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鬼和尚の仏教勉強会 講読ゼミ
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0001名無しを整える。
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2017/10/28(土) 12:13:14.50ID:RQll0QsW
前スレ:鬼和尚の仏教勉強会 悟りの真実 2

ブッダのことば(スッタニパータ)
第3 大いなる章、6、サビヤ

533 サビヤがいった、「何を得た人を<学識ある人>と呼ぶのですか? 何によって<すぐれた人>となるのですか?
 またいかにして<行いの具わった人>となるのですか? <遍歴行者>とはそもそも何ですか?
 先生! おたずねしますが、わたくしに説明してください。」

534 師が答えた、「サビヤよ。教えを聞きおわって、世間における欠点あり或いは欠点のないありとあらゆることがらを熟知して、あらゆることがらについて征服者・疑惑のない者・解脱した者、煩悩に悩まされない者を、<学識のある人>と呼ぶ。

535 諸々の汚れと執著のよりどころを断ち、智に達した人は、母胎に赴くことがない。三種想いと汚泥とを除き断って、妄想分別に赴かない、──かれを<すぐれた人>と呼ぶ。

536 この世において諸々の実践を実行し、有能であって、常に理法を知り、いかなることがらにも執著せず、解脱していて、害しようとする心の存在しない人、──かれは<行いの具わった人>である。

537 上にも下にも横にも中央にも、およそ苦しみの報いを受ける行為を回避して、よく知りつくして行い、偽りと慢心と貪欲と怒りと<名称と形態>(個体のもと)とを滅ぼしつくし、得べきものを得た人、──かれを<遍歴の行者>と呼ぶ。」

 そこで、遍歴の行者サビヤは師の諸説をよろこび随喜し、こころ喜び、楽しく、嬉しく、欣快の心を生じて、座から起ち上って、上衣を一方の肩にかけ(右肩をあらわし)、師に向かって合掌して、ふさわしい詩を以て目のあたり師を讃嘆した。

538 「智慧ゆたかな方よ。諸々の<道の人>の論争にとらわれた、名称と文字と表象とにもとづいて起った六十三種の異説を伏して、激流をわたりたもうた。
0102名無しを整える。
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2017/11/22(水) 19:14:13.57ID:PHfELKWU
>>99
708
702〜707のような教えは自分の行動を自覚していなければできないこと。自分の心の状態を自覚していることは意外に難しい。
そこで、ブッダは「聖者の行」を実践するために、自分の心を自覚することを教えている。その方法として瞑想がある。
先ず、身体の状態、動きを観察。身体は目に見えるものですから、比較的観察しやすい。
次に感覚を観察。感覚も心より観察しやすい。また感覚を感じると必ずそれに伴う心の動きがある。
その心を観察するようにする。
瞑想において、身体、感覚、心を観察すると自分に起こるもろもろの現象や法則、真理などが明らかになって来る。
仏教ではこれらの観察する対象を「四念処」と言う。
四念処は身(身体)、受(感覚)、心、法(現象、真理)。

709
パーリ語のjhna・pasutoのjhnaは「深思すること、禅那、禅定、静慮」などの訳がある。瞑想という訳もよく使われる。pasutoは「専念すること、熱中すること」。jhna・pasutoは「瞑想に専念すること」。つまり八正道の「正定」を実践すること。

「正定」は「正しい瞑想」と言う意味。その内容は第一禅定、第二禅定、第三禅定、第四禅定であると定義されている。
「瞑想に専念する」とは第一から第四禅定に専念することになる。
禅定に入るためには、静かに坐るなどして、五蓋(欲貪、瞋恚、昏沈・睡眠、掉挙・悪作、疑)という煩悩の機能を停止する必要がある。
五蓋の機能が停止すると、自然に五支禅(尋、伺、喜、楽、一境性)が現れ、第一禅定に入る。
そうすると一時的に煩悩がない状態を経験するの。しかし、禅定により煩悩がなくなったわけではないから、禅定から出ると煩悩は現れる。
第二禅定はより一境性(集中力)が高まり、尋(大まかな思考)、伺(細かい思考)が消えた状態。
第三禅定は更に一境性が高まり、喜が消えた状態。
第四禅定は更に一境性が高まり、楽も消えた状態。
先ず始めの第一禅定に入れば、喜びや楽が経験できる。この偈に書いてあるような体験ができる。

ダンマパダ282。
実に心が統一されたならば、豊かな智慧が生じる。
心が統一されないならば、豊かな智慧が滅びる。
生じることと滅びることのこの二つの道を知って、
豊かな智慧が生じるように自己を整えよ。

ここで大切なポイントは二つ。心の統一とは禅定。禅定がなければ、智慧が現れない。また、智慧がなければ禅定に入れないというこ。もう一つは物事の生滅という真理を知るということ。瞑想によりこの重要なポイントを体得できる。
710
解脱を求める修行者は寝る時間を惜しんで修行しなさいということ。

(´・(ェ)・`)つ
0103鬼和尚 ◆GBl7rog7bM
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2017/11/22(水) 21:44:05.77ID:brgSC9Dk
>>97ウパカという者に わしは無師独悟の仏陀じゃとか言ったのじゃ。
 そうしたらそうかもしれんとか言われて終わりなのじゃ。
 
 それだけではいかんんと気付いたのじゃ。

>>98 おぬしわしに詳しいのう。
 苦を滅する法があるのじゃよ。
 わっはっはっは。


 
0105名無しを整える。
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2017/11/23(木) 06:22:50.77ID:AHkRUe94
ブッダのことば(スッタニパータ)
第3 大いなる章、11、ナーラカ

712 『(施しの食べ物を)得たのは善かった』『得なかったのもまた善かった』と思って、全き人はいずれの場合にも平然として還ってくる。
あたかも(果実をもとめて)樹のもとに赴いた人が、(果実を得ても得なくても、平然として)帰ってくるようなものである。

713 かれは鉢を手にして歩き廻り、唖者ではないのに唖者と思われるようにするためだ。施物が少なかったらとて軽んじてはならぬ。施してくれる人を侮ってはならない。

714 道の人(ブッダ)は高く或いは低い種々の道を説き明かしたもうた。重ねて彼岸に至ることはないが、一度で彼岸に至ることもない。

715 (輪廻の)流れを断ち切った修行僧には執著が存在しない。なすべき(善)となすべからざる(悪)とを捨て去っていて、かれは煩悶が存在はない。」

716 師がいわれた、
「「あなたに聖者の道を説こう。──(食をとるには)剃刀の刃の譬えのように用心せよ。舌で上口蓋を抑え、腹についてはみずから食を節すべし。

717 心が沈んでしまってはいけない。またやたらに多くのことを考えてはいけない。腥い臭気なく、こだわることなく、清らかな行いを究極の理想とせよ。

718 独り坐することと<道の人>に奉仕することを学べ。聖者の道は独り居ることであると説かれている。独り居てこそ楽しめるであろう。

719 そうすればかれは十方に光輝くであろう。欲望をすてて瞑想している諸々の賢者の名声を聞いたならば、わが教えを聞く者はますます恥を知り、信仰を起すべきである。

720 そのことを深い淵の河水と浅瀬の河水とについて知れ。河低の浅い小川の水は音を立てて流れるが、大河の水は音を立てないで静かに流れる。

721 欠けている足りないものは音を立てるが、満ち足りたものは全く静かである。愚者は半ば水を盛った水瓶のようであり、賢者は水の満ちた湖のようである。

722 <道の人>が理法にかない意義あることを多く語るのは、みずから知って教えを説くのである。

723 しかしみずから知って己れを制し、みずから知っているのに多くのことを語らないならば、かれは聖者として聖者の行にかなう。かれは聖者として聖者の行を体得した。」

(´・(ェ)・`)つ
0106名無しを整える。
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2017/11/23(木) 10:46:44.33ID:AHkRUe94
>>105
712
そもそも、「聖者の行」を実践する修行者、出家者は「どうしても生きて生きたい」という渇愛という心の汚れを克服しようとしている。
托鉢で食べ物を得られても、得られなくとも聖者を志すものは善かったと思う。

714
「聖者の行」の復習、
1、罵られても、敬礼されても、平然とした態度で臨め。
2.婦女をして彼を誘惑させるな
3.諸々の生きものに対して、敵対することもなく、愛着することもない。
4.欲望と貪りを捨てて、この世の地獄を超えよ。
5.食べ物を節し、少欲であって、貪るなかれ。
6.托鉢が終われば、樹の根元で瞑想すべき。
7.樹の根元で瞑想し、満足すべき。
8.托鉢で食べ物をもらっても、喜んではならぬ。
9.托鉢で食べ物をもらえるような言葉を言うな。
10.食べ物をもらっても、もらえなくとも善かったと思うように。
11.もらった食べ物が少なくとも軽んじない。施者を侮らない。
「重ねて彼岸に至ることはないが」は、彼岸つまり涅槃に一度到達すれば、もう戻ることはないと言うこと。為すべき修行は完成、完了だということ。
「一度で彼岸に至ることもない」とは、涅槃に行くことを一度挑戦して、それで涅槃に行けるかと言えばそのようなことはないということ。
八正道は涅槃に行くための道。これは涅槃につながる一本の道だが、八種類の道。その道を一つずつ進まなければならない。それは八回挑戦しなければならないと言える。
そういう意味で「一度で彼岸に至ることもない」と述べられている。

715
「聖者の行」で修行した修行者には、輪廻の原因である渇愛などの煩悩はなくなっている。執着のない彼には「なすべき(善)となすべからざる(悪)と」はない。
制約・拘束するものがないから、苦悩はない。これは「聖者の行」の功徳。
「なすべき(善)となすべからざる(悪)と」は自分の想いが作っているもの。執着がないということは、そのような想いがないので、「「なすべき(善)となすべからざる(悪)と」がない。
悪行為は煩悩によって現れる。煩悩がないので、悪行為は出来ない。「「なすべき(善)となすべからざる(悪)と」を捨てても問題ない。

(´・(ェ)・`)つ
つづく
0107名無しを整える。
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2017/11/23(木) 10:52:39.05ID:AHkRUe94
>>105
716
注釈書によると、ナーラカさんは715偈を聞いて、次のような心が生じた。
「もし聖者の行がこれだけのものなら、容易に行われ、なし難くもないし、わずかの苦労で満足させることができる」と。
それに対して、ブッダは「聖者の行は、まさになし難い」ことを示そうとして716を述べたと言うこと。
「カミソリについた蜜をなめるときには舌を切らないように用心する」と言うこと。すなわち、人々から受け取った食べ物や生活必需品から煩悩が起こらないように注意して心を守りなさいということ。
舌で上顎を強く押して、味への渇愛を除いて、托鉢で何ももらえない時でも、空腹に耐えるべきであるとも述べている。これは決して容易な行ではない。
717
「心が沈んでしまってはいけない。」とは、常に修行して、休まず行うこと、怠けてはいけないということ。
「またやたらに多くのことを考えてはいけない。」とは、眼、耳、鼻、舌、身、意を楽しませることなど。妄想や煩悩が増加するから。
生臭(スッタニパータの第2章の2に「生臭経」、生き物を殺す等の五戒を守らないこと)とは五戒を守っているということ。
「こだわることなく」とは、五感の対象に依存しないこと。これらに依存することは、これらに従属し、それらの奴隷になること。それらに依存しなければそれらから解放され、自由になること。
「清らかな行い」は、梵行の訳、注釈書には「『戒、定、慧』の三学というすべての教えとしての梵行に親しむがよい」という意味であるとしてある。
718
村から離れてという身体の遠離と、ブッダの瞑想方法による人々に依存しない心の遠離を学ぶようにということ。
719
一人瞑想をして、それを楽しむ賢者は東西南北、その間の四方と上下で十方に光輝く。
欲望を捨てて瞑想をする人を人々は称賛し評判が高まる。
しかし、そのような評判、うわさを聞いて、あなた(ナーラカさん)は浮つくことなく、ますます恥を知り、謙虚になって、仏法僧への信(確信)を確立するように教えた。
720
「そのことを」とは、
719偈の「わが教えを聞く者はますます恥を知り、信仰を起すべきである。」ということ。このことを「深い淵の河水と浅瀬の河水」でよく知りなさいと言うこと。
深い河の流れは静かに流れるが、浅瀬の川の流れは音を立てて流れるという違い。
721
智慧があれば静かであり、智慧がなければ騒がしいということ。
水が半分入った水瓶と満々と水をたたえた湖を例に挙げて、智慧のある人(賢者)と智慧のない人(愚者)を比較。
智慧がなければ恥を知らず、信仰を起こさないということ。
欲望を捨てて瞑想する賢者は評判が上がると、智慧が少ないと舞い上がって、騒がしく、信仰もいいかげんになってしまう。
しかし、智慧があれば、評判が上がっても、舞い上がらず、静かに、落ち着いて、謙虚に、信仰を高めるものだということ。
722 723
722は<道の人>は多くを語る。723は「みずから知っているのに多くのことを語らないならば、かれは聖者として聖者の行にかなう。」この矛盾をどのように考えたらよいか?
ダンマパダ268番には、「ただ沈黙しているからとて、愚かに迷い無智なる人が聖者なのではない。」と述べられている
聖者が黙っているのは必要があって黙っているということ。ただ、黙っているという訳ではない。必要がある時は聖者は大いに語る。
(´・(ェ)・`)つ
0108鬼和尚 ◆GBl7rog7bM
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2017/11/23(木) 21:46:40.04ID:i4XYiQwk
>>104 そうかもしれん。
 悟っても学ぶことは多いものじゃ。
 人の心を学ぶのじゃ。
0109名無しを整える。
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2017/11/24(金) 18:45:29.57ID:vkRWvAAa
ブッダのことば(スッタニパータ)
第3 大いなる章、12、二種の観察

 わたしが聞いたところによると、──或るとき尊師はサーヴァッティーの[郊外にある]東園にあるミガーラ(長者)の母の宮殿のうちにとどまっておられた。
そのとき尊師(ブッダ)はその定期的集会(布薩)の日、十五日、満月の夜に、修行僧(比丘)の仲間に囲まれて屋外に住しておられた。
さて尊師は仲間が沈黙しているのを見まわして、かれらに告げていわれた、──
 修行僧たちよ。善にして、尊く、出離を得させ、さとりにみちびく諸々の真理がある。そなたたちが、『善にして、尊く、出離を得させ、さとりにみちびく諸々の真理を聞くのは、何故であるか』と、
もしもだれかに問われたならば、かれに対しては次のように答えねばならぬ。──『二種ずつの真理を如実に知るためである』と。
しからば、そなたたちのいう二種とは何であるか、というならば、『これは苦しみである。これは苦しみの原因である』というのが、一つの観察[法]である。
『これは苦しみの消滅に至る道である』というのが、第二の観察[法]である。
【修行僧たちよ。このように二種[の観察法]を正しく観察して、怠らず、つとめ励んで、専心している修行僧にとっては、二つの果報のうちのいずれか一つの果報が期待され得る。
──すなわち現世における<さとり>か、あるいは煩悩の残りがあるならば、この迷いの生存に戻らないこと(不還)である。──
尊師はこのように告げられた。そうして、幸せな師(ブッダ)は、さらにまた次のように説かれた。】(以下【A】繰り返し)

724 苦しみを知らず、また苦しみの生起するもとを知らず、また苦しみのすべて残りなく滅びるところをも、また苦しみの消滅に達する道をも知らない人々、──

725 かれらは心の解脱を欠き、また智慧の解脱を欠く。かれらは(輪廻を)終滅させることができない。かれは実に生と老いとを受ける。

726 しかるに、苦しみを知り、また苦しみの生起するもとを知り、また苦しみのすべて残りなく滅びるところを知り、また苦しみの消滅に達する道を知った人々、──

727 かれらは、心の解脱を具現し、また智慧の解脱を具現する。かれらは(輪廻を)終滅させることができる。かれらは生と老いとを受けることがない。

(´・(ェ)・`)つ
0110名無しを整える。
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2017/11/24(金) 18:55:40.74ID:vkRWvAAa
>>109
724、「苦しみ(苦諦)を知らず、また苦しみの生起するもと(集諦)を知らず、」「また苦しみのすべて残りなく滅びるところ(滅諦)をも、また苦しみの消滅に達する道(道諦=八正道)をも知らない」人々は、二種の観察をしてないので、知らないのだと述べている。

725では、そのような人々は心の解脱(心解脱)をすることもないし、まして智慧の解脱(慧解脱)をすることがないと説かれている。彼らは苦しみの輪廻を終わらせることが出来ず、生まれること、老いること、死ぬことを繰り返すということ。

726、727、二種の観察をする人は苦諦、集諦、滅諦、道諦を知り、心の解脱か、さらには智慧の解脱を達成して苦しみの輪廻を止めて、生まれること老いることを繰り返すことはない。

心の解脱(心解脱)貪欲を完全に克服することが心の解脱。
智慧(慧解脱)無明を完全に克服することが智慧の解脱。

ブッダは覚りは四段階。
預流果、一来果、不還果、阿羅漢果。
預流果の覚りに至ってもまだ貪欲は残っている。一来果になるとそれがかなり薄まるが、まだ残っている。
不還果に至って初めてすべての貪欲が克服される。そのため輪廻を止めることになる。しかし、まだ慢、掉挙(じょうこ)、無明等の煩悩が残っている。
これらすべての煩悩を克服した方が阿羅漢。阿羅漢には智慧の解脱によって成る。
(´・(ェ)・`)つ
0111鬼和尚 ◆GBl7rog7bM
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2017/11/24(金) 21:55:49.20ID:YXG4RhGp
そうじゃ、観察によって苦は滅するのじゃ。
そして悟りにも達することが出来るのじゃ。
それがお釈迦様の説いた法なのじゃ。
0112名無しを整える。
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2017/11/25(土) 07:18:31.15ID:z75rdeGZ
ブッダのことば(スッタニパータ)
第3 大いなる章、12、二種の観察

【「修行僧たちよ。『また他の方法によっても二種のことがらを正しく観察することができるのか?』と、もしもだれかに問われたならば、『できる』と答えなければならない。どうしてであるか?】(以下【B】繰り返し)
 『およそ苦しみが生ずるのは、すべて素因に縁って起るのである』というのが、一つの観察[法]である。『しかしながら素因が残りなく離れ消滅するならば、苦しみの生ずることがない』というのが第二の観察[法]である。【A】(>>109

728 世間には種々なる苦しみがあるが、それらは生存の素因にもとずいて生起する。実に愚者は知らないで生存の素因をつくり、くり返し苦しみを受ける。それ故に、知り明らめて、苦しみの生ずる原因を観察し、再生の素因をつくるな。

【B】『どんな苦しみが生ずるのでも、すべて無明に縁って起るのである』というのが、一つの観察[法]である。『しかしながら無明が残りなく離れ消滅するならば、苦しみの生ずることがない』というのが第二の観察[法]である。【A】

729 この状態から他の状態へと、くり返し生死輪廻に赴く人々は、その帰趣(行きつく先)は無明にのみ存する。

730 この無明とは大いなる迷いであり、それによって永いあいだこのように輪廻してきた。しかし明知に達した生けるものどもは、再び迷いの生存に戻ることがない。

【B】『およそ苦しみが生ずるのは、すべて潜在的形成力に縁って起るのである』というのが、一つの観察[法]である。『しかしながら潜在的形成力が残りなく離れ消滅するならば、苦しみの生ずることがない』というのが第二の観察[法]である。【A】

731 およそ苦しみが生ずるのは、すべて潜在的形成力を縁(原因)として起るのである。諸々の潜在的形成力が消滅するならば、もはや苦しみの生ずることもない。

732 「苦しみは潜在的形成力の縁から起るものである」と、この災いを知って、一切の潜在的形成力が消滅し、(欲など)相を止めたならば、苦しみは消滅する。このことを如実に知って、

733 正しく見、正しく知った諸々の賢者・ヴェーダの達人は、悪魔の繋縛にうち勝って、もはや迷いの生存に戻ることがない。

【B】『およそ苦しみが生ずるのは、すべて識別作用(識)に縁って起るのである』というのが、一つの観察[法]である。『しかしながら識別作用が残りなく離れ消滅するならば、苦しみの生ずることがない』というのが第二の観察[法]である。【A】

734 およそ苦しみが生ずるのは、すべて識別作用に縁って起るのである。識別作用が消滅するならば、もはや苦しみが生起するということはあり得ない。

735 「苦しみは識別作用に縁って起るのである」と、この禍いを知って、識別作用を静まらせたならば、修行者は、快をむさぼることなく、安らぎに帰しているのである。
(´・(ェ)・`)つ
0113名無しを整える。
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2017/11/25(土) 07:48:07.62ID:z75rdeGZ
>>112
728
生存の素因(生存の基礎)に基づいて苦があるということ。
第一の観察は生存の素因(生存の基礎)によって苦が生起すること観察すること。
第二の観察は生存の素因(生存の基礎)がない時、苦がないことを観察すること。この二種の観察を正しく、怠らず、つとめ励んで、専心すれば、慧解脱か心解脱が出来て、輪廻を終滅できるということ。

生存の素因(生存の基礎)とは何か具体的に考える。四聖諦の教えから言えば、渇愛。
渇愛とは、喉の渇いた人が水を求めるように、欲望の対象を求める気持ち。第一の観察はこの渇愛がある時、苦が生起すること。
第二の観察はこの渇愛がない時、苦がないことを観察する。このことを知って、生存の素因(渇愛)を作らないようにと述べられている。

729 この状態から他の状態へと、くり返し生死輪廻に赴く人々は、その帰趣(行きつく先)は無明にのみ存する。無明があるから輪廻を卒業出来ないで、本人は自覚してないが、そのために苦しんでいる。

730
如何なる苦もすべて無明を縁にして現れるのだということ。それを観察することが第一の観察。そして無明が残りなくない時は苦がないということを観察するのが第二の観察。
無明というのは大きな迷い。これによって輪廻を長いこと繰り返している。この無明を克服して、明智に達した人々は輪廻を繰り返すことはない、もう生存には戻ってこないと述べられている。

四無明、1.苦を知らないこと。2.苦の原因を知らないこと。3.苦の滅を知らないこと。4.苦の滅に至る道を知らないこと。
すべての煩悩のもとには無明がある。無明は煩悩の原因。無明がなければすべての煩悩はない。無明は煩悩の王様。無明をつぶせば、すべての煩悩をつぶすことになる。すべての煩悩がなくなれば苦しみはなくなる。

731 732 733
730 731のテーマは、無明、潜在的形成力(行)、732のテーマは識別作用(識)であるから間違いなく十二支因縁の順番。すべての苦は無明を縁として生じる。
無明から自動的に、無明を縁にして潜在的形成力(行)が生じる。
潜在的形成力(行)を縁にして苦も生じる。

732潜在的形成力によって(欲など)想(saサンニャー)が現れると述べている。想を止めると、欲がとまるので、苦が消滅する。
(相、lakaa、仏教用語。特徴,特質,様相,形相という意味。仏教では,体 (本体) ,用 (作用) ,相の3語が組みになって用いられるが,この場合の相は,見られるものの姿を意味する。)
「潜在的形成力」はパーリ語のsakhraの訳。「行、有為の法、事象、術語としては十二支の第二支、及び五蘊の中の行蘊、十二支の行は身、語、意の行をいう。」身心を突き動かす力(衝動、内的衝動、習慣力、慣性)。
五蘊で言えば五蘊を形成する力、十二支から見ると次の識(認識)を準備するもの。意思あるいは衝動と思ってもよい。

