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鬼和尚の仏教勉強会 講読ゼミ
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0001名無しを整える。
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2017/10/28(土) 12:13:14.50ID:RQll0QsW
前スレ:鬼和尚の仏教勉強会 悟りの真実 2

ブッダのことば(スッタニパータ)
第3 大いなる章、6、サビヤ

533 サビヤがいった、「何を得た人を<学識ある人>と呼ぶのですか? 何によって<すぐれた人>となるのですか?
 またいかにして<行いの具わった人>となるのですか? <遍歴行者>とはそもそも何ですか?
 先生! おたずねしますが、わたくしに説明してください。」

534 師が答えた、「サビヤよ。教えを聞きおわって、世間における欠点あり或いは欠点のないありとあらゆることがらを熟知して、あらゆることがらについて征服者・疑惑のない者・解脱した者、煩悩に悩まされない者を、<学識のある人>と呼ぶ。

535 諸々の汚れと執著のよりどころを断ち、智に達した人は、母胎に赴くことがない。三種想いと汚泥とを除き断って、妄想分別に赴かない、──かれを<すぐれた人>と呼ぶ。

536 この世において諸々の実践を実行し、有能であって、常に理法を知り、いかなることがらにも執著せず、解脱していて、害しようとする心の存在しない人、──かれは<行いの具わった人>である。

537 上にも下にも横にも中央にも、およそ苦しみの報いを受ける行為を回避して、よく知りつくして行い、偽りと慢心と貪欲と怒りと<名称と形態>(個体のもと)とを滅ぼしつくし、得べきものを得た人、──かれを<遍歴の行者>と呼ぶ。」

 そこで、遍歴の行者サビヤは師の諸説をよろこび随喜し、こころ喜び、楽しく、嬉しく、欣快の心を生じて、座から起ち上って、上衣を一方の肩にかけ(右肩をあらわし)、師に向かって合掌して、ふさわしい詩を以て目のあたり師を讃嘆した。

538 「智慧ゆたかな方よ。諸々の<道の人>の論争にとらわれた、名称と文字と表象とにもとづいて起った六十三種の異説を伏して、激流をわたりたもうた。
0065名無しを整える。
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2017/11/13(月) 19:00:16.30ID:ooI82hrJ
スッタニパータの2〜3行の短い経文に、詳しい因縁物語がいろいらあるのでありますね。
(´・(ェ)・`)つ
0066鬼和尚 ◆GBl7rog7bM
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2017/11/13(月) 20:49:49.71ID:a2Sj52wv
>>62 そうじゃ、阿羅漢は正等覚者でよいのじゃ。
 お釈迦様も阿羅漢と呼ぶのじゃ。
 目覚めたものなのじゃ。
0067名無しを整える。
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2017/11/14(火) 18:48:34.24ID:OjNEN9Bb
640
欲望は仏教用語として使うときは、五感の刺激による欲望(五欲)。
渇愛は仏教用語。喉が渇いた人が激しく水を求めるような欲求を言う。渇愛は三種類に分類される。
1.欲愛(カーマ・タンハー):五欲に対する渇愛(物や楽しみを求める欲求)
2.有愛(バワ・タンハー):生存に対する渇愛(なんとしてでも生きていたいという欲求)
3.無有愛(ヴィバワ・タンハー):非生存に対する渇愛(死んですべてを終わらせたいという欲求)
仏教で渇愛という言葉が使われる主な文脈は2つある。
1.四聖諦:ブッダが悟られた四つの聖なる真理
@苦という聖なる真理 :生まれは苦。老いも苦。死も苦。愁い・悲しみ・憂い・悩みも苦。愛さない者たちと会うのは苦。愛する者たちと会わないのは苦。求めて得られないのは苦。身心への執着は苦。
A苦の生起という聖なる真理 : 再生を起こし、喜び貪りを伴い。ここかしこで歓喜する渇愛。すなわち欲愛と有愛と無有愛です。(これが三種類の渇愛です。)
B苦の滅尽という聖なる真理 : 渇愛の消滅による完全な滅尽・捨棄・破棄・解脱・無執着。
C苦の滅尽に至る行道という聖なる真理 : 聖なる八正道、すなわち正見・正思惟・正語・正業・正命・正精進・正念・正定。
2.十二因縁の教え
無明に縁って行が生じる。行に縁って識が生じる。
識に縁って名色が生じる。名色に縁って六処が生じる。
六処に縁って触が生じる。触に縁って受が生じる。
受に縁って渇愛が生じる。渇愛に縁って固執が生じる。・・・(ここに渇愛がある。)
固執に縁って有が生じる。有に縁って生が生じる。
生に縁って老、死、憂愁、悲泣、苦しみ、悩み、落ち込みが現れる。
このようにして、このすべての苦蘊の生起がある。
より)
この渇愛さえなくせば、すべての苦が消滅し、渇愛をなくした人は解脱するのです。解脱した人は阿羅漢であり、バラモンと呼ぶべき人。

641
キーワードは「絆」と訳した「ヨーガ」。「軛(くびき)」とも訳せる。
仏教はでここで言う「人間の絆」とは、人間を縛りつけている束縛。人間は欲に縛りつけられている。生きたいという思いに縛りつけられている。
また、ある見解を持つとその見解に拘る。その見解を自分自身のように思い、その見解が批判されると自分が批判されたように怒る。
さらに、無知のために迷っていてもその迷いを肯定し真実を求めようとはしない。
「絆」と訳さずに、「束縛」と訳すと当たり前すぎて、誰も何も考えないん。「絆」であれば、皆考える。今まで大切に思っていることを捨ててと言うのはなぜだろうと考える。
この詩でいう絆とは、生命の間の慈悲喜捨の心ではない。親と子の間にある執着、夫婦の間にある執着、家族間にある執着、束縛に気づくための言葉。
仏教用語で説明すると、「ヨーガ」は四軛。1、欲軛、2.有軛、3.見軛、4.無明軛。四漏(四つの煩悩)と同じ。
人間の軛とは、人間の四つの軛のことです。天の軛とは、神々にも人間と同じような軛がありますから、天の軛という。これらの軛を捨てると、輪廻から離れ、解脱して阿羅漢になる。

(´・(ェ)・`)つ
0068名無しを整える。
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2017/11/14(火) 18:50:19.99ID:OjNEN9Bb
無有愛(ヴィバワ・タンハー):非生存に対する渇愛(死んですべてを終わらせたいという欲求)
↑こんな渇愛があるとは知らなかったであります。
(´・(ェ)・`)つ
0069鬼和尚 ◆GBl7rog7bM
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2017/11/14(火) 22:11:37.57ID:QdYYcXX9
無色界の生存に対する欲とかいうのじゃ。
形を持たない精神的な愛着の欲じゃな。
知を愛する哲学も欲になるのじゃ。
0070名無しを整える。
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2017/11/14(火) 23:09:09.52ID:OjNEN9Bb
>>69
自分があるとの思い=無明をはらしたいと言う欲求みたいなまのでありましょうか?
無我を追い求める欲求も捨てなきゃダメだよってなことでありましょうか?
くまが引用した、
>非生存に対する渇愛(死んですべてを終わらせたいという欲求)
という解説は、無我=自我の死と言う意味で、完全に間違いではないまでも、肉体の死に対する欲求、自殺願望のようにも読めてしまうのですが、そのような意味もあるのでありましょうか?
(´・(ェ)・`)つ
0071名無しを整える。
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2017/11/15(水) 18:41:53.93ID:eq+N3MG6
642
「快と不快を捨てて」の意味は、受(感覚)の快(楽)と不快(苦)を捨てること、つまり感覚で、次の渇愛への心の流れを止めること。心に渇愛が現れなくなくなれば、すべての苦がなくなり、涅槃に達することができる。
「快と不快を捨てて」により、解脱して涅槃に至り、阿羅漢になることを意味する。
「全世界を征服した英雄」
仏教では「全世界」とは眼の世界、耳の世界、鼻の世界、舌の世界、身の世界、意の世界で構成されていると考える。
「征服した」とは管理したという意味。「眼の世界、耳の世界、鼻の世界、舌の世界、身の世界、意の世界」において、快と不快を捨てた人は これらの世界を管理できる人。
ダンマパダ103番「戦場において百万人に勝つよりよりも、一人の自分に勝つ人は英雄である」。
感覚の快不快を管理する人は、自分に勝つ人であり、その人は英雄。彼はバラモン。
643
「生きものの死と再生をすべて知」れば、「生命とは何か」が分かる。「生命とは何か」を知れば、「如何に生きるべきか」理解できるようになる。「生命とは何か」を知るとは悟るために必要なこと。
生命とは心があること。そのため、仏教では心の研究をする。冥想は心を観察して、研究するため。心のすべてを知った人は、生命の死と再生のすべてを知った人であり、心のすべてを知った人には無明がなくなる。
無明のない人はすべて執着がなくなる。悟った人。彼は阿羅漢、最高の人間であるバラモンというべき人。
644
644番(=ダンマパダ420番)とスッタニパータ643番(=ダンマパダ419番)のの因縁物語は同じ。
釈尊と同時代にワンギーサというバラモンがいました。彼は死んだ人の頭蓋骨をたたいて、その人がどの世界に輪廻転生したか言い当てる超能力を持っていました。
彼の仲間が彼の能力を利用して、人々からお布施を集めることを始めました。そうしたある時、ワンギーサは釈尊のうわさを聞き、釈尊の能力に挑戦に出かけました。
釈尊は彼の意図を知り、弟子たちに、地獄、畜生、人間、天界に輪廻転生した死人の頭蓋骨を持って来させました。そして最後に阿羅漢の頭蓋骨を持って来させました。
ワンギーサはそれらの頭蓋骨をたたいて、死後のどの世界に輪廻転生したかを言い当てました。そのつど釈尊は彼をほめました。しかし、最後の阿羅漢の頭蓋骨についてはどちらに行ったか分かりませんでした。
ワンギーサは釈尊に、どちらに行ったか分かる方法を教えてくれるように頼みました。しかし、釈尊は、出家して、修行しなければ教えられないと断りました。
そこでワンギーサは釈尊のもとで出家して、修行し、その後しばらくして、阿羅漢になりました。彼は輪廻から解脱したので、阿羅漢の死後について分かりました。阿羅漢は解脱したので輪廻はしないのです。
その時、釈尊は比丘たちに「生きものの死と再生をすべて知り、執着なく幸せな悟った人、彼を私はバラモンと呼ぶ。
神々も音楽神も人間も、死後の行方がわからない煩悩の消えた阿羅漢、彼を私はバラモンと呼ぶ。」と説法しました。つまり、阿羅漢の死後については阿羅漢以外には分からない。

(´・(ェ)・`)つ
0072鬼和尚 ◆GBl7rog7bM
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2017/11/15(水) 22:14:12.66ID:OI2wOo5A
>>70 それらとも違うものじゃ。
 精神的に優れた境地に対する執着なのじゃ。
 それは傲慢ともなり真の悟りへの道を妨げてしまうものじゃ。
 少し修行が進んだ者に現れるものであるから注意すべき欲として伝えられるのじゃ。
0073名無しを整える。
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2017/11/16(木) 07:02:32.45ID:bxhsDX1R
>>72
鬼和尚、ありがとうであります。
無有愛(ヴィバワ・タンハー)について、
ネットで調べてみたのでありますが、
ほとんどが、:非生存に対する渇愛(死んですべてを終わらせたいという欲求)、自殺願望、自己破壊願望みたいな説明しか見つかりませんでした。
> 精神的に優れた境地に対する執着
というような説明は、どのような経典、解説書で読めるのでありましょうか?
(´・(ェ)・`)つ
0074名無しを整える。
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2017/11/16(木) 18:26:44.43ID:bxhsDX1R
645
スッタニパータ645=ダンマパダ421)の因縁物語は次の通り。
ダンマディンナーの夫ヴィサーカは、ブッダの説法をよく聞き、悟りの三段階である不還果を得ました。そのため世間との付き合いが煩わしくなり、妻にも興味がなくなりました。
彼は自分の気持ちを妻に話し、全財産を譲ると宣言しました。
夫の態度に悲しんでいた妻のダンマディンナーは「財産などいりません。あなたにとって不必要になった私は出家して、比丘尼になります」と言ってサンガに入団しました。
ダンマディンナー比丘尼は修行に励み、阿羅漢果を得ました。その喜びを家族にも分け与えようと元の夫のヴィサーカに会いに出かけました。
彼は彼女が還俗するために家に帰ってきたと勘違いしましたが、
彼女は「私は還俗など考えておりません」と答えました。
ヴィサーカはダンマディンナー比丘尼に、「それではお前のこれまでの修行を見せてもらおうか」と
「自分の身体とは何か?」「その身体の原因は何か?」「「身体の滅とは何か?」「その方法とは何か?」などの34の仏教の根本問題について質問しました。
それに対して彼女は即座に明確に答えました。彼はそのことに驚き、還俗するために家に帰ってきたのではないと理解しました。
彼はすぐに僧院をたずね、ブッダに彼女との問答の一部始終を話しました。
ブッダは「ヴィサーカよ、私の娘ダンマディンナーは阿羅漢果を得た大慧者である。もし、私にそれと同じ質問をしても、私は彼女と同じ答をしていただろう」と語られ、この偈を説かれました。
この因縁物語にあるヴィサーカがダンマディンナー比丘尼に質問した詳しい内容は、中部経典の「第44 小有明経」に書かれている。 
(´・(ェ)・`)つ
0075名無しを整える。
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2017/11/16(木) 18:37:13.12ID:bxhsDX1R
646
釈尊がアングリマーラという仏弟子に対して歌ったものとされている。
アングリマーラは伝説によると、コーサラ国パセーナディ王の司祭者の子で、その名をアヒンサカ(害を加えない者)といいました。師の妻に恋され、これをしりぞけたために邪道に入り、多くの人々を殺害しました。
しかし、ブッダに会ってから改心し、帰依して、教化を受けて、殺人をやめ、出家して、ついに悟りを開きました。

(´・(ェ)・`)つ
0076鬼和尚 ◆GBl7rog7bM
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2017/11/16(木) 22:06:01.77ID:/wHgrtsf
>>73 確か相応部の経典にあったのう。
 経の名は忘れたのじゃ。
 大乗にもあったような気がするのう。
 
0077名無しを整える。
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2017/11/17(金) 07:49:39.21ID:cK/76usN
>>76
鬼和尚ありがとうであります。
じっくり探してみるであります。
(´・(ェ)・`)つ
0078名無しを整える。
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2017/11/17(金) 18:58:25.80ID:cK/76usN
647
「前世を知り」とは宿住智。自分と他人の前世のことを知ることのできる智慧。
「天界と地獄を見て」とは天眼智。天人のように肉眼で見えない遠い所や微小なものをみることができる智慧。
「生の滅尽に達して」は漏尽智の。あらゆる煩悩を滅し尽くす智慧。
以上三つを三明と言い、多くの阿羅漢はこの三明を持っていたが、漏尽智だけあれば阿羅漢。
ブッダはさらに五つの智慧を完成させ、八明と言われる智慧を完成。それを「証智を完成した聖者」という。
観智:名色の無常、苦、無我をはっきり見ることができる智慧
意所成神変智:自分の思い通りにできる智慧
紳変智:一身、多身などを化作すること、空に飛び上がる、地下のもぐることのできる智慧
天耳智:天人の耳のように遠くも声や小さな声を聞ける智慧
他心智:他人の心を読める智慧
「成すべきことを成し遂げた」とは十五行と言われる行を成し遂げたということ。
@戒律儀:戒律を守ること
A根律儀:貪欲、怒り、無知などの煩悩が起こらないように、眼、耳、鼻、舌、身、意の六根を守ること。
B食物において適量を知ること。
C不眠の努力:眠らないで努力すること。
D信:仏法僧の三宝および因果法則を信じること
E慚:悪事をすることを内心に恥じること 
F愧:悪事をすることを外部に恐れること
G博識:知識が広い分野に及んでいること
H精進:励み努めること。ひたすら善を行い、悪を断つこと。
I念:気づきを忘れないこと。
J慧:智慧で理解すること。
K初禅:欲を離れ、不善の法を離れ、尋伺があり、障害の離より起こる喜楽のある境地L第二禅:尋伺のない、定より起こる喜楽のある境地
M第三禅:喜を離れ、捨のあり、念があり、正知があって、身によって楽を感受する境地
N第四禅:楽を離れ、苦を離れるがゆえに、喜と憂とが滅したために、苦楽がなく、捨によって念が浄まっている境地
(初禅から第四禅は、アビダルマの定義ではなく経典による定義です。)
八明と十五行の完成者を明行具足者という。ブッダは明行具足者の大バラモン。
(´・(ェ)・`)つ
0080名無しを整える。
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2017/11/18(土) 10:30:48.54ID:EMcTN28V
無有愛(ヴィバワ・タンハー)について、二つのブログから↓

1)
重担
南伝 相応部経典22-22 重担
漢訳 雑阿含経3-23 重担
かようにわたしは聞いた。
ある時、世尊は、サーヴァッティー(舎衛城)のジェータ(祗陀)林なるアナータビンディカ(給孤独)の園にましました。
その時、世尊はもろもろの比丘たちに告げて、「比丘たちよ」と仰せられた。彼ら比丘たちは、「大徳よ」と答えた。世尊はこのように説きたもうた。
「比丘たちよ、わたしは、いま、汝らのために、重き荷物を担 になえる者のこと、また、重き荷物を担うこと、重き荷物をおろすことについて説くであろう。よく聞くがよい。
では、比丘たちよ、重き荷物とはなんであろうか。生を構成する五つの要素(五取蘊)がそれである。その五つとはなんであるか。
いわく、色(肉体)なる要素、受(感覚)なる要素、想(表象)なる要素、行(意志)なる要素、識(意識)なる要素である。比丘たちよ、これらを名づけて五つの重き荷物というのである。
比丘たちよ、では、重き荷物を担える者とはなんであろうか。人間がそれである。これこれの名、これこれの姓をもてる方々がそれである。比丘たちよ、これらを名づけて重き荷物を担える者というのである。
比丘たちよ、では、重き荷物を担うとは、どういうことであろうか。心に喜び、身を燃やして、あれやこれやに、わっとばかりに殺到する渇愛がそれであって、それが、さらに迷いの生(後有 ごう)をもたらすのである。
すなわち、性欲のかたまり(欲愛)、生存欲のかたまり(有愛)、自己優越の欲望のかたまり(無有愛)である。比丘たちよ、これらを名づけて、重き荷物を担うとはいうのである。
比丘たちよ、では、重き荷物をおろすとは、どのようなことであろうか。
それは、その渇愛を、まったく、余すところなく離れ滅することであり、放棄することであり、断念することであり、永断することであり、解脱して、執著なきにいたるのである。比丘たちよ、これらを名づけて、重き荷物をおろすというのである」
世尊は、そのように説きたもうた。そのように説いて、この素晴らしい師は、さらに説きたもうた。
「五蘊は重き荷物にして
これを担うものは人である
重きを担うは苦しくて
これを捨つれば安楽なり
すでに重荷を捨てたらば
さらに重荷を取るなかれ
かの渇愛を滅すれば
欲なく自由となりぬべし
注解
 この経題は「重担」(Bhram=the burden)とある。その重き荷物とは、ふるい訳語をもっていえば「五取蘊 ごしゅうん」である。
その「五取蘊」(pacupdna-kkhandh=the factors of fivefold clinging to existence)とは、生がそれに依存している五つの要素、あるいは、生を構成する五つの要素というほどの意のことばであって、それは他でもない五蘊のことである。
そして、いま釈尊は、それらに執著することがなければ安楽であろうと説いている。この経には偈がある。経の趣旨を要約したものであって、後の人の付したものであろう。
欲愛(kmataηh=thirst after sensual pleasures) 性欲の激情である。漢訳はこれを「欲愛」と訳した。人間の自己拡大の激情である。
有愛(bhavataηh=craving for existence) 生存欲の激情である。漢訳はこれを「有愛」と訳した。人間の自己延長の渇愛である。
無有愛(vibhavatanh=craving for power, wealth, prosperity) 自己優越の欲望の激情である。漢訳はこれを「無有愛」と直訳した。人間の名誉欲などのたかぶりがそれである。


2)
・釈尊の教説の根幹は釈尊自らが四諦だとしているが、その四諦の中にvibhava tanha : 無有愛(むうあい)という言葉がある。この言葉については他の経文での言及がほとんどないこともあり、重視されていないが、この言葉の解釈が大きく2つに分かれている。
・一つは「虚無への渇愛」だとするものでこれがたぶん主流派。
・もう一つはそれ以外の見解で、「抽象的な事柄(地位、名誉等)に対する欲望」だとする者(増谷文雄)や「財産欲、繁栄欲」だとするもの者(木村泰賢)もいる。ようするに性欲や食欲といった本能レベルの欲望ではなく抽象化された事物への欲望と見る説だ。

