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鬼和尚の仏教勉強会 講読ゼミ

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2017/10/28(土) 12:13:14.50ID:RQll0QsW
前スレ:鬼和尚の仏教勉強会 悟りの真実 2

ブッダのことば(スッタニパータ)
第3 大いなる章、6、サビヤ

533 サビヤがいった、「何を得た人を<学識ある人>と呼ぶのですか? 何によって<すぐれた人>となるのですか?
 またいかにして<行いの具わった人>となるのですか? <遍歴行者>とはそもそも何ですか?
 先生! おたずねしますが、わたくしに説明してください。」

534 師が答えた、「サビヤよ。教えを聞きおわって、世間における欠点あり或いは欠点のないありとあらゆることがらを熟知して、あらゆることがらについて征服者・疑惑のない者・解脱した者、煩悩に悩まされない者を、<学識のある人>と呼ぶ。

535 諸々の汚れと執著のよりどころを断ち、智に達した人は、母胎に赴くことがない。三種想いと汚泥とを除き断って、妄想分別に赴かない、──かれを<すぐれた人>と呼ぶ。

536 この世において諸々の実践を実行し、有能であって、常に理法を知り、いかなることがらにも執著せず、解脱していて、害しようとする心の存在しない人、──かれは<行いの具わった人>である。

537 上にも下にも横にも中央にも、およそ苦しみの報いを受ける行為を回避して、よく知りつくして行い、偽りと慢心と貪欲と怒りと<名称と形態>(個体のもと)とを滅ぼしつくし、得べきものを得た人、──かれを<遍歴の行者>と呼ぶ。」

 そこで、遍歴の行者サビヤは師の諸説をよろこび随喜し、こころ喜び、楽しく、嬉しく、欣快の心を生じて、座から起ち上って、上衣を一方の肩にかけ(右肩をあらわし)、師に向かって合掌して、ふさわしい詩を以て目のあたり師を讃嘆した。

538 「智慧ゆたかな方よ。諸々の<道の人>の論争にとらわれた、名称と文字と表象とにもとづいて起った六十三種の異説を伏して、激流をわたりたもうた。
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2017/12/31(日) 10:56:23.10ID:28vahqdW
>>300
1034
中村先生の訳は、「煩悩の流れは」とあるが、パーリ語原文には「煩悩の」はない。そこで正田先生は「諸々の〔欲望の〕流れは」とカッコで〔欲望の〕を入れて訳されている。
流れだけでは、意味がよく分からないので、煩悩あるいは欲望などを補って理解する必要がある。1033で、ブッダの解答の中にあった「無明、貪り、怠惰、欲心など」をアジタ学生は「流れ」と受け止めたのだと思われる。
では「煩悩の流れはあらゆるところに向かって流れる」の「あらゆるところ」とは「どこか」についても考えておく。
一応「六処」のすべてところという意味であろう。
詳しく言えば「六内所(眼、耳、鼻、舌、身、意)」と「六外処(色、声、香、味、触、法)」と考えておけばよい。
これらの場所に、煩悩、欲望が流れる。アジタ学生はこれらの流れを「せき止めるものは何ですか?」と質問した。
もう一つ「その流れを防ぎ守るものは何ですか?」という質問をしたように訳されているが、パーリ語からは同一の質問のようにもとれる。
「せき止める」と「防ぎ守る」と異なる動詞で質問したのだと思われる。なぜならば、1035のブッダの解答は一つだから。
もう一つの質問は、「煩悩(欲望)の流れは何によって塞がれるのか?」ということ。この二つの質問の違いは、洪水を土嚢で防ぐか、堤防で防ぐのかの違いではないかと思われる。
実際には堤防も決壊することがあるので、洪水も決壊も起こらない治水対策かもしれない。

1035
煩悩(欲望)の流れをせき止めるもの、煩悩(欲望)の流れを防ぎ守るものが何かがブッダによって説き明かされる。
その解答は、サティ(念)。中村先生訳では「気をつけること」。この言葉は英語では「マインドフルネス」言われ、日本語では「気づき」と訳される場合が多い。
ここではブッダがサティ(念、気づき)の定義を明確にしている。サティ(念)は煩悩(欲望)の流れをせき止め、防ぎまもるもの。だから、単に気づいていることではない。煩悩(欲望)の流れを止めない「気づき」はサティではない。
サティは悪い心が起こらないように注意すること。サティは何でもかんでも気づいていることではない。そうでなければ、サティによって煩悩(欲望)の流れをせき止められない。
次は煩悩(欲望)の流れを塞ぐもの。煩悩(欲望)の流れを根本的に塞ぐ、煩悩(欲望)をなくすこと。煩悩(欲望)がある限りは、常にサティによって、その流れを止めなければならないが、煩悩(欲望)をなくしてしまえば、サティの必要もない。
その時は解脱した時、覚ったとき。
煩悩(欲望)の流れを塞ぐとは、解脱すること、覚ること。そのためには智慧が必要。だから、流れを塞ぐものは何かに対するブッダの解答は智慧。

(´・(ェ)・`)つ
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2017/12/31(日) 11:03:31.58ID:28vahqdW
>>300
1036
中村先生の訳は、そのまま読むと、アジタ学生はなせこのような質問をしたのか分からない。なぜならば、智慧と気づきと名称と形態がすべて一緒に消滅するように解される。
特に何故智慧と気づきも消滅することを問う必要があるのかと思う。
(○正田大観先生訳、1036 
かくのごとく、尊者アジタが〔尋ねた〕
「まさしく、しかして、知慧が〔諸々の欲望の流れの統御となり〕、さらには、気づきが〔諸々の欲望の流れの防護となる〕、というのなら、
では、敬愛なる方よ、名前と形態(名色:現象世界)を、
これを、〔問いを〕尋ねられた者として、わたしに説いてください。
どこにおいて、この〔名前と形態〕は止滅するのですか」〔と〕。)
その点正田先生の訳であるならば、「智慧と気づき」と「名前と形態」を別のグループとして、消滅(止滅)するものは、「名前と形態」であることが解る。
つまりアジタ学生はブッダに「どこにおいて、この〔名前と形態〕は止滅するのですか」と尋ねたことがわかる。
アジタ学生のこの質問は彼の深い洞察による結果。彼は彼岸(涅槃)に到ることを考えていた。そのため前の質問でブッダに智慧によって解脱することを教えられたので、それは名称と形態の消滅だと理解した。
だから、どこで(いかなる場合に)消滅するか尋ねた。そうでなければ、何故アジタ学生が名称と形態の消滅について尋ねたかわからない。
「名称と形態」について。中村先生訳「ブッダのことば(スッタニパータ)」の注(岩波文庫416ページ)には「名称と形態。この両者が現実の世界においては個人存在を構成している、と考えられていたことが、よく解る。」と書いてある。
それを踏まえて考えると、個人存在と言っても、それは個人の肉体ではなく、この場合問題にしている個人存在は自我意識。自我意識の消滅が解脱。自我意識は非常に根強いものがあり、簡単には消滅しない。
だから簡単には解脱出来ないということがある。この自意識は顕在意識にも潜在意識にも存在している。解脱において消滅されるべき自我意識は顕在意識のみならず、潜在意識における自我意識をも含むの。
名称と形態の消滅という場合の名称と形態の意味は、名称は浅い部分の潜在意識。形態は深い部分の潜在意識。浅いとは観念的な潜在意識であり、深いとは肉体に結びついている潜在意識であると考えられる。
観念的な潜在意識より、肉体に結びついた潜在意識は消滅しにくいから、浅いと深いに区別される。このように考えることは、1037で明らかにされるブッダの解答を深く理解するために必要なこと。