733偈の悪魔の繋縛(けばく)。悪魔は欲界(輪廻の世界)の支配者であるから、欲の支配下に置かれること、欲の奴隷になっていること。悪魔は欲の象徴と考えてもよい。

734 735
テーマは識別作用(識)。無明を縁として潜在的形成力(行)が生じ、潜在的形成力を縁として今回の識別作用(識)が生じる。これは十二支因縁の教え。
識別作用(識)を縁にして苦が生じる。

識別作用はviaの訳。この言葉は、識、意識、認識、区別して認識すること、識別すること、知ること、分かること等の訳語が使われる。

術語としては、1.十二支因縁の第三支、2.五蘊の一つ、3.六識(眼識、耳識、鼻識、舌識、身識、意識)の識。

何故この識別作用が苦になるのか。識別作用は生命の持つ本能(死にたくない、なんとしても生きたい、苦を避け、楽を求める等の本能)により、真実から離れてしまうという欠点があるからだと思われる。
真実から離れた認識は誤謬であり、その誤謬が苦を生み出す。その欠点を避けるために、識別作用を静め、「修行者は、快をむさぼることなく、安らぎに帰している」。

(´・(ェ)・`)つ
鬼和尚、732は、何気ない行為や衝動によって「欲」が生じることがあるとを言ってるだけでありましょうかね?
0114鬼和尚 ◆GBl7rog7bM
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2017/11/25(土) 20:49:57.27ID:Sk/HcKPh
↑そのようじゃ。
 それはおかしいのじゃ。
 十二因縁では無明から縁によって次々に起こるものであるからのう。
 行だけから欲が起こるのでは自ら語っていることすらわかっていないことになるのじゃ。
0115名無しを整える。
垢版 |
2017/11/25(土) 21:42:58.00ID:z75rdeGZ
>>114
鬼和尚こんばんは。
お釈迦さんは、詳細に何でも分析して解説できる、超賢い人だったのでありますね!
(´・(ェ)・`)つ
0116名無しを整える。
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2017/11/26(日) 08:41:56.03ID:z+OwNNXc
ブッダのことば(スッタニパータ)
第3 大いなる章、12、二種の観察

【B】(>>112)『およそ苦しみが生ずるのは、すべて接触に縁って起るのである』というのが、一つの観察[法]である。『しかしながら接触が残りなく離れ消滅するならば、苦しみの生ずることがない』というのが第二の観察[法]である。【A】(>>109

736 接触にとらわれ、生存の流れにおしながされ、邪道を歩む人々は、束縛の消滅は遠いかなたにある。

737 しかし接触を熟知し理解して、平安を楽しむ人々は、実に接触がほろびるが故に、快を感ずることなく、安らぎに帰している。

【B】『およそ苦しみが生ずるのは、すべて感受に縁って起るものである』というのが、一つの観察[法]である。『しかしながら諸々の感受が残りなく離れ消滅するならば、苦しみの生ずることがない』というのが第二の観察[法]である。【A】

738 楽であろうと、苦であろうと、悲苦悲楽であろうとも、内的にも外的にも、およそ感受されたものはすべて、

739 「これは苦しみである」と知って、滅び去るものである虚妄の事物に触れるたびごとに、衰滅することを認め、このようにしてそれらの本性を識知する。諸々の感受が消滅するが故に、修行僧は快を感ずることなく、安らぎに帰している。

【B】『およそ苦しみが生ずるのは、妄執(愛執)に縁って起るのである』というのが、一つの観察[法]である。『しかしながら妄執が残りなく離れ消滅するならば、苦しみの生ずることがない』というのが第二の観察[法]である。【A】

740 妄執を友としている人は、この状態からかの状態へと永い間流転して、輪廻を超えることができない。

741 妄執は苦しみの起る原因である、とこの禍いを知って、妄執を離れて、執著することなく、よく気をつけて、修行僧は遍歴すべきである。

【B】『およそ苦しみが生ずるのは、すべて執著に縁って起るのである。』というのが、一つの観察[法]である。『しかしながら諸々の執著が残りなく離れ消滅するならば、苦しみの生ずることがない』というのが第二の観察[法]である。【A】

742 執著に縁って生存が起る。生存せる者は苦しみを受ける。生れた者は死ぬ。これが苦しみの起る原因である。

743 それ故に諸々の賢者は、執著が消滅するが故に、正しく知って、生まれの消滅したことを熟知して、再び迷いの生存にもどることがない。

(´・(ェ)・`)つ
0117名無しを整える。
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2017/11/26(日) 09:17:22.45ID:z+OwNNXc
>>116
736 737
十二因縁の順番で言うと次は名色(心の働きと身体としての物質が生まれること)、その次は六処(眼耳鼻舌身意などの感覚器官)、次に接触(触)が続く。
この経では名色と六処は言わないで接触が述べられている理由について、注釈書では、名色及び六処は色(物質)が混ざったもので、既に述べた728偈の生存の素因(生存の基礎)に関連するものだからという。
注釈書は生存の要因(生存の基礎)を業ととしていた。つまり、名色及び六処は業によるものだから説明済というわけである。
接触は感覚器官(感官)と感覚の対象と識別作用との和合から成り立つ。三者のどの一つでも欠けたら接触は成り立たない。
感覚器官と感覚の対象の接触があるのはないかと考えるかもしれないが、そのとき識別作用がなければそのような接触があったかどうか分からない。
このことが理解できると、既に述べたように、識別作用がなくなれば接触から次の流れが止まり、苦に至ることがなくなることが分かる。また、潜在的形成力作用がなくなれば、識別作用がなくなるわけだから、苦がなくなることが分かる。
736接触にとらわれると、「生存の流れにおし流され」(輪廻を続ける)、「束縛の消滅は遠いかなたにある」(悪魔の繋縛から抜け出せない)ということ。
737では、接触を熟知し理解した人は、静寂を楽しむようになり、そうすると接触がほろびて、苦(不快)や楽(快)を感じることなく、涅槃を至っていると述べている。
738、739
接触があると、感覚が生じる。感覚には好ましく感じるものがあり、それは仏教用語では楽と言い、また嫌だと感じるものがあり、それは苦と言う。好ましくも嫌だとも感じない、どちらでもない感覚があり、それを不苦不楽(非苦非楽)と言う。
このように感覚を大きく分けてればこの三種類があるが、これらの感覚を縁にして苦が生じるのだと述べている。
それは何故か?
感覚の好き嫌いは業(生まれながら持っている性質)によって決まっている。これは生命の種類によって決まっている。同じ種類でも個体による好き嫌いの違いも業によるもの。これらの好き嫌いの理由は説明できない。業だから。
しかし、好ましく感じる感覚も好ましくなく感じる感覚もどちらも、変化して確定はしていない。だから、これは好ましいと決めつけられない。
例えば好きな食べ物も、たくさん食べ過ぎると食べたくなくなり、ある場合には嫌いになる。好きとも嫌いとも断言できない。そのことを「滅び去るものである虚妄の事物」と言っている。
「触れるたびごとに、衰滅することを認め」とはどんな感覚も消えて行くということ。永遠に続く感覚はない。
楽の感覚もいずれなくなるから、それに対して不満が起きて苦を感じる。苦は始めから苦。不苦不楽も退屈して不満や不快に変わり苦になる。つまりどのような感覚も苦の縁になる。
そのことをよく知って、感覚にとらわれず、感覚から離れる修行者は安らぎの寂静(涅槃)にいる。
(´・(ェ)・`)つ
つづく
0118名無しを整える。
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2017/11/26(日) 09:17:52.63ID:z+OwNNXc
738「内も、外も、それが何であれ、」の内とは「自分に」であり、外には「他人に」の意味。
四念処経(中部経典第10)等に書かれている内と外の意味も内は自分であり、外は他人である。他人の感覚も注意深く観察すれば分かる。他人を配慮するとは他人の感覚も理解すること。
740 741
今回のテーマは渇愛。パーリ語は‘Tah(タンハー)、渇愛は仏教用語。中村訳は妄執(愛執)
728偈の渇愛は四聖諦の二番目集諦(苦の原因)の渇愛。今回は十二因縁の八番目の渇愛。それは1無明、2潜在的形成作用(行)、3識別作用(識)、4名称と形態(名色)、5感覚器官(六処)、6接触(触)、7感覚(受)、8渇愛、・・・・・と続く。
ここで渇愛を考えるときは、このつながりの中で考えた方がよい。感覚(受)では、その感覚から離れないでいると、すぐに今回の渇愛が現れる。そしてこの渇愛を縁として苦が生まれる。
また次のテーマの執着はこの渇愛があるとすぐ執着が現れる。渇愛の前後、また渇愛自身が苦の原因になる。
十二因縁の流れは非常に危険。どこかでこの流れを止めなければならない。
特に、感覚を縁にして渇愛が現れてところに注意を向ける。いろいろな感覚が現れてもそのままにして、渇愛が現れないようにする。瞑想で気づき(サティ)を入れてこの流れを止める。
742 743
十二因縁の教えによれば、渇愛の次は執着(取)。執着の次は生存(有)。生存(有)があると、生がある。生まれたものは必ず老と死がある。老と死は苦しみ。
執着が業になる。これは何としても生きていきたという思い。この思いは肉体が死んでも残っていて、次の生の因縁になる。そして再生する。
しかし、生まれれば必ず死ぬ。愚か者は「生まれた者は楽がある」と考えるが、「生まれた者は死があり、それは苦を受ける」と742偈で示している。

(´・(ェ)・`)つ
うー「十二因縁」には、じっくり取り組まねばなりますまい。
0119鬼和尚 ◆GBl7rog7bM
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2017/11/26(日) 21:22:20.40ID:MDrfgHIu
十二因縁も観察の一例に過ぎないのじゃ。
二つの観察も一例を示しただけなのじゃ。
それらに囚われず自らの本心を観察するのじゃ。
0120名無しを整える。
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2017/11/26(日) 21:29:55.09ID:z+OwNNXc
>>119
鬼和尚、ありがとうであります。
囚われずに精進するであります。
(´・(ェ)・`)つ
0121名無しを整える。
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2017/11/27(月) 18:31:02.51ID:Cs6Ub+eO
ブッダのことば(スッタニパータ)
第3 大いなる章、12、二種の観察

【B】(>>112)『およそ苦しみが生ずるのは、すべて起動に縁って起るのである。』というのが、一つの観察[法]である。『しかしながら諸々の起動が残りなく離れ消滅するならば、苦しみの生ずることがない』というのが第二の観察[法]である。【A】(>>109

744 およそ苦しみが起るのは、すべて起動を縁として起る。諸々の起動が消滅するならば、苦しみの生ずることもない。

745 「苦しみは起動の縁から起る」と、この禍いを知って、一切の起動を捨て去って、起動のないことにおいて解脱し、

746 生存に対する妄執を断ち、心の静まった修行僧は、生をくり返す輪廻を超える。かれはもはや生存を受けることがない。

【B】『およそ苦しみが生ずるのは、すべて食料に縁って起るのである。』というのが、一つの観察[法]である。『しかしながら諸々の食料が残りなく離れ消滅するならば、苦しみの生ずることがない』というのが第二の観察[法]である。【A】

747 およそ苦しみが起るのは、すべて食料を縁として起る。諸々の食料が消滅するならば、もはや苦しみの生ずることもない。

748 「苦しみは食料の縁から起る」と、この禍いを知って、一切の食料を熟知して、一切の食料にたよらない、

749 諸々の煩悩の汚れの消滅の故に無病の起ることを正しく知って、省察して(食料を)受用し、理法に住するヴェーダの達人は、もはや(迷いの生存者のうちに)数えられることがない。

【B】『およそ苦しみが生ずるのは、すべて動揺に縁って起るのである。』というのが、一つの観察[法]である。『しかしながら諸々の動揺が残りなく離れ消滅するならば、苦しみの生ずることがない』というのが第二の観察[法]である。【A】

750 およそ苦しみが起るのは、すべて動揺を縁として起る。諸々の動揺が消滅するならば、もはや苦しみの生ずることもない。

751 「苦しみは動揺の縁から起る」と、この禍いを知って、それ故に修行僧は(妄執の)動揺を捨て去って、諸々の潜在的形成力を制止して、無動揺・無執著で、よく気をつけて、遍歴すべきである。

(´・(ェ)・`)つ
0122名無しを整える。
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2017/11/27(月) 18:31:58.72ID:Cs6Ub+eO
>>121
744 745 746
今回のテーマはパーリ語ではrambha。
中村訳:起動
正田訳:〔利己的な〕勉励
勉励には通常よい意味で使われているので、正田先生は「利己的な」という説明を付けている。
パーリ語辞書:。水野辞書には「努力、発動、あくせく、辛苦」
雲井辞書には「意図、努力、目的」
意味のニュアンス、頑張ること

今回のテーマ、頑張ることは、通常はよいことのように考えられていて、「頑張ります。」と自分の決意を語る場合や、「頑張れ、頑張れ」などと人を励ます時にも使う。
しかし、今回は「およそ苦しみが起るのは、すべて起動(頑張ること)を縁として起る。」と述べられている。

何故か?頑張ることは自我の働き。自我が頑張ろうと思い、人を頑張らさせようと思っている。
自我は真理に即した考え方をするのではなく、自分の都合のよい考え方をする。自己中心的な考え方をする。もっと言えば自分の欲望にそった考え方や行動をする。
世の中のことは自分の都合に合うようには動かない。自我の都合ではなく、全体の都合に合わせて、全体が調和のとれたように、動く。
そうすると、自我は物事が自分の望む通りに行かなくて、悩み苦しむことになる。このことを指して、「苦しみは起動(頑張ること)を縁として起こる」と述べている。

そうではなく、起動(頑張ること)を止めると、すなわち自我をなくすと言うことが、真理に即した考え方、行動ができるということ。
そうするとその人の考え方、行動がすべて上手く行き、自分も他の人達も満足できるという訳。

745偈では、一切の起動(頑張ること)を捨て去った人は、自我を捨て去った人。
そのような人は解脱していると述べている。
746偈ではそのような人は、生存に対する渇愛を捨てて、心が静まって、もう輪廻を繰り返すことがないと言っている。

747 748 749
今回は11番目のテーマ、それは食料。仏教用語では食(アーハーラ)。

仏教では物質的な食料(段食)、以外にも、触食、意思食、識食という四つ食を考えている。生命が生きていくために必要なエネルギー源を食料(食)と言う。

実は人間は、段食と言われる物質的な食料をだけ食べて生きているわけではない。段食は身体を維持する食べ物だが、人間の心を維持する食べ物として、上に述べた触食、意思食、識食をエネルギー源として摂取している。

触食は触によるエネルギー源。これから感覚が生まれ、渇愛が生まれ、生きていて、輪廻を繰り返す。
意思食は、何かしたいというエネルギー。これもなくては心は死んでしまう。
識食は知ることによるエネルギー源。人間の心はこれらをエネルギー源にしている。
例えば、何かを食べる時、物質的な食べ物だけを食べているわけではない。眼で食べ物を見たり、鼻で香を感じたりする。これは触食している。
また、食べたいと思う。その時、意思食をしている。また食べてみると、これは旬の野菜だとか、これは食べたことがないとかいろいろ事を知る。これは識食。これらを総合的に食べている。
段食からも苦を生じます。これがなければ飢餓になる。多すぎれば病気になる。
触食は触によるエネレルギーだから、二種の観察経の六番目のテーマの触の項で、すべての苦は触を縁にして生まれると知った。
意思食は行(潜在的形成力)をエネルギー源とする食料、これは四番目のテーマ、すべての苦は潜在的形成力から生まれることを学んだ。
また識食は五番目のテーマの識(識別作用)。これを縁にしてすべての苦が生まれることも学んだ。
このように、食料は物質的ものだけでなく、精神的な食料も、縁にして苦が生まれる。
これらの一切の食料にたよらない、依存しなければ、苦が生まれることがない。無限に食料を欲しがる衝動が消えると(解脱すると)、輪廻も消える。
食べることを止める必要はないが、食べ物をあれこれ選り好みしたり、こだわったりすることを止めることは必要。
749偈の無病とは、病気でないことだが、ここでは涅槃を意味している。
750 751
心に感情が現れた時には、心は動揺していることが分かる。動揺を縁として苦が発生するということは、感情を縁として苦が発生すると考えてもよい。
感情は潜在形成作用に含まれる。
心が動揺を縁として苦が発生するので、苦を免れるためにはなるべく心を動揺させずに静かにさせるのがよい。完全に心の動揺をなくした状態は涅槃だと言われている。

(´・(ェ)・`)つ
0123鬼和尚 ◆GBl7rog7bM
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2017/11/27(月) 21:24:29.75ID:q08iJeLH
なにやらおかしいのう。
動揺させなくてよいのじゃ。
ただ単にそれを観察するようにと教えているのじゃ。
観察によって苦から厭離できるのじゃ。
 
0124名無しを整える。
垢版 |
2017/11/27(月) 21:29:24.01ID:L4kN8T0z
密教の理趣経について
ご高説を伺いたいです
0125名無しを整える。
垢版 |
2017/11/27(月) 22:04:28.26ID:Cs6Ub+eO
>>123
鬼和尚、こんばんは。

引用している解説では、
>苦を免れるためにはなるべく心を動揺させずに静かにさせるのがよい

としておりますが、

そのようにコントロールしようとするのではなく、
動揺してるのであれば、動揺していると、ありのまままに観察さえすれば、
>観察によって苦から厭離できる
と言うことでありますね。

(´・(ェ)・`)つ
0126名無しを整える。
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2017/11/28(火) 10:37:26.44ID:l2bB9eqC
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0127名無しを整える。
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2017/11/28(火) 18:41:39.51ID:3u1CH6/j
ブッダのことば(スッタニパータ)
第3 大いなる章、12、二種の観察

【B】(>>112)『従属するものは、たじろぐ。』というのが、一つの観察[法]である。『従属しない者は、たじろかない』というのが第二の観察[法]である。【A】(>>109

752 従属することのない人はたじろがない。しかし従属することのある人は、この状態からあの状態へと執著していて、輪廻を超えることがない。

753 「諸々の従属の中に大きな危険がある」と、この禍いを知って、修行僧は、従属することなく、執著することなく、よく気をつけて、遍歴すべきである。

【B】『物理的領域よりも非物質的領域のほうが、よりいっそう静まっている』というのが、一つの観察[法]である。『非物質的領域よりも消滅のほうが、よりいっそう静まっている』というのが第二の観察[法]である。【A】

754 物質的領域に生まれる諸々の生存者と非物質的領域に住む諸々の生存者とは、消滅を知らないので、再びこの世の生存に戻ってくる。

755 しかし物質的領域を熟知し、非物質的領域に安住し、消滅において解脱する人々は、死を捨て去ったのである。

【B】『神々と悪魔とともなる世界、道の人(沙門)・バラモン・神々・人間を含む諸々の生存者<これは真理である>と考えたものを、諸々の聖者は<これは虚妄である>と如実に正しい智慧をもってよく観ずる』というのが、一つの観察[法]である。
『神々と悪魔とともなる世界、道の人・バラモン・神々・人間を含む諸々の生存者<これは虚妄である>と考えたものを、諸々の聖者は<これは真理である>と如実に正しい智慧をもってよく観ずる』──これが第二の観察[法]である。【A】

756 見よ、神々並びに世人は、非我なるものを我と思いなし、<名称と形態>(個体)に執著している。「これこそ真実である」と考えている。

757 或ものを、ああだろう、こうだろう、と考えても、そのものは異なったものとなる。何となれば、その(愚者の)その(考え)は虚妄なのである。過ぎ去るものは虚妄なるものであるから。

758 安らぎは虚妄ならざるものである。諸々の聖者はそれを真理であると知る。かれらは実に真理をさとるが故に、快をむさぼることなく平安に帰しているのである。

(´・(ェ)・`)つ
0128名無しを整える。
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2017/11/28(火) 18:52:29.03ID:3u1CH6/j
>>127
752 753
テーマは従属(依存)。パーリ語のnissito
問題の言葉は、calati。「たじろぐ」「動揺する」等と訳される。
よく考えれば「たじろぐ」とは心の動揺を示していると思われる。
「従属(依存)する者には心の動揺がある」と考えてよい。
従属(依存)する者の心は自立してない。何かを頼りにしていて、頼りがなければ、不安定な。不安定なものは、揺れ動いている、動揺している。
心の動揺は、心の従属(依存)を原因としている。心の動揺がないとは心が従属(依存)してない、心が独立している、自立していると言うこと。
750 751で、心の動揺を縁にして苦が発生することを学んだ。従属(依存)する者には苦が発生する。
752では従属(依存)するものには、執着があることが述べられている。従属(依存)する者は、頼りにするものがなければ存在出来ないと思っているから、頼りにするものに執着する。
753では従属(依存)のなかに大きな危険(恐怖)があると述べている。従属(依存)から苦が発生すると言うことと、従属(依存)するものは常に不安を持っていて、それが大きな恐怖。
心の動揺をなくし、苦の発生をなくし、執着をなくし、大きな恐怖をなくすためには、従属(依存)をなくし、心の独立(自立)を目指さなければなない。従属(依存)を克服した人は輪廻を繰り返すことはない
754 755
テーマは物質的領域(色界)と悲物質的領域(無色界)。今回の偈の前の散文に説明されている二種の観察はいつもと少し違う。
第一の観察は、『物質的領域よりも非物質的領域のほうが、よりいっそう静まっている』、そして第二の観察は、『非物質的領域よりも消滅のほうが、よりいっそう静まっている』です。今回はより静まっているかどうかを観察する。
今回の観察は禅定を体験してないと実際はすぐ出来ない。色界の禅定あるいは無色界の禅定、さらには消滅(涅槃)を知らないから。
「物質的領域(色界)に生まれる諸々の生存者」とは、下位の梵天。「非物質的領域(無色界)に住む諸々の生存者」とは上位の梵天。これらの梵天も涅槃を知らないため、輪廻する。
これらの梵天の世界の静けさを人間であっても経験できる。禅定に入ればできる。第一禅定から第四禅定までを色界禅定と言って、下位の梵天と同じ静けさを体験できる。
さらに、その先の空無辺処禅定、識無辺処禅定、無所有処禅定、非想非非想処禅定の四つが無色界の禅定。これらの禅定の体験者は上位の梵天と同じような静けさを体験している。
「物質的領域(色界)よりも非物質的領域(無色界)のほうが、よりいっそう静まっている」と分かる。
しかし、「非物質的領域(無色界)よりも消滅(涅槃)のほうが、よりいっそう静まっている」については、解脱して、涅槃を体験しなければ分からない。
ただ、このテーマによる二種の観察はすぐに出来ないかもしれませんが、「静けさ」という観点は日常の瞑想修行において、自分の心がどれほど静まったかどうか感じて見ることは、非常に大切なこと。
自分の心が静まったのならば、一応瞑想はうまく行ったと考えて良い。
756 757 758
今回の散文で述べられているテーマは、真理と虚妄(虚偽)。二種の観察とは、覚ってない凡夫が「真理である」と考えたものを、覚った聖者は「虚妄(虚偽)である」と観る、これを観察することが第一の観察であり、
覚ってない凡夫が「虚妄(虚偽)である」と考えたものを、覚った聖者は「真理である」と観る、これを第二の観察であるということ。
756偈では、そのことを我(自己)と非我(自己ではないも)という例で述べられてる。つまり凡夫は非我であるものを我だと思い、それが真理だと考えると述べている。
757偈では凡夫があれやこれや考えても、考えた結果は事実と異なったものになるという。なぜならば凡夫(愚者)の考えは虚妄だからだと述べている。
しかし、758偈では涅槃は虚妄のものではない、聖者たちはそれを真理であると知って、静かなる涅槃に帰すのであると述べている
(´・(ェ)・`)つ
0129鬼和尚 ◆GBl7rog7bM
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2017/11/28(火) 22:08:28.55ID:WGkq3u+f
>>124 密教の経典全てについても言えることであるが、理趣経も基本的には諸仏菩薩などを観想して集中するための教えなのじゃ。
 そのために諸仏菩薩等の印とか真言が記されているのじゃ。
 その中で欲心をも極めれば菩薩の位と教えているのじゃ。
 欲心も清浄なものに昇華したならば菩薩なのじゃ。
 欲心も昇華すれば強い集中の力となるからのう。
 そのままではないのじゃ。