(´・(ェ)・`)つ
0081名無しを整える。
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2017/11/18(土) 10:42:36.82ID:EMcTN28V
648
「世間でバラモンの名や姓とされているものも、他の名称と同じような名称に過ぎない。世間の習慣や取り決めで名付けられただけ。その名前によってバラモンに成るわけではない。」ということ。
649
姓名はその人を他の人から区別して、交際のために付けた。姓名はその人自身ではない。
姓名はかりに付けられたものにすぎないということを知らない人々は、生まれた時につけられた姓名によって、その人がバラモンであると思うようになった。
そして、それらの人々は「生まれによってバラモンである」と言う。
651 652
非バラモンとして具体的に、農夫、職人、商人、召使、さらに泥棒、武士、司祭者(僧侶)、王などが挙げられている。これらの人々は生まれによって成るのではない。行為によって成るのとブッダは述べた。
653
「生まれによってバラモンとなる」という人々は、バラモンや農夫、職人などの行為が彼ら自身を成り立たせていることをありのままに見ていない。
彼らの行為をありのままに見る人々は、行為が彼らの状態を成り立たせていることを理解しているのだとブッダは述べている。
654
世の中を構成するものは人々。その人々は行為によって成り立つ。
行為とば、身口意の行為。
世の中も行為によって成り立っている。
人間は、身口意の行為によって生きている。人間にそれらの行為に拘束されている。ブッダは人間たちの行為を、進んでいる車に車輪を結びつけている部品にたとえている。その部品がなければ、車が成り立たないように、人々も世間も成り立っている。
655
感覚器官を刺激して煩悩が起こらないように注意すること。
崇高な行為、禁欲的で清浄な行為をすることによって、具体的な例としては男女の性的な関係を結ばないこと。
自制によってとは、戒律に基づく行為をすること。
調御によってとは智慧に基づく行為をすること。
これらの行為によって、バラモンに成る。これらの最高に優れた行為によって、バラモンという最高の境地に至る。
656
人間は生まれながらの差別がないが、行為(業)によって区別あると説かれた。
バラモンの真のあり方を説いた。
三明をそなえ、寂静にして、輪廻を脱した方。そのような方は識者(賢者)にとっては単なるバラモンではなく、梵天や帝釈天のような方。つまり、そのような方は仏、阿羅漢。
三明とは、一般的にはバラモンの学習する三つのヴェーダと解くが、ここでは宿命通、天眼通、漏尽通を意味する。
宿命通とは、自己及び他人の前世ことを知ることができる智慧
天眼通とは、天人のように肉眼で見えない遠い所や微細なものを見ることができる智慧。
漏尽通とは、あらゆる煩悩を滅し尽くすことができる智慧。
(´・(ェ)・`)つ
0082名無しを整える。
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2017/11/18(土) 19:00:26.01ID:EMcTN28V
ブッダのことば(スッタニパータ)
第3 大いなる章、10、コーカーリヤ

 わたしか聞いたところによると、──或るとき尊き師(ブッダ)は、サーヴァッティー市のジェータ林、<孤独な人々に食を給する長者の園>におられた。
そのとき修行僧コーカーリヤは師のおられるところに赴いた。そうして、師に挨拶して、傍らに坐した。それから修行僧コーカーリヤは師に向っていった、
「尊き師(ブッダ)よ。サーリプッタとモッガラーナとは邪念があります。悪い欲求にとらわれています。」
 そう言ったので、師(ブッダ)は修行僧コーカーリヤに告げて言われた、「コーカーリヤよ、まあそういうな。コーカーリヤよ、まあそういうな。サーリプッタとモッガラーナとを信じなさい。サーリプッタとモッガラーナとは温良な性の人たちだ。」
 修行僧コーカーリヤは再び師にいった、「尊き師よ。わたくしは師を信じてお頼りしていますが、しかしサーリプッタとモッガラーナとは邪念があります。悪い欲求にとらわれています。」
 師は再び修行僧コーカーリヤに告げて言われた、「コーカーリヤよ、まあそういうな。コーカーリヤよ、サーリプッタとモッガラーナとを信じなさい。サーリプッタとモッガラーナとは温良な性の人たちだ。」
 修行僧コーカーリヤは三たび師にいった、「尊き師よ。わたくしは師を信じてお頼りしていますが、しかしサーリプッタとモッガラーナとは邪念があります、悪い欲求にとらわれています。」
 師は三たび修行僧コーカーリヤに告げて言われた、「コーカーリヤよ、まあそういうな。コーカーリヤよ、サーリプッタとモッガラーナとを信じなさい。サーリプッタとモッガラーナとは温良な性の人たちだ。」
 そこで修行僧コーカーリヤは座から起って、師に挨拶して、右まわりをして立ち去った。修行僧コーカーリヤが立ち去ってからまもなく、かれの全身に芥子粒ほどの腫物が出てきた。
(初めは)芥子粒ほどであったものが、(次第に)小豆ほどになった。小豆ほどであったものが、大豆ほどになった。大豆ほどであったものが、棗の核ほどになった。棗の核ほどあったものが、棗の果実ほどになった。
棗の果実ほどあったものが余甘子ほどになった。余甘子ほどであったものが、未熟な木爪の果実ほどになった。未熟な木爪の果実ほどであっものが、熟した木爪ほどになった。
熟した木爪ほどになったものが破裂し、膿と血とが迸り出た。そこで修行僧コーカーリヤはその病苦のために死去した。修行僧コーカーリヤは、サーリプッタとモッガラーナとに対して敵意をいだいていたので、死んでから紅蓮地獄に生まれた。
 そのときサハー(老婆)世界の主・梵天は、夜半を過ぎた頃に、麗しい容色を示して、ジェータ林を隈なく照らして、師のおられるところに赴いた。
そうして師に敬礼して傍らに立った。そこでサハー世界の王である梵天は師に告げていった。
「尊いお方さま。修行僧コーカーリヤは死去しました。修行僧コーカーリヤは、サーリプッタとモッガラーナとに対して敵意をいだいていたので、死んでから紅蓮地獄に生まれました。」
サハー世界の主・梵天はこのように言った。このように言ってから、師に敬礼し、右まわりをして、その場で消え失せた。

(´・(ェ)・`)つ
0083鬼和尚 ◆GBl7rog7bM
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2017/11/18(土) 22:32:34.53ID:QaNG1LE2
>>80 学者でも意見が分かれているようじゃのう。
 言葉に囚われるのも意味の無いことじゃ。
 それも自分の心の中にどのような渇愛があるか観察するためのものなのじゃ。
 自分の心の中に無ければそれでよいのじゃ。


 
0084名無しを整える。
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2017/11/18(土) 23:53:47.20ID:EMcTN28V
>>83
自分の心の中にある渇愛を観察してみると、
くま的には、
非生存に対する渇愛(死んですべてを終わらせたいという欲求)とか、「虚無への渇愛」よりも、
自己優越の欲望のかたまり とか、無色界の生存に対する欲、形を持たない精神的な愛着の欲、精神的に優れた境地に対する執着の方が、今は強いように思うであります。

死んですべてを終わらせたいという欲求と言うもの(=無有愛)が、仏教においては、克服すべき渇愛として取り上げられていると言うこと自体は間違いではないのでありますね。
(´・(ェ)・`)つ
0085名無しを整える。
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2017/11/19(日) 07:09:30.18ID:D9Bf/ZMI
ブッダのことば(スッタニパータ)
第3 大いなる章、10、コーカーリヤ

 さて、その夜が明けてから、師は、諸々の修行僧に告げて言われた、「諸々の修行僧らよ。昨夜サハー世界の主である梵天が、夜半を過ぎた頃に、麗しい容色を示して、ジェータ林を隈なく照らして、わたくしのいるところに来た。
それからわたくしに敬礼して傍らに立った。さうしてサハー世界の主である梵天は、わたくしに告げていった。
『尊いお方さま。修行僧コーカーリヤは死去しました。修行僧コーカーリヤは、サーリプッタとモッガラーナとに対して敵意をいだいていたので、死んでから紅蓮地獄に生まれました』と。
サハー世界の主である梵天はこのように言った。そうして、師を敬礼し、右まわりして、その場で消え失せた。」
 このように説かれたときに、一人の修行僧が師に告げていった、「尊いお方さま。紅蓮地獄における寿命の長さは、どれだけなのですか?」
 「修行僧よ。紅蓮地獄における寿命は実に長い。それを、幾年であるとか、幾百年であるとか、幾千年であるとか、幾十万年であるとか、数えることはむずかしい。」
 「尊いお方さま。しかし譬喩を以て説明することがでまるでしょう。」
 「修行僧よ。それはできるのです」といって、師は言われた、
「たとえば、コーサラ国の枡目ではかつて二十カーリカの胡麻の積荷(一車輌分)があって、それを取り出すとしょう、ついで一人の人が百年を過ぎるごとに胡麻を一粒ずつ取り出すとしよう。
その方法によって、コーサラ国の枡目ではかって二十カーリカの胡麻の積荷(一車輌分)が速やかに尽きたとしても、一つのアッブタ地獄はまだ尽きるに至らない。二十のアッブダ地獄は一つのニラッブダ地獄[の時期]に等しい。
二十のニラッブダ地獄は一つのアババ地獄[の時期]に等しい。二十のアババ地獄は一つのアハハ地獄[の時期]に等しい。二十のアハハ地獄は一つのアタタ地獄[の時期]に等しい。二十のアタタ地獄は一つの黄蓮地獄[の時期]に等しい。
二十の黄蓮地獄は一つの白睡蓮地獄[の時期]に等しい。二十の白睡地獄は一つの青蓮地獄[の時期]に等しい。二十の青蓮地獄は一つの白蓮地獄[の時期]に等しい。二十の紅蓮地獄[の時期]に等しい。
ところで修行僧コーカーリヤは、サーリプッタおよびモッガラーナに対して敵意をいだいていたので、紅蓮地獄に生まれたのである。」
 師はこのように言われた。幸せな人である師は、このことを説いてから、さらに次のように言われた。──

657 人が生まれたときには、実に口の中には斧が生じている。愚者は悪口を言って、その斧によって自分を斬り割くのである。

658 毀るべき人を誉め、また誉むべき人を毀る者、──かれは口によって禍をかさね、その禍のゆえに福楽を受けることができない。

659 賭博で財を失う人は、たとい自身を含めて一切を失うとも、その不運はわずかなものである。しかし立派な聖者に対して悪意をいだく人の受ける不運は、まことに重いのである。

660 悪口を言いまた悪意を起して聖者をそしる者は、十万と三十六のニラップダの[巨大な年数のあいだ]また五つのアッブダの[巨大な年数のあいだ]地獄に赴く。

661 嘘を言う人は地獄に墜ちる。また実際にしておきながら゜わたしはしませんでした」と言う人もまた同じ。両者とも行為の卑劣な人々であり、死後にはおの世で同じような運命を受ける(地獄に墜ちる)。

(´・(ェ)・`)つ
0086名無しを整える。
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2017/11/19(日) 07:17:57.49ID:D9Bf/ZMI
657
言葉は斧のように上手に使わないと自分自身を傷つける。言葉で自分を傷つけるとは、自分自身を不幸にすること。また死後には地獄などの悪所に生まれ変わるということ。
愚か者は言葉上手に使わない。言葉の下手な使い方は、@嘘をいうこと、A二枚舌を使うこと、B悪口をいうこと、C無駄話しをすることなど。
賢い人は言葉を上手に使う。言葉の上手な使い方は、@真実を話す、A仲良くさせる言葉を話す、B優しい言葉を話す、C役に立つ言葉を話すなど。
660
1ニラッブダは10の43乗×2、1アップダは10の42乗。
地獄にいる期間は終わりのない、無限の時間だと言ってもいい。
それに比べれば、どんなこの世の苦しみも小さなこと。
(´・(ェ)・`)つ
0087名無しを整える。
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2017/11/19(日) 09:29:48.15ID:D9Bf/ZMI
ブッダのことば(スッタニパータ)
第3 大いなる章、10、コーカーリヤ

662 害心なく清らかで罪汚れのない人を憎むかの愚者には、必ず悪(い報い)がもどってくる。風に逆らって微細な塵を撒き散らすようなものである。

663 種々なる貪欲に耽る者は、ことばで他人をそしる。──かれ自身は、信仰心なく、ものおしみして、不親切で、けちで、やたらにかげ口を言うのだが。

664 口穢く、不実で、卑しい者よ。生きものを殺し、邪悪で、悪行をなす者よ。不劣を極め、不吉な、でき損いよ。この世であまりおしゃべりするな。お前は地獄に落ちる者だぞ。

665 お前は塵を播いて不利を招き、罪をつくりながら、諸々の善人を非難し、また多くの悪事をはたらいて、長いあいだ深い坑(地獄)に陥る。

666 けだし何者の業も滅びることはない。それは必ずもどってきて、(業をつくった)主がそれを受ける。愚者は罪を犯して、来世にあってはその身に苦しみを受ける。

667 (地獄に墜ちた者は)、鉄の串を突きさされるところに至り、鋭い刃のある鉄の槍に近づく。さてまた灼熱した鉄丸のような食物を食わされるが、それは、(昔つくった業に)ふさわしい当然なことである。

668 (地獄の獄卒どもは「捕えよ」「打て」などといって)、誰もやさしいことばをかれることなく、(温顔をもって)向ってくることなく、頼りになってくれない。(地獄に墜ちた者どもは)、敷き拡げられた炭火の上に臥し、あまねく燃え盛る火炎の中に入る。

669 またそこでは(地獄の獄卒どもは)鉄の網をもって(地獄に墜ちた者どもを)からめとり、鉄槌をもって打つ。さらに真の暗黒である闇に至るが、その闇はあたかも霧のようにひろがっている。

670 また次に(地獄に堕ちた者どもは)火炎があまねく燃え盛っている鋼製の釜にはいる。火の燃え盛るそれらの釜の中で永いあいだ煮られて、浮き沈みする。

671 また膿や血のまじった湯釜があり、罪を犯した人はその中で煮られる。かれがその釜の中でどちらの方角へ向って横たわろうとも、(膿と血とに)触れて汚される。

672 また蛆虫の棲む水釜があり、罪を犯した人はその中で煮られる。出ようにも、つかむべき縁がない。その釜の上部は内側に彎曲していて、まわりが全部一様だからである。

673 また鋭い剣の葉のついた林があり、(地獄に墜ちた者どもが)その中に入ると、手足を切断される。(地獄の獄卒どもは)鉤を引っかけて舌をとらえ、引っ張りまわし、引っ張り廻しては叩きつける。

674 また次に(地獄に墜ちた者どもは)、超え難いヴェータラニー河に至る。その河の流れは鋭利な剃刀の刃である。愚かな輩は、悪い事をして罪を犯しては、そこに陥る。

675 そこには黒犬や斑犬や黒烏の群や野狐がいて、泣きさけぶかれらを貪り食うて飽くことがない。また鷹や黒色ならぬ烏どもまでが啄む。

676 罪を犯した人が身に受けるこの地獄の生存は、実に悲惨である。だから人は、この世において余生のあるうちになすべきことをなして、忽せにしてはならない。

677 紅蓮地獄に運び去られた者(の寿命の年数)は、荷車につんだ胡麻の数ほどある、と諸々の智者は計算した。すなわちそれは五千兆年とさらに一千万の千二百倍の年である。

678 ここに説かれた地獄の苦しみがどれほど永く続こうとも、その間は地獄にとどまらなねばならない。それ故に、ひとは清く、温良で、立派な美徳をめざして、常にことばとこころをつつしむべきである

(´・(ェ)・`)つ
0088名無しを整える。
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2017/11/19(日) 09:38:45.03ID:D9Bf/ZMI
663、664
モッガッラーナ尊者が死んで逝くコーカーリヤ比丘を訓戒して述べたと言われている。あるいは大梵天が述べたという説もある
665
何故自分の不利になることをするのか?
本人は自分に不利になるとは分かっていないか、或は、分かっていても感情的になっていて、自分の行動を制御できないということか?実はその前に、自分の行為に気づいていないことか?
自分が馬鹿なことをしないためには、自分の気づくことが必要。
666
業は、行為そのものを指す場合と、行為の結果を意味する場合がある。この詩では、行為の結果を意味している。
行為の結果からは逃げることはできないということ。
悪い行為の結果からは、逃げられないことは恐ろしいこと。悪い行為の結果は悪い結果に決まっているから。どこに逃げようとも、辛い、苦しい恐ろしい結果が待っている。
悪い行為の結果(悪業)の原因を作るなということ。
なぜ悪業から逃れないのか?業は行為そのもの、あるいは行為の結果。それは行為者の潜在的エネルギーとして心に蓄積されている。行為者の心が有る所、行く所、どこにでも付いて行く。

(´・(ェ)・`)つ
663、664←モッガッラーナさん、あるいは大梵天さん、ちょぴっと言い過ぎではありますまいか?と思いつつも、
読者が死後に恐ろしい地獄(667〜675)に行かなくてもすむようにとの優しさなのかもしれぬと思うくまであります。
0089鬼和尚 ◆GBl7rog7bM
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2017/11/19(日) 20:33:21.37ID:vlZYUFPF
>>84 そうじゃ、自らの心の中にそれがあれば滅するべき渇愛になるのじゃ。
 なければそれでよいのじゃ。
 全てを超えて進むのじゃ。
0090名無しを整える。
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2017/11/19(日) 21:26:02.29ID:D9Bf/ZMI
>>89
鬼和尚ありがとうであります。
ありのままに観察するであります。
(´・(ェ)・`)つ
0091名無しを整える。
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2017/11/20(月) 18:34:09.53ID:l8maLz7b
ブッダのことば(スッタニパータ)
第3 大いなる章、11、ナーラカ

 [ 序 ]
679 よろこび楽しんでいて清らかな衣をまとう三十の神々の群と帝釈天とが、恭しく衣をとって極めて讃嘆しているのを、アシタ仙は日中の休息のときに見た。

680 こころ喜び踊りあがっている神々を見て、ここに仙人は恭々しくこのことを問うた、
「神々の群が極めて満悦しているのは何故ですか?
 どうしたわけでかれらは衣をとってそれを振り廻しているのですか?

681 たとえ阿修羅との戦いがあって、神々が勝ち阿修羅が敗れたときにもそのように身の毛の振るい立つぼど喜ぶことはありませんでした。どんな稀なできごとを見て神々は喜んでいるのですか?

682 かれは叫び、歌い、楽器を奏で、手を打ち、踊っています。須弥山の頂に住まわれるあなたがたに、わたくしはおたずねします。尊き方々よ、わたくしの疑いを速かに除いてください。」

683 (神々は答えて言った)、「無比のみごとな宝であるかのボーディサッタ(菩薩、未来の仏)は、もろびとの利益安楽のために人間世界に生まれたもうたのです、──シャカ族の村に、ルンビニーの聚落に。
 だからわれらは嬉しくなって、非常に喜んでいるのです。

684 生きとし生ける者の最上者、最高の人、牡牛のような人、生きとし生けるもののうちの最高の人(ブッダ)は、やがて<仙人(のあつまる所)>という名の林で(法)輪を回転するであろう。──猛き獅子が百獣にうち勝って吼えるように。」

685 仙人は(神々の)その声を聞いて急いで(人間世界に)降りてきた。そのときスッドーダナ王の宮殿に近づいて、そこに坐して、シャカ族の人々に次のようにいった、
 「王子はどこにいますか。わたくしもまた会いたい。」

686 そこで諸々のシャカ族の人々は、その児を、アシタという(仙人)に見せた。──溶炉で巧みな金工が鍛えた黄金のようにきらめき幸福に光り輝く尊い児を。

687 火炎のように光り輝き、空行く星王(月)のように清らかで、雲を離れて照る秋の太陽のように輝く児を見て、歓喜を生じ、昴まく喜びでわくわくした。

688 神々は、多くの骨あり千の円輪ある傘蓋を空中にかざした。また黄金の柄のついた払子で[身体を]上下に扇いだ。
 しかし払子や傘蓋を手にとっている者どもは見えなかった。

(´・(ェ)・`)つ
0092名無しを整える。
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2017/11/20(月) 18:41:30.98ID:l8maLz7b
>>91
679〜698
序の部分はブッダがカピラ城に誕生した時、アシタ仙人がその相を占って、ブッダの将来を予言したことを述べている。
アシタ仙人とは、ゴータマ・ブッダの父であるスッドダナ(浄飯王)の技芸の師であり、王位についた後は宮廷僧であった。後に苦行者として出家して、王に仕えながら庭園だけに住み、修行を行い、八種の心統一と五神通を成就した。
「三十の神々の群」は普通三十三天の神々と言われている。

681
アシタ仙人は過去未来の四十劫の間の出来事を思い浮かべることが出来た。(劫とは一つの宇宙が生まれて消える時間。)「その長い期間に神々が以前にも、嬉々として喜んだことがあるだろうか。」とアシタ仙人は思いをめぐらしてみた。
神々と阿修羅たちが戦争をしたことがあり、神々が勝ち、その時も神々は喜んだが、今回のように身の毛がよだつほど喜ぶことはなかった。

682
口笛を吹くとは、口で高い音を出すこと。六万八千の楽器を奏でると注釈書には書いてある。

683
ボーディサッタの漢訳は菩提薩(ぼだいさった)、それを短縮して菩薩(ぼさつ)と言う。ボーボーディ(菩提)とは悟り、サッター(薩)とは衆生です。合わせて悟りをめざす人という意味す。
菩薩は悟りをめざす人で、悟りに達した人はブッダです。ブッダは真理を発見し、生命の苦しみの原因を突き止め、その苦しみを克服する方法を体得し、生命が苦しみから解脱する道を教示することができる存在。
神々はそのことを知っていたので、ブッダの出現を待ち望んでいた。菩薩が生まれることは、ブッダの出現が約束されたこと。そのために、神々は菩薩の誕生を歓喜して喜んだ。
684
法輪を転じる(仏教の教え説く)
688
傘蓋をかざし、払子を揺らす神々の姿は人間には見えない。

