>>462
『I AM THAT 私は在る』
【27 はじまりなきものは永遠にはじまる】(つづき)

 質問者 それでも、あなたは動と不動の区別をつけています。
 マハラジ
 無区別は沈黙のなかで語る。
 言葉は区別をともなうからだ。
 非顕現(ニルグナ)は名前をもたない。
 すべての名前は顕現(サグナ)に属するからだ。
 言葉を超えた何かを表現するために、言葉で争うのは無意味なことだ。
 意識(チダーナンダ)は魂(プルシャ)であり、意識は物質(プラクリティ)
 でもある。
 不完全な魂が物質で、完全な物質が魂なのだ。
 はじまりがそうであるように、終わりもまたそうなのだ。
 すべてはひとつだ。
 すべての分割はマインド(チッタ)のなかにあり、実在(チット)のなかに
 分割はない。
 運動と休息はマインドの状態であり、互いに対極なしには存在できないのだ。
 それ自体では、何も動かず、何も休息しない。
 絶対的存在を精神的構造に帰属させることは悲惨な過ちだ。
 それ自体では、何ひとつ存在しないのだ。
 質問者 あなたは休息を至高の状態と同一化しているようですが。
 マハラジ
 マインドの状態(チダラム)としての休息があり、存在の状態(アートマラ
 ム)としての休息がある。
 前者は来ては去っていく。
 一方、真の休息は行為の本質そのものだ。
 あいにく、言語は精神的道具であるため、対立のなかでしか使うことができ
 ない。
 質問者 観照者としてのあなたは働いているのでしょうか、休息しているの
 でしょうか?
 マハラジ
 観照は体験であり、休息は体験からの自由だ。
(´・(ェ)・`)
(つづく)