>>125 そうじゃ、経でははじめから観察の法として教えているのじゃ。
 観察を知らない者が勝手に解釈してはいかんのじゃ。
 それが学者の限界でもあるがのう。
 実践しないから止観もわからないのじゃ。 
0130名無しを整える。
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2017/11/29(水) 08:11:36.90ID:cExRYed4
ブッダのことば(スッタニパータ)
第3 大いなる章、12、二種の観察

【B】『神々と悪魔とともなる世界、道の人(沙門)・バラモン・神々・人間を含む諸々の生存者<これは安楽である>と考えたものを、諸々の聖者は<これは苦しみである>と如実に正しい智慧をもってよく観ずる』というのが、一つの観察[法]である。
『神々と悪魔とともなる世界、道の人・バラモン・神々・人間を含む諸々の生存者<これは苦しみである>と考えたものを、諸々の聖者は<これは安楽である>と如実に正しい智慧をもってよく観ずる』──これが第二の観察[法]である。【A】

759 有ると言われる限りの、色かたち、音声、味わい、香り、触れられるもの、考えられるものであって、好ましく愛すべく意に適うもの、──

760 それらは実に、神々並びに世人には「安楽」であると一般に認められている。また、それらが滅びる場合には、かれらはそれを「苦しみ」であると等しく認めている。

761 自己の身体(=個体)を断滅することが「安楽」である、と諸々の聖者は見る。(正しく)見る人々のこの(考え)は、一切の世間の人々と正反対である。

762 他の人々が「安楽」であると称するものを、諸々の聖者は「苦しみ」であると言う。他の人々が「苦しみ」であると称するものを、諸々の聖者は「安楽」であると知る。解し難き真理を見よ。無知なる人々はここに迷っている。

763 覆われた人々には闇がある。(正しく)見ない人々には暗黒がある。善良な人々には開顕される。あたかも見る人々に光明のあるようなものである。理法がなにであるかを知らない獣(のような愚人)は、(安らぎの)近くにあっても、それを知らない。

764 生存の貪欲にとらわれて、生存の流れにおし流され、悪魔の領土に入っている人々には、この真理は実に覚りがたい。

765 諸々の聖者以外には、そもそも誰がこの境地を覚り得るのであろうか。この境地を正しく知ったならば、煩悩の汚れのない者となって、まどかな平安に入るであろう。

 師(ブッダ)はこのように説かれた。修行僧たちは悦んで師の諸説を歓喜して迎えた。実にこの説明が述べられたときに、六十人の修行僧は執著がなくなって、心が汚れから解脱した。

[二種の観察]まとめの句

 真理(諦)と、生存の素因と、無名と、諸々の形成力と、第五に識別作用と、接触と、感受されるものと、妄執と、執著と、起動と、諸々の食と、動揺における震動と、物質的領域と、真理と苦とで、十六である。

<大いなる章>第三おわる

まとめの句

 出家と、つとめはげむことと、みごとに説かれたことと、スンダリカと、マーガと、サビヤと、セーラと、矢と、ヴァーセッタと、コーカーリヤと、ナーラカと、二種の観察と──

 これらの十二の経が「大いなる章」と言われる。

(´・(ェ)・`)つ
0131名無しを整える。
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2017/11/29(水) 11:38:26.41ID:cExRYed4
>>130
759.760.
凡夫が楽と感じる対象を六つに分ける。
眼耳鼻身体心で楽を感じる対象は色や形、音、香、味、接触、想い。自分が好きな、好ましいと感じる色や形、音、香、味、接触、想いがあると凡夫はそれを楽と感じる。
そして、それらの凡夫の楽しみをもたらす六つの対象がなくなると、凡夫は苦だと思う。自分が好きな、好ましいと感じるものがなくなると、悩み苦しむということ。
761.762.763.
凡夫と聖者の見方の違いが述べられている。具体的に身体が弱って、壊れて行く、老化し、病気になっていく過程を聖者は楽だと観るが、凡夫は悩み苦しみと感じる。
「この理解しがたい真理を見よ」と述べている。
人々には本来光明のような光を放っている。覆われた人は光を放たず、周りが見えない。このような光明を覆い隠しているものは、五蓋(貪欲、怒り、落ち込み・眠気、浮つき、疑惑)などの煩悩。
一方善良な人々は開かれていて、彼らの周りは明るく照らされていて、周りがよく見える。
覆われている人々の周りは暗いので、周りが見えない。たとえ近くに涅槃があっても見えない。
764.765
「凡夫が楽と言うものを聖者が苦と見、凡夫が苦と言うものを聖者は楽と見る」という真理ともとれるし、「二種の観察経」全体で述べられた真理、すなわち二種の観察によって、心の解脱あるいは智慧の解脱できるという真理と指すこともできる。
この真理は生存に執着し、欲望のままに生きていいる人々、悪魔の領域にいる人々には理解できない。
悪魔の領域とは輪廻の世界の意味。
この真理を覚れるもの、覚れる境地にいるものがは聖者であり、この境地を正しく知って、欲や怒りや無智などの煩悩を克服した方。聖者だけがこの真理を覚り、まどかな平安(涅槃)に入る。
しかし、聖者が出来たことを凡夫が出来ないはずはない。凡夫は聖者のような境地に立てばよい。

「二種の観察経」16テーマを復習。
1.四聖諦(苦集滅道)
2.生存の素因(生存の基礎)・・・ここでは渇愛としました。
3.無明
4.潜在的形成力(行)
5.識別作用(識)
6.接触(触)
7.感受(受)
8.妄執(渇愛)
9.執着
10.起動(勉励)・・・頑張ること
11.食料(食)
12.動揺
13.従属(依存)
14.物質的領域と非物質的領域(色界と無色界)
15.真理と虚妄(虚偽)
16.楽と苦

(´・(ェ)・`)つ
0132鬼和尚 ◆GBl7rog7bM
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2017/11/29(水) 20:58:21.20ID:Oz6qv5Nt
そうじゃ、何でも観察しまくるのじゃ。
実践あるのみなのじゃ。
0133名無しを整える。
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2017/11/29(水) 21:56:02.51ID:cExRYed4
>>132
で、ありますね。
抑制せず、評価せず、ただひたすらありのままに観察でありますね。
できるだけいつも意識的にあるように心かけてるくまであります。
鬼和尚、いつもありがとうであります。
(´・(ェ)・`)つ
0134名無しを整える。
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2017/11/30(木) 19:01:28.83ID:kLyTNg8z
ブッダのことば(スッタニパータ)
第4 八つの詩句の章、1,欲望

766 欲望をかなえたいと望んでいる人が、もしもうまくゆくならば、かれは実に人間の欲するものを得て、心に喜ぶ。

767 欲望をかなえたいと望み貪欲の生じた人が、もしも欲望をはたすことができなくなるならば、かれは、矢に射られたかのように悩み苦しむ。

768 足で蛇の頭を踏まないようにするのと同様に、よく気をつけて諸々の欲望を回避する人は、この世で執著をのり超える。

769 ひとが、田畑・宅地・黄金・牛馬・奴婢・傭人・婦女・親類、その他いろいろの欲望を貪り求めると、

770 無力のように見えるもの(諸々の煩悩)がかれにうち勝ち、危い災難がかれをふみにじる。それ故に苦しみがかれにつき従う。あたかも壊れた舟に水が侵入するように

771 それ故に、人は常によく気をつけていて、諸々の欲望を回避せよ。船のたまり水を汲み出すように、それらの欲望を捨て去って、激しい流れを渡り、彼岸に到達せよ。



ブッダのことば(スッタニパータ)
第4 八つの詩句の章、2、洞窟についての八つの詩句

772 窟(自体)のうちにとどまり、執著し、多くの(煩悩)に覆われ、迷妄のうちに沈没している人、──このような人は、実に<遠ざかり離れること>(厭離)から遠く隔たっている。
実に世の中にありながら欲望を捨て去ることは、容易ではないからである

(´・(ェ)・`)つ
0135名無しを整える。
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2017/11/30(木) 19:07:27.36ID:kLyTNg8z
>>134
766
スッタニパータの中でも第四章と第五章は特に古い経でブッダの言葉そのものに非常に近い、しかも仏教の根本的な教えが述べられている。
私たちの生活は、欲望によって成り立っている。
朝起きる時は、起きようとする無自覚的な欲望からはじまり、自覚的な欲望が現れる。
欲望は苦しみの原因になる。
767
欲望をかなえたい望んでいる人が、欲望をはたすことが出来なくなった場合は欲望を持つ人は、矢に射られたように苦しむ。
欲望をかなえたいと望んでも、貪欲の生じない人には悩み苦しみは生じない。
欲望と貪欲の違い。人間は生きるために必要なものに対して欲望が現れる。しかし、生きるために必要なものは、その時欲しいと望んだものでなくてもよい。
「貪欲の生じた人」と訳されたパーリ語chandajtassaのchandaは通常は意欲と訳され、善悪を評価しない言葉として使われる。しかし、場合によっては貪欲と同義に使われると辞書に書かれている。
仏教では、欲望が生まれるとすぐに欲望に対する執着が生じ、貪欲に変わるから、欲望を抑制するように言うが、欲望の現れるのはある程度やむを得ない。
しかし、それに対する執着をなくし、貪欲にならないように注意する必要がある。
768
欲望そのものが悪いわけではない、欲望に執着することが問題。執着することで苦しみが生じるから。
しかし、執着を乗り越えることは難しいので、その前に欲望に注意する。欲望をコントロールすれば、執着を乗り越えられる。
欲望を蛇の頭で喩えている。欲望を足で踏むと蛇は大きな口(執着)を開けて噛みつく(苦しみ)。蛇に噛みつかれないようにするためには、蛇の頭(欲望)を踏まないようにすればよい。
欲望につき注意すべきすべきこと。一つは欲望には限界がないということ。
ダンマパダ186「たとえ貨幣の雨をふらすとも、欲望は満足されることはない。」
もう一つの重要な問題点。欲望は自己中心的なもの。欲望にとらわれている人は他人の欲望には眼が向かない。自分の欲望を満たすためには、他人の欲望はどうでもよい。顕著な例は泥棒。
その行為が相手をどのように悲しませているかに気づかない。欲望に執着する人は他人に慈悲の心を持つことが出来ない。
このような人は周りの人々から嫌われ、快適な生活はできなくなり、悩み苦しむということになる。
欲望を回避するためには、「よく気をつけて」(〔常に〕気づきある者として)が必要。パーリ語ではsato 、念(気づき、サティ)が必要であるということ。
つまり自分の心に欲望が現れたことに気づくこと。欲望が小さいうち気づけばコントロールしやすい。
(´・(ェ)・`)つ
0136名無しを整える。
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2017/11/30(木) 19:07:55.56ID:kLyTNg8z
>>134
769、770
欲望の対象を具体的に列挙。
そのような欲望の対象を貪ると、「無力のように見えるもの(諸々の煩悩)がかれにうち勝ち」とは・・・?
無力とは力。仏教で力と言えば五力。無力とは五力がないこと。五力とは「信、精進、念、定、慧」だから、無力は「無信、怠惰、放逸、掉挙(興奮)、愚かさ」になる。
つまり欲望の対象を貪ると「無信、怠惰、放逸、掉挙、愚かさ」が彼に打ち勝つということ。
実際に、貪欲になると、自分が「無信、怠惰、放逸、掉挙、愚かさ」に支配される。確かに無力(無力は「無信、怠惰、放逸、掉挙(興奮)、愚かさ」)になれば、彼はいろいろな災難に遭遇する。
この状態を壊れた舟に水が浸入するようだと表現。
つまり周りから侵入する水は無力。すなわち「無信、怠惰、放逸、掉挙(興奮)、愚かさ」。舟は沈没する。欲望の対象を貪ることがないようにしなければなない。
771
欲望の対象はいろいろあるが、その何かに執着すると他のものが見えなくなる。そうすると愚かさを始めとする諸々の煩悩が現れてくる。それを壊れた船に浸水という譬えで表現された。
この譬えは船(凡夫)に浸水した水(欲望)を汲み出すようにと表現していふ。そして激しい流れ(煩悩)を渡って彼岸(涅槃)到達せよと述べている。
その方法は「常によく気をつけていて」であるが、「常に念(サティ)を絶やさずに」ということ。これはヴィパッサナー瞑想の実践。
このように説明するとなんでもないことのように見えるが、これは仏教のすべてを説明している。
欲望から苦しみがはじまるから、その欲望を捨てるように、欲望を捨てるということは、世間は欲望の世界ですから、世間を捨てること。そして出世間(涅槃)をめざすように述べている。
しかし、それは特別な世界の行く訳ではなく、ただ心を変えるだけのこと。
772
ブッダが解脱を目指して修行している人がなぜ解脱し難いかについて述べたもの。この困難をいかに克服すべきかが述べている。
窟(いわや)或は洞窟とは身体を意味している。身体とは煩悩という猛獣が住み着いている場所ということ。
洞窟に留まりとは身体に執着してということ。人々は身体を心配し、身体の楽しみを求めている。
寒さ暑さを嫌い、快適な涼しさや温かさを求め、美しいものを求め、耳を楽しませる音楽を求め、更に美味しい食べ物を求める。そして、それらにありつければ人生は素晴らしいと思う。
しかし、それらにはすべて苦が付きまとい、そしてそれらは苦しみをもたらすものあることを知ろうとはしない。
それらの人々は、「<遠ざかり離れること>(厭離:おんり)から遠く隔たっている。」と述べられているが、この<遠ざかり離れること>とは、端的に言えば、解脱すること、覚ること。
つまり、これらの人々は解脱出来ないと述べている。
なぜならば、これらの人々は現状に安住しているから。解脱することは現状からの解脱。現状に問題があるから解脱する。
そもそも現状に安住している人は、不思議なことに現状に不満をもちながら現状に満足している。これを「迷妄のうちに沈没している」と言う。
「実に世の中にありながら欲望を捨て去ることは、容易ではないからである。」と述べられている。これが解脱することが困難である理由。
(´・(ェ)・`)つ
0138名無しを整える。
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2017/12/01(金) 18:37:29.00ID:VlzX0QzK
ブッダのことば(スッタニパータ)
第4 八つの詩句の章、2、洞窟についての八つの詩句

773 欲求にもとづいて生存の快楽にとらわれている人々は、解脱しがたい。他人が解脱させてくれるのではないからである。かれらは未来をも過去をも顧慮しながら、これらの(目の前の)欲望または過去の欲望を貪る。

774 かれらは欲望を貪り、熱中し、溺れて、吝嗇で、不正になずんでいるが、(死時には)苦しみにおそわれて悲嘆する、──「ここで死んでから、われわれはどうなるのだろうか」と。

775 だから人はここにおいて学ぶべきである。世間で「不正」であると知られているどんなことであろうとも、そのために不正を行なってはならない。「ひとの命は短いものだ」と賢者たちは説いているのだ。

776 この世の人々が、諸々の生存に対する妄執にとらわれ、ふるえたいるのを、わたしは見る。下劣な人々は、種々の生存に対する妄執を離れないで、死に直面して泣く。

777 (何ものかを)わがものであると執著して動揺している人々を見よ。(かれらのありさまは)ひからびた流れの水の少ないところにいる魚のようなものである。
これを見て、「わがもの」という思いを離れて行うべきである。──諸々の生存に対して執著することなしに。

778 賢者は、両極端に対する欲望を制し、(感官と対象との)接触を知りつくして、貪ることなく、自責の念にかられるような悪い行いをしないで、見聞することがらに汚されない。

779 想いを知りつくして、激流を渡れ。聖者は、所有したいという執著に汚されることなく、(煩悩の)矢を抜き去って、勤め励んで行い、この世もかの世も望まない。

(´・(ェ)・`)つ
0139名無しを整える。
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2017/12/01(金) 18:53:59.18ID:VlzX0QzK
>>138
773
「欲求にもとづいて生存の快楽にとらわれている人々は、解脱しがたい。」と述べられている。その理由として、「他人が解脱させてくれるのではないからである。」
その他人がブッダであろうともあなたを解脱させてはくれない。ダンマパダ276「汝はみずからつとめよ。もろもろの如来(ブッダ)はただ教えを説くだけである。」
解脱とは自分自身の心の問題だから。自分自身で自分を拘束している束縛に気づき、それから自分自身で解放させること。
しかし、欲求にもとづいて生存の快楽にとらわれている人の関心は欲求の対象に向いているので、自分の状態に気づくことが出来ず、解脱に関心はない。
だから解脱したいと言ったり、思ったとしても、それは内容のともなわない単なる空念仏になる。
そのような人々の関心について、「かれらは未来をも過去をも顧慮しながら、これらの(目の前の)欲望または過去の欲望を貪る。」と説明している。
774
欲望を貪る人々は、自分の欲望にとらわれているから、他人のことに関心が向かない。
他人のことを心配出来ない。これらの人々は吝嗇(りんしょく)、すなわち物惜しみの心が強く、自分の持っているものが余っていても、人にはあげまないし、人に使われるのも嫌がる。他人を配慮出来ないので、他人の嫌がることでもしてしまう。
そのため罪を犯すことにもなる。それを「不正になずんでいる」と書かれている。
罪を犯す人、不正になずんでいる人の行先はよい場所ではない。死ぬ前に、「ここで死んでから、われわれはどうなるのだろうか」と嘆き悲しんでももう遅い。
775
「世間で『不正』であると知られているどんなことであろうとも、そのために不正を行なってはならない。」と言うことを学ぶべき。
「そのために不正を行なってはならない。」の「そのために」の意味はパーリ語原文から判断するとこの句の直訳は「彼にとって不正をする理由はない。」ということだから、結局不正は行ってはならないということ。
人生には不正を働いる暇はないということ。人生は短いのだから、解脱をめざす人にとって、不正を働いている暇はないということ。
不正は欲望に執着することから行われる。不正を働くとは、具体的に言えば五戒を犯すこと等。
生き物を殺す、与えられないものを取る、邪な行いをする、嘘をつく等だが、これらはすべて、自分の欲望を優先して、他の生命の迷惑を顧みないことから行なわれる。
逆に他の生命を慈しみ、他の生命の迷惑を掛けないように、注意する人は決して五戒を犯すようなことはしない。
また、ある人に欲望が現れても、他の生命の尊厳を重視し、慈しみの心を起こし、自分の欲望に執着せずに、それを手放すことが出来れば、それはその人にとって重要な意味を持つ。
不正をしないことは、解脱以前の人間のあり方を問う問題ではあるが、それ以上の意味がある。不正をやめた人は普通の人間が出来ないことをやり遂げたのである。
それは解脱に近づくための功徳を得たこと。また因縁があればその時点で解脱するということがあるかもしれない。不正をしないことはそれほどの意味がある。
776
「生存に対する妄執(渇愛)にとらわれて」いる人々は「ふるえて」いる。何故ならば怖いから。いつも何かを恐れてビクビクしている。
それは結局死を恐れている。生存に対する妄執とは何としてでも生きていたいという気持ちでだから、とにかく死が恐ろしいし、嫌なのだ。
しかし、どんな生命にとっても必ず死は来る。世の中のことはすべて必ずということはないが、唯一確実なことは「必ず死ぬ」ということ。ですから、すべての生命はいつも死ぬかもしれないとおびえてふるえている。
「下劣な人々は」とは、この真実をないかの如く、エラそうに生きている人々を指している。
自分は明日死ぬかも分からないのに、他人の迷惑を顧みることなく、自己主張して、不正な行いをし、他人と争う人々。
しかしこれらの人々も、重病などをして、死に直面すると、「ここで死んでから、われわれはどうなるのだろうか」と泣き叫ぶ。
(´・(ェ)・`)つ
0140名無しを整える。
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2017/12/01(金) 18:54:39.33ID:VlzX0QzK
>>138
777
解脱をめざす人々は如何にすべきかを教える。はじめは「『わがもの』という思いを離れて行うべきである。」ということ。
人は欲望の対象を「わがもの」と言う思いを持っている。或は「わがもの」にしようと思う。
しかし、私達には私のもの言えるものは本来ない。だから私のものにできるものはない。
ブッダはダンマパダ62で、「わたしには子がある。わたしには財がある」と思って悩む。
しかしすでに自己が自分のものではない。
ましてどうして子が自分のものであろうか。
どうして財が自分のものであろうか。
「ひからびた流れの水の少ないところにいる魚のようなものである」は、魚にとって、水は命に係わる欲望の対象。これが干上がってしまえば死んでしまう。
そのように、欲望の対象に執着している人々はこのような魚のように、恐怖で震えおののいているということ。
何ものにも「わがもの」という思いのない人、何ものわがものはないのだと覚悟の出来た人にとっては、何ものも執着するものがなく、怖れるものがない。このような人は涅槃の近くにいると言える。
778
「感覚を守る」とは、「両極端に対する欲望を制し」だが、両端とは感覚器官と感覚の対象。
すなわち、眼、耳、鼻、舌、身、意が感覚器官で、その対象とは色・形、音、香、味、触、法(思い考え等)。
それぞれに欲望がある。眼と色形、耳と音について言えば、眼の欲望は見たいという欲望。色・形に対する欲望とは美しいものに対する欲望。耳の欲望は快い音を聞きたいという欲望。音に対する欲望は快い音に対する欲望。
これらの「欲望を制し」とは、これらの欲望に執着しないで、貪欲にならないようにすること。貪欲になるとそこから離れることができずに、苦しみなる。
ブッダは感覚を六処に分析して教えている。感覚で起こっている現象を漠然と感じると欲望が現れる時の興奮に巻き込まれるが、冷静に分析して見ると欲望の感情に巻き込まれなくなる。
そうすると欲望を制御しやすい。
「自責の念にかられるような悪い行いをしないで、」はいわゆる良心の呵責を感じるような行いをしないということ。
これは感覚を守るといことで、興奮せずに、冷静に良心の声を聞けることができるようになる。
「見聞することがらに汚されない」は、見たり、聞いたりすることで、心が汚されないと言うことだが、これもまさに、感覚を守ること。
見たり、聞いたりしたことで、欲が現れることもあるが、怒りが現れることも多くある。自分の嫌なものを見たり、嫌なことを聞くと怒りが現れる。しかし、それらも冷静に対応すると、心を汚されずに済む。
779
「想(表象)をよく知って」。どのようによく知るのか? 感覚器官で苦(不快)や楽(不楽)を感じるのは想(表象)に基づくのである。
想とは五蘊{色(肉体)、受(感覚)、想(表象、記憶)、行(形成作用)、識(識別作用)}の「想」。
想には層がある。顕在記憶、個人的潜在記憶、集団的潜在記憶など。
顕在記憶とは自覚している記憶。潜在的記憶とは、自覚していない記憶。しかし、これは瞑想修行が進んでくると今まで自覚されてない記憶が思い出されて、潜在記憶が顕在記憶になる。
集団的潜在記憶とは、民族あるいは人類が共通して持っている潜在的記憶。
例えば、劣等感などは自覚していない場合も多いので、個人的潜在的記憶。もちろんそれが自覚されれば、顕在意識になる。
本能と言われる部分は集団的潜在的記憶。肉食動物は肉を食べ、草食動物は草を食べるなどは肉体に結びついたより深い集合的潜在的記憶。生命は多くの潜在的記憶に支配されている。
個人的潜在記憶である劣等感のない人は難なくできることも、劣等感のある人には出来ないことが多い。しかし自分の劣等感を自覚して、よく分析して、解決の糸口を見つければ解決できる。想をよく知ってとはそのようなこと。
また、煩悩と言われるものは人類共通の本能。私達の行動は煩悩し支配されている。「想い(想)知りつくして、激流を渡れ」とは、「本能を知り尽くして、本能を乗り越えよ」というような意味。
欲や怒りは生命の本能的な反応だが、決して乗り越えられないものではない。
例えば、性欲は本能だから止められないと思っている人もいるが、それは単なる妄想。そのことをよく理解すれば、止めることが出来る。止めることは出来ないと思っている限りできない。
本能は乗り越えられないというのは迷信、或は偏見。迷信や偏見を自覚して、よく知って、苦をなくし、解脱するためにはこれらを乗り越える必要がある。

