>>345
『I AM THAT 私は在る』
【21 私は誰か?】(つづき)

 質問者 どうすればその愛を見いだせるのでしょう?
 マハラジ
 今、あなたが愛するものは何だろうか?
 「私は在る」だ。
 あなたのハートとマインドをそれに捧げなさい。
 ほかに何も考えずに。
 これが努力なく自然になったとき、最高の状態となる。
 そのなかでは、愛そのものが愛する者であり、また愛される者なのだ。
 質問者 誰もが生きること、存在することを望んでいます。それは、自己愛
 ではないでしょうか?
 マハラジ
 すべての欲望は、自我のなかにその源をもっている。
 問題は、正しい欲望を選択することにある。
 質問者 何が正しく、何が間違っているかは習慣としきたりによって変化し
 ます。基準は社会によって異なります。
 マハラジ
 すべての伝統的基準を捨て去りなさい。
 それらは偽善者たちに任せておくがいい。
 欲望と恐れと誤った概念からあなたを解き放つものだけが正しいのだ。
 あなたが罪や徳に煩(わずら)わされている間は、安心が訪れることはない
 だろう。
 質問者 罪や徳が社会的基準に基づくことは認めますが、霊的な罪や徳もあ
 るかもしれません。私の言う霊的とは絶対性の意味です。絶対的罪
 や絶対的徳といったものがあるのでしょうか?
 マハラジ
 罪や徳は個人にしかあてはまらない。
 罪深き人や徳高き人なしに、罪や徳があるだろうか?
 絶対の次元に個人の存在はない。
 純粋な覚醒の大洋は、徳高くも罪深くもない。
 徳や罪はつねに相対的なものだ。
 質問者 このような不必要な概念を、私はぬぐい去ることができるでしょう
 か?
 マハラジ
 あなたが自分を個人と考えているかぎりは無理だ。
 質問者 私が罪や徳を超えたことを何によって知るのでしょうか?
 マハラジ
 すべての欲望と恐れから、そして自分が個人であるという考えそのものから
 自由になることによってだ。
 「私は罪人だ」、「私は罪人ではない」といった考えをいだくこと自体が罪
 なのだ。
 自分自身をある特定のものと自己同一化することが罪のすべてだ。
 非人格が真実であり、人格は現れては消えていくものだ。
 「私は在る」は非個人の存在だ。
 「私はこれだ」が個人だ。
 個人は相対的なものであり、純粋な存在は根本的なものだ。
(´・(ェ)・`)
(つづく)