1037
1036のアジタ学生の質問のポイントは「智慧と気をつけることとによって、名称と形態はいかなる場合に消滅するのですか?」ということ。
つまり、智慧と気をつけることによって、名称と形態が消滅するのだが、そのメカニズムはどのようになっているのかを質問している。
その質問に対して、ブッダは「智慧と気をつけることとによって、識別作用が滅止し、名称と形態が残りなく滅びた場合に、解脱が起こるのです。」と答えている。」
「識別作用」について。パーリ語のViaの訳。正田先生は「識知〔作用〕」と訳されており、(識:認識作用一般・自己と他者を識別する働き)と解説されている。
この解説に基づいて説明すると、識別作用が止滅するということは、自己と他者を識別する作用がなくなるということ。これは自我意識がなくなるということ。これが智慧と気をつけることによって為される。
自我意識は虚妄なのだから、智慧が現れればそのことがありのままに解るということ。顕在意識における自我意識はもちろん、潜在意識における自我意識(名称と形態)が消滅する。
(´・(ェ)・`)つ
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2017/12/31(日) 11:07:35.70ID:28vahqdW
>>300
1038
アジタ学生はブッダに解脱の道筋に説いてもらったが、更に具体的にどのようにその道筋を歩むべきかを尋ねた。
バーヴァリ・バラモンの16人の弟子とそれぞれに千人規模の弟子達がいたので、いろいろなレベルの修行者がいたのだと思われる。
そこで、アジタ学生は「真理を究め明らめた人々」と「学びつつある人」そして「凡夫」に分けて、それぞれがどのような行いをすべきか尋ねた。
「真理を究め明らめた人々」はもう学ぶものがないという意味で、無学と呼ぶ。それの人々は阿羅漢を指している。
「学びつつある人々」。学ぶことがあるという意味で有学。それでもこれらの人々は、預流果、一来果、不還果のいずれかの人々を指している。悟っていない修行者は凡夫。

1039
1038で、修行者を無学、有学、凡夫に分けて、「彼らの振る舞い(正しい行為のあり方)を、わたしに説いてください」と頼んだ。
しかし、ブッダは修行者を分けずに、すべて修行者に対する正しい行為のあり方を説かれたように思う。
ブッダの解答は、先ず「諸々の欲望において、その欲望に執着しないように」ということ。
「意に濁りなき者として存するように。」これは心に、わだかまりや、恨みや、敵意などをなくすこと。
これらの思いが心にあると、心はいつも、ざわついていて、落ち着かない。すると、心は汚れ、正しく判断することが出来なくなり、何事も失敗してしまう。だから、心は濁りのない、澄んだ心にすべきなの。
次は「一切の事物の真相に熟達し(一切諸法(現象世界)に巧みな智ある者として)」だが、これはなかなか難しいことだが、これを目指して修行すべきだと理解すればよい。
「よく気をつけて遍歴せよ(〔常に〕気づきある比丘として、遍歴遊行するように)」だが、これもなかなか難しい。
よく気をつけて(気づきある比丘として)、サティ(念)を絶やさずに、ということだが、これはアジタ学生の始めの質問にたどりつく。
ここでは「遍歴せよ。」となっている。これをどのように受け止めるべきか。各自が解脱に向けて、課題を見つけて、いろいろ挑戦してみよというようなこと。

(´・(ェ)・`)つ
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2017/12/31(日) 13:12:35.71ID:28vahqdW
1ブッダのことば(スッタニパータ)
第5 彼岸にいたる道の章、3、学生ティッサ・メッテイヤの質問

1040 ティッサ・メッテイヤさんがたずねた、「この世で満足している人は誰ですか? 動揺することがないのは誰ですか? 両極端を知りつくして、よく考えて、(両極端にも)中間にも汚されることがない、聡明な人は誰ですか? 
あなたは誰を<偉大な人>と呼ばれますか? この世で縫う女(妄執)を超えた人は誰ですか?」

1041 師(ブッダ)は答えた、「メッテイヤよ。諸々の欲望に関して清らかな行いをまもり、妄執を離れて、つねに気をつけて、究め明らめて、安らいに帰した修行者、──かれには動揺は存在しない。

1042 かれは両極端を知りつくして、よく考えて、(両極端にも)中間にも汚されない。かれを、わたしは<偉大な人>と呼ぶ。かれはこの世で縫う女(妄執)を超えている。」

ブッダのことば(スッタニパータ)
第5 彼岸にいたる道の章、4、学生プンナカの質問

1043 プンナカさんがたずねた、
「動揺することなく根本を達観せられたあなたに、おたずねしょうと思って、参りました。仙人や常の人々や王室やバラモンは、何の故にこの世で盛んに神々に犠牲を捧げたのですか?
先生! あなたにおたずねします。それをわたしに説いてください。」

1044 師(ブッタ)は答えた、
「プンナカよ。およそ仙人や常の人々や王族やバラモンがこの世で盛んに神々に犠牲を捧げたのは、われらの現在のこのような生存状態を希望して、老衰にこだわって、犠牲を捧げたのである。」

1045 プンナカさんがいった、
「先生! およそこの世で仙人や常の人々や王族やバラモンが盛んに神々に犠牲を捧げましたが、祭祀の道において怠らなかったかれらは、生と老衰をのり超えたのでしょうか?
 わが親愛なる友よ。あなたにおたずねします。それをわたしに説いてください。」

1046 師は答えた、
「プンナカよ。かれらは希望し、称賛し、熱望して、献供する。利得を得ることに縁って欲望を達成しようと望んでいるのである。供犠に専念している者どもは、この世の生存を貪って止まない。
かれらは生や老衰をのり超えてはいない、とわたしは説く。」

1047 プンナカさんがいった、
「もしも供犠に専念している彼らが祭祀によっても生と老衰とを乗り越えていないのでしたら、わが親愛なる友よ、では神々と人間の世界のうちで生と老衰とを乗り越えた人は誰なのですか?
先生! あなたにお尋ねします。それをわたしに説いてください。」

