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『I AM THAT 私は在る』
【27 はじまりなきものは永遠にはじまる】

 質問者 それを知ることができ、楽しむことができないかぎり、私にとって
 は何の意味もありません。それはまず、私の体験の一部となるべき
 です。
 マハラジ
 あなたは実在を体験のレベルまで引き下げているのだ。
 どうして実在が体験に依存できるというのだろう?
 実在は体験の根底(アーダール)そのものなのだ。
 実在は体験の本質のなかにではなく、体験の事実のなかにある。
 体験は、つまりマインドの状態なのだ。
 一方、在ることは明らかにマインドの状態ではない。
 質問者 またもや私は混乱しています! 在ることは知ることから分離して
 いるのでしょうか?
 マハラジ
 分離は見かけだけだ。
 夢が夢見る人から離れてはいないように、知ることも在ることから離れては
 いない。
 夢は夢見る人であり、知識は知る人なのだ。
 区別は単に言葉の上にあるだけだ。
 質問者 私には今、サット(存在)とチット(意識)がひとつだとわかりま
 す。しかし、アーナンダ(至福)はどうでしょうか? 存在と意識
 はつねに一緒です。しかし、至福はごくまれに、瞬間ひらめくだけ
 です。
 マハラジ
 存在の静かな状態が至福なのだ。
 乱された状態が世界として現れる。
 非二元性のなかには至福がある。
 二元性のなかには体験がある。
 来ては去っていくのは苦痛と快楽の二元性の体験だ。
 至福とは知られるものではない。
 人はつねに至福なのだ。
 しかし、けっして至福に満ちているのではない。
 至福とはひとつの属性ではないのだ。
 質問者 もうひとつ質問があります。あるヨーギたちは目標を達成しますが、
 ほかの人たちの役には立ってはいません。彼らは知らないのか、あ
 るいは分かちあうことができないのです。もっているものを分かち
 あうことのできる人たちは、ほかの人びとに教えを授けます。違い
 はどこにあるのでしょうか?
 マハラジ
 何の違いもない。
 あなたのアプローチが間違っているのだ。
 助けるべきほかの人びとはいない。
 ある裕福な人は全財産を彼の家族に投げ出し、乞食に与える一枚の貨幣さえ
 もない。
 賢者(ジニャーニ)も彼のすべての力と所有物を捨て去り、何も、文字どお
 り何も彼について言えることはないのだ。
 彼は誰も助けることはできない。
 なぜなら、彼がすべての人だからだ。
 彼がその貧しい人であり、その貧困なのだ。
 彼が泥棒であり、また盗みなのだ。
 彼はそれらと分かたれてはいない。
 どうして彼に助けることができるだろうか?
 世界から分離していると考えている人に世界を助けさせればいい。
(´・(ェ)・`)
(つづく)