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『I AM THAT 私は在る』
【26 人格、ひとつの障害】

 質問者 生きることの、生命そのもののヨーガは、いわゆる自然
 のヨーガ(ニサルガ・ヨーガ)と呼ばれるものです。そ
 れはマインドと生命の結婚として、『リグ・ヴェーダ』
 のなかの原初のヨーガ(アディ・ヨーガ)に記述されて
 いるものを思い出させます。
 マハラジ
 注意深く、完全な気づきのなかで生きられた生は、それ自体ニサ
 ルガ・ヨーガだ。
 質問者 マインドと生命の結婚とはどういう意味なのでしょうか?
 マハラジ
 自発的な気づきに生きること、努力のいらない生の意識、己の生
 に完全な興味を抱くこと――これらがみなそれに暗示される。
 質問者 ラーマクリシュナ・パラマハンサの妻であるサーラダー
 ・デーヴィは、彼の弟子たちの行き過ぎの努力をよく叱
 ったそうです。彼女は、彼らを熟する前に摘み取られた
 マンゴーに比較して、「どうして急ぐの? あなたが完
 全に熟し、甘く、芳醇になるまで待ちなさい」とよく言
 ったそうです。
 マハラジ
 何と彼女は正しいことか!
 多くの者たちが、完全な真我実現前のつかの間の体験で夜明けを
 昼と間違え、過剰な自尊心から彼の得たわずかばかりでさえも台
 無しにしているのだ。
 謙遜と沈黙は、どんなに進歩していてもサーダカ(真我の探求者)
 にとって本質的なものだ。
 完全に成熟したジニャーニ(賢者)だけが、己に完全な自発性の
 発揮を許すことができるのだ。
 質問者 あるヨーガのアーシュラムでは弟子が光明を得た後、沈
 黙を七年、十二年、あるいは十五年、または二十五年に
 わたってまでも守っていくといいます。バガヴァーン・
 シュリー・ラマナ・マハルシでさえも教えはじめる前に、
 彼自身二十年もの沈黙を守ったのです。
 マハラジ
 そうだ。
 内なる果実は熟さねばならない。
 それまでは戒律を守り、気づきのなかに生きることは必須となる。
 徐々に修練はより微妙になっていき、最後にはまったく形のない
 ものとなる。
 質問者 クリシュナムルティも気づきのなかに生きることを語っ
 ています。
 マハラジ
 彼はつねに究極を直指している。
 そうだ。
 あなたの言うとおり、究極的にはすべてのヨーガは意識(花嫁)
 と生命(花婿)の結婚であるアディ・ヨーガに行き着く。
 存在と意識(サット-チット)は至福(アーナンダ)のなかで出
 会うのだ。
 なぜなら、至福が現れるにはそこに出会いが、接触が、二元性の
 なかでの統合の主張がなければならないからだ。
(´・(ェ)・`)
(つづく)