1048 師は答えた、
「プンナカよ。世の中でかれこれ(の状態)を究め明らめ、世の中で何ものにも動揺することなく、安らぎに帰し、煙なく、苦悩なく、望むことのない人、──かれは生と老衰とを乗り越えた、──と、わたしは説く。」

(´・(ェ)・`)つ
0306名無しを整える。
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2017/12/31(日) 13:19:48.82ID:28vahqdW
>>305
1040
ティッサ・メッテヤ学生がブッダに質問。
質問文としては次の5つになっている。
1.この世で満足している人は誰か?
2.動揺することがないのは誰か?
3.両極端にも中間にも汚されることがない人は誰か?
4.あなたは誰を<偉大な人>と呼ばれるか?
5.この世で妄執(貪愛)を超えた人は誰か?
この内の3番目の「両極端にも中間にも」は何を意味するか?。
仏教は中道を説いているが、その時は両端とは快楽と苦行。中道の場合は智慧の道(八正道)。
しかしこの偈でいう中間は世間で言う中間で、中道ではない。快楽で汚れるとは快楽に溺れること、苦行に汚れるとは、意味のない苦行に価値をおくこと。中間に汚れるとは、無関心になり怠惰になること。
或は賞賛と非難も両端になる。中間は無視されることになるか。賞賛で汚れるとは喜び、舞い上がって、高慢になること。非難で汚れるとは、怒りで興奮し、相手に攻撃的になるなど。無視で汚れるとは、寂しくなり、悲しくなって落ち込むことなど。
中村先生訳の「縫う女」はパーリ語のsibbiniにそのような意味があるからだが、カッコ内にあるように、妄執(貪愛、愛着)の意味と取ればよい。

1041
ブッダは、ティッサ・メッテヤ学生の初めの質問「この世で満足している人は誰ですか?」には直せず答えず、二番目の「動揺することがないのは誰ですか?」という問いに答えていく。
動揺するとは、心が揺れ動くこと。「諸々の欲望に関して」という時は、食欲と性欲を考えればよい。「清らかな行いをまもり」とは、生きるために必要な食事で済ませ、性欲は個人が生きるためには必要ないから、それを抑えるということ。
そうすると心は、食欲と性欲で動揺することがない。食欲と性欲があればそれらによって動揺する。
欲望をなくすことは困難だが、「アジタ経」の質問で「煩悩(欲望)の流れを止めるものはサティ(念、気づき、気をつけること)であることを学んだ。
だから「常に気づきある者」(正田先生訳)は渇愛を離れることができ、欲望を初期のうちに止めることができる。
更にそのような人は「〔法を〕究めて」、智慧が現れて、解脱し、涅槃に至る。そのような人は動揺することはなく、ブッダが直接は答えなかったが、この世で満足している人である。

1042
この偈の始めの言葉「彼」とは、前偈で述べられた「動揺しない人」を指している。この彼が、ティッサ・メッテヤ学生の三番目の質問「両極端にも中間にも汚されることがない人は誰ですか?」の解答。
すなわち、動揺しない人は両極端にも中間にも汚されない。
そして、四番目の質問「あなたは誰を<偉大な人>と呼ばれますか?」の解答も、彼であり、動揺しない人であり、両極端にも中間にも汚されない人。
更に、五番目の質問「この世で妄執(貪愛)を超えた人は誰ですか?」の解答も彼であり、動揺しない人であり、両極端にも中間にも汚されない人。
ブッダが直接答えなかった第一番目の質問「この世で満足している人は誰ですか?」の解答も彼。つまり解脱して、涅槃に到った彼。

1043
プンナカ学生の質問。
プンナカ学生の始めの言葉は、前回の問答の一つのテーマが「動揺することのない」であったため、ブッダを「動揺することのないあなた」と呼び、さらに「両端を知りつくした方」として、「根本を達観されたあなた(根本を見る方)」としている。
これはプンナカ学生のブッダへの称賛の言葉であり、自分もそのような人間になりたいという思いがあるのだと思われる。
質問は「仙人や常の人々や王室やバラモンは、何の故にこの世で盛んに神々に犠牲を捧げたのですか?」ということ。
この質問の真意は、これらの人々は何を求め、望んでいるのかということ。この思いは現在社会で神や神々を信仰している人々の気持ちと同一のものがあると思われる。

(´・(ェ)・`)つ
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2017/12/31(日) 14:24:51.66ID:28vahqdW
>>305
1044
ブッダの解答。王族やバラモン達は、この世の生活にある程度満足していた。だからそのような生活をいつまでも続けたいと思っていた。
だが、老いという問題があった。だんだん身体が弱って、病気にもなる。更にその先に死があるという恐怖を感じていた。
そのために、彼らは神々に、安楽な生活をできるだけ長く続けられるように、また、死後にはよい世界に生まれ変われるように願って犠牲を捧げて、祭祀を営んだ。
しかし、それが本当に意味があるのかどうか、そのことについてもプンナカ学生は尋ねることになる。

1045
この偈は、言葉の繰り返しを除くと、「祭祀の道において怠らなかったかれらは、生と老衰をのり超えたのでしょうか?」「祭祀によって、かれらは生と老衰をのり超えたのでしょうか?」と言う質問だけになる。
(´・(ェ)・`)つ
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2017/12/31(日) 14:26:47.43ID:28vahqdW
>>305
1046
プンナカ学生の次の質問「祭祀によって、彼らは生と老衰をのり超えたのでしょうか?」に対するブッダの解答は「彼らは生と老衰を乗り超えていない。」ということ。
その理由は、彼らの祭祀は、利得を得ることによって欲望を達成することを望んでいるから。すなわちこの世の生存を貪っているから。
この理由を納得するためには、「生と老衰を乗り超える」とはどういうことか理解しておかなければならない。
「生と老衰」とは自我が経験するものであり、自我を概念と見る立場では「生と老衰」も概念。そのことに気付いた時、「生と老衰を乗り超えた」という。
この世の生存を貪っている人は「生と老衰」を概念とは思えず、実体のあるものとして生存を貪る。
別の説明としては、「生と老衰」に続いて、病気そして死が続く。そして新たな「生と老衰」がある。これは輪廻を意味している。
「生と老衰を乗り超える」とは輪廻を乗り超えるという意味。欲望を欲求し、生存を貪る人は輪廻を解脱できないから、生と老衰をのり超えられない。

