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鬼和尚の仏教勉強会 講読ゼミ
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2017/10/28(土) 12:13:14.50ID:RQll0QsW
前スレ:鬼和尚の仏教勉強会 悟りの真実 2

ブッダのことば(スッタニパータ)
第3 大いなる章、6、サビヤ

533 サビヤがいった、「何を得た人を<学識ある人>と呼ぶのですか? 何によって<すぐれた人>となるのですか?
 またいかにして<行いの具わった人>となるのですか? <遍歴行者>とはそもそも何ですか?
 先生! おたずねしますが、わたくしに説明してください。」

534 師が答えた、「サビヤよ。教えを聞きおわって、世間における欠点あり或いは欠点のないありとあらゆることがらを熟知して、あらゆることがらについて征服者・疑惑のない者・解脱した者、煩悩に悩まされない者を、<学識のある人>と呼ぶ。

535 諸々の汚れと執著のよりどころを断ち、智に達した人は、母胎に赴くことがない。三種想いと汚泥とを除き断って、妄想分別に赴かない、──かれを<すぐれた人>と呼ぶ。

536 この世において諸々の実践を実行し、有能であって、常に理法を知り、いかなることがらにも執著せず、解脱していて、害しようとする心の存在しない人、──かれは<行いの具わった人>である。

537 上にも下にも横にも中央にも、およそ苦しみの報いを受ける行為を回避して、よく知りつくして行い、偽りと慢心と貪欲と怒りと<名称と形態>(個体のもと)とを滅ぼしつくし、得べきものを得た人、──かれを<遍歴の行者>と呼ぶ。」

 そこで、遍歴の行者サビヤは師の諸説をよろこび随喜し、こころ喜び、楽しく、嬉しく、欣快の心を生じて、座から起ち上って、上衣を一方の肩にかけ(右肩をあらわし)、師に向かって合掌して、ふさわしい詩を以て目のあたり師を讃嘆した。

538 「智慧ゆたかな方よ。諸々の<道の人>の論争にとらわれた、名称と文字と表象とにもとづいて起った六十三種の異説を伏して、激流をわたりたもうた。
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2017/12/07(木) 19:09:34.26ID:Kx9Ri+sP
>>170
○毎田周一先生訳
829.
あるいはまた人の集りの中で 自分の考えを述べて
それがほめられると
その人がかねて望んでいた利益を得たのだから
如何にも得意そうに自惚れることになる

実は褒められることは利益になるかどうかわからない。
人は褒められると嬉しくなる。褒められても自分はまだまだと思う謙虚な人は素晴らしが、多くの人は、心が高ぶる。中村先生の訳で「心が高ぶる」とは高慢になるということ。この高慢が問題。
人が高慢になれば、褒められることは不利益になる。

○毎田周一先生訳
830.
自惚こそは人の苦しみを生み出す土壌である
それなのに彼は愈々いい気になって思い上がったことをいう
これを見てもひとはいい争うことを止めねばならぬ
何故なら賢い人はそんな処に清らかさがあるとはいわないからである

一行目の三人の先生方の訳はニュアンスが異なる。
「自惚こそは人の苦しみを生み出す土壌である」
「心の高ぶりというものは、かれの害われる場所である。」
「その傲慢なるもの――それは、彼にとっては、悩み苦しみの境地。」
パーリ語の「高慢」を「自惚れ」「心の高まり」「傲慢」とそれぞれ訳されている。
そして「破滅の地」を「苦しみを生み出す土壌」「害われる場所」「悩み苦しみの境地」という言葉で表現された。
論争の勝利者の心の問題点、その時の心の状態の危険性は予想外に大きなものであることにも気づかされる。
「高慢」が「苦しみを生み出す土壌」「害われる場所」「悩み苦しみの境地」であることを知って、論争を止めるように述べている。
さらに四行目には論争に勝つことで「清浄」が得られないと賢者達が説いている。そもそも「清浄(真理)」を求めて論争するのだが、論争では「清浄」は得られないから、論争を止めよということ。

○毎田周一先生訳
831.
たとえば王侯から食禄を得ている勇ましい人が
敵の中に強い相手を求めながら 叫び声をあげて突き進むように
勇ましい人は 敵の居る処へとび込んでゆくがよい
そこにはしかし戦わねばならぬことは何もないのである

論争を好む者、論争を求める者を勇者にたとえて、皮肉を込めて述べている。
中村先生の訳、「王に養われてきた勇士」とは、自分の先生とか先輩の意見や業績に依存している論争者という意味。「相手の勇士」とは「論争の相手」。
「喚声を挙げて進んでゆくようなものである。」とは、論争の相手を探して論争を挑むがよいということだが、その時の論争の相手とは、中村先生がカッコの中で書かれているように、(汝にふさわしい、真理に達した人)。
次に「相手として戦うべきものは、あらかじめ存在しないのである。」とある。これは真理に達した人は、これが真理だと主張する所がないので、あなたは戦うことが出来ないのだと述べている。
(´・(ェ)・`)つ
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2017/12/07(木) 19:10:26.55ID:Kx9Ri+sP
>>170
○毎田周一先生訳
832.
ある学説をとり上げて議論を吹きかけてきて
「これこそ本当なのだ」という人があれば
そういう人にあなたはいってやるがよい――
いい争うとしても あなたの相手はここにはいませんと

論争を挑む者はある見解(偏見)をもって、「これのみが真理である」と述べるものだから、「汝と対論する者はここにいない」と応えよと教えている。

○毎田周一先生訳
833.
これとは反対に もう敵というものをもたない処に生きて
色々な考えに一つの考えを対立させない人達がある
パスーラよ あなたはこういう人達から何か得られると思うのか
その人達にはもうこれが最上のことだといって掴んでいるものは何もないのである

毎田先生と正田先生の訳では誤解がないと思うが、中村先生の訳の場合は誤解する恐れがある。と言うのは、883の「かれら」は誰をさしているか明確でないから。
「かれら」を882の「(特殊な)偏見を固執して論争をする人々」とも取れなくはない。
その点、毎田先生と正田先生の訳では、「これとは反対に」あるいは「いっぽうで」という言葉があるから、「(特殊な)偏見を固執して論争をする人々」ではなく、「論争をやめた人々」を意味していることになる。
もちろん中村先生の訳も他の先生と同じにも理解できるが、誤解されるおそれがあるということ。
この偈でブッダはパスーラさんに「お前は論争をやめた人々の処に行って、何を求めようとしているのか? 彼等には「最上だと」固執するものは何もないのだよ。」と教えていることになる。

○毎田周一先生訳
834.
ところであなたは色々の学説を心の中で思いめぐらせながら
そこに真理を尋ね求めているようだが
そういうことでは いくら清められた人に出会って学んでいるといっても
それ以上に先に進むことはとてもあなたには出来ないだろう

833偈で「敵というものを持たない処に生きて、色々な考えに一つの考えを対立させない人達とは論争出来ない」という真理が述べられた。
そのことを理解していないパスーラさんは「自分こそは勝利を得るであろう」と思いをめぐらして、心中にもろもろの偏見を考えてブッダと論争しようとやって来た。
ブッダはまさに、「敵というものを持たない処に生きて、色々な考えに一つの考えを対立させない人」なのだから、パスーラさんはブッダと論争しようにも論争出来ない。
それで「パスーラよ。 汝もこの真理(ことわり)を識って、争論と偏見とを離れるべきである。」ということになる。
三人の先生の訳が微妙に違う。パーリ語の yuga(軛を)の訳し方が異なる。
毎田先生と中村先生は軛という言葉がない。正田先生だけが軛という言葉を使っています。軛(くびき)とは、車の轅(ながえ)の端につけて、牛馬の後頸にかける横木。この偈では軛は比喩として使っている。
毎田先生は、「清められた人に出会って学んでいる」という意味に使っている。中村先生と正田先生は「論争しようとすること」という意味に使っている。
注釈書には、山犬とライオンは同じ軛をつけては歩めないように、パスーラとブッダはともに同じ軛をつけて一歩もともに進むことが出来ないと説明されている。

(´・(ェ)・`)つ
0174鬼和尚 ◆GBl7rog7bM
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2017/12/07(木) 21:21:09.92ID:gi9LEfWt
>>169 そうじゃ、観察は微妙なものであるからのう。
 記憶したとおりにできるものではないのじゃ。
 記憶に反する行為なのじゃ。
 そうであるから記憶に依存したものには困難なのじゃ。
0175名無しを整える。
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2017/12/08(金) 08:30:04.32ID:IyYSqRNF
>>174
絵を描くのが下手な人の為の練習法として、対象物を逆さまにして描くと方法があるとのことで、子くまの頃にやってみたら、実際に効果あるのであります。
要は、普段見慣れたものを観察して描く時、記憶に引きずられてしまうが、逆さまにして描くと、見慣れない姿になるので、観察が緻密になる効果を利用した練習方法ではないかと思うのでありま。

心の観察にも使えそうであります。
(´・(ェ)・`)b
0176名無しを整える。
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2017/12/08(金) 18:26:39.51ID:IyYSqRNF
ブッダのことば(スッタニパータ)
第4 八つの詩句の章、9、マーガンディヤ

835 (師((ブッダ))は語った)、「われは(昔さとりを開こうとした時に)、愛執と嫌悪と貪欲(という三人の悪女)を見ても、かれらと婬欲の交わりをしたいという欲望さえも起らなかった。
糞尿に満ちたみの(女が)そもそも何ものなのだろう。わたくしはそれに足でさえも触れたくないのだ。」

836 (マーガンディヤがいった)、「もしもあなたが、多くの王者がもとめた女、このような宝、が欲しくないならば、あなたはどのような見解を、どのような戒律・道徳・生活法を、またどのような生存状態に生まれかわることを説くのですか?」

837 師が答えた、「マーガンディヤよ。『わたくしはこのことを説く』、ということがわたくしにはない。
諸々の事物に対する執著を執著であると確かに知って、諸々の偏見における(過誤を)見て、固執することなく、省察しつつ内心の安らぎをわたくしは見た。」

838 マーガンディヤがいった、「聖者さま。あなたは考えて構成された偏見の定説を固執することなしに、<内心の安らぎ>ということをお説きになりますが、そのことわりを諸々の賢人はどのように説いておられるのでしょうか?」

839 師は答えた、「マーガンディヤよ。『教義によって、学問によって、戒律や道徳によって清らかになることができる』とは、私は説かない。
『教義がなくても、学問がなくても、戒律や道徳を守らないでも、清らかになることができる』とも説かない
。それらを捨て去って、固執することなく、こだわることなく、平安であって、迷いの生存を願ってはならぬ。(これが内心の平安である。)」

840 マーガンディヤがいった、「もしも、『教義によっても、学問によっても、知識によっても、戒律や道徳によっても清らかになのことがではない』と説き、
また『教義がなくても、学問がなくても、知識がなくても、戒律や道徳を守らないでも、清らかになることができない』と説くのであれば、それはばかばしい教えである、とわたくしは考えます。
教義によって清らかになることができる、と或る人々は考えます。」

841 師は答えた、「マーガンディヤよ。あなたは(自分の)教義にもとづいて尋ね求めるものだから、執著したことがらについて迷妄に陥ったのです。
あなたはこの(内心の平安)について微かな想いをさえもいだいていない。だから、あなたは(わたしの説を)『ばかばかしい』とみなすのです。

842 『等しい』とか『すぐれている』とか、あるいは『劣っている』とか考える人、──かれらはその思いによって論争するであろう。
しかしそれらの三種に関して動揺しない人、──かれには『等しい』とか、『すぐれている』とか、(あるいは『劣っている』とか)いう思いは存在しない。

843 そのバラモンはどうして『(わが説は)真実である』と論ずるであろうか。
またかれらは『(汝の説は)虚偽である』といって誰と論争するであろうか?『等しい』とか『等しくない』とかいうことのなくなった人は、誰に論争を挑むであろうか。

844 家を捨てて、住所を定めずにさまよい、村の中で親交を結ぶことのない聖者は、諸々の欲望を離れ、未来に望みをかけることなく、人々に対して異論を立てて談論をしててはならない。

845 竜(修行完成者)は諸々の(偏見)を離れて世間を遍歴するのであるから、それらに固執して論争してはならない。
たとえば汚れから生える、茎に棘のある蓮が、水にも泥にも汚されないように、そのように聖者は平安を説く者であって、貪ることなく、欲望にも世間にも汚されることがない。

846 ヴェーダの達人は、見解についても、思想についても、慢心に至ることがない。かれらの本性はそのようなものではないからである。かれらは宗教的行為によっても導かれないし、また伝統的な学問によっても導かれない。

847 想いを離れた人には、結ぶ縛めが存在しない。智慧によって解脱した人には、迷いが存在しない。想いと偏見とに固執した人々は、互いに衝突しながら、世の中をうろつく。」

(´・(ェ)・`)つ
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2017/12/08(金) 20:07:05.43ID:IyYSqRNF
>>176
○毎田周一先生訳
835.
「私は嘗て『渇望』と『不満』と『貪欲』と(いう女)を見たが
それと一つになろうとは決して思わなかった
この尿と糞とに充ちた汚いもの それが一体何であろうか
私は足でそれに触れようとさえ思わない」

「マーガンディヤ経」は注釈書によれば、クル国のバラモン・マーガンディヤがブッダにあって、自分の美しい娘を嫁がせようとして、娘を着飾って妻とともに出かけていって申し出ます。
しかし世尊は「美女に用はない」と取り合いません。そこでマーガンディヤは「美女もいらぬとはどいう考えだ」とその考え方を問いただします。
その時の対話がこの経。最後はこのバラモンは妻とともに出家して阿羅漢になったという。
ブッダは次のように語った。「私がブッダになる前に一大決意で冥想の座についた時、悪魔の大軍が襲来して、悟りの完成を妨げに来ました。
その中に『渇望』と『不満』と『貪欲』という名前の悪魔の娘がいました。その三人は人間をだまして美しく見せていましたが、私はだまされません。
汚れた醜いものしか見えませんでした。同棲することはもちろん、足で触れることさえも望みません。糞や尿で満ちた女が何だというのですか。私には興味のないことです。」と。

○毎田周一先生訳
836.
「もしあなたが多くの帝王達に宝玉のように求められてた
その女を手に入れようと思われないのなら
それでは一体あなたは どんな学説と徳行と生活の仕方と
またどんな状態に生まれかわることとを 説こうとされるのですか」

マーガンディヤさんは、多くの王たちに求められている自分の美しい娘を、ブッダに拒否されたことを理解できなかった。
そこでブッダは愛欲を超越して欲望から離れた出家者だと考えた。
それならば、どのようにして愛欲を超越して、欲望から離れるような徳を身につけるのかを聞きたくなった。
ブッダの見解、道徳、生活の仕方、生存の再生(輪廻)について質問した。

○毎田周一先生訳
837.
「『私はこのように説く』ということが抑々私にはないのである
マーガンディヤよ と世尊はいわれた
この世にある色々の事にとりついてゆく自分であることを知って
私は色々の見解に接しても それを一つも取上げないことにした
こうして初めて私は自分の中に平安を見出したのである」

ブッダの答えは、マーガンディヤさんの期待していたものと大きく異なっていた。
ブッダの答えは出世間のもの。解脱するための答え。それには特定な方法はない。だから、ブッダは「わたくしはこのことを説く」ということがないと答えた。
ただ、「諸々の事物に対する執著を執著であると確かに知って、諸々の偏見における(過誤を)見て、固執することなく、省察しつつ内心の安らぎをわたくしは見た。」と答えた。
ここで「安らぎ」は涅槃を意味しているが、執着に固執しないことによって涅槃を体験したと述べられている。

(´・(ェ)・`)つ
0178名無しを整える。
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2017/12/08(金) 20:22:31.05ID:IyYSqRNF
>>176
○毎田周一先生訳
838.
「よく考えて確かめられた そのような見解に
とマーガンディヤはいった
そのような見解に捉われないで 静かな人よ
あなたは『自分の内に平安』を見出したといわれますが
そういう意味のことを賢い人達も こういうことだと説き明かしていられるのでしょうか

838は、よく頭を切り替えて読まなければ、マーガンディヤさんが誤解して頓珍漢な愚問をしたことに気づけない。
ブッダは「私はこのことを説く」ということがないと言われているのに、マーガンディヤさんはブッダが何かを説いていて、そのような事柄を他の賢者達も説いておられているのかと質問している。
ブッダは彼の質問に答えるのではなく、自分の意図を説明した。

○毎田周一先生訳
389.
「見解とか 学問とか 知識とか
マーガンディヤよ と世尊はいわれた
そして徳行とか そういうもので人が清らかになるとは 私はいわない
そして又無見解や無学や無知や
そして不徳や非行などによっても 人が清らかになるとは 私はいわない
そういうことをすべて捨てて 捉われず
拠り所など何も持たず この世のことに少しも望みをかけぬがよい」

838でマーガンディヤさんが質問した問は「<内心のやすらぎ>ということをお説きになりますが、そのことわりを諸々の賢人はどのように説いておられるのでしょうか?」という愚問。
そこでブッダはその問には答えずに、今回の偈を述べた。
「『教義によって、学問によって、戒律や道徳によって清らかになることができる』とは、私は説かない。
『教義がなくても、学問がなくても、戒律や道徳を守らないでも、清らかになることができる』とも説かない。」とブッダは述べた。
簡単に言えば、「善いことをしても清らかにならない、またもちろん悪いことをしても清らかにならない。」と述べられた。
ブッダはこの言葉の後に「それらを捨て去って、固執することなく、こだわることなく、平安であって、迷いの生存を願ってはならぬ。(これが内心の平安である。)」
と述べたが、マーガンディヤさんはこの言葉の意味を理解する前に前半の言葉に反発してしまった。

○毎田周一先生訳
840.
「もしもそのように見解とか学問とか知識とか
とマーガンディヤはいった
そして徳行とか そういうもので人は清らかにはならぬといわれ
又無見解や無学や無知や
そして不徳や非行などによっても 清らかにならぬといわれるなら
それは人を惑わす教えだと私は思います
ある人々はものの見方で清らかになれると信じているではありませんか」

マーガンディヤさんは、見解とか学問とか知識とか徳行にこだわっている。それ以外の考え方があるとは思いもよらないこと。だからそれらに依っても或はそれらに依らなくても清浄にならないと言われたらどうしたらいいのだと思ってしまう。
そのため、そのような考え方は「人を惑わす教えだ」或は「ばかばかしい教えである」或は「迷愚な教えだ」と思ってしまう。多くの人々は一度ある考えにとりついてしまうとそれ以外の発想が出来なくなるもの。
(´・(ェ)・`)つ
0179名無しを整える。
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2017/12/08(金) 20:34:35.51ID:IyYSqRNF
>>176
○毎田周一先生訳
841.
「自分の考えにだけとりついて ものを聞いているから
マーガンディヤよ と世尊はいわれた
執著を離れられず あなたは世迷言を言っている
あなたは今ここではっきりと ものを見ていないではないか
そうして私のいうことを人を惑わす教えだなどといっている

ブッダはマーガンディヤさんに教える。
自分の考えという色メガネで物を見ているので正しくもの見られないのだと説かれている。
そもそもマーガンディヤさんの質問は「どのようにして愛欲を超越して、欲望から離れるような徳を身につけるのか?」ということであった。
しかし、マーガンディヤさんはその答えを「そのためには、どのような見解を持ち、どのような道徳を守り、どのような生活をすればよいのか?」という問いの答えを期待した。
マーガンディヤさんの前半の質問は、「どのようにしたら清らかになるか?」ということであり、「どのようにして内心の平安を得るか?」ということ。
しかしマーガンディヤさんの後半の質問はブッダにとっては(真理からみれば)成り立たないもの。
たとえて言えば、ウサギの角は長いですか、短いですか?」というようなもの。なぜならば、見解、学問、知識、徳行などによって人は清らかになるものではないから。

○毎田周一先生訳
842.
等しいとか 勝れているとか あるいはまた劣っているとか そういう比較の立場に立って
ものを考えている人は 必ずひとと争うだろう
しかしこのような物を比較する三つの関係のどちらへも揺れ動かぬ人――
そういう人には『等しい』とか『勝れている』とかいうことはないのである

ブッダはマーガンディヤさんがよく理解できないようなので、話題を少し変えた。比較するということについて話した。二つのものを比較すると違いがあることが解る。
その違いをある人は一方を勝れていると思い、他方は劣っていると思う。或は等しいと判断する場合もある。しかし、この判断は人によって異なる。ある人が勝れていると判断した物を、別の人は劣っていると判断する。
このために論争が起こる。
論争をしない人がいる。このような人は二つのものを比較して違いがあることは分かっているが、勝れているとか劣っているとか等しいとは判断しない。
何故ならばこの世界のどのような二つを取って、比べても決して同じものはなく、違いがあるのは当たり前である。また違いがあるのは片方の存在があるからである。片方がなければ勝れているとも劣っているともいえない。
たとえ勝れていると言われてもそれはもう片方のおかげ。だから勝れていることに価値を置くことは出来ない。
比べて等しいと言う場合も厳密に言えば等しくはない。等しいと、自分の都合で妄想しているだけ。
という訳で、論争しない人の心は比較しても心は落ち着いている。繰り返すが、世の中のものは違ってあたりまえ。それに対して論争することがあるか。

○毎田周一先生訳
843.
道に達した人は 何をさして『これは真理である』と主張するだろうか
又誰に向って『これは虚妄である』と争うだろうか
等しいとか等しくないとかいうことのなくなった人が
一体誰と論争を始めるだろうか

毎田先生訳の「道に達した人」あるいは中村先生訳の「そのバラモン」あるいは正田先生訳の「〔真の〕婆羅門たる彼」は、842で述べられた比較して揺れ動かない人、「等しい」とか「勝れている」とかいう思いのなくなった人を指している。
そのような人は「これは真理である」とか「これは虚妄である」と主張しない。また誰とも論争しないと述べられている。
優劣の思いのなくなった人には、これが「清らかである」とか「これが清らかでない」という思いもなくなっている。そのため内心の平安という状態になっている。
ブッダの説法はマーガンディヤさんの質問に戻って行くが、道に達した人(そのバラモン)は見解、学問、知識、徳行などによって、優劣の思いをなくしたのではない。
見解、学問、知識、徳行にたいする先入観からはなれて、今ここではっきりとものを見ることで、事実を見て優劣を離れたのです。ここが重要なところです。

(´・(ェ)・`)つ
0180名無しを整える。
垢版 |
2017/12/08(金) 20:38:43.23ID:IyYSqRNF
>>176
○毎田周一先生訳
844.
家の生活を捨ててひとところに定住せず 思いのままに道を行き
村里の生活に親しみ近づかぬ 静かな人は
色々の欲望を離れて 世間には目もくれず
ひとと違った説など述べ立てて 議論する筈がない

優劣の思いない道に達した人、バラモンは、家庭生活を捨てて、定住しないで遍歴する。在家の人々と親交を深めるということはない。このような生活法をしなければならないと考えて、このようにしているわけではない。
道に達した人はいろいろな欲望から離れているので、世間のいろいろな事柄に期待、希望を持たないから、自然にそのような生活態度になる。世間の事柄に目もくれず、関心がないので、それに対して何か特別な見解を持って論争をすることもない。

○毎田周一先生訳
845.
何の捉われもなく この世を堂々と生きてゆく修道者は
これが自分の説だなど論ずべきではない
水に生える棘(とげ)のある蓮が
水にも泥にも汚されぬように
静かな人は安らぎへの道を明かして 情熱に駆られず
欲望にも世間にも汚されない