(´・(ェ)・`)つ
0141鬼和尚 ◆GBl7rog7bM
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2017/12/01(金) 20:57:28.42ID:nTcGHCpY
分析ではなく観察なのじゃ。
観察すれば六処からも厭離できるのじゃ。
その刺激に囚われなくなるのじゃ。
0142名無しを整える。
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2017/12/01(金) 21:44:07.01ID:VlzX0QzK
>>141
ふむふむ。
確かに、
>ブッダは感覚を六処に分析して教えている。感覚で起こっている現象を漠然と感じると欲望が現れる時の興奮に巻き込まれるが、冷静に分析して見ると欲望の感情に巻き込まれなくなる。

と、言うように、感覚を6つに分析していると言う説明の流れで、
冷静に観察と書くべきところを、分析と書いちゃってるようでありますね。

あくまでも、ありのままを観察せねば、厭離はできぬのでありますね。
肝心なところでありました。
鬼和尚、ありがとうであります。
(´・(ェ)・`)つ
0143名無しを整える。
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2017/12/02(土) 06:29:49.37ID:N6b7bJog
ブッダのことば(スッタニパータ)
第4 八つの詩句の章、3、悪意についての八つの詩句

780 実に悪意をもって(他人を)誹る人々もいる。また他人から聞いたことを真実だと思って(他人を)誹る人々もいる。誹ることばが起こっても、聖者はそれに近づかない。だから聖者は何ごとにも心の荒むことがない。

781 欲にひかれて、好みにとらわれている人は、どうして自分の偏見を超えることができるだろうか。かれは、みずから完全であると思いなしている。かれは知るにまかせて語るであろう。

782 人から尋ねられたのではないのに、他人に向かって、自分が戒律や道徳を守っていると言いふらす人は、自分で自分のことを言いふらすのであるから、かれは「下劣な人」である。と真理に達した人々は語る。
783 修行僧が平安となり、心が安静に帰して、戒律に関して「わたしはこのようにしている」といって誇ることがないならば、世の中のどこにいても煩悩のもえ盛ることがないのであるから、かれは<高貴な人>である、と真理に達した人々は語る。

784 汚れた見解をあらかじめ設け、つくりなし、偏重して、自分のうちにのみ勝れた実りがあると見る人は、ゆらぐものにたよる平安に執著しているのである。

785 諸々の事物に関する固執(はこれこれのものであると)確かに知って、自己の見解に対する執著を超越することは、容易ではない。故に人はそれらの(偏執の)住居のうちにあって、ものごとを斥け、またこれを執る。

786 邪悪を掃い除いた人は、世の中のどこにいても、さまざまな生存に対してあらかじめいだいた偏見が存在しない。
邪悪を掃い除いた人は、いつわりと驕慢とを捨て去っているが、どうして(輪廻に)赴くであろうか?かれはもはやたより近づくものがないのである。

787 諸々の事物に関してたより近づく人は、あれこれの議論(誹り、噂さ)を受ける。
(偏見や執著に)たより近づくことのない人を、どの言いがかりによって、どのように呼び得るであろえか? かれは執することもなく、捨てることもない。かれはこの世にありながら一切の偏見を掃い去っているのである。

(´・(ェ)・`)つ
0144名無しを整える。
垢版 |
2017/12/02(土) 06:35:14.15ID:N6b7bJog
>>143
780
他人や誹謗に対する生き方を示している。自分の主義・主張にとらわれてはならないことを説いている。
仏教以外の修行者たちがブッダの名声を嫉妬して、ブッダに対する悪い評判を立てるように、ある事件を企てた。その時に述べられたと言われている。
781
「悪意八詩句経」の中にこの偈があるのは、「悪意のある人は偏見がある。偏見がある人は悪意を持つ。」という事実があるから。
慈悲の心を妨害しているものは悪意と偏見。
慈悲の心を育てるために必要なことは、自分自身にある悪意を乗り越え、自分自身の偏見を乗り越えることが必要。
「欲にひかれて、好みにとらわれている人」は、「かれは、みずから完全であると思いなしている。」自分の欲や好みが正当ある、それでよいと考えている。当然、自分の欲や好みを変えようとはしない。
自分自身にある偏見を乗り越えることは出来ない。偏見があると悪意が生まれ、慈悲の心は育てられない。
解脱をめざすということは、完全な慈悲の人になること。解脱をめざす人にとっても、偏見を乗り越える重要な課題。そのために、「欲にひかれて、好みにとらわれない」ことが重要。
782
ブッダに立てられた悪評の真相を確かめようと王が僧院に来た。
「自分が戒律や道徳を守っていると言いふらす人」は、自分の自慢をしているようで、自己顕示欲の強い人。道徳を守るようなことは人に自慢することではなく、黙って行うべき。
783
「戒律に関して『わたしはこのようにしている』といって誇ることがないならば、かれは<高貴な人>である、と真理に達した人々は語る。」ということ。
784
毎田先生訳
自分の考えで作り上げたような教えは
汚れたものに過ぎないのに そんなものを尊んで
それを行えばこんなに立派になれると自分を信じている人は
揺れ動くものにある(みせかけの)平安にしがみついているのである

考えて作り上げた教えは決して真理ではないと言うこと。むしろそれらは、思考によって汚れたものになってしまう。思考は相対の世界のもの。
思考があれば必ず、それに反対の思考が現れる。それにより思考は汚れる。ブッダは決して教えなど作らなかった。思考を超えた真理を述べておられる。
(´・(ェ)・`)つ
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2017/12/02(土) 06:36:01.69ID:N6b7bJog
>>143
785
○毎田周一先生訳
「自分がどんなに物事に捉われているかを知り
自分の考えでは駄目だと気付くのは実に難しい
だから人は立場にこだわって
真理を捨てたり掴んだりする」

なぜ「自分がどんなに物事に捉われているかを知る」ことは難しいのか?
自分が捉われていることは、自分にとって当たりませのことだから。あまり当たり前のことは気が付きにくい。
「自分の考えでは駄目だと気付くのは実に難しい」についてはどうか。
ほとんどの人は自分の考えは正しいと思って行動している。もし、自分の考えは正しくないと思ったならば、その考えを修正するはず。修正する以前は自分の考えは正しいと思っている。だから自分の考えは駄目だと思えない。
その結果、自分の判断に従って、真理まで排斥したり、受け入れたりする。これでは真理を知ることはできない。
それでは、どうしたらよいのか? 
人生、上手く行かない時の方は多い。失敗したり、困難に出会ったり、病気したり、辛い苦しい時も多い。そのような時に、それにめげないで、自分の考え方を見直してみる。
それで、自分のこだわりや自分の考えの駄目なところが分かってくる。その時がチャンス。分かってくれば、自分の考え方を修正することができる。失敗や困難は有り難いもの。
786
○毎田周一先生訳
「清められた人は この世の何処にいても
あれこれのことを自分で作り出した考えにあてはめてみるようなことはしない
だから清められた人は いつわりと思い上がりとからすっきりと離れている
この何にもとりついていない人が「何処かへ行く」ということがあるだろうか」

「さまざまな生存に対してあらかじめいだいた偏見が存在しない」→「自分で作り出した考えにあてはめてみるようなことはしない」=清浄な人には偏見がないということ。
清浄な人には、いつわり(〔欺瞞の〕幻想)と思い上がり(慢心)がない。
『何処かへ行く』ということがあるだろうか」とは、このような清浄な人は、輪廻をするということがあろうか、輪廻はしないと述べている。
すなわち、悪意から離れた人は偏見から離れ、欺瞞や慢心がなく、輪廻を繰り返すことのないということ。
787
○毎田周一先生訳
「物にとりつく人は言い争うが
何にもとりつかぬ人を どうして何を問題として論争に引入れることができるだろうか
この人は物に実体があるかないか そんな考えにはもう捉われてはいない
そこにはこの世にある限りの一切の偏見がなくなっている」

清められた人、清浄な人、「何にもとりつかぬ人」或るは「(偏見や執著に)たより近づくことのない人」は、論争に引きいれることは出来ない。
なぜならば、こだわり、執着のない人はどんな意見にも対立しないから。対立がなければ議論が成り立たない。
パーリ語の「Att niratt」の訳は「得たもの 捨てたもの」とも「我 非我」とも訳せる。中村先生は、前者の訳を取り、正田先生は後者の訳を取り、毎田先生は、 「物に実体があるかないか」と訳した。
清浄な人はこの対立する二つの立場にこだわらないのだから、結局はどの訳でもよいということになる。
結論は、清浄な人は「この世にある限りの一切の偏見がなくなっている」ということ。
(´・(ェ)・`)つ
0147名無しを整える。
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2017/12/03(日) 07:32:18.34ID:wMYf4bPZ
ブッダのことば(スッタニパータ)
第4 八つの詩句の章、4、清浄についての八つの詩句

788 「最上で無病の、清らかに人をわたくしは見る。人が全く清らかになるのは見解による」と、このように考えることを最上であると知って、清らかなことを観ずる人は、(見解を、最上の境地に達し得る)智慧である。

789 もしも人が見解によって清らかになり得るのであるならば、あるいはまた人が知識によって苦しみを捨て得るのであるならば、それは煩悩にとらわれている人が(正しい道以外の)他の方法によっても清められることになるであろう。
このように語る人を「偏見ある人」と呼ぶ。

790 (真の)バラモンは、(正しい道の)ほかには、見解・伝承の学問・戒律・道徳・思想のうちのどれによっても清らかになるとは説かない。かれは禍福に汚されることなく、自我を捨て、この世において(禍福の因を)つくることがない。

791 前の(師など)を捨てて後の(師など)にたより、煩悩の動揺に従っている人々は、執著をのり超えることがない。かれらは、とらえては、また捨てる。猿が枝をとらえて、また放つようなものである。

792 みずから誓戒をたもつ人は、思いに耽って、種々多様なことをしようとする。しかし智慧ゆたかな人は、ヴェーダ(実践的認識)によって知り、真理を理解して、種々多様なことをしようとしない。

793 かれは一切の事物について、見たり学んだり思索したことを制し、支配している。このように観じ、覆われることなしにふるまう人を、この世でどうして妄想分別させることができようか。

794 かれははからいをなすことなく、(何物かを)特に重んずることもなく、「これこそ究極の清らかなことだ」と語ることもない。結ばれた執著のきずなをすて去って、世間の何ものについても願望を起すことがない。

795 (真の)バラモンは、(煩悩の)範囲をのり超えていてる。かれが何ものかを知りあるいは見ても、執著することがない。
かれは欲を貪ることなく、また離欲を貪ることもない。かれは(この世ではこれが最上のものである)と固執することもない。

(´・(ェ)・`)つ
0148名無しを整える。
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2017/12/03(日) 08:28:07.03ID:wMYf4bPZ
>>147
788
○毎田周一先生訳
「私はここに最上の つまり煩いをすっかり離れた 清らかさを見る
そして人は物の見方で清らかになることが出来る」と
このように考えて 「最上のこと」がそこにあると知り
そんなことを 清らかさを見ていると称する人が 智慧だと信じ込んでいる

今回の偈はブッダの考え方を述べたものではない。ブッダが、世間には清浄についてこのように考えている人々がいることを示されている。
ここでの「私」は世間の一般の人。仏教以外の人と考えても良い。他にも「私は清浄を最高の無病(健康)と見ます。」とも訳せる。
物の見方=見解によって清浄になる。
見られたもの、見た対象によって清浄になる。=見ることによって(正田先生の訳)だと、清浄な人を見ると清浄になると理解される。
各自自分の考えが最上であると納得する。
それが智慧であると信じ込んでいるのだと述べている。
自分の以外のものによって自分が清浄になるということになる。

789
○毎田周一先生訳
「もしも人がその人の物の見方によって清らかとなったり
あるいはまた智慧によって苦しみを捨てるというのであれば
盲目の命を拠り処としているものが 何か他のことによって清められるということになる
そんなことをいう人を偏見の持主というのである」
物の見方(見解)によって清らかになるのではないとブッダは説かれている。
「何か他のこと」とは何か? なぜ他のことで清められないのか? では、どうしたら清められるのか? 
「何か他のこと」とは、790番の偈で明示される。
「なぜ他のことで清められないのか?」「もし、見られたものによって、人の清浄が有るなら、」、この意味を具体的に示せば、清浄な花を見ると、人は清浄になるということ。
逆に不浄なものを見れば人は不浄になるということだすから、そのようなことで人が清浄になるというのはおかしい。人が清浄になるとはそのようなことを言うのではない。
「どうしたら清められるのか?」は「清浄八詩句経」全体で答える問題。

中村先生「それは煩悩にとらわれている人」、毎田先生は「盲目の命を拠り処としているもの」、正田先生は「依り所(依存の対象)を有する者」。
パーリ語sopadhkoの辞書の訳は「有依者」、三先生がその意味を考えて訳された。

○毎田周一先生訳
790.
「道に達した人は 他のことを
即ち知識とか学問とか徳行とか思想とかを清らかであるとはいわない
そして善いことにも悪いことにも染まらず
この世で何かを作り出そうとせず 既に身についているものをみな払い捨ててしまう」

789で清められると考えられる「他のこと」が明示される。
中村先生訳、「見解・伝承の学問・戒律・道徳・思想」、
正田先生訳、「見られたものについて、聞かれたものについて、戒や掟(執着の対象に成り下がった宗教行為)について、あるいは、思われたもの(我執の思いで対象化され他者化した認識対象)ついて」。

1.見解=見られたもの
2.伝承の学問=聞かれたもの
3.戒律・道徳¬=戒や掟
4.思想=思われたもの
つまり、これらのもので清らかになることはないと言うことです。

そうではなくて、「そして善いことにも悪いことにも染まらず、この世で何かを作り出そうとせず 既に身についているものをみな払い捨ててしまう。」ことで清らかになるのだと説かれている。

上記1.2.3.4.は八正道の正見、正思、正語、正業と関わりのある項目であるので、これらのよって、仏教徒は清められると考える。
しかし、これらの事柄についても教条的にこだわるならば、清めるどころか汚してしまうということに注意して、八正道についても正しく理解することが必要。
1.見解、2.学問については751偈で、3.戒律については752偈で、4.思想については753偈で解説されている。

パーリ語brhmaoを、三訳者は単にバラモンとはせずに、「道に達した人」、「(真の)バラモン」、「〔真の〕婆羅門(人格完成者)」として、ブッダと同じ見解を持つバラモンであることに注意している。

(´・(ェ)・`)つ
0149名無しを整える。
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2017/12/03(日) 08:53:48.14ID:wMYf4bPZ
>>147
○毎田周一先生訳
791.
「前のものを捨てては次のものを掴み
落着きなく動き廻る人達は 捉われを離れていない
彼等は◯(掴?)まえてはまた投げすてる
丁度猿が木の枝を放しては掴むように」

790偈で述べた見解、学問によって清められると考える人達への批判。
そのような人達は、その見解、学問に執着している。そのように考えると、パーリ語で「前の」或は「後の」とのみ書かれている所は、「前の師、教義」、或は「後の師、教義」を意味していると考えられる。
師や教義に執着していても、このような人々は自分の心の動揺で、前の師を捨て、後の師を掴み依存するということを行う。
それは、まさに猿がこちらの枝を放し、あちらの枝を掴むようだと辛辣に批判している。このようなありさまだから、見解、学問によって清められることはない。

○毎田周一先生訳
792.
「自ら戒律をきびしく守る人は
自分だけの思いに捉われて思い上ったり卑下したりする
しかし賢い人は深い智慧によって真理を悟り
広やかな明るい心で 思い上りもせずまた卑下もしない」

戒律によっても、清められないということ。戒律をきびしく守る人は、往々にして戒律を守ることに執着している。その時戒律を守る意義を理解されていない。
戒律を守ることは、慈悲の実践。生命を殺さないことも、与えられてないものを取らないのも、不倫など邪な行為をしないのも、嘘をつかないのも、相手の生命を慈しむ行為。相手や自分の自由を束縛するものではない。
そこを忘れて、戒律を守ることだけに意義を求めることになっている人がいる。そのような人は、戒律を守っているからと言って自分を誇り、守らない人を見下す。このようなことは清められてとは言わない。
ブッダの弟子にデーヴァダッタというブッダの従兄弟がいた。彼は僧団(サンガ)の戒律をきびしくするようにブッダに提案しましたが、受け入れてもらえず、何人かの比丘とサンガを分裂させようとした。
それでブッダを怨み、殺そうとまでした。そのため、地獄落ちることになった。戒律はきびしくすれば善いというものではない。もちろん、それで清められるものではない。

パーリ語uccvaca gacchati〈高低に行く〉の訳を、毎田先生は「思い上ったり卑下したりする」、中村先生は「種々多様なことをしようとする」、正田先生は「〔迷いのままに〕高下に赴く」
パーリ語saasatto(想に執着し)は正田先生の「〔自分勝手な〕表象(想:概念・心象)に執着し、」が正確で分かりやすい。
戒律を守ることにも執着せずに、聖智に真理を悟った人は広い智慧があるので、思い上ったり卑下したりすることはなく、どんな場合でも冷静落ち着いるといということ。このような人を清められた人という。

○毎田周一先生訳
793.
「彼はどんなことに向っても
見たり学んだり考えたりしたことで自分を武装せず
物事をありのままに見 明るい心で生活してゆく――
だからこの人は世間の人がこういう人だと掴もうとしても 決して掴まえられない人である」

見たり、聞いたり、考えたことで清められることがないことについて述べた偈。

パーリ語、visenibhto(敵対することなき)を、毎田先生は「自分を武装せず」、中村先生は「制し、支配している」、正田先生は「敵対という有り方を離れている」と訳された。
ちなみに、注釈書には、Seni(魔軍)とは心中の賊のことで、不善、煩悩の類である。魔軍を離れているとは、「煩悩の魔軍を離れている」、「煩悩を離れている」、結局は、「捉われない」ということ。
「vivaa caranta」(隠すことなく行ずる)です。毎田先生は「明るい心で生活してゆく」、中村先生は「覆われることなしにふるまう人」、正田先生は「〔迷妄の覆いが〕開かれた者として行じおこなう者」と訳された。
「vikappayeyya」(分別するであろうか)毎田先生は「掴もうとしても 決してまえられない」、中村先生は「どうして妄想分別させることができようか」、正田先生は「想い描くというのだろう(執着の対象として想い描かれることもない)」

この偈の意図は「見たり、聞いたり、考えたことで清められることがない」ことについて述べたもの。

(´・(ェ)・`)つ
0150鬼和尚 ◆GBl7rog7bM
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2017/12/03(日) 21:39:11.97ID:KkQJJ4Ue
毎回書いているからもはやわかっているじゃろうが、見解ではなく観察なのじゃ。
人は観察によって清められるのじゃ。
そうであるからありのままに見るというのじゃ。
これほど明確に書かれているのに気付かないとはおかしなことじゃ。
0151名無しを整える。
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2017/12/03(日) 21:50:33.75ID:wMYf4bPZ
>>150
鬼和尚、こんばんは。
ここでは、「見解」によって清浄になったり悟りに導かれたりすることはないと、説明されてるようでありますよ。
(´・(ェ)・`)つ
0152名無しを整える。
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2017/12/04(月) 18:46:25.76ID:nooSGTSl
ブッダのことば(スッタニパータ)
第4 八つの詩句の章、5、最上についての八つの詩句

796 世間では、人は諸々の見解のうちで勝れているとみなす見解を「最上のも」のであると考えて、それよりも他の見解はすべて「つまらないものである」と説く。それ故にかれは諸々の論争を超えることがない。

797 かれ(=世間の思想家)は、見たこと・学んだこと・戒律や道徳・思索したことについて、自分の奉じていることのうちのみすぐれた実りを見、そこで、それだけに執著して、それ以外の他のものをすべてつまらぬものであると見なす。

798 ひとが何か或ものに依拠して「その他のものはつまらぬものである」と見なすならば、それは実にこだわりである、と<真実に達した人々>は語る。
それが故に修行者は、見たこと・学んだこと・思索したこと、または戒律や道徳にこだわってはならない。

799 智慧に関しても、戒律や道徳に関しても、世間において偏見をかまえてはならない。自分を他人と「等しい」と示すことなく、他人より「劣っている」とか、或いは「勝れている」とか考えてはならない。

800 かれは、すでに得た(見解)[先入見]を捨て去って執著することなく、学識に関しても特に依拠することをしない。人々は(種々異なった見解に)分かれているが、かれは実に党派に盲従せず、いかなる見解をもそのまま信ずることがない。

801 かれはここで、両極端に対し、種々の生存に対し、この世についても、来世についても、願うことがない。諸々の事物に関して断定を下して得た固執の住居は、かれには何も存在しない。

802 かれはこの世において、見たこと、学んだこと、あるいは思索したことに関して、微塵ほどの妄想をも構えていない。いかなる偏見をも執することのないそのバラモンを、この世においてどうして妄想分別させることができるであろうか?

