>>335
『I AM THAT 私は在る』
【20 至高なるものはすべてを超える】(つづき)

 質問者 世界は欲望でいっぱいです。誰もがあれやこれやを欲しています。
 欲しているものとは誰なのでしょうか? 個人でしょうか、あるい
 は真我なのでしょうか?
 マハラジ
 真我だ。
 神聖なもの、あるいは神聖でないもの、すべての欲望は真我からやってくる。
 それらはすべ「私は在る」という感覚に依存しているのだ。
 質問者 神聖な欲望(サティヤカーマ)が真我から発しているということは
 理解できます。それは真我のサッチターナンダ(存在―意識―至福)
 の側面の表現でしょう。しかし、なぜ神聖ではない欲望もそうなの
 でしょうか?
 マハラジ
 すべての欲望は幸福を目ざしいている。
 欲望の形や質は精神(アンタカラナ)に依存する。
 不活発性(タマス)が優勢なら、そこには逸脱が見られるだろう。
 エネルギー(ラジャス)があると熱情が生じ、透明性(サットヴァ)がある
 ところには、その欲望の動機の背後に善意と慈悲、幸福であることよりも幸
 福になってほしいという衝動が見られる。
 だが、至高なるものはすべてを超えている。
 さらに、その無限の浸透性ゆえに、あらゆる適切な望みは満たされるのだ。
 質問者 どの欲望が適切なのでしょうか?
 マハラジ
 主体、または対象を破壊する欲望、あるいは満たされた後でも消え去らない
 欲望は自己矛盾しており、満たされることはない。
 動機が愛と善意と慈悲によって生まれた欲望だけが、主体にも対象にも有益
 であり、充分満たされるのだ。
 質問者 神聖なものも神聖でないものも、すべての欲望は苦痛をともないま
 す。
 マハラジ
 それらは同じではない。
 苦痛もまた同じものではない。
 熱情は苦痛だ。
 慈悲に苦痛はありえない。
 全宇宙が慈悲から生まれた欲望を満たそうと努力しているのだ。
(´・(ェ)・`)
(おわり)