始めの二行は前回の偈を受けて、道に達した聖者は諸々の偏見から離れているので、自説を取り上げて、論争する筈はない。また論争すべきではないと強調している。
次の二行はそのような聖者を蓮に譬えている。蓮は池底の泥に根を張り、そこから茎が伸び、葉や花は水面に抜き出す。その時、葉や花は水や泥で汚れない。そのように聖者は欲望にも世間にも汚されない。
その時の聖者の様子は安らぎ(平安あるいは寂静)を説く者であって、貪ることがないと述べられている。
これは解脱した聖者の境地。

(´・(ェ)・`)つ
0181名無しを整える。
垢版 |
2017/12/08(金) 20:46:32.71ID:IyYSqRNF
>>176
○毎田周一先生訳
846.
至上の智慧に到った人は 意見をもつとか物が解るとかいうことで
思い上りはしない 何故ならそのような意見や見解がもうその人にはないからである
彼は如何に行い 如何に学ぶかというようなところに生活の中心をおかない
固定した立場などに立ってはいない

この偈のパーリ語原文の vedagは三人の先生の訳は次の通り。「至上の智慧に到った人」、「ヴェーダの達人」、「〔真の〕知に至る者」、これらを三通り読んでみるとこの語のイメージが解ってくる。しかし訳は全然異なる言葉。

それに続く訳も三人の先生の訳は同じようだが、細かいところでかなり異なる。これはブッダの言葉に対する三先生の理解が異なるから。訳が間違えというわけではないが、理解は異なるということ。

○毎田周一先生訳
847.
思想を持たないものは自由を束縛されない
智慧によって自在を得たものには迷いはない
思想や見解を掴んでいる人達は
ひとにぶつかりながら 世の中を右往左往する

ブッダのマーガンディヤさんへの説法は、想を離れて、慧で解脱した人は自由で迷いがなく、想いと偏見を固執している頑固の人は人々と衝突しながら生きているとまとめられたのです。この偈で「マーガンディヤ経」は終わります。

この偈の一行目の「想を離れた人」と「智慧で解脱した人」を別の人と考えると前者は心解脱した人、後者は慧解脱した人になる。
テーラーワーダ仏教では心解脱の人は不還果で慧解脱の人は阿羅漢。両者もう輪廻することはないが、不還果の人はまだ完全には無明が除かれていない。

(´・(ェ)・`)つ
今回は
>>179
843.の解説で、
>見解、学問、知識、徳行にたいする先入観からはなれて、今ここではっきりとものを見ることで、事実を見て優劣を離れたのです。ここが重要なところです。

と書いてるであります。
0182鬼和尚 ◆GBl7rog7bM
垢版 |
2017/12/08(金) 22:19:00.35ID:0IfRVJrZ
教義や学問は実践を教えるものじゃ。
それだけでは清らかになれないのじゃ。

しかし、それらによって実践を知ることができるのであるから、それらが無しで清らかになるとも説かないのじゃ。
教義や学問によって実践するべきことを知り、実践することで清らかになるのじゃ。
  
0183名無しを整える。
垢版 |
2017/12/09(土) 07:58:05.73ID:+fLDLAq4
ブッダのことば(スッタニパータ)
第4 八つの詩句の章、10、死ぬよりも前に

848 「どのように見、どのような戒律をたもつ人が『安らかである』と言われるのか? ゴータマ(ブッダ)よ。おたずねしますが、その最上の人のことをわたくしに説いてください。」

849 師は答えた「死ぬよりも前に、妄執を離れ、過去にこだわることなく、現在においてもくよくよと思いめぐらすことがないならば、かれは(未来に関しても)特に思いわずらうことがない。

850 かの聖者は、怒らず、おののかず、誇らず、あとで後悔するような悪い行いをなさず、よく思慮して語り、そわそわすることなく、ことばを慎しむ。

851 未来を願い求めることなく、過去を思い出して憂えることもない。[現在]感官で触れる諸々の対象について遠ざかり離れることを観じ、諸々の偏見に誘われることがない。

852 (貪欲などから)遠ざかり、偽ることなく、貪り求めることなく、慳みせず、傲慢にならず、嫌われず、両舌を事としない。

853 快いものに耽溺せず、また高慢にならず、柔和で、弁舌さわやかに、信ずることなく、なにかを嫌うこともない。

854 利益を欲して学ぶのではない。利益がなかったとしても、怒ることがない。妄執のために他人に逆らうことなく、美味に耽溺することもない。
(´・(ェ)・`)つ
0184名無しを整える。
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2017/12/09(土) 10:43:35.87ID:+fLDLAq4
>>183
○毎田周一先生訳
848.
「どのように物を見 又どのように行いを保つ人が
平安であるといわれるのでしょうか
ゴータマよ 私はお尋ねしている 
その最高の人について どうぞ教えて下さい」

この経の因縁物語によると不思議な経。世尊が多くの神々が集まる大集会で説法をしていた時、神々に「さあ一体、身が壊れる(死ぬ)前に何をすべきか」という心が生じたのを知ったが、どの神々も世尊にその問を発しない。
そこで世尊は神々のために御自身の化身(もう一人のブッダ)を作って、その化身に質問させた。
この問はどのようにして寂静者と呼ばれる聖者になるのかという問いではない。聖者はどのように物事を見て、どのように道徳を守っているかを問うもの。聖者の有り方、生き方を問うもの。それを聞いて、死ぬ前に為すべきことを学ぼうとした。
この問の答えは神々ばかりでなく、人間にとっても学ぶべきもの。

○毎田周一先生訳
849.
「死なない前に 愛欲を絶って
と世尊はいわれた
その人は過ぎ去ったことに捉われず
今のことを煩わず 
未来に向かって用意などしない

第一の答えは、死ぬ前に「愛欲(妄執、渇愛)から離れている。」ということ。仏教の根本的な教えである四聖諦で述べられているように、渇愛は苦の原因。
聖者は一切の苦を滅しているから、苦の原因である渇愛を滅している。そこが聖者について語るとき第一のポイントになる。
次のポイントは聖者の時間に対する態度。聖者は過去、現在、未来に対してどのような態度を取っているか述べられている。
過去に対して、正田先生は過去について過去の記憶と解説してるが、聖者は過去或は過去の記憶に対してこだわることがない。だから後悔をすることもなく、思い悩むこともない。
現在については、渇愛から離れているから、執着することがない。執着していないから、物事を正しく見て、判断できる。正しく見て、正しく判断できれば、正しく行為できる。正しく行為できれば、その結果は成功する。
そうすれば人からとやかく言われることなく、称賛される。聖者の現在はいつも平安。その周りの人々も幸せになる。
また、未来についてはまだ起きてないことだから、起きてない事柄について心配することはない。
未来に起きる事象を限りなく予測することが出来る。しかし、その中の一つが起きるかどうか分からない。世の中のことはすべて想定外のことが起きる場合の方がむしろ多い。それらについていちいち心配するのは無意味。
起きた現象に適切に対応すればよい。聖者は悩むことがないから、それらを巧妙に行うことが出来る。それは法に従うということで、聖者の方法。
(´・(ェ)・`)つ
0185名無しを整える。
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2017/12/09(土) 10:49:52.21ID:+fLDLAq4
>>183
○毎田周一先生訳
850.
この静かな人は怒らず怖れず
自惚れず また悔いることなく
聡明に語って 思いをたかぶらせず 
そして言葉を慎しむ

怒りとは、自分の情欲に対立することがある時起こる。しかし聖者は愛欲(妄執、渇愛)から離れているから、情欲がない。そのため怒りが現れない。だから聖者は怒らない。
恐怖とは、死ぬかもしれないという感情。すべての生き物は何としても生きていたいという想いがあるから死ぬかもしれないという感情は恐怖。
しかし、聖者は渇愛がないから、何としても生きていたいという想いがない。だから恐怖がない。そのため聖者は怖れない。
自惚れとは、他人と自分を比較して自分の優位を誇ること。しかし、比較するということをしない聖者は自惚れることはない。また、そもそも自分という想いのない聖者には誇る自己がない。ですから聖者は自惚れない。
悔いるとは、過去の行為について後悔すること。しかし、聖者は過去について捉われていないから後悔することがない。
聡明に語って(よく思慮して語り、明慧によって話し)とは、事実を語ること、自分の主観をまじえずに語ること。その際慈しみの心で語ること。自分の話しで他の人を傷つけることがないように配慮すること。
思いをたかぶらせず(そわそわすることなく、〔心が〕高ぶらない)とは、興奮せずに、落ち着いていること。
言葉を慎しむ(言葉を制し)とは、言葉に関する悪行為(妄語、両舌、悪口、無用語)をしないこと。

○毎田周一先生訳
851.
未来のことを期待せず
過ぎ去ったことを思い出して悲しまず
感覚に触れるものを一定の距離を置いて見
又自分の考えで人生の生き方を決めようともしない

仏教の時間論では過去・未来はなく、あるのは現在のみ。聖者は未来がないことは分かっているから、それに期待も心配もしない、それに執着しない。
過ぎ去ってもう存在しない、有るとすれば観念の世界、記憶の中にある。だから過去を過度に懐かしむことはなく、後悔することはない。だから聖者は過去を憂えるということがない。
現在は今の事柄であるとはいえ、無常だから絶えず変化している。今経験したこともすぐ変化する。だから今の経験にも執着せずに、冷静に対応する。
それが「[現在]感官で触れる諸々の対象について遠ざかり離れることを観じ」ということ。
更に、未来・現在・過去に対する正しい態度で接している聖者は、諸々の誤った見解に惑わせることがない。
梵網経(長部経典第1)の中で、ブッダは世の中の邪見を62に分類して述べている。それは過去に関する説18種と未来に関する説44種で、すべて過去と未来に関するもの。
要するに過去と未来に関する説は邪見になるということ。もちろん聖者はそのような邪見に惑うことはない。
(´・(ェ)・`)つ
0186名無しを整える。
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2017/12/09(土) 11:00:37.66ID:+fLDLAq4
>>183
○毎田周一先生訳
852.
物事に捉われず 正直で 
貪る心がなく 人のためにつくし
控え目で いやな感じを与えず 
人を中傷することがない

聖者のいろいろな特徴。
一番目は「遠ざかる」だが、何から遠ざかるのか?毎田先生は「物事に捉われず」としている。中村先生は「貪欲などから」と言葉を補っている。正田先生は「欲望の対象から」としている。貪瞋痴の煩悩から遠ざかりと理解してよい。
二番目は嘘をつかないこと、正直であること。
三番目は欲望がないこと。
四番目は物惜しみの思いがないこと。毎田先生は自分の持っているもので、「人のために尽くす」と表現されている。
五番目は傲慢でないこと。そのような人は「控え目な人」。
六番目は「嫌われない人」。そのような人はもちろん人に「いやな感じを与えない」。
七番目は「人を中傷しない」。中傷とは「無実のことを言って他人の名誉を傷つけること」だが、パーリ語の本来の意味は仲たがいをさせるような言葉を使うことなので、両舌の方が近い言葉。

○毎田周一先生訳
853.
快楽に耽らず 
思い上がっていい気にもならず 
おだやかで 機智に富み
自分の信ずることを人におしつけず 
又自分はどうしても無欲にならねばならぬとも思っていない

「快いものに耽溺せず」について。生きることのほとんどは苦であっても、少しの楽があるために人間は生きることを嫌がらずに、何としても生きて生きたいと思っている。
しかし、聖者は快いもの(快楽)は人間を迷わす毒だと知って快いもの(快楽)に耽溺しない。聖者はその理由を知って、渇愛を滅しているから、快いもの(快楽)に執着することがない。
「高慢にならず」について。852の「傲慢にならず」とほぼ同じ。毎田先生は「思い上がっていい気にもならず」と説明している。
「柔和で」について。正田先生は「〔所作進退が〕優雅で〔隙なく〕」と説明している。
「弁舌さわやかに」につい。毎田先生は「機智に富み」と訳されている。正田先生は「即応即答〔の知慧〕ある」と説明されている。教条的な知識でなく、事実に即した分かりやすい智慧による話をするということ。
「信じることなく」について。毎田先生は「自分の信ずることを人におしつけず」と訳された。正田先生は「限定された特定の信仰を持たず」と説明されている。注釈書には信は盲信として、自信が覚った法を信じ、誰の法も信じないとしている。
「なにかを嫌うこともない」について。毎田先生は「自分はどうしても無欲にならねばならぬとも思っていない」と訳された。
正田先生は「離貪という行為自体が存在しない」と説明された。聖者は何かをしようとする作為がないので、離欲もしようとも思わない。すなわち無為の態度。
(´・(ェ)・`)つ
0187名無しを整える。
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2017/12/09(土) 11:03:22.25ID:+fLDLAq4
>>183
○毎田周一先生訳
854.
何かを得ようとして学ぶのではなく 
従って何も得られなくてもあわてず
愛欲に捉われて 人と関係をきしませず 
又美味を貪りもしない

「利益を欲して学ぶのではない。」について。正田先生は「利得(行乞の施物)を欲して学ばず」と訳して、利得を行乞の施物と説明された。比丘(出家者)は食事のお布施をもらうために、経典を学ぶのではない。
次の「妄執のために他人に逆らうことなく」について。妄執は愛欲あるいは渇愛、欲望と考えて良い。「他人と逆らう」とは他人と対立すること。
何故対立するのか。それは他人と利益が対立するから。他人との対立の本質は利益の対立であり。欲望の対立。しかし、そもそも聖者は対立する欲望がないから、対立しない。
「美味に耽溺することもない。」について。853「快いものに耽溺せず」がより具体的に、「美味」になった。聖者は美味しいものにも耽溺しない。
解脱した人は、美味しいからと言ってそれに引きずられない。聖者にとっては味に関する煩いのない安穏な状態は最高。ブッダは「涅槃は最高だ。」と述べておられる。
(´・(ェ)・`)つ
0189名無しを整える。
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2017/12/10(日) 10:06:18.42ID:Fgndxcc4
ブッダのことば(スッタニパータ)
第4 八つの詩句の章、10、死ぬよりも前に


855 平静であって、常によく気をつけていて、世間において(他人を自分と)等しいとも思わない。また自分が勝れているとも思わないし、また劣っているとも思わない。かれは煩悩の燃え盛ることがない。

856 依りかかることのない人は、理法を知ってこだわることがないのである。かれには、生存の断滅のための妄執も存在しない。

857 諸々の欲望を顧慮することのない人、──かれこそ<平安なる者>である、とわたしは説く。かれには締めの結び目は存在しない。かれはすでに執著を渡り了えた。

858 かれには、子も、家畜も、田畑も、地所も存在しない。すでに得たものも、捨て去ったものも、かれのうちには認められない。

859 世俗の人々、または道の人・バラモンどもがかれを非難して(貪りなどの過)があるというであろうが、かれはその(非難)を特にきにかけることはない。それ故に、かれは論議されても、動揺することがない。

860 聖者は貪りを離れ、慳みすることなく、『自分は勝れたものである』とも、『自分は等しいものである』とも『自分は劣ったものである』とも論ずることがない。かれは分別を受けることのないものであって、妄想分別におもむかない。

861 かれは世間において<わがもの>という所有がない。また無所有を嘆くこともない。かれは[欲望に促されて]、諸々の事物に赴くこともない。かれは実に<平安なる者>と呼ばれる。」

(´・(ェ)・`)つ
0190名無しを整える。
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2017/12/10(日) 10:51:03.60ID:Fgndxcc4
>>189
○毎田周一先生訳
855.
歓び悲しみも届かぬ静かな処に いつもすっきりした気持で居り
この世の中で 自分を人と等しいとも思わなければ
また勝れているとも劣っているとも思わず
総じて何の思い上りもない

一行目。パーリ語のウペッカー(捨)、意味は冷静、平静。これは喜怒哀楽の感情から離れた状態。毎田先生は「歓び悲しみも届かぬ静かな処」と訳された。
この言葉のあとに「常に気づき(念)のある(者)」が続く。それは常に気づきあると、平静でいられるから。毎田先生は気づきのある状態を「すっきりした気持ちでいる」と訳された。気づきあれれば気持ちはすっきりしている。
二行目、三行目。「この世の中で、自分を人と等しいとも思わなければ、また勝れているとも劣っているとも思わず」。
これは、一行目の状態にある聖者は、自分を他人と等・勝・劣と思わない。平静で気づきのあると、自分を他人と比較することなく、等・勝・劣を思わない。自分と他人の区別よりも人間として、対等・平等であることを感じている。
四行目「彼には、諸々の増長〔の思い〕は存在しない。」(正田先生訳)。一行目から三行目で述べた聖者はこのような方だという。中村先生訳の「かれは煩悩の燃え盛ることがない。」ということ。

○毎田周一先生訳
856.
この人が何の拠り処ももたないのは
物事の本性をよく知って それによりかからぬからである
そこには生きようとする強い願いも
又生きることを止めようとする強い願いも そのどちらもない
(※○正田大観先生訳
彼に、〔他者に〕依存することが存在しないなら、
法(真理)を知って、依存なき者となります。
彼に、〔迷いの〕生存への〔渇愛の思いが〕、あるいは、〔迷いの〕生存から離れることへの
渇愛〔の思い〕が、見い出されないなら――(9))
一行目と二行目の関係は、三人の先生方の考え方が違う。毎田先生は、二行目が原因で一行目が結果。中村先生は一行目と二行目が並列的。正田先生は一行目が原因で二行目が結果。どの訳も一理ある。
パーリ語に忠実に訳すると正田先生のようになるが、そうすると、一行目はどのようにしてそうなるのか考えてしまう。すなわち、どのようにして依存しない者になるのかと言うこと。
その点、毎田先生のように、「物事の本性をよく知って それによりかからぬからである」と考えると解りやすい。依存しないためには、物事の本性をよく知ることだということになる。
物事の本性を知るとは、無常だと知るということ。無常なものには依存できない。無常なものは確固たるものではないから、それに依存できない。そのことを正しく知った人は依存しない。
という訳で、「物事の本性をよく知って それによりかからぬからである」ということになる。
三行目、四行目は、聖者には渇愛がないということ。渇愛の内容には三種類ある。@欲愛:五欲(眼、耳、鼻、舌、身、意の欲)に対する渇愛。A有愛:生きたいという渇愛。B無有愛:死にたいという渇愛。
この偈は渇愛の有愛と無有愛が表現されている。
一、二行目と三、四行目の関係。すなわち依存しないことと渇愛がないこととどのような関係があるのか?
キーワードは無常。物事の本性は無常であると知った人は、依存しないと同様に、物事の本性が無常だと知った人には渇愛は起こらない。
渇愛は渇愛の対象を契機として起こるが、その対象は無常であり、渇愛の対象になりえないと知ってしまえば、渇愛は起こらない。
五欲に対する渇愛は分かりやすい。生きることも、死ぬことも無常。今自分が考えている生も死も無常。渇愛の対象にならない。
そのことを正しく知れば聖者と同じように、「生きようとする強い願いも、又生きることを止めようとする強い願いも、そのどちらもない」。

(´・(ェ)・`)つ
0191名無しを整える。
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2017/12/10(日) 10:51:57.69ID:Fgndxcc4
>>189
○毎田周一先生訳
857.
色々の欲望を悉く顧みないでゆく人
こういう人を平安な人と私はいう
彼を縛るものは何もなく
彼は既に彼は執著をこえてしまっている

人々の関心の第一は自分の欲望だが、それに関心がない、期待しないということはどういうことか。
通常自分の欲は捨てられない。しかし、自分の欲を超える関心が自分の心に起きた時、それは因縁により起こる。
その時私達は自分の欲への関心がなくなる。その時私達は自分の欲を乗り越える。その時心から欲がなくなる。
このようにして、欲を顧みず、期待しない人は、欲のない人になり、欲のない状態を経験する。
欲望がなければ心を駆り立てるものがない。私達の心はこの駆り立てるものによって平安であることはできない、また静かな状態ではいられない。
しかし、心を駆り立てるものがなければ、平安で静かになる。そのため、欲望のない人は平安の者(寂静者)という。
そのような人には束縛(拘束するもの)はない。そして彼には執着の思いがなくなる。このような人は再生する結び目がないから、彼はもう輪廻転生はしない。

○毎田周一先生訳
858.
その人の処には子供も家畜もおらず 
田畑や屋敷もない
そして彼が手に入れたものとか 未だ手に入れなかったものとか
そういうものが彼の内には何もない

子供がいるということは結婚して幸せな家庭ができ子供ができるということ。家畜が居るということは畜産という安定した職業があり、田畑や屋敷があるということは財産があるということ。すなわちそれは現代でも通用する理想的な幸福の世間的なイメージ。
この偈では、子供もいない、家畜もいない、財産もない人について述べられている。これは世間的な考えでは不幸な人になる。それについて具体的な評価をしていない。
三行目のattとnirattにはそれぞれ二つの訳がある。
attは@得たもの、A自己、自我nirattは@捨てたもの、A無我、非我。毎田先生及び中村先生は、「得たもの、捨てたもの」の訳を取り、正田先生は「自己、自己でないもの」という訳をしている。
簡単に訳しなおすと「彼には得たものも捨てたものもない」或は「彼には自我も無我もない」ということになる。
これをあえて説明すれば、「彼には得ようとしたものも捨てようとしたものがない」であり、作為がないということになる。それを「自我も無我もない」という言葉で表現している。

○毎田周一先生訳
859.
世俗の人や修道者や婆羅門達が
この人のことをどんなにとやかくいおうと
いわれる事柄自身が既に彼の無視していることだから
そんな論議のために動かされはしない

世間の凡夫や覚ってない沙門やバラモンは、解脱と関係のないいろいろなことを言いう。
その中には人間は安定な職業を持って、結婚して家庭を持ち、子供を作ることが幸せなのだとも言う。
しかし、解脱という目的をわきまえた人には、そのような見解は眼中にない。またその他の世俗的な楽しみにも興味がないから、世俗の人々の言うことによって、心は動揺しない。
(´・(ェ)・`)つ
0192名無しを整える。
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2017/12/10(日) 10:54:49.96ID:Fgndxcc4
>>189
○毎田周一先生訳
860.
静かな人は貪らず 利己心がなく
自分が勝れているとも
また等しいとも 劣っているともいわないで
時の流れに流されず 却って時を超えている

貪りを離れることと慳(物惜しみ)がないことは、聖者にとって重要な徳目。
毎田先生は「慳(物惜しみ)」がない」ことを「利己心がなく」と訳された。852では「人のために尽くし」と訳された。もの惜しみの意味を深く考えてのこと。
二行目、三行目の「自分が勝れているとも また等しいとも 劣っているともいわないで」について。これらの境地は有身見(自分がいると言う感覚)のない聖者にとっては当然のこと。
すなわち、聖者は勝れているとか等しいとか劣っていることは単なる妄想であると実感している。
四行目は、三人の先生方の訳は表現がかなり異なる。kappaの意味の取り方。kappaはスッタニパータの373、517に出てきた。
kappaの意味を列挙。
@ 時、時間、劫(コウ)、長時、周期的な時間の長さを言う→輪廻の一時期をいうことがある
A 教令、法則
B 分別、妄想、はからい、想念、概念
C カッパ樹、如意樹
毎田先生はkappaの意味を「時間」と取って、「時の流れに流されず 却って時を超えている」と意訳された。
中村先生は「分別、妄想」と取って、「かれは分別を受けることのないものであって、妄想分別におもむかない。」と訳された。
正田先生は「時間」と取って「〔概念化した〕時間(劫:間時間の型枠・分別妄想・輪廻的あり方)なき者は、〔概念化した〕時間に至りません(輪廻しない・妄想しない)。」と訳され、カッコで説明されている。
仏教の時間論では過去・未来はなく、有るのは現在(今)のみ。今しかないから、時間はないとも言える。無時間。だから、時間に関する概念や思考はすべて妄想であると言っていい。
そのような考え方に立てば、時間で訳しても、妄想と訳しても同じことになる。「時の流れに流されず 却って時を超えている」とは「妄想の流れに流されず、かえって妄想を超えている」となる。

○毎田周一先生訳
861.
彼はこの世に自分の持物が何もないが
ないからといって別に悲しみはしない
又色々な事をとりあげて それにあくせくすることもない
――こういう人をこそ平安な人という」

この世において自分のものが何もなくとも悲しまない人は、自分自身も自分のものではないという事実が解っている人。
仏教は無我を説き、物を所有する個人すらないことを説いている。どうしてこの世において自分のものがないことに嘆くことがあるか。

三行目の直訳は「諸々の法において行かない」だが、中村先生が「欲望に促されて」捕捉して訳されているように、「かれは[欲望に促されて]、諸々の事物に赴くこともない。」であり、
毎田先生訳のように「それにあくせくすることもない」ということ。まさに、それは寂静者(平安なる者)と呼ばれる人。

(´・(ェ)・`)つ
0193鬼和尚 ◆GBl7rog7bM
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2017/12/10(日) 20:45:23.08ID:jdWhm8A6
それを訳してなぜ実践できないのかのう。
不思議なことじゃ。
0194名無しを整える。
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2017/12/10(日) 21:34:52.28ID:Fgndxcc4
>>193
鬼和尚、こんばんは。
どの部分に対するご指摘でありましょうか?
(´・(ェ)・`)つ
0195名無しを整える。
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2017/12/11(月) 18:38:40.45ID:59JZ/XEJ
ブッダのことば(スッタニパータ)
第4 八つの詩句の章、11、争 闘

862 「争闘と争論と悲しみと憂いと慳みと慢心と傲慢と悪口しは、どこから現われ出たのですか? これはどこから起ったのですか? どうか、それを教えてください。」

863 「争闘と争論と悲しみと憂いと慳(モノオシ)みと慢心し傲慢と悪口とは愛し好むものにもとづいて起る。争闘と争論とは慳みに伴い、争論が生じたときに、悪口が起る。」

864 「世間において、愛し好むものは何にもとづいて起るのですか。また世間にははびこる貪りは何にもとづいて起るのですか? また人が来世に関していだく希望とその成就とは、何にもとづいて起るのですか?」

865 「世の中で愛し好むもの及び世の中にはびこる貪りは、欲望にもとづいて起る。また人が来世に関していだく希望と成就とは、それにもとづいて起る。」

866 「さて世の中で欲望は何にもとづいて起るのですか? また(形而上学的な)断定は何から起るのですか? 怒りと虚言と疑惑と及び<道の人>(沙門)の説いた諸々のことがらは、何から起るのですか?」

867 「世の中で<快><不快>と称するものに依って、欲望が起る。諸々の物質的存在には正起と消滅とのあることを見て、世の中には<外的な事物にとらわれた>断定を下す。

868 怒りと虚言と疑惑、──これらのことがらも、(快と不快との)二つがあるときに現れる。疑惑ある人は知識の道に学べ。<道の人>は、知って、諸々のことがらを説いたのである。」

869 「快と不快とは何にもとづいて起るのですか? また何がないときにこれらのものが現れないのですか? また生起と消滅ということの意義と、それの起るもととなっているものを、われに語ってください。」
(´・(ェ)・`)つ
0196名無しを整える。
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2017/12/11(月) 18:57:50.21ID:59JZ/XEJ
>>195
○毎田周一先生訳
862.
「何処から闘争と論争と
憂いと悲しみと 利己心と
傲慢と 人に対する誹謗とが 起こるのでしょうか
それがどこから起こるかを どうぞお教えて下さい

この経の因縁物語は「死前経」と同じように、神々の大集会でブッダの説法を聞いていて、「一体どこから争いなど八つのことが起こるのか?」
という疑問を持った神々がいたので、その理由を明らかにするために、化仏(ブッダの化身)を作り、自分に質問させて、この経を説いたと言われている。

○毎田周一先生訳
863.
「闘争と論争と
憂いと悲しみと 利己心
傲慢と 人に対する誹謗とは 愛ゆえに起こる
闘争と論争とは 利己心に結びつき
論争が起これば 人を誹謗するようになる」

化仏の質問に対するブッダの回答。
質問の回答は、すべて「愛」=「愛し好むもの」=「愛しいもの(自己中心的な愛着や愛執の対象)」から起こるというもの。愛が「自己中心的な愛着や愛執の対象」であると解説される。
以上の回答に追加して、争いと論争については物惜しみ(=利己心)に結びついていると述べられている。
子供の時は玩具の取り合いから、青年期になれば恋人の取り合い、成人になれば仕事の取り合い、国家間では領土の取り合いで戦争になる。これらはすべて愛し好むものの取り合い。
これらの争いに負けた者たちは、憂いと悲しみがある。また勝った者たちも無傷ではいられない。負けた者たちの報復が待っている。安心して寝ていられない。いつ攻撃があるか分からない。いつも不安な夜を過ごさなければならない。
勝者も敗者と同じように憂いと悲しみがある。これらすべて「愛」から起こる。
争いが起これば、口での争いも起こり、論争になります。そして論争が起これば、悪口や誹謗、中傷なども出てくる。

○毎田周一先生訳
864.
「愛はこの世で何を元として起こるのでしょうか
又世間に拡がってゆく貪りは 何から起こりますか
そして人が来世に向って希望を抱き
それが果たされるのは 何に基づくのでしょうか」

ブッダの回答に対する質問者(化身)の質問。何に基づいて争いと論争など八項目が起きるかという質問に対して、ブッダはすべて愛(愛し好むもの)に基づいて起こると答えた。
この質問者はここで、それならば「愛」は何に基づいて起こるのか質問した。
更に、この質問者は、世間に蔓延している貪欲は何に基づいて起こるのか質問した。
また、「人が来世に向って希望を抱き、それが果たされるのは何に基づくのか」と質問した。この意味は人々が死後、善い所に生まれ変わる希望を持って、その結果が現れるのは何に基づくのかということ。
(´・(ェ)・`)つ
0197名無しを整える。
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2017/12/11(月) 19:00:21.52ID:59JZ/XEJ
>>195
○毎田周一先生訳
865.
「この世に愛があり
世間に拡がる貪りがあるのも欲求ゆえのことである
人が来世に向って希望を抱き それが果たされるのも 
同じく欲求ゆえのことである」

「愛(愛するもの)は欲望に基づいて起こる」とブッダは答えた。
愛(愛するもの)は、好きなもの。これは欲望がなければないのか? それがはっきりわからないのは、私達にはいつも欲望があるから。欲望がない状態を知らないから。
欲望がなかった時を経験していれば、その時、愛するもの好きなものがないことがよく分かるはず。
この偈では貪欲も欲望に基づいて起こると述べられている。貪欲は欲望に対する執着だから、欲望がないとき貪欲は起こらない。
また、来世に対する希望とその結果も、死後にも安楽な生活をしたいという欲望から起こることは明らか。

○毎田周一先生訳
866.
「それではその欲求は この世で何を元として起こるのでしょうか
又色々に考えて断定を下すことは 何に由るのでしょうか
怒りと嘘と疑いと そして
修道者があれこれと指摘する事柄は 何に基づくのでしょうか」

質問者は、その欲望は何に基づいて起こるのか質問した。
しかし、次に「断定」が続くのは少し分かりにくい。毎田先生はいろいろ考えて結論を出すという意味で「断定」と言っている。
中村先生は、欲望が世俗的なテーマだから、それに対して、世俗を超越したという意味で、断定に「形而上学的な」という説明を付けた。
正田先生は「〔世の人々が下す〕諸々の〔断定的〕判断」としている。
いずれにせよ、質問者は、欲望に続いて、断定は何に基づいて起こるのかを質問している。
さらに、怒りと偽りの言葉と疑惑は何に基づいて起こるかと質問した。
「修道者=<道の人>(沙門)=沙門」の意味は注釈書によるブッダを指している。つまりブッダによって説かれた「怒りと偽りの言葉と疑惑」ということ。

○毎田周一先生訳
867.
「この世で『快と不快』とはいわれることを元として
欲求が生じる
色や形の世界で なくなるとか生じるとかいうことのあるのを見て
世間の人は考えをめぐらし断定を下すのである

欲望が発生するのは、欲望の対象である物があるから。しかし、ただ物があるだけでは欲望が発生しない。
そこで、、物に触ったとき、快とか不快とかを感じられる物から欲望が発生すると述べている。
より具体的に言うならば、見て美しいと感じられるとか美しくないと感じられるもの、或は美味しいとか不味いと感じられるもの等が欲望を発生させるのだということ。
この偈の後半は、「断定は何から起こるのですか」と言う質問にたいする回答。
すなわち「色や形の世界」=「物質的存在」=「形態」の消滅と生起が断定(判断)の因縁になっていると説かれている。
(´・(ェ)・`)つ
0198名無しを整える。
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2017/12/11(月) 19:01:17.19ID:59JZ/XEJ
>>195
○毎田周一先生訳
868.
怒りと嘘と疑いと
これらも亦(快と不快との)二つに過ぎない
そして思い惑う人は 修道者があれこれと指摘していることを知って
智慧の道を進むようにするがよい」

866の質問「怒りと嘘と疑惑は何から起こるのですか?」に対するブッダの解答。ブッダはこれらも「快と不快」の二つがあるとき現れると説かれた。
怒りについては、分かりやすい。不快なものに対してはそれを避けようとするエネルギーが現れる。それが怒り。そのため怒りは「快と不快」があるとき現れると説かれた。
ここで「不快」と表現せずに。「快と不快」と表現されているのは、快と不快は個人によって受け止め方が異なるから。
人間に好き嫌いという感情を引き起こすものが怒りの元になるから。
それでは、なぜ嘘は快と不快から起こるのか?「人は何故嘘をつくのでしょうか?」。 それは浅はかな自己防衛のため。
浅はかなというのは、真の意味で自己防衛は真実にあることを知らない者の自己防衛だから。
自己防衛とは、不快を避けて、快を求めること。これが死から免れることだと思っている。この目的のためには事実か虚偽かは問題にならない。ある場合には事実に反することでも言う。これが嘘の真相。
では、疑惑はどのようにして「快と不快」から起こるのか?
疑惑も自己防衛の結果だが、その「快と不快」が避けるべきものか受け入れるべきものか分からないとき現れる。そのような者に対しては、沙門(ブッダ)が説かれた「智慧に関する知識」を学ぶとよいと教えている。

○毎田周一先生訳
869.
「快と不快とは又何を元にして起こるのでしょうか
何がないとき これらもないのでしょうか
また『なくなるとか 生じるとか』いうことの意味は
何に基づくのでしょうか それを話して下さい」

ブッダが、「欲望は快と不快から起こる。また怒りと嘘と疑いも快と不快から起こる」答えられたので、質問者は、更に「快と不快とは何を元として起こるのか?」と質問した。
ブッダの解答が快と不快と無関係の事柄でないことを確かめるために、「何がないとき、快と不快がないのか?」と質問している。
それは「AがあるときBがあり、AがないときBがない。」という形式の質問。このときAとBに因果関係がある。
更に、この質問者は、快と不快が有るときと無いときと、物事の生起と消滅に何等かの関係があるのではないかと予想したのか、「生起と消滅ということの意義と、それの起こるもととなっているものを、教えて下さい。」と頼んだ。
(´・(ェ)・`)つ
0199鬼和尚 ◆GBl7rog7bM
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2017/12/11(月) 22:02:33.35ID:drEez4CN
全体的にじゃな。
このようにすれば安楽になると知っていても出来ないのは不思議なのじゃ。
0200名無しを整える。
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2017/12/11(月) 22:24:21.69ID:59JZ/XEJ
>>199
集中する訓練と、
ありのままに観察することだけで、
楽になれると言う実感を得てから、学んだ方が、
書かれていることの意味がよくわかるかも知れぬでありますね。
頭でっかちにになり、専門用語の知識ばかりついても、ちぃ〜とも役にたたないばかりか、逆に邪魔になるかもでありますね。

そんな意味でありましょうか?
(´・(ェ)・`)つ
0201名無しを整える。
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2017/12/12(火) 15:49:09.53ID:hF+NjSln
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0202名無しを整える。
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2017/12/12(火) 18:29:00.07ID:VDaZxf5X
ブッダのことば(スッタニパータ)
第4 八つの詩句の章、11、争 闘

870 「快と不快とは、感官による接触にもとづいて起る。感官の接触が存在しないときには、これらのものも起こらない。生起と消滅ということの意義と、それの起るもととなっているもの(感官による接触)を、われは汝に告げる。」

871 「世の中で感覚による接触は何にもとづいて起るのですか? また所有欲は何から起るのですか? 何ものが存在しないときに、<わがもの>という我執が存在しないのですか?

872 「名称と形態とに依って感官による接触が起る。諸々の所有欲は欲求を縁として起る。欲求がないときには、<わかもの>という我執も存在しない。形態が消滅したときには<感官による接触>ははたらかない。」

873 「どのように修行した者にとって、形態が消滅するのですか? 楽と苦とはいかにして消滅するのですか? どのように消滅するのか、その消滅するありさまを、わたくしに説いてください。わたくしはそれを知りたいものです。
──わたくしはこのように考えました。」

874 「ありのままに想う者でもなく、誤って想う者でもなく、想いなき者でもなく、想いを消滅した者でもない。──このように理解した者の形態は消滅する。

875 「われらがあなたにおたずねしたことを、あなたはわれわれに説き明かしてくださいました。われらは別のことをあなたにおたずねしましょう。どうか、それを説いてください。
──この世における或る賢者たちは、『この状態だけが、霊(タマシイ)の最上の清浄の境地である』とわれらに語ります。しかしまた、それよりも以上に、『他の(清浄の境地)がある』と説く人々もいるのでしようか?」

876 「この世において或る賢者たちは、『霊の最上の清浄の境地はこれだけのものである』と語る。さらにかれらのうちの或る人々は断滅を説き、(精神も肉体も)残りなく消滅することのうち(最上の清浄の境地がある)と、巧みに語っている。

877 かの聖者は、『これらの偏見はこだわりがある』と知って、諸々のこだわりを塾考し、知った上で、解脱せる人は論争におもむかない。思慮ある賢者は種々なる変化的生存を受けることがない。」

(´・(ェ)・`)つ
0203名無しを整える。
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2017/12/12(火) 18:33:59.12ID:VDaZxf5X
>>202
○毎田周一先生訳
870.
「触れることによって 快と不快とが起こり
触ることのないとき それらのこともない
『なくなるとか 生じるとか』いうことの意味も
それと同じく触れることによると私はいう」
(※○正田大観先生訳
〔世尊は答えた〕「快と不快〔の二者〕は、因縁として接触(触:感覚・経験)から〔発生しました〕。
接触が存在していないとき、これらのものは、まさに、有ることなくあります。
虚無、さらには、また、実体という、〔まさに〕その、この義(無と有の概念的二項対立)は、因縁としてこれ(接触)から〔発生すること〕を、このことを、あなたに説きます」〔と〕。(9))

ブッダは「快と不快は何に基づいて起こるのか?」と質問されたので、「接触に基づいて起こる。」と答えた。また、「何がないとき、快と不快がないのか?」とも聞かれたので、「接触のないとき、快と不快もない。」と答えた。
更に、ブッダは生起と消滅についての質問にも、「接触があるとき生起があり、接触のないとき消滅がある。」と答えられた。
確かに、快である喜びも不快である悲しみも、嬉しいことや悲しいことに遭遇(接触)したときに起こる。細かく言えば、感覚器官に何かが接触したときに快や不快と言う感覚が生まれる。逆に、このような接触がなければ、快不快の感覚は生まれない。
物事の生起と消滅についても、接触に説明されている。新な接触があるとき生起であり、その接触がないとき消滅。
正田先生は、消滅を虚偽、生起を実体と訳されている。そしてこれは「無と有の概念的二項対立だ」としている。

○毎田周一先生訳
871.
「触れるということがこの世でどうして起こるのでしょうか
又執著することがどうして起こるのでしょうか
何がなくなると
触れることも触れることでなくなるのでしょうか」

一行目と四行目がワンセット、二行目と次のワンセットと考えると分かりやすい。
「AがあるときBもある。」「AがないときBもない。」「Aが生じるときBも生じる」「Aが滅するときBも滅する。」で完全な因果論を述べられるが、その一部を活用している。
一行目は、ブッダが、「快と不快は感官による接触によって起こる」と述べたので、質問者は「世の中で感覚による接触は何にもとづいて起るのか?」と質問した。
更に、四行目で「何ものが消滅したときに、感官による接触がはたらかないのか?」と質問する。
二行目の「また所有欲は何から起るのか?」という質問と対にして三行目で、「何ものが存在しないときに、<わがもの>という我執が存在しないのか?」と質問した。「所有欲=<わがもの>という我執」と考えると分かりやすい。
二行目と三行目の質問は、一行目と四行目と関連した解答を質問者は予想している。快と不快は楽と苦に繋がる。
この先に決定的に重要な質問に至り、ブッダに仏教の真髄を聞きだすことになる。

○毎田周一先生訳
872.
「名と形とに由って 触れることが生じる
求めることを元として執著があり
求めることがなければ 我執もない
形がなければ 触れることも触れることではなくなる」

871の質問に対するブッダの解答。質問と同じように一行目と四行目をワンセット、二行目と四行目をワンセットとして読むと分かりやすい。
先ず、「感官による接触は何にもとづいて起こるのか?」と質問されたので、ブッダは「名称と形態とに依って感官による接触起こる。」と答えた。
そして四行目で「形態が消滅したときには<感官による接触>ははたらかない。」と答えた。
四行目の解答の中になぜ「名称」が入っていないのか?名称は形態があるから、それに対する名称がある。形態がないときは名称がない。形態がなければ感官による接触が起こらない。
だから、ここでは「形態が消滅したときは<感官による接触>ははたらかないと述べられた。
「所有欲は何から起こるのか?」という質問に対するブッダの解答は「所有欲は欲求を縁として起こる。」。更に三行目で、「欲求のないときには、<わがもの>という我執も存在しない。」と答えられた。
ここで思い出すべきは、876で「<快><不快>と称するものに、依って欲望が起こる。」という言葉。
欲求と欲望はほぼ同じ意味だから、「形態から接触、接触から快・不快、快・不快から欲望(欲求)、欲望(欲求)から所有欲(我執)」という流れが考えられる。こうなると、形態が消滅したとき、所有欲(我執)も消滅することになる。

(´・(ェ)・`)つ
0204名無しを整える。
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2017/12/12(火) 18:41:45.64ID:VDaZxf5X
>>202
○毎田周一先生訳
872.
「名と形とに由って 触れることが生じる
求めることを元として執著があり
求めることがなければ 我執もない
形がなければ 触れることも触れることではなくなる」

871の質問に対するブッダの解答。質問と同じように一行目と四行目をワンセット、二行目と四行目をワンセットとして読むと分かりやすい。
先ず、「感官による接触は何にもとづいて起こるのか?」と質問されたので、ブッダは「名称と形態とに依って感官による接触起こる。」と答えた。
そして四行目で「形態が消滅したときには<感官による接触>ははたらかない。」と答えた。
四行目の解答の中になぜ「名称」が入っていないのか?名称は形態があるから、それに対する名称がある。形態がないときは名称がない。形態がなければ感官による接触が起こらない。
だから、ここでは「形態が消滅したときは<感官による接触>ははたらかないと述べられた。
「所有欲は何から起こるのか?」という質問に対するブッダの解答は「所有欲は欲求を縁として起こる。」。更に三行目で、「欲求のないときには、<わがもの>という我執も存在しない。」と答えられた。
ここで思い出すべきは、876で「<快><不快>と称するものに、依って欲望が起こる。」という言葉。
欲求と欲望はほぼ同じ意味だから、「形態から接触、接触から快・不快、快・不快から欲望(欲求)、欲望(欲求)から所有欲(我執)」という流れが考えられる。こうなると、形態が消滅したとき、所有欲(我執)も消滅することになる。

○毎田周一先生訳
873.
「どのように知った者にとって形がなくなるのでしょうか
楽と苦も亦どうしたらなくなるのでしょうか
そのなくなるということを ありのままにお教え下さい
『そのことを知りたい』と 私は熱望しております」

「形態から接触、接触から快・不快、快・不快から欲望(欲求)、欲望(欲求)から所有欲(我執)」ということになるから、形態の消滅は一切の苦と楽の消滅につながる。
そこで質問者は「どのように修行した者に、形態が消滅するのか?」と仏教の核心になる質問をする。仏教の目標は一切の苦からの解脱だから。
また、質問者は解答を予想して、確認のために「楽と苦とはいかにして消滅するのか?」と質問した。
しかし、形態の消滅に関しては詳しく知らない。そこで「どのように消滅するのか、その消滅するありさまを、わたくしに説いてください。」そして「それを知りたいという心になった。」と質問者は述べた。
これは発心。ここから仏教の修行が始まる。これは誓願であり、これにより解脱することが出来る。

ブッダはこの誓願に答えて、仏教の真髄を874で述べるす。
(´・(ェ)・`)つ
0205名無しを整える。
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2017/12/12(火) 18:52:11.26ID:VDaZxf5X
>>202
○毎田周一先生訳
874.
自然に思うように思うのでもなく 間違って思うでもなく
それかといって思わないのでもなく 思いをなくそうとするのでもない――
と丁度このように知るもの知るものにとって 形はなくなる
何故なら 思いによって ありとあらゆる妄想が起こるからである

いよいよ仏教の核心。
「形態の消滅のためには、どのように修行すればよいのか?」と問われたブッダはいきなり、なぜ、思い方について答えのか?
その理由は四行目にある。「何故なら、思いによって、ありとあらゆる妄想が起こるからである。」と。
「自然に思うように思うのでもなく、間違って思うでもなく、それかといって思わないのでもなく 思いをなくそうとするのでもない。」と言われると、
ではどうするのかと質問したくなる。せっかくブッダが形態の消滅方法を教えてくれたが、どうしていいか分からないのが実情。
それならば思わなければいいのだなというわけには行けない。「思わないのでもなく、思いをなくそうとするのでもない」とも言われているから。
これは一種の公案。
この言葉を理解するためには、「真理の言葉」が必要。その言葉がこの偈の中に述べられている。それは「思いによって ありとあらゆる妄想が起こるからである。」。
すなわち、形態も、ありとあらゆる妄想の一つであり、思いによって起こったものであると知った者には形態は消滅するということ。これこそが「真理の言葉」だと知った者は解脱する。
毎田先生は、「思いによって ありとあらゆる妄想が起こると言われる、一句こそは、仏法の真理の一句である。
怖そるべき、まことの一句である。その意味でこの874偈は第四章の最頂点に位するというべきである。」と述べている。
これは形態が滅すれば、接触がなくなり、接触がなくなれば、快・不快がなくなり、欲望がなくなり、我執がなくなり、一切の苦と楽がなくなるという仏教の根本に関わる一句だからである。
正田先生の訳「諸々の虚構の名称(世界認識の道具として虚構された概念)は、因縁として表象〔作用〕(想:認識対象を表象し概念化する働き)から〔発生する〕」。
言葉は難しいけれど丁寧に訳されている。
874偈については、まだ説明してない一番大切なポイントがある。ブッダの解答は一種の公案のようだと述べた。この公案を解くには智慧が必要。ではその智慧はどのようにして現れるのか。それは一大事の因縁によって現れると言われる。

○毎田周一先生訳
875.
「お尋ねしたことを 本当に明らかにお教え下さったので
更に付け加えてお尋ねしますが どうかそれも教えて下さい――
ある賢い人達は この世ではここまでが
人としての最高の清らかさであるといいますが
それともそれ以外のことを説く人もあるのでしょうか

○毎田周一先生訳
876.
「ある賢い人達は この世ではここ迄が
人としての最高の清らかさであるというが
それらのうちのある人達は その外に
一切が無に帰すると巧みに説いて そんなことを究極のこととして論ずる」

ブッダは、質問者の追加の質問に答えた。ある賢者達は、「形態の消滅」が人間の精神の最高の清浄であると主張します。
しかし、別の賢者達は「一切が無に帰すること=(精神も肉体も)残りなく消滅すること=〔生存の〕依り所という残りものがないもの(無余依)」が最高の清浄だと説いていると述べます。

○毎田周一先生訳
877.
「静かな人はこんな人達が『拠り処をもつ人』であると知り
その拠り処が一体何であるかを明らかにし それを離れて自由の人となる
しかし智慧の人が決してあれこれの生き方をしないことを知っているから
人といい争ったりしないのである」

質問者の最後の問に対して、「形態の消滅が最高の清浄だと言う人達も、それを拠り所にしてこだわっていると知った。
それに対して、一切が無に帰すことが最高の清浄と言う人達もその見解にこだわっていると知った。
それらのこだわりをよく知って、解脱した人はそれらの論争に近づかないのである。」と全体をまとめた。

「争いと論争の経」この経はスッタニパータ第四章の頂点にあると言われているが、難しく、特に874偈は難解だが、仏教の真髄が述べられている。

(´・(ェ)・`)つ
0206鬼和尚 ◆GBl7rog7bM
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2017/12/12(火) 22:15:23.57ID:OYgi2Bae
>>200 そのようなものじゃ。
 少しでも実践する者の方が経の意味もよくわかるようになるのじゃ。
 実践する者は幸福なのじゃ。
 実際に安楽への道を歩んでいるのであるからのう。
 実践が全てなのじゃ。
 
0207名無しを整える。
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2017/12/13(水) 18:29:35.43ID:DQ6rZs1E
ブッダのことば(スッタニパータ)
第4 八つの詩句の章、12、並ぶ応答─小篇

878 (世の学者たちは)めいめいの見解に固執して、互いに異なった執見をいだいて争い、(みずから真理への)熟達者であると称して、さまざまに論ずる。
──「このように知る人は真理を知っている。これを非難する人はまだ不完全な人である」と。

879 かれらはこのように異なった執見をいだいて論争し、「論敵は愚者であって、真理に達した人でない」と言う。これらの人々はみな「自分こそ真理に達した人である」と語っているが、これらのうちで、どの説が真理なのであろうか?