(´・(ェ)・`)つ
0094名無しを整える。
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2017/11/21(火) 19:04:15.58ID:GsH5iSyx
ブッダのことば(スッタニパータ)
第3 大いなる章、11、ナーラカ

689 カンハシリ(アシタ)という結髪の仙人は、こころ喜び、嬉しくなって、その児を抱きかかえた。──その児は、頭の上に白い傘をかざされて白色がかった毛布の中にいて、黄金の飾りのようであった。

690 相好と呪文(ヴェーダ)に通曉しているかれは、シャカ族の牡牛(のような立派な児)を抱きとって、(特相を)検べたが、心に歓喜して声を挙げた。──「これは無上の方です、人間のうちで最上の人です。」

691 ときに仙人は自分の行く末を憶うて、ふさぎこみ、涙を流した。仙人が泣くのを見て、シャカ族の人々は言った、──
 「われらの王子に障りがあるのでしょうか?」

692 シャカ族の人々が憂えているのを見て、仙人は言った、──
「わたくしは、王子に不吉の相があるのを思いつづけているのではありません。またかれに障りはないでしょう。この方は凡庸ではありません。よく注意してあげてください。

693 この王子は最高のさとりに達するでしょう。この人は最上の清浄を見、多くの人々のためをはかり、あわれむが故に、法輪をまわすでしょう。この方の清らかな行いはひろく弘まるでしょう。

694 ところが、この世におけるわたくしの余命はいくばくもありません。(この方がさとりを開かれるまえに)中途でわたくしは死んでしまうでしょう。
わたくしは比(たぐい)なき力ある人の教えを聞かないでしょう。だから、わたくしは、悩み、悲嘆し、苦しんでいるのです。」

695 かの清らかな修行僧(アシタ仙人)はシャカ族の人々に大きな喜びを起させて、宮廷から去っていった。かれは自分の甥(ナーラカ)をあわれんで、比(たぐい)なき力ある人の教えに従うようにすすめた。──

696 「もしもお前が後に『目ざめた人あり、さとりを開いて、真理の道を歩む』という声を聞くならば、そのときそこへ行ってかれの教えをたずね、その師のもとで清らかな行いを行え。」

697 その聖者は、人のためをはかる心あり、未来における最上の清らかな境地を予見していた。その聖者に教えられて、かねて諸々の善根を積んでいたナーラカは、勝利者(ブッダ)を待望しつつ、みずからの感官をつつしみまもって暮らした。

698 <すぐれた勝利者が法輪をまわしたもう>との噂を聞き、アシタという(仙人)の教えのとおりになったときに、出かけていって、最上の人である仙人(ブッダ)に会って信仰の心を起し、いみじき聖者に最上の聖者の境地をたずねた。

 序文の詩句は終った。

(´・(ェ)・`)つ
0095名無しを整える。
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2017/11/21(火) 19:07:33.20ID:GsH5iSyx
>>94
689
「カンハシリ」の「カンハ」とは、「黒い」という意味。「シリ」は「吉祥」という意味。「カンハシリ」は「黒い吉祥」という意味。アシタ仙人はこのように呼ばれていた。

注釈書には、釈迦族の人々は始め、お釈迦様をアシタ仙人に抱かせようとしたのではなく、礼拝させようとして、差し出した、ところが赤ちゃんの足が動いて、アシタ仙人の頭の上に立ったと言うこと。
仙人はこの不思議を見て、「こころ喜び、嬉しくなって、その児を抱きかかえた。」ということ。

690
アシタ仙人は観相や真言の奥義に達した人、聖者の三十二相があるかどうか調べた。すべての瑞相が具わっていることを発見した。

693
最高のさとりに達する(至高の正覚を体得する)とは、
解脱すること、涅槃に達すること。
貪りの滅尽・怒りの滅尽・迷いの滅尽。
経典ではこれらを覚り(涅槃)の同義語として次のような言葉が使われている。
無為、無漏、真理、彼岸、巧妙、強固、照見、無説、無戯論、寂静、不死、最上、吉祥、安穏、渇愛の滅尽、希有、未曾有、無災、無災法、無害、離貪、清浄、解脱、無執着、洲、避難所、帰依所など。

この童子は最高に清浄な人になり、人々の利益のために、人々を慈しんで法輪を転じる(真理を教えを説法をする)だろうということ。

697
「その聖者」は、「アシタ仙人」を指し勝利者(勝者)はブッダを指している。
アシタ仙人が人のためをはかる心あり、アシタ仙人が未来における最上の清らかな境地を予見していたということ。

698
ブッダの始めの説法は、初転法輪経と言われ、インドのベナレスに近いイシパタナ(仙人の降り立つ地)にある鹿野苑(ろくやおん)で行われた。
この説法がされた時、地の神々から始まり、全宇宙の神々に<すぐれた勝利者が法輪をまわしたもう>という讃嘆の声が広がったということ。

(´・(ェ)・`)つ
0096鬼和尚 ◆GBl7rog7bM
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2017/11/21(火) 21:55:40.31ID:vYXLtwMa
実際には最初の説法は失敗したのじゃ。
それで苦滅の法を説いたのじゃ。
それによって成功したのじゃ。
0097名無しを整える。
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2017/11/21(火) 22:44:45.16ID:GsH5iSyx
鬼和尚、こんばんは。
昔の修行仲間に、最初は相手にされなかったのでありますしょうかね。
最初はどんな説法をして失敗したのでありましょうか?
(´・(ェ)・`)つ
0099名無しを整える。
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2017/11/22(水) 18:22:29.59ID:PHfELKWU
ブッダのことば(スッタニパータ)
第3 大いなる章、11、ナーラカ

699 [ナーラカは尊師にいった]、「アシタの告げたこのことばはそのとおりであるということを了解しました。故に、ゴータマよ、一切の道理の通達者(ブッダ)であるあなたにおたずねします。

700 わたくしは出家の身となり、托鉢の行を実践しようと願っているのですが、おたずねします。聖者よ、聖者の境地、最上の境地を説いてください」。

701 師(ブッダ)はいわれた、「わたくしはあなたに聖者の境地を教えてあげよう。これは行いがたく、成就し難いものである。さあ、それをあなたに説いてあげよう。
しっかりとして、堅固であれ。

702 村にあっては、罵られても、敬礼されても、平然とした態度で臨め。(罵られても)こころに怒らないように注意し、(敬礼されても)冷静に、高ぶらずにふるまえ。

703 たとい園林のうちにあっても、火炎の燃え立つように種々のものが現れ出てくる。
婦女は聖者を誘惑する。婦女をしてかれを誘惑させるな。

704 婬欲のことがらを離れ、さまざまの愛欲をすてて、弱いものでも、強いものでも、諸々の生きものに対してね敵対することなく、愛著することもない。

705 『かれもわたしと同様であり、わたしもかれと同様である』と思って、わがみに引きくらべて、(生きるものを)殺してはならなぬ。また他人をして殺させてはならない。

706 凡夫は欲望と貪りと執著しているが、眼ある人はそれを捨てて道を歩め。この(世の)地獄を超えよ。

707 腹をへらして、食物を節し、小欲であって、貪ることなかれ。かれは貪り食う欲望に厭きて、無欲であり、安らぎに帰している。

708 その聖者は托鉢にまわり歩いてから、林のほとりにおもむき、樹の根もとにとどまって座につくべきである。

709 かれは思慮深く、瞑想に専念し、林のほとりで楽しみ、樹の根もとで瞑想し、大いにみずから満足すべきである。

710 ついで夜が明けたならば、村里のほとりに去るべきである。(信徒から)招待を受けても、また村から食物をもらってきても、決して喜んではならない。

711 聖者は、村に行ったならば、家々を荒々しくガサツに廻ってはならない。話をするな。わざわざ策して食を求めることばを発してはならない。

(´・(ェ)・`)つ
0100名無しを整える。
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2017/11/22(水) 18:52:20.62ID:PHfELKWU
>>99
699
「一切の道理の通達者(ブッダ)」(一切諸法(現象世界)の彼岸に至る方)の意味について、注釈書には、スッタニパータの第一の九の雪山夜叉経の168、169に言及。
「何があるとき世界は生起するのですか?」の雪山夜叉の質問に対して「六つがあるとき世界は生起する。」とブッダは答えている。
六つとは「眼、耳、鼻、舌、身、意」。世界はこの六つで知られることがすべてであると答えた。この六つで知られることを知りつくした人が一切の道理の通達者。

700
聖者たちが実践した「托鉢の行=乞食の行を実践しようと願っている者」
食べ物を他人からもらい、それを糧に生活し、修行すること。

702
普通、人間はけなされれば怒り、ほめられれば喜ぶ。
ブッダが「聖者の行」として始めにナーラかさんに教えたことは、この現象と反対のこと。
罵られても(=けなされても)怒らず、敬礼されても(=ほめられても)喜ぶなということ。このどちらにたいして同じ態度を取りなさいと教えている。

何故生命はほめられれば喜び、けなされれば怒るか。それは生命が何かに依存して生きているから。この依存は保障された時は安心して、喜ぶ。
逆に依存が保障されない時は不安になり、恐怖や怒りが現れる。ほめられるということ保障されたと感じ、けなされると保障されてないと感じてしまうから。
聖者、覚った人は何ものにも依存しない独立・自立の人。だから、ほめられることにも、けなされることにも無関心、無頓着。どちらにたいしても同じ態度を取る。
ほめられて喜び、けなされて怒る自分をよく観察し、それが当たり前だと思わずに、人の評価に依存している自分を自覚するように教える。

703
恐ろしいもの、心をとらえるもの、憎むべきもの、迷わすものが現れる。それらを「火炎の燃え立つように種々のものが現れ出てくる。」と表現。
聖者を誘惑しようとするものらに誘惑せないような態度を取らなければいけない。
修行中の聖者は、感覚を守り、心が煩悩で汚れないようにしなければならない。

704
淫欲その他にもいろいろな欲望があり、それらも悩み苦しみの原因であり、生命を輪廻させるもの。
「動くものと動かないものにたいし」「弱いものでも、強いものでも」つまりどんな生き物に対しても「敵対することなく、愛著することもない。」ということで、好き嫌いの意識を持たないというということ。

欲望を捨てなければ、どんな生命にも分け隔てなく、「敵対することなく、愛著することもない。」ということが出来ないということ。
自分に欲望があれば、すべて生命に対して平等に対応できない。すぐ依怙贔屓(えこひいき)の感情が現れる。平等・対等な態度は聖者のやさしさ。

(´・(ェ)・`)つ
つづく
0101名無しを整える。
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2017/11/22(水) 19:08:06.09ID:PHfELKWU
>>99
705
「『かれもわたしと同様であり、わたしもかれと同様である』と思って、」ということは「聖者の行」においては非常に大切な原理。
自分の欲望を乗り越えなければ出来ないこと。

706
欲望(欲求)と貪欲、その意味の違いは、まだ得てない対象を欲しがることと、手に入れた対象を貪るという所にある。そのような欲求と貪欲に凡夫は執着する。

眼ある人とは、ここではナーラカさんに言っているが、「聖者の行」を実践しようとする人は、欲求や貪欲に執着しないようにと述べられている。「眼ある人」は普通覚った人を指す場合が多いが、ここではまだ覚ってなく、その志のある人。

注釈書には、欲求と貪欲の対象を衣服や生活必需品をさしていると説明されている。それに執着する態度は、生活の清浄を失うことになる。
この(世の)地獄とは、生活必需品を欲しがり、貪る態度をこの世の地獄と言っている。そして欲求と貪欲を捨てることが、この世の地獄を超えること。
707
日常生活の大きな要素として衣食住薬があるが、そのうちの食に関して次のように比丘(出家者)は、次のように観察すべきであると教えられている。

「私は正しく考察して施食を受用します。
遊戯(楽しみ)のためでなく、驕慢(力の自慢)のためでなく、装飾(良い体格)のためでなく、荘厳(美容)のためでなく、ただこの身体の存続のため、維持のため、飢餓病気を静めるため、最勝行を守るために受用するのです。
この施食を受用することによって、前の苦痛(空腹)はなくなり、新しい苦痛(満腹)が起こらず、私は存続することが出来、罪がなく、安楽に過ごされるでありましょう。」

身体を維持できる最小量の食事で満足するようにする。そのように覚悟が出来れば、食事を貪ることはない。

そのように、心がけている修行者は、その他の欲望も静まり、欲求・貪欲ないものとして、解脱の道を進み、涅槃に達する。

(´・(ェ)・`)つ
つづく。
0102名無しを整える。
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2017/11/22(水) 19:14:13.57ID:PHfELKWU
>>99
708
702〜707のような教えは自分の行動を自覚していなければできないこと。自分の心の状態を自覚していることは意外に難しい。
そこで、ブッダは「聖者の行」を実践するために、自分の心を自覚することを教えている。その方法として瞑想がある。
先ず、身体の状態、動きを観察。身体は目に見えるものですから、比較的観察しやすい。
次に感覚を観察。感覚も心より観察しやすい。また感覚を感じると必ずそれに伴う心の動きがある。
その心を観察するようにする。
瞑想において、身体、感覚、心を観察すると自分に起こるもろもろの現象や法則、真理などが明らかになって来る。
仏教ではこれらの観察する対象を「四念処」と言う。
四念処は身(身体)、受(感覚)、心、法(現象、真理)。

709
パーリ語のjhna・pasutoのjhnaは「深思すること、禅那、禅定、静慮」などの訳がある。瞑想という訳もよく使われる。pasutoは「専念すること、熱中すること」。jhna・pasutoは「瞑想に専念すること」。つまり八正道の「正定」を実践すること。

「正定」は「正しい瞑想」と言う意味。その内容は第一禅定、第二禅定、第三禅定、第四禅定であると定義されている。
「瞑想に専念する」とは第一から第四禅定に専念することになる。
禅定に入るためには、静かに坐るなどして、五蓋(欲貪、瞋恚、昏沈・睡眠、掉挙・悪作、疑)という煩悩の機能を停止する必要がある。
五蓋の機能が停止すると、自然に五支禅(尋、伺、喜、楽、一境性)が現れ、第一禅定に入る。
そうすると一時的に煩悩がない状態を経験するの。しかし、禅定により煩悩がなくなったわけではないから、禅定から出ると煩悩は現れる。
第二禅定はより一境性(集中力)が高まり、尋(大まかな思考)、伺(細かい思考)が消えた状態。
第三禅定は更に一境性が高まり、喜が消えた状態。
第四禅定は更に一境性が高まり、楽も消えた状態。
先ず始めの第一禅定に入れば、喜びや楽が経験できる。この偈に書いてあるような体験ができる。

ダンマパダ282。
実に心が統一されたならば、豊かな智慧が生じる。
心が統一されないならば、豊かな智慧が滅びる。
生じることと滅びることのこの二つの道を知って、
豊かな智慧が生じるように自己を整えよ。

ここで大切なポイントは二つ。心の統一とは禅定。禅定がなければ、智慧が現れない。また、智慧がなければ禅定に入れないというこ。もう一つは物事の生滅という真理を知るということ。瞑想によりこの重要なポイントを体得できる。
710
解脱を求める修行者は寝る時間を惜しんで修行しなさいということ。

(´・(ェ)・`)つ
0103鬼和尚 ◆GBl7rog7bM
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2017/11/22(水) 21:44:05.77ID:brgSC9Dk
>>97ウパカという者に わしは無師独悟の仏陀じゃとか言ったのじゃ。
 そうしたらそうかもしれんとか言われて終わりなのじゃ。
 
 それだけではいかんんと気付いたのじゃ。

>>98 おぬしわしに詳しいのう。
 苦を滅する法があるのじゃよ。
 わっはっはっは。


 
0105名無しを整える。
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2017/11/23(木) 06:22:50.77ID:AHkRUe94
ブッダのことば(スッタニパータ)
第3 大いなる章、11、ナーラカ

712 『(施しの食べ物を)得たのは善かった』『得なかったのもまた善かった』と思って、全き人はいずれの場合にも平然として還ってくる。
あたかも(果実をもとめて)樹のもとに赴いた人が、(果実を得ても得なくても、平然として)帰ってくるようなものである。

713 かれは鉢を手にして歩き廻り、唖者ではないのに唖者と思われるようにするためだ。施物が少なかったらとて軽んじてはならぬ。施してくれる人を侮ってはならない。

714 道の人(ブッダ)は高く或いは低い種々の道を説き明かしたもうた。重ねて彼岸に至ることはないが、一度で彼岸に至ることもない。

715 (輪廻の)流れを断ち切った修行僧には執著が存在しない。なすべき(善)となすべからざる(悪)とを捨て去っていて、かれは煩悶が存在はない。」

716 師がいわれた、
「「あなたに聖者の道を説こう。──(食をとるには)剃刀の刃の譬えのように用心せよ。舌で上口蓋を抑え、腹についてはみずから食を節すべし。

717 心が沈んでしまってはいけない。またやたらに多くのことを考えてはいけない。腥い臭気なく、こだわることなく、清らかな行いを究極の理想とせよ。

718 独り坐することと<道の人>に奉仕することを学べ。聖者の道は独り居ることであると説かれている。独り居てこそ楽しめるであろう。

719 そうすればかれは十方に光輝くであろう。欲望をすてて瞑想している諸々の賢者の名声を聞いたならば、わが教えを聞く者はますます恥を知り、信仰を起すべきである。

720 そのことを深い淵の河水と浅瀬の河水とについて知れ。河低の浅い小川の水は音を立てて流れるが、大河の水は音を立てないで静かに流れる。

721 欠けている足りないものは音を立てるが、満ち足りたものは全く静かである。愚者は半ば水を盛った水瓶のようであり、賢者は水の満ちた湖のようである。

722 <道の人>が理法にかない意義あることを多く語るのは、みずから知って教えを説くのである。

723 しかしみずから知って己れを制し、みずから知っているのに多くのことを語らないならば、かれは聖者として聖者の行にかなう。かれは聖者として聖者の行を体得した。」

(´・(ェ)・`)つ
0106名無しを整える。
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2017/11/23(木) 10:46:44.33ID:AHkRUe94
>>105
712
そもそも、「聖者の行」を実践する修行者、出家者は「どうしても生きて生きたい」という渇愛という心の汚れを克服しようとしている。
托鉢で食べ物を得られても、得られなくとも聖者を志すものは善かったと思う。

714
「聖者の行」の復習、
1、罵られても、敬礼されても、平然とした態度で臨め。
2.婦女をして彼を誘惑させるな
3.諸々の生きものに対して、敵対することもなく、愛着することもない。
4.欲望と貪りを捨てて、この世の地獄を超えよ。
5.食べ物を節し、少欲であって、貪るなかれ。
6.托鉢が終われば、樹の根元で瞑想すべき。
7.樹の根元で瞑想し、満足すべき。
8.托鉢で食べ物をもらっても、喜んではならぬ。
9.托鉢で食べ物をもらえるような言葉を言うな。
10.食べ物をもらっても、もらえなくとも善かったと思うように。
11.もらった食べ物が少なくとも軽んじない。施者を侮らない。
「重ねて彼岸に至ることはないが」は、彼岸つまり涅槃に一度到達すれば、もう戻ることはないと言うこと。為すべき修行は完成、完了だということ。
「一度で彼岸に至ることもない」とは、涅槃に行くことを一度挑戦して、それで涅槃に行けるかと言えばそのようなことはないということ。
八正道は涅槃に行くための道。これは涅槃につながる一本の道だが、八種類の道。その道を一つずつ進まなければならない。それは八回挑戦しなければならないと言える。
そういう意味で「一度で彼岸に至ることもない」と述べられている。

715
「聖者の行」で修行した修行者には、輪廻の原因である渇愛などの煩悩はなくなっている。執着のない彼には「なすべき(善)となすべからざる(悪)と」はない。
制約・拘束するものがないから、苦悩はない。これは「聖者の行」の功徳。
「なすべき(善)となすべからざる(悪)と」は自分の想いが作っているもの。執着がないということは、そのような想いがないので、「「なすべき(善)となすべからざる(悪)と」がない。
悪行為は煩悩によって現れる。煩悩がないので、悪行為は出来ない。「「なすべき(善)となすべからざる(悪)と」を捨てても問題ない。

