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『I AM THAT 私は在る』
【13 至高なるもの、マインド、身体】(つづき)

 質問者 神はこうして世界を動かしているのですね。
 マハラジ
神は世界を動かしてはいない。
 質問者 それでは、誰がそれをしているのですか?
 マハラジ
 誰もしてはいない。
 すべてはひとりでに起こるのだ。
 あなたが質問をし、あなたが答えを供給している。
 そして質問するとき、あなたは答えを知っている。
 すべては意識のなかの戯(たわむ)れなのだ。
 すべての分割は幻想だ。
 あなたが知ることのできるのは偽物だけだ。
 真我に、あなた自身がならなければならないのだ。
 質問者 観照されている意識があり、観照している意識があります。二番目
 のものが至高なるものなのでしょうか?
 マハラジ
 二つのものがある。
 個人と観照者つまり観察者だ。
 それらをひとつとして見て、それを超えたとき、あなたは至高の状態にある。
 それは知覚不可能だ。
 なぜなら、それが知覚を可能にするものだからだ。
 それは存在と非存在を超越している。
 それは鏡でも鏡のなかのイメージでもない。
 時を超えた実在、信じがたいほど堅固で、確固たるもの、それがそれである。
 質問者 ジニャーニは観照者なのでしょうか、それとも至高なるものなので
 しょうか?
 マハラジ
 もちろん至高なるものだ。
 だが、彼は普遍的観照者でもある。
質問者 しかし、彼は個人としても在るのでしょうか?
 マハラジ
 あなたが自分自身を個人だと信じるならば、至る所に個人を見る。
 実際には、個人というものは存在しない。
 あるのは記憶と習慣の脈絡だけだ。
 真我を実現した瞬間、個人は消え去る。
 アイデンティティは残る。
 だが、アイデンティティは個人ではない。
 それは実在そのもののなかに本来備わっている。
 個人はそれ自身のなかに存在をもっていない。
 それは観照者のマインドに映った「私は在る」という感覚であり、また、存
 在のひとつの様式なのだ。
(´・(ェ)・`)
(つづく)