880 もしも論敵の教えを承認しない人が愚者であって、低級な者であって、智慧の劣った者であるならば、これらの人々はすべて(各自の)偏見を固執しているのであるから、かれらはすべて愚者であり、ごく智慧の劣った者であるということになる。

881 またもし自分の見解によって清らかとなり、自分の見解によって、真理に達した人、聡明な人となるのであるのならば、かれらのうちには知性のない者はだれもいないことになる。かれらの見解は(その点で)等しく完全であるから。

882 諸々の愚者が相互に他人に対していうことばを聞いて、わたくしは「これは真実である」とは説かない。かれらは各自の見解を真実であるとみなしたのだ。それ故にかれらは他人を「愚者」であると決めつけるのである。

883 或る人々が「真理である、真実である」と言うところのその(見解)をば、他の人々が「虚偽である、虚妄である」と言う。このようにかれらは異なった執見をいだいて論争する。何故に諸々の<道の人>は同一の事をを語らないのであろうか?

884 真実は一つであって、第二のものは存在しない。その(真理)を知った人は、争うことがない。かれらはめいめい異なった真理をほめたたえあっている。それ故にもろもろの<道の人>は同一の事を語らないのである。

885 みずから真理に達した人であると自称して語る論者たちは、何故に種々異なった真理を説くのであろうか? かれは多くの種々異なった真理を(他人から)聞いたのであるか? あるいはまたかれらは自分の思索に従っているのであろうか?

886 世の中には、多くの異なった真理が永久に存在しているのではない。ただ永久のものだと想像しているだけである。
かれらは、諸々の偏見にもとづいて思索考研を行って、「(わが説は)真理である」「(他人の説は)虚妄である」と二つのことを説いているのである。

(´・(ェ)・`)つ
0208名無しを整える。
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2017/12/13(水) 18:40:13.44ID:DQ6rZs1E
>>207
○毎田周一先生訳
878.
「賢い人達が めいめい自分の見方に立ち それをしっかり○まえて
みなが違う説を述べ――
『こういうように知るものが真理を知って居り
これを斥けるものは完全な人間ではない』といっています。
今回の「小集積経」も、「争いと論争の経」と同じように、神々の大集会における神々の疑問を晴らすために、化仏(化身)を作り、質問させて、述べたものであると言われている。
世の中の論争者は自分を賢いとし、他の論者を愚かだと決めつけていることを指摘して、その態度を批判している。すべて自分の断定を捨てる人は論争しないと述べている。
内容は4章4の「清浄八詩句経」と次の4章13の「大集積経」と重なるところがある。
質問者(化仏)が世の中の論争者の態度について述べている。
○毎田周一先生訳
879.
「その人達は自分の立場を離れないでいい争い
『外のものは愚か者で 正しくない』といっています
その人達はみな自分こそ正しいと思って説いていますが
一体 これらのうちで どの説が真理なのでしょうか」
質問者の言葉。「では一体これらのうちで どの説が真理なのでしょうか?」と問うことになった。
○毎田周一先生訳
880.
「もしも他人の説を認めないものが
愚か者で 畜生 低能ということになれば
彼等も亦すべて愚か者で 低能ということになる
何故なら彼等はみな自分の説を掴んで離そうとしない者ばかりであるから
論争者が他人の説を認めないならば、愚か者で低能であると言うのであれば、論争者はすべて愚か者で低能であると言わざるを得ないというもの。なぜならば、彼等はすべて、自分の説を固執して、離そうとしていないから。
○毎田周一先生訳
881.
またもし自分で正しいと認めている物の見方で清められて
清らかな智慧の人 正しい人 悟った人となるなら
彼等のうち誰ひとりとして 低能などあろう筈がない
何故なら彼等の物の見方は 彼等自身にとって みな同じ完全無欠なものだからである
ブッダの次の答えは前回と反対の事柄。すなわち、自分の見解で清浄になり、真理に達した人になるならば、誰も劣った人にはならないということ。何故ならば、自分の見解を述べる人は、自分の見解は正しく、完全だと思っているから。
しかし、実際は自分の見解を述べる論争者達は、お互いに相手を愚か者、相手の見解は正しくないと言い合っているのが、実状。何故か。
○毎田周一先生訳
882.
対立するものが互いに相手を愚かだといってきめつけている どちらの見方に対しても
私は『こちらが真理である』などとはいわない
彼等は自分の見方をそれぞれ真理として
他人を『愚かだ』と見ているのに過ぎない」
「世の賢者と言われる人々や学者達は、お互いに自分の見解に固執して、自分の説を正しいとして、他の説は不完全で劣っている。では一体どの説が真実なのでしょうか?」と質問者はブッタに問う。
それに対して、ブッダは880で、「もし他人の説を認めない者が愚か者になるならば、すべての者は愚か者になる」と言われ、
また881では逆に、「自分で正しいと認める見解で、自分が浄められ、悟った者になるのならば、誰一人として愚か者にはならない」と述べられた。
それらの言葉は、その内容の否定を意味している。何故ならば実状はそうではないことが明らかであるから。
そこで882で、ブッダは対立するどちらの見解に対して、「こちらが真理であるなどとは言わない。彼等は互いに自分の見解を真理とし、相手を愚か者と言っているに過ぎない。」と述べた。
○毎田周一先生訳
883.
「一方の人が『まことだ 本当だ』ということを
外の人は『無意味だ 間違っている』といい
みなが自分の説にとりついて いい争っています
どうして道を修める人達が 一つのことを一致していわないのでしょうか」
今回は質問者の第二の質問。
(´・(ェ)・`)つ
0209名無しを整える。
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2017/12/13(水) 19:05:16.45ID:DQ6rZs1E
>>207
○毎田周一先生訳
884.
「真理は一つであり 第二のものはないと
本当に知るならば それでも尚いい争うことはないだろう
処が彼等はそれぞれに違ったことを 真理として それをめいめいでほめたたえている
だから道を修める人達は 一つのことを一致して言わないのである

ブッダの解答は「「真理は一つであり 第二のものはないと本当に知るならば それでも尚いい争うことはない。」ということ。
この解答は実は結構難しい。これだけ言われて、なるほどとはなかなか思えないのではないか。なぜ真理が一つならば論争しないのか?
先ず、真理とはどういうものか? また一つである真理とはなにか?
仏教で真理と言えば、人を解脱に導く言葉と理解しておく必要がある。
そうすると、真理を知らない人は、解脱に導く言葉を知らないから、同じ言葉を言えない。真理を知っている人には論争する必要はない。また論争する無意味さをよく知っているから論争しない。

(´・(ェ)・`)つ
0210名無しを整える。
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2017/12/13(水) 19:07:15.12ID:DQ6rZs1E
○毎田周一先生訳
885.
「自分を正しいと主張する人が
どうしてそれぞれの真理を説いて 真理がいくつもあることになるのでしょうか
彼等は多くの真理を 様々に聞いたのでしょうか
それとも彼等は疑わしい 根拠もない考えを 頭の中へ植えつけられているのでしょうか」

ブッダは覚ってない人に真理を伝える時、言葉によってしか伝えられない。だから、真理を言葉で表現して、伝える。
ただ、覚ってない凡夫はその言葉を正しく理解できないだけ。覚ってない修行者も理解できないが、その言葉を手掛かりに、言葉の真意を理解しようとし、それを理解したとき覚る。

○毎田周一先生訳
886.
「沢山のさまざまな真理があろう筈がない
いくつもあるのはただ世間で 永遠の真理だと思っているものがあるのに過ぎない
人々は色々の根拠のない考え方を組み合わせて
『これが真理だ あれは虚偽だ』とこの二つのことを並べていっているのである

前回の偈は「自分を正しいと主張する人々がそれぞれの真理を説いているが、真理がいくつもあることになるのか? 彼等はいろいろ聞いたからか? 頭のなかでいろいろ考えたからか?」という質問であった。今回の偈はブッダのこれに対しての答え。
ブッダは真理は一つであると述べているから、当然真理が幾つもあるはずがないと答えた。しかし、世間にはいろいろ真理があるように見えるのは、それぞれの人がそれぞれの思う真理を真理だと述べているのに過ぎないのだと説明された。
その方法は根拠のない思いを組み合わせて、「これは真理だ。あれは虚偽だ。」と説いているのだとブッダは痛烈に批判した。

世間に真理がいろいろあるように見えるのは、結局それは真理と思って言う人も、真理と思って聞く人も一つである真理を知らないから。
もし、言う人も聞く人も真理が分かっていれば、一つである真理を説くだろうし、真理を知った人は真理以外の言葉を聞いてもそれを真理とは思わないから、真理がいろいろあるとは思わない。
(´・(ェ)・`)つ
0211鬼和尚 ◆GBl7rog7bM
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2017/12/13(水) 21:16:48.66ID:KQXhVUp/
真理とは四諦なのじゃ。
苦を滅し、悟りに導く真理なのじゃ。
それを知れば論争する暇も無く実践あるのみなのじゃ。
0212名無しを整える。
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2017/12/14(木) 18:51:10.80ID:/4OJGAGC
>>211
鬼和尚こんばんは。
ふむふむ。
人生は苦であり。苦を克服するためには、心をありのままに観察し、観察により、心も自我も観念に過ぎないものであり、実体がないと見極めて、無我にまで達すればよいのでありますね。
そもそも自我などないものだと言う理屈を暗記して議論してみても、苦を克服することはできず、ひたすら無我と見極められるまで、観察するのでありますね。

人生は苦であると言うことと、それを克服するための修行方法であるところの止観が真理でありますね。
(´・(ェ)・`)つ
0213名無しを整える。
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2017/12/14(木) 18:55:37.78ID:/4OJGAGC
ブッダのことば(スッタニパータ)
第4 八つの詩句の章、12、並ぶ応答─小篇

887 偏見や伝承の学問や戒律や誓いや思想や、これらに依存して(他の説を)蔑視し、(自己の学説の)断定的結論に立って喜びながら、「反対者は愚人である、無能な奴だ」という。

888 反対者を(愚者)であると見なすとともに、自己を<真理に達した人>であるという。かれはみずから自分を<真理に達した人>であると称しながら、他人を蔑視し、そのように語る。

889 かれは過った妄見を以てみたされ、驕慢によって狂い、自分は完全なものであると思いなし、みずからの心のうちでは自分を賢者だと自認している。かれのその見解は、(かれによれば)そのように完全なものだからである。

890 もしも、他人が自分を(「愚劣だ」と)呼ぶが故に、愚劣となるのであれば、その(呼ぶ人)自身は(相手と)ともに愚劣な者となる。
また、もしも自分でヴェーダの達人・賢者と称しているのであれば、諸々の、<道の人>のうちには愚者は一人も存在しないことになる。

891 「この(わが説)以外の他の教えを宣説する人々は、清浄に背き、<不完全な人>である」と、一般の諸々の異説の徒はこのようにさまざまに説く。かれは自己の偏見に耽溺して汚れに染まっているからである。

892 ここ(わが説)にのみ清浄があると説き、他の諸々の教えには清浄がないと言う。このように一般の諸々の異説の徒はさまざまに執著し、かの自分の道を堅くまもって論ずる。

893 自分の道を堅くたもって論じているが、ここに他の何びとを愚者であると見ることができようぞ。他(の説)を、「愚者である」、「不浄の教えである」、と説くならば、かれはみずから確執をもたらすであろう。

894 一方的に決定した立場に立ってみずから考え量りつつ、さらにかれは世の中で論争をなすに至る。一切の(哲学的)断定を捨てたならば、人は世の中で確執を起こすことがない。

(´・(ェ)・`)つ
0214名無しを整える。
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2017/12/14(木) 19:12:04.95ID:/4OJGAGC
>>213
○毎田周一先生訳
887.
見解とか学問とか徳行とか思想とか
そういうものに腰をおろして 人を軽蔑し
自分の独断の上に立って 得意げに
『これを知らぬものは 愚か者で 間違っている』といっている

○毎田周一先生訳
888.
他人を『愚か者』と見るのだから
自分自身を『正しい』というのである
つまり自分を正しいと認めるから
他人を軽蔑して そういうことをいうのである

○毎田周一先生訳
889.
見当の狂ったものの見方をしながら 自分を完全なものと思い
高ぶってのぼせ上がり もう心がそれだけになり
自分をこの世の神聖な第一人者だと自認している
それというのも彼の見方は 自分にとってそんなにも立派な完全なものだからである

自分が正しいと主張する人の心の状態を述べている。見当違いのものの見方をしながら、慢心によって狂い、自分を完全な者であると思い、意で灌頂している。

「意で灌頂しているのです。」とは、自らを自らの手で王位に就けること、即ち自分をこの世の王のように一番偉いと思いこんでいるということ。まさに狂っている。そして、そのような人々にとって、自分の見解は立派なものと考えている。

○毎田周一先生訳
890.
もし人にそういわれた丈で 劣った人になるのなら
そのようにいう彼自身が低能ということになろう
又もし自分一人でそう思えば 最高の智慧の人 賢い人となるのなら
家を離れて道を修める人達の中に 誰一人として愚か者はいないことになる

今回の偈は、880、881で述べた内容の再説。「もし人に言われただけで劣った人になるなら、そう言った人は低能になる。何故なら他人は他人を愚か者と言うから。」
もう一つは「又自分一人でそう思えば、最高の智慧者になり、賢い人になるのなら、誰でも賢い人になる。何故なら、皆自分は賢いと思っているから。」である。

しかし、実際にはそのようなことはない。だから、上の仮設は成り立たない。

○毎田周一先生訳
891.
『これ以外の教えを説く人は 清らかでも完全でもない』と
異説を称える人達は一般にそういうのである
何故なら彼等は自分の説の正しさに夢中になり
のぼせ上っているからである

何故このように、自説に執着する人々について、言葉を少し変えて、繰り返し述べるのか。言葉が少し変われば、イメージが少し変わる。イメージが変われば、あるイメージでは分からなかった人も分かることがある。
ブッダは言葉を少し変えて繰り返し述べ、分からなかった人を分かるように、頭で理解するだけでなく、心でも分かるように、懇切丁寧に教えておられる。
(´・(ェ)・`)つ
0215名無しを整える。
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2017/12/14(木) 19:13:43.33ID:/4OJGAGC
>>213
○毎田周一先生訳
892.
『ここにこそ清らかさがある』と説いて
他の教えの中には 清らかさがないという――
このように異説を称える人達は すべて執著して
自分自身の道をしっかりつかまえて論じている

その人の言葉が真実かどうかは、その人の言葉や行いでわかる。自分は清浄だと言いながら、他人を批判することはどうか。その態度は清浄とは思えない。
だから、この人は言っていることとその態度が違っている。もうこの事実で彼は間違っていると言える。

○毎田周一先生訳
893.
自分の道をしっかり○まえて論ずるものが
外の誰を『愚か者』だということができよう
外の説を愚かだ 汚れた教えだというのなら
外ならぬ彼自身が 不和を引き起す当人ではないか

○毎田周一先生訳
894.
彼は独断の上に立って その説を作り上げ
世間に出て 論争に憂身をやつす――
一切の断定を捨ててしまえば
人は世間で誰とも争わないで済むのに」

ブッダは893で自説に固執している論者自身が世間に不和をもたらしていることを指摘して、批判したが、それに対しての平和な道が894で示された。
「一切の断定を捨ててしまえば、人は世間で誰とも争わなくて済むのに」ということ。これはブッダの金言。心に銘記しておけばその功徳は大。
誰には他人ばかりでなく、自分自身も含む。自分自身も誰かの一人だから、自分自身とも争わないということになり。自分自身と争わないとは、心に葛藤がないということ。
心に葛藤がない人の心は安定して、穏やか。一切の断定を捨てれば、心も安定して、穏やかになる。
断定とはなにか?自分の制限された想いで作り出されたもの。これは無限の世界で通用するはずがない。通用出来ない断定を振り回せば世界は混乱する。だから、「断定を捨てれば」よいと述べられている。
それではどのように想うべきかという問題がある。874の「ありのままに想う者でなく、誤って想う者でもなく、想いなき者でもなく、想いを消滅した者でもない。」そのように想う者のように想うべきなのだ。
(´・(ェ)・`)つ
0216鬼和尚 ◆GBl7rog7bM
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2017/12/14(木) 21:59:19.64ID:bkt2o+wU
>>212 そうじゃ、人を悟りに導く法こそ真理と呼べるものなのじゃ。
 そうでなければ人が真理として記憶し、伝えていく必要も無いものじゃ。
 四諦を実践していくことが真理を守り伝えていくことなのじゃ。
0217名無しを整える。
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2017/12/15(金) 18:37:12.70ID:HNwpGIcc
>>216
鬼和尚こんばんは。
ふむふむ。
ぜぇ〜ったいに、守り伝えて行かなくてはならぬでありましょう!
(´・(ェ)・`)つ
0218名無しを整える。
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2017/12/15(金) 18:40:22.71ID:HNwpGIcc
ブッダのことば(スッタニパータ)
第4 八つの詩句の章、13、並ぶ応答─長篇

895 これらの偏見を固執して、「これのみが真理である」と宣説する人々、──かれらはすべて他人からの非難を招く。また、それについて(一部の人々から)称賛を博するだけである。

896 (たとえ称賛を得たとしても)それは僅かなものであって、平安を得ることができない。
論争の結果は(称賛と非難との)二つだけである、とわたしは説く。この道理を見ても、汝らは、無論争の境地を安穏であると観じて、論争をしてはならない。

897 すべて凡俗の徒のいだく、これらの世俗的見解に、智者は近づくことがない。かれは、見たり聞いたりしたことがらについて「これだ」と認め知ることがないから、こだわりがない。かれはそもそもどんなこだわりに赴くのであろうか?

898 戒律を最上のものと仰いでいる人々は、「制戒によって清浄が得られる」と説き、誓戒を受けている。
「われわれはこの教えで学びましょう。そうすれば清浄が得られるでしょう」といって、<真理に達した者>と称する人々は、流転する迷いの生存に誘きこまれる。

899 もしもかれが戒律や誓戒を破ったならば、かれは(戒律や誓戒の)つとめにそむいて、おそれおののく。(それのみならず)かれは「こうしてのみ清浄が得られる」ととなえて望み求めている。
たとえば隊商からはぐれた(商人が隊商をもとめ)、家から旅立った(旅人が家をもとめる)ようなものである。

900 一切の戒律や誓いをも捨て、(世間の)罪過あり或いは罪過なき(宗教的)行為をも捨て、「清浄である」とか「不浄であると」とかいってねがい求めることもなく、それらにとらわれずに行え。──安らぎを固執することもなく。

901 あるいは、ぞっとする苦行にもとづき、あるいは見たこと、学んだこと、思索したことにもとづき、声を高くして清浄を讃美するが、妄執を離れていないので、移りかわる種々なる生存のうちにある。

902 ねがい求める者は欲念がある。また、はからいのあるときには、おののきがある。この世において死も生も存しない者、──かれは何を怖れよう、何を欲しよう。

903 或る人々が「最高の教えだ」と称するものを、他の人々は「下劣なものである」と称する。これらのうちで、どれが真実の説であるのか? ──かれはすべて自分らこそ真理に達した者である称しているのであるが。

904 かれらは自分の教えを「完全である」と称し、他人の教えを「下劣である」という。かれらはこのように互いに異った執見をいだいて論争し、めいめい自分の仮説を「真実である」と説く。

(´・(ェ)・`)つ
0219名無しを整える。
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2017/12/15(金) 18:51:48.44ID:HNwpGIcc
>>218
○毎田周一先生訳
895.
「めいめいの物の見方で
『ここにこそ真理がある』といって争う人は
誰もみなひとからの非難を免れないにしても
又一方賞讃をもかちとるではありませんか」

「大集積経」の内容は、「小集積経」と同じように、神々の大集会において、「自分の見解にしがみついてる者達は、非難だけを受けるのか、それとも賞讃をも受けるのか」という疑問を持った神々がいた。
ブッダはその疑問に答えるために、これも同様に化仏(化身)によって自分に質問させ、それに答えたのがこの経。
自分の見解に基づいて、「これのみが真理だ」と主張する者達は、すべて他人から非難されるのが常でありますが、一部の人達からは称賛される。」というもの。
そのような人々は、自己主張する人と立場が同じで、利害が一致する。

○毎田周一先生訳
896.
「しかしそれではどうしても はっきり結末がつかないではないか
いい争うことには例外なく その非難と賞讃という二つの結果がつきまとうからだと 私はいうのである
このことをよく考えてあなた方は
いい争うことのなくなった処にだけある静けさを求めて 人と決して論争などすべきではない

自己の見解に基づいて論争すれば、多くの人々から非難されるが、ほんの一部の自分の仲間達からは称賛されるかもしれない。しかし、その称賛も非難されたことによる心の動揺や苛立ちを抑えられるものではない。
もし心の平安や寂静を求めるのならば、論争をしないこと。

○毎田周一先生訳
897.
賢い人は 世間の普通の考え方などを
自分の中へとり入れようとは思っていない
見たり聞いたりすることに盲従せず 執著を離れている人が
一体何にとりつこうとして世間に出かけてゆくだろうか

論争しない人について述べている。論争しない賢い人々は、世俗的な常識的な考え方を学ぼうとしない。世間の人々の論争には興味がない。だから、論争に近づこうとは思っていない。