(´・(ェ)・`)つ
つづく
0107名無しを整える。
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2017/11/23(木) 10:52:39.05ID:AHkRUe94
>>105
716
注釈書によると、ナーラカさんは715偈を聞いて、次のような心が生じた。
「もし聖者の行がこれだけのものなら、容易に行われ、なし難くもないし、わずかの苦労で満足させることができる」と。
それに対して、ブッダは「聖者の行は、まさになし難い」ことを示そうとして716を述べたと言うこと。
「カミソリについた蜜をなめるときには舌を切らないように用心する」と言うこと。すなわち、人々から受け取った食べ物や生活必需品から煩悩が起こらないように注意して心を守りなさいということ。
舌で上顎を強く押して、味への渇愛を除いて、托鉢で何ももらえない時でも、空腹に耐えるべきであるとも述べている。これは決して容易な行ではない。
717
「心が沈んでしまってはいけない。」とは、常に修行して、休まず行うこと、怠けてはいけないということ。
「またやたらに多くのことを考えてはいけない。」とは、眼、耳、鼻、舌、身、意を楽しませることなど。妄想や煩悩が増加するから。
生臭(スッタニパータの第2章の2に「生臭経」、生き物を殺す等の五戒を守らないこと)とは五戒を守っているということ。
「こだわることなく」とは、五感の対象に依存しないこと。これらに依存することは、これらに従属し、それらの奴隷になること。それらに依存しなければそれらから解放され、自由になること。
「清らかな行い」は、梵行の訳、注釈書には「『戒、定、慧』の三学というすべての教えとしての梵行に親しむがよい」という意味であるとしてある。
718
村から離れてという身体の遠離と、ブッダの瞑想方法による人々に依存しない心の遠離を学ぶようにということ。
719
一人瞑想をして、それを楽しむ賢者は東西南北、その間の四方と上下で十方に光輝く。
欲望を捨てて瞑想をする人を人々は称賛し評判が高まる。
しかし、そのような評判、うわさを聞いて、あなた(ナーラカさん)は浮つくことなく、ますます恥を知り、謙虚になって、仏法僧への信(確信)を確立するように教えた。
720
「そのことを」とは、
719偈の「わが教えを聞く者はますます恥を知り、信仰を起すべきである。」ということ。このことを「深い淵の河水と浅瀬の河水」でよく知りなさいと言うこと。
深い河の流れは静かに流れるが、浅瀬の川の流れは音を立てて流れるという違い。
721
智慧があれば静かであり、智慧がなければ騒がしいということ。
水が半分入った水瓶と満々と水をたたえた湖を例に挙げて、智慧のある人(賢者)と智慧のない人(愚者)を比較。
智慧がなければ恥を知らず、信仰を起こさないということ。
欲望を捨てて瞑想する賢者は評判が上がると、智慧が少ないと舞い上がって、騒がしく、信仰もいいかげんになってしまう。
しかし、智慧があれば、評判が上がっても、舞い上がらず、静かに、落ち着いて、謙虚に、信仰を高めるものだということ。
722 723
722は<道の人>は多くを語る。723は「みずから知っているのに多くのことを語らないならば、かれは聖者として聖者の行にかなう。」この矛盾をどのように考えたらよいか?
ダンマパダ268番には、「ただ沈黙しているからとて、愚かに迷い無智なる人が聖者なのではない。」と述べられている
聖者が黙っているのは必要があって黙っているということ。ただ、黙っているという訳ではない。必要がある時は聖者は大いに語る。
(´・(ェ)・`)つ
0108鬼和尚 ◆GBl7rog7bM
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2017/11/23(木) 21:46:40.04ID:i4XYiQwk
>>104 そうかもしれん。
 悟っても学ぶことは多いものじゃ。
 人の心を学ぶのじゃ。
0109名無しを整える。
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2017/11/24(金) 18:45:29.57ID:vkRWvAAa
ブッダのことば(スッタニパータ)
第3 大いなる章、12、二種の観察

 わたしが聞いたところによると、──或るとき尊師はサーヴァッティーの[郊外にある]東園にあるミガーラ(長者)の母の宮殿のうちにとどまっておられた。
そのとき尊師(ブッダ)はその定期的集会(布薩)の日、十五日、満月の夜に、修行僧(比丘)の仲間に囲まれて屋外に住しておられた。
さて尊師は仲間が沈黙しているのを見まわして、かれらに告げていわれた、──
 修行僧たちよ。善にして、尊く、出離を得させ、さとりにみちびく諸々の真理がある。そなたたちが、『善にして、尊く、出離を得させ、さとりにみちびく諸々の真理を聞くのは、何故であるか』と、
もしもだれかに問われたならば、かれに対しては次のように答えねばならぬ。──『二種ずつの真理を如実に知るためである』と。
しからば、そなたたちのいう二種とは何であるか、というならば、『これは苦しみである。これは苦しみの原因である』というのが、一つの観察[法]である。
『これは苦しみの消滅に至る道である』というのが、第二の観察[法]である。
【修行僧たちよ。このように二種[の観察法]を正しく観察して、怠らず、つとめ励んで、専心している修行僧にとっては、二つの果報のうちのいずれか一つの果報が期待され得る。
──すなわち現世における<さとり>か、あるいは煩悩の残りがあるならば、この迷いの生存に戻らないこと(不還)である。──
尊師はこのように告げられた。そうして、幸せな師(ブッダ)は、さらにまた次のように説かれた。】(以下【A】繰り返し)

724 苦しみを知らず、また苦しみの生起するもとを知らず、また苦しみのすべて残りなく滅びるところをも、また苦しみの消滅に達する道をも知らない人々、──

725 かれらは心の解脱を欠き、また智慧の解脱を欠く。かれらは(輪廻を)終滅させることができない。かれは実に生と老いとを受ける。

726 しかるに、苦しみを知り、また苦しみの生起するもとを知り、また苦しみのすべて残りなく滅びるところを知り、また苦しみの消滅に達する道を知った人々、──

727 かれらは、心の解脱を具現し、また智慧の解脱を具現する。かれらは(輪廻を)終滅させることができる。かれらは生と老いとを受けることがない。

(´・(ェ)・`)つ
0110名無しを整える。
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2017/11/24(金) 18:55:40.74ID:vkRWvAAa
>>109
724、「苦しみ(苦諦)を知らず、また苦しみの生起するもと(集諦)を知らず、」「また苦しみのすべて残りなく滅びるところ(滅諦)をも、また苦しみの消滅に達する道(道諦=八正道)をも知らない」人々は、二種の観察をしてないので、知らないのだと述べている。

725では、そのような人々は心の解脱(心解脱)をすることもないし、まして智慧の解脱(慧解脱)をすることがないと説かれている。彼らは苦しみの輪廻を終わらせることが出来ず、生まれること、老いること、死ぬことを繰り返すということ。

726、727、二種の観察をする人は苦諦、集諦、滅諦、道諦を知り、心の解脱か、さらには智慧の解脱を達成して苦しみの輪廻を止めて、生まれること老いることを繰り返すことはない。

心の解脱(心解脱)貪欲を完全に克服することが心の解脱。
智慧(慧解脱)無明を完全に克服することが智慧の解脱。

ブッダは覚りは四段階。
預流果、一来果、不還果、阿羅漢果。
預流果の覚りに至ってもまだ貪欲は残っている。一来果になるとそれがかなり薄まるが、まだ残っている。
不還果に至って初めてすべての貪欲が克服される。そのため輪廻を止めることになる。しかし、まだ慢、掉挙(じょうこ)、無明等の煩悩が残っている。
これらすべての煩悩を克服した方が阿羅漢。阿羅漢には智慧の解脱によって成る。
(´・(ェ)・`)つ
0111鬼和尚 ◆GBl7rog7bM
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2017/11/24(金) 21:55:49.20ID:YXG4RhGp
そうじゃ、観察によって苦は滅するのじゃ。
そして悟りにも達することが出来るのじゃ。
それがお釈迦様の説いた法なのじゃ。
0112名無しを整える。
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2017/11/25(土) 07:18:31.15ID:z75rdeGZ
ブッダのことば(スッタニパータ)
第3 大いなる章、12、二種の観察

【「修行僧たちよ。『また他の方法によっても二種のことがらを正しく観察することができるのか?』と、もしもだれかに問われたならば、『できる』と答えなければならない。どうしてであるか?】(以下【B】繰り返し)
 『およそ苦しみが生ずるのは、すべて素因に縁って起るのである』というのが、一つの観察[法]である。『しかしながら素因が残りなく離れ消滅するならば、苦しみの生ずることがない』というのが第二の観察[法]である。【A】(>>109

728 世間には種々なる苦しみがあるが、それらは生存の素因にもとずいて生起する。実に愚者は知らないで生存の素因をつくり、くり返し苦しみを受ける。それ故に、知り明らめて、苦しみの生ずる原因を観察し、再生の素因をつくるな。

【B】『どんな苦しみが生ずるのでも、すべて無明に縁って起るのである』というのが、一つの観察[法]である。『しかしながら無明が残りなく離れ消滅するならば、苦しみの生ずることがない』というのが第二の観察[法]である。【A】

729 この状態から他の状態へと、くり返し生死輪廻に赴く人々は、その帰趣(行きつく先)は無明にのみ存する。

730 この無明とは大いなる迷いであり、それによって永いあいだこのように輪廻してきた。しかし明知に達した生けるものどもは、再び迷いの生存に戻ることがない。

【B】『およそ苦しみが生ずるのは、すべて潜在的形成力に縁って起るのである』というのが、一つの観察[法]である。『しかしながら潜在的形成力が残りなく離れ消滅するならば、苦しみの生ずることがない』というのが第二の観察[法]である。【A】

731 およそ苦しみが生ずるのは、すべて潜在的形成力を縁(原因)として起るのである。諸々の潜在的形成力が消滅するならば、もはや苦しみの生ずることもない。

732 「苦しみは潜在的形成力の縁から起るものである」と、この災いを知って、一切の潜在的形成力が消滅し、(欲など)相を止めたならば、苦しみは消滅する。このことを如実に知って、

733 正しく見、正しく知った諸々の賢者・ヴェーダの達人は、悪魔の繋縛にうち勝って、もはや迷いの生存に戻ることがない。

【B】『およそ苦しみが生ずるのは、すべて識別作用(識)に縁って起るのである』というのが、一つの観察[法]である。『しかしながら識別作用が残りなく離れ消滅するならば、苦しみの生ずることがない』というのが第二の観察[法]である。【A】

734 およそ苦しみが生ずるのは、すべて識別作用に縁って起るのである。識別作用が消滅するならば、もはや苦しみが生起するということはあり得ない。

735 「苦しみは識別作用に縁って起るのである」と、この禍いを知って、識別作用を静まらせたならば、修行者は、快をむさぼることなく、安らぎに帰しているのである。
(´・(ェ)・`)つ
0113名無しを整える。
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2017/11/25(土) 07:48:07.62ID:z75rdeGZ
>>112
728
生存の素因(生存の基礎)に基づいて苦があるということ。
第一の観察は生存の素因(生存の基礎)によって苦が生起すること観察すること。
第二の観察は生存の素因(生存の基礎)がない時、苦がないことを観察すること。この二種の観察を正しく、怠らず、つとめ励んで、専心すれば、慧解脱か心解脱が出来て、輪廻を終滅できるということ。

生存の素因(生存の基礎)とは何か具体的に考える。四聖諦の教えから言えば、渇愛。
渇愛とは、喉の渇いた人が水を求めるように、欲望の対象を求める気持ち。第一の観察はこの渇愛がある時、苦が生起すること。
第二の観察はこの渇愛がない時、苦がないことを観察する。このことを知って、生存の素因(渇愛)を作らないようにと述べられている。

729 この状態から他の状態へと、くり返し生死輪廻に赴く人々は、その帰趣(行きつく先)は無明にのみ存する。無明があるから輪廻を卒業出来ないで、本人は自覚してないが、そのために苦しんでいる。

730
如何なる苦もすべて無明を縁にして現れるのだということ。それを観察することが第一の観察。そして無明が残りなくない時は苦がないということを観察するのが第二の観察。
無明というのは大きな迷い。これによって輪廻を長いこと繰り返している。この無明を克服して、明智に達した人々は輪廻を繰り返すことはない、もう生存には戻ってこないと述べられている。

四無明、1.苦を知らないこと。2.苦の原因を知らないこと。3.苦の滅を知らないこと。4.苦の滅に至る道を知らないこと。
すべての煩悩のもとには無明がある。無明は煩悩の原因。無明がなければすべての煩悩はない。無明は煩悩の王様。無明をつぶせば、すべての煩悩をつぶすことになる。すべての煩悩がなくなれば苦しみはなくなる。

731 732 733
730 731のテーマは、無明、潜在的形成力(行)、732のテーマは識別作用(識)であるから間違いなく十二支因縁の順番。すべての苦は無明を縁として生じる。
無明から自動的に、無明を縁にして潜在的形成力(行)が生じる。
潜在的形成力(行)を縁にして苦も生じる。

732潜在的形成力によって(欲など)想(saサンニャー)が現れると述べている。想を止めると、欲がとまるので、苦が消滅する。
(相、lakaa、仏教用語。特徴,特質,様相,形相という意味。仏教では,体 (本体) ,用 (作用) ,相の3語が組みになって用いられるが,この場合の相は,見られるものの姿を意味する。)
「潜在的形成力」はパーリ語のsakhraの訳。「行、有為の法、事象、術語としては十二支の第二支、及び五蘊の中の行蘊、十二支の行は身、語、意の行をいう。」身心を突き動かす力(衝動、内的衝動、習慣力、慣性)。
五蘊で言えば五蘊を形成する力、十二支から見ると次の識(認識)を準備するもの。意思あるいは衝動と思ってもよい。

733偈の悪魔の繋縛(けばく)。悪魔は欲界(輪廻の世界)の支配者であるから、欲の支配下に置かれること、欲の奴隷になっていること。悪魔は欲の象徴と考えてもよい。

734 735
テーマは識別作用(識)。無明を縁として潜在的形成力(行)が生じ、潜在的形成力を縁として今回の識別作用(識)が生じる。これは十二支因縁の教え。
識別作用(識)を縁にして苦が生じる。

識別作用はviaの訳。この言葉は、識、意識、認識、区別して認識すること、識別すること、知ること、分かること等の訳語が使われる。

術語としては、1.十二支因縁の第三支、2.五蘊の一つ、3.六識(眼識、耳識、鼻識、舌識、身識、意識)の識。

何故この識別作用が苦になるのか。識別作用は生命の持つ本能(死にたくない、なんとしても生きたい、苦を避け、楽を求める等の本能)により、真実から離れてしまうという欠点があるからだと思われる。
真実から離れた認識は誤謬であり、その誤謬が苦を生み出す。その欠点を避けるために、識別作用を静め、「修行者は、快をむさぼることなく、安らぎに帰している」。

(´・(ェ)・`)つ
鬼和尚、732は、何気ない行為や衝動によって「欲」が生じることがあるとを言ってるだけでありましょうかね?
0114鬼和尚 ◆GBl7rog7bM
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2017/11/25(土) 20:49:57.27ID:Sk/HcKPh
↑そのようじゃ。
 それはおかしいのじゃ。
 十二因縁では無明から縁によって次々に起こるものであるからのう。
 行だけから欲が起こるのでは自ら語っていることすらわかっていないことになるのじゃ。
0115名無しを整える。
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2017/11/25(土) 21:42:58.00ID:z75rdeGZ
>>114
鬼和尚こんばんは。
お釈迦さんは、詳細に何でも分析して解説できる、超賢い人だったのでありますね!
(´・(ェ)・`)つ
0116名無しを整える。
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2017/11/26(日) 08:41:56.03ID:z+OwNNXc
ブッダのことば(スッタニパータ)
第3 大いなる章、12、二種の観察

【B】(>>112)『およそ苦しみが生ずるのは、すべて接触に縁って起るのである』というのが、一つの観察[法]である。『しかしながら接触が残りなく離れ消滅するならば、苦しみの生ずることがない』というのが第二の観察[法]である。【A】(>>109

736 接触にとらわれ、生存の流れにおしながされ、邪道を歩む人々は、束縛の消滅は遠いかなたにある。

737 しかし接触を熟知し理解して、平安を楽しむ人々は、実に接触がほろびるが故に、快を感ずることなく、安らぎに帰している。

【B】『およそ苦しみが生ずるのは、すべて感受に縁って起るものである』というのが、一つの観察[法]である。『しかしながら諸々の感受が残りなく離れ消滅するならば、苦しみの生ずることがない』というのが第二の観察[法]である。【A】

738 楽であろうと、苦であろうと、悲苦悲楽であろうとも、内的にも外的にも、およそ感受されたものはすべて、

739 「これは苦しみである」と知って、滅び去るものである虚妄の事物に触れるたびごとに、衰滅することを認め、このようにしてそれらの本性を識知する。諸々の感受が消滅するが故に、修行僧は快を感ずることなく、安らぎに帰している。

【B】『およそ苦しみが生ずるのは、妄執(愛執)に縁って起るのである』というのが、一つの観察[法]である。『しかしながら妄執が残りなく離れ消滅するならば、苦しみの生ずることがない』というのが第二の観察[法]である。【A】

740 妄執を友としている人は、この状態からかの状態へと永い間流転して、輪廻を超えることができない。

741 妄執は苦しみの起る原因である、とこの禍いを知って、妄執を離れて、執著することなく、よく気をつけて、修行僧は遍歴すべきである。

【B】『およそ苦しみが生ずるのは、すべて執著に縁って起るのである。』というのが、一つの観察[法]である。『しかしながら諸々の執著が残りなく離れ消滅するならば、苦しみの生ずることがない』というのが第二の観察[法]である。【A】

742 執著に縁って生存が起る。生存せる者は苦しみを受ける。生れた者は死ぬ。これが苦しみの起る原因である。

743 それ故に諸々の賢者は、執著が消滅するが故に、正しく知って、生まれの消滅したことを熟知して、再び迷いの生存にもどることがない。

(´・(ェ)・`)つ
0117名無しを整える。
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2017/11/26(日) 09:17:22.45ID:z+OwNNXc
>>116
736 737
十二因縁の順番で言うと次は名色(心の働きと身体としての物質が生まれること)、その次は六処(眼耳鼻舌身意などの感覚器官)、次に接触(触)が続く。
この経では名色と六処は言わないで接触が述べられている理由について、注釈書では、名色及び六処は色(物質)が混ざったもので、既に述べた728偈の生存の素因(生存の基礎)に関連するものだからという。
注釈書は生存の要因(生存の基礎)を業ととしていた。つまり、名色及び六処は業によるものだから説明済というわけである。
接触は感覚器官(感官)と感覚の対象と識別作用との和合から成り立つ。三者のどの一つでも欠けたら接触は成り立たない。
感覚器官と感覚の対象の接触があるのはないかと考えるかもしれないが、そのとき識別作用がなければそのような接触があったかどうか分からない。
このことが理解できると、既に述べたように、識別作用がなくなれば接触から次の流れが止まり、苦に至ることがなくなることが分かる。また、潜在的形成力作用がなくなれば、識別作用がなくなるわけだから、苦がなくなることが分かる。
736接触にとらわれると、「生存の流れにおし流され」(輪廻を続ける)、「束縛の消滅は遠いかなたにある」(悪魔の繋縛から抜け出せない)ということ。
737では、接触を熟知し理解した人は、静寂を楽しむようになり、そうすると接触がほろびて、苦(不快)や楽(快)を感じることなく、涅槃を至っていると述べている。
738、739
接触があると、感覚が生じる。感覚には好ましく感じるものがあり、それは仏教用語では楽と言い、また嫌だと感じるものがあり、それは苦と言う。好ましくも嫌だとも感じない、どちらでもない感覚があり、それを不苦不楽(非苦非楽)と言う。
このように感覚を大きく分けてればこの三種類があるが、これらの感覚を縁にして苦が生じるのだと述べている。
それは何故か?
感覚の好き嫌いは業(生まれながら持っている性質)によって決まっている。これは生命の種類によって決まっている。同じ種類でも個体による好き嫌いの違いも業によるもの。これらの好き嫌いの理由は説明できない。業だから。
しかし、好ましく感じる感覚も好ましくなく感じる感覚もどちらも、変化して確定はしていない。だから、これは好ましいと決めつけられない。
例えば好きな食べ物も、たくさん食べ過ぎると食べたくなくなり、ある場合には嫌いになる。好きとも嫌いとも断言できない。そのことを「滅び去るものである虚妄の事物」と言っている。
「触れるたびごとに、衰滅することを認め」とはどんな感覚も消えて行くということ。永遠に続く感覚はない。
楽の感覚もいずれなくなるから、それに対して不満が起きて苦を感じる。苦は始めから苦。不苦不楽も退屈して不満や不快に変わり苦になる。つまりどのような感覚も苦の縁になる。
そのことをよく知って、感覚にとらわれず、感覚から離れる修行者は安らぎの寂静(涅槃)にいる。
(´・(ェ)・`)つ
つづく
0118名無しを整える。
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2017/11/26(日) 09:17:52.63ID:z+OwNNXc
738「内も、外も、それが何であれ、」の内とは「自分に」であり、外には「他人に」の意味。
四念処経(中部経典第10)等に書かれている内と外の意味も内は自分であり、外は他人である。他人の感覚も注意深く観察すれば分かる。他人を配慮するとは他人の感覚も理解すること。
740 741
今回のテーマは渇愛。パーリ語は‘Tah(タンハー)、渇愛は仏教用語。中村訳は妄執(愛執)
728偈の渇愛は四聖諦の二番目集諦(苦の原因)の渇愛。今回は十二因縁の八番目の渇愛。それは1無明、2潜在的形成作用(行)、3識別作用(識)、4名称と形態(名色)、5感覚器官(六処)、6接触(触)、7感覚(受)、8渇愛、・・・・・と続く。
ここで渇愛を考えるときは、このつながりの中で考えた方がよい。感覚(受)では、その感覚から離れないでいると、すぐに今回の渇愛が現れる。そしてこの渇愛を縁として苦が生まれる。
また次のテーマの執着はこの渇愛があるとすぐ執着が現れる。渇愛の前後、また渇愛自身が苦の原因になる。
十二因縁の流れは非常に危険。どこかでこの流れを止めなければならない。
特に、感覚を縁にして渇愛が現れてところに注意を向ける。いろいろな感覚が現れてもそのままにして、渇愛が現れないようにする。瞑想で気づき(サティ)を入れてこの流れを止める。
742 743
十二因縁の教えによれば、渇愛の次は執着(取)。執着の次は生存(有)。生存(有)があると、生がある。生まれたものは必ず老と死がある。老と死は苦しみ。
執着が業になる。これは何としても生きていきたという思い。この思いは肉体が死んでも残っていて、次の生の因縁になる。そして再生する。
しかし、生まれれば必ず死ぬ。愚か者は「生まれた者は楽がある」と考えるが、「生まれた者は死があり、それは苦を受ける」と742偈で示している。

