六代目山口組から分裂した神戸山口組からさらに分裂し、
「任侠団体山口組」を結成した織田絆誠代表(50歳、以下敬称略)は在日韓国人3世(本名は金禎紀)だ。
 暴力団業界に在日が多いのは事実で、
過去にも柳川組・柳川次郎こと梁元錫や、東声会・町井久之こと鄭建永など、一世を風靡した在日ヤクザは多い。
ノンフィクション作家の溝口敦氏が、在日とヤクザの関係を探った。

 * * *
 織田は18歳のとき、父親の服役で「酒梅組」系張本組に預けられる。
2年後、張本組の若頭補佐や若頭にまで抜擢されるが、「山口組と喧嘩するな」が不文律の酒梅組に嫌気が差し、指を詰めて脱退、一本どっこになった。

 1988年、四代目山口組の直系組長だった倉本組・倉本広文から盃をもらい、倉本組の若衆になったが、
倉本広文は幼時から織田の憧れの対象だった。

 倉本はもともと“殺しの軍団”柳川組の出で、1958年柳川組が、管理売春をシノギにする酒梅組系鬼頭組と抗争した際、
組事務所に殴り込んだ8人のうちの1人だった。織田は語る。

 「倉本初代はよくも悪くも極道中の極道ですね。鬼頭組への殴り込みは100対わずか8。数次の抗争で柳川組は鬼頭組に死者1、重軽傷者15の被害を与えた。
殴り込みのとき倉本初代はまだ16歳で、柳川組では珍しく在日ではなく、日本人だったけど、
柳川初代が可愛がり、『わしの実子分(実の子供)や』と言っていたそうです。

 それと、若いころ一度JR天満駅そばのホテルで寝込みを襲われている。
1人が日本刀で斬りつけるのを左手で受け止め、左手の神経を断ち切られた。
手はくっついたけど、親指が動くだけで、後4本は動かない。

 柳川組は1969年に解散したけど、倉本初代は意地を張ってどこにも属さず、一匹狼でやっていた。
そういうとき看板のある者7〜8人が束になって襲ってきた。

 周りは言いました。『倉本がやられた、ケンカの倉本負け知らずがついに終わった』と。

 実際に無茶苦茶強かったらしい。そう言われたどん底から倉本初代は這い上がった。とんとん拍子の人より、いろいろあった人に自分、心惹かれるんです。
エリートよりも地獄を見た人、そこから自分の努力で、覚悟で、這い上がった人。そこにやっぱり、惹かれましたね。

プラス柳川、かもしれません。
柳川次郎という人は自分にとって特別な存在だったんです」

 在日ヤクザの柳川次郎が初代を率いた柳川組は山口組の直系組の1つで、2次団体でありながら、
警察庁により全国広域5大暴力団の1つに指定され、昭和40年代、集中的な取り締まりを受けて解散した。

 倉本はその後、宅見組に拾われ、副組長に抜擢され、
五代目山口組では若頭補佐の1人になった。

 織田は倉本の下で「織田興業」を結成し、倉本組の幹部へと昇進していった。が、1990年、山口組と波谷組が抗争した「山波抗争」が起きると、組員2人をして波谷組系平澤組幹部を銃撃させ、
事件の首謀者として逮捕、懲役12年の刑で徳島刑務所に服役、
そこで山健組の井上邦雄組長と知り合うわけだ。

 織田は在日3世として典型的なヤクザの道をたどる。
彼はギクシャクしている日韓関係をどう考えているのか。

 「自分も壁に突き当たったとき、自分は一体何者だと思いました。
刑務所にいるとき、本を差し入れしてもらい、勉強したんです。
と同時に、自分の記憶をたどって、じいさん、ばあさん、両親のこと、時系列で合わせて考えていく。
と、なるほどなと見えてきたものがあります。

 戦前の強制連行、密入国、慰安婦。ヘイトスピーチが今、拡散させてますが、あそこには嘘、ねつ造もあるし、過大にこう大きくして見せたりしてますけども、自分なりになんぼか調べました。

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