803 かれらは、妄想分別をなすことなく、(いずれか一つの偏見を)特に重んずるということもない。
かれらは、諸々の教義のいすれかをも受け入れることもない。バラモンは戒律や道徳によって導かれることもない。このような人は、彼岸に達して、もはや還ってこない。

(´・(ェ)・`)つ
0153名無しを整える。
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2017/12/04(月) 18:56:14.92ID:nooSGTSl
>>152
○毎田周一先生訳
796.
「世間の人は自分の重んじるものを
「最上のもの」とする考えを離れず
それ以外のものをすべて「劣っている」という
だから人は論争から離れることが出来ない」

人の判断基準は、それぞれ異なるから、最上と思う見解も異なる。そのため、論争が起こり、論争から離れることが出来ない。これがこの世の中の実情。

○毎田周一先生訳
797.
「知識や学問や徳行や思想の
優れた成果が 自分の中にあると思っているものは
それらのことだけを自分でつかまえて
その外のすべてのものは劣っていると見る」

「自分の重んずるもの」或は「優れていると見なす見解」を少し具体的に示されている。すなわち、知識(見たこと)、学問(学んだこと)、徳行(戒律や道徳)、思想(思索したこと)。
「清浄八詩句経」において、これらによって清浄にならないと述べられてるもの。

○毎田周一先生訳
798
「自分の立場にとりついて外のものを劣っていると見る人自身が
それこそ束縛そのものだと賢い人はいう
だから修行者は知識や学問や思想や
徳行などを頼みとしてはならない

自分以外に何かに依存するということは、その何かに束縛されているということを知るべき。
自分の師あるいはある学説に依存して、他のものを劣っていると言うならば、自分の師あるいはある学説に束縛されている。そのことを知って、修行者(比丘)は依存しないように述べている。
具体的には見たこと(知識)、学んだこと(学問)、思索したこと(思想)、戒律や道徳(徳行)にこだわってはならないと説かれている。これらによって清らかにならないし、最上にはならないのである。

○毎田周一先生訳
799.
「智慧についても徳行についても
世の人と自分を比べて一面的な考えをもってはならぬ
即ち自己を「等しい」ものだとみたり
また「劣った」ものとか「勝れた」ものとか考えたりしてはならぬ」

いかなる生命も対等・平等。それが生命の尊厳。それを本当に分かることが解脱。で仏教の教えはすべて、この「すべての生命は対等・平等である。」ということを前提にしている。
智慧があるとか道徳を守っているとかという理由で、生命をランクづけられないと言うこと。だから、自分と他人を比較して、「等しい」とか、「劣っている」とか「勝っている」とか言うことは仏教の教えに反している。
自分が他人より勝っていると勝手に考えて高慢になることも、他人により劣っていると考えて卑下することも、他人と同等だと考えて安心すると言う態度も、仏教では戒められている。
他人と比較する人々は、比較する相手によって、高慢になったり、卑下したり、心が揺れ動きいつも不安な状態にあり、苦しみが付いて回る。

○毎田周一先生訳
800.
「既に身についているものを捨てて何も掴まず
智慧についても一定の立場をとらない人は
意見の違いから分裂した人達の中でどちらの側にもつかず
どんな考え方もそれを鵜呑みにしない」

一行目、パーリ語の直訳で「自己を捨棄して、執取せずにいる者は」毎田先生は「既に身についているものを捨てて」と説明し、中村先生は「すでに得た(見解)[先入見]を捨て去って」と訳された。
自己とは、「既に身についているもの」或は「すでに得た(見解)[先入見]」と解釈している。
このような状態を「色眼鏡をかけている」という比喩で表現される。世の中をありのままに正しく見るためには、色眼鏡を外さなければならない。それが自己を捨ててということ。別の言葉で言えば、自我を捨てるということ。
パーリ原文の二行目epiのeは、毎田先生は「智慧」、中村先生は「学識」、正田先生は「知恵」と訳されたが、悟りの智慧(pa)とは異なる。「悟りに関する知識」と言ったような意味。
だから、ここの意味は「悟りに関する知識にも依存しない」という意味になる。
徹底して、自分の先入見や知識、悟りに関する知識などを排除して、それらに依存しないという態度が示されている。
しかし、多くの人々は自分の先入見や知識、悟りに関する知識などに依存し、それに執着しているから、個人が異なれば、当然意見・見解は異なり、お互いに対立し、論争する。
(´・(ェ)・`)つ
0154名無しを整える。
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2017/12/04(月) 19:01:34.19ID:nooSGTSl
>>152
○毎田周一先生訳
801.
「彼はここでこの世とあの世のどちらにも
あのようにまたこのように生きたいとは願わない
しかも色々な事をよく見ているので
それにとりつく立場を何ももってはいない」

仏教では願望を持たないことの方を重視しする。
願望や欲望は幸福をもたらすものではなく、むしろ人々の苦しみの原因になることを知るべき。
この世ではあのよう生きよう、このように生きようと望まない、そしてあの世については天界に生まれ変わりたいとか、また人間界に生まれ変わりたいとか望まない。
すなわち、自然な成り行きに任せるということ。無為自然な生き方をすること。
また、もの事にたいして、主観的な判断、断定をして、固定した立場を取らない、何事にも執着しないと言うこと。このような態度が自由自在な幸福な生き方だと述べている。

○毎田周一先生訳
802.
「だから彼には自分で考え出した
知識や学問や思想の影すらもない
このように道に達した人がどんな考えにもとりついていないとき――
世間の人が彼をこういう人だと掴まえようとしても 決して○(掴?)まえられるものではない」

801の偈の「彼」は、「この世でも あの世についても 願わない 断定しない 彼は無立場」のような無立場であり、自由自在。
そのような彼について、802の毎田先生の訳では「世間の人が彼をこういう人だと掴まえようとしても 決して○(掴?)まえられるものではない」、世間の人は彼を理解できないということ。
中村先生の訳では「(彼を)この世においてどうして妄想分別させることができるであろうか?」「彼は妄想分別をしない」という意味になる。世間の人は妄想分別する人ですので、世間の人は妄想分別しない人を理解できないという意味なる。
訳の仕方が、毎田先生と中村先生とは違いますが、二人とも「彼(バラモン)」と「世間の人」の違いが述べられているのです。
世間の人は、分別(思考)するから、相対的な現象の世界しか理解できない。彼(バラモン)が到達したあらゆる見解、妄想分別から離れた真理の世界を理解できないということ。

○毎田周一先生訳
803.
「彼等は何も当てにせず 何かを取り出してあがめもしない
色々の教えさえも彼等は受けない
このように道に達した人達は 徳行などを人生の筋道として生きてゆかない
このような人は既に彼岸に渡って もう帰って来ない」

毎田先生の訳、「彼等は何かを当てにせず 又何かを取り出してあがめることもなく」、中村先生は「かれらははからいをなすことなく、(何物かを)特に重んずることもなく、」。正田先生は「〔特定の何かを〕想い描かず、〔特定の何かを〕偏重せず、」
「清浄八詩句経」では、この一行目を前提にしても、彼等のどのようなになったかの結論は出ていなかった。
しかし、今回の「最上八詩句経」では、このような人は「彼岸に達して、もはや還ってこない。」という結論が明確。すなわち彼等は解脱して、輪廻を脱して、もう生まれかわることがない。
(´・(ェ)・`)つ
0155名無しを整える。
垢版 |
2017/12/04(月) 19:05:16.71ID:nooSGTSl
>>150
今回も、
一切の見解を否定してると解説してるようであります。
(´・(ェ)・`)つ
0156鬼和尚 ◆GBl7rog7bM
垢版 |
2017/12/04(月) 20:52:27.74ID:NTqKcN2G
見解を否定すると言う見解に囚われているのじゃ。
観察にはたどり着いていないのじゃ。
見解を否定するならば、何をすれば善いのかということを知らないのじゃ。
ただひたすらに観察あるのみなのじゃ。
0157名無しを整える。
垢版 |
2017/12/04(月) 21:19:13.02ID:nooSGTSl
>>156
790の解説で、
>1.見解=見られたもの
2.伝承の学問=聞かれたもの
3.戒律・道徳¬=戒や掟
4.思想=思われたもの
つまり、これらのもので清らかになることはないと言うこと。

そうではなくて、「そして善いことにも悪いことにも染まらず、この世で何かを作り出そうとせず 既に身についているものをみな払い捨ててしまう。」ことで清らかになるのだと説かれている。

上記1.2.3.4.は八正道の正見、正思、正語、正業と関わりのある項目であるので、これらのよって、仏教徒は清められると考える。
しかし、これらの事柄についても教条的にこだわるならば、清めるどころか汚してしまうということに注意して、八正道についても正しく理解することが必要。

と、いい線まで行ってるようなのでありますが、
>既に身についているものをみな払い捨ててしまう。」ことで清らかになる
と言うだけでは、ちょぴっと乱暴なような気もするでありますし、
確かに、
>観察にはたどり着いていない
で、ありますね。
鬼和尚のお陰で、くまはたどり着けてるであります。
(´・(ェ)・`)b
0158名無しを整える。
垢版 |
2017/12/05(火) 18:25:15.10ID:sZhb/jyf
ブッダのことば(スッタニパータ)
第4 八つの詩句の章、6、老 い

804 ああ短いかな、人の生命よ。百歳にたっせずせして死す。たといそれよりも長く生きたとしても、また老衰のために死ぬ。

805 人々は「わがものである」と執著した物のために悲しむ。(自己の)所有しているものは常住ではないからである。この世のものはただ変滅するものである、と見て、在家にとどまってはならない。

806 人が「これはわがものである」と考える物、──それは(その人の)死によって失われる。われに従う人は、賢明にこの理を知って、わかものという観念に屈してはならない。

807 夢の中で会った人でも、目がさめたならば、もはやかれを見ることができない。それと同じく、愛したひとでも死んでこの世を去ったならば、もはや再び見ることはできない。

808 「何の誰それ」という名で呼ばれ、かつては見られ、また聞かれた人でも、死んでしまえば、ただ名が残って伝えられるだけである。

809 わがものとして執著したものを貪り求める人々は、憂いと悲しみと慳(モノオシ)みとを捨てることがない。それ故に諸々の聖者は、所有を捨てて行って安穏(アンノン)をみたのである。

810 遠ざかり退いて行する修行者は、独り離れて座所に親しみ近づく。迷いの生存の領域のうちに自己を現さないのが、かれにふさわしいことであるといわれる。

811 聖者はなにものにもとどこおることなく、愛することもなく、憎むこともない。悲しみも慳(モノオシ)みもかれを汚すことがない。譬えば(蓮の)葉の上の水が汚されないようなものである。

812 たとえば蓮の上の水滴、あるいは蓮華の上の水が汚されないように、それと同じく聖者は、見たり学んだり思索したどんなことについても、汚されることがない。

813 邪悪を掃い除いた人は、見たり学んだり思索したどんなことでも特に執著して考えることがない。かれは他のものによって清らかになろうとは望まない。かれは貪らず、また嫌うこともない。

(´・(ェ)・`)つ
0159名無しを整える。
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2017/12/05(火) 18:58:23.18ID:sZhb/jyf
>>158
○毎田周一先生訳
804.
まことに人生は短い
百歳にならないうちに死んでしまう
たとえそれ以上に生きたとしても
しかし彼は老衰のために死ぬ
この経は、「老」について述べた経ではない。もしこの経の題名を内容から作るとしたら、「清浄な人経」或は「最上な人経」。
この経の冒頭で、寿命が短いことが述べられたのは、人生は短いのだから、いかに生きるかが重要であるという問題提起である。生きている時間を無駄に使ってはいけないということ。
○毎田周一先生訳
805.
人々はわがものと思うもので悲しむ
何故ならひとの所有するものはいつもそこにあるものでもなく
又成長する一方のものないから――
これを思えば世間の生活に留まってはいられない筈である
人々は「わがものである」と執着したもののために悲しむということ。何故か?所有しているのは常住ではないからだと言う。
どんなものも無常でだから変化する。そして最後は壊れて、消えてしまうから、「わがもの」と思っていてもなくなってしまう。わがものがなくなれば悲しい。
この悲しみを乗り越えるためには、「わがもの」という思いを克服しなければならない。
参考)<777>
「わがもの」という思いの最大のものの一つに家がある。
正田先生訳は「家に住み止まらないように。」、中村先生訳は「在家にとどまってはならない。」となり、これは出家せよということになる。
出家しなくとも、在家の生活でも今までと同じように続けていけない。今までの生活を改善して精進せよということになる。
○毎田周一先生訳
806.
人が「これはわがもの」と思っているものも
その人が死ねばどこかへいってしまう
このことを明らかに知って 私に従う人は
ものを自分のものにしようと夢中にならぬがよい
「わがもの」という思いは「死によって失われる」。
人間は五蘊によって構成されている。五蘊とは、色(肉体)、受(感覚)、想(表象)、行(形成作用)、識(認識)。人間が死ぬと人間を構成する五蘊のそれぞれが失われる。
「わがもの」という思いは想(表象)だから、これもなくなる。死ぬと「わがもの」という思いのみならず、肉体も感覚もその他の表象も形成作用も認識もなくなる。
賢者はこのことを知って、いずれは「わがもの」という思いを失うのだから、死ぬ前に、この思いに執着しないで、捨てた方がよいと説かれている。
これにより悲しみの原因の一つを捨てることが出来る。
参考)ダンマパダ第6番の偈。
「われらは、ここにあって死ぬはずのものである」と覚悟しよう――このことわりを他の人は知っていない。しかし、このことわりを知る人々があれば、争いはしずまる。
○毎田周一先生訳
807.
たとえば夢であった人を
目が醒めれば もう人は見ないように
それと同じくどんなに好きだった人でも
その人が死んでしまえばもう見ることが出来ない。
「わがもの」という思いが死とともになくなることを、夢でたとえて説明。夢の世界が、この世で生きている世界。夢から覚めることはこの世で死ぬことを意味している。
夢の世界であった人(=この世であった人)に、夢から覚める(=この世で死ぬ)と、会うことが出来ないということ。これとおなじように、「わがもの」という思いもこの世で死ぬとなくなってしまう
「わがもの」という思いもこの世で死ぬとなくなってしまう。
「わがもの」という思いは夢のようなもの。夢だから執着する意味はない。
○毎田周一先生訳
808.
その人の名を何々と呼んで
人が現実にその人を見 その声を聞いた人々も
死んだ人といわれるようになっては
もう名ばかりが残る
私たちは自分の名前は自分のものだと考えている。また自分の名前に特別の愛着がある。自分の名前は自分のものだと思っている。
自分の名前も単なる記号。特別な実体があるわけではなく、その名前の人がなくなれば、残るものは名前だけ。
その他の「わがもの」と思っているものも、名前と同じように、単なる思いだけで、実体のない空虚なもの。執着するに値しないし、これらも無常だから、執着できないもの。
(´・(ェ)・`)つ
0160名無しを整える。
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2017/12/05(火) 19:01:17.28ID:sZhb/jyf
>>158
○毎田周一先生訳
809.
わがものと思うものと貪り求める人は
憂い悲しみねたむ心を離れることが出来ない
だからやすらぎがどこにあるかを見た静かな人達は
持ちものを捨てて行ったのである
何故、「わがもの」という思いがあると憂いと悲しみから離れられないのか?
この世の一切のものは無常だからである。「わがもの」という思いがあれば、大切にしていた我が物は必ず変化して、古くなり、色、形が変化し、終いには壊れてなくなってしまう。そうすれば、憂い悲しみの結果になる。
また、「わがもの」という思いがあると、何故物惜しみから離れないのか?
そもそも物惜しみとは、自分のものを他人にあげたり、使われたくないという気持ち。
物惜しみは自分にない物を欲しがる気持ちとは少し違う。自分の物を他人にあげたくないというケチな気持ち。その心があると、他人と物を分け合ったり、慈しみの持つことが出来ない。
だから、聖者たちは、「わがもの」という思いを捨てて、慈しみのある、平安な生活を行う。
○毎田周一先生訳
810.
この世を遠く離れて修行する者が
いよいよ世を超える心に生きて
この世間に顔を出すようなことがなければ
そこに彼にとって円かな世界が現れたのだといってよい
「パーリ語仏教辞典」の中に書かれている雲井昭善先生の訳。
「人里離れた坐所に親近し、厭い退いて行じる比丘(無滞着の比丘)、かれが生存の中にも自己をあらわさないなら、かれにとってそのことがふさわしい、と人々はいう。」これは
中村先生訳、「独り離れて座所に親しみ近づく」、毎田先生は「いよいよ世を超える心に生きて」としている。
中村先生訳、「遠ざかり退いて行する修行者」の「遠ざかり」は何から遠ざかりか明記していないが、正田先生は「欲望の対象から」という意味にとっている。毎田先生はこの世から遠ざかりとし、雲井先生は人里からの遠ざかりと訳した。
四行目を中村先生やその他の先生は「かれにふさわしいことであるといわれる。」としていまるが、毎田先生は、「そこに彼にとって円かな世界が現れたのだといってよい」と訳されている。
円かな世界とは涅槃のこ。「彼にふさわしいこと」とは涅槃の境地にいることが彼にふさわしいということ。
「迷いの生存の領域のうちに自己を現さないのが」或は「彼が、〔迷いの〕生存域において、〔彼の〕自己を見せないなら」或は「かれが生存の中にも自己をあらわさないなら」等の訳は涅槃の境地であると言っていることになる。
(´・(ェ)・`)つ
0161名無しを整える。
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2017/12/05(火) 19:02:01.03ID:sZhb/jyf
>>158
○毎田周一先生訳
811.
静かな人は どこへいっても捉われがなく
好き嫌いをいわない
葉の上で水が染まらぬように
悲しみもねたみも彼をよごさぬ
毎田先生は、muniを聖者あるいは牟尼とは訳さず、一貫して「静かな人」と訳される。muniには「沈黙して修行する聖人」という意味がある。ブッダがmuniという言葉を使われる時は覚った方を指している。
二行目の直訳は「愛を作らない、不愛を作らない」。これを「好き嫌いをいわない」或は「愛することもなく、憎むこともない。」或は「愛しいものを作らず、また、愛しくないものも〔作ら〕ない。」と訳される。
聖者は何ものにも依存せず、捉われがなく、「好き嫌いをいわない」あるいは「愛することもなく、憎むこともない」
それをイメージすると、ハスの葉の上に落ちた水が小さな水玉になって、水が葉を濡らすこと出来ないような状態だと言う。
○毎田周一先生訳
812.
蓮の葉の上で水滴が
蓮の葉の上で水が 染まらぬように
それと同じく静かな人は
知識にも学問にも思想にもそまらない
聖者(静かな人)は、見たこと(知識)、聞いたこと(学問)、考えたこと(思想)に依存しない、影響されないということ。あらゆる固定観念に拘束されずに、自由であるということ。
○毎田周一先生訳
813.
清らかになった人は 知識や学問や思想を
これがなければなどとは考えない
彼は他のことによって清らかになろうとは思わない
何故なら彼は貪ることにも 貪らぬことにも 共に執著していないから
今回の偈で「老経」が終わる。ブッダの教えはすべて、人々を解脱に導くものだから、老経の最後の偈はそのためのまとめ。
「清らかになった人は 知識や学問や思想をこれがなければなどとは考えない」
見ること(知識)、聞くこと(学問)、考えたこと(思想)によって解脱することは出来ない。
「他のことによって清らかになろうとは思わない」の「他のことによって」とは知識、学問、思想など以外のものによっても解脱できるとは思わない、すなわち自分自身によって解脱するということ。
四行目で解脱の仕方について述べられている。
「貪ることにも 貪らぬことにも 共に執著していない」ことで解脱する。
「貪らず、また嫌うこともない」ことで解脱する。
「〔欲に〕染まらず、離貪もしない」ことで解脱する。
(´・(ェ)・`)つ
0162名無しを整える。
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2017/12/05(火) 19:06:18.83ID:sZhb/jyf
>>150
鬼和尚、こんばんは。
>これほど明確に書かれているのに気付かないとはおかしなこと

中村元先生の訳文の中で、例えばどの辺りが、「観察」の重要性をのべてることになるのでありましょうか?
(´・(ェ)・`)つ
0163鬼和尚 ◆GBl7rog7bM
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2017/12/05(火) 22:15:57.64ID:QNWO/xNH
777 (何ものかを)わがものであると執著して動揺している人々を見よ。(かれらのありさまは)ひからびた流れの水の少ないところにいる魚のようなものである。
これを見て、「わがもの」という思いを離れて行うべきである。──諸々の生存に対して執著することなしに。

778 賢者は、両極端に対する欲望を制し、(感官と対象との)接触を知りつくして、貪ることなく、自責の念にかられるような悪い行いをしないで、見聞することがらに汚されない。

779 想いを知りつくして、激流を渡れ。聖者は、所有したいという執著に汚されることなく、(煩悩の)矢を抜き去って、勤め励んで行い、この世もかの世も望まない。

 この辺じゃな。
 知り尽くしてというのは本当は観察して知り尽くすのじゃ。
 それは知識を求めるのではないのじゃ。
 厭離のために観察して知り尽くすのじゃ。
0164名無しを整える。
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2017/12/06(水) 17:48:04.37ID:z6PdO8Yv
>>163
鬼和尚こんばんは。
くまが引用してる解説では、
>>161
>解脱の仕方について・・・。
「貪ることにも 貪らぬことにも 共に執著していない」ことで解脱する。
「貪らず、また嫌うこともない」ことで解脱する。
「〔欲に〕染まらず、離貪もしない」ことで解脱する

執着しない、貪らなという と言うことのみを方法論として解説しており、
その執着や貪りからどうやって離れるかを解説してないようでありますね。

テラワダの立場からの解説なので、ヴィパッサナ-(観)は基本のはずなので、前面にだして説明すればよいのに、それをしてないようであります。

鬼和尚の補足が必要なようであります。
(´・(ェ)・`)つ
0165名無しを整える。
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2017/12/06(水) 17:49:34.25ID:z6PdO8Yv
ブッダのことば(スッタニパータ)
第4 八つの詩句の章、7、ティッサ・メッテイヤ

814 ティッサ・メッテイヤさんがいった、──「きみよ。婬欲の交わりに耽る者の破滅を説いてください。あなたの教えを聞いて、われらも独り離れて住むことを学びましょう。」

815 師(ブッダ)は答えた、「メッテイヤよ。婬欲の交わりに耽る者は教えを失い、邪まな行いをする。これはかれのうちにある卑しいことがらである。

816 かって独りで暮していたのに、のちに婬欲の交わりに耽る人は、車が道からはずれたようなものである。世の人々はかれを『卑しい』と呼び、また『凡夫』と呼ぶ。

817 かってかれのもっていた名誉も名声も、すべて失われる。このことわりを見たならば、婬欲の交わりを断つことを学べ。

818 かれは諸々の(欲の)想いに囚われて、困窮者のように考えこむ。このような人は、他人からのとどく非難の声を聞いて恥いってしまう。

819 そうして他人に詰られたときには虚言に陥る。すなわち、[自らを傷つける]刃(悪行)をつくるのである。これがかれの大きな難所である。

820 独りでいる修行をまもっていたときは一般に賢者と認められていた人でも、もしも婬欲の交わりに耽ったならば、愚者のように悩む。

821 聖者はこの世で前後にこの災いのあることを知り、独りでいる修行を堅くまもれ。婬欲の交わりに耽ってはならない。

822 (俗事から)離れて独り居ることを学べ。これは諸々の聖者にとって最上のことがらである。(しかし)これだけで『自分が最上の者だ』と考えてはならない。──かれは安らぎに近づいているのだが。