1047
「一体誰が生と老衰を乗り超えたのですか?」というのがプンナカ学生の質問。
生を乗り超えるとは、輪廻において誕生を繰り返さないというよりは、王族やバラモンのような身分として生まれたいという思いを超えるということ。
そのような人々にとって生を乗り超えるとは、身分に価値を置かないということ。これは人間を身分で差別しないこと。
また老衰を乗り超えるとは、老いを惨めだと思わないということ。また若いから幸せであるとか、老人だから不幸だとは思わないこと。これは人間を年齢で差別しないこと。年齢に価値を置かないこと。
このように考えると、犠牲を神々に捧げる王族やバラモン達は生と老衰を超えていない。これらを乗り超えた人は身分によって人間を差別せず、身分に価値を置かない人。
また年齢によって人間を差別せず、年齢に価値を置かない。そのような人は実際にはどのような人なのか?それが今回のプンナカ学生の質問。

1048
プンナカ経の出だしは「動揺することがない」と言う言葉だったが、最後の偈で、「生と老衰を超えた人」を「動揺することがない人」であると説かれる。
そして、動揺のない人は、安らぎに帰した人であり、煙がない人と(身に悪行がない人と言う意味)、苦悩がなく、望むことがない人。すなわちそのような人はすべての煩悩をなくした阿羅漢。
阿羅漢は生存への執着をなくしており、輪廻を繰り返すことはない。
生まれ(身分)や年齢に価値を置くことがないので、それらによって人間の差別することはもちろんない。これらは解脱する前の価値観の消滅すなわち不必要な識別作用の消滅によるもの。
(´・(ェ)・`)つ
0310鬼和尚 ◆GBl7rog7bM
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2017/12/31(日) 21:34:40.52ID:YX8ao/HG
>>299 そのような理解でよいのじゃ。
 実践によって確めるのじゃ。
 実践有るのみなのじゃ。
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垢版 |
2018/01/01(月) 09:16:53.09ID:B7cuMvmh
ブッダのことば(スッタニパータ)
第5 彼岸にいたる道の章、5、学生メッタグーの質問

1049 メッタグーさんがたずねた、
「先生! あなたにおたずねします。このことをわたしに説いてください。あなたはヴェーダの達人、心を修養された方だとわたくしは考えます。世の中にある種々様々な、これらの苦しみは、そもそもどこから現われ出たのですか。」

1050 師(ブッタ)は答えた、
「メッタグーよ。そなたは、わたしに苦しみの生起するもとを問うた。わたしは知り得たとおりに、それをそなたに説き示そう。世の中にある種々様々な苦しみは、執著を縁として生起する。」

1051 実に知ることなくして執著をつくる人は愚鈍であり、くり返し苦しみに近づく。だから、知ることあり、苦しみの生起のもとを観じた人は、再生の素因(=執著)をつくってはならない。」

1052 「われらがあなたにおたずねしましたことを、あなたはわれらに説き明かしてくださいました。あなたに他のことをおたずねしますが、どうかそれを説いてください。
どのようにしたならば、諸々の賢者は煩悩の激流、生と老衰、憂いと悲しみとを乗り越えるのでしょうか? 聖者さま。どうかそれをわたくしに説き明かしてください。あなたはこの法則をあるがままに知っておられるからです。」

1053 師が答えた、
「メッタグーよ。伝承によるのではなくて、いま眼のあたり体得されるこの理法を、わたしはそなたに解いて明かすであろう。その理法を知って、よく気をつけて行い、世間の執著を乗り越えよ。」

1054 偉大な仙人さま。わたくしはその最上の理法を受けて歓喜します。その理法を知って、よく気をつけて行い、世間の執著を乗り越えるでしょう。」

1055 師が答えた、
「メッタグーよ。上と下と横と中央とにおいて、そなたが気づいてよく知っているものは何であろうと、それらに対する喜びと偏執と識別とを除き去って、変化する生存状態のうちにとどまるな。

1056 このようにして、よく気をつけ、怠ることなく行う修行者は、わかものとみなして固執したものを捨て、生や老衰や憂いや悲しみをも捨てて、この世で智者となって、苦しみを捨てるであろう。」

1057 「偉大な仙人のことばを聞いて、わたくしは喜びます。ゴータマ(ブッダ)さま。煩悩の要素のない境地がよく説き明かされました。たしかに先生は苦しみを捨てられたのです。あなたはこの理法をあるがままに知っておられるのです。

1058 聖者さま。あなたが懇切に教えみちびかれた人々もまた今や苦しみを捨てるでしょう。
竜よ。では、わたくしは、あなたの近くに来て礼拝しましょう。先生! どうか、わたくしをも懇切に教えみちびいてください。」
(´・(ェ)・`)つ
0312名無しを整える。
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2018/01/01(月) 09:29:55.81ID:B7cuMvmh
>>311
1049
メッタグー経。
「世の中にはいろいろな苦しみがありますが、その源は何か?」
これは仏教で解決すべき根本的な問い。メッタグー学生はブッダに、正攻法、真正面からの質問をした。
この質問は、正しく洞察されたものだった。世の中にある種々の苦しみは、単純に考えれば、飢えた時の苦しみは、食べ物がないから。また、病気の時の苦しみは病気が原因。人々の考えは苦しみの原因は、人間に対する外部的な種々の要因に及ぶ。
しかし、メッタグー学生は苦について種々の外部定要因ではなく、一つに集約される内部的要因が何かと言う質問をしている。

1050
ブッダは、「世の中にある種々様々な苦しみは、執著を縁として生起する。」(中村先生訳)と端的に答えることが出来た。「執著を縁として」を正田先生は「依り所(依存の対象)という因縁から」と訳されている。
Upadhiは、パーリ語辞書には「存在の拠り所」と書いてある。十二因縁の教えによれば、存在(有)の拠り所は、執著(固執)であるから、執著=存在の拠り所と考えてよい。「執著=存在の拠り所」が苦の源であるとブッダはメッタグー学生に教えた。
この偈で、ブッダが自分の教えについて、「わたしは知り得たとおりに、それをそなたに説き示そう。」と述べたことは重要。
ブッダは、伝承でもなく、人から聞いたことでもなく、憶測でもなく、自分自身が悟って、知ったことを、しかもそれを隠すことなく、ありのままに説くと言明している。

1051
「執著=存在の拠り所」が苦の源である」ことについての説明のつづき。
苦の源を知らない人は、愚かにも執著を繰り返し、そのために繰り返し苦しんでいる。だから、苦しみの源をよく知って、苦しみの生起の元を観察した人は、執著(存在の依り所)を作ってはならないと説かれた。
しかし、多くの人々は苦しみの源を知らない。それ故に苦しみの源(執著)を繰り返している。
もしくは、知っていても、執著を止められずに、苦しみを繰り返すことになっている。この場合も本当には解っていないということかもしれない。
苦しみの源は自分の外にはなく、自分の内にあるから見ることが難しいから。見ることができ、止めることが出来れば、解脱する。

