
この二人はウマが合い、急速にその関係を深めていった。
社会党の「審議拒否」が日常化するのも、
金丸−田辺ラインができてからだ。
つまり、国対によるパイプラインが、もっぱらお金の通り道として
定着したことを意味する。
(中略)
社会党委員長に就任する前まで
同党の国対委員長だった村山さんは、
田辺さんの直系である。
それが、金丸さんの直系である梶山君とコンビを組んだ。
このようにして、金丸−田辺ラインは
梶山−村山ラインに受け継がれた。
村山執行部の誕生は、田辺さんが力を盛り返して
院生を敷いたと見ていいだろう。
(「日本をダメにした九人の政治家」浜田幸一・著 p.188〜)
http://56285.blog.jp/archives/50814290.html 同和北朝鮮土地改良
金のあるところには抜け目なく暗躍 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています