>>176
○毎田周一先生訳
841.
「自分の考えにだけとりついて ものを聞いているから
マーガンディヤよ と世尊はいわれた
執著を離れられず あなたは世迷言を言っている
あなたは今ここではっきりと ものを見ていないではないか
そうして私のいうことを人を惑わす教えだなどといっている

ブッダはマーガンディヤさんに教える。
自分の考えという色メガネで物を見ているので正しくもの見られないのだと説かれている。
そもそもマーガンディヤさんの質問は「どのようにして愛欲を超越して、欲望から離れるような徳を身につけるのか?」ということであった。
しかし、マーガンディヤさんはその答えを「そのためには、どのような見解を持ち、どのような道徳を守り、どのような生活をすればよいのか?」という問いの答えを期待した。
マーガンディヤさんの前半の質問は、「どのようにしたら清らかになるか?」ということであり、「どのようにして内心の平安を得るか?」ということ。
しかしマーガンディヤさんの後半の質問はブッダにとっては(真理からみれば)成り立たないもの。
たとえて言えば、ウサギの角は長いですか、短いですか?」というようなもの。なぜならば、見解、学問、知識、徳行などによって人は清らかになるものではないから。

○毎田周一先生訳
842.
等しいとか 勝れているとか あるいはまた劣っているとか そういう比較の立場に立って
ものを考えている人は 必ずひとと争うだろう
しかしこのような物を比較する三つの関係のどちらへも揺れ動かぬ人――
そういう人には『等しい』とか『勝れている』とかいうことはないのである

ブッダはマーガンディヤさんがよく理解できないようなので、話題を少し変えた。比較するということについて話した。二つのものを比較すると違いがあることが解る。
その違いをある人は一方を勝れていると思い、他方は劣っていると思う。或は等しいと判断する場合もある。しかし、この判断は人によって異なる。ある人が勝れていると判断した物を、別の人は劣っていると判断する。
このために論争が起こる。
論争をしない人がいる。このような人は二つのものを比較して違いがあることは分かっているが、勝れているとか劣っているとか等しいとは判断しない。
何故ならばこの世界のどのような二つを取って、比べても決して同じものはなく、違いがあるのは当たり前である。また違いがあるのは片方の存在があるからである。片方がなければ勝れているとも劣っているともいえない。
たとえ勝れていると言われてもそれはもう片方のおかげ。だから勝れていることに価値を置くことは出来ない。
比べて等しいと言う場合も厳密に言えば等しくはない。等しいと、自分の都合で妄想しているだけ。
という訳で、論争しない人の心は比較しても心は落ち着いている。繰り返すが、世の中のものは違ってあたりまえ。それに対して論争することがあるか。

○毎田周一先生訳
843.
道に達した人は 何をさして『これは真理である』と主張するだろうか
又誰に向って『これは虚妄である』と争うだろうか
等しいとか等しくないとかいうことのなくなった人が
一体誰と論争を始めるだろうか

毎田先生訳の「道に達した人」あるいは中村先生訳の「そのバラモン」あるいは正田先生訳の「〔真の〕婆羅門たる彼」は、842で述べられた比較して揺れ動かない人、「等しい」とか「勝れている」とかいう思いのなくなった人を指している。
そのような人は「これは真理である」とか「これは虚妄である」と主張しない。また誰とも論争しないと述べられている。
優劣の思いのなくなった人には、これが「清らかである」とか「これが清らかでない」という思いもなくなっている。そのため内心の平安という状態になっている。
ブッダの説法はマーガンディヤさんの質問に戻って行くが、道に達した人(そのバラモン)は見解、学問、知識、徳行などによって、優劣の思いをなくしたのではない。
見解、学問、知識、徳行にたいする先入観からはなれて、今ここではっきりとものを見ることで、事実を見て優劣を離れたのです。ここが重要なところです。

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