1052
今回は、メッタグー学生の二番目の質問。
「どのようにしたならば、諸々の賢者は煩悩の激流、生と老衰、憂いと悲しみとを乗り越えるのでしょうか?」
一番目の質問は、苦しみの源を問うものだった。その解答は執著(存在の依り所)だった。だから苦を作らないためには、執著(存在の依り所)を作ってはならない。しかし、実際には、人々は執著(存在の依り所)を作ってしまう。
そのために、いろいろな煩悩が現れ、人々は苦しむことになる。また、プンナカ経で問題にした生と老衰等による苦しみも現れる。そしてまたそのために憂いと悲しみが襲ってくる。
この質問は執著を作ってしまった人は、どのようにするかというもの。ブッダは苦しみの根源とそれを乗り超える法則を悟った方だから、この質問にも答えて下さいとメッタグー学生は頼んだ。

1053
ブッダはメッタグー学生の第2の質問に対して、人に聞いたことでなく、今ここで体験されるありのままの法(理法)をありのままに説き明かそうと述べた。そしてその理法を知って、よく気をつけて行い、世間の執著を乗り超えなさいという。
メッタグー学生は執著を作って、苦しみ、憂い悲しむことになってしまった人は如何にするかという質問だったが、そのような人でも理法を知って、改めて執著をなくすことが必要。

(´・(ェ)・`)つ
0313名無しを整える。
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2018/01/01(月) 09:47:51.86ID:B7cuMvmh
>>311
1054
メッタグー学生は二番目の質問に答えられた理法をまだ聞いてない。
しかし、1053でブッダが「伝承よるのではなく、いま眼のあたりに体得された理法を聞いて、よく気をつけて行い、世間の執著を乗り越えよ」言われたので、それに応えて、今回の偈を述べた。「偉大な仙人様」はブッダを指している。
「世間の執著を乗り越えるでしょう。」について復習。執著とは存在の拠り所。十二因縁の教えによれば、執著(固執)を縁にして存在(有)が生じる。つまり執著は存在の拠り所。
存在の拠り所は、自分というものをあるかどうかわからないまま、自分が何かわからないまま、つまり無明のまま、自分が有るとして架空の自分を確立すること。
それが存在の拠り所。そして執著の意味は架空の自分を執著によって確立すること。

1055
いよいよ、メッタグー学生の第2の質問にたいするブッダの解答。ブッダはメッタグーに対して、「君が意識するものすべてに対して」と言う。
それを上と下と横と中央に分類した。これら何を意味しているのか。
単に意識する対象を空間的に、上にあるもの、下にあるものというように理解できたが、注釈書には、上は未来の時、下は過去の時、横と中は現在の時と言われていると書かれてる。
しかし、この上、下、横、中は、時間や空間の意味ではなく、価値観(優劣観)の上下と取った方がブッダの真意を理解しやすい。
価値のあるもの(優れているもの)、価値のないもの(劣っているもの)、価値が普通のもの(同等のもの)のように理解する。
このようにメッタグー学生が意識するすべての事柄に関して、先ず、喜びを意識することを取り除くように、ブッダは述べた。
例えば、ダイヤモンドに対してこれは価値のあるものであり、優れた宝石だと喜びの意識を持たない、あればそれを取り除くということ。価値や優劣は架空の自分がつくった観念。

1055
次は、ブッダは偏執(固着)を除き去るように述べた。喜びの意識のあるものには偏執(固着)する意識が現れる。これは執著。
執著はその対象への執著もあるが、気づきにくいことだが、その対象に執著する自分に執著している。そこで架空の自分が確立されていく。偏執(固着)する意識を除き去ると、架空の自分への執著がなくなっていく。
更に、ブッダは識別(識別作用)を除き去るようにと説く。無明を縁として行が生じるが、行は自分と他を区別する作用。この行によって識別作用が生じる。自分と他を識別する作用。架空の自分が識別され、それに対する他が識別される。
だから、識別作用が除き去れば、執著する自分もなくなり、対象(例えばダイヤモンド)への執著も除き去る。
このようにして、執著は存在の拠り所だから、依り所がなくなり、生存状態にとどまることがなくなる。すなわち、輪廻から解脱する。

(´・(ェ)・`)つ
0314名無しを整える。
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2018/01/01(月) 09:54:32.30ID:B7cuMvmh
>>311
1056
メッタグー学生の第2の質問に対する解答の続き。
自分が気づいてよく知っていることは何であれ、それに対して喜びと偏執と識別を除き去るように注意していると、「わがものとみなして固執したものを捨てる」と説かれる。ここがこの偈の眼目。
「わがものとみなして固執したもの」は、文字通りには、自分の外の対象だが、実はこの時、自分はわがものと見なす自分に固執している。
だから、それに対して喜びと偏執と識別を除き去るようにすると、わがものと見なす自分を除き去っていく。
そのような自分がなくなれば、生や老衰や憂い悲しみはなくなり、この世の苦しみを捨て去ることになる。

1057
メッタグー学生はゴータマ・ブッダを偉大な仙人と呼んだ。
偉大な仙人の言葉とは、メッタグー学生の二つの質問に対するブッダの解答。
第一の質問に対する解答は「世の中の種々苦しみは執著(存在の拠り所)を縁として生起する」というもの。
第二の質問に対する解答は「何であろうと、それらに対する喜びと偏執と識別とを除き去って、変化する生存状態のうちに留まるな」というもの。
これらの言葉によって、苦しみの原因が明らかにされ、それを取り除く方法が示された。
だからメッタグー学生は、それらの言葉を喜び、「たしかに先生は苦しみを捨てられたのです。あなたはこの理法をあるがままに知っておられるのです。」と述べた。

1058
メッタグー学生が述べた言葉であるが、真理の言葉を聞いたのならば、あとは実践するだけ。それなのに、彼は、ブッダに「懇切に(停滞なく)教えみちびいてください。」と頼んでいる。
人間の実状は一度真理の言葉を聞いただけで、理解することはできず、ましてや実践することが出来ない。

(´・(ェ)・`)つ
0315名無しを整える。
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2018/01/01(月) 10:26:52.12ID:B7cuMvmh
   ∧_∧
  (・(ェ)・)
  /|=宗=|\
 (_)LLLLLL(_)
鬼和尚、あけおめ、ことよろであります。
0316名無しを整える。
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2018/01/01(月) 11:01:20.46ID:B7cuMvmh
ブッダのことば(スッタニパータ)
第5 彼岸にいたる道の章、5、学生メッタグーの質問

1059 「何ものをも所有せず、欲の生存に執著しないバラモン・ヴェーダの達人であるとそなたが知った人、──かれは確かにこの煩悩の激流をわたった。かれは彼岸に達して、心の荒びなく、疑惑もない。

1060 またかの人はこの世では悟った人であり、ヴェーダの達人であり、種々の生存に対するこの執著を捨てて、妄執を離れ、苦悩なく、望むことがない。『かれは生と老衰とを乗り越えた』