○毎田周一先生訳
898.
戒律を最高のものと考えている人は
それを堅く守りながら 自分を抑制するところに 唯一つ清らかさがあるといっている
そして『これで身を修めれば 必ず清らかになる』と
生きるという(ことを肯定する一面的な)立場に捉われているとも知らず それが正しいのだと思っている

自説を固執する人達のなかには、戒律を最高だと考える人達がいる。戒律は仏教の修行法を戒・定・慧と分けったときの一つ。だから戒律を守ることは仏教徒にとって大切なこと。
しかし、一部だけを取り上げて、それを強調し、それ執着することは、他説に執着することと同様に、誤った行為。
戒律を怠けによって破ることと、正しい智慧によって戒律を捨てることとは異なる。
実際には智慧のない凡夫にとっては、そのことを正しく理解はできず、論争の対象になってしまう。智慧がなければ、教条主義的、原理主義的な理解と戒律を捨てる考え方が対立するから。

(´・(ェ)・`)つ
0220名無しを整える。
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2017/12/15(金) 19:19:59.73ID:HNwpGIcc
>>218
○毎田周一先生訳
899.
彼はもし戒律を破ったりすれば 罪のある行いをしたといってふるえおののき
再び戒律の生活へ帰って清らかになろうと躍起になる
あたかも隊商から離れたものが隊商の処へ
家を離れて生活するものが 家へ帰りたがるように――

戒律を破ったら恐れおののいて、戒律を守ろうとすることは悪いことではない。むしろ褒められるべきこと。仏教では慚愧(ざんき)は重要な徳目。
慚(ざん)は悪い行いをすることを恥じる心で、愧(き)は悪い行いすることを怖れる心で、この二つの心によって、戒律が守られ、道徳が実践される。
しかし、今回の偈では戒律を破ることにおそれおののくことに、批判的は表現がされている。それは何故か? 
戒律は何のためにあるのか? 戒律は人々の自由を拘束するためにあるのではない。人々が不幸にならないためにある。慈悲を実践するためにある。
例えば五戒の一つ一つの項目を守ることは慈悲の実践。これらを守らないことは慈悲を実践しないこと。五戒を守らなければ、罪になり、人間関係が悪くなる。
それは不幸になること。だから戒律を守ることは、不幸ならないことであり、慈悲を実践すること。
戒律を守るということは戒律の条項を守ることではなく、慈悲を実践すること。戒律を守ろうとする人の気持ちの中に、だだ戒律の条項を守ればよいと思っていると、戒律の精神を忘れてしまう恐れがある。
仏教の初期には戒律はなかった。いろいろな出家者や仏教徒の中には慈悲の心のない人、少ない人がいた。そのために慈悲を教える方便としてブッダは戒律を制定した。戒律は守ればよいというものではない。慈悲の精神を実践すること。

○毎田周一先生訳
900.
戒律を立派に守ろうなどと 一切考えず
罪があろうとなかろうと そのどちらの行ないも共に捨てて
『清らかである 清らかでない』などと願い求めることなく
靜けさということにさえ捉われず 自由に生きてゆくべきである

戒律を守ることに執着することを否定して、戒律を守ることを超越して、戒律に対する無執着の態度を強調している。
もちろんこれは、戒律を犯してよいというものではない。戒律を超越して、慈悲の心から戒律を犯すことが出来ない。
考え方の範囲を広げるとは、戒律に対する態度と同様に、罪に対しても、罪を犯さないように精進するというレベルではなく、罪があるかないかを超越して、罪の犯せない、罪を超越した境地を目指している。罪があるかないかに執着していない。
更に、清浄であるか不浄であるかを超越して、清浄に関しても無執着。もちろん清浄であるべきではある。「清浄であるべきだ」ということは清浄にこだわっていることであり、本当の清浄から離れている。
最終的には、寂静に関しても、寂静にこだわることなく、完全な無執着の態度、自由に生きることが推奨されている。この時の自由は、エゴの自由(わがまま)ではなく、エゴから離れた自由。

○毎田周一先生訳
901.
見るも厭わしい苦行の中へ身を投じたり
或はまた見解や学問や思想の上に腰をおろしたりして
声高に清らかさをほめたたえるものは
あれこれの生き方を願って 生きることを(一面的に肯定する立場から)離れていない

戒律で清浄になると考えている人々について、そうではないと898、899、900で述べられたが、901は、苦行で清浄になる、或は見解、学問、思想などで清浄になると主張している人々を批判。
既に、見解、学問、思想などで清浄にならないということは「小集積経」でも述べられていた。
ここでは、新たに苦行で清浄になろうとしていることに批判している。また、それらのもので清浄になろうとしている、その執着する心が清浄から離れた事柄なのだと述べている。
(´・(ェ)・`)つ
0221名無しを整える。
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2017/12/15(金) 19:25:38.96ID:HNwpGIcc
>>218
○毎田周一先生訳
902.
熱望し 希求するものには
その計らいゆえに おののきがある
この世で 死も生もないもの――
彼は何におののき 何をもとめよう

この偈は、900及び901を別の側面から述べたもの。すなわち、苦行や見解、学問、思想なので清らかさや寂静を求めようとする人々は、それらを得ようとする欲望のために、心が汚れ、得られないかもしれないという不安や恐れが生じる。
しかし、そのようなことを熱望しない者、希求しない者には何も怖れることがないと述べている。また、そのような者は何を怖れ、何を求めるのかと反語の形で述べられている。
三行目の「この世で死も生もないもの(この世において死も生も存しない者)」は、清らかさや寂静を熱望したり、希求しない者を意味している。この世において死も生も存しない者とは解脱した覚者。輪廻を乗り越え輪廻しない人。
解脱してない者の死には再生(生)がある。解脱した者には再生(生)ないから死はない。すなわち死も生もない者とは輪廻をしない人、解脱した人を言う。また、解脱した覚者は既に清らかさや寂静を得ているので、清らかさや寂静を希求しない。

(´・(ェ)・`)つ
0222名無しを整える。
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2017/12/15(金) 19:26:09.80ID:HNwpGIcc
>>218
○毎田周一先生訳
903.
「ある人のこれこそ『最高だ』とする教えを
反対するものが『つまらない』といい
こうしてみなで自分こそ正しいというのであれば
一体これらの中で どれが真理を説いているのでしょうか

902でこの経の前半部分が終わり。そのため、902はまとめの偈。
前半が終わり、質問者は改めてブッダに問う。その内容は「小集積経」の879の「一体これらのうちでどの説が真理なのでしょうか?」と同様のもの。重要な問なので繰り返されている。

○毎田周一先生訳
904.
自分の教えは完全であるといい
外の教えは反対につまならぬといって
このように自分に執著していい争い
それぞれにありきたりの俗説を真理としています」

903と同じような内容を肯定文で書かれている。904は誰の言葉かが問題になる。
毎田先生は903、904は質問者の言葉としているが、正田先生は903は質問者として、904は世尊の言葉としている。中村先生はどうか。903は質問者としているが、904偈はどちらの言葉かはっきりしない。
904が質問者の偈としても、世尊の偈にしても、経全体に与える影響はあまり変わらない。

(´・(ェ)・`)つ
0223鬼和尚 ◆GBl7rog7bM
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2017/12/15(金) 22:16:08.25ID:cMEHlfLR
>>217 そうじゃ、そのためには精進あるのみなのじゃ。
 またおいでなさい。
0224名無しを整える。
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2017/12/16(土) 08:28:37.73ID:yH9gTDHX
ブッダのことば(スッタニパータ)
第4 八つの詩句の章、13、並ぶ応答─長篇

905 もしも他人に非難されているが故に下劣なのであるというならば、諸々の教えのうちで勝れたものは一つもないことになろう。けだし世人はみな自己の説を堅く主張して、他人の教えを劣ったものだと説いているからである。

906 かれらは自分の道を称賛するように、自己の教えを尊重している。しからば一切の議論がそのとおり真実であるということになるであろう。かれらはそれぞれ清浄となれるからである。

907 (真の)バラモンは、他人に導かれるということがない。また諸々のことがらについて断定をして固執することもない。それ故に、諸々の論争を超越している。他の教えを最も勝れたものだと見なすこともないからである。

908 「われは知る。われは見る。これはそのとうりである」という見解によって清浄になることができる、と或る人々は理解している。
たといかれが見たとしても、それがそなたにとって、何の用があるだろう。かれらは、正しい道を踏みはずして、他人によって清浄となると説く。

909 見る人は名称と形態とを見る。また見てはそれらを(常住または安楽であると)認めるであろう。見たい人は、多かれ少かれ、それらを(そのように)見たらよいだろう。
真理に達した人々は、それ(を見ること)によって清浄になるとは説かないからである。

910 (「われは知る」「われは見る」ということに)執著して論ずる人は、みずから構えた偏見を尊重しているので、かれを導くことは容易ではない。
自分の依拠することがらのみ適正であると説き、そのことがらに(のみ)清浄(となる道)を認める論者は、そのように(一方的に)見たのである。

911 バラモンは正しく知って、妄想分別におもむかない。見解に流されず、知識にもなずまない。かれは凡俗のたてる諸々の見解を知って、心にとどめない。──他の人々はそれに執著しているのだが。──

912 聖者はこの世で諸々の束縛を捨て去って、論争が起こったときにも、党派にくみすることがない。かれは不安な人々のうちにあっても安らけく、泰然として、執することがない。──他の人々はそれに執著しているのだが。──

913 過去の汚れを捨てて、新しい汚れをつくることなく、欲におもむかず、執著して論ずることもない。賢者は諸々の偏見を離脱して、世の中に汚されることなく。自分を責めることもない。

914 見たり、学んだり、考えたりしたどんなことについてでも、賢者は一切の事物に対して敵対することがない。かれは負担をはなれて解放されている。かれははからいをなすことなく、快楽に耽ることなく、求めることもない。

(´・(ェ)・`)つ
0225名無しを整える。
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2017/12/16(土) 09:17:58.90ID:yH9gTDHX
>>224
○毎田周一先生訳
905.
「もしもひとに詰まらぬといわれただけで もう劣ったものになるのであれば
どこにも優れた教えなど一つもないことになる
何故ならそれぞれの人は 自分のものはしっかり○まえて論じながら
外の教えは詰まらぬと 互いにいい合っているからである

今回と同じ趣旨の偈は、小集積経の880、881、更に890でも述べられた。

○毎田周一先生訳
906.
彼等は自分のゆきついた境地に感激しながら
自分の信奉する教えを無上のものとしている
そこで一切の教えはみな真実だということになる
何故ならそれらの教えは それを信奉する人達にとってはそれぞれ清らかなものだからである

今回の偈は前回905の逆の場合。すなわち905は「他人から非難されれば下劣になるならば一切の教えは優れたものでない。」ということ。906は「自分の教えを尊重すれば清浄になるならば一切の教えは清浄になる。」ということ。
教えの正しさは他人の評価や自分はその教えを尊重するか(信じるか)どうかで決まるものではないということ。このような当たり前のことが自分の信じる教えに関しては解らなくなる。

○毎田周一先生訳
907.
自在の人には 他に導かれるということがなく
彼は色々の教えを考察しても それにとりつきはしない
そのようにしてかれは人といい争う余地がない
何故なら彼は他の教えを これは特に優れたものだといって とり上げたりしないからである

毎田先生が「自在の人」と訳されたパーリ語はバラモン。それを中村先生及び正田先生は、階級としてのバラモンでなく、本来のバラモンという意味で「真のバラモン」(真の婆羅門)と訳されている。ここではこのバラモンは釈尊と考えてもよい。
釈尊は他の教えに導かれることがないと述べられている。ブッダになる前の釈尊はシッダルタと呼ばれていたが、彼は当時のインドで最高の指導者だと言われていたアーラーラ・カーラーマ仙やウッダカ・ラーマプッタ仙等に指導を受けた。
しかし、それらの教えに満足することなく、最も優れた教えだと見なすこともなかった。更に探究を続け、真理を発見した。真理は論争を超越しているから、論争を超越したブッダになられた。

(´・(ェ)・`)つ
0226名無しを整える。
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2017/12/16(土) 09:26:38.59ID:yH9gTDHX
>>224
○毎田周一先生訳
908.
『私は知る 私は見る これが本当である』
というような考え方で ある人はそこに清らかさがあると信じているが
もし何かを見たとしても それがその人自身にとって一体何になるだろう
彼等は本来居るべき処をゆき過ぎて 即ち他のものによって 清らかさをいっているのに過ぎない

今回の偈は話しの流れが少し変わる。「私は知る。私は見る。これが本当である。」と言う考え方で清浄になることができると理解している人について批判している。
何故この考え方で清浄になれないのか?「私は知る。私は見る。」とは、私には知らないことがあるから、清浄でないのだという考え方。だから、知らないことを知って、知らないことを調べて、自分を清浄にしようとする考え方。
世界には無限に知らない対象がある。無限の対象に対して、有限の時間しか持たない人間が調べ尽くすことはできない。そうすると人間は清浄になれないということになる。
そもそも清浄になるものは「私は知る」の私。この私を探究せずに、私の外の対象に対して、知らないから知ろうとして調べても、探究の対象を間違えているから、私は清浄になれない。そのことがこの偈の三行目と四行目で述べられている。

○毎田周一先生訳
909.
見る人は名と形を見るのであるが
それを見るときには 一応それをそれとして知るであろう
そして見ようと思うならどんなことでも それらをそれとして見るがよいだろう
しかし聡明な人は それらを見ることによって清らかになるなどとはいわない

今回の偈を注釈書にそって理解すると、この偈は昨日の偈を受けて、その捕捉的説明になり、明日の偈に予備的説明になっている。つまり、昨日の偈と明日の偈をつなぐものになっている。
しかし、それと全然違った解釈も可能。と言うのはパーリ語の原文の三行目のKmaを、注釈書にそって訳すと「欲するままに」となるが、
Kmaを「欲望」という意味で、三行目を訳すと、「欲望を多く或は少なく見よ。」となる。
注釈書にそって訳すと「欲するままに多く或は少なく見よ。」。この違いは「見よ」の対象が欲望かそうではないのかという違い。今回はこの考えは保留して、注釈書にそって解釈する。
908で、「私は知る。私は見る。」ことで清浄にならないことが述べられたが、「私は知る。私は見る」ことで清浄になると信じている人は、見る。
この見る人は、正田先生の説明にあるように、「名前と形態(名色:現象世界)を〔常住〕見る」。ここで現象世界を常住と見るということは、注釈書の解釈。
現象世界を無常と見ないで、常住と見ると捕捉しなくても、「私は知る。私は見る」ことで、清浄ならないことは908で説明した。
見ることで清浄になると信じている人は、そのようにするのだから、自分の好きなように見ればよいだろうという解釈になる。しかし、注釈書によれは、聡明な人は常住と見ることで清浄になるとは考えていないのだと説いている。
910への予備的説明という意味は、910は自分の見解に固執している人は、自分の見解を容易に変えられないと述べているから。
(´・(ェ)・`)つ
0227名無しを整える。
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2017/12/16(土) 09:31:02.75ID:yH9gTDHX
>>224
○毎田周一先生訳
910.
自分の立場を離れないで論ずる人は
自分考え出したその考えを 立派なものと思っているので その人に本当のことを悟らせるのは難しい
自分のとりついている処にだけ清らかさがあるというように
清らかさを論ずる人は そこにだけ本当のことがあると見ているからである

自分の考え方に固執している人は真理を知ることが難しいということ。
自分の考え方に固執している人は、自分で考えことを非常に大切に思って、尊重している。だから、自分が間違っているとも思わないだろうし、たとえ間違っていてもそれを彼は変えることが出来ない。
自分の考え方を自分自身のように考えている。自分自身を否定できないので、自分の考え方も否定できない。そもそも彼は自分の考え方が間違っているとは思えない。
自分の考え方に固執することについて、中村先生の訳では、(「われは知る」「われは見る」ということに)執著して論ずる人としている。
自分の考え方を、前からの偈のつながりの中で解釈されている。もちろん、それでもよいのだが、もう少し広く考えて、自分の考え方とすると、この偈はいろいろな場合に適応できる。

○毎田周一先生訳
911.
真に自在の域に達した人を その人はこういう人だと誰もいうことは出来ない
彼は自分の考え方などに捉われず 知識をもって廻りもしない
一般世俗のものの抱く意見もよく承知しているが
ひとはそれにとりついていても 彼はそんなものに目もくれない

自分の主義主張にこだわっている人々についてのまとめとして、
先ずそのような人はバラモン。しかし、このバラモンは身分としてのバラモンではなく、真のバラモン。
真のバラモンは、中村先生訳でその特徴を示すと、@正しく知る。A妄想分別におもむかない。B見解に流されない。C知識になずまない。D凡俗のたてる諸々の見解を知って心にとどめない人。
毎田先生訳では、@Aはこういう人だと誰もいうことができない。B自分の考え方に捉われない。C知識をもって廻りもしない。D一般世俗のものの抱く意見もよく承知しているが、そんなものに目もくれない
正田先生訳では、@〔正しく〕究明している。A〔時間の〕妄想(時間の型枠・分別妄想・輪廻的あり方)に近づきません(輪廻しない・妄想しない)。
B見解に走り行く者ではない。C知恵の眷属(知識に結縛された者)でもありません。D凡俗なる諸々の主義を知って、〔それらを〕放捨します
真のバラモンはこのような特徴があるということ。

(´・(ェ)・`)つ
0228名無しを整える。
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2017/12/16(土) 09:32:32.53ID:yH9gTDHX
>>224
○毎田周一先生訳
912.
静かな人は この世の中で色々のつながりに縛られることなく
人がいい争っても そのどちらへつくということもない
彼は不安にとりつかれた人々の間にありながら しかも安らかに 喜びも悲しみも届かぬ処にいて
人々が捉われるどんなことでも その一つすらとり上げようとはしない

自分の主義主張に固執しない人を聖者と表現されている。毎田先生はそのような人を「静かな人」と訳される。
中村先生の訳で今回示された聖者の特徴。@この世の諸々の束縛を捨て去る。A論争が起こっても、党派にくみすることがない。B不安な人々のうちにあっても、安らけく、泰然としている。C執することがない。

毎田先生訳では、@この世の中で色々のつながりに縛られることがない。A人がいい争っても、そのどちらへつくことがない。
B不安にとりつかれた人々の間にありながら、しかも安らかに、喜びも悲しみも届かぬ処にいる。C人々が捉われるどんなことでも、その一つすらとり上げようとはしない
正田先生訳では、@〔この〕世において、諸々の拘束を捨てる。A諸々の論争が生じたとして、〔特定の〕党派に走り行く者ではありません。
B寂静ならざる者たちのなかにいながら寂静で、〔諸々の主義や主張を〕放捨する者です。C〔特定の見解に〕執持する者ではありません。
@は、世間では義理人情と言ったり、絆と言って大切にしているが、聖者はそれにも価値をおいていない。

○毎田周一先生訳
913.
過去の煩いを捨てて新たにそれを作り出さず
欲望をかきたてず しつこく論ずることもなく
聡明な人は 色々の物の見方に捉われず
そして世間からは汚されず われとわが身を責めることもない

主義主張に固執しない人は「聡明な人」、「賢者」、「〔真の〕慧者」と表現されている。それらの人々には次のような特徴がある。

中村先生訳では、@過去の汚れを捨てる。A新しい汚れを作らない。B欲におもむかない。C執著して論じない。D諸々の偏見を離脱する。E世の中に汚されることがない。F自分を責めることがない。
毎田先生訳では、@過去の煩いを捨てる。A新たに煩いを作らない。B欲望をかきたてない。Cしつこく論ずることがない。D色々な物の見方に捉われない。E世間から汚されない。Fわれとわが身を責めることもない。
正田先生訳では、@諸々の過去の煩悩を捨棄する。A諸々の新しい〔煩悩〕を作らない。B欲〔の思い〕に至らない。C、〔特定の見解に〕固着しない。
D諸々の悪しき見解から解脱している。E世において、〔何ものにも〕汚されない。F自己を難じることがない。
キーワードは「汚れ=煩い=煩悩」です。過去の汚れは捨てて、新しい汚れは作らない、そして世間の人々からも汚されないということが大切。
Fの自己を責めるとは、後悔することで、過去という妄想に捉われた煩悩す。自分を責めてはいけない。
(´・(ェ)・`)つ
0229名無しを整える。
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2017/12/16(土) 09:33:10.82ID:yH9gTDHX
>>224
○毎田周一先生訳
914.
静かな人は この世のどんなことでも
自分の見解や学問や思想を拠り所として それを見ない
彼の肩の荷はすっかりおろされて 自由に解放されている
そして時に流されることなく 快楽に耽らず 何も願い求めるものがない

聖者の特徴、聖者の生き方が示されている。
中村先生訳。@見たり、学んだり、考えたりしたどんなことについてでも、一切の事物に対して敵対することがない。A負担をはなれている。B解放されている。Cはからいをなすことがない。D快楽に耽ることない。E求めることもない。
毎田先生訳では、@この世のどんなことでも、自分の見解や学問や思想を拠り所として、それを見ない。A肩の荷はすっかりおろされている。B自由に解放されている。C時に流されることない。D快楽に耽らない。E何も願い求めるものがない。
正田先生訳では、@見られたもの、聞かれたもの、あるいは、思われたもの、それが何であれ、一切の諸法(事象)にたいし、敵対という有り方を離れている。A〔生の〕重荷を降ろした者である。B牟尼であり、解脱者である。
C〔時間の〕妄想ある者ではない。D〔作為の〕止息ある者ではない。E〔未来の〕切望ある者ではない。
@については、中村先生訳、正田先生訳が分かりやすい。何事にも敵対しない。受容するということ。
Aは毎田先生訳の「肩の荷はすっかりおろされている。」。実際はだれでもこの状態なのだと思うが、多くの人々は自分の想い(妄想)によって重い(想い)荷物をしょっている。
Dについては、毎田先生と中村先生は、「快楽に耽ることない。」と訳されたが、正田先生は「〔作為の〕止息ある者ではない。」とされている。
注釈書には「止息なく」とは、善良な凡夫・有学の人たちのように止息をそなえた者ではない。」となっている。すなわち、止める者ではないとなっている。
しかし、原文では行頭に否定語があるから、止める者ではなくないとなり、止める者であると取れる。そうするとここは、止める者は、止めない者とも取れる。
私は止める者と取りたいが、対象が明記されていないので、今のところこれ以上は分からない。

(´・(ェ)・`)つ
0230鬼和尚 ◆GBl7rog7bM
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2017/12/16(土) 22:55:46.95ID:fYzNOG/E
なにやら混乱しているようじゃ。
正しく観察する事で清浄になるという主旨なのじゃ。
0231名無しを整える。
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2017/12/17(日) 06:58:07.05ID:V7OELWma
>>230
鬼和尚おはようございます。
905〜910で、世間で行われている、清浄になれない方法について語られ、911〜914で、妄想分別せず、見解、知識に基づかない、ありのままの観察(>914自分の見解や学問や思想を拠り所として それを見ない) が説かれてるのでありますね。(´・(ェ)・`)つ
0232名無しを整える。
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2017/12/17(日) 07:06:53.53ID:V7OELWma
ブッダのことば(スッタニパータ)
第4 八つの詩句の章、14、迅 速

915 [問うていわく──]「・・・・修行者はどのように観じて、世の中のものを執することなく、安らいに入るのですか?」

916 師(ブッダ)は答えた、「<われは考えて、有る>という<迷わせる不当な思惟>の根本をすべて制止せよ。内に存するいかなる妄執をもよく導くために、常に心して学べ。

917 内的にでも外的にでも、いかなることがらをも知りぬけ。しかしそれによって慢心を起こしてはならない。それが安らいであるとは真理に達した人々は説かないからである。

918 これ(慢心)によって『自分は勝れている』と思ってはならない。『自分は劣っている』とか、また『自分は等しい』とか思ってはならない。いろいろの質問を受けても、自己を妄想せずにおれ。