(´・(ェ)・`)つ
うー「十二因縁」には、じっくり取り組まねばなりますまい。
0119鬼和尚 ◆GBl7rog7bM
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2017/11/26(日) 21:22:20.40ID:MDrfgHIu
十二因縁も観察の一例に過ぎないのじゃ。
二つの観察も一例を示しただけなのじゃ。
それらに囚われず自らの本心を観察するのじゃ。
0120名無しを整える。
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2017/11/26(日) 21:29:55.09ID:z+OwNNXc
>>119
鬼和尚、ありがとうであります。
囚われずに精進するであります。
(´・(ェ)・`)つ
0121名無しを整える。
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2017/11/27(月) 18:31:02.51ID:Cs6Ub+eO
ブッダのことば(スッタニパータ)
第3 大いなる章、12、二種の観察

【B】(>>112)『およそ苦しみが生ずるのは、すべて起動に縁って起るのである。』というのが、一つの観察[法]である。『しかしながら諸々の起動が残りなく離れ消滅するならば、苦しみの生ずることがない』というのが第二の観察[法]である。【A】(>>109

744 およそ苦しみが起るのは、すべて起動を縁として起る。諸々の起動が消滅するならば、苦しみの生ずることもない。

745 「苦しみは起動の縁から起る」と、この禍いを知って、一切の起動を捨て去って、起動のないことにおいて解脱し、

746 生存に対する妄執を断ち、心の静まった修行僧は、生をくり返す輪廻を超える。かれはもはや生存を受けることがない。

【B】『およそ苦しみが生ずるのは、すべて食料に縁って起るのである。』というのが、一つの観察[法]である。『しかしながら諸々の食料が残りなく離れ消滅するならば、苦しみの生ずることがない』というのが第二の観察[法]である。【A】

747 およそ苦しみが起るのは、すべて食料を縁として起る。諸々の食料が消滅するならば、もはや苦しみの生ずることもない。

748 「苦しみは食料の縁から起る」と、この禍いを知って、一切の食料を熟知して、一切の食料にたよらない、

749 諸々の煩悩の汚れの消滅の故に無病の起ることを正しく知って、省察して(食料を)受用し、理法に住するヴェーダの達人は、もはや(迷いの生存者のうちに)数えられることがない。

【B】『およそ苦しみが生ずるのは、すべて動揺に縁って起るのである。』というのが、一つの観察[法]である。『しかしながら諸々の動揺が残りなく離れ消滅するならば、苦しみの生ずることがない』というのが第二の観察[法]である。【A】

750 およそ苦しみが起るのは、すべて動揺を縁として起る。諸々の動揺が消滅するならば、もはや苦しみの生ずることもない。

751 「苦しみは動揺の縁から起る」と、この禍いを知って、それ故に修行僧は(妄執の)動揺を捨て去って、諸々の潜在的形成力を制止して、無動揺・無執著で、よく気をつけて、遍歴すべきである。

(´・(ェ)・`)つ
0122名無しを整える。
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2017/11/27(月) 18:31:58.72ID:Cs6Ub+eO
>>121
744 745 746
今回のテーマはパーリ語ではrambha。
中村訳:起動
正田訳:〔利己的な〕勉励
勉励には通常よい意味で使われているので、正田先生は「利己的な」という説明を付けている。
パーリ語辞書:。水野辞書には「努力、発動、あくせく、辛苦」
雲井辞書には「意図、努力、目的」
意味のニュアンス、頑張ること

今回のテーマ、頑張ることは、通常はよいことのように考えられていて、「頑張ります。」と自分の決意を語る場合や、「頑張れ、頑張れ」などと人を励ます時にも使う。
しかし、今回は「およそ苦しみが起るのは、すべて起動(頑張ること)を縁として起る。」と述べられている。

何故か?頑張ることは自我の働き。自我が頑張ろうと思い、人を頑張らさせようと思っている。
自我は真理に即した考え方をするのではなく、自分の都合のよい考え方をする。自己中心的な考え方をする。もっと言えば自分の欲望にそった考え方や行動をする。
世の中のことは自分の都合に合うようには動かない。自我の都合ではなく、全体の都合に合わせて、全体が調和のとれたように、動く。
そうすると、自我は物事が自分の望む通りに行かなくて、悩み苦しむことになる。このことを指して、「苦しみは起動(頑張ること)を縁として起こる」と述べている。

そうではなく、起動(頑張ること)を止めると、すなわち自我をなくすと言うことが、真理に即した考え方、行動ができるということ。
そうするとその人の考え方、行動がすべて上手く行き、自分も他の人達も満足できるという訳。

745偈では、一切の起動(頑張ること)を捨て去った人は、自我を捨て去った人。
そのような人は解脱していると述べている。
746偈ではそのような人は、生存に対する渇愛を捨てて、心が静まって、もう輪廻を繰り返すことがないと言っている。

747 748 749
今回は11番目のテーマ、それは食料。仏教用語では食(アーハーラ)。

仏教では物質的な食料(段食)、以外にも、触食、意思食、識食という四つ食を考えている。生命が生きていくために必要なエネルギー源を食料(食)と言う。

実は人間は、段食と言われる物質的な食料をだけ食べて生きているわけではない。段食は身体を維持する食べ物だが、人間の心を維持する食べ物として、上に述べた触食、意思食、識食をエネルギー源として摂取している。

触食は触によるエネルギー源。これから感覚が生まれ、渇愛が生まれ、生きていて、輪廻を繰り返す。
意思食は、何かしたいというエネルギー。これもなくては心は死んでしまう。
識食は知ることによるエネルギー源。人間の心はこれらをエネルギー源にしている。
例えば、何かを食べる時、物質的な食べ物だけを食べているわけではない。眼で食べ物を見たり、鼻で香を感じたりする。これは触食している。
また、食べたいと思う。その時、意思食をしている。また食べてみると、これは旬の野菜だとか、これは食べたことがないとかいろいろ事を知る。これは識食。これらを総合的に食べている。
段食からも苦を生じます。これがなければ飢餓になる。多すぎれば病気になる。
触食は触によるエネレルギーだから、二種の観察経の六番目のテーマの触の項で、すべての苦は触を縁にして生まれると知った。
意思食は行(潜在的形成力)をエネルギー源とする食料、これは四番目のテーマ、すべての苦は潜在的形成力から生まれることを学んだ。
また識食は五番目のテーマの識(識別作用)。これを縁にしてすべての苦が生まれることも学んだ。
このように、食料は物質的ものだけでなく、精神的な食料も、縁にして苦が生まれる。
これらの一切の食料にたよらない、依存しなければ、苦が生まれることがない。無限に食料を欲しがる衝動が消えると(解脱すると)、輪廻も消える。
食べることを止める必要はないが、食べ物をあれこれ選り好みしたり、こだわったりすることを止めることは必要。
749偈の無病とは、病気でないことだが、ここでは涅槃を意味している。
750 751
心に感情が現れた時には、心は動揺していることが分かる。動揺を縁として苦が発生するということは、感情を縁として苦が発生すると考えてもよい。
感情は潜在形成作用に含まれる。
心が動揺を縁として苦が発生するので、苦を免れるためにはなるべく心を動揺させずに静かにさせるのがよい。完全に心の動揺をなくした状態は涅槃だと言われている。

(´・(ェ)・`)つ
0123鬼和尚 ◆GBl7rog7bM
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2017/11/27(月) 21:24:29.75ID:q08iJeLH
なにやらおかしいのう。
動揺させなくてよいのじゃ。
ただ単にそれを観察するようにと教えているのじゃ。
観察によって苦から厭離できるのじゃ。
 
0124名無しを整える。
垢版 |
2017/11/27(月) 21:29:24.01ID:L4kN8T0z
密教の理趣経について
ご高説を伺いたいです
0125名無しを整える。
垢版 |
2017/11/27(月) 22:04:28.26ID:Cs6Ub+eO
>>123
鬼和尚、こんばんは。

引用している解説では、
>苦を免れるためにはなるべく心を動揺させずに静かにさせるのがよい

としておりますが、

そのようにコントロールしようとするのではなく、
動揺してるのであれば、動揺していると、ありのまままに観察さえすれば、
>観察によって苦から厭離できる
と言うことでありますね。

(´・(ェ)・`)つ
0126名無しを整える。
垢版 |
2017/11/28(火) 10:37:26.44ID:l2bB9eqC
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0127名無しを整える。
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2017/11/28(火) 18:41:39.51ID:3u1CH6/j
ブッダのことば(スッタニパータ)
第3 大いなる章、12、二種の観察

【B】(>>112)『従属するものは、たじろぐ。』というのが、一つの観察[法]である。『従属しない者は、たじろかない』というのが第二の観察[法]である。【A】(>>109

752 従属することのない人はたじろがない。しかし従属することのある人は、この状態からあの状態へと執著していて、輪廻を超えることがない。

753 「諸々の従属の中に大きな危険がある」と、この禍いを知って、修行僧は、従属することなく、執著することなく、よく気をつけて、遍歴すべきである。

【B】『物理的領域よりも非物質的領域のほうが、よりいっそう静まっている』というのが、一つの観察[法]である。『非物質的領域よりも消滅のほうが、よりいっそう静まっている』というのが第二の観察[法]である。【A】

754 物質的領域に生まれる諸々の生存者と非物質的領域に住む諸々の生存者とは、消滅を知らないので、再びこの世の生存に戻ってくる。

755 しかし物質的領域を熟知し、非物質的領域に安住し、消滅において解脱する人々は、死を捨て去ったのである。

【B】『神々と悪魔とともなる世界、道の人(沙門)・バラモン・神々・人間を含む諸々の生存者<これは真理である>と考えたものを、諸々の聖者は<これは虚妄である>と如実に正しい智慧をもってよく観ずる』というのが、一つの観察[法]である。
『神々と悪魔とともなる世界、道の人・バラモン・神々・人間を含む諸々の生存者<これは虚妄である>と考えたものを、諸々の聖者は<これは真理である>と如実に正しい智慧をもってよく観ずる』──これが第二の観察[法]である。【A】

756 見よ、神々並びに世人は、非我なるものを我と思いなし、<名称と形態>(個体)に執著している。「これこそ真実である」と考えている。

757 或ものを、ああだろう、こうだろう、と考えても、そのものは異なったものとなる。何となれば、その(愚者の)その(考え)は虚妄なのである。過ぎ去るものは虚妄なるものであるから。

758 安らぎは虚妄ならざるものである。諸々の聖者はそれを真理であると知る。かれらは実に真理をさとるが故に、快をむさぼることなく平安に帰しているのである。

(´・(ェ)・`)つ
0128名無しを整える。
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2017/11/28(火) 18:52:29.03ID:3u1CH6/j
>>127
752 753
テーマは従属(依存)。パーリ語のnissito
問題の言葉は、calati。「たじろぐ」「動揺する」等と訳される。
よく考えれば「たじろぐ」とは心の動揺を示していると思われる。
「従属(依存)する者には心の動揺がある」と考えてよい。
従属(依存)する者の心は自立してない。何かを頼りにしていて、頼りがなければ、不安定な。不安定なものは、揺れ動いている、動揺している。
心の動揺は、心の従属(依存)を原因としている。心の動揺がないとは心が従属(依存)してない、心が独立している、自立していると言うこと。
750 751で、心の動揺を縁にして苦が発生することを学んだ。従属(依存)する者には苦が発生する。
752では従属(依存)するものには、執着があることが述べられている。従属(依存)する者は、頼りにするものがなければ存在出来ないと思っているから、頼りにするものに執着する。
753では従属(依存)のなかに大きな危険(恐怖)があると述べている。従属(依存)から苦が発生すると言うことと、従属(依存)するものは常に不安を持っていて、それが大きな恐怖。
心の動揺をなくし、苦の発生をなくし、執着をなくし、大きな恐怖をなくすためには、従属(依存)をなくし、心の独立(自立)を目指さなければなない。従属(依存)を克服した人は輪廻を繰り返すことはない
754 755
テーマは物質的領域(色界)と悲物質的領域(無色界)。今回の偈の前の散文に説明されている二種の観察はいつもと少し違う。
第一の観察は、『物質的領域よりも非物質的領域のほうが、よりいっそう静まっている』、そして第二の観察は、『非物質的領域よりも消滅のほうが、よりいっそう静まっている』です。今回はより静まっているかどうかを観察する。
今回の観察は禅定を体験してないと実際はすぐ出来ない。色界の禅定あるいは無色界の禅定、さらには消滅(涅槃)を知らないから。
「物質的領域(色界)に生まれる諸々の生存者」とは、下位の梵天。「非物質的領域(無色界)に住む諸々の生存者」とは上位の梵天。これらの梵天も涅槃を知らないため、輪廻する。
これらの梵天の世界の静けさを人間であっても経験できる。禅定に入ればできる。第一禅定から第四禅定までを色界禅定と言って、下位の梵天と同じ静けさを体験できる。
さらに、その先の空無辺処禅定、識無辺処禅定、無所有処禅定、非想非非想処禅定の四つが無色界の禅定。これらの禅定の体験者は上位の梵天と同じような静けさを体験している。
「物質的領域(色界)よりも非物質的領域(無色界)のほうが、よりいっそう静まっている」と分かる。
しかし、「非物質的領域(無色界)よりも消滅(涅槃)のほうが、よりいっそう静まっている」については、解脱して、涅槃を体験しなければ分からない。
ただ、このテーマによる二種の観察はすぐに出来ないかもしれませんが、「静けさ」という観点は日常の瞑想修行において、自分の心がどれほど静まったかどうか感じて見ることは、非常に大切なこと。
自分の心が静まったのならば、一応瞑想はうまく行ったと考えて良い。
756 757 758
今回の散文で述べられているテーマは、真理と虚妄(虚偽)。二種の観察とは、覚ってない凡夫が「真理である」と考えたものを、覚った聖者は「虚妄(虚偽)である」と観る、これを観察することが第一の観察であり、
覚ってない凡夫が「虚妄(虚偽)である」と考えたものを、覚った聖者は「真理である」と観る、これを第二の観察であるということ。
756偈では、そのことを我(自己)と非我(自己ではないも)という例で述べられてる。つまり凡夫は非我であるものを我だと思い、それが真理だと考えると述べている。
757偈では凡夫があれやこれや考えても、考えた結果は事実と異なったものになるという。なぜならば凡夫(愚者)の考えは虚妄だからだと述べている。
しかし、758偈では涅槃は虚妄のものではない、聖者たちはそれを真理であると知って、静かなる涅槃に帰すのであると述べている
(´・(ェ)・`)つ
0129鬼和尚 ◆GBl7rog7bM
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2017/11/28(火) 22:08:28.55ID:WGkq3u+f
>>124 密教の経典全てについても言えることであるが、理趣経も基本的には諸仏菩薩などを観想して集中するための教えなのじゃ。
 そのために諸仏菩薩等の印とか真言が記されているのじゃ。
 その中で欲心をも極めれば菩薩の位と教えているのじゃ。
 欲心も清浄なものに昇華したならば菩薩なのじゃ。
 欲心も昇華すれば強い集中の力となるからのう。
 そのままではないのじゃ。

>>125 そうじゃ、経でははじめから観察の法として教えているのじゃ。
 観察を知らない者が勝手に解釈してはいかんのじゃ。
 それが学者の限界でもあるがのう。
 実践しないから止観もわからないのじゃ。 
0130名無しを整える。
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2017/11/29(水) 08:11:36.90ID:cExRYed4
ブッダのことば(スッタニパータ)
第3 大いなる章、12、二種の観察

【B】『神々と悪魔とともなる世界、道の人(沙門)・バラモン・神々・人間を含む諸々の生存者<これは安楽である>と考えたものを、諸々の聖者は<これは苦しみである>と如実に正しい智慧をもってよく観ずる』というのが、一つの観察[法]である。
『神々と悪魔とともなる世界、道の人・バラモン・神々・人間を含む諸々の生存者<これは苦しみである>と考えたものを、諸々の聖者は<これは安楽である>と如実に正しい智慧をもってよく観ずる』──これが第二の観察[法]である。【A】

759 有ると言われる限りの、色かたち、音声、味わい、香り、触れられるもの、考えられるものであって、好ましく愛すべく意に適うもの、──

760 それらは実に、神々並びに世人には「安楽」であると一般に認められている。また、それらが滅びる場合には、かれらはそれを「苦しみ」であると等しく認めている。

761 自己の身体(=個体)を断滅することが「安楽」である、と諸々の聖者は見る。(正しく)見る人々のこの(考え)は、一切の世間の人々と正反対である。

762 他の人々が「安楽」であると称するものを、諸々の聖者は「苦しみ」であると言う。他の人々が「苦しみ」であると称するものを、諸々の聖者は「安楽」であると知る。解し難き真理を見よ。無知なる人々はここに迷っている。

763 覆われた人々には闇がある。(正しく)見ない人々には暗黒がある。善良な人々には開顕される。あたかも見る人々に光明のあるようなものである。理法がなにであるかを知らない獣(のような愚人)は、(安らぎの)近くにあっても、それを知らない。

764 生存の貪欲にとらわれて、生存の流れにおし流され、悪魔の領土に入っている人々には、この真理は実に覚りがたい。

765 諸々の聖者以外には、そもそも誰がこの境地を覚り得るのであろうか。この境地を正しく知ったならば、煩悩の汚れのない者となって、まどかな平安に入るであろう。

 師(ブッダ)はこのように説かれた。修行僧たちは悦んで師の諸説を歓喜して迎えた。実にこの説明が述べられたときに、六十人の修行僧は執著がなくなって、心が汚れから解脱した。

[二種の観察]まとめの句

 真理(諦)と、生存の素因と、無名と、諸々の形成力と、第五に識別作用と、接触と、感受されるものと、妄執と、執著と、起動と、諸々の食と、動揺における震動と、物質的領域と、真理と苦とで、十六である。

<大いなる章>第三おわる

まとめの句

 出家と、つとめはげむことと、みごとに説かれたことと、スンダリカと、マーガと、サビヤと、セーラと、矢と、ヴァーセッタと、コーカーリヤと、ナーラカと、二種の観察と──

 これらの十二の経が「大いなる章」と言われる。

(´・(ェ)・`)つ
0131名無しを整える。
垢版 |
2017/11/29(水) 11:38:26.41ID:cExRYed4
>>130
759.760.
凡夫が楽と感じる対象を六つに分ける。
眼耳鼻身体心で楽を感じる対象は色や形、音、香、味、接触、想い。自分が好きな、好ましいと感じる色や形、音、香、味、接触、想いがあると凡夫はそれを楽と感じる。
そして、それらの凡夫の楽しみをもたらす六つの対象がなくなると、凡夫は苦だと思う。自分が好きな、好ましいと感じるものがなくなると、悩み苦しむということ。
761.762.763.
凡夫と聖者の見方の違いが述べられている。具体的に身体が弱って、壊れて行く、老化し、病気になっていく過程を聖者は楽だと観るが、凡夫は悩み苦しみと感じる。
「この理解しがたい真理を見よ」と述べている。
人々には本来光明のような光を放っている。覆われた人は光を放たず、周りが見えない。このような光明を覆い隠しているものは、五蓋(貪欲、怒り、落ち込み・眠気、浮つき、疑惑)などの煩悩。
一方善良な人々は開かれていて、彼らの周りは明るく照らされていて、周りがよく見える。
覆われている人々の周りは暗いので、周りが見えない。たとえ近くに涅槃があっても見えない。
764.765
「凡夫が楽と言うものを聖者が苦と見、凡夫が苦と言うものを聖者は楽と見る」という真理ともとれるし、「二種の観察経」全体で述べられた真理、すなわち二種の観察によって、心の解脱あるいは智慧の解脱できるという真理と指すこともできる。
この真理は生存に執着し、欲望のままに生きていいる人々、悪魔の領域にいる人々には理解できない。
悪魔の領域とは輪廻の世界の意味。
この真理を覚れるもの、覚れる境地にいるものがは聖者であり、この境地を正しく知って、欲や怒りや無智などの煩悩を克服した方。聖者だけがこの真理を覚り、まどかな平安(涅槃)に入る。
しかし、聖者が出来たことを凡夫が出来ないはずはない。凡夫は聖者のような境地に立てばよい。