ブッダのことば(スッタニパータ)
第5 彼岸にいたる道の章、6、学生ドータカの質問

1061 ドーカンさんがたずねた、「先生! わたくしはあなたにおたずねします。このことをわたくしに説いてください。偉大な仙人さま。わたくしはあなたのおことばを頂きたいのです。あなたのお声を聞いて、自分の安らぎ(ニルヴァーナ)を学びましょう。」

1062 師(ブッダ)が答えた、「ドータカよ。では、この世でおいて賢明であり、よく気をつけて、熱心につとめよ。この(わたしの口)から出る声を聞いて、自己の安らぎを学べ。」

1063 「わたくしは、神々と人間との世界において何ものをも所有せずにふるまうバラモンを見ます。あまねく見る方よ。わたくしはあなたを礼拝いたします。シャカ族の方よ。わたくしを諸々の疑惑から解き放ちたまえ。」

1064 「ドータカよ。わたしは世間におけるいかなる疑惑者をも解脱させ得ないであろう。ただそなたが最上の真理を知るならば、それによって、そなたはこの煩悩を渡るであろう。」

1065 「バラモンさま。慈悲を垂れて、(この世の苦悩から)遠ざかり離れる理法を教えてください。わたくしはそれを認識したいのです。わたくしは、虚空のように、乱され濁ることなしに、この世において静まり、依りすがることなく行きましょう。」

1066 師は言われた、
「ドータカよ。伝承によるのではない、まのあたり体得されるこの安らぎを、そなたに説き明かすであろう。それを知ってよく気をつけて行い、世の中の執著を乗り越えよ。」

1067 「偉大な仙人さま。わたくしはその最上の安らぎを受けて歓喜します。それを知ってよく気をつけて行い、世の中の執著を乗り越えましょう。」

1068 師は答えた、
「ドータカよ。上と下と横と中央とにおいてそなたが気づいてよく知っているものは何であろうと、──それは世の中における執著の対象であると知って、移りかわる生存への妄執をいだいてはならない」と。

(´・(ェ)・`)つ
0317名無しを整える。
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2018/01/01(月) 11:17:59.89ID:B7cuMvmh
>>316
1059
ブッダの言葉。中村先生訳で最初の言葉「何ものをも所有せず」、正田先生訳では「無一物」は重要なキーワード。このことであとに続く「欲の生存に執著しない」ことができる。
「何ものも所有せず」とは、自分のものは何もないという意味で、自分のものは何ものもないことを理解していること。
生物はすべて大自然から一時的に借りて生まれてくる。死ぬ時にそれらすべて、大自然に返して何もなくなるから。
さらに、このことを本当に理解するためには、自分ものと思う時の自分がないことも理解していなければならない。何かを見たり、聞いたりする時の主体である自分は無明(無知)から始まって、仮に現れた自分。実はそれは存在していない。
しかし、それが行(「自他」形成作用)によって仮に生まれてくる。それは自我と言ってもよい。自我は見たり、聞いたりすると欲しくなり(渇愛)、自分のものにしたくなる(執著)。
本来、自分のものはないと理解していると、自分のものにしたくなることがない。そうすると、執著することもなくなる。執著がなくなれば、「欲の生存に執著しないことになる。」
さて今回の偈に戻れば、そのような人は「──かれは確かにこの煩悩の激流をわたった。かれは彼岸に達して、心の荒びなく、疑惑もない。」ということ。「彼は解脱して、涅槃に達したのです。」とブッダは述べられた。
「自分のもの何もはない」ということに関して、ダンマパダ62参照。

1060
「「何ものをも所有せず、欲の生存に執著しない人であるとそなたが知った人、」は「この世では悟った人であり、種々の生存に対するこの執著を捨てて、妄執を離れ、苦悩なく、望むことがない。」
この偈をよく理解するためには、「メッタグー経」の1055と1056を復習。
「生と老衰を超える」方法について述べられている。それは「何であろうと、それに対する喜びと偏執と識別捨てることによって、生と老衰と憂いと悲しみを捨てる」というもの。
「生と老衰を乗り超える」とはどういうことか?については「プンナカ経(プンナカ学生の問い)4.」1046参照。
「生と老衰を乗り超える」とはどういうことか理解しておくべき。
「生と老衰」とは自我が経験するものであり、自我を概念と見る立場では「生と老衰」も概念なのである。そのことに気付いた時、「生と老衰を乗り超えた」というのである。
この世の生存を貪っている人は「生と老衰」を概念とは思えず、実体のあるものとして生存を貪る。
別の説明としては、「生と老衰」に続いて、病気そして死が続く。そして新たな「生と老衰」がある。これは輪廻を意味している。「生と老衰を乗り超える」とは輪廻を乗り超えるという意味。

(´・(ェ)・`)つ
0318名無しを整える。
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2018/01/01(月) 11:38:59.94ID:B7cuMvmh
>>316
1061
ドータカ学生の問いは疑問文の形で述べられていないから、不明確だが、
「あなたのお声を聞いて、自分の安らぎ(ニルヴァーナ=涅槃)を学びましょう。」と述べているから、自分の安らぎ(自分の涅槃)について教えて下さいと言うことだと思われる。
「自分の安らぎ(ニルヴァーナ)を学びましょう。」という文章に関して、中村先生の「ブッダのことば」(岩波文庫)の注に次のように書いてある。
「この文章をみるかぎり、安らぎを実現するために学ぶことがニルヴァーナであり、ニルヴァーナとは学びつつ(実践しつつ)あることにほかならない。
ブッダゴーサの注によると、「貪欲などをなくすために(ニルヴァーナのために)戒などを実践するのだと言い、ニルヴァーナを目的とみなし、戒などの実践を手段と見なしている。後代の教義はみなこういう見解をとっている。
しかしこういう見解によるならば、人間はいつになっても、戒律の完全な実践は不可能であるから、ニルヴァーナはついに実践されないであろう。
この詩の原文によって見るかぎり、学び実践することが、ニルヴァーナであると漠然と考えていたのである、と解することができよう。」
中村先生の注のように、すなわち「ドータカ学生がニルヴァーナとは学びつつ(実践しつつ)あること」と考えていたのならば、この後のブッダの偈(言葉)で修正されることになると思われる。
もちろん、ドータカ学生はそれを期待していたのだと思われる。

1062
この偈の「自己の安らぎを学べ。」についても、「ブッダのことば」(岩波文庫)の注に、中村先生は次のように書いてある。「ここでも『自己の安らぎ(ニルヴァーナ)を学ぶ』というのは、よく気をつけて、熱心であることにほかならない。」と。
今回の偈はブッダの言葉だから、この偈の解釈が中村先生の注の通りであれば、それはブッダの教えということになる。
しかし、ブッダは自己の安らぎ(ニルヴァーナ)について、理法を述べてはいないから、「『自己の安らぎ(ニルヴァーナ)を学ぶ』というのは、よく気をつけて、熱心であることにほかならない。」ということで完結させてはいけないように思われる。
これから理法を述べるから、よく気をつけて、熱心に聞いて、学べと述べているとうに思われる。