823 聖者は諸々の欲望を顧みることなく、それを離れて修行し、激流を渡りおわっているので、諸々の欲望に束縛されている人々はかれを羨むのである。」──
(´・(ェ)・`)つ
0166名無しを整える。
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2017/12/06(水) 17:57:01.69ID:z6PdO8Yv
>>165
○毎田周一先生訳
814.
「性の関係に沈溺(ちんでき)するものが
と長老ティッサ・メッテーヤが尋ねた
そのために没落してゆく様を教えて下さい 師よ
そのお教えを聞いて 私達はそれを遠ざかることを学びたいと思います

○毎田周一先生訳
815
「性の関係に沈溺(ちんでき)する者は
メッテーヤよ と世尊は答えられた
そのために教えすら忘れて
人生の筋道を誤り 気高い道から外れてしまう

性行為にふける者は、性欲に翻弄されて、人生において「ブッダの教え」を実践することが一番大切であることを忘れてしまう。
中村先生訳「これはかれのうちにある卑しいことがらである。」正田先生訳「〔淫欲に束縛された〕彼のうちには、この、聖ならざる〔悩み苦しみ〕があります。」とあるが、この意味は毎田先生訳「人生の筋道を誤り 気高い道から外れてしまう」が分かりやすい。
○毎田周一先生訳
816.
今迄唯一人の道をいそしんでいたものも
性の関係に溺れるようになれば
道を外れた車に似て
世間の人は彼を低級な ただのの人間に過ぎないという

性行為にふけるならば、迷走する乗物に乗って、道から外れて崖から落ちるようなものである。崖から落ちるとは地獄に落ちるということ。
そして、このような行為を行う修行者は、非難されるということ。
○毎田周一先生訳
817.
彼がこれまでもっていた名誉も名声も
すっかり消えてなくなってしまう
そのことを思うにつけて
性の関係から離れることを学ばなければならない

○毎田周一先生訳
818.
どうしたらよいかと思い煩い
彼は貧乏人のように考えて込む
こういう人はひとが何かいったのを
聞いてもどぎまぎする

名誉も名声も失ってしまった者は、「どうしたらよいかと思い煩い」悩む。その有様は「彼は貧乏人のように考えて込む」。貧乏人は今日、明日の食べ物をどうしようかと悩むが、そのように悩む。
性行為に溺れている人は、そのような惨めなことになることを知るべき。

○毎田周一先生訳
819.
それというのもどうしても止められない
貪りのためであり
遂にはひたすら嘘の中へ身を
隠してしまうようになる

他人に叱責されると、自分を取り繕うために、苦し紛れに嘘をついてしまう。
この偈の前半の直訳は「他人の言葉で叱責された者は刃(やいば)を作る」とは、正田先生の訳にあるように自分を傷つける刃(悪行)をすることだが、それは後半で説明されているように嘘をつくこと。
嘘をつくことは五戒の一つである戒を破ることであり、地獄に落ちるような大難(大罪)になる。
性欲に負けて、性行為に溺れることに続く結果はいかに危険な恐ろしいことであることをしっかり理解すべきこと。甘く考えてはいけない。
「それというのもどうしても止められない 貪りのためであり」つまり、性欲に執着して貪欲になっている。セックスに夢中になっている。
(´・(ェ)・`)つ
0167名無しを整える。
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2017/12/06(水) 18:01:49.68ID:z6PdO8Yv
>>165
○毎田周一先生訳
820.
唯一人の道をしっかりと進み
賢い人だと世間からも認められていた人が
一旦性の関係に陥ると 愚鈍な人と同じになり
ただもう引き摺り廻されるばかりである。

性欲に負けてしまうと、賢者と認められていても、愚者と同じことになってしまう。賢者と愚者の違いは、視野の違い。賢者は自分のことと同時に他人のことがよく見えて、他人の都合や他人のためを考えて行動できる。
しかし、愚者は自分のことしか見えない。他人の迷惑など眼中になくなる。性欲には人間をそのようにさせる力がある。注意する必要がある。

○毎田周一先生訳
821.
こんな浅ましいことが
この世間の前にも後にもあることを知って
静かな人はしっかりと唯一人の道を行き
性の関係に盲従しないようにするがよい

、「浅ましいこと」、「災い」、「危険」と訳されたことは、815から820で述べられた事柄。
性行為に耽ることによって、解脱への道を踏み外すこと、人々から非難され、蔑まれること、名誉や名声を失うこと、思い煩い、惨めになること、虚偽を語るようになること、愚か者になることなど。
これらのことは自らまいたことの結果だから、災い(災難)という言葉が適当だと思わないが、大変な災難である。しかし、これらの災難は自分の力で防止できる。
何としてでも防止しなければならない。性欲に負けないために、性行為に耽らないために、孤独に耐えて、一人で修行することに努めるべき。

822
○毎田周一先生訳
唯一人ということをどうしても学ばねばならない
これが最も気高いことである
しかしこれだけでこの上もないところへ行きついたと思ってはならない
彼はそこで涅槃に近づいたといえるだけである

性欲に負けないためには、「独りでいる修行を堅くまもれ」と説かれたが、「独りいる修行」は単に性欲に負けないということに留まらず、「聖者にとって最上のことがらである」とこの偈で述べられている。
何故ならば、独りで行う修行は涅槃に導くものだからである。
しかし、それだけでは涅槃に至らないと注意している。その具体的な内容は書かれてない。
○毎田周一先生訳
823.
どんな欲望にも駆り立てられず
そこから解き放されて生きてゆく静かな人は
既に盲目の命の流れを渡ってしまっているので
欲望のため身動きならぬ人達がただそれを羨ましいと思うばかりである。

欲望を顧みることなく、それから離れて修行し、激流(煩悩)を渡り終わった。そして、諸々の欲望に束縛されなくなった。涅槃に到達した。彼は聖者と呼ばれるのに相応しく、欲望に束縛されている人々からは羨ましいと思われる人になった。

毎田先生の訳で「静かな人」とは、通常の訳では「聖者」のこと。また激流(煩悩)を「盲目の命の流れ」という言葉を使われる。性欲は本能、すべての本能を乗り越えて、解脱して、彼岸(涅槃)涅槃に達するということになった。
(´・(ェ)・`)つ
0168鬼和尚 ◆GBl7rog7bM
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2017/12/06(水) 21:39:38.39ID:v/VcSa4p
>>164 そうじゃ、かなり混乱しているのじゃ。
 なにものにも執着せずに観察すればよいというだけであめのにのう。
 観察によって人は清らかになり、執着からはなれ貪欲もなくなるのじゃ。
 
0169名無しを整える。
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2017/12/07(木) 18:38:43.34ID:Kx9Ri+sP
>>168
鬼和尚こんばんは。
ありのままを観察すればよいだけ、ということは、実践してみれば誰でもくまでも、その効果、(=諸々の観念のによる拘束からの解放)を容易に実感できるのと思うのでありますが、それを伝えるのは難しいでありますね。
(´・(ェ)・`)つ
0170名無しを整える。
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2017/12/07(木) 18:42:10.29ID:Kx9Ri+sP
ブッダのことば(スッタニパータ)
第4 八つの詩句の章、8、パスーラ

824 かれらは「ここにのみ清らかさがある」と言い張って、他の諸々の教えが清らかでないと説く。「自分が依拠しているもののみを善である」と説きながら、それぞれ別々の真理に固執している。

825 かれらは論議を欲し、集会に突入し、相互に他人を<愚者である>と烙印し、他人(師など)をかさに着て、論争を交わす。──みずから真理に達したものであると称しながら、自分が称賛されるようにと望んでいる。

826 集会の中で論争に参加した者は、称賛されようと欲して、おずおずしている。そうして敗北してはうちしおれ、(論敵の)あらさがしをしているのに、(他人から)論難されると、怒る。

827 諸々の審判者がかれの所論に対し「汝の議論は敗北した。論破された」というと、論争に敗北した者は嘆き悲しみ、「かれはわたしを打ち負かした」といっい悲泣する。

828 これらの論争が諸々の修行者の間に起ると、これらの人々には得意と失意とがある。ひとはこれを見て論争をやめるべきである。称賛を得ること以外には他に、なんの役にも立たないからである。

829 あるいはまた集会の中で議論を述べて、それについて称賛されると、心の中に期待したような利益を得て、かれはそのために喜んで、心が高ぶる。

830 心の高ぶりというものは、かれの害われる場所である。しかるにかれは慢心・増上慢心の言をなす。このことわりを見て、論争してはならない。諸々の熟達せる人々は、「それによって清浄が達成される」とは説かないからである。

831 たとえぱ王に養われてきた勇士が、相手の勇士を求めて、喚声を挙げて進んでゆくようなものである。勇士よ。かの(汝にふさわしい、真理に達した人の)いるところに到れ。相手として戦うべきものは、あらかじめ存在しないのである。

832 (特殊な)偏見を固執して論争し、「これのみが真実である」と言う人々がいるならば、汝はかれに言え、──「論争が起っても、汝と対論する者はここにいない」と。

833 またかれらは対立を離脱して行い、一つの見解を[他の]諸々の偏見と抗争させない人々なのであるが、かれらに対して、あなたは何を得ようとするのか? パスーラよ。
かれらの間で、「最上のもの」として固執されたものは、ここには存在しないのである。

834 さてあなたは(「自分こそ勝利を得るであろう」と)思いをめぐらし、心中にもろもろの偏見を考えて、邪悪を掃い除いた人(ブッダ)と論争しようと、やって来られたが、あなたも実にそけだけならば、それを実現することは、とてもできない。

(´・(ェ)・`)つ
0171名無しを整える。
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2017/12/07(木) 19:07:33.53ID:Kx9Ri+sP
>>170
○毎田周一先生訳
824.
人々は「これだけが清らかだ」と主張して
他の教えは清らかでないないという――
そして自分の立場だけを認めることによって
実は色々の 自分だけの真理というものにとりついている

「パスーラ経」のあらすじは特定な見解に固執して論争することの無意味さを教えるもの。ブッダは最後にパスーラに呼びかけて、煩悩を離れた者(ブッダ)と論争することが出来ないことを示唆する。
注釈書によるとこの経の因縁物語は、遊行者パスーラはサーリプッタ長老と欲望に関する論争に負けたので、仏教僧団の中で出家した。しかし指導する師僧を議論で負かした。そして今度はブッダに論争を挑んだ。
彼が祇園精舎のブッダのもとに行くと、神の力で一言も口をきくことが出来なくなった。それに対してブッダがこの経を説いたということ。

「ここにのみ清らかさがある」と言った時点、この見解は仏法(真理)ではないと、毎田先生は解説する。
「ここにのみ」ということは「ここ以外のもの」との対立を作る。対立すれば、異なる見解が現れるからである。異なる見解が現れると論争が現れる。

○毎田周一先生訳
825.
この人達はひとといい争うことが好きで 集りの中に入ってゆき
互いに反対して相手を愚かものと見なし
自分はほめられたいと思って 如何にも道理の解ったような顔をしてものをいい
他人と対立しながらただいい争っている。

○毎田周一先生訳
826.
人の集りの中でいい争うことになったものは
ほめられることを望んで 敗けないように心を砕くが
その甲斐もなく 相手に押切られると 口惜しさに堪えられず
自分も人の弱点を探しているのに 相手が自分の間違いを衝いたことを怒る

議論好きが、論争に参加した時の心理状態を細かく描かれている。

○毎田周一先生訳
827.
いい争うのを裁く人達が あなたのいうことには欠陥がある
だからあなたの方の敗けだというと
その論争に負けたひとは 泣き悲しんで
「あの人が自分を負かしたのだ」と口惜しがる

○毎田周一先生訳
828.
こんないい争いが道を修める人達の間に起こると
彼等の中に勝つと負けるとかいうことがあることになる
こんなことをみてもひとは論争を離れねばならぬ
何故ならそこにはほめられたということの外に何の利益もないからである

真理を求め修行する人は、他人の評価でなく、自分自身で真理を発見しなければならないから、他人の評価に依存する態度は修行の妨げになる。
真理の発見は心の変革と結びついた事柄。他人の評価ではなく、また何ものにも依存しない心の状態の時、そこに真理が現れる。その意味で論争の無意味さを本当に知った時、真理が理解できる。

(´・(ェ)・`)つ
0172名無しを整える。
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2017/12/07(木) 19:09:34.26ID:Kx9Ri+sP
>>170
○毎田周一先生訳
829.
あるいはまた人の集りの中で 自分の考えを述べて
それがほめられると
その人がかねて望んでいた利益を得たのだから
如何にも得意そうに自惚れることになる

実は褒められることは利益になるかどうかわからない。
人は褒められると嬉しくなる。褒められても自分はまだまだと思う謙虚な人は素晴らしが、多くの人は、心が高ぶる。中村先生の訳で「心が高ぶる」とは高慢になるということ。この高慢が問題。
人が高慢になれば、褒められることは不利益になる。

○毎田周一先生訳
830.
自惚こそは人の苦しみを生み出す土壌である
それなのに彼は愈々いい気になって思い上がったことをいう
これを見てもひとはいい争うことを止めねばならぬ
何故なら賢い人はそんな処に清らかさがあるとはいわないからである

一行目の三人の先生方の訳はニュアンスが異なる。
「自惚こそは人の苦しみを生み出す土壌である」
「心の高ぶりというものは、かれの害われる場所である。」
「その傲慢なるもの――それは、彼にとっては、悩み苦しみの境地。」
パーリ語の「高慢」を「自惚れ」「心の高まり」「傲慢」とそれぞれ訳されている。
そして「破滅の地」を「苦しみを生み出す土壌」「害われる場所」「悩み苦しみの境地」という言葉で表現された。
論争の勝利者の心の問題点、その時の心の状態の危険性は予想外に大きなものであることにも気づかされる。
「高慢」が「苦しみを生み出す土壌」「害われる場所」「悩み苦しみの境地」であることを知って、論争を止めるように述べている。
さらに四行目には論争に勝つことで「清浄」が得られないと賢者達が説いている。そもそも「清浄(真理)」を求めて論争するのだが、論争では「清浄」は得られないから、論争を止めよということ。

○毎田周一先生訳
831.
たとえば王侯から食禄を得ている勇ましい人が
敵の中に強い相手を求めながら 叫び声をあげて突き進むように
勇ましい人は 敵の居る処へとび込んでゆくがよい
そこにはしかし戦わねばならぬことは何もないのである

論争を好む者、論争を求める者を勇者にたとえて、皮肉を込めて述べている。
中村先生の訳、「王に養われてきた勇士」とは、自分の先生とか先輩の意見や業績に依存している論争者という意味。「相手の勇士」とは「論争の相手」。
「喚声を挙げて進んでゆくようなものである。」とは、論争の相手を探して論争を挑むがよいということだが、その時の論争の相手とは、中村先生がカッコの中で書かれているように、(汝にふさわしい、真理に達した人)。
次に「相手として戦うべきものは、あらかじめ存在しないのである。」とある。これは真理に達した人は、これが真理だと主張する所がないので、あなたは戦うことが出来ないのだと述べている。
(´・(ェ)・`)つ
0173名無しを整える。
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2017/12/07(木) 19:10:26.55ID:Kx9Ri+sP
>>170
○毎田周一先生訳
832.
ある学説をとり上げて議論を吹きかけてきて
「これこそ本当なのだ」という人があれば
そういう人にあなたはいってやるがよい――
いい争うとしても あなたの相手はここにはいませんと

論争を挑む者はある見解(偏見)をもって、「これのみが真理である」と述べるものだから、「汝と対論する者はここにいない」と応えよと教えている。

○毎田周一先生訳
833.
これとは反対に もう敵というものをもたない処に生きて
色々な考えに一つの考えを対立させない人達がある
パスーラよ あなたはこういう人達から何か得られると思うのか
その人達にはもうこれが最上のことだといって掴んでいるものは何もないのである

毎田先生と正田先生の訳では誤解がないと思うが、中村先生の訳の場合は誤解する恐れがある。と言うのは、883の「かれら」は誰をさしているか明確でないから。
「かれら」を882の「(特殊な)偏見を固執して論争をする人々」とも取れなくはない。
その点、毎田先生と正田先生の訳では、「これとは反対に」あるいは「いっぽうで」という言葉があるから、「(特殊な)偏見を固執して論争をする人々」ではなく、「論争をやめた人々」を意味していることになる。
もちろん中村先生の訳も他の先生と同じにも理解できるが、誤解されるおそれがあるということ。
この偈でブッダはパスーラさんに「お前は論争をやめた人々の処に行って、何を求めようとしているのか? 彼等には「最上だと」固執するものは何もないのだよ。」と教えていることになる。

○毎田周一先生訳
834.
ところであなたは色々の学説を心の中で思いめぐらせながら
そこに真理を尋ね求めているようだが
そういうことでは いくら清められた人に出会って学んでいるといっても
それ以上に先に進むことはとてもあなたには出来ないだろう

833偈で「敵というものを持たない処に生きて、色々な考えに一つの考えを対立させない人達とは論争出来ない」という真理が述べられた。
そのことを理解していないパスーラさんは「自分こそは勝利を得るであろう」と思いをめぐらして、心中にもろもろの偏見を考えてブッダと論争しようとやって来た。
ブッダはまさに、「敵というものを持たない処に生きて、色々な考えに一つの考えを対立させない人」なのだから、パスーラさんはブッダと論争しようにも論争出来ない。
それで「パスーラよ。 汝もこの真理(ことわり)を識って、争論と偏見とを離れるべきである。」ということになる。
三人の先生の訳が微妙に違う。パーリ語の yuga(軛を)の訳し方が異なる。
毎田先生と中村先生は軛という言葉がない。正田先生だけが軛という言葉を使っています。軛(くびき)とは、車の轅(ながえ)の端につけて、牛馬の後頸にかける横木。この偈では軛は比喩として使っている。
毎田先生は、「清められた人に出会って学んでいる」という意味に使っている。中村先生と正田先生は「論争しようとすること」という意味に使っている。
注釈書には、山犬とライオンは同じ軛をつけては歩めないように、パスーラとブッダはともに同じ軛をつけて一歩もともに進むことが出来ないと説明されている。

(´・(ェ)・`)つ
0174鬼和尚 ◆GBl7rog7bM
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2017/12/07(木) 21:21:09.92ID:gi9LEfWt
>>169 そうじゃ、観察は微妙なものであるからのう。
 記憶したとおりにできるものではないのじゃ。
 記憶に反する行為なのじゃ。
 そうであるから記憶に依存したものには困難なのじゃ。
0175名無しを整える。
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2017/12/08(金) 08:30:04.32ID:IyYSqRNF
>>174
絵を描くのが下手な人の為の練習法として、対象物を逆さまにして描くと方法があるとのことで、子くまの頃にやってみたら、実際に効果あるのであります。
要は、普段見慣れたものを観察して描く時、記憶に引きずられてしまうが、逆さまにして描くと、見慣れない姿になるので、観察が緻密になる効果を利用した練習方法ではないかと思うのでありま。

心の観察にも使えそうであります。
(´・(ェ)・`)b
0176名無しを整える。
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2017/12/08(金) 18:26:39.51ID:IyYSqRNF
ブッダのことば(スッタニパータ)
第4 八つの詩句の章、9、マーガンディヤ

835 (師((ブッダ))は語った)、「われは(昔さとりを開こうとした時に)、愛執と嫌悪と貪欲(という三人の悪女)を見ても、かれらと婬欲の交わりをしたいという欲望さえも起らなかった。
糞尿に満ちたみの(女が)そもそも何ものなのだろう。わたくしはそれに足でさえも触れたくないのだ。」

836 (マーガンディヤがいった)、「もしもあなたが、多くの王者がもとめた女、このような宝、が欲しくないならば、あなたはどのような見解を、どのような戒律・道徳・生活法を、またどのような生存状態に生まれかわることを説くのですか?」

837 師が答えた、「マーガンディヤよ。『わたくしはこのことを説く』、ということがわたくしにはない。
諸々の事物に対する執著を執著であると確かに知って、諸々の偏見における(過誤を)見て、固執することなく、省察しつつ内心の安らぎをわたくしは見た。」

838 マーガンディヤがいった、「聖者さま。あなたは考えて構成された偏見の定説を固執することなしに、<内心の安らぎ>ということをお説きになりますが、そのことわりを諸々の賢人はどのように説いておられるのでしょうか?」

839 師は答えた、「マーガンディヤよ。『教義によって、学問によって、戒律や道徳によって清らかになることができる』とは、私は説かない。
『教義がなくても、学問がなくても、戒律や道徳を守らないでも、清らかになることができる』とも説かない
。それらを捨て去って、固執することなく、こだわることなく、平安であって、迷いの生存を願ってはならぬ。(これが内心の平安である。)」

840 マーガンディヤがいった、「もしも、『教義によっても、学問によっても、知識によっても、戒律や道徳によっても清らかになのことがではない』と説き、
また『教義がなくても、学問がなくても、知識がなくても、戒律や道徳を守らないでも、清らかになることができない』と説くのであれば、それはばかばしい教えである、とわたくしは考えます。
教義によって清らかになることができる、と或る人々は考えます。」

841 師は答えた、「マーガンディヤよ。あなたは(自分の)教義にもとづいて尋ね求めるものだから、執著したことがらについて迷妄に陥ったのです。
あなたはこの(内心の平安)について微かな想いをさえもいだいていない。だから、あなたは(わたしの説を)『ばかばかしい』とみなすのです。

842 『等しい』とか『すぐれている』とか、あるいは『劣っている』とか考える人、──かれらはその思いによって論争するであろう。
しかしそれらの三種に関して動揺しない人、──かれには『等しい』とか、『すぐれている』とか、(あるいは『劣っている』とか)いう思いは存在しない。

843 そのバラモンはどうして『(わが説は)真実である』と論ずるであろうか。
またかれらは『(汝の説は)虚偽である』といって誰と論争するであろうか?『等しい』とか『等しくない』とかいうことのなくなった人は、誰に論争を挑むであろうか。

844 家を捨てて、住所を定めずにさまよい、村の中で親交を結ぶことのない聖者は、諸々の欲望を離れ、未来に望みをかけることなく、人々に対して異論を立てて談論をしててはならない。

845 竜(修行完成者)は諸々の(偏見)を離れて世間を遍歴するのであるから、それらに固執して論争してはならない。
たとえば汚れから生える、茎に棘のある蓮が、水にも泥にも汚されないように、そのように聖者は平安を説く者であって、貪ることなく、欲望にも世間にも汚されることがない。

846 ヴェーダの達人は、見解についても、思想についても、慢心に至ることがない。かれらの本性はそのようなものではないからである。かれらは宗教的行為によっても導かれないし、また伝統的な学問によっても導かれない。

847 想いを離れた人には、結ぶ縛めが存在しない。智慧によって解脱した人には、迷いが存在しない。想いと偏見とに固執した人々は、互いに衝突しながら、世の中をうろつく。」

(´・(ェ)・`)つ
0177名無しを整える。
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2017/12/08(金) 20:07:05.43ID:IyYSqRNF
>>176
○毎田周一先生訳
835.
「私は嘗て『渇望』と『不満』と『貪欲』と(いう女)を見たが
それと一つになろうとは決して思わなかった
この尿と糞とに充ちた汚いもの それが一体何であろうか
私は足でそれに触れようとさえ思わない」

「マーガンディヤ経」は注釈書によれば、クル国のバラモン・マーガンディヤがブッダにあって、自分の美しい娘を嫁がせようとして、娘を着飾って妻とともに出かけていって申し出ます。
しかし世尊は「美女に用はない」と取り合いません。そこでマーガンディヤは「美女もいらぬとはどいう考えだ」とその考え方を問いただします。
その時の対話がこの経。最後はこのバラモンは妻とともに出家して阿羅漢になったという。
ブッダは次のように語った。「私がブッダになる前に一大決意で冥想の座についた時、悪魔の大軍が襲来して、悟りの完成を妨げに来ました。
その中に『渇望』と『不満』と『貪欲』という名前の悪魔の娘がいました。その三人は人間をだまして美しく見せていましたが、私はだまされません。
汚れた醜いものしか見えませんでした。同棲することはもちろん、足で触れることさえも望みません。糞や尿で満ちた女が何だというのですか。私には興味のないことです。」と。

○毎田周一先生訳
836.
「もしあなたが多くの帝王達に宝玉のように求められてた
その女を手に入れようと思われないのなら
それでは一体あなたは どんな学説と徳行と生活の仕方と
またどんな状態に生まれかわることとを 説こうとされるのですか」

マーガンディヤさんは、多くの王たちに求められている自分の美しい娘を、ブッダに拒否されたことを理解できなかった。
そこでブッダは愛欲を超越して欲望から離れた出家者だと考えた。
それならば、どのようにして愛欲を超越して、欲望から離れるような徳を身につけるのかを聞きたくなった。
ブッダの見解、道徳、生活の仕方、生存の再生(輪廻)について質問した。

○毎田周一先生訳
837.
「『私はこのように説く』ということが抑々私にはないのである
マーガンディヤよ と世尊はいわれた
この世にある色々の事にとりついてゆく自分であることを知って
私は色々の見解に接しても それを一つも取上げないことにした
こうして初めて私は自分の中に平安を見出したのである」

ブッダの答えは、マーガンディヤさんの期待していたものと大きく異なっていた。
ブッダの答えは出世間のもの。解脱するための答え。それには特定な方法はない。だから、ブッダは「わたくしはこのことを説く」ということがないと答えた。
ただ、「諸々の事物に対する執著を執著であると確かに知って、諸々の偏見における(過誤を)見て、固執することなく、省察しつつ内心の安らぎをわたくしは見た。」と答えた。
ここで「安らぎ」は涅槃を意味しているが、執着に固執しないことによって涅槃を体験したと述べられている。

(´・(ェ)・`)つ
0178名無しを整える。
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2017/12/08(金) 20:22:31.05ID:IyYSqRNF
>>176
○毎田周一先生訳
838.
「よく考えて確かめられた そのような見解に
とマーガンディヤはいった
そのような見解に捉われないで 静かな人よ
あなたは『自分の内に平安』を見出したといわれますが
そういう意味のことを賢い人達も こういうことだと説き明かしていられるのでしょうか

838は、よく頭を切り替えて読まなければ、マーガンディヤさんが誤解して頓珍漢な愚問をしたことに気づけない。
ブッダは「私はこのことを説く」ということがないと言われているのに、マーガンディヤさんはブッダが何かを説いていて、そのような事柄を他の賢者達も説いておられているのかと質問している。
ブッダは彼の質問に答えるのではなく、自分の意図を説明した。

○毎田周一先生訳
389.
「見解とか 学問とか 知識とか
マーガンディヤよ と世尊はいわれた
そして徳行とか そういうもので人が清らかになるとは 私はいわない
そして又無見解や無学や無知や
そして不徳や非行などによっても 人が清らかになるとは 私はいわない
そういうことをすべて捨てて 捉われず
拠り所など何も持たず この世のことに少しも望みをかけぬがよい」

838でマーガンディヤさんが質問した問は「<内心のやすらぎ>ということをお説きになりますが、そのことわりを諸々の賢人はどのように説いておられるのでしょうか?」という愚問。
そこでブッダはその問には答えずに、今回の偈を述べた。
「『教義によって、学問によって、戒律や道徳によって清らかになることができる』とは、私は説かない。
『教義がなくても、学問がなくても、戒律や道徳を守らないでも、清らかになることができる』とも説かない。」とブッダは述べた。
簡単に言えば、「善いことをしても清らかにならない、またもちろん悪いことをしても清らかにならない。」と述べられた。
ブッダはこの言葉の後に「それらを捨て去って、固執することなく、こだわることなく、平安であって、迷いの生存を願ってはならぬ。(これが内心の平安である。)」
と述べたが、マーガンディヤさんはこの言葉の意味を理解する前に前半の言葉に反発してしまった。

○毎田周一先生訳
840.
「もしもそのように見解とか学問とか知識とか
とマーガンディヤはいった
そして徳行とか そういうもので人は清らかにはならぬといわれ
又無見解や無学や無知や
そして不徳や非行などによっても 清らかにならぬといわれるなら
それは人を惑わす教えだと私は思います
ある人々はものの見方で清らかになれると信じているではありませんか」

マーガンディヤさんは、見解とか学問とか知識とか徳行にこだわっている。それ以外の考え方があるとは思いもよらないこと。だからそれらに依っても或はそれらに依らなくても清浄にならないと言われたらどうしたらいいのだと思ってしまう。
そのため、そのような考え方は「人を惑わす教えだ」或は「ばかばかしい教えである」或は「迷愚な教えだ」と思ってしまう。多くの人々は一度ある考えにとりついてしまうとそれ以外の発想が出来なくなるもの。
(´・(ェ)・`)つ
0179名無しを整える。
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2017/12/08(金) 20:34:35.51ID:IyYSqRNF
>>176
○毎田周一先生訳
841.
「自分の考えにだけとりついて ものを聞いているから
マーガンディヤよ と世尊はいわれた
執著を離れられず あなたは世迷言を言っている
あなたは今ここではっきりと ものを見ていないではないか
そうして私のいうことを人を惑わす教えだなどといっている

ブッダはマーガンディヤさんに教える。
自分の考えという色メガネで物を見ているので正しくもの見られないのだと説かれている。
そもそもマーガンディヤさんの質問は「どのようにして愛欲を超越して、欲望から離れるような徳を身につけるのか?」ということであった。
しかし、マーガンディヤさんはその答えを「そのためには、どのような見解を持ち、どのような道徳を守り、どのような生活をすればよいのか?」という問いの答えを期待した。
マーガンディヤさんの前半の質問は、「どのようにしたら清らかになるか?」ということであり、「どのようにして内心の平安を得るか?」ということ。
しかしマーガンディヤさんの後半の質問はブッダにとっては(真理からみれば)成り立たないもの。
たとえて言えば、ウサギの角は長いですか、短いですか?」というようなもの。なぜならば、見解、学問、知識、徳行などによって人は清らかになるものではないから。

○毎田周一先生訳
842.
等しいとか 勝れているとか あるいはまた劣っているとか そういう比較の立場に立って
ものを考えている人は 必ずひとと争うだろう
しかしこのような物を比較する三つの関係のどちらへも揺れ動かぬ人――
そういう人には『等しい』とか『勝れている』とかいうことはないのである

ブッダはマーガンディヤさんがよく理解できないようなので、話題を少し変えた。比較するということについて話した。二つのものを比較すると違いがあることが解る。
その違いをある人は一方を勝れていると思い、他方は劣っていると思う。或は等しいと判断する場合もある。しかし、この判断は人によって異なる。ある人が勝れていると判断した物を、別の人は劣っていると判断する。
このために論争が起こる。
論争をしない人がいる。このような人は二つのものを比較して違いがあることは分かっているが、勝れているとか劣っているとか等しいとは判断しない。
何故ならばこの世界のどのような二つを取って、比べても決して同じものはなく、違いがあるのは当たり前である。また違いがあるのは片方の存在があるからである。片方がなければ勝れているとも劣っているともいえない。
たとえ勝れていると言われてもそれはもう片方のおかげ。だから勝れていることに価値を置くことは出来ない。
比べて等しいと言う場合も厳密に言えば等しくはない。等しいと、自分の都合で妄想しているだけ。
という訳で、論争しない人の心は比較しても心は落ち着いている。繰り返すが、世の中のものは違ってあたりまえ。それに対して論争することがあるか。

○毎田周一先生訳
843.
道に達した人は 何をさして『これは真理である』と主張するだろうか
又誰に向って『これは虚妄である』と争うだろうか
等しいとか等しくないとかいうことのなくなった人が
一体誰と論争を始めるだろうか

毎田先生訳の「道に達した人」あるいは中村先生訳の「そのバラモン」あるいは正田先生訳の「〔真の〕婆羅門たる彼」は、842で述べられた比較して揺れ動かない人、「等しい」とか「勝れている」とかいう思いのなくなった人を指している。
そのような人は「これは真理である」とか「これは虚妄である」と主張しない。また誰とも論争しないと述べられている。
優劣の思いのなくなった人には、これが「清らかである」とか「これが清らかでない」という思いもなくなっている。そのため内心の平安という状態になっている。
ブッダの説法はマーガンディヤさんの質問に戻って行くが、道に達した人(そのバラモン)は見解、学問、知識、徳行などによって、優劣の思いをなくしたのではない。
見解、学問、知識、徳行にたいする先入観からはなれて、今ここではっきりとものを見ることで、事実を見て優劣を離れたのです。ここが重要なところです。

(´・(ェ)・`)つ
0180名無しを整える。
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2017/12/08(金) 20:38:43.23ID:IyYSqRNF
>>176
○毎田周一先生訳
844.
家の生活を捨ててひとところに定住せず 思いのままに道を行き
村里の生活に親しみ近づかぬ 静かな人は
色々の欲望を離れて 世間には目もくれず
ひとと違った説など述べ立てて 議論する筈がない

優劣の思いない道に達した人、バラモンは、家庭生活を捨てて、定住しないで遍歴する。在家の人々と親交を深めるということはない。このような生活法をしなければならないと考えて、このようにしているわけではない。
道に達した人はいろいろな欲望から離れているので、世間のいろいろな事柄に期待、希望を持たないから、自然にそのような生活態度になる。世間の事柄に目もくれず、関心がないので、それに対して何か特別な見解を持って論争をすることもない。

○毎田周一先生訳
845.
何の捉われもなく この世を堂々と生きてゆく修道者は
これが自分の説だなど論ずべきではない
水に生える棘(とげ)のある蓮が
水にも泥にも汚されぬように
静かな人は安らぎへの道を明かして 情熱に駆られず
欲望にも世間にも汚されない

始めの二行は前回の偈を受けて、道に達した聖者は諸々の偏見から離れているので、自説を取り上げて、論争する筈はない。また論争すべきではないと強調している。
次の二行はそのような聖者を蓮に譬えている。蓮は池底の泥に根を張り、そこから茎が伸び、葉や花は水面に抜き出す。その時、葉や花は水や泥で汚れない。そのように聖者は欲望にも世間にも汚されない。
その時の聖者の様子は安らぎ(平安あるいは寂静)を説く者であって、貪ることがないと述べられている。
これは解脱した聖者の境地。

(´・(ェ)・`)つ
0181名無しを整える。
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2017/12/08(金) 20:46:32.71ID:IyYSqRNF
>>176
○毎田周一先生訳
846.
至上の智慧に到った人は 意見をもつとか物が解るとかいうことで
思い上りはしない 何故ならそのような意見や見解がもうその人にはないからである
彼は如何に行い 如何に学ぶかというようなところに生活の中心をおかない
固定した立場などに立ってはいない

この偈のパーリ語原文の vedagは三人の先生の訳は次の通り。「至上の智慧に到った人」、「ヴェーダの達人」、「〔真の〕知に至る者」、これらを三通り読んでみるとこの語のイメージが解ってくる。しかし訳は全然異なる言葉。

それに続く訳も三人の先生の訳は同じようだが、細かいところでかなり異なる。これはブッダの言葉に対する三先生の理解が異なるから。訳が間違えというわけではないが、理解は異なるということ。

○毎田周一先生訳
847.
思想を持たないものは自由を束縛されない
智慧によって自在を得たものには迷いはない
思想や見解を掴んでいる人達は
ひとにぶつかりながら 世の中を右往左往する

ブッダのマーガンディヤさんへの説法は、想を離れて、慧で解脱した人は自由で迷いがなく、想いと偏見を固執している頑固の人は人々と衝突しながら生きているとまとめられたのです。この偈で「マーガンディヤ経」は終わります。

この偈の一行目の「想を離れた人」と「智慧で解脱した人」を別の人と考えると前者は心解脱した人、後者は慧解脱した人になる。
テーラーワーダ仏教では心解脱の人は不還果で慧解脱の人は阿羅漢。両者もう輪廻することはないが、不還果の人はまだ完全には無明が除かれていない。

(´・(ェ)・`)つ
今回は
>>179
843.の解説で、
>見解、学問、知識、徳行にたいする先入観からはなれて、今ここではっきりとものを見ることで、事実を見て優劣を離れたのです。ここが重要なところです。

と書いてるであります。
0182鬼和尚 ◆GBl7rog7bM
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2017/12/08(金) 22:19:00.35ID:0IfRVJrZ
教義や学問は実践を教えるものじゃ。
それだけでは清らかになれないのじゃ。

しかし、それらによって実践を知ることができるのであるから、それらが無しで清らかになるとも説かないのじゃ。
教義や学問によって実践するべきことを知り、実践することで清らかになるのじゃ。
  
0183名無しを整える。
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2017/12/09(土) 07:58:05.73ID:+fLDLAq4
ブッダのことば(スッタニパータ)
第4 八つの詩句の章、10、死ぬよりも前に

848 「どのように見、どのような戒律をたもつ人が『安らかである』と言われるのか? ゴータマ(ブッダ)よ。おたずねしますが、その最上の人のことをわたくしに説いてください。」

849 師は答えた「死ぬよりも前に、妄執を離れ、過去にこだわることなく、現在においてもくよくよと思いめぐらすことがないならば、かれは(未来に関しても)特に思いわずらうことがない。

850 かの聖者は、怒らず、おののかず、誇らず、あとで後悔するような悪い行いをなさず、よく思慮して語り、そわそわすることなく、ことばを慎しむ。

851 未来を願い求めることなく、過去を思い出して憂えることもない。[現在]感官で触れる諸々の対象について遠ざかり離れることを観じ、諸々の偏見に誘われることがない。

852 (貪欲などから)遠ざかり、偽ることなく、貪り求めることなく、慳みせず、傲慢にならず、嫌われず、両舌を事としない。

853 快いものに耽溺せず、また高慢にならず、柔和で、弁舌さわやかに、信ずることなく、なにかを嫌うこともない。

854 利益を欲して学ぶのではない。利益がなかったとしても、怒ることがない。妄執のために他人に逆らうことなく、美味に耽溺することもない。
(´・(ェ)・`)つ
0184名無しを整える。
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2017/12/09(土) 10:43:35.87ID:+fLDLAq4
>>183
○毎田周一先生訳
848.
「どのように物を見 又どのように行いを保つ人が
平安であるといわれるのでしょうか
ゴータマよ 私はお尋ねしている 
その最高の人について どうぞ教えて下さい」

この経の因縁物語によると不思議な経。世尊が多くの神々が集まる大集会で説法をしていた時、神々に「さあ一体、身が壊れる(死ぬ)前に何をすべきか」という心が生じたのを知ったが、どの神々も世尊にその問を発しない。
そこで世尊は神々のために御自身の化身(もう一人のブッダ)を作って、その化身に質問させた。
この問はどのようにして寂静者と呼ばれる聖者になるのかという問いではない。聖者はどのように物事を見て、どのように道徳を守っているかを問うもの。聖者の有り方、生き方を問うもの。それを聞いて、死ぬ前に為すべきことを学ぼうとした。
この問の答えは神々ばかりでなく、人間にとっても学ぶべきもの。

○毎田周一先生訳
849.
「死なない前に 愛欲を絶って
と世尊はいわれた
その人は過ぎ去ったことに捉われず
今のことを煩わず 
未来に向かって用意などしない

第一の答えは、死ぬ前に「愛欲(妄執、渇愛)から離れている。」ということ。仏教の根本的な教えである四聖諦で述べられているように、渇愛は苦の原因。
聖者は一切の苦を滅しているから、苦の原因である渇愛を滅している。そこが聖者について語るとき第一のポイントになる。
次のポイントは聖者の時間に対する態度。聖者は過去、現在、未来に対してどのような態度を取っているか述べられている。
過去に対して、正田先生は過去について過去の記憶と解説してるが、聖者は過去或は過去の記憶に対してこだわることがない。だから後悔をすることもなく、思い悩むこともない。
現在については、渇愛から離れているから、執着することがない。執着していないから、物事を正しく見て、判断できる。正しく見て、正しく判断できれば、正しく行為できる。正しく行為できれば、その結果は成功する。
そうすれば人からとやかく言われることなく、称賛される。聖者の現在はいつも平安。その周りの人々も幸せになる。
また、未来についてはまだ起きてないことだから、起きてない事柄について心配することはない。
未来に起きる事象を限りなく予測することが出来る。しかし、その中の一つが起きるかどうか分からない。世の中のことはすべて想定外のことが起きる場合の方がむしろ多い。それらについていちいち心配するのは無意味。
起きた現象に適切に対応すればよい。聖者は悩むことがないから、それらを巧妙に行うことが出来る。それは法に従うということで、聖者の方法。
(´・(ェ)・`)つ
0185名無しを整える。
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2017/12/09(土) 10:49:52.21ID:+fLDLAq4
>>183
○毎田周一先生訳
850.
この静かな人は怒らず怖れず
自惚れず また悔いることなく
聡明に語って 思いをたかぶらせず 
そして言葉を慎しむ

怒りとは、自分の情欲に対立することがある時起こる。しかし聖者は愛欲(妄執、渇愛)から離れているから、情欲がない。そのため怒りが現れない。だから聖者は怒らない。
恐怖とは、死ぬかもしれないという感情。すべての生き物は何としても生きていたいという想いがあるから死ぬかもしれないという感情は恐怖。
しかし、聖者は渇愛がないから、何としても生きていたいという想いがない。だから恐怖がない。そのため聖者は怖れない。
自惚れとは、他人と自分を比較して自分の優位を誇ること。しかし、比較するということをしない聖者は自惚れることはない。また、そもそも自分という想いのない聖者には誇る自己がない。ですから聖者は自惚れない。
悔いるとは、過去の行為について後悔すること。しかし、聖者は過去について捉われていないから後悔することがない。
聡明に語って(よく思慮して語り、明慧によって話し)とは、事実を語ること、自分の主観をまじえずに語ること。その際慈しみの心で語ること。自分の話しで他の人を傷つけることがないように配慮すること。
思いをたかぶらせず(そわそわすることなく、〔心が〕高ぶらない)とは、興奮せずに、落ち着いていること。
言葉を慎しむ(言葉を制し)とは、言葉に関する悪行為(妄語、両舌、悪口、無用語)をしないこと。

○毎田周一先生訳
851.
未来のことを期待せず
過ぎ去ったことを思い出して悲しまず
感覚に触れるものを一定の距離を置いて見
又自分の考えで人生の生き方を決めようともしない

仏教の時間論では過去・未来はなく、あるのは現在のみ。聖者は未来がないことは分かっているから、それに期待も心配もしない、それに執着しない。
過ぎ去ってもう存在しない、有るとすれば観念の世界、記憶の中にある。だから過去を過度に懐かしむことはなく、後悔することはない。だから聖者は過去を憂えるということがない。
現在は今の事柄であるとはいえ、無常だから絶えず変化している。今経験したこともすぐ変化する。だから今の経験にも執着せずに、冷静に対応する。
それが「[現在]感官で触れる諸々の対象について遠ざかり離れることを観じ」ということ。
更に、未来・現在・過去に対する正しい態度で接している聖者は、諸々の誤った見解に惑わせることがない。
梵網経(長部経典第1)の中で、ブッダは世の中の邪見を62に分類して述べている。それは過去に関する説18種と未来に関する説44種で、すべて過去と未来に関するもの。
要するに過去と未来に関する説は邪見になるということ。もちろん聖者はそのような邪見に惑うことはない。
(´・(ェ)・`)つ
0186名無しを整える。
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2017/12/09(土) 11:00:37.66ID:+fLDLAq4
>>183
○毎田周一先生訳
852.
物事に捉われず 正直で 
貪る心がなく 人のためにつくし
控え目で いやな感じを与えず 
人を中傷することがない

聖者のいろいろな特徴。
一番目は「遠ざかる」だが、何から遠ざかるのか?毎田先生は「物事に捉われず」としている。中村先生は「貪欲などから」と言葉を補っている。正田先生は「欲望の対象から」としている。貪瞋痴の煩悩から遠ざかりと理解してよい。
二番目は嘘をつかないこと、正直であること。
三番目は欲望がないこと。
四番目は物惜しみの思いがないこと。毎田先生は自分の持っているもので、「人のために尽くす」と表現されている。
五番目は傲慢でないこと。そのような人は「控え目な人」。
六番目は「嫌われない人」。そのような人はもちろん人に「いやな感じを与えない」。
七番目は「人を中傷しない」。中傷とは「無実のことを言って他人の名誉を傷つけること」だが、パーリ語の本来の意味は仲たがいをさせるような言葉を使うことなので、両舌の方が近い言葉。

○毎田周一先生訳
853.
快楽に耽らず 
思い上がっていい気にもならず 
おだやかで 機智に富み
自分の信ずることを人におしつけず 
又自分はどうしても無欲にならねばならぬとも思っていない

「快いものに耽溺せず」について。生きることのほとんどは苦であっても、少しの楽があるために人間は生きることを嫌がらずに、何としても生きて生きたいと思っている。
しかし、聖者は快いもの(快楽)は人間を迷わす毒だと知って快いもの(快楽)に耽溺しない。聖者はその理由を知って、渇愛を滅しているから、快いもの(快楽)に執着することがない。
「高慢にならず」について。852の「傲慢にならず」とほぼ同じ。毎田先生は「思い上がっていい気にもならず」と説明している。
「柔和で」について。正田先生は「〔所作進退が〕優雅で〔隙なく〕」と説明している。
「弁舌さわやかに」につい。毎田先生は「機智に富み」と訳されている。正田先生は「即応即答〔の知慧〕ある」と説明されている。教条的な知識でなく、事実に即した分かりやすい智慧による話をするということ。
「信じることなく」について。毎田先生は「自分の信ずることを人におしつけず」と訳された。正田先生は「限定された特定の信仰を持たず」と説明されている。注釈書には信は盲信として、自信が覚った法を信じ、誰の法も信じないとしている。
「なにかを嫌うこともない」について。毎田先生は「自分はどうしても無欲にならねばならぬとも思っていない」と訳された。
正田先生は「離貪という行為自体が存在しない」と説明された。聖者は何かをしようとする作為がないので、離欲もしようとも思わない。すなわち無為の態度。
(´・(ェ)・`)つ
0187名無しを整える。
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2017/12/09(土) 11:03:22.25ID:+fLDLAq4
>>183
○毎田周一先生訳
854.
何かを得ようとして学ぶのではなく 
従って何も得られなくてもあわてず
愛欲に捉われて 人と関係をきしませず 
又美味を貪りもしない

