>>16
1109
ブッダのウダヤさんの質問に対する解答。
1.世人は歓喜に束縛されている。
バドラーヴダ経参照。(1101番>>12>>14)
2.思わくが世人をあれこれ行動させるものである。(中村先生訳) 
思考が、それにとっての彷徨となります。(正田先生訳)
中村先生訳であれば、この解答は1の歓喜とは関係ないが、正田先生訳であれば歓喜(愉悦)にとっての彷徨(うろつくこと)になる。意味は分かり難いが。
思考(妄想)が歓喜の原因となっているとも理解できる。
3.妄執を断ずることによって安らぎがあると言われる。(中村先生訳)
渇愛を捨棄することで、『涅槃』と呼ばれます。(正田先生訳)
歓喜を求めることが妄執(渇愛)だから、妄執(渇愛)を断ずること(捨棄すること)とは歓喜を捨てること。歓喜を捨てることは束縛を捨てること。束縛を捨てることは自由になることであり、安らぎ(涅槃)あると呼ばれる。

1110
ウダヤさんの三回目(最後)の質問。
・どのように気をつけて行っている人の識別作用が、止滅するのか?(中村先生訳)
・どのようにして、〔あるがままに〕行じおこなう、気づきある者の、識知〔作用〕(識:認識作用一般・自己と他者を識別する働き)は止滅するのか。(正田先生訳)

十二因縁の教えによれば、無明などの十二の項目のどれか一つが滅すれば、すべて苦の滅があり、それは解脱です。そのために、ウダヤさんは最後に識(識別作用)はどのようにして滅することができるのかブッダに尋ねた。

識(識別作用)とは、心の本質のようなものだから、識別作用の滅とは心を滅するという意味になる。
そのことは想像できない。自己と他者を識別する働きと取れば、自他無二、自己と他者は一体であると感じることであろか。

1111
この経の最後の偈で一番大切。
無明などの十二の項目のどれか一つが滅すれば、すべて苦は滅するのだから、どれか一つを滅すればよい。
しかし、ブッダはウダヤ学生に識別作用を止滅させることを説かれた。それはウダヤさんにそれが一番適切であると思われたからだと思われるが、それは現代の多くの人々にも適切なのだろうと思われる。
この偈をよく読むと三段階になっている。第一段階は修行の目標。それは識別作用を止滅させること。
第二段階は、そのために感覚的感受を喜ばないこと。感覚的感受とは、苦と楽と不苦不楽と説かれているから、直接的には楽を喜ばないことが必要。それをどのようにするのか? 
その方法が第三段階。すなわちそれは「よく気をつけて行っている」ことが必要。それがヴィパッサナー瞑想。楽と感じる感覚的感受をよく気をつけていること(念:サティ)によって抑えられる。
そのようにして感覚的感受を喜ばないことができる。尚、よく気をつけていること(念:サティ)については、第5章の一番始めの経であるアジタ経参照。(1035 >>300>>302)
感覚的感受を喜ばなければ、感受作用が止滅する。(感受作用の止滅とは感覚がなくなるのではなく、苦、楽、不苦不楽と感じるのではなく、ただ感じていることとと思われる。)
そうすれば渇愛は起こることはなく、解脱するということになるが、その時、識別作用は止滅している。
「内面的にも外面的にも感覚的感受を喜ばない人」の「内面的」とは苦、楽、不苦不楽のことであり、「外面的」には色、声、香、味、身、法を指しているのだろうと思われる。
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