1063
ドータカ学生の言葉。この偈の趣旨は二つあり、一つは、彼はブッダが無所有の境地にあることを認め、それ故に「私はブッダを礼拝します」ということである。
当時のバラモン達にとっては「無所有の境地」は最高の境地であり、バラモン達が目指す境地であると考えていた。第五章の976で、16人の学生達の師匠であるバーヴァリ・バラモンも「無所有の境地を得ようと願って」と書かれていた。
もう一つは、「わたくしを諸々の疑惑から解き放ちたまえ。」ということ。ではこの諸々の疑惑とは何か? 無所有の境地で振舞われるブッダにお願いしていることだから、無所有の境地とは何であるか? 
どうすればその境地に至れるか? また私もその境地に至れるか?等の疑惑だと思われる。また無所有の境地と自分の安らぎ(涅槃)との関係についてドーカタ学生はどのように考えていたのか等これから明らかになる。

(´・(ェ)・`)つ
0319名無しを整える。
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2018/01/01(月) 11:42:54.24ID:B7cuMvmh
>>316
1064
今回はブッダの言葉。前半は、ブッダは疑惑ある者を解脱させることは出来ないと述べている。
疑惑ある者は自分で自分の疑惑をなくすべきであると言う。自分で解脱できるか分からないと迷っている人は解脱出来ない。自分は解脱できると確信した人のみが解脱できるのだろうから。
しかし、疑惑ある者を突き放しているわけではない。ブッダの話す最上の真理を聞くならば、自分で自分の疑惑を晴らすことができるだろうということ。
疑惑の具体的な内容は、無所有の境地とは何であるか? どうすればその境地に至れるか? また私もその境地に至れるか?等だから、それらは最高の真理を知れば解決できるであろう。
また無所有の境地と自分の安らぎ(涅槃)との関係については、ブッダは解脱という言葉で説明してるので、解脱することで最高の境地である安らぎ(涅槃)に達するので、無所有の境地は当然達することができると考えておられるように思われる。

1065
この偈ではドータカ学生がブッダに「遠離の法」を教えて下さいと頼んでいる。遠離の法を中村先生は「(この世の苦悩から)遠ざかり離れる理法」と訳されている。
ただこの偈をよく読むと、ドータカ学生は、遠離の法について一応のイメージを持っていることが解る。
大空のように何ものにも妨げられることないこと、すなわち静かな場所で他人に邪魔されないように一人でいること。次は、静かな心でいること。更に何ものにも依存しないで修行・生活すること。
これらを実践できるためには、どうしたらよいかブッダに尋ねている。以上三つのことを後に、身離、心離、依遠離の三離としてまとめられている。
この偈にそって以上考えてみたが、このような考え方は世間の常識から離れていることを始めに理解しておかなければよく分からないことなのである。
世間では、一人孤独でいることは寂しく避けるべきことであり、一人静かにいるよりは、多くの人々とワイワイ、ガヤガヤ騒ぐことが楽しいと考えているのだから。
この世の苦悩は人々と集合するからだと解っていないと遠離の法を求める気にならないのである。

1066
1053 参照
師が答えた、
「メッタグーよ。伝承によるのではなくて、
いま眼のあたり体得されるこの理法を、
そなたに説き明かすであろう。
その理法を知ってよく気をつけて行い、世間の執著を乗り越えよ。」
1066
師は言われた、
「ドータカよ。伝承によるのではない、
まのあたり体得されるこの安らぎを、
そなたに説き明かすであろう。
それを知ってよく気をつけて行い、世の中の執著を乗り越えよ。」
中村先生は同じパーリ語を少し違った訳にしてあるが、パーリ語原文の違いは「メッタグーよ」と「ドータカよ」及び「理法」と「安らぎ」だけである。
メッタグー学生には、煩悩、生と老いと悲しみを乗り越えるために、伝承でない体得された理法を説いたが、ドータカ学生には遠離の法を教えるために、伝承でない体得された理法を説くことになる。

(´・(ェ)・`)つ
0320名無しを整える。
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2018/01/01(月) 11:45:52.40ID:B7cuMvmh
>>316
1067
メッターグー経1054参照。
「最上の理法」が「最上の安らぎ」に変わっているだけ。
1054
偉大な仙人さま。
わたくしはその最上の理法を受けて歓喜します。
その理法を知ってよく気をつけて行い、
世間の執著を乗り越えるでしょう。
1067
偉大な仙人さま。
わたくしはその最上の安らぎを受けて歓喜します。
それを知ってよく気をつけて行い、
世の中の執著を乗り越えましょう。
ブッダが「伝承によるものでない、まのあたりに体得された安らぎを解き明かそう」と仰られたので、それに彼は歓喜した。
また、「それを知ってよく気をつけて行い、世の中の執著を乗り越えよ」と命じられたので、それを受けて「それを知ってよく気をつけて行い、世の中の執著を乗り越えましょう。」と応えた。

1068
ブッダのドータカ学生への最後の教え。この偈はメッタグー経の1055と前半は同じだが、後半は少し異なる。
前半は「上と下と横と中央とにおいて、そなたが気づいてよく知っているものは何であろうと」ということで、あなたが意識しているものは何でもということだった。
「上と下と横と中央とにおいて」については、「それを上と下と横と中央に分類した。これら何を意味しているのか。
単に意識する対象を空間的に、上にあるもの、下にあるものというように理解できたが、注釈書には、上は未来の時、下は過去の時、横と中は現在の時と言われていると書かれている。
しかし、この上、下、横、中は、時間や空間の意味ではなく、価値観(優劣観)の上下と取った方がブッダの真意を理解しやすいと思われる。
価値のあるもの(優れているもの)、価値のないもの(劣っているもの)、価値が普通のもの(同等のもの)のように理解するのです。」
1055の後半は次の通り。
「それらに対する喜びと偏執と識別とを除き去って、変化する生存状態のうちにとどまるな。」
今回の1068は次の通り。
「それは世の中における執著の対象であると知って、移りかわる生存への妄執をいだいてはならない」と。
表現は異なるが、趣旨は同じ。微妙な違いを指摘すれば、1055では「喜びと偏執と識別とを除き去って」であるが、1068では「生存への妄執をいだいてはならない」という所だと思われる。
(´・(ェ)・`)つ
0321名無しを整える。
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2018/01/01(月) 12:04:07.85ID:B7cuMvmh
>>318
けっきょく、
中村先生の言うように、
>「・・・安らぎを実現するために学ぶことがニルヴァーナであり、ニルヴァーナとは学びつつ(実践しつつ)あることにほかならない。
なのか、
ブッダゴーサの注に
>「貪欲などをなくすために(ニルヴァーナのために)戒などを実践するのだと言い、ニルヴァーナを目的とみなし、戒などの実践を手段と見なしている。
なのか、
どちらが、正しいのでありましょうか?
ニルヴァーナを目的地とすることは、悟りを目的地とすることでありましょうから、
ブッダゴーサが正しいかは別としても、
>ニルヴァーナとは学びつつ(実践しつつ)あることにほかならない。
と言うのは、目的が曖昧になりすぎるような気がするであります。
(´・(ェ)・`)つ
0322名無しを整える。
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2018/01/01(月) 14:26:02.71ID:B7cuMvmh
ブッダのことば(スッタニパータ)
第5 彼岸にいたる道の章、7、学生ウバシーヴァの質問

1069 ウバシーヴァさんがたずねた、
「シャカ族の方よ。わたしは、独りで他のものにたよることなくして大きな煩悩の激流をわたることはできません。わたしがたよってこの激流をわたり得る<よりどころ>をお説きください。あまねく見る方よ。」

1070 師(ブッダ)は言われた、「ウバシーヴァよ。よく気をつけて、無所有をめざしつつ、<なにも存在しない>と思うことによって、煩悩の激流を渡れ。諸々の欲望を捨てて、諸々の疑惑を離れ、妄執の消滅を昼夜に観ぜよ。」

1071 ウバシーヴァさんがいった、
「あらゆる欲望に対する貪りを離れね無所有にもとづいて、その他のものを捨て、最上の<想いからの解脱>において解脱した人、──かれは退きあともどりすることがなく、そこに安住するでありましょうか?」

1072 師は答えた、「ウバシーヴァよ。あらゆる欲望に対する貪りを離れ、無所有にもとづいて、その他のものを捨て、最上の<想いからの解脱>において解脱した人、──かれは退きあともどりすることなく、そこに安住するであろう。」

1073 「あまねく見る方よ。もしもかれがそこから退きあともどりしないで多年そこにとどまるならば、かれはそこで解脱して、清涼となるのでしょうか? またそのような人の識別作用(あとまで)存在するのでしょうか?」

1074 師が答えた、「ウバシーヴァよ。たとえば強風に吹き飛ばされた火炎は滅びてしまって(火としては)数えられないように、そのように聖者は名称と身体から解脱して滅びてしまって、(生存するものとしては)数えられないのである。」

1075 「滅びてしまったその人は存在しないのでしょうか? 或いはまた常住であって、そこなわれないのでしょうか? 聖者さま。どうかそれをわたくしに説明してください。あなたはこの理法をあるがままに知っておられるからです。」

1076 師は答えた、
「ウバシーヴァよ。滅びてしまった者には、それを測る基準が存在しない。かれを、ああだ、こうだと論ずるよすがが、かれには存在しない。あらゆることがらがすっかり絶やされたとき、あらゆる論議の道はすっかり絶えてしまったのである。」

(´・(ェ)・`)つ
0323名無しを整える。
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2018/01/01(月) 14:58:57.49ID:B7cuMvmh
>>322
1069
ブッダと第6番目の学生ウパシーヴァさんとの対話。ウパシーヴァさんはブッダに「シャカ族の方よ。わたしは、独りで他のものにたよることなくして、大きな煩悩の激流をわたることはできません。
わたしがたよってこの激流をわたり得る<よりどころ>をお説きください。」と弱音を吐いているようにも聞こえる。
「<よりどころ>をお説きください。」は、これからこの困難を乗り越える決意の表れである。

1070
ウパシーヴァさんは無所有処定(無色界の禅定の一つ)を得ている。この禅定は色界禅定の上のレベルの高度な禅定。彼は既に多くの修行を積んでいる修行者。
しかし、禅定というものは、レベルの高い禅定状態であっても悟りとは異なり、禅定状態の時にのみ、煩悩が機能しない状態になっているだけで、禅定状態から離れると、元の人間に戻り、人格などは変わっていない。
そのことを知っていたから、ウパシーヴァさんは「一人では激流を渡れない」と言った。

そこで、ブッダはウパシーヴァさんに「無所有処定」の体験を<依り所>にして、その時の「何ものもない」という思い(表象)を依り所にして、
諸々の欲望を捨て、諸々の疑惑を離れて、渇愛(欲しいという思い)の消滅を、気づきを持って、昼も夜も求めなさいと教えた。
「何ものもない」と言う思いは普通の人には思えない思いである、ウパシーヴァさんは「無所有処定」の体験をしたから、そのように思える。
禅定には色界禅定と無色界禅定とある。
色界禅定は以下の通り、これは八正道の正定で定義されているもの。
第一禅定には、もろもろの欲をはなれ、もろもろの不善の法をはなれ、大まかな考察のある、細かな考察のある、遠離から生じた喜びと楽がある。(尋、伺、喜、楽、一境性)
第二禅定には、大まかな考察、細かな考察が消え、心の統一された、大まかな考察、細かな考察のない、心の安定により生じた喜びと楽がある。(喜、楽、一境性)
第三禅定では、喜びを離れていることから、平静を備え、念を備え、正知をそなえて住み、楽を身体で感じる。(楽、一境性)
第四禅定には、楽を断ち、苦を断ち、苦も楽もない、平静による念の清浄がある。(捨、一境性)
さらに無色界の禅定がある。
空無辺処定は、無辺の空間を対象として定める禅定。
識無辺処定は、無限の認識を対象として定める禅定。
無所有処定は、何ものもそこにはないものを対象として定める禅定。
非想非非想処定は、想でも無想でもない状態に入る禅定。

1071
禅定状態においては欲望や怒りを鎮静させているだけ。だから禅定状態から離れれば、またそれらの煩悩は現れてくる。だから、煩悩のある状態に退き後戻りする。
しかし、あらゆる欲望に対する貪りを離れ、無所有にもとづいて、その他のもの(その他の煩悩)を捨ててしまえば、この状態を<想いからの解脱>と述べているが、「その時は禅定から離れても煩悩が戻ってこないのか」
とウパシーヴァさんはブッダに尋ねている。これに対してブッダは如何に答えられるのか?

1072
今回の偈は前回の疑問文が肯定文に変わっただけ。すなわち、「・・・・・最上の<想いからの解脱>において解脱した人、かれは退きあともどりすることがなく、そこに安住するでありましょうか?」から次の文に変わっただけ。
「・・・・・最上の<想いからの解脱>において解脱した人、かれは退きあともどりすることなく、そこに安住するであろう。」何故そのように言えるのかと言えば、ブッダが実際に体験した事実だから。
この偈で特に学ぶべきことは、禅定を究めると言うよりは、偈の前半の「あらゆる欲望に対する貪りを離れ、その他のもの(煩悩)を捨て、」ということを、日常生活のなかでよく気づき、実践することだと思われる。
(´・(ェ)・`)つ
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