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『I AM THAT 私は在る』
【27 はじまりなきものは永遠にはじまる】(つづき)

 質問者 そうではありませんか? ヨーギは人生を恐れ、平和を探し求めま
 す。一方、ボーギは冒険的精神いっぱいに前進するのです。ヨーギ
 は理想に束縛され、一方、ボーギはつねに探検する用意があります。
 マハラジ
 それは多くを望むか、わずかで満足するかという問題だ。
 ヨーギは野心的だが、ボーギは単に冒険的だ。
 あなたのボーギはより豊かで、もっと興味深いように見える。
 だが、実際はそうではないのだ。
 ヨーギは鋭いナイフの刃先のように、狭く局限される。
 深く、ためらいなく、数多くの偽りの層を誤ることなく貫くために、彼はそ
 うあらねばならないのだ。
 ボーギはたくさんの祭壇を崇拝する。
 ヨーギはただひとつ、彼の真我のみに仕えるのだ。
 ヨーギをボーギに対立させるのは、まったく無駄なことだ。
 外面へ向かう道(プラヴリッティ)は、かならず内面への道(ニヴリッティ)
 に先行するものだ。
 判定を下したり、採点したりすることはばかげている。
 すべてが究極の完成に貢献しているのだ。
 ある人びとは、実在には三つの層があると言っている。
 真理、智慧(ちえ)、至福だ。
 真理を求める者はヨーギとなる。
 智慧を求める者はジニャーニに、幸福を求める者は行動の人となる。
 質問者 私たちは非二元性の至福についての話を聞きました。
 マハラジ
 非二元性の至福は大いなる平和の本性なのだ。
 喜びと苦痛は正当、非正当といった行為の結果だ。
 質問者 何がその違いを生みだすのでしょうか?
 マハラジ
 違いは与えることと、つかみ取ることにある。
 どの道を行こうとも最後にはみなひとつとなる。
 質問者 もしゴールに違いがないのなら、なぜ多様な道に区別をもうけるの
 でしょうか?
 マハラジ
 各人がそれぞれの自然な本性にしたがって行動するがいい。
 いかなる場合であっても究極の目的に仕えることだろう。
 あなたの識別や分類はまったく正しい。
 だが私にとって、それらは存在しない。
 何の根拠がなくとも、夢の記述は詳細で正確かもしれない。
 同じように、あなたの区別分類もまた、憶測に合わせたものにほかならない。
 ある概念からはじめて、異なった衣装をつけた同じ概念で終えただけだ。
 質問者 あなたはどのようにものごとを見るのでしょうか?
 マハラジ
 私にとっては、ひとつとすべては同じだ。
 同じ意識(チット)が存在(サット)と至福(アーナンダ)として現れる。
 動のなかの意識が至福であり、不動の意識が存在だ。
(´・(ェ)・`)
(つづく)