919 修行者は心のうちが平安となれ。外に静穏を求めてはならない。内面的に平安となった人には取り上げられるものは存在しない。どうして捨てられるものがあろうか。

920 海洋の奥深いところでは波が起こらないで、静止しているように、静止して不動であれ。修行者は何ものについても欲念をもり上げてはならない。」

(´・(ェ)・`)つ
0233名無しを整える。
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2017/12/17(日) 07:17:08.26ID:V7OELWma
>>232
○毎田周一先生訳
915.
「私は『太陽の親族』であられる偉大な聖者に
独立への道と 静けさの境地とをお尋ねします
修行者は どのように物を見れば
世間に少しも捉われず 情欲を離れることが出来るでしょうか」

「迅速経」も、ブッダが神々の大集会において、「阿羅漢になるための修行は何であろうか?」という心が現れた神々のために、ブッダが自分の化仏(化身)を作って、自分に質問させて、それにブッダが答えるという形でできた経だと言われている。
出家修行者の修行法と生活法が説かれている。禁止項目がほとんどだが、その内容は具体的で、小集積経や大集積経よりも分かりやすい。
「太陽の親族=太陽の裔=太陽の眷属」とはゴータマ・ブッダを意味している。ゴータマ・ブッダの出身の釈迦族は太陽の末裔と言われてるため、このように呼ばれることがある。
「太陽の眷属」はスッタニパータ54及び540参考。

○毎田周一先生訳
916.
「『自分を聖者のように』考える一切の妄想の
と世尊はいわれる
その根本を断ち切って
内にあるどんな情欲をも取除こうと
いつもはっきりと目醒めて学んでゆくがよい

ブッダはいくつかの項目について説法するとき、一番大切な項目から説かれると言われている。
三人の先生方の訳の仕方が細かい点で異なるので、パーリ語原文にそった訳に従って説明。
一行目は「妄想(捏造)と呼ばれるものの根本を(すべて破壊すれがよい。)」。これが根本で、一番大切なところ。
このことは874で「何故ならば、思いによって、ありとあらゆる妄想(捏造)が起こるからである。」と述べられたことが思い出される。
二行目は「智慧によって、『私がいる』という思いをすべ破壊するがよい。」だが、妄想(捏造)の最大のものが「私がいる」という思い。私がいるという思いから、あらゆる悩み苦しみが生まれる。
毎田先生は、「『自分を聖者のように』考える一切の妄想」とし、
中村先生は「「<われは考えて、有る>という<迷わせる不当な思惟>」とし、
正田先生は「「虚構の名称(世界認識の道具として虚構された概念)の根元を、『〔わたしは〕存在する』という〔我執の〕一切を、明慧によって」としている。
一番大きな違いはパーリ語の「Mant」をどのように訳すかが大きな違い。毎田先生は「聖者」と訳した。だから「自分を聖者のように考える一切の妄想」となる。
中村先生は「考える」と訳した。そのため、「私は考えて、(私は)ある」となる。
この点について、御自身の訳書「ブッダのことば」の注で「われ思う。故に、われ有り」というデカルトの言葉を引用して、「文句が似ているとしても、近代西洋と仏教とのあいだには、確然たる相違があった。
近代西洋におけるその表現は、自我の確立をめざす第一歩であった。しかし、古代のインド仏教では、分裂・対立した自我は、むしろ制し、滅ぼされるべきものであった。」と書かれている。
正田先生は「明慧によって」とされている。
後半の二行も大切。
毎田先生訳、「内にあるどんな情欲をも取除こうと、いつもはっきりと目醒めて学んでゆくがよい」
中村先生訳、「内に存するいかなる妄執をもよく導くために、常に心して学べ。」
正田先生訳、「それらが何であれ、内に、諸々の渇愛〔の思い〕があるなら、それらを取り除くために、常に気づきある者として、〔怠ることなく〕学ぶように。」
三人の先生方の訳は基本的に同じ。唯、パーリ語のtahの訳が、「情欲」と「妄執」と「渇愛」が違う。
また妄想(捏造)で悩み苦しみが生まれると書いたが、それは妄想(捏造)によって「情欲」=「妄執」=「渇愛」が生まれ、増加するから。妄想(捏造)の根本を断ち切ることは本当に大切なこと。
(´・(ェ)・`)つ
0234名無しを整える。
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2017/12/17(日) 07:41:36.33ID:V7OELWma
>>232
○毎田周一先生訳
917.
内界のことや外界のことについての
如何なる道理も それを知っているのはよいが
しかしそれを過信してはならない
何故ならそれが苦痛を鎮めるなどと目醒めた人はいわないからである

内界と外界或は内的と外的とは何を指しているのか?この二つで「如何なることも」ということだから、「すべて」を意味している。
ブッダは「すべて」という経で、「すべてとは、眼と色、耳と声、鼻と香、舌と味、身と触、意と法である。」と述べておられる。
すなわち内界とは眼耳鼻舌身意であり、外界とは色声香味触法。これがすべて。この偈の一行目、二行目では、すべてを知り尽くせと述べている。
このすべてを知り尽くすことによって、真理の三相と言われる無常、苦、無我を知ることが出来る。しかし、三行目では、それによって慢心してはいけないと述べられている。それは覚った人が説く涅槃の境地ではないからである。

○毎田周一先生訳
918.
それによって 自分を勝れているとも
劣っているとも また等しいとも 思わぬがよい
そして色々なことを人から問われても
自分をひとかどの者と思って相手に対せぬがよい

一行目の「それによって」は、前回の「すべてを知り尽くすこと」において、相手より勝れていると思ったり、同等と思たり、より劣っていると思うことをしてはならないと述べられている。
仏教では一般に、自分を他人と比較する心の働きを「慢」と言う。そしてその種類を三種類に分類している。
@増上慢:自分が他人より上だと考える。
A同等慢:自分が他人と同等だと考える。
B卑下慢:自分が他人より劣っていると考える。
この心の働きは根強いものがあり、阿羅漢になるまではなくならないと考えられている。
預流果になれば有身見がなくなる筈なのに、何故阿羅漢になるまでなくならのかという疑問に対する解答としては、有身見とは「私がいる」という見解がなくなることで、「私という」感覚は阿羅漢になるまでなくならないということである。(??)
三行目の訳について、毎田先生と中村先生の訳は同じだが、正田先生の訳とパーリ語原文の訳は異なる。
その理由は訳する底本の原文が異なるため。ブログのパーリ語Phuhoは「触れたる」、これは正田先生と同じで、毎田先生と中村先生の底本のパーリ語がPuho「問われたる」となっているため。
四行目は、慢によって自分についていろいろ妄想し、舞い上がったり、落ち込んだりするなと言うこと。
毎田先生の訳は、916で「自分を聖者のように」と訳されていた、ここでは「自分をひとかどの者と思って相手に対せぬがよい」ということになっている。
(´・(ェ)・`)つ
0235名無しを整える。
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2017/12/17(日) 07:42:04.37ID:V7OELWma
>>232

○毎田周一先生訳
919.
修行者は 心の内が静かであればよい
外の世界に平和を求めてはならない
心の内の静けさを保つものには――
掴んでいるものがない どうして捨てねばならぬものがあろうか

自分を他人と比べて、勝っているとか、劣っているとか妄想すると、心は静かにならない。他人比べることを止め、これが欲しい、あれが欲しいという思いを止めると、心は静かになる。自分の心を静かに、穏やかにすれば平安になる。
自分の心が、不満や怒りで揺れ動いているのは、他人のせいではない。同じような条件のなかでも、静かに落ち着いている人もいる。心が穏やかでないのは人のせいではない。自分自身の問題なのだとしっかりと自覚すべし。
三行目と四行目の訳において、毎田先生と中村先生の訳はほぼ同じだが、正田先生の訳は少し異なる。これはattとnirattの意味が二通りあるから。
Attは@得られたる、A自己の
Nirattは@捨てられたる、A自己ならざるものの
どちらも考えられるが、@の方が分かりやすい。
@の訳を採用した毎田先生は次のようになっている。
「心の内の静けさを保つものには――
掴んでいるものがない どうして捨てねばならぬものがあろうか」
「掴んでいるものがない」とは執着しているものがないということ。執着するものがなければ捨てるべきものはない。何をもっていても構わない。悩み苦しみの原因にはならないから。

○毎田周一先生訳
920.
海の内には
波が起こらず そこが不動であるように――
修行者は情欲を離れ 外から動かされることなく
どこにいても思い上がらぬようにするがよい」

「心の内の静けさ」を「海の内側の静けさ」で喩えている。海の表面は風などの影響で波立っていて静かではないが、海の底は外部の影響を受けずに、不動で静か。心も欲情を離れ、外部からの影響で動かされることがなければ、不動で静かになる。
(´・(ェ)・`)つ
0236鬼和尚 ◆GBl7rog7bM
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2017/12/17(日) 22:39:11.23ID:5vJFM46Y
>>231 そうじゃ、自らの見解にも囚われてはいかんというのじゃ。
 なにものにも囚われずに進むがよいのじゃ。
 
0238名無しを整える。
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2017/12/18(月) 19:29:33.64ID:pbsNnzN1
ブッダのことば(スッタニパータ)
第4 八つの詩句の章、14、迅 速

921[質問者はいわく]、「眼を開いた人は、みずから体験したことがら、危難の克服、を説いてくださいました。ねがわくは正しい道を説いてください。戒律規定や、精神安定の法をも説いてください。」

922 [師いわく]、「眼で見ることを貪ってはならない。卑俗な話から耳を遠ざけよ。味に耽溺してはならない。世間における何ものをも、わかものであるとみなして固執してはならない。

923 苦痛を感じるときがあっても、修行者は決して悲嘆してはならない。生存を貪り求めてはならない。恐ろしいものに出会っても、慄(フル)えてはならない。

924 食物や飲料や堅い食べものや衣服を得ても、貯蔵してはならない。またそれらがえられないからとて心配してはならない。

925 こころを安定させよう。うろついてはならないるあとで後悔するようなことをやめよ。怠けてはならなぬ。そうして修行者は閑静な座所・臥所に住むべきである。

926 多く眠ってはならぬ。熱心に努め、目ざめているべきである。ものぐさと偽りと談笑と遊戯と婬欲の交わりと装飾とを捨てよ。

927 わが徒は、アタルヴァーダの呪法と夢占いと相の占いとを行ってはならない。鳥獣の声を占ったり、懐妊術や医術を行ったりしてはならない。
(´・(ェ)・`)つ
0239名無しを整える。
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2017/12/18(月) 19:33:13.46ID:pbsNnzN1
>>238
○毎田周一先生訳
921.
「明らかな眼を以てあなたが自ら証しせられた煩いを除く法を
いまお聞きしました。
尊き方よ 更に正しい行いについてお示し下さい
人の必ずせねばならぬことと 深く思わねばならぬこととはなんでしょうか」

前半は第一の質問の解答へのお礼の言葉。後半では、修行実践の道(方法)と戒律条項、心の統一についての質問。

○毎田周一先生訳
922.
「目に見えるものを貪り求めず
つまらぬざれ言に耳を貸さず
美味なものを無闇に欲しがらず
世間の何事も愛好せぬがよい

具体的で分かりやすいが、実践することは難しいす。なぜならば、基本的に私達は楽しみたいと思っているから。物を見て楽しみたい。音を聞いて楽しみたい。食べて楽しみたいと思っている。
だから、「眼で見ることを貪ってはならない。卑俗な話から耳を遠ざけよ。味に耽溺してはならない。」と言われてもなかなか出来ない。ではどうするのか?
 眼で見ることを貪ることによって、どのような苦しみを生み出しているのか調べること。
四行目、「世間の何事も愛好せぬがよい」=「世間における何ものをも、わがものであるとみなして固執してはならない。」=「世において、何であれ、わがものと〔錯視〕しないように。」
とは、楽しみたいという思いを打ち消すための言葉。世間の何事も楽しめるというよりは、それらに耽溺すれば苦を生み出すことを知らなければならない。それが分かれば、ブッダの今回の言葉を実践できるようになる。

○毎田周一先生訳
923.
刺すような苦痛に会っても
修行者は決して泣き悲しまず
どうしても生きたいなど命を貪らず
恐ろしいものに出会っても震えぬがよい

一行目の直訳は、「触れて感じた時に」だが、二行目は「修行者は決して悲嘆してはならない」だから、苦しくなるものに触れた時のようである。だから、正田先生は病気や飢えを補って訳されている。
そこで、何故このような苦痛に会った時も、修行者は嘆き悲しんではいけないのか?
苦痛に対して嘆かないことは、完全な感官の防護。感覚に対する刺激から心が汚れないように守るため。
凡夫であるならばこのような苦痛に対して嘆くことは普通のことだが、修行者たるものは、心を守ることは重要な修行だから、たとえ大きな苦痛であっても耐え忍ぶべき。
三行目、「どうしても生きたいなど命を貪らず」=「生存を貪り求めてはならない」=「〔迷いの〕生存を渇望しないように」について説明。
大きな苦痛に対して嘆き悲しむのは、生命の危機を感じるから。
生命の危機に対しても動じない修行者は、痛い時は痛いが、嘆き悲しむことがない。何故ならば彼にとっては自分の生命より大切なものがあるから。それは真理の探究。彼は真理の探究にとって嘆くことが相応しくないのであれば嘆かない。
三行目「恐ろしいものに出会っても震えぬがよい」も、恐ろしいものに出会って震えるのは命が惜しいから。」
真理のためならば、命も惜しくない修行者は、恐ろしいものに出会っても震えないす。」彼には「悪事を働くこと」以外に恐ろしいものはない。
(´・(ェ)・`)つ
0240名無しを整える。
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2017/12/18(月) 19:39:42.82ID:pbsNnzN1
>>238
○毎田周一先生訳
924.
食べものや飲みものや
保存の出来る食物や衣服を受けても
それを貯えるようなことはせず
又それが手に入らなくてもくよくよせぬがよい

922の四行目で「世間における何ものをも、わがものであるとみなして固執してはならない。」と述べられてた。
貯蔵するということは、それに対して「わがもの」という思いがある。
「わがもの」という思いは「私がある」という思いにつながる。このような発想は、無我を体得しようという修行に逆行する。だから「貯蔵してはならない。」
924の四行目、「またそれらがえられないからとて心配してはならない。」
出家して修行することは、他の人々に与えられたもので命をつなぐ覚悟を決めている筈だから、何日か食べ物を得られないことがあっても心配するべきではない。
また、仏教には「業」という考え方がある。業によって寿命が決まっている。その寿命を全うする糧は得られるということも決まっている。だからじたばたしなくともよい。
食べ物があっても死ぬ時は死に、寿命があれば必ず、そのために必要な食べ物は与えられる。仏教を信じ、業を信じているものは食べ物が得られなくとも心配してはならない。

○毎田周一先生訳
925.
修行者はどこ迄も深くものを考えて さまよい歩かず
悔いることを止め 時を無駄に過ごさず
騒音を離れたところに
坐る場所 臥せる場所を求めて そこに住むがよい

始めの言葉Jhyを、毎田先生は「修行者はどこ迄も深くものを考えて」、中村先生は「こころを安定させよう」、そして正田先生は「瞑想者は」と訳しました。どの訳も可能。ここでは中村先生の訳を中心にして、解説。
@こころを安定させよう。
これは瞑想すること。毎田先生は、瞑想することを「どこまでも深く考えていること」と考えている。
Aうろついてはならない。
パーリ語を分析して意味をとると、正田先生の捕捉的訳にあるように、「欲望の対象を求めて歩き回ること」。
Bあとで後悔するようなことをやめよ。
この訳からは、悪行為をしないことという意味にもとれるが、パーリ語の意味は「後悔することを止めるように」。
後悔はなぜいけないか? 後悔している時は気づきを怠っている。時間を無駄に使っている。また心が落ち込み、暗くなるから。さらに、後悔すると、二重に悪行為をすることになる。
すなわち、悪行為したという悪行為と、そのために、後悔するという悪行為を重ねるということ。
C怠けてはならぬ。
これは単に、仕事や勉強を怠けるなという意味ではなく、正田先生の訳のように「〔常に気づきを〕怠らないように」ということ。
仏教用語としては不放逸という言葉を使う。この言葉を毎田先生は「時を無駄に過ごさず」としている。気づきを怠らないということは、今の瞬間に気づいていることで、今を生きているという意味。
Dそうして修行者は閑静な座所・臥所に住むべきである。
修行者はあくまでも、心の静けさを求めて修行すべきだが、環境も大切で、静かな場所の方が修行は実践しやすい。
(´・(ェ)・`)つ
0241名無しを整える。
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2017/12/18(月) 19:42:08.32ID:pbsNnzN1
>>238
○毎田周一先生訳
926.
眠りを貪ることなく
注意深く 生々と働き
不精と 偽善と 冗談と 娯楽と
性の関係と 上辺を飾ることとを止めるがよい

@多く眠ってはならぬ。
眠っている間は心を育てるということは出来ない。だから修行は眠りを貪ってはならない。
多く食べると多くの睡眠を必要とする。食物の消化・吸収・排泄のために多くのエネルギーが必要だから。修行のために必要な食物だけを取るようにすると、睡眠時間が少なくて済む。
A熱心に努め、目ざめているべきである。
気づきを絶やさない(不放逸)ために、目ざめている必要がある。そのために、熱心にということが必要。大念処経やその他の経典にも「熱心に、正知をそなえ、念をそなえ」と三セットで繰り返し述べられている。
B不精=ものぐさ=倦怠を止めるがよい。
不精、ものぐさはやるべきことをやらないこと。倦怠はいやになって止めること。
これで修行が完成するはずはない。この反対のことで修行が完成する。やるべきことはやる。嫌になっても完成するまでは止めない。これで修行が完成する。
C偽善=偽り=幻想を止めるがよい。
この三つを並べると意味が分かりにくいが、妄想を止めて、真実を見て、真実のある真心のある行ないをすること。
D冗談=談笑=笑喜を止めるがよい。
E娯楽=遊戯=遊興を止めるがよい。
DEは一緒に考えてもよいでしょう。今私達は苦の世界で生きていることが事実。そのことから眼を背けて、談笑し、面白可笑しく、遊びほけてよいのか。この苦しみにみちた輪廻を無限に繰り返すことになる。
ダンマパダ146「何の笑いがあろうか。何の喜びがあろうか。
世間は燃えているのに
汝らは暗黒におおわれている。
どうして燈明を求めないのか?」(中村先生訳)
F性の関係=淫欲のまじわり=淫欲を止めるがよい。
性の関係には二つの側面がある。一つは種の保存。もう一つは快楽の追及。淫欲を止めるがよいというと子孫が絶えてしまうと言いう人がいるが、この項は修行者に対して述べられてもので、一般の人々に述べているのではない。
快楽の追及に関しては、修行者にとっては楽の中で苦を見出すことが重要な課題。楽に惑わされて輪廻を繰り返しているわだから。
G上辺を飾ること=装飾=〔身を〕飾り立てることを止めるがよい。
上辺を飾ること、おしゃれをすること、化粧をすること等は、何故行うのか? 
修行者のなすべきことは心を清らかにすること、心を育てること。上辺を気にすることは見当違いの行ない。時間の無駄。ありもしない自分を飾って、しかも上辺を飾って何の意味があるか。

○毎田周一先生訳
927.
妖術と 夢占いと 人相を見ることと
それから又星占いなどをせず
鳥や獣の声を占ったり 子を授かる法や
医術を施すことをすき好んでせぬがよい

占いは昔から、現在も人気のあるもの。占いが人気があるのは、人間は無知のために、すべての事柄に対して不安で、一時的でも安心できる拠り所が欲しいから。
しかし、ではなぜブッダは弟子達に占いを禁じたのか?その基本は、自ら真理を発見するため。迷信、根拠のない事柄を盲信するという態度では真理を発見できないから。
占いを信じるようでは、真理探究の修行を正しく進められないから。
後半では、懐妊術(子を授かる法)や治療についても弟子達に禁じている。これはなぜか? 子を授かる法や治療は信者さんに喜ばれることではあるが、それは仏弟子の行うべき仕事ではない。
それらの分野は肉体に関する事柄でそれらの専門家に任せること。仏弟子は自分自身の心の清浄と成長を中心に取り組み、信者さんの心の成長や安穏のために働くべきだから。
(´・(ェ)・`)つ
0242鬼和尚 ◆GBl7rog7bM
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2017/12/18(月) 22:55:22.39ID:CwzU6xyF
それらを職業にしてはいかんのじゃ。
乞食によって身を養うので有るからのう。
修業のためにマントラを唱えたりするのはよいのじゃ。
0243名無しを整える。
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2017/12/19(火) 18:34:51.46ID:xcRwi0AL
ブッダのことば(スッタニパータ)
第4 八つの詩句の章、14、迅 速

928 修行者は、非難されても、くよくよしてはならない。称讃されても、高ぶってはならない。貪欲と慳みと怒りと悪口を除き去れ。

929 修行者は、売買に従事してはならない。決して誹謗をしてはならない。また村の人々と親しく交わってはならない。利益を求めて人々に話しかけてはならない。

930 また修行者は高慢であってはならない。また(自分の利益を得るために)遠廻しに策したことばを語ってはならない。傲慢であってはならない。不和をもたらす言葉を語ってはならない。

931 虚言をなすことなかれ、知りながら詐りをしないようにせよ。また生活に関しても、知識に関しても、戒律や道徳に関しても、自分が他人よりもすぐれていると思ってはならない。

932 諸々の出家修行者やいろいろ言い立てる世俗人に辱しめられ、その(不快な)ことばを多く聞いても、あらあらしいことばを以て答えてはならない。立派な人々は敵対的な返答をしないからである。

933 修行者はこの道理を知って、よく弁えて、つねに気をつけて学べ。諸々の煩悩の消滅した状態が「安らぎ」であると知って、ゴータマ(ブッタ)の教えにおいて怠ってはならない。

934 かれは、みずから勝ち、他にうち勝たれることがない。他人から伝え聞いたのではなくて、みずから証する理法を見た。それ故に、かの師(ブッタ)の教えに従って、怠ることなく、つねに礼拝して、従い学べ。」

──このように師(ブッダ) はいわれた。

(´・(ェ)・`)つ
0244名無しを整える。
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2017/12/19(火) 18:41:06.02ID:xcRwi0AL
>>243
○毎田周一先生訳
928.
修行者は非難されても悩まず
ほめられても思い上がらず
利己心と一緒に 貪りと
怒りと陰口をきくこととを払いさるがよい

一行目。平安の境地を求める者は他人の非難に動揺してはいけない。他人の非難はある意味、他人の自由。他人の非難に動揺しているものは心の平安は得られない。
ダンマパダ227「アトゥラよ。これは昔にも言うことであり、今に始まることでもない。
沈黙している者も非難され、多く語る者も非難され、すこしく語る者も非難される。
世に非難されない者はいない。」(中村先生訳)
二行目。人々はほめられると嬉しくなって、舞い上がるものだが、それ自体が心の落ち着き、平安でない。これでは平安の境地に至ることはできない。
舞い上がる人は何に舞い上がるのか。良い事を行ったり、良い事を言ったりしたとしても、それはあなたのみの手柄か。多くの場合、多くの人の支えによってなし得たこと。

○毎田周一先生訳
929.
修行者は売買には従わず
決して人を罵らず
又村里にいても不機嫌な様子をせず
(それかといって)利益を得ようとして人と余計なはなしをせぬがよい

