1922年(大正11年)の創立時から、日本共産党は植民地解放の方針に基づき、
朝鮮の独立を綱領に掲げた。
コミンテルン(共産主義インターナショナル)の方針で、1930年代以降、日本在住の
朝鮮人共産主義者は、日本共産党に所属した。
戦前から、日本共産党のもとに多くの在日朝鮮人が集っていた。
例えば、共産党系の労働組合の全協(日本労働組合全国協議会)は、最盛時の1931年
(昭和6年)ごろ、組合員数は3万人だったが、うち3割を朝鮮人が占めていた。
1945年(昭和20年)、敗戦の年の10月、徳田球一ら共産党幹部が、府中刑務所を
出獄した際に、熱狂的に出迎えたのは、数多くの朝鮮人だった。
彼らが待ちわびていたのは、獄中15年の不屈の闘士、金天海であった。金天海は
在日朝鮮人から圧倒的な支持を集めていた。
その年の11月、共産党は再建の第一歩として、第4回党大会を準備するため、
全国協議会を開催する。
会議では、金天海を責任者として、朝鮮人部を設置することも決めた。
実は、日本共産党の再建資金のほとんどは、当時の在日組織である朝連
(在日本朝鮮人連盟)が提供している。
このことは、共産党の党史には一行も触れられていない。