「二種の観察経」16テーマを復習。
1.四聖諦(苦集滅道)
2.生存の素因(生存の基礎)・・・ここでは渇愛としました。
3.無明
4.潜在的形成力(行)
5.識別作用(識)
6.接触(触)
7.感受(受)
8.妄執(渇愛)
9.執着
10.起動(勉励)・・・頑張ること
11.食料(食)
12.動揺
13.従属(依存)
14.物質的領域と非物質的領域(色界と無色界)
15.真理と虚妄(虚偽)
16.楽と苦

(´・(ェ)・`)つ
0132鬼和尚 ◆GBl7rog7bM
垢版 |
2017/11/29(水) 20:58:21.20ID:Oz6qv5Nt
そうじゃ、何でも観察しまくるのじゃ。
実践あるのみなのじゃ。
0133名無しを整える。
垢版 |
2017/11/29(水) 21:56:02.51ID:cExRYed4
>>132
で、ありますね。
抑制せず、評価せず、ただひたすらありのままに観察でありますね。
できるだけいつも意識的にあるように心かけてるくまであります。
鬼和尚、いつもありがとうであります。
(´・(ェ)・`)つ
0134名無しを整える。
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2017/11/30(木) 19:01:28.83ID:kLyTNg8z
ブッダのことば(スッタニパータ)
第4 八つの詩句の章、1,欲望

766 欲望をかなえたいと望んでいる人が、もしもうまくゆくならば、かれは実に人間の欲するものを得て、心に喜ぶ。

767 欲望をかなえたいと望み貪欲の生じた人が、もしも欲望をはたすことができなくなるならば、かれは、矢に射られたかのように悩み苦しむ。

768 足で蛇の頭を踏まないようにするのと同様に、よく気をつけて諸々の欲望を回避する人は、この世で執著をのり超える。

769 ひとが、田畑・宅地・黄金・牛馬・奴婢・傭人・婦女・親類、その他いろいろの欲望を貪り求めると、

770 無力のように見えるもの(諸々の煩悩)がかれにうち勝ち、危い災難がかれをふみにじる。それ故に苦しみがかれにつき従う。あたかも壊れた舟に水が侵入するように

771 それ故に、人は常によく気をつけていて、諸々の欲望を回避せよ。船のたまり水を汲み出すように、それらの欲望を捨て去って、激しい流れを渡り、彼岸に到達せよ。



ブッダのことば(スッタニパータ)
第4 八つの詩句の章、2、洞窟についての八つの詩句

772 窟(自体)のうちにとどまり、執著し、多くの(煩悩)に覆われ、迷妄のうちに沈没している人、──このような人は、実に<遠ざかり離れること>(厭離)から遠く隔たっている。
実に世の中にありながら欲望を捨て去ることは、容易ではないからである

(´・(ェ)・`)つ
0135名無しを整える。
垢版 |
2017/11/30(木) 19:07:27.36ID:kLyTNg8z
>>134
766
スッタニパータの中でも第四章と第五章は特に古い経でブッダの言葉そのものに非常に近い、しかも仏教の根本的な教えが述べられている。
私たちの生活は、欲望によって成り立っている。
朝起きる時は、起きようとする無自覚的な欲望からはじまり、自覚的な欲望が現れる。
欲望は苦しみの原因になる。
767
欲望をかなえたい望んでいる人が、欲望をはたすことが出来なくなった場合は欲望を持つ人は、矢に射られたように苦しむ。
欲望をかなえたいと望んでも、貪欲の生じない人には悩み苦しみは生じない。
欲望と貪欲の違い。人間は生きるために必要なものに対して欲望が現れる。しかし、生きるために必要なものは、その時欲しいと望んだものでなくてもよい。
「貪欲の生じた人」と訳されたパーリ語chandajtassaのchandaは通常は意欲と訳され、善悪を評価しない言葉として使われる。しかし、場合によっては貪欲と同義に使われると辞書に書かれている。
仏教では、欲望が生まれるとすぐに欲望に対する執着が生じ、貪欲に変わるから、欲望を抑制するように言うが、欲望の現れるのはある程度やむを得ない。
しかし、それに対する執着をなくし、貪欲にならないように注意する必要がある。
768
欲望そのものが悪いわけではない、欲望に執着することが問題。執着することで苦しみが生じるから。
しかし、執着を乗り越えることは難しいので、その前に欲望に注意する。欲望をコントロールすれば、執着を乗り越えられる。
欲望を蛇の頭で喩えている。欲望を足で踏むと蛇は大きな口(執着)を開けて噛みつく(苦しみ)。蛇に噛みつかれないようにするためには、蛇の頭(欲望)を踏まないようにすればよい。
欲望につき注意すべきすべきこと。一つは欲望には限界がないということ。
ダンマパダ186「たとえ貨幣の雨をふらすとも、欲望は満足されることはない。」
もう一つの重要な問題点。欲望は自己中心的なもの。欲望にとらわれている人は他人の欲望には眼が向かない。自分の欲望を満たすためには、他人の欲望はどうでもよい。顕著な例は泥棒。
その行為が相手をどのように悲しませているかに気づかない。欲望に執着する人は他人に慈悲の心を持つことが出来ない。
このような人は周りの人々から嫌われ、快適な生活はできなくなり、悩み苦しむということになる。
欲望を回避するためには、「よく気をつけて」(〔常に〕気づきある者として)が必要。パーリ語ではsato 、念(気づき、サティ)が必要であるということ。
つまり自分の心に欲望が現れたことに気づくこと。欲望が小さいうち気づけばコントロールしやすい。
(´・(ェ)・`)つ
0136名無しを整える。
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2017/11/30(木) 19:07:55.56ID:kLyTNg8z
>>134
769、770
欲望の対象を具体的に列挙。
そのような欲望の対象を貪ると、「無力のように見えるもの(諸々の煩悩)がかれにうち勝ち」とは・・・?
無力とは力。仏教で力と言えば五力。無力とは五力がないこと。五力とは「信、精進、念、定、慧」だから、無力は「無信、怠惰、放逸、掉挙(興奮)、愚かさ」になる。
つまり欲望の対象を貪ると「無信、怠惰、放逸、掉挙、愚かさ」が彼に打ち勝つということ。
実際に、貪欲になると、自分が「無信、怠惰、放逸、掉挙、愚かさ」に支配される。確かに無力(無力は「無信、怠惰、放逸、掉挙(興奮)、愚かさ」)になれば、彼はいろいろな災難に遭遇する。
この状態を壊れた舟に水が浸入するようだと表現。
つまり周りから侵入する水は無力。すなわち「無信、怠惰、放逸、掉挙(興奮)、愚かさ」。舟は沈没する。欲望の対象を貪ることがないようにしなければなない。
771
欲望の対象はいろいろあるが、その何かに執着すると他のものが見えなくなる。そうすると愚かさを始めとする諸々の煩悩が現れてくる。それを壊れた船に浸水という譬えで表現された。
この譬えは船(凡夫)に浸水した水(欲望)を汲み出すようにと表現していふ。そして激しい流れ(煩悩)を渡って彼岸(涅槃)到達せよと述べている。
その方法は「常によく気をつけていて」であるが、「常に念(サティ)を絶やさずに」ということ。これはヴィパッサナー瞑想の実践。
このように説明するとなんでもないことのように見えるが、これは仏教のすべてを説明している。
欲望から苦しみがはじまるから、その欲望を捨てるように、欲望を捨てるということは、世間は欲望の世界ですから、世間を捨てること。そして出世間(涅槃)をめざすように述べている。
しかし、それは特別な世界の行く訳ではなく、ただ心を変えるだけのこと。
772
ブッダが解脱を目指して修行している人がなぜ解脱し難いかについて述べたもの。この困難をいかに克服すべきかが述べている。
窟(いわや)或は洞窟とは身体を意味している。身体とは煩悩という猛獣が住み着いている場所ということ。
洞窟に留まりとは身体に執着してということ。人々は身体を心配し、身体の楽しみを求めている。
寒さ暑さを嫌い、快適な涼しさや温かさを求め、美しいものを求め、耳を楽しませる音楽を求め、更に美味しい食べ物を求める。そして、それらにありつければ人生は素晴らしいと思う。
しかし、それらにはすべて苦が付きまとい、そしてそれらは苦しみをもたらすものあることを知ろうとはしない。
それらの人々は、「<遠ざかり離れること>(厭離:おんり)から遠く隔たっている。」と述べられているが、この<遠ざかり離れること>とは、端的に言えば、解脱すること、覚ること。
つまり、これらの人々は解脱出来ないと述べている。
なぜならば、これらの人々は現状に安住しているから。解脱することは現状からの解脱。現状に問題があるから解脱する。
そもそも現状に安住している人は、不思議なことに現状に不満をもちながら現状に満足している。これを「迷妄のうちに沈没している」と言う。
「実に世の中にありながら欲望を捨て去ることは、容易ではないからである。」と述べられている。これが解脱することが困難である理由。
(´・(ェ)・`)つ
0138名無しを整える。
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2017/12/01(金) 18:37:29.00ID:VlzX0QzK
ブッダのことば(スッタニパータ)
第4 八つの詩句の章、2、洞窟についての八つの詩句

773 欲求にもとづいて生存の快楽にとらわれている人々は、解脱しがたい。他人が解脱させてくれるのではないからである。かれらは未来をも過去をも顧慮しながら、これらの(目の前の)欲望または過去の欲望を貪る。

774 かれらは欲望を貪り、熱中し、溺れて、吝嗇で、不正になずんでいるが、(死時には)苦しみにおそわれて悲嘆する、──「ここで死んでから、われわれはどうなるのだろうか」と。

775 だから人はここにおいて学ぶべきである。世間で「不正」であると知られているどんなことであろうとも、そのために不正を行なってはならない。「ひとの命は短いものだ」と賢者たちは説いているのだ。

776 この世の人々が、諸々の生存に対する妄執にとらわれ、ふるえたいるのを、わたしは見る。下劣な人々は、種々の生存に対する妄執を離れないで、死に直面して泣く。

777 (何ものかを)わがものであると執著して動揺している人々を見よ。(かれらのありさまは)ひからびた流れの水の少ないところにいる魚のようなものである。
これを見て、「わがもの」という思いを離れて行うべきである。──諸々の生存に対して執著することなしに。

778 賢者は、両極端に対する欲望を制し、(感官と対象との)接触を知りつくして、貪ることなく、自責の念にかられるような悪い行いをしないで、見聞することがらに汚されない。

779 想いを知りつくして、激流を渡れ。聖者は、所有したいという執著に汚されることなく、(煩悩の)矢を抜き去って、勤め励んで行い、この世もかの世も望まない。

(´・(ェ)・`)つ
0139名無しを整える。
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2017/12/01(金) 18:53:59.18ID:VlzX0QzK
>>138
773
「欲求にもとづいて生存の快楽にとらわれている人々は、解脱しがたい。」と述べられている。その理由として、「他人が解脱させてくれるのではないからである。」
その他人がブッダであろうともあなたを解脱させてはくれない。ダンマパダ276「汝はみずからつとめよ。もろもろの如来(ブッダ)はただ教えを説くだけである。」
解脱とは自分自身の心の問題だから。自分自身で自分を拘束している束縛に気づき、それから自分自身で解放させること。
しかし、欲求にもとづいて生存の快楽にとらわれている人の関心は欲求の対象に向いているので、自分の状態に気づくことが出来ず、解脱に関心はない。
だから解脱したいと言ったり、思ったとしても、それは内容のともなわない単なる空念仏になる。
そのような人々の関心について、「かれらは未来をも過去をも顧慮しながら、これらの(目の前の)欲望または過去の欲望を貪る。」と説明している。
774
欲望を貪る人々は、自分の欲望にとらわれているから、他人のことに関心が向かない。
他人のことを心配出来ない。これらの人々は吝嗇(りんしょく)、すなわち物惜しみの心が強く、自分の持っているものが余っていても、人にはあげまないし、人に使われるのも嫌がる。他人を配慮出来ないので、他人の嫌がることでもしてしまう。
そのため罪を犯すことにもなる。それを「不正になずんでいる」と書かれている。
罪を犯す人、不正になずんでいる人の行先はよい場所ではない。死ぬ前に、「ここで死んでから、われわれはどうなるのだろうか」と嘆き悲しんでももう遅い。
775
「世間で『不正』であると知られているどんなことであろうとも、そのために不正を行なってはならない。」と言うことを学ぶべき。
「そのために不正を行なってはならない。」の「そのために」の意味はパーリ語原文から判断するとこの句の直訳は「彼にとって不正をする理由はない。」ということだから、結局不正は行ってはならないということ。
人生には不正を働いる暇はないということ。人生は短いのだから、解脱をめざす人にとって、不正を働いている暇はないということ。
不正は欲望に執着することから行われる。不正を働くとは、具体的に言えば五戒を犯すこと等。
生き物を殺す、与えられないものを取る、邪な行いをする、嘘をつく等だが、これらはすべて、自分の欲望を優先して、他の生命の迷惑を顧みないことから行なわれる。
逆に他の生命を慈しみ、他の生命の迷惑を掛けないように、注意する人は決して五戒を犯すようなことはしない。
また、ある人に欲望が現れても、他の生命の尊厳を重視し、慈しみの心を起こし、自分の欲望に執着せずに、それを手放すことが出来れば、それはその人にとって重要な意味を持つ。
不正をしないことは、解脱以前の人間のあり方を問う問題ではあるが、それ以上の意味がある。不正をやめた人は普通の人間が出来ないことをやり遂げたのである。
それは解脱に近づくための功徳を得たこと。また因縁があればその時点で解脱するということがあるかもしれない。不正をしないことはそれほどの意味がある。
776
「生存に対する妄執(渇愛)にとらわれて」いる人々は「ふるえて」いる。何故ならば怖いから。いつも何かを恐れてビクビクしている。
それは結局死を恐れている。生存に対する妄執とは何としてでも生きていたいという気持ちでだから、とにかく死が恐ろしいし、嫌なのだ。
しかし、どんな生命にとっても必ず死は来る。世の中のことはすべて必ずということはないが、唯一確実なことは「必ず死ぬ」ということ。ですから、すべての生命はいつも死ぬかもしれないとおびえてふるえている。
「下劣な人々は」とは、この真実をないかの如く、エラそうに生きている人々を指している。
自分は明日死ぬかも分からないのに、他人の迷惑を顧みることなく、自己主張して、不正な行いをし、他人と争う人々。
しかしこれらの人々も、重病などをして、死に直面すると、「ここで死んでから、われわれはどうなるのだろうか」と泣き叫ぶ。
(´・(ェ)・`)つ
0140名無しを整える。
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2017/12/01(金) 18:54:39.33ID:VlzX0QzK
>>138
777
解脱をめざす人々は如何にすべきかを教える。はじめは「『わがもの』という思いを離れて行うべきである。」ということ。
人は欲望の対象を「わがもの」と言う思いを持っている。或は「わがもの」にしようと思う。
しかし、私達には私のもの言えるものは本来ない。だから私のものにできるものはない。
ブッダはダンマパダ62で、「わたしには子がある。わたしには財がある」と思って悩む。
しかしすでに自己が自分のものではない。
ましてどうして子が自分のものであろうか。
どうして財が自分のものであろうか。
「ひからびた流れの水の少ないところにいる魚のようなものである」は、魚にとって、水は命に係わる欲望の対象。これが干上がってしまえば死んでしまう。
そのように、欲望の対象に執着している人々はこのような魚のように、恐怖で震えおののいているということ。
何ものにも「わがもの」という思いのない人、何ものわがものはないのだと覚悟の出来た人にとっては、何ものも執着するものがなく、怖れるものがない。このような人は涅槃の近くにいると言える。
778
「感覚を守る」とは、「両極端に対する欲望を制し」だが、両端とは感覚器官と感覚の対象。
すなわち、眼、耳、鼻、舌、身、意が感覚器官で、その対象とは色・形、音、香、味、触、法(思い考え等)。
それぞれに欲望がある。眼と色形、耳と音について言えば、眼の欲望は見たいという欲望。色・形に対する欲望とは美しいものに対する欲望。耳の欲望は快い音を聞きたいという欲望。音に対する欲望は快い音に対する欲望。
これらの「欲望を制し」とは、これらの欲望に執着しないで、貪欲にならないようにすること。貪欲になるとそこから離れることができずに、苦しみなる。
ブッダは感覚を六処に分析して教えている。感覚で起こっている現象を漠然と感じると欲望が現れる時の興奮に巻き込まれるが、冷静に分析して見ると欲望の感情に巻き込まれなくなる。
そうすると欲望を制御しやすい。
「自責の念にかられるような悪い行いをしないで、」はいわゆる良心の呵責を感じるような行いをしないということ。
これは感覚を守るといことで、興奮せずに、冷静に良心の声を聞けることができるようになる。
「見聞することがらに汚されない」は、見たり、聞いたりすることで、心が汚されないと言うことだが、これもまさに、感覚を守ること。
見たり、聞いたりしたことで、欲が現れることもあるが、怒りが現れることも多くある。自分の嫌なものを見たり、嫌なことを聞くと怒りが現れる。しかし、それらも冷静に対応すると、心を汚されずに済む。
779
「想(表象)をよく知って」。どのようによく知るのか? 感覚器官で苦(不快)や楽(不楽)を感じるのは想(表象)に基づくのである。
想とは五蘊{色(肉体)、受(感覚)、想(表象、記憶)、行(形成作用)、識(識別作用)}の「想」。
想には層がある。顕在記憶、個人的潜在記憶、集団的潜在記憶など。
顕在記憶とは自覚している記憶。潜在的記憶とは、自覚していない記憶。しかし、これは瞑想修行が進んでくると今まで自覚されてない記憶が思い出されて、潜在記憶が顕在記憶になる。
集団的潜在記憶とは、民族あるいは人類が共通して持っている潜在的記憶。
例えば、劣等感などは自覚していない場合も多いので、個人的潜在的記憶。もちろんそれが自覚されれば、顕在意識になる。
本能と言われる部分は集団的潜在的記憶。肉食動物は肉を食べ、草食動物は草を食べるなどは肉体に結びついたより深い集合的潜在的記憶。生命は多くの潜在的記憶に支配されている。
個人的潜在記憶である劣等感のない人は難なくできることも、劣等感のある人には出来ないことが多い。しかし自分の劣等感を自覚して、よく分析して、解決の糸口を見つければ解決できる。想をよく知ってとはそのようなこと。
また、煩悩と言われるものは人類共通の本能。私達の行動は煩悩し支配されている。「想い(想)知りつくして、激流を渡れ」とは、「本能を知り尽くして、本能を乗り越えよ」というような意味。
欲や怒りは生命の本能的な反応だが、決して乗り越えられないものではない。
例えば、性欲は本能だから止められないと思っている人もいるが、それは単なる妄想。そのことをよく理解すれば、止めることが出来る。止めることは出来ないと思っている限りできない。
本能は乗り越えられないというのは迷信、或は偏見。迷信や偏見を自覚して、よく知って、苦をなくし、解脱するためにはこれらを乗り越える必要がある。

(´・(ェ)・`)つ
0141鬼和尚 ◆GBl7rog7bM
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2017/12/01(金) 20:57:28.42ID:nTcGHCpY
分析ではなく観察なのじゃ。
観察すれば六処からも厭離できるのじゃ。
その刺激に囚われなくなるのじゃ。
0142名無しを整える。
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2017/12/01(金) 21:44:07.01ID:VlzX0QzK
>>141
ふむふむ。
確かに、
>ブッダは感覚を六処に分析して教えている。感覚で起こっている現象を漠然と感じると欲望が現れる時の興奮に巻き込まれるが、冷静に分析して見ると欲望の感情に巻き込まれなくなる。

と、言うように、感覚を6つに分析していると言う説明の流れで、
冷静に観察と書くべきところを、分析と書いちゃってるようでありますね。

あくまでも、ありのままを観察せねば、厭離はできぬのでありますね。
肝心なところでありました。
鬼和尚、ありがとうであります。
(´・(ェ)・`)つ
0143名無しを整える。
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2017/12/02(土) 06:29:49.37ID:N6b7bJog
ブッダのことば(スッタニパータ)
第4 八つの詩句の章、3、悪意についての八つの詩句

780 実に悪意をもって(他人を)誹る人々もいる。また他人から聞いたことを真実だと思って(他人を)誹る人々もいる。誹ることばが起こっても、聖者はそれに近づかない。だから聖者は何ごとにも心の荒むことがない。

781 欲にひかれて、好みにとらわれている人は、どうして自分の偏見を超えることができるだろうか。かれは、みずから完全であると思いなしている。かれは知るにまかせて語るであろう。

782 人から尋ねられたのではないのに、他人に向かって、自分が戒律や道徳を守っていると言いふらす人は、自分で自分のことを言いふらすのであるから、かれは「下劣な人」である。と真理に達した人々は語る。
783 修行僧が平安となり、心が安静に帰して、戒律に関して「わたしはこのようにしている」といって誇ることがないならば、世の中のどこにいても煩悩のもえ盛ることがないのであるから、かれは<高貴な人>である、と真理に達した人々は語る。