修行者とは、比丘あるいは乞食修行を意味している。彼等は生きる糧を稼ぐ仕事を止めて、ただ真理を求める修行だけに専心し、生きる糧は乞食に頼ることを決意した人々。だから、売買などの商いに従事してはいけない。
二行目。修行者は、真理を求めることに専念するとはどのようなことか? 人格を完成する、無量心「慈悲喜捨」の心を完成し、即ち真のやさしさを知り、それを実践できるようになること。
それならば、他人を罵る、誹謗する、批判するということがあってよいか。それはすべて真のやさしさに反する行為。すべきでないことは明らか。
三行目、毎田先生は「不機嫌な様子をせず」、中村先生と正田先生は「親しく交わってはならない=〔在家者たちと〕交際しないように」と訳されている。
パーリ語辞書に両方の意味が掲載されているからこの違いがある。どちらにしても、修行に差しさわりのある人間関係を持ってはいけないということ。
四行目は、利益を求めて話をすることは、欲に基づく行為。無意識にもそのような行為をしないように注意すべき。
(´・(ェ)・`)つ
0245名無しを整える。
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2017/12/19(火) 18:45:49.19ID:xcRwi0AL
>>243
○毎田周一先生訳
930.
修行者は傲慢な態度をとらず
又腹に一物あるようないい方をせず
押しの強さを身につけることなく
人と争うようないい方でものをいわぬがよい

一行目「傲慢=高慢=自慢する者」これらは、明らかに自分を他人と比較して自分を勝れていると思っていること。
二行目は、「腹に一物あるようないい方=(自分の利益を得るために)遠廻しに策したことば=食を得るためのほのめかしの言葉」いじましい、せこい、修行者でなくても人間として情けない。
三行目は、傲慢さを身につけるなということ。何かを学んでも、そのために自分は偉くなったと思うなということ。何か新しいこと学んだら、自分は偉くなったと思うのではなく、自分はこのようなことも知らなかったのだと謙虚さを学ぶべき。
四行目、真理は論争や争いを超越している。真理を探究する修行者ならば、論争や争いの種はまかない。そのようなことにならないようにくれぐれも注意すべき。

○毎田周一先生訳
931.
嘘をつかぬようにし
狡猾なことをしないように気をつけ
また生活についても叡智についても
徳行についても 他人を軽蔑せぬがよい

「嘘をつかぬように」は五戒の一つ。正しく生きようと思う者は必ず守るべき徳目。なぜ嘘をついてはいけないのか。慈悲の心に反する行為だから。
二行目は「狡猾なことをしないように気をつけ」は930「腹に一物あるようないい方をせず」に似ている。ブッダはいろいろな言い回しで、よく分かるように説かれている。
三行目、四行目も930「傲慢な態度を取らず」ということでもあり、「人と争うようないい方でものをいわぬがよい」ということでもあります。慢心を戒めている。
(´・(ェ)・`)つ
0246名無しを整える。
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2017/12/19(火) 18:54:00.56ID:xcRwi0AL
>>243
○毎田周一先生訳
932.
いらいらさせられるような多くの言葉を
外の修行者や 色々と悪口をいう俗人から聞いても
荒々しい言葉で答えぬがよい
何故なら静かな人は仕返しなどしないからである

ダンマパダ5及び133、134を参考。

○毎田周一先生訳
933.
修行者は以上のことをよく理解して
微妙なことによく気付き いつも目醒めて学びながら
一切の煩いのなくなる処に 『静けさ』のあることを知り
目醒めた人の教えを聞いて 時を空しく過ごさぬがよい

迅速経のまとめ。「以上のこと」とは、921の質問に答えられたブッダの十一の偈の内容。
これらの道理を実践する中で、「一切の煩いのなくなる処に 『静けさ』のあることを知り=諸々の煩悩の消滅した状態が「安らぎ」であると知って=寂滅〔の境処〕(涅槃)を、『〔真の〕寂静である』と知って」、
「時を空しく過ごさぬがよい」と述べられている。
ブッダは道理を実践することで、真理を体得すべきであると述べておられる。

○毎田周一先生訳
934.
その人は自らに打克って 他に打克たれることなく
人から聞いてではなく自ら証しして真理を見た人である
だからこそこの尊き師の教えをあがめ 怠ることなく
それに従って学んでゆくがよい

迅速経を述べたブッダはどのよう方なのか?またこの経に述べられた真理はどのようなものなのか?そしてその真理をどのように学ぶべきかここで述べられる。
自分自身に打ち勝つということは、自分の煩悩を克服したということ。
また、ブッダが覚った真理は、人から聞いたり、教えられたものでなく、自分自身で体得した真理であるということ。
そのようなブッダの教えだからこそ、ブッダを尊敬し、不放逸、常に気づきを怠ることがないようにいるべきと説かれた。
この経のパーリ語の題名はTuvaakasutta。このTuvaakaの意味は「迅速な」「急ぐ」などの意味があるので、「迅速経」と呼ばれている。
この経の偈の中にTuvaakaという言葉はない。そのために、Tuvaakaを人名と考える説もあるが、その確定的な証拠がないので、注釈書の注では、「どうしてこの題名を冠するのか明らかでない。」と述べられている。
しかし、この経の編集者の意図を考えてみる。
この経の要所に不放逸ということが述べられている。925、933、及び934に不放逸という言葉がある。
不放逸は通常、念、気づきを怠らないことと訳されるが、毎田先生は不放逸を「時を無駄に過ごさず」と訳された。まさに、不放逸とは時間を無駄にしないこと。
ブッダの最後の言葉は「すべての現象は消えていくものです。不放逸で励みなさい。」だった。このように修行者が不放逸であるべきなのは、すべての現象が迅速に消え去るから。
不放逸であるべき前提は、すべての現象が迅速に消えるところにある。そのような訳でこの経は「迅速経」と命名されたのではないか。

(´・(ェ)・`)つ
0247鬼和尚 ◆GBl7rog7bM
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2017/12/19(火) 22:36:48.99ID:C74aUflQ
自分で観察して厭離が起こるのじゃ。
学んだだけでは起こらないのじゃ。
そうであるから真理を見るというのじゃ。
0248名無しを整える。
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2017/12/20(水) 18:28:39.03ID:Vcxelp3N
ブッダのことば(スッタニパータ)
第4 八つの詩句の章、15、武器を執ること

935 殺そうと争闘する人々を見よ。武器を執って打とうとしたことから恐怖が生じたのである。わたくしがぞっとしてそれを厭い離れたその衝撃を宣べよう。

936 水の少ないところにいる魚のように、人々が慄えているのを見て、また人々が相互に抗争しているのを見て、わたくしに恐怖が起った。

937 世界はどこでも堅実ではない。どの方角でもすべて動揺している。わたくしは自分のよるべき住所を求めたのであるが、すでに(死や苦しみなどに)とりつかれていないところを見つけなかった。

938 (生きとし生けるものは)終極においては違逆に会うのを見て、わたくしは不快になった。またわたくしはその(生けるものどもの)心の中に見がたき煩悩の矢が潜んでいるのを見た。

939 この(煩悩の)矢に貫かれた者は、あらゆる方角をかけめぐる。この矢を抜いたならば、(あちこちを)駆けめぐることもなく、沈むこともない。

(´・(ェ)・`)つ
0249名無しを整える。
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2017/12/20(水) 18:45:28.58ID:Vcxelp3N
>>248
○毎田周一先生訳
935.
「争う人々を見るがよい 
杖をとりあげるから 恐怖が生じたのである――
私は世間の悲惨を見て 強く心を動かされたが 
そのとき感じたままを これから話してみよう

この経の由来は、サーキャ族(釈迦族)とコーリヤ族の間に水争いが起こった時、世尊はその争いを止めようとして、両軍の中に立ってこの経を説いたと言われている。
またこの経名は、この偈の最初の言葉 Attadaから来ている。この語はAttaとdaからできているが、Attaには、「取る(執る)」という意味と「自己の」という意味がある。
daは、「杖、棒(武器、暴力)」。毎田先生と中村先生の訳は「杖をとりあげる=武器を執って」としているが、正田先生は「自己の棒(暴力)」と訳している。
そのため、厳密には題名の訳は二通りになるが、ここでは中村先生の訳を取った。
この偈のポイントは二つ。第一は、恐怖は武器を執るから生じるということ。逆ではない。恐怖があるから武器を執るのではないのだとブッダは説かれている。
そこまで詳しく丁寧に心の機微を観察する必要がある。恐怖は人間の根本な感情の一つ。これに対する理解により人間の理解が出来る。
第二は、ブッダが「私は世間の悲惨を見て、強く心を動かされたが、そのとき感じたままを、これから話してみよう。」と述べられた意図を知る必要がある。
「世間の悲惨」とは「苦」の実状。四聖諦の第一の苦諦を理解するためには、世間の悲惨を観察しなければならない。
またブッダは「そのとき感じたままを、これから話してみよう。」と仰られているので、それに学んで、観察すること。苦の観察の見事な見本が示されることになる。

○毎田周一先生訳
936.
水の少ない処で
はねかえっている魚のような人を見
また互いに反目している人達を見て 
私は恐ろしくなった

反目している人々の姿を、水の少ない処にいる魚に例えている。魚は水が少なくて苦しくて、のたうち回っている。
反目している人々は、恐怖におびえ、苦しんでいる。では何がたりなくて苦しんでいるのか。それは愛情。反目している人々の心には怒りで、愛情がなくなって苦しんでいる。人間には、魚に水が必要なように、愛情が必要。

○毎田周一先生訳
937.
この世のどこを見ても 確かなことがなく
どの方向もみな揺れ動いていた
私は自分の住み処(か)を求めていたが 
すでに何かが住み込んでいない処を見なかった

936も今937も、ブッダがお悟りになる前の菩薩であったとき、世間の人々のあり様を語られている。
936の偈で水の少ない水の中で苦しんでいる魚のように怖れ苦しんで人々に対して戦りつが起こったので、菩薩はそこから眼を転じて、あまねく世間を見渡した。
しかし、世間には何一つ確実なものがなく、やはり恐れや苦しみのために揺れ動いていた。
菩薩はそれでも何とか自分の安らげる場所を探し求めた。しかし、そのような場所はなく、何処も、生老病死などの苦しみが住み着いていた。

○毎田周一先生訳
938.
そこには必ず行き詰まりがあり 
人がそれにぶつかってどうにもならぬのを見て 
私は不愉快になった。
そうして一見して解らない矢が 
彼等の心中に刺さっているのを見た

菩薩は、水の少ない処で苦しむ魚のように、怖れ苦しむ人々を見て、どこかに安らぎのある住処を求めました。しかし、そのような場所はどこにもなかった。人々は仲良く生活しているように見えても、最後には、互いに敵対し、反目し合うようになる。
それを見て、菩薩は不快になったが、その原因を探究した。彼等の心に矢というべきものがあった。これを修行者は自分で観察して自分で発見すべきもの。無智、無明の凡夫には発見し難いもの。この矢とは無智、無明。

○毎田周一先生訳
939.
この矢の刺さった者は 
あらゆる方向に駆け回るのであるが
その矢を抜いてさえしまえば 
駆け廻ったり はては身動きならぬことにならなくてもよいのである
矢に射られたものは、痛いのだから、あちらこちら走り回る。この矢を引き抜きさえすれば、しばらくすれば痛みもおさまり、走り廻ったり、痛みのためにうずくまらなくともよくなる。
しかし、実際は988に述べられていたように、凡夫には矢は見難いので、矢に射られていることも分からずに、怖れ、苦しみ、走り廻っている。だから、まず、苦しみの原因を見極めること。そうすれば苦しみの原因である矢を取り除くことが出来る。
(´・(ェ)・`)つ
0250鬼和尚 ◆GBl7rog7bM
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2017/12/20(水) 21:45:22.37ID:Sxpa2Ly9
杖をとりあげるから恐れがおこるとはどう考えてもおかしいじゃろう。
それでは武器があれば恐れはない事になるからのう。
武器を推奨したりはしないのじゃ。
0251名無しを整える。
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2017/12/20(水) 22:53:52.93ID:Vcxelp3N
>>250
鬼和尚、こんばんは。
たしかに、毎田先生の「とりあげる」を解説のように、中村先生の訳と同じように解することは、日本語としてちょぴっと不自然であると思うであります。
(´・(ェ)・`)つ
0252名無しを整える。
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2017/12/21(木) 19:14:15.49ID:ygvalig9
ブッダのことば(スッタニパータ)
第4 八つの詩句の章、15、武器を執ること

940 そこで次に実践のしかたが順次に述べられる。──世間における諸々の束縛の絆にほだされてはならない。諸々の欲望を究めつくして、自己の安らぎを学べ。

941 聖者は誠実であれ。傲慢でなく、詐りなく、悪口を言わず、怒ることなく、邪まな貪りと慳みとを超えよ。

942 安らぎを心がける人は、眠りとものぐさとふさぎこむ心とにうち勝て。怠惰を宿らせてはならぬ。高慢な態度をとるな。

943 虚言をつくように誘き込まれるな。美しいすがたに愛著を起すな。また慢心を知りつくしてなくすようにせよ。粗暴になることなく、ふるまえ。

944 古いものを喜んではならない。また新しいものに魅惑されてはならない。滅びゆくものを悲しんではならない。牽引する者(妄執)にとらわれてはならない。

(´・(ェ)・`)つ
0253名無しを整える。
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2017/12/21(木) 19:24:32.36ID:ygvalig9
>>252
○毎田周一先生訳
940.
世間では色々の学術を習うのであるが
そんなものによって
世間へあれこれと縛りつけられるのではなく
そもそも欲望というものが何であるかをよく知って
自分というものがすっかりなくなることをこそ学ぶがよい

毎田先生は、sikkhaを学術と訳している。世間の学術によって拘束されるべきでない。それよりは、欲望の本質を究めよと述べている。また「自己の寂滅」の意味を「自分というものがすっかりなくなること」として、それを学ぶべきだとしている。
これが心に刺さった矢を抜くことと解釈している。
中村先生と正田先生は、sikkhaを「実践のしかた=諸々の学び〔のあり方〕」と取られ、941からの偈で続いて述べられる具体的な項目を指している。
これらの具体的な項目の実践は「矢を抜くこと」なのだとしている。ただ、「世間における諸々の束縛の絆にほだされてはならない。」の意味は「実践のしかた」が形骸化されるといけないという意味。
例えば、戒律の心を重んじないで、形だけ戒律を守ればよいとするようなこと。
四行目については、「諸々の欲望を究めつくして」が心に刺さった矢を抜くことになるということ。そして、それが自己の涅槃を学ぶことだとしている。「自己の涅槃」を学ぶとは、毎田先生は、「自分というものがすっかりなくなること」としてる。

○毎田周一先生訳
941.
静かな人は おだやかに 誠を尽くし 
心豊かに ひとを謗らぬ人であり
怒りを離れ 貪りの禍いと
利己心とをこえた人でなければならない

心に刺さった矢を引き抜くために、諸々の欲望を究めつくして、自己の安らぎ(涅槃)を学ぶこととは、具体的には941で述べられたこと。

@誠実であれ、A傲慢でなく、Bいつわりなく、C悪口を言わず、D怒ることなく、E邪まな貪りを超える、Fもの惜しみを超える、以上中村先生訳。
これらは慈悲の心がある人ならば、すべて簡単に実践できること。しかし、私達の心に欲望があるならば、簡単ではない。欲の心が邪魔をする。
欲の心は利己心。毎田先生は「物惜しみ」を利己心と訳された。利己心は慈悲の心を邪魔する。
利己心がある時、誠実にはなれない。傲慢になる。ある時は悪口を言い、怒る。自分に都合が悪いから怒る。また利己心故に貪り、物惜しみになる。慈悲と欲望は対立するものだと理解する必要がある。

○毎田周一先生訳
942.
一切の煩いを除こうと思うなら 
眠りと不精と 迂闊(うかつ)に時を過ごすこととに
うちかってふしだらな様子と
思い上がった態度とを捨てるがよい

心に刺さった矢を引きぬために実践すべき項目が述べられている。しかし、その内容は単に矢による苦しみを取り除くという意味でばかりでなく、それは涅槃を目指す人に薦められる事柄でもある。
@眠りに打ち勝つ。
「迅速経」の926。参考
A倦怠、ものぐさに打ち勝つ。
926やるべきことをやらないこと。倦怠はいやになって止めること。
B落ち込み、ふさぎ込む心に打ち勝つ。
落ち込み、ふさぎ込みは心のエネルギー不足。エネルギーの不足した心は成長しない。これに打ち勝たなければならない。どうしたら心のエネルギーを供給できるか?
心のエネルギーは愛情(慈悲)。心のエネルギーは放出すると、供給される。だから先ず放出する。つまりあなたが誰かに愛情を与える。やさしくすること。そうするとあなたに心のエネルギーが入ってくる。実践すればすぐに分かる。
C放逸、怠惰を心に宿らせない。
気づきを絶やさないこと。
D高慢な態度を取らない。
高慢とは自分と他人を比較して、自分が勝っていると思うことだが、これこそ無智の現れ。高慢な人と同じ無智なレベルで考えても、世界は広く多くの人々がいる。高慢な人以上に勝っている人は、世界にいくらでもいると思わなければいけない。
高慢な人はそのような一人でもいれば、苦しむことになる。
仏教では無我を教えている。本来、他人と比較する自分がないことを知らなければならない。そして、何よりも重大な問題は高慢な人は他人から素直に学べないから、成長出来ない。
(´・(ェ)・`)つ
0254名無しを整える。
垢版 |
2017/12/21(木) 19:26:33.23ID:ygvalig9
>>252
○毎田周一先生訳
943.
嘘をつかず 
形あるものに執著せず
思い上がる心を隅々まで究めて 
決して暴力を用いぬようにするがよい

@嘘をつかないこと
妄語に導かれないようにと表現されており、嘘をつかなければならない状況ならないように注意されている。これは言葉に関する戒め。
A形あるものに執着しないこと。
形あるものとは、物質的なもの、肉体などを意味する。物を欲しがったり、自分の肉体、健康や美容などに執着しないこと。これは心に関する戒め。
B慢心を究め尽くすこと。
自分と他人と比較するという心の作用。これはなかなか取り除くことの出来ない、心の癖のようなものだから、究め尽くせと述べられている。これも心に関する戒め。
C暴力を振るわないこと。
原文の四行目のshasaは、「性急、暴力、粗暴、暴悪」などの意味があるから、四行の意味は「粗暴になることなく」「無理強いすることから離れた者となり」などの意味であると理解できる。これは身体に関する戒め。

○毎田周一先生訳
944.
古いものを楽しむことなく 
新しいことを受け入れることなく
滅びゆくものを悲しむことなく 
光あるものに愛著すべきでもない

「牽引するもの=惹き付けるもの」とは、渇愛、妄執を意味している。
毎田先生は「光あるもの」と訳された。五感で快を感じるものに引きつけられないようにということ。五感の奴隷にならないようにということ。
これらのことで、心に刺さった矢を引き抜くことができ、涅槃に達することが出来ると教えている。
(´・(ェ)・`)つ
0255鬼和尚 ◆GBl7rog7bM
垢版 |
2017/12/21(木) 21:37:20.85ID:ady9V75C
>>251 そうじゃ、恐れから武器をとったというのが正しいのじゃろう。
 他人を攻撃するのは恐れが有るからなのじゃ。
 恐れから武器を取り上げて攻撃するのじゃ。
0256名無しを整える。
垢版 |
2017/12/21(木) 23:00:04.98ID:ygvalig9
>>255
鬼和尚、こんばんは。
て、ことは、どの訳も間違えでありますか?
たしかに、恐怖から武器をとるの方が自然で、
武器をとるから恐怖が生じるは、考えすぎのような気もするではありますが、
>恐怖は武器を執るから生じるということ。逆ではない。恐怖があるから武器を執るのではないのだとブッダは説かれている。
そこまで詳しく丁寧に心の機微を観察する必要がある

という解説にも一理あるような気がするのでありますが、いかがでありましょう。
(´・(ェ)・`)つ
0257名無しを整える。
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2017/12/22(金) 19:22:52.79ID:Ngt62Umq
ブッダのことば(スッタニパータ)
第4 八つの詩句の章、15、武器を執ること

945 わたくしは、(牽引する者のことを)貪欲、ものすごい激流と呼び、吸い込む欲求と呼び、はからい、捕捉と呼びね超えがたい欲望の汚泥であるともいう。

946 バラモンである聖者は、真実から離れることなく、陸地(安らぎ)に立っている。かれは一切を捨て去って、「安らぎになった人」と呼ばれる。

947 かれは智者であり、ヴェーダの達人である。かれは理法を知りおわって、依りかかることがない。かれは世間において正しくふるまい、世の中で何びとをも羨むことがない。

948 世間における諸々の欲望を超え、また克服しがたい執著を超えた人は、流されず、束縛さけず、悲しむことなく、思いこがれることもない。

949 過去にあったもの(煩悩)を涸渇せしめよ。未来には汝に何ものも有らぬようにせよ。中間においても汝が何ものをも執しないならば、汝は「安らかな人」としてふるまうことであろう。

(´・(ェ)・`)つ
0258名無しを整える。
垢版 |
2017/12/22(金) 19:36:38.90ID:Ngt62Umq
>>257
○毎田周一先生訳
945.
私は欲望のことを『大きな流れ』といい 
吸い込むものとも 
飢餓ともいいまた土台とも はからいとも
越え難い煩いの泥濘(ぬかるみ)ともいう

945は、944の四行目、「牽引する者(妄執)にとらわれてはならぬ」(中村先生訳)に対して、「何故とらわれてはならぬか?」と問われた場合の解答に相当するもの。それは欲望というものがどのようなものか説くことになる。
欲望とは大きな激流、洪水なようなものである。奔流とも表現されている。これは急流、速く流れるもの(根元的な欲望、本能的欲望)を意味している。
また熱望とも説かれた。捕えるもの=捕捉とは、それに捉えられると逃げられないもの。
「はからい」とは、欲望は妄想であるということです。そして最後に欲望は「越え難い泥沼」のようなものだと述べられている。
欲望というものは根元的な欲望、本能的欲望であるならば、個人的な心の作用というばかりではなく、人間及び生き物全体にあるもの。だから、個人的に簡単に越えられるものではなさそう。
しかし、欲望は「はからい」=妄想であるならば、欲望を乗り越えることが出来るかもしれない。また、「越えられない泥沼」ではなく、「越え難い泥沼」だから、超えることはできる。
実際に不可能と思えるこのことをブッダはやり遂げた。その時、ブッダは人間及び生き物を超えた存在になった。

○毎田周一先生訳
946.
静かな人は真実を一歩も離れず 
道に達した人はじめじめしない高い処に立っている
彼等はこの世の一切を抛(なげう)っているが 
こういう人を平安な人というのである

「真実から離れることなく」とは、法から離れることなくということ。具体的には944に述べられた心でいること。
すなわち、古いものを喜ぶことなく、新しいものに魅惑されることなく、滅びゆくものに対して悲しまない。また欲望の奴隷にならないということ。
「陸地(安らぎ)に立っている」とは、945で述べられた「越え難い欲望の汚泥(=泥沼)」ではなく、そこから離れて「陸地」にいるということ。
そして彼は一切を捨て去っている。そのような人を、ブッダは「平安な人」=「安らかになった人」=「寂静者」と呼ぶ。

○毎田周一先生訳
947.
こういう人が悟った人であり 最高の智慧に到った人である 
彼は物事の道理を知って捉われず
世間にあっては正しい道をゆき 
そしてこの世の誰をも羨まない