「利益を欲して学ぶのではない。」について。正田先生は「利得(行乞の施物)を欲して学ばず」と訳して、利得を行乞の施物と説明された。比丘(出家者)は食事のお布施をもらうために、経典を学ぶのではない。
次の「妄執のために他人に逆らうことなく」について。妄執は愛欲あるいは渇愛、欲望と考えて良い。「他人と逆らう」とは他人と対立すること。
何故対立するのか。それは他人と利益が対立するから。他人との対立の本質は利益の対立であり。欲望の対立。しかし、そもそも聖者は対立する欲望がないから、対立しない。
「美味に耽溺することもない。」について。853「快いものに耽溺せず」がより具体的に、「美味」になった。聖者は美味しいものにも耽溺しない。
解脱した人は、美味しいからと言ってそれに引きずられない。聖者にとっては味に関する煩いのない安穏な状態は最高。ブッダは「涅槃は最高だ。」と述べておられる。
(´・(ェ)・`)つ
0189名無しを整える。
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2017/12/10(日) 10:06:18.42ID:Fgndxcc4
ブッダのことば(スッタニパータ)
第4 八つの詩句の章、10、死ぬよりも前に


855 平静であって、常によく気をつけていて、世間において(他人を自分と)等しいとも思わない。また自分が勝れているとも思わないし、また劣っているとも思わない。かれは煩悩の燃え盛ることがない。

856 依りかかることのない人は、理法を知ってこだわることがないのである。かれには、生存の断滅のための妄執も存在しない。

857 諸々の欲望を顧慮することのない人、──かれこそ<平安なる者>である、とわたしは説く。かれには締めの結び目は存在しない。かれはすでに執著を渡り了えた。

858 かれには、子も、家畜も、田畑も、地所も存在しない。すでに得たものも、捨て去ったものも、かれのうちには認められない。

859 世俗の人々、または道の人・バラモンどもがかれを非難して(貪りなどの過)があるというであろうが、かれはその(非難)を特にきにかけることはない。それ故に、かれは論議されても、動揺することがない。

860 聖者は貪りを離れ、慳みすることなく、『自分は勝れたものである』とも、『自分は等しいものである』とも『自分は劣ったものである』とも論ずることがない。かれは分別を受けることのないものであって、妄想分別におもむかない。

861 かれは世間において<わがもの>という所有がない。また無所有を嘆くこともない。かれは[欲望に促されて]、諸々の事物に赴くこともない。かれは実に<平安なる者>と呼ばれる。」

(´・(ェ)・`)つ
0190名無しを整える。
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2017/12/10(日) 10:51:03.60ID:Fgndxcc4
>>189
○毎田周一先生訳
855.
歓び悲しみも届かぬ静かな処に いつもすっきりした気持で居り
この世の中で 自分を人と等しいとも思わなければ
また勝れているとも劣っているとも思わず
総じて何の思い上りもない

一行目。パーリ語のウペッカー(捨)、意味は冷静、平静。これは喜怒哀楽の感情から離れた状態。毎田先生は「歓び悲しみも届かぬ静かな処」と訳された。
この言葉のあとに「常に気づき(念)のある(者)」が続く。それは常に気づきあると、平静でいられるから。毎田先生は気づきのある状態を「すっきりした気持ちでいる」と訳された。気づきあれれば気持ちはすっきりしている。
二行目、三行目。「この世の中で、自分を人と等しいとも思わなければ、また勝れているとも劣っているとも思わず」。
これは、一行目の状態にある聖者は、自分を他人と等・勝・劣と思わない。平静で気づきのあると、自分を他人と比較することなく、等・勝・劣を思わない。自分と他人の区別よりも人間として、対等・平等であることを感じている。
四行目「彼には、諸々の増長〔の思い〕は存在しない。」(正田先生訳)。一行目から三行目で述べた聖者はこのような方だという。中村先生訳の「かれは煩悩の燃え盛ることがない。」ということ。

○毎田周一先生訳
856.
この人が何の拠り処ももたないのは
物事の本性をよく知って それによりかからぬからである
そこには生きようとする強い願いも
又生きることを止めようとする強い願いも そのどちらもない
(※○正田大観先生訳
彼に、〔他者に〕依存することが存在しないなら、
法(真理)を知って、依存なき者となります。
彼に、〔迷いの〕生存への〔渇愛の思いが〕、あるいは、〔迷いの〕生存から離れることへの
渇愛〔の思い〕が、見い出されないなら――(9))
一行目と二行目の関係は、三人の先生方の考え方が違う。毎田先生は、二行目が原因で一行目が結果。中村先生は一行目と二行目が並列的。正田先生は一行目が原因で二行目が結果。どの訳も一理ある。
パーリ語に忠実に訳すると正田先生のようになるが、そうすると、一行目はどのようにしてそうなるのか考えてしまう。すなわち、どのようにして依存しない者になるのかと言うこと。
その点、毎田先生のように、「物事の本性をよく知って それによりかからぬからである」と考えると解りやすい。依存しないためには、物事の本性をよく知ることだということになる。
物事の本性を知るとは、無常だと知るということ。無常なものには依存できない。無常なものは確固たるものではないから、それに依存できない。そのことを正しく知った人は依存しない。
という訳で、「物事の本性をよく知って それによりかからぬからである」ということになる。
三行目、四行目は、聖者には渇愛がないということ。渇愛の内容には三種類ある。@欲愛:五欲(眼、耳、鼻、舌、身、意の欲)に対する渇愛。A有愛:生きたいという渇愛。B無有愛:死にたいという渇愛。
この偈は渇愛の有愛と無有愛が表現されている。
一、二行目と三、四行目の関係。すなわち依存しないことと渇愛がないこととどのような関係があるのか?
キーワードは無常。物事の本性は無常であると知った人は、依存しないと同様に、物事の本性が無常だと知った人には渇愛は起こらない。
渇愛は渇愛の対象を契機として起こるが、その対象は無常であり、渇愛の対象になりえないと知ってしまえば、渇愛は起こらない。
五欲に対する渇愛は分かりやすい。生きることも、死ぬことも無常。今自分が考えている生も死も無常。渇愛の対象にならない。
そのことを正しく知れば聖者と同じように、「生きようとする強い願いも、又生きることを止めようとする強い願いも、そのどちらもない」。

(´・(ェ)・`)つ
0191名無しを整える。
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2017/12/10(日) 10:51:57.69ID:Fgndxcc4
>>189
○毎田周一先生訳
857.
色々の欲望を悉く顧みないでゆく人
こういう人を平安な人と私はいう
彼を縛るものは何もなく
彼は既に彼は執著をこえてしまっている

人々の関心の第一は自分の欲望だが、それに関心がない、期待しないということはどういうことか。
通常自分の欲は捨てられない。しかし、自分の欲を超える関心が自分の心に起きた時、それは因縁により起こる。
その時私達は自分の欲への関心がなくなる。その時私達は自分の欲を乗り越える。その時心から欲がなくなる。
このようにして、欲を顧みず、期待しない人は、欲のない人になり、欲のない状態を経験する。
欲望がなければ心を駆り立てるものがない。私達の心はこの駆り立てるものによって平安であることはできない、また静かな状態ではいられない。
しかし、心を駆り立てるものがなければ、平安で静かになる。そのため、欲望のない人は平安の者(寂静者)という。
そのような人には束縛(拘束するもの)はない。そして彼には執着の思いがなくなる。このような人は再生する結び目がないから、彼はもう輪廻転生はしない。

○毎田周一先生訳
858.
その人の処には子供も家畜もおらず 
田畑や屋敷もない
そして彼が手に入れたものとか 未だ手に入れなかったものとか
そういうものが彼の内には何もない

子供がいるということは結婚して幸せな家庭ができ子供ができるということ。家畜が居るということは畜産という安定した職業があり、田畑や屋敷があるということは財産があるということ。すなわちそれは現代でも通用する理想的な幸福の世間的なイメージ。
この偈では、子供もいない、家畜もいない、財産もない人について述べられている。これは世間的な考えでは不幸な人になる。それについて具体的な評価をしていない。
三行目のattとnirattにはそれぞれ二つの訳がある。
attは@得たもの、A自己、自我nirattは@捨てたもの、A無我、非我。毎田先生及び中村先生は、「得たもの、捨てたもの」の訳を取り、正田先生は「自己、自己でないもの」という訳をしている。
簡単に訳しなおすと「彼には得たものも捨てたものもない」或は「彼には自我も無我もない」ということになる。
これをあえて説明すれば、「彼には得ようとしたものも捨てようとしたものがない」であり、作為がないということになる。それを「自我も無我もない」という言葉で表現している。

○毎田周一先生訳
859.
世俗の人や修道者や婆羅門達が
この人のことをどんなにとやかくいおうと
いわれる事柄自身が既に彼の無視していることだから
そんな論議のために動かされはしない

世間の凡夫や覚ってない沙門やバラモンは、解脱と関係のないいろいろなことを言いう。
その中には人間は安定な職業を持って、結婚して家庭を持ち、子供を作ることが幸せなのだとも言う。
しかし、解脱という目的をわきまえた人には、そのような見解は眼中にない。またその他の世俗的な楽しみにも興味がないから、世俗の人々の言うことによって、心は動揺しない。
(´・(ェ)・`)つ
0192名無しを整える。
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2017/12/10(日) 10:54:49.96ID:Fgndxcc4
>>189
○毎田周一先生訳
860.
静かな人は貪らず 利己心がなく
自分が勝れているとも
また等しいとも 劣っているともいわないで
時の流れに流されず 却って時を超えている

貪りを離れることと慳(物惜しみ)がないことは、聖者にとって重要な徳目。
毎田先生は「慳(物惜しみ)」がない」ことを「利己心がなく」と訳された。852では「人のために尽くし」と訳された。もの惜しみの意味を深く考えてのこと。
二行目、三行目の「自分が勝れているとも また等しいとも 劣っているともいわないで」について。これらの境地は有身見(自分がいると言う感覚)のない聖者にとっては当然のこと。
すなわち、聖者は勝れているとか等しいとか劣っていることは単なる妄想であると実感している。
四行目は、三人の先生方の訳は表現がかなり異なる。kappaの意味の取り方。kappaはスッタニパータの373、517に出てきた。
kappaの意味を列挙。
@ 時、時間、劫(コウ)、長時、周期的な時間の長さを言う→輪廻の一時期をいうことがある
A 教令、法則
B 分別、妄想、はからい、想念、概念
C カッパ樹、如意樹
毎田先生はkappaの意味を「時間」と取って、「時の流れに流されず 却って時を超えている」と意訳された。
中村先生は「分別、妄想」と取って、「かれは分別を受けることのないものであって、妄想分別におもむかない。」と訳された。
正田先生は「時間」と取って「〔概念化した〕時間(劫:間時間の型枠・分別妄想・輪廻的あり方)なき者は、〔概念化した〕時間に至りません(輪廻しない・妄想しない)。」と訳され、カッコで説明されている。
仏教の時間論では過去・未来はなく、有るのは現在(今)のみ。今しかないから、時間はないとも言える。無時間。だから、時間に関する概念や思考はすべて妄想であると言っていい。
そのような考え方に立てば、時間で訳しても、妄想と訳しても同じことになる。「時の流れに流されず 却って時を超えている」とは「妄想の流れに流されず、かえって妄想を超えている」となる。

○毎田周一先生訳
861.
彼はこの世に自分の持物が何もないが
ないからといって別に悲しみはしない
又色々な事をとりあげて それにあくせくすることもない
――こういう人をこそ平安な人という」

この世において自分のものが何もなくとも悲しまない人は、自分自身も自分のものではないという事実が解っている人。
仏教は無我を説き、物を所有する個人すらないことを説いている。どうしてこの世において自分のものがないことに嘆くことがあるか。

三行目の直訳は「諸々の法において行かない」だが、中村先生が「欲望に促されて」捕捉して訳されているように、「かれは[欲望に促されて]、諸々の事物に赴くこともない。」であり、
毎田先生訳のように「それにあくせくすることもない」ということ。まさに、それは寂静者(平安なる者)と呼ばれる人。

(´・(ェ)・`)つ
0193鬼和尚 ◆GBl7rog7bM
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2017/12/10(日) 20:45:23.08ID:jdWhm8A6
それを訳してなぜ実践できないのかのう。
不思議なことじゃ。
0194名無しを整える。
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2017/12/10(日) 21:34:52.28ID:Fgndxcc4
>>193
鬼和尚、こんばんは。
どの部分に対するご指摘でありましょうか?
(´・(ェ)・`)つ
0195名無しを整える。
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2017/12/11(月) 18:38:40.45ID:59JZ/XEJ
ブッダのことば(スッタニパータ)
第4 八つの詩句の章、11、争 闘

862 「争闘と争論と悲しみと憂いと慳みと慢心と傲慢と悪口しは、どこから現われ出たのですか? これはどこから起ったのですか? どうか、それを教えてください。」

863 「争闘と争論と悲しみと憂いと慳(モノオシ)みと慢心し傲慢と悪口とは愛し好むものにもとづいて起る。争闘と争論とは慳みに伴い、争論が生じたときに、悪口が起る。」

864 「世間において、愛し好むものは何にもとづいて起るのですか。また世間にははびこる貪りは何にもとづいて起るのですか? また人が来世に関していだく希望とその成就とは、何にもとづいて起るのですか?」

865 「世の中で愛し好むもの及び世の中にはびこる貪りは、欲望にもとづいて起る。また人が来世に関していだく希望と成就とは、それにもとづいて起る。」

866 「さて世の中で欲望は何にもとづいて起るのですか? また(形而上学的な)断定は何から起るのですか? 怒りと虚言と疑惑と及び<道の人>(沙門)の説いた諸々のことがらは、何から起るのですか?」

867 「世の中で<快><不快>と称するものに依って、欲望が起る。諸々の物質的存在には正起と消滅とのあることを見て、世の中には<外的な事物にとらわれた>断定を下す。

868 怒りと虚言と疑惑、──これらのことがらも、(快と不快との)二つがあるときに現れる。疑惑ある人は知識の道に学べ。<道の人>は、知って、諸々のことがらを説いたのである。」

869 「快と不快とは何にもとづいて起るのですか? また何がないときにこれらのものが現れないのですか? また生起と消滅ということの意義と、それの起るもととなっているものを、われに語ってください。」
(´・(ェ)・`)つ
0196名無しを整える。
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2017/12/11(月) 18:57:50.21ID:59JZ/XEJ
>>195
○毎田周一先生訳
862.
「何処から闘争と論争と
憂いと悲しみと 利己心と
傲慢と 人に対する誹謗とが 起こるのでしょうか
それがどこから起こるかを どうぞお教えて下さい

この経の因縁物語は「死前経」と同じように、神々の大集会でブッダの説法を聞いていて、「一体どこから争いなど八つのことが起こるのか?」
という疑問を持った神々がいたので、その理由を明らかにするために、化仏(ブッダの化身)を作り、自分に質問させて、この経を説いたと言われている。

○毎田周一先生訳
863.
「闘争と論争と
憂いと悲しみと 利己心
傲慢と 人に対する誹謗とは 愛ゆえに起こる
闘争と論争とは 利己心に結びつき
論争が起これば 人を誹謗するようになる」

化仏の質問に対するブッダの回答。
質問の回答は、すべて「愛」=「愛し好むもの」=「愛しいもの(自己中心的な愛着や愛執の対象)」から起こるというもの。愛が「自己中心的な愛着や愛執の対象」であると解説される。
以上の回答に追加して、争いと論争については物惜しみ(=利己心)に結びついていると述べられている。
子供の時は玩具の取り合いから、青年期になれば恋人の取り合い、成人になれば仕事の取り合い、国家間では領土の取り合いで戦争になる。これらはすべて愛し好むものの取り合い。
これらの争いに負けた者たちは、憂いと悲しみがある。また勝った者たちも無傷ではいられない。負けた者たちの報復が待っている。安心して寝ていられない。いつ攻撃があるか分からない。いつも不安な夜を過ごさなければならない。
勝者も敗者と同じように憂いと悲しみがある。これらすべて「愛」から起こる。
争いが起これば、口での争いも起こり、論争になります。そして論争が起これば、悪口や誹謗、中傷なども出てくる。

○毎田周一先生訳
864.
「愛はこの世で何を元として起こるのでしょうか
又世間に拡がってゆく貪りは 何から起こりますか
そして人が来世に向って希望を抱き
それが果たされるのは 何に基づくのでしょうか」

ブッダの回答に対する質問者(化身)の質問。何に基づいて争いと論争など八項目が起きるかという質問に対して、ブッダはすべて愛(愛し好むもの)に基づいて起こると答えた。
この質問者はここで、それならば「愛」は何に基づいて起こるのか質問した。
更に、この質問者は、世間に蔓延している貪欲は何に基づいて起こるのか質問した。
また、「人が来世に向って希望を抱き、それが果たされるのは何に基づくのか」と質問した。この意味は人々が死後、善い所に生まれ変わる希望を持って、その結果が現れるのは何に基づくのかということ。
(´・(ェ)・`)つ
0197名無しを整える。
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2017/12/11(月) 19:00:21.52ID:59JZ/XEJ
>>195
○毎田周一先生訳
865.
「この世に愛があり
世間に拡がる貪りがあるのも欲求ゆえのことである
人が来世に向って希望を抱き それが果たされるのも 
同じく欲求ゆえのことである」

「愛(愛するもの)は欲望に基づいて起こる」とブッダは答えた。
愛(愛するもの)は、好きなもの。これは欲望がなければないのか? それがはっきりわからないのは、私達にはいつも欲望があるから。欲望がない状態を知らないから。
欲望がなかった時を経験していれば、その時、愛するもの好きなものがないことがよく分かるはず。
この偈では貪欲も欲望に基づいて起こると述べられている。貪欲は欲望に対する執着だから、欲望がないとき貪欲は起こらない。
また、来世に対する希望とその結果も、死後にも安楽な生活をしたいという欲望から起こることは明らか。

○毎田周一先生訳
866.
「それではその欲求は この世で何を元として起こるのでしょうか
又色々に考えて断定を下すことは 何に由るのでしょうか
怒りと嘘と疑いと そして
修道者があれこれと指摘する事柄は 何に基づくのでしょうか」

質問者は、その欲望は何に基づいて起こるのか質問した。
しかし、次に「断定」が続くのは少し分かりにくい。毎田先生はいろいろ考えて結論を出すという意味で「断定」と言っている。
中村先生は、欲望が世俗的なテーマだから、それに対して、世俗を超越したという意味で、断定に「形而上学的な」という説明を付けた。
正田先生は「〔世の人々が下す〕諸々の〔断定的〕判断」としている。
いずれにせよ、質問者は、欲望に続いて、断定は何に基づいて起こるのかを質問している。
さらに、怒りと偽りの言葉と疑惑は何に基づいて起こるかと質問した。
「修道者=<道の人>(沙門)=沙門」の意味は注釈書によるブッダを指している。つまりブッダによって説かれた「怒りと偽りの言葉と疑惑」ということ。

○毎田周一先生訳
867.
「この世で『快と不快』とはいわれることを元として
欲求が生じる
色や形の世界で なくなるとか生じるとかいうことのあるのを見て
世間の人は考えをめぐらし断定を下すのである

欲望が発生するのは、欲望の対象である物があるから。しかし、ただ物があるだけでは欲望が発生しない。
そこで、、物に触ったとき、快とか不快とかを感じられる物から欲望が発生すると述べている。
より具体的に言うならば、見て美しいと感じられるとか美しくないと感じられるもの、或は美味しいとか不味いと感じられるもの等が欲望を発生させるのだということ。
この偈の後半は、「断定は何から起こるのですか」と言う質問にたいする回答。
すなわち「色や形の世界」=「物質的存在」=「形態」の消滅と生起が断定(判断)の因縁になっていると説かれている。
(´・(ェ)・`)つ
0198名無しを整える。
垢版 |
2017/12/11(月) 19:01:17.19ID:59JZ/XEJ
>>195
○毎田周一先生訳
868.
怒りと嘘と疑いと
これらも亦(快と不快との)二つに過ぎない
そして思い惑う人は 修道者があれこれと指摘していることを知って
智慧の道を進むようにするがよい」

866の質問「怒りと嘘と疑惑は何から起こるのですか?」に対するブッダの解答。ブッダはこれらも「快と不快」の二つがあるとき現れると説かれた。
怒りについては、分かりやすい。不快なものに対してはそれを避けようとするエネルギーが現れる。それが怒り。そのため怒りは「快と不快」があるとき現れると説かれた。
ここで「不快」と表現せずに。「快と不快」と表現されているのは、快と不快は個人によって受け止め方が異なるから。
人間に好き嫌いという感情を引き起こすものが怒りの元になるから。
それでは、なぜ嘘は快と不快から起こるのか?「人は何故嘘をつくのでしょうか?」。 それは浅はかな自己防衛のため。
浅はかなというのは、真の意味で自己防衛は真実にあることを知らない者の自己防衛だから。
自己防衛とは、不快を避けて、快を求めること。これが死から免れることだと思っている。この目的のためには事実か虚偽かは問題にならない。ある場合には事実に反することでも言う。これが嘘の真相。
では、疑惑はどのようにして「快と不快」から起こるのか?
疑惑も自己防衛の結果だが、その「快と不快」が避けるべきものか受け入れるべきものか分からないとき現れる。そのような者に対しては、沙門(ブッダ)が説かれた「智慧に関する知識」を学ぶとよいと教えている。

○毎田周一先生訳
869.
「快と不快とは又何を元にして起こるのでしょうか
何がないとき これらもないのでしょうか
また『なくなるとか 生じるとか』いうことの意味は
何に基づくのでしょうか それを話して下さい」

ブッダが、「欲望は快と不快から起こる。また怒りと嘘と疑いも快と不快から起こる」答えられたので、質問者は、更に「快と不快とは何を元として起こるのか?」と質問した。
ブッダの解答が快と不快と無関係の事柄でないことを確かめるために、「何がないとき、快と不快がないのか?」と質問している。
それは「AがあるときBがあり、AがないときBがない。」という形式の質問。このときAとBに因果関係がある。
更に、この質問者は、快と不快が有るときと無いときと、物事の生起と消滅に何等かの関係があるのではないかと予想したのか、「生起と消滅ということの意義と、それの起こるもととなっているものを、教えて下さい。」と頼んだ。
(´・(ェ)・`)つ
0199鬼和尚 ◆GBl7rog7bM
垢版 |
2017/12/11(月) 22:02:33.35ID:drEez4CN
全体的にじゃな。
このようにすれば安楽になると知っていても出来ないのは不思議なのじゃ。
0200名無しを整える。
垢版 |
2017/12/11(月) 22:24:21.69ID:59JZ/XEJ
>>199
集中する訓練と、
ありのままに観察することだけで、
楽になれると言う実感を得てから、学んだ方が、
書かれていることの意味がよくわかるかも知れぬでありますね。
頭でっかちにになり、専門用語の知識ばかりついても、ちぃ〜とも役にたたないばかりか、逆に邪魔になるかもでありますね。

そんな意味でありましょうか?
(´・(ェ)・`)つ
0201名無しを整える。
垢版 |
2017/12/12(火) 15:49:09.53ID:hF+NjSln
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今月の生活費が足りないかも… 。
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