784 汚れた見解をあらかじめ設け、つくりなし、偏重して、自分のうちにのみ勝れた実りがあると見る人は、ゆらぐものにたよる平安に執著しているのである。

785 諸々の事物に関する固執(はこれこれのものであると)確かに知って、自己の見解に対する執著を超越することは、容易ではない。故に人はそれらの(偏執の)住居のうちにあって、ものごとを斥け、またこれを執る。

786 邪悪を掃い除いた人は、世の中のどこにいても、さまざまな生存に対してあらかじめいだいた偏見が存在しない。
邪悪を掃い除いた人は、いつわりと驕慢とを捨て去っているが、どうして(輪廻に)赴くであろうか?かれはもはやたより近づくものがないのである。

787 諸々の事物に関してたより近づく人は、あれこれの議論(誹り、噂さ)を受ける。
(偏見や執著に)たより近づくことのない人を、どの言いがかりによって、どのように呼び得るであろえか? かれは執することもなく、捨てることもない。かれはこの世にありながら一切の偏見を掃い去っているのである。

(´・(ェ)・`)つ
0144名無しを整える。
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2017/12/02(土) 06:35:14.15ID:N6b7bJog
>>143
780
他人や誹謗に対する生き方を示している。自分の主義・主張にとらわれてはならないことを説いている。
仏教以外の修行者たちがブッダの名声を嫉妬して、ブッダに対する悪い評判を立てるように、ある事件を企てた。その時に述べられたと言われている。
781
「悪意八詩句経」の中にこの偈があるのは、「悪意のある人は偏見がある。偏見がある人は悪意を持つ。」という事実があるから。
慈悲の心を妨害しているものは悪意と偏見。
慈悲の心を育てるために必要なことは、自分自身にある悪意を乗り越え、自分自身の偏見を乗り越えることが必要。
「欲にひかれて、好みにとらわれている人」は、「かれは、みずから完全であると思いなしている。」自分の欲や好みが正当ある、それでよいと考えている。当然、自分の欲や好みを変えようとはしない。
自分自身にある偏見を乗り越えることは出来ない。偏見があると悪意が生まれ、慈悲の心は育てられない。
解脱をめざすということは、完全な慈悲の人になること。解脱をめざす人にとっても、偏見を乗り越える重要な課題。そのために、「欲にひかれて、好みにとらわれない」ことが重要。
782
ブッダに立てられた悪評の真相を確かめようと王が僧院に来た。
「自分が戒律や道徳を守っていると言いふらす人」は、自分の自慢をしているようで、自己顕示欲の強い人。道徳を守るようなことは人に自慢することではなく、黙って行うべき。
783
「戒律に関して『わたしはこのようにしている』といって誇ることがないならば、かれは<高貴な人>である、と真理に達した人々は語る。」ということ。
784
毎田先生訳
自分の考えで作り上げたような教えは
汚れたものに過ぎないのに そんなものを尊んで
それを行えばこんなに立派になれると自分を信じている人は
揺れ動くものにある(みせかけの)平安にしがみついているのである

考えて作り上げた教えは決して真理ではないと言うこと。むしろそれらは、思考によって汚れたものになってしまう。思考は相対の世界のもの。
思考があれば必ず、それに反対の思考が現れる。それにより思考は汚れる。ブッダは決して教えなど作らなかった。思考を超えた真理を述べておられる。
(´・(ェ)・`)つ
0145名無しを整える。
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2017/12/02(土) 06:36:01.69ID:N6b7bJog
>>143
785
○毎田周一先生訳
「自分がどんなに物事に捉われているかを知り
自分の考えでは駄目だと気付くのは実に難しい
だから人は立場にこだわって
真理を捨てたり掴んだりする」

なぜ「自分がどんなに物事に捉われているかを知る」ことは難しいのか?
自分が捉われていることは、自分にとって当たりませのことだから。あまり当たり前のことは気が付きにくい。
「自分の考えでは駄目だと気付くのは実に難しい」についてはどうか。
ほとんどの人は自分の考えは正しいと思って行動している。もし、自分の考えは正しくないと思ったならば、その考えを修正するはず。修正する以前は自分の考えは正しいと思っている。だから自分の考えは駄目だと思えない。
その結果、自分の判断に従って、真理まで排斥したり、受け入れたりする。これでは真理を知ることはできない。
それでは、どうしたらよいのか? 
人生、上手く行かない時の方は多い。失敗したり、困難に出会ったり、病気したり、辛い苦しい時も多い。そのような時に、それにめげないで、自分の考え方を見直してみる。
それで、自分のこだわりや自分の考えの駄目なところが分かってくる。その時がチャンス。分かってくれば、自分の考え方を修正することができる。失敗や困難は有り難いもの。
786
○毎田周一先生訳
「清められた人は この世の何処にいても
あれこれのことを自分で作り出した考えにあてはめてみるようなことはしない
だから清められた人は いつわりと思い上がりとからすっきりと離れている
この何にもとりついていない人が「何処かへ行く」ということがあるだろうか」

「さまざまな生存に対してあらかじめいだいた偏見が存在しない」→「自分で作り出した考えにあてはめてみるようなことはしない」=清浄な人には偏見がないということ。
清浄な人には、いつわり(〔欺瞞の〕幻想)と思い上がり(慢心)がない。
『何処かへ行く』ということがあるだろうか」とは、このような清浄な人は、輪廻をするということがあろうか、輪廻はしないと述べている。
すなわち、悪意から離れた人は偏見から離れ、欺瞞や慢心がなく、輪廻を繰り返すことのないということ。
787
○毎田周一先生訳
「物にとりつく人は言い争うが
何にもとりつかぬ人を どうして何を問題として論争に引入れることができるだろうか
この人は物に実体があるかないか そんな考えにはもう捉われてはいない
そこにはこの世にある限りの一切の偏見がなくなっている」

清められた人、清浄な人、「何にもとりつかぬ人」或るは「(偏見や執著に)たより近づくことのない人」は、論争に引きいれることは出来ない。
なぜならば、こだわり、執着のない人はどんな意見にも対立しないから。対立がなければ議論が成り立たない。
パーリ語の「Att niratt」の訳は「得たもの 捨てたもの」とも「我 非我」とも訳せる。中村先生は、前者の訳を取り、正田先生は後者の訳を取り、毎田先生は、 「物に実体があるかないか」と訳した。
清浄な人はこの対立する二つの立場にこだわらないのだから、結局はどの訳でもよいということになる。
結論は、清浄な人は「この世にある限りの一切の偏見がなくなっている」ということ。
(´・(ェ)・`)つ
0147名無しを整える。
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2017/12/03(日) 07:32:18.34ID:wMYf4bPZ
ブッダのことば(スッタニパータ)
第4 八つの詩句の章、4、清浄についての八つの詩句

788 「最上で無病の、清らかに人をわたくしは見る。人が全く清らかになるのは見解による」と、このように考えることを最上であると知って、清らかなことを観ずる人は、(見解を、最上の境地に達し得る)智慧である。

789 もしも人が見解によって清らかになり得るのであるならば、あるいはまた人が知識によって苦しみを捨て得るのであるならば、それは煩悩にとらわれている人が(正しい道以外の)他の方法によっても清められることになるであろう。
このように語る人を「偏見ある人」と呼ぶ。

790 (真の)バラモンは、(正しい道の)ほかには、見解・伝承の学問・戒律・道徳・思想のうちのどれによっても清らかになるとは説かない。かれは禍福に汚されることなく、自我を捨て、この世において(禍福の因を)つくることがない。

791 前の(師など)を捨てて後の(師など)にたより、煩悩の動揺に従っている人々は、執著をのり超えることがない。かれらは、とらえては、また捨てる。猿が枝をとらえて、また放つようなものである。

792 みずから誓戒をたもつ人は、思いに耽って、種々多様なことをしようとする。しかし智慧ゆたかな人は、ヴェーダ(実践的認識)によって知り、真理を理解して、種々多様なことをしようとしない。

793 かれは一切の事物について、見たり学んだり思索したことを制し、支配している。このように観じ、覆われることなしにふるまう人を、この世でどうして妄想分別させることができようか。

794 かれははからいをなすことなく、(何物かを)特に重んずることもなく、「これこそ究極の清らかなことだ」と語ることもない。結ばれた執著のきずなをすて去って、世間の何ものについても願望を起すことがない。

795 (真の)バラモンは、(煩悩の)範囲をのり超えていてる。かれが何ものかを知りあるいは見ても、執著することがない。
かれは欲を貪ることなく、また離欲を貪ることもない。かれは(この世ではこれが最上のものである)と固執することもない。

(´・(ェ)・`)つ
0148名無しを整える。
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2017/12/03(日) 08:28:07.03ID:wMYf4bPZ
>>147
788
○毎田周一先生訳
「私はここに最上の つまり煩いをすっかり離れた 清らかさを見る
そして人は物の見方で清らかになることが出来る」と
このように考えて 「最上のこと」がそこにあると知り
そんなことを 清らかさを見ていると称する人が 智慧だと信じ込んでいる

今回の偈はブッダの考え方を述べたものではない。ブッダが、世間には清浄についてこのように考えている人々がいることを示されている。
ここでの「私」は世間の一般の人。仏教以外の人と考えても良い。他にも「私は清浄を最高の無病(健康)と見ます。」とも訳せる。
物の見方=見解によって清浄になる。
見られたもの、見た対象によって清浄になる。=見ることによって(正田先生の訳)だと、清浄な人を見ると清浄になると理解される。
各自自分の考えが最上であると納得する。
それが智慧であると信じ込んでいるのだと述べている。
自分の以外のものによって自分が清浄になるということになる。

789
○毎田周一先生訳
「もしも人がその人の物の見方によって清らかとなったり
あるいはまた智慧によって苦しみを捨てるというのであれば
盲目の命を拠り処としているものが 何か他のことによって清められるということになる
そんなことをいう人を偏見の持主というのである」
物の見方(見解)によって清らかになるのではないとブッダは説かれている。
「何か他のこと」とは何か? なぜ他のことで清められないのか? では、どうしたら清められるのか? 
「何か他のこと」とは、790番の偈で明示される。
「なぜ他のことで清められないのか?」「もし、見られたものによって、人の清浄が有るなら、」、この意味を具体的に示せば、清浄な花を見ると、人は清浄になるということ。
逆に不浄なものを見れば人は不浄になるということだすから、そのようなことで人が清浄になるというのはおかしい。人が清浄になるとはそのようなことを言うのではない。
「どうしたら清められるのか?」は「清浄八詩句経」全体で答える問題。

中村先生「それは煩悩にとらわれている人」、毎田先生は「盲目の命を拠り処としているもの」、正田先生は「依り所(依存の対象)を有する者」。
パーリ語sopadhkoの辞書の訳は「有依者」、三先生がその意味を考えて訳された。

○毎田周一先生訳
790.
「道に達した人は 他のことを
即ち知識とか学問とか徳行とか思想とかを清らかであるとはいわない
そして善いことにも悪いことにも染まらず
この世で何かを作り出そうとせず 既に身についているものをみな払い捨ててしまう」

789で清められると考えられる「他のこと」が明示される。
中村先生訳、「見解・伝承の学問・戒律・道徳・思想」、
正田先生訳、「見られたものについて、聞かれたものについて、戒や掟(執着の対象に成り下がった宗教行為)について、あるいは、思われたもの(我執の思いで対象化され他者化した認識対象)ついて」。

1.見解=見られたもの
2.伝承の学問=聞かれたもの
3.戒律・道徳¬=戒や掟
4.思想=思われたもの
つまり、これらのもので清らかになることはないと言うことです。

そうではなくて、「そして善いことにも悪いことにも染まらず、この世で何かを作り出そうとせず 既に身についているものをみな払い捨ててしまう。」ことで清らかになるのだと説かれている。

上記1.2.3.4.は八正道の正見、正思、正語、正業と関わりのある項目であるので、これらのよって、仏教徒は清められると考える。
しかし、これらの事柄についても教条的にこだわるならば、清めるどころか汚してしまうということに注意して、八正道についても正しく理解することが必要。
1.見解、2.学問については751偈で、3.戒律については752偈で、4.思想については753偈で解説されている。

パーリ語brhmaoを、三訳者は単にバラモンとはせずに、「道に達した人」、「(真の)バラモン」、「〔真の〕婆羅門(人格完成者)」として、ブッダと同じ見解を持つバラモンであることに注意している。

(´・(ェ)・`)つ
0149名無しを整える。
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2017/12/03(日) 08:53:48.14ID:wMYf4bPZ
>>147
○毎田周一先生訳
791.
「前のものを捨てては次のものを掴み
落着きなく動き廻る人達は 捉われを離れていない
彼等は◯(掴?)まえてはまた投げすてる
丁度猿が木の枝を放しては掴むように」

790偈で述べた見解、学問によって清められると考える人達への批判。
そのような人達は、その見解、学問に執着している。そのように考えると、パーリ語で「前の」或は「後の」とのみ書かれている所は、「前の師、教義」、或は「後の師、教義」を意味していると考えられる。
師や教義に執着していても、このような人々は自分の心の動揺で、前の師を捨て、後の師を掴み依存するということを行う。
それは、まさに猿がこちらの枝を放し、あちらの枝を掴むようだと辛辣に批判している。このようなありさまだから、見解、学問によって清められることはない。

○毎田周一先生訳
792.
「自ら戒律をきびしく守る人は
自分だけの思いに捉われて思い上ったり卑下したりする
しかし賢い人は深い智慧によって真理を悟り
広やかな明るい心で 思い上りもせずまた卑下もしない」

戒律によっても、清められないということ。戒律をきびしく守る人は、往々にして戒律を守ることに執着している。その時戒律を守る意義を理解されていない。
戒律を守ることは、慈悲の実践。生命を殺さないことも、与えられてないものを取らないのも、不倫など邪な行為をしないのも、嘘をつかないのも、相手の生命を慈しむ行為。相手や自分の自由を束縛するものではない。
そこを忘れて、戒律を守ることだけに意義を求めることになっている人がいる。そのような人は、戒律を守っているからと言って自分を誇り、守らない人を見下す。このようなことは清められてとは言わない。
ブッダの弟子にデーヴァダッタというブッダの従兄弟がいた。彼は僧団(サンガ)の戒律をきびしくするようにブッダに提案しましたが、受け入れてもらえず、何人かの比丘とサンガを分裂させようとした。
それでブッダを怨み、殺そうとまでした。そのため、地獄落ちることになった。戒律はきびしくすれば善いというものではない。もちろん、それで清められるものではない。

パーリ語uccvaca gacchati〈高低に行く〉の訳を、毎田先生は「思い上ったり卑下したりする」、中村先生は「種々多様なことをしようとする」、正田先生は「〔迷いのままに〕高下に赴く」
パーリ語saasatto(想に執着し)は正田先生の「〔自分勝手な〕表象(想:概念・心象)に執着し、」が正確で分かりやすい。
戒律を守ることにも執着せずに、聖智に真理を悟った人は広い智慧があるので、思い上ったり卑下したりすることはなく、どんな場合でも冷静落ち着いるといということ。このような人を清められた人という。

○毎田周一先生訳
793.
「彼はどんなことに向っても
見たり学んだり考えたりしたことで自分を武装せず
物事をありのままに見 明るい心で生活してゆく――
だからこの人は世間の人がこういう人だと掴もうとしても 決して掴まえられない人である」

見たり、聞いたり、考えたことで清められることがないことについて述べた偈。

パーリ語、visenibhto(敵対することなき)を、毎田先生は「自分を武装せず」、中村先生は「制し、支配している」、正田先生は「敵対という有り方を離れている」と訳された。
ちなみに、注釈書には、Seni(魔軍)とは心中の賊のことで、不善、煩悩の類である。魔軍を離れているとは、「煩悩の魔軍を離れている」、「煩悩を離れている」、結局は、「捉われない」ということ。
「vivaa caranta」(隠すことなく行ずる)です。毎田先生は「明るい心で生活してゆく」、中村先生は「覆われることなしにふるまう人」、正田先生は「〔迷妄の覆いが〕開かれた者として行じおこなう者」と訳された。
「vikappayeyya」(分別するであろうか)毎田先生は「掴もうとしても 決してまえられない」、中村先生は「どうして妄想分別させることができようか」、正田先生は「想い描くというのだろう(執着の対象として想い描かれることもない)」

この偈の意図は「見たり、聞いたり、考えたことで清められることがない」ことについて述べたもの。

(´・(ェ)・`)つ
0150鬼和尚 ◆GBl7rog7bM
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2017/12/03(日) 21:39:11.97ID:KkQJJ4Ue
毎回書いているからもはやわかっているじゃろうが、見解ではなく観察なのじゃ。
人は観察によって清められるのじゃ。
そうであるからありのままに見るというのじゃ。
これほど明確に書かれているのに気付かないとはおかしなことじゃ。
0151名無しを整える。
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2017/12/03(日) 21:50:33.75ID:wMYf4bPZ
>>150
鬼和尚、こんばんは。
ここでは、「見解」によって清浄になったり悟りに導かれたりすることはないと、説明されてるようでありますよ。
(´・(ェ)・`)つ
0152名無しを整える。
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2017/12/04(月) 18:46:25.76ID:nooSGTSl
ブッダのことば(スッタニパータ)
第4 八つの詩句の章、5、最上についての八つの詩句

796 世間では、人は諸々の見解のうちで勝れているとみなす見解を「最上のも」のであると考えて、それよりも他の見解はすべて「つまらないものである」と説く。それ故にかれは諸々の論争を超えることがない。

797 かれ(=世間の思想家)は、見たこと・学んだこと・戒律や道徳・思索したことについて、自分の奉じていることのうちのみすぐれた実りを見、そこで、それだけに執著して、それ以外の他のものをすべてつまらぬものであると見なす。

798 ひとが何か或ものに依拠して「その他のものはつまらぬものである」と見なすならば、それは実にこだわりである、と<真実に達した人々>は語る。
それが故に修行者は、見たこと・学んだこと・思索したこと、または戒律や道徳にこだわってはならない。

799 智慧に関しても、戒律や道徳に関しても、世間において偏見をかまえてはならない。自分を他人と「等しい」と示すことなく、他人より「劣っている」とか、或いは「勝れている」とか考えてはならない。

800 かれは、すでに得た(見解)[先入見]を捨て去って執著することなく、学識に関しても特に依拠することをしない。人々は(種々異なった見解に)分かれているが、かれは実に党派に盲従せず、いかなる見解をもそのまま信ずることがない。

801 かれはここで、両極端に対し、種々の生存に対し、この世についても、来世についても、願うことがない。諸々の事物に関して断定を下して得た固執の住居は、かれには何も存在しない。

802 かれはこの世において、見たこと、学んだこと、あるいは思索したことに関して、微塵ほどの妄想をも構えていない。いかなる偏見をも執することのないそのバラモンを、この世においてどうして妄想分別させることができるであろうか?