一行目は、「かれは智者であり、ヴェーダの達人である。」(中村先生訳)の「智者」とは、自己以外の学問などを学んで智者になったのではない。彼は自分自身の内面を学んで成った。毎田先生はそのような人を「悟った人」と表現している。
また「ヴェーダの達人」とはヴェーダ聖典を学びつくした人という意味ではなく、自分自身を学んで「最高の智慧に到った人」という意味。
二行目「かれは理法を知りおわって、依りかかることがない。」(中村先生訳)とは、彼はそのようにして、理法=物事の道理=法(真理)を知り終わったが、それに依存しない、捉われない。
三行目、物事の道理を知る人は、失敗することがなく、正しく振舞える。だから、覚るべきだと言える。
四行目、最高の智慧に達した人は羨むということがない。これは、自分が最高の境地にいるから、羨むべき対象がいないので、羨まないということではない。羨むという心の作用がない。
(´・(ェ)・`)つ
0259名無しを整える。
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2017/12/22(金) 19:46:26.82ID:Ngt62Umq
>>257
○毎田周一先生訳
948.
この世の色々の欲望と 
渡るに難い執著とをこえた人は
流れを絶ち切って 何も束縛されず 
悲しみも 心配もない

「欲望を乗り越える」或は「執著を乗り越える」と心解脱或は慧解脱が起きる。このことについてスッタニパータ第3大きな章 12、「二つの観察経」に述べられている。
心の解脱(心解脱)と智慧の解脱(慧解脱)。貪欲を完全に克服することが心の解脱。無明を完全に克服することが智慧の解脱。
ブッダは覚りを四段階に分けて説かれている。預流果、一来果、不還果、阿羅漢果。預流果の覚りに至ってもまだ貪欲は残る。一来果になるとそれがかなり薄まるが、まだ残っている。不還果に至って初めてすべての貪欲が克服される。
そのため輪廻を止めることになる。しかし、まだ慢、掉挙(じょうこ)、無明等の煩悩が残っている。これらすべての煩悩を克服した方が阿羅漢。阿羅漢には智慧の解脱によって成る。

○毎田周一先生訳
949.
あなたが若し過去のことは涸らし尽くし 
未来にはあなたにとって何もないようにし
そして現在のことを掴まないなら 
あなたは静かな生活をすることになるだろう

一行目「過去にあったもの(煩悩)を涸渇せしめよ。」(中村先生訳)、この訳では「過去にあったもの」を「煩悩」としているが、
これは正確に言うと過去にあったものを縁にして起こる現在の煩悩。過去の煩悩はどうでもよい。現在の煩悩が問題になるから。

人間は過去のこと、過去の記憶を後悔や悲しみの材料とするばかりでなく、過去の業績を誇りにしたり、過去の想い出を楽しみにして親しい人々と語り合ったりしている。それを生きがいだとまで思っている。
だから、それを「涸渇せしめよ」ということは、一般人の常識に反する言葉であり、多くの人々は受け入れない、出来ないことなのだと理解した上で読んだ方がよい。
「涸渇せしめよ」の実際の行為は、「過去にあったもの」に価値を置かないということ。過去の事柄で感情を揺り動かされないということ。
二行目「未来には汝に何ものも有らぬようにせよ。」これは未来の事柄に対して、夢や希望を持ったり、或は不安や怖れや心配などをしないようにということ。
未来の事柄について、生まれた者は必ず死ぬという以外に、何一つとして確定していることはない。死は決まっていることだから、不安や恐れを持つ必要ない。
これに関しては現在悪行為をしなければよい。それ以外はできない。心配することは悪行為になる。
その他の事柄は起きるかどうか分からないこと。(予想できることは無限にあるから、ほとんど起きない事柄。)それに対して心配することは無意味、エネルギーの無駄。
三行目、四行目「中間においても汝が何ものをも執しないならば、汝は『安らかな人』としてふるまうことであろう。」の「中間」とは言うまでもなく「現在」を意味している。
過去・未来は観念の世界であり、現在のみが実在である、一番大切。すべての生命は現在のみに生きているから。執着しないことも、現在すべきこと。
過去、未来、現在において、何も執着しない人の心は動揺しない。心が動揺しなければ静か。そしてそのような人は「安らかな人」、解脱した人。
過去・現在・未来については、ダンマパダ348、421参照。
(´・(ェ)・`)つ
0260鬼和尚 ◆GBl7rog7bM
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2017/12/22(金) 23:39:22.64ID:YM5vonPr
>>256 武器を持つと大抵むしろ使ってみたくなるものじゃ。
 よい刀を手に入れた武士が辻斬りをしたくなるとかのう。
 闘争心が沸くのが普通なのじゃ。
 
0261名無しを整える。
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2017/12/23(土) 06:27:32.36ID:MkdD6fzw
>>260
たしかに、本身を持つと気分が高揚したりするのが普通でありますね。
翻訳の間違いと言うよりも、ブッタの話を聞いた人の考えすぎによる誤解かも知れぬでありますね。
(´・(ェ)・`)つ
0262名無しを整える。
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2017/12/23(土) 06:34:04.96ID:MkdD6fzw
ブッダのことば(スッタニパータ)
第4 八つの詩句の章、15、武器を執ること

950 名称と形態について、<わがものという思い>の全く存在しない人、また(何ものかが)ないからといって悲しむことのない人、──かれは実に世の中にあっても老いることがない。

951 「これはわがものである」また「これは他人のものである」というような思いが何も存在しない人、──かれは(このような)<わがものという観念>が存しないから、「われになし」といって悲しむことがない。

952 苛酷なることなく、貪欲なることなく、動揺して煩悩に悩まされることなく、万物に対して平等である。──動じない人について問う人があれば、その美点をわたくしは説くであろう。

953 動揺して煩悩に悩まされることなく、叡智ある人にとっては、いかなる作為も存在しない。かれはあくせくした営みから離れて、至るところに安穏を見る。

954 聖者は自分が等しい者どものうちにいるとも言わないし、劣った者のうちにいるとも、勝れた者のうちにいるとも言わない。かれは安らいに帰し、取ることもなく、捨てることもない。

 ──と師は説かれた。

(´・(ェ)・`)つ
0263名無しを整える。
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2017/12/23(土) 06:43:28.65ID:MkdD6fzw
>>262
○毎田周一先生訳
950.
名と形あるものを 
すべてわがものとするのを止め
何かがないといって 悲しむことのない人
――こういう人は世にあって 老いることなき人である

「名称と形態」とは何を意味しているのか?
名称はパーリ語ナーマの訳で精神的なもの、人間においては心を意味する。また形態はパーリ語ルーパの訳で物質的なもの、人間においては肉体を意味する。ナーマ・ルーパと合わせて個人の意味で使われる。
或は正田先生の訳にあるように、名前と形態を現象世界と理解される場合がある。
「名称と形態」を個人と取るか、現象世界と取るかでニュアンスが少し変わりる。個人と取れば、五蘊(色受想行識)のすべてに<わがものという思い>がないということになりり、無我が意識される。
一方、現象世界と取れば、自分の外に<わがものという思い>がないということになり、無所有が意識されます。

無我であれば、自分というものがないのだから、自分の物がないのは当たり前。それ故に悲しむことはない。

○毎田周一先生訳
951.
『これはわがものである』とか
『これはひとのもの』とかいうことなくなった人には
わがものという考えが少しもないので 
『私にはない』といって悲しむことがない

950と同様のテーマ。「自分のもの」とか「他人のもの」とかという意識がないということ。そのような人は自分の物がないことに悲しまないという結論になる。
「自分のもの」とか「他人のもの」とかという意識がないということは自分と他人という区別意識がないということ。
これは仏教の平等観と言えるもの。人間を表層で観察すれば自分と他人の区別はある。しかし、同じ生命だと見る人にとっては自分とか他人とかという区別意識はない。
区別意識は自我が作りだすもの。自我のなくなった人は、自分と他人という区別がなく、その意識から「自分のもの」とか「他人のもの」とかという意識もなくなる。
世の中にあるものは必要な人のものということになる。そこには自己中心的な欲望はない。
自分より必要な人がいれば、いわゆる「自分のもの」であっても、喜んで、自分より必要な人に分け与えるということになる。「自分のもの」というこだわりは一切ない。もちろん、「自分のもの」がないことに悲しむことはない。

(´・(ェ)・`)つ
0264名無しを整える。
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2017/12/23(土) 06:54:22.03ID:MkdD6fzw
>>262
○毎田周一先生訳
952.
その人は思い上りも貪りも持たず 
情欲を離れ 万物に対して平等である――
とこのように 不動の人のことを 
私はほめたたえていうのである

ブッダが「動じない人」はどのような人ですかと尋ねられたら、以下の四つを美点として褒め称えるというもの。
@‘Anihur :思い上りがない=苛酷なることなく=嫉視(しっし:憎しみの目でみること)なく
Aananugiddho:貪りを持たず=貪欲なることなく=貪求なく
Banejo:情欲を離れ=動揺して煩悩に悩まされることなく=動揺なく
Csabbadh samo:万物に対して平等である=万物に対して平等である=〔一切にたいし〕一切所に等しくあります
「不動の人=動じない人=〔心が〕動かない者」とは解脱した阿羅漢だが、以上の四つの徳を備えている。特に、「C万物に対して平等である」については、真理を体得した方には、自然の結果。

○毎田周一先生訳
953.
情欲を離れ 智慧の目の開けたひとには 
何かをしようとすることが全くない
彼は何かを得ようとつとめたりなどせず 
到る処に平安を見出している

始めの言葉Anejassaは、952anejoの変化形。意味は同じだから、三人の先生の訳はそこから始まる。「情欲を離れ=動揺して煩悩に悩まされることなく=〔心に〕動揺なく」。そのような人は世の中をありのままに認知している。
そうすると世界は何一つ問題ない。法に従って、法のままにある。何一つ心配したり、怖れたり、期待することもない。そうであるならば、そのように世界を見る人は、何かしようとすることがない。また特別努力しようとすることがない。
しかし、世界は問題だらけであり、何一つまともなものがなく、心配ばかりだと多くの人々は思っている。それは彼等の自我がそのように見ている。
すべで終わってしまった過去について、繰り返し悩み、後悔し、まだ起きてない未来について心配し、はかない希望を持つので問題だらけになる。
そして、重要な今の事柄をまともに見てないから、失敗ばかりしていると思っている。そこには上手く行かなかった経験があるだけ。そこから学べばよい。自我を克服している人にとっては、すべて法の通りであり、何処も平安である。

○毎田周一先生訳
954.
静かな人は 自分を等しいものの仲間であるとも 劣ったもの 
あるいは勝れたものの仲間であるともいわない
そうして安らかに 利己心を離れて 
取ることもなければ また捨てることもない

「武器を執ること経」全体のまとめ、結論の偈。
ブッダは、聖者は人間の中で、同じ人々だとも、劣った人々だとも、勝れた人々だとも比べられないと述べている。つまり聖者は人間を超えた存在だと述べておられる。
同じ、劣った、勝れている等と比較できるのは同じ種類の間でできること。そのことを、このように表現している。聖者は人間でないということを言いたいのである。普通の人間が持っている本能を持っていないから、人間でない。

人間は安らかでないし、利己心を離れていない。しかし、聖者は安らかであり、利己心を離れている。そして、自分のものにしようとすることはない。また、自分のものと言う意識がないから、捨てるということもない。

(´・(ェ)・`)つ
0265鬼和尚 ◆GBl7rog7bM
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2017/12/23(土) 21:06:49.13ID:oF88ldR8
名称と形態でよいのじゃ。
全ての観念はそれに縁ってできているのじゃ。
それがなければ観念も無いのじゃ。
0266名無しを整える。
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2017/12/24(日) 09:13:09.96ID:nD+a8qVm
1ブッダのことば(スッタニパータ)
第4 八つの詩句の章、15、武器を執ること

950 名称と形態について、<わがものという思い>の全く存在しない人、また(何ものかが)ないからといって悲しむことのない人、──かれは実に世の中にあっても老いることがない。

951 「これはわがものである」また「これは他人のものである」というような思いが何も存在しない人、──かれは(このような)<わがものという観念>が存しないから、「われになし」といって悲しむことがない。

952 苛酷なることなく、貪欲なることなく、動揺して煩悩に悩まされることなく、万物に対して平等である。──動じない人について問う人があれば、その美点をわたくしは説くであろう。

953 動揺して煩悩に悩まされることなく、叡智ある人にとっては、いかなる作為も存在しない。かれはあくせくした営みから離れて、至るところに安穏を見る。

954 聖者は自分が等しい者どものうちにいるとも言わないし、劣った者のうちにいるとも、勝れた者のうちにいるとも言わない。かれは安らいに帰し、取ることもなく、捨てることもない。

 ──と師は説かれた。

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∴∴∴
(´・(ェ)・`)つ
0267名無しを整える。
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2017/12/24(日) 09:21:48.38ID:nD+a8qVm
ブッダのことば(スッタニパータ)
第4 八つの詩句の章、16、サーリプッタ

955 サーリプッタさんが言った、
──「わたくしは未だ見たこともなく、また誰からも聞いたこともない。──このようにことば美わしき師(ブッダ)、衆の主がトゥシタ天から来りたもうたことを。

956 眼ある人(ブッダ)は、神々及び世人が見るように、一切の暗黒を除去して、独りで(法)楽をうけられた。

957 こだわりなく、偽りなく、このような範たる人として来りたもうた師・目ざめた人(ブッダ)であるあなたのもとに、これらの束縛ある多くの者どものために問おうとして、ここに参りました。

958 修行者は世を厭うて、人のいない座所や樹下や墓地を愛し、山間の洞窟の中におり、

959 または種々の座所のうちにいるのであるが、そこにはどんなに恐ろしいことがあるのだろう。──修行者は音のしないところに坐臥していても、それらを恐れて震えてはならないのだが。

(´・(ェ)・`)つ
0268名無しを整える。
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2017/12/24(日) 09:37:22.82ID:nD+a8qVm
>>267
○毎田周一先生訳
955.
「私の今までに 見たことも
と尊者サーリプッタはいった
また誰からも聞いたこともないことであります――
かくも美しい言葉で話される師が遂に 
トゥシタ天からこの地上へ多くのものに教えようとしておいでになりました

この経はスッタニパータの第4章の最後、16番目の経。21偈から構成されている。始めの8偈はサーリプッタ尊者のブッダに対する讃辞と質問。その後の13偈はブッダの解答。
サーリプッタ尊者とは、仏弟子中智慧第一と言われる方で、モッガラーナー尊者と並んでブッダが最も信頼されていた弟子の一人。
この955で一番重要なところは、「私の今までに、見たことも、また誰から聞いたこともないことであります。」という言葉。この意味することは、ブッダが話される言葉は真理の言葉(智慧の言葉)であるということ。
真理を体得したブッダののみが語る言葉だから、ブッダの現れる以前には見たことも、聞いたこともない言葉なのである。それをまた美しい言葉とも表現している。
四行目「衆の主がトゥシタ天から来りたもうたことを。」の意味は、中村元先生の訳書「ブッダの言葉」に次のように注釈してある。「トゥシタ天――Tusita. 兜率天、都史多天などと表記する。天上にあるすばらしい楽しいところ。
後代の仏教宇宙論によると、欲界のうちにあるが、ヤーマ天(夜摩天)と楽変化天との中間にあるとされた。
ここでは、ブッダはこの世に生まれる前にトゥシタ天に住し、そこから没して、カピラ城の近くのルンビニー園で生まれたという伝説をいう。」(以上引用)。尚、「衆の主」とはブッダのこと。

○毎田周一先生訳
956.
神々と世の人々とが
じっと見ているその前で 『眼ある方』は
一切の暗黒を除き去り 
ただ一人深い喜びを享受せられました

「神々を含む世界(人々)に見えるように」とは、「神々を含む世界に見えるように、人間達にも見えるように」という意味と、「ありのままに、誤りなく見えるように」という意味があると注釈書には書いてある。
「眼ある方=眼ある人」とはブッダのこと。
「一切の暗黒=一切の闇」とは、一切の無明、一切の煩悩のこと。
前人未踏の境地(涅槃)をブッダが初めて体得したので、「ただ一人¬=独りで=まさしく、一人」と表現されている。
「深い喜びを享受せられました=(法)楽をうけられた=〔真の〕喜びに到達しました」とは、ブッダは解脱して、涅槃の境地に達したことを示している。

(´・(ェ)・`)つ
0269名無しを整える。
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2017/12/24(日) 09:39:36.19ID:nD+a8qVm
>>267
○毎田周一先生訳
957.
自由な明るいお心のそのままに 
多くのものに教えようとしてお出で下さった
『目覚めた方』のもとへ私がまいりましたのは
ここにいる多くの未だ束縛を離れ切れないでいるもののために
お尋ねしようと思ってであります。

一行目「依存なき方に、如なる方に、虚言なき方に」(正田先生訳)を、毎田先生は意訳して「自由な明るいお心のそのままに」と訳されている。
二行目「〔兜率天から〕やってきた〔世の〕衆師たる方に」(正田先生訳)は、毎田先生は「多くのものに教えようとしてお出で下さった」と訳されている。「お出で下さった」とは、正田先生の説明にあるように「兜率天から」お出で下さった。
三行目、「これらの束縛ある多くの者どものために」(中村先生訳)の「束縛ある者」とは、弟子は師のもとで生き方が束縛されているから、弟子を意味している。
また、「多くの者ども」とは王族を意味していると注釈書に書かれている。これらの人々はサーリプッタ尊者の弟子達を意味している。このように理解しても良いが、まだ覚ってない弟子達と理解してもよい。毎田先生の訳はそのように取っている。
四行目「問おうとして、ここに参りました。」(中村先生訳)の解釈は注釈書に三通りに書いてある。
「質問をしたくて私はやってきたのです。」或は「質問をしたい人が来ました。」もう一つは「質問を求める者が来たのです。」と。始めの訳でよい。

○毎田周一先生訳
958.
世を厭うて修行する者が 
人里離れた坐る場所や
木の根もとや墓場や 
山々の洞窟や

959.
高いまたは低い臥せる場所に 親しみ住んでいる時 
そこにはどんなに多くの怖ろしいことがあるでしょう
しかし修行する者は その物音のしない処に坐り又臥しながら 
それに怖れおののいていてはならぬと思います

958と959は一つながりの偈。
サーリプッタ尊者は、多くの弟子を連れて、目覚めた方ブッタのもとに訪れた。その理由はまだ覚ってない弟子達のために、質問するためだった。
その質問の始めるにあたり、サーリプッタ尊者は弟子達の決意をこの偈で述べた。
弟子達は、世俗の生活を厭って、即ち嫌って、修行を行う。何故ならば、世俗の生活が苦しみの原因だと考えたから。
そのため、彼らは、村里から離れた寂しい場所、森の中の人のいない場所、木の下や墓地、山奥の洞窟の中などの瞑想などの修行をする。
しかし、そのような場所にはいろいろな危険な生き物がいる。修行者の中にはそれらに対して恐れを抱くものいる。しかし、サーリプッタ尊者は、ブッダの教えを乞う者はそれらに対して怖れてはならぬと表明した。

(´・(ェ)・`)つ
>>266は重複してしまったであります。
0270鬼和尚 ◆GBl7rog7bM
垢版 |
2017/12/24(日) 22:53:07.69ID:qe+ARNNv
何度もよむとよいのじゃ。
それも修業になるのじゃ。
0271名無しを整える。
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2017/12/25(月) 19:14:30.32ID:DQSkBJuv
1ブッダのことば(スッタニパータ)
第4 八つの詩句の章、16、サーリプッタ

960 未到の地におもむく人にとっては、この世にどれだけの危難があることだろう。──修行者は辺鄙なところに坐臥していても、それらの危難にうち克たなければならないのだが。

961 熱心につとめる修行者には、いかなることばを発すべきか? ここでかれのふるまう範囲はいかにあるべきか? かれのまもる戒律や誓いはどのようなものなのですか?

962 心を安定させ気を落ち着けている賢者は、どのような学脩を身に受けて、自分の汚れを吹き去るのですか? ──譬えば鍛冶工が銀の垢を吹き去るように。」

963 師(ブッダ)は答えた、
「サーリプッタよ。世を厭い、人なき所に坐臥し、さとりを欲する人が楽しむ境地および法にしたがって実践する次第を、わたくしの知り究めたところによって、そなたに説き示そう。

964 しっかりと気をつけ分限を守る聡明な修行者は、五種の恐怖におじけてはならない。すなわち襲いかかる虻と蚊と爬虫類と四足獣と人間(盗賊など)に触れることである。

(´・(ェ)・`)つ
0272名無しを整える。
垢版 |
2017/12/25(月) 19:22:07.36ID:DQSkBJuv
>>271
1○毎田周一先生訳
960.
不死の世界へゆこうとするものにとって 
この世にどれ程の危難があるでしょうか
修行者は 人里離れたところに坐り又臥しながら 
それに打克たねばならぬでありますが

サーリプッタ尊者の最初の質問は、一行目、二行目。「不死の世界へゆこうとするものにとって 
この世にどれ程の危難があるでしょうか」(毎田先生訳)。ここで「不死の世界」と訳されているところは、中村先生は「未到の地」、正田先生は「〔いまだ〕赴かざる方角(涅槃)」と訳された。正田先生がカッコの中で説明されたように「涅槃」。
しかし、涅槃という言葉は知られているが、その内容は理解できない。そのため、不死の世界とか、未到の地とか、いまだ赴かざる方角と訳される。さらにそこに向う道程には予想が出来ない。
そのため、「涅槃に向おうとする修行者にとって、どのような危険と困難がありますか」と涅槃に到達されたブッダに質問された。
三行目、四行目では、サーリプッタ尊者は、そのような危難は乗り越えなければならないものと覚悟をしていると述べた。

○毎田周一先生訳
961.
もののいい方はどのように心すべきでありましょうか 
又ここでどれ丈のことをなすべきでありましょうか
固い決心をしている修行者の守らねばならぬことは 
どいうことでしょうか

サーリプッタ尊者の次の質問は、涅槃に向うことを決意した修行者の行動について。
人間の行動は身口意に分類できる。身とは身体による行動。口とは言葉による行動。意とは心による行動。
すべての行動は始めに心による行動があり、それに続いて言葉或は身体の行動が始まる。だから、心の行動、すなわち心の動きに注意することが一番大切。
しかし、心の行動、心の動きには姿形がないから、また心の動きスピードが速いため、気づくことが難しい。
そこで、自分の行為を律しようとする修行者は、まず言葉の行為あるいは身体に行為に注意を向けて、行動を制する。
それから心の動きに気づけるようになる。心の動きを制御するためには、戒めや誓願が必要。
そのため、この偈では修行者の言葉について、次に身体の行為のあり方について、そして心を制御するために必要な戒や誓いについて質問している。

○毎田周一先生訳
962.
心を集中して目覚めている賢い人は 
どいう智慧を体得して
あたかも鍛冶屋が銀の垢を吹き去るように
自分の汚れを除くのでありましょうか」
(○正田大観先生訳969.(962)
彼は、どのような学びを受持して、
〔心が〕専一なる者となり、賢明なる者となり、気づきある者となり、
鍛冶屋が銀の〔垢を取り除く〕ように、
自己の垢を取り払うのですか」〔と〕。(8))

今回はサーリプッタ尊者が弟子のために尋ねた最後の質問。仏教徒の最終目標である解脱を達成して涅槃に到るにはどのようにすれば良いかという問い。
原文の直訳に近い正田先生の訳に沿って説明。「彼は」とは修行者。「どんな学びを受持して」とは、どんな修行をしてということ。
「専一な者」とは、心を集中して、心を安定させた者。すなわち禅定のある者。「賢明な者」とは智慧のある者。「気づきある者」は、自分の身口意に気づいている者。
これらの三つの資質を持つ者が、自分の垢、即ち煩悩を取り除くことが出来ると述べていることになる。そして、すべて汚れ、煩悩を取り除けば解脱するということになる。
毎田先生は、「どんな智慧を体得して、自分の汚れを除くのでありましょうか」の訳から、これらの三つの資質をまとめて、どのような智慧を体得することが必要かということになる。

(´・(ェ)・`)つ
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