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「学校新設は難しい」と言われて…
 勉氏が「岡山予備校」を設立し、ついに隣県の岡山県へ進出したのは1960年春。先にも触れた加計学園最初の一条校(注・学校教育法第一条で定められている狭義の「学校」)である岡山電機工業高校が開校したのはわずか2年後の1962年春だから、岡山予備校の設立時点で、勉氏はすでに念願の私学設立に向けたロードマップを描いていたとみて間違いない。

 もしかすると勉氏にとっては、当初から、予備校経営も私学設立に向けて資金やノウハウを得るための「ステップ」という位置付けだったのかもしれない。

 現在、今治市での岡山理科大学獣医学部の設立にあたっては、加計孝太郎・現理事長が、文科省や関係閣僚のもとを何度か訪れていたことが判明している。ただし私学の設立を実現するため、私学側のトップが行政の担当者詣でをすること自体は、決して不自然な話ではない。1961年の勉氏もまた、岡山県の学校新設担当者のもとに通い説得に励んだ。

 その時の貴重な証言が残されている。当時、岡山県庁の私学担当係長を務めていた畑忠雄氏という人物が、前掲の『二十周年記念誌』に以下のように記しているのだ。重要な記述なので、少し長くなるが、畑氏と勉氏のやりとりを引用する。

 〈昭和36年(1961年)のある日、加計学園理事長と名乗るひとりの紳士の来訪を受けました。お会いしてみると、岡山市内に電気関係の工業高校を新設したいというお話でしたが、この頃、岡山県は高校進学生徒数減少期にあって既設高校の充実や入学定員のことなど多くの問題点を抱えていた時期であったので、高校新設は難しい旨を説明しました〉

 やんわりと新設申請を退けようとした畑氏に、勉氏は「日本はいま工業立国をめざしている。私は立派な人材を産業界に送り出したいのだ」と意気込みを滔々と語りつつも、いったん引き下がった。

 時をおかずして、勉氏が再び岡山県庁を訪れた際にも、畑氏は「お考えはわかりました。しかし、資金的裏付けが十分でなければ絵に描いた餅になってしまう」と、やはりすげない答えを返した。

 これに対して、勉氏は驚くべき言葉を返す。

 〈「私の理想とする学校を作り上げ、軌道にのせるためには一切の私財を投げ出す決心をしておりますので、十分運営できると確信があります」〉