803 かれらは、妄想分別をなすことなく、(いずれか一つの偏見を)特に重んずるということもない。
かれらは、諸々の教義のいすれかをも受け入れることもない。バラモンは戒律や道徳によって導かれることもない。このような人は、彼岸に達して、もはや還ってこない。

(´・(ェ)・`)つ
0153名無しを整える。
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2017/12/04(月) 18:56:14.92ID:nooSGTSl
>>152
○毎田周一先生訳
796.
「世間の人は自分の重んじるものを
「最上のもの」とする考えを離れず
それ以外のものをすべて「劣っている」という
だから人は論争から離れることが出来ない」

人の判断基準は、それぞれ異なるから、最上と思う見解も異なる。そのため、論争が起こり、論争から離れることが出来ない。これがこの世の中の実情。

○毎田周一先生訳
797.
「知識や学問や徳行や思想の
優れた成果が 自分の中にあると思っているものは
それらのことだけを自分でつかまえて
その外のすべてのものは劣っていると見る」

「自分の重んずるもの」或は「優れていると見なす見解」を少し具体的に示されている。すなわち、知識(見たこと)、学問(学んだこと)、徳行(戒律や道徳)、思想(思索したこと)。
「清浄八詩句経」において、これらによって清浄にならないと述べられてるもの。

○毎田周一先生訳
798
「自分の立場にとりついて外のものを劣っていると見る人自身が
それこそ束縛そのものだと賢い人はいう
だから修行者は知識や学問や思想や
徳行などを頼みとしてはならない

自分以外に何かに依存するということは、その何かに束縛されているということを知るべき。
自分の師あるいはある学説に依存して、他のものを劣っていると言うならば、自分の師あるいはある学説に束縛されている。そのことを知って、修行者(比丘)は依存しないように述べている。
具体的には見たこと(知識)、学んだこと(学問)、思索したこと(思想)、戒律や道徳(徳行)にこだわってはならないと説かれている。これらによって清らかにならないし、最上にはならないのである。

○毎田周一先生訳
799.
「智慧についても徳行についても
世の人と自分を比べて一面的な考えをもってはならぬ
即ち自己を「等しい」ものだとみたり
また「劣った」ものとか「勝れた」ものとか考えたりしてはならぬ」

いかなる生命も対等・平等。それが生命の尊厳。それを本当に分かることが解脱。で仏教の教えはすべて、この「すべての生命は対等・平等である。」ということを前提にしている。
智慧があるとか道徳を守っているとかという理由で、生命をランクづけられないと言うこと。だから、自分と他人を比較して、「等しい」とか、「劣っている」とか「勝っている」とか言うことは仏教の教えに反している。
自分が他人より勝っていると勝手に考えて高慢になることも、他人により劣っていると考えて卑下することも、他人と同等だと考えて安心すると言う態度も、仏教では戒められている。
他人と比較する人々は、比較する相手によって、高慢になったり、卑下したり、心が揺れ動きいつも不安な状態にあり、苦しみが付いて回る。

○毎田周一先生訳
800.
「既に身についているものを捨てて何も掴まず
智慧についても一定の立場をとらない人は
意見の違いから分裂した人達の中でどちらの側にもつかず
どんな考え方もそれを鵜呑みにしない」

一行目、パーリ語の直訳で「自己を捨棄して、執取せずにいる者は」毎田先生は「既に身についているものを捨てて」と説明し、中村先生は「すでに得た(見解)[先入見]を捨て去って」と訳された。
自己とは、「既に身についているもの」或は「すでに得た(見解)[先入見]」と解釈している。
このような状態を「色眼鏡をかけている」という比喩で表現される。世の中をありのままに正しく見るためには、色眼鏡を外さなければならない。それが自己を捨ててということ。別の言葉で言えば、自我を捨てるということ。
パーリ原文の二行目epiのeは、毎田先生は「智慧」、中村先生は「学識」、正田先生は「知恵」と訳されたが、悟りの智慧(pa)とは異なる。「悟りに関する知識」と言ったような意味。
だから、ここの意味は「悟りに関する知識にも依存しない」という意味になる。
徹底して、自分の先入見や知識、悟りに関する知識などを排除して、それらに依存しないという態度が示されている。
しかし、多くの人々は自分の先入見や知識、悟りに関する知識などに依存し、それに執着しているから、個人が異なれば、当然意見・見解は異なり、お互いに対立し、論争する。
(´・(ェ)・`)つ
0154名無しを整える。
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2017/12/04(月) 19:01:34.19ID:nooSGTSl
>>152
○毎田周一先生訳
801.
「彼はここでこの世とあの世のどちらにも
あのようにまたこのように生きたいとは願わない
しかも色々な事をよく見ているので
それにとりつく立場を何ももってはいない」

仏教では願望を持たないことの方を重視しする。
願望や欲望は幸福をもたらすものではなく、むしろ人々の苦しみの原因になることを知るべき。
この世ではあのよう生きよう、このように生きようと望まない、そしてあの世については天界に生まれ変わりたいとか、また人間界に生まれ変わりたいとか望まない。
すなわち、自然な成り行きに任せるということ。無為自然な生き方をすること。
また、もの事にたいして、主観的な判断、断定をして、固定した立場を取らない、何事にも執着しないと言うこと。このような態度が自由自在な幸福な生き方だと述べている。

○毎田周一先生訳
802.
「だから彼には自分で考え出した
知識や学問や思想の影すらもない
このように道に達した人がどんな考えにもとりついていないとき――
世間の人が彼をこういう人だと掴まえようとしても 決して○(掴?)まえられるものではない」

801の偈の「彼」は、「この世でも あの世についても 願わない 断定しない 彼は無立場」のような無立場であり、自由自在。
そのような彼について、802の毎田先生の訳では「世間の人が彼をこういう人だと掴まえようとしても 決して○(掴?)まえられるものではない」、世間の人は彼を理解できないということ。
中村先生の訳では「(彼を)この世においてどうして妄想分別させることができるであろうか?」「彼は妄想分別をしない」という意味になる。世間の人は妄想分別する人ですので、世間の人は妄想分別しない人を理解できないという意味なる。
訳の仕方が、毎田先生と中村先生とは違いますが、二人とも「彼(バラモン)」と「世間の人」の違いが述べられているのです。
世間の人は、分別(思考)するから、相対的な現象の世界しか理解できない。彼(バラモン)が到達したあらゆる見解、妄想分別から離れた真理の世界を理解できないということ。

○毎田周一先生訳
803.
「彼等は何も当てにせず 何かを取り出してあがめもしない
色々の教えさえも彼等は受けない
このように道に達した人達は 徳行などを人生の筋道として生きてゆかない
このような人は既に彼岸に渡って もう帰って来ない」

毎田先生の訳、「彼等は何かを当てにせず 又何かを取り出してあがめることもなく」、中村先生は「かれらははからいをなすことなく、(何物かを)特に重んずることもなく、」。正田先生は「〔特定の何かを〕想い描かず、〔特定の何かを〕偏重せず、」
「清浄八詩句経」では、この一行目を前提にしても、彼等のどのようなになったかの結論は出ていなかった。
しかし、今回の「最上八詩句経」では、このような人は「彼岸に達して、もはや還ってこない。」という結論が明確。すなわち彼等は解脱して、輪廻を脱して、もう生まれかわることがない。
(´・(ェ)・`)つ
0155名無しを整える。
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2017/12/04(月) 19:05:16.71ID:nooSGTSl
>>150
今回も、
一切の見解を否定してると解説してるようであります。
(´・(ェ)・`)つ
0156鬼和尚 ◆GBl7rog7bM
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2017/12/04(月) 20:52:27.74ID:NTqKcN2G
見解を否定すると言う見解に囚われているのじゃ。
観察にはたどり着いていないのじゃ。
見解を否定するならば、何をすれば善いのかということを知らないのじゃ。
ただひたすらに観察あるのみなのじゃ。
0157名無しを整える。
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2017/12/04(月) 21:19:13.02ID:nooSGTSl
>>156
790の解説で、
>1.見解=見られたもの
2.伝承の学問=聞かれたもの
3.戒律・道徳¬=戒や掟
4.思想=思われたもの
つまり、これらのもので清らかになることはないと言うこと。

そうではなくて、「そして善いことにも悪いことにも染まらず、この世で何かを作り出そうとせず 既に身についているものをみな払い捨ててしまう。」ことで清らかになるのだと説かれている。

上記1.2.3.4.は八正道の正見、正思、正語、正業と関わりのある項目であるので、これらのよって、仏教徒は清められると考える。
しかし、これらの事柄についても教条的にこだわるならば、清めるどころか汚してしまうということに注意して、八正道についても正しく理解することが必要。

と、いい線まで行ってるようなのでありますが、
>既に身についているものをみな払い捨ててしまう。」ことで清らかになる
と言うだけでは、ちょぴっと乱暴なような気もするでありますし、
確かに、
>観察にはたどり着いていない
で、ありますね。
鬼和尚のお陰で、くまはたどり着けてるであります。
(´・(ェ)・`)b
0158名無しを整える。
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2017/12/05(火) 18:25:15.10ID:sZhb/jyf
ブッダのことば(スッタニパータ)
第4 八つの詩句の章、6、老 い

804 ああ短いかな、人の生命よ。百歳にたっせずせして死す。たといそれよりも長く生きたとしても、また老衰のために死ぬ。

805 人々は「わがものである」と執著した物のために悲しむ。(自己の)所有しているものは常住ではないからである。この世のものはただ変滅するものである、と見て、在家にとどまってはならない。

806 人が「これはわがものである」と考える物、──それは(その人の)死によって失われる。われに従う人は、賢明にこの理を知って、わかものという観念に屈してはならない。

807 夢の中で会った人でも、目がさめたならば、もはやかれを見ることができない。それと同じく、愛したひとでも死んでこの世を去ったならば、もはや再び見ることはできない。

808 「何の誰それ」という名で呼ばれ、かつては見られ、また聞かれた人でも、死んでしまえば、ただ名が残って伝えられるだけである。

809 わがものとして執著したものを貪り求める人々は、憂いと悲しみと慳(モノオシ)みとを捨てることがない。それ故に諸々の聖者は、所有を捨てて行って安穏(アンノン)をみたのである。

810 遠ざかり退いて行する修行者は、独り離れて座所に親しみ近づく。迷いの生存の領域のうちに自己を現さないのが、かれにふさわしいことであるといわれる。

811 聖者はなにものにもとどこおることなく、愛することもなく、憎むこともない。悲しみも慳(モノオシ)みもかれを汚すことがない。譬えば(蓮の)葉の上の水が汚されないようなものである。

812 たとえば蓮の上の水滴、あるいは蓮華の上の水が汚されないように、それと同じく聖者は、見たり学んだり思索したどんなことについても、汚されることがない。

813 邪悪を掃い除いた人は、見たり学んだり思索したどんなことでも特に執著して考えることがない。かれは他のものによって清らかになろうとは望まない。かれは貪らず、また嫌うこともない。

(´・(ェ)・`)つ
0159名無しを整える。
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2017/12/05(火) 18:58:23.18ID:sZhb/jyf
>>158
○毎田周一先生訳
804.
まことに人生は短い
百歳にならないうちに死んでしまう
たとえそれ以上に生きたとしても
しかし彼は老衰のために死ぬ
この経は、「老」について述べた経ではない。もしこの経の題名を内容から作るとしたら、「清浄な人経」或は「最上な人経」。
この経の冒頭で、寿命が短いことが述べられたのは、人生は短いのだから、いかに生きるかが重要であるという問題提起である。生きている時間を無駄に使ってはいけないということ。
○毎田周一先生訳
805.
人々はわがものと思うもので悲しむ
何故ならひとの所有するものはいつもそこにあるものでもなく
又成長する一方のものないから――
これを思えば世間の生活に留まってはいられない筈である
人々は「わがものである」と執着したもののために悲しむということ。何故か?所有しているのは常住ではないからだと言う。
どんなものも無常でだから変化する。そして最後は壊れて、消えてしまうから、「わがもの」と思っていてもなくなってしまう。わがものがなくなれば悲しい。
この悲しみを乗り越えるためには、「わがもの」という思いを克服しなければならない。
参考)<777>
「わがもの」という思いの最大のものの一つに家がある。
正田先生訳は「家に住み止まらないように。」、中村先生訳は「在家にとどまってはならない。」となり、これは出家せよということになる。
出家しなくとも、在家の生活でも今までと同じように続けていけない。今までの生活を改善して精進せよということになる。
○毎田周一先生訳
806.
人が「これはわがもの」と思っているものも
その人が死ねばどこかへいってしまう
このことを明らかに知って 私に従う人は
ものを自分のものにしようと夢中にならぬがよい
「わがもの」という思いは「死によって失われる」。
人間は五蘊によって構成されている。五蘊とは、色(肉体)、受(感覚)、想(表象)、行(形成作用)、識(認識)。人間が死ぬと人間を構成する五蘊のそれぞれが失われる。
「わがもの」という思いは想(表象)だから、これもなくなる。死ぬと「わがもの」という思いのみならず、肉体も感覚もその他の表象も形成作用も認識もなくなる。
賢者はこのことを知って、いずれは「わがもの」という思いを失うのだから、死ぬ前に、この思いに執着しないで、捨てた方がよいと説かれている。
これにより悲しみの原因の一つを捨てることが出来る。
参考)ダンマパダ第6番の偈。
「われらは、ここにあって死ぬはずのものである」と覚悟しよう――このことわりを他の人は知っていない。しかし、このことわりを知る人々があれば、争いはしずまる。
○毎田周一先生訳
807.
たとえば夢であった人を
目が醒めれば もう人は見ないように
それと同じくどんなに好きだった人でも
その人が死んでしまえばもう見ることが出来ない。
「わがもの」という思いが死とともになくなることを、夢でたとえて説明。夢の世界が、この世で生きている世界。夢から覚めることはこの世で死ぬことを意味している。
夢の世界であった人(=この世であった人)に、夢から覚める(=この世で死ぬ)と、会うことが出来ないということ。これとおなじように、「わがもの」という思いもこの世で死ぬとなくなってしまう
「わがもの」という思いもこの世で死ぬとなくなってしまう。
「わがもの」という思いは夢のようなもの。夢だから執着する意味はない。
○毎田周一先生訳
808.
その人の名を何々と呼んで
人が現実にその人を見 その声を聞いた人々も
死んだ人といわれるようになっては
もう名ばかりが残る
私たちは自分の名前は自分のものだと考えている。また自分の名前に特別の愛着がある。自分の名前は自分のものだと思っている。
自分の名前も単なる記号。特別な実体があるわけではなく、その名前の人がなくなれば、残るものは名前だけ。
その他の「わがもの」と思っているものも、名前と同じように、単なる思いだけで、実体のない空虚なもの。執着するに値しないし、これらも無常だから、執着できないもの。
(´・(ェ)・`)つ
0160名無しを整える。
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2017/12/05(火) 19:01:17.28ID:sZhb/jyf
>>158
○毎田周一先生訳
809.
わがものと思うものと貪り求める人は
憂い悲しみねたむ心を離れることが出来ない
だからやすらぎがどこにあるかを見た静かな人達は
持ちものを捨てて行ったのである
何故、「わがもの」という思いがあると憂いと悲しみから離れられないのか?
この世の一切のものは無常だからである。「わがもの」という思いがあれば、大切にしていた我が物は必ず変化して、古くなり、色、形が変化し、終いには壊れてなくなってしまう。そうすれば、憂い悲しみの結果になる。
また、「わがもの」という思いがあると、何故物惜しみから離れないのか?
そもそも物惜しみとは、自分のものを他人にあげたり、使われたくないという気持ち。
物惜しみは自分にない物を欲しがる気持ちとは少し違う。自分の物を他人にあげたくないというケチな気持ち。その心があると、他人と物を分け合ったり、慈しみの持つことが出来ない。
だから、聖者たちは、「わがもの」という思いを捨てて、慈しみのある、平安な生活を行う。
○毎田周一先生訳
810.
この世を遠く離れて修行する者が
いよいよ世を超える心に生きて
この世間に顔を出すようなことがなければ
そこに彼にとって円かな世界が現れたのだといってよい
「パーリ語仏教辞典」の中に書かれている雲井昭善先生の訳。
「人里離れた坐所に親近し、厭い退いて行じる比丘(無滞着の比丘)、かれが生存の中にも自己をあらわさないなら、かれにとってそのことがふさわしい、と人々はいう。」これは
中村先生訳、「独り離れて座所に親しみ近づく」、毎田先生は「いよいよ世を超える心に生きて」としている。
中村先生訳、「遠ざかり退いて行する修行者」の「遠ざかり」は何から遠ざかりか明記していないが、正田先生は「欲望の対象から」という意味にとっている。毎田先生はこの世から遠ざかりとし、雲井先生は人里からの遠ざかりと訳した。
四行目を中村先生やその他の先生は「かれにふさわしいことであるといわれる。」としていまるが、毎田先生は、「そこに彼にとって円かな世界が現れたのだといってよい」と訳されている。
円かな世界とは涅槃のこ。「彼にふさわしいこと」とは涅槃の境地にいることが彼にふさわしいということ。
「迷いの生存の領域のうちに自己を現さないのが」或は「彼が、〔迷いの〕生存域において、〔彼の〕自己を見せないなら」或は「かれが生存の中にも自己をあらわさないなら」等の訳は涅槃の境地であると言っていることになる。
(´・(ェ)・`)つ
0161名無しを整える。
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2017/12/05(火) 19:02:01.03ID:sZhb/jyf
>>158
○毎田周一先生訳
811.
静かな人は どこへいっても捉われがなく
好き嫌いをいわない
葉の上で水が染まらぬように
悲しみもねたみも彼をよごさぬ
毎田先生は、muniを聖者あるいは牟尼とは訳さず、一貫して「静かな人」と訳される。muniには「沈黙して修行する聖人」という意味がある。ブッダがmuniという言葉を使われる時は覚った方を指している。
二行目の直訳は「愛を作らない、不愛を作らない」。これを「好き嫌いをいわない」或は「愛することもなく、憎むこともない。」或は「愛しいものを作らず、また、愛しくないものも〔作ら〕ない。」と訳される。
聖者は何ものにも依存せず、捉われがなく、「好き嫌いをいわない」あるいは「愛することもなく、憎むこともない」
それをイメージすると、ハスの葉の上に落ちた水が小さな水玉になって、水が葉を濡らすこと出来ないような状態だと言う。
○毎田周一先生訳
812.
蓮の葉の上で水滴が
蓮の葉の上で水が 染まらぬように
それと同じく静かな人は
知識にも学問にも思想にもそまらない
聖者(静かな人)は、見たこと(知識)、聞いたこと(学問)、考えたこと(思想)に依存しない、影響されないということ。あらゆる固定観念に拘束されずに、自由であるということ。
○毎田周一先生訳
813.
清らかになった人は 知識や学問や思想を
これがなければなどとは考えない
彼は他のことによって清らかになろうとは思わない
何故なら彼は貪ることにも 貪らぬことにも 共に執著していないから
今回の偈で「老経」が終わる。ブッダの教えはすべて、人々を解脱に導くものだから、老経の最後の偈はそのためのまとめ。
「清らかになった人は 知識や学問や思想をこれがなければなどとは考えない」
見ること(知識)、聞くこと(学問)、考えたこと(思想)によって解脱することは出来ない。
「他のことによって清らかになろうとは思わない」の「他のことによって」とは知識、学問、思想など以外のものによっても解脱できるとは思わない、すなわち自分自身によって解脱するということ。
四行目で解脱の仕方について述べられている。
「貪ることにも 貪らぬことにも 共に執著していない」ことで解脱する。
「貪らず、また嫌うこともない」ことで解脱する。
「〔欲に〕染まらず、離貪もしない」ことで解脱する。
(´・(ェ)・`)つ
0162名無しを整える。
垢版 |
2017/12/05(火) 19:06:18.83ID:sZhb/jyf
>>150
鬼和尚、こんばんは。
>これほど明確に書かれているのに気付かないとはおかしなこと

中村元先生の訳文の中で、例えばどの辺りが、「観察」の重要性をのべてることになるのでありましょうか?
(´・(ェ)・`)つ
0163鬼和尚 ◆GBl7rog7bM
垢版 |
2017/12/05(火) 22:15:57.64ID:QNWO/xNH
777 (何ものかを)わがものであると執著して動揺している人々を見よ。(かれらのありさまは)ひからびた流れの水の少ないところにいる魚のようなものである。
これを見て、「わがもの」という思いを離れて行うべきである。──諸々の生存に対して執著することなしに。

778 賢者は、両極端に対する欲望を制し、(感官と対象との)接触を知りつくして、貪ることなく、自責の念にかられるような悪い行いをしないで、見聞することがらに汚されない。

779 想いを知りつくして、激流を渡れ。聖者は、所有したいという執著に汚されることなく、(煩悩の)矢を抜き去って、勤め励んで行い、この世もかの世も望まない。

 この辺じゃな。
 知り尽くしてというのは本当は観察して知り尽くすのじゃ。
 それは知識を求めるのではないのじゃ。
 厭離のために観察して知り尽くすのじゃ。
0164名無しを整える。
垢版 |
2017/12/06(水) 17:48:04.37ID:z6PdO8Yv
>>163
鬼和尚こんばんは。
くまが引用してる解説では、
>>161
>解脱の仕方について・・・。
「貪ることにも 貪らぬことにも 共に執著していない」ことで解脱する。
「貪らず、また嫌うこともない」ことで解脱する。
「〔欲に〕染まらず、離貪もしない」ことで解脱する

執着しない、貪らなという と言うことのみを方法論として解説しており、
その執着や貪りからどうやって離れるかを解説してないようでありますね。

テラワダの立場からの解説なので、ヴィパッサナ-(観)は基本のはずなので、前面にだして説明すればよいのに、それをしてないようであります。

鬼和尚の補足が必要なようであります。
(´・(ェ)・`)つ
0165名無しを整える。
垢版 |
2017/12/06(水) 17:49:34.25ID:z6PdO8Yv
ブッダのことば(スッタニパータ)
第4 八つの詩句の章、7、ティッサ・メッテイヤ

814 ティッサ・メッテイヤさんがいった、──「きみよ。婬欲の交わりに耽る者の破滅を説いてください。あなたの教えを聞いて、われらも独り離れて住むことを学びましょう。」

815 師(ブッダ)は答えた、「メッテイヤよ。婬欲の交わりに耽る者は教えを失い、邪まな行いをする。これはかれのうちにある卑しいことがらである。

816 かって独りで暮していたのに、のちに婬欲の交わりに耽る人は、車が道からはずれたようなものである。世の人々はかれを『卑しい』と呼び、また『凡夫』と呼ぶ。

817 かってかれのもっていた名誉も名声も、すべて失われる。このことわりを見たならば、婬欲の交わりを断つことを学べ。

818 かれは諸々の(欲の)想いに囚われて、困窮者のように考えこむ。このような人は、他人からのとどく非難の声を聞いて恥いってしまう。

819 そうして他人に詰られたときには虚言に陥る。すなわち、[自らを傷つける]刃(悪行)をつくるのである。これがかれの大きな難所である。

820 独りでいる修行をまもっていたときは一般に賢者と認められていた人でも、もしも婬欲の交わりに耽ったならば、愚者のように悩む。

821 聖者はこの世で前後にこの災いのあることを知り、独りでいる修行を堅くまもれ。婬欲の交わりに耽ってはならない。

822 (俗事から)離れて独り居ることを学べ。これは諸々の聖者にとって最上のことがらである。(しかし)これだけで『自分が最上の者だ』と考えてはならない。──かれは安らぎに近づいているのだが。

823 聖者は諸々の欲望を顧みることなく、それを離れて修行し、激流を渡りおわっているので、諸々の欲望に束縛されている人々はかれを羨むのである。」──
(´・(ェ)・`)つ
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