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『I AM THAT 私は在る』
【19 実在は客観性の内に在る】
(つづき)

 質問者 私が樹や、顔や、夕日を見るとき、その絵は完全です。
 私が目を閉じるとイメージはぼんやりして、かすんだ状
 態です。もし私のマインドが絵を投影するならば、なぜ
 愛らしい花を見るために目を開いていなければならず、
 目を閉じたときははっきり見えないのでしょう?
 マハラジ
 なぜならあなたの外側のほうが内なる目より優れているからだ。
 あなたの目はいつも外側へと向いている。
 あなたが霊的世界を見ることを学ぶにつれて、それが身体の目で
 見るよりもより色鮮やかで、完全なことを知るだろう。
 もちろん、いくらかの訓練が必要だ。
 だが、なぜ議論するのだろう?
 あなたが、絵はそれを描いた画家から生まれたと想像するからだ。
 あなたはいつも理由や原因を探している。
 因果関係はマインドのなかにだけ存在する。
 記憶が継続性という幻想を与え、繰り返しが因果関係の概念をつ
 くり出すのだ。
 ものごとが繰り返し一緒に起こるとき、私たちはそこに因果関係
 を見出そうとする傾向がある。
 それは精神的習慣をつくり出す。
 しかし、その習慣は必要なものではないのだ。
 質問者 あなたは世界が神によってつくられたと言ったばかりで
 す。
 マハラジ
 言語はマインドによって、マインドのためにつくられたひとつの
 手段だということを覚えておきなさい。
 ひとたび、あなたが原因を認めるならば、神が究極の原因であり、
 世界はその結果となる。
 それらは異なるものだが、分離してはいない。
 質問者 人びとは神を見ることについて語っています。
 マハラジ
 あなたは世界を見るとき、神を見ている。
 世界を離れて、神を見るということはない。
 世界を超えて神を見るということは、神となることだ。
 あなたは光によって世界を見る。
 その光が神であり、それが「私は在る」という小さな閃光だ。
 一見とても小さく見えるが、それは知ることと愛することという
 行為のはじまりと、終わりなのだ。
(´・(ェ)・`)
(つづく)