鬼和尚の仏教勉強会 悟りの真実 2 [無断転載禁止]©2ch.net
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大好評なので、続スレッドを建てたのじゃ
みな、儂のことが好きなのじゃ
よって、みな、儂の弟子じゃ
儂は、悟りを開いて、もうこれ以上、悟ることはないのが、みなは、そうではないじゃろ
儂のように悟りたければ、儂の言うことを聞くのじゃ 155、156 でありますが、
清貧修行のすすめと言うことでよいのでありましょうか?
若いうちに努力して、実利的な技をみがき、財を得るか、そうでなければ、修行せよとの解釈を読んだことがあるであります。
(´・(ェ)・`)つ 若いときに放蕩をして財産を無くさないようにするのじゃというのじゃ。
足るを知るようにという在家のものに対する教えじゃな。 >>682
(´・(ェ)・`)つ
ふむふむ。なるへそへそのごまであります。
鬼和尚ありがとうであります。 真理のことば(ダンマパダ)
第十二章 自 己
157 もしもひとが自己を愛しいものと知るならば、自己をよく守れ。賢い人は、夜の三つの区分のうちの一つだけでも、つつしんで目ざめておれ。
158 先ず自分を正しくととのえ、次いで他人を教えよ。そうすれば賢明な人は、煩わされて悩むことが無いであろう。
159 他人に教えるとおりに、自分でも行なえ──。自分をよくととのえた人こそ、他人をととのええるであろう。自己は実に制し難い。
160 自己こそ自分の主である。他人がどうして(自分の)主であろうか? 自己をよくととのえたならば、得難き主を得る。
161 自分がつくり、自分から生じ、自分から起った悪が知慧悪しき人を打ちくだく。──金剛石が宝石を打ちくだくように。
(´・(ェ)・`)つ 161
金剛石は、堅くて強いことの例えのようでありますが、
ここでは、しぶとい自我のことを言ってるのでありますね。
(´・(ェ)・`)つ そのようなものじゃ。
自己を整えて安楽になるのじゃ。 真理のことば(ダンマパダ)
第十二章 自 己
162 極めて性の悪い人は、仇敵がかれの不幸を望むとおりのことを、自分に対してなす。──蔓草(ツルクサ)が沙羅の木にまといつくように。
163 善からぬこと、己れのためにならぬことは、なし易い。ためになること、善いことは、実に極めてなし難い。
164 愚かにも、悪い見解にもとづいて、真理に従って生きる真人・聖者たちの教えを罵るならば、その人は悪い報いが熟する。──カッタカという草は果実が熟すると自分自身が滅びてしまうように。
165 みずから悪をなすならば、みずから汚れ、みずから悪をなさないならば、みずから浄まる。浄いのも浄くないのも、各自のことがらである。人は他人を浄めることができない。
166 たとい他人にとっていかに大事であろうとも、(自分ではない)他人の目的のために自分のつとめをすて去ってはならぬ。自分の目的を熟知して、自分のつとめに専念せよ。
(´・(ェ)・`)つ
人は他人を浄めることができないのでありますね。
自分の目的を知り、自分のつとめに専念しなけりゃいけないのでありますね。 そうじゃ、他人を見ずに自分の修業に励むのじゃ。
そうすれば悩まされることも囚われることもなく進めるのじゃ。
実践あるのみなのじゃ。 真理のことば(ダンマパダ)
第十三章 世の中 】
167 下劣なしかたになじむな。怠けてふわふわと暮らすな。邪な見解をいだくな。世俗のわずらいをふやすな。
168 奮起てよ。怠けてはならぬ。善い行いのことわりを実行せよ。ことわりに従って行なう人は、この世でも、あの世でも、安楽に臥す。
169 善い行ないのことわりを実行せよ。悪い行ないのことわりを実行するな。ことわりに従って行なう人は、この世でも、あの世でも、安楽に臥す。
170 世の中は泡沫のごとしと見よ。世の中はかげろうのごとしと見よ。世の中をこのように観ずる人は、死王もかれを見ることがない。
171 さあ、この世の中を見よ。王者の車のように美麗である。愚者はそこに耽溺(タンデキ)するが、心ある人はそれに執著しない。
(´・(ェ)・`)つ
怠けてふわふわ暮らすくまさ、下劣な仕方になじんでるのだと自覚せねばなりますまい。 そうじゃ、執着せず精進すれば安楽になるのじゃ。
実践あるのみなのじゃ。 真理のことば(ダンマパダ)
第十三章 世の中 】
172 また以前は怠りなまけていた人でも、のちに怠りなまけることが無いなら、その人はこの世の中を照らす。──あたかも雲を離れた月のように。
173 以前には悪い行ないをした人でも、のちに善によってつぐなうならば、その人はこの世の中を照らす。──雲を離れた月のように。
174 この世の中は暗黒である。ここではっきりと(ことわりを)見分ける人は少ない。網から脱れた鳥のように、天に至る人は少ない。
175 白鳥は太陽の道を行き、神通力による者は虚空(ソラ)を行き、心ある人々は、悪魔とその軍勢にうち勝って世界から連れ去られる。
176 唯一なることわりを逸脱し、偽りを語り、彼岸の世界を無視している人は、どんな悪でもなさないものは無い。
177 物惜しみする人々は天の神々の世界におもむかない。愚かな人々は分かちあうことをたたえない。しかし心ある人は分かちあうことを喜んで、そのゆえに来世には幸せとなる。
178 大地の唯一の支配者となるよりも、天に至るよりも、全世界の主権者となるよりも、聖者の第一階梯(カイテイ)(預流果)のほうがすぐれている。
世界初の、聖者の第一階梯(カイテイ)(預流果)のくまになるのである。
(´-(ェ)-`)つ 真理のことば(ダンマパダ)
第十四章 ブッダ
179 ブッダの勝利は敗れることがない。この世においては何人も、かれの勝利には達しえない。ブッダの境地はひろくて涯しがない。足跡をもたないかれを、いかなる道によって誘い得るであろうか?
180 誘なうために網のようにからみつき執著をなす妄執は、かれにはどこにも存在しない。ブッダの境地は、ひろくて涯しがない。足跡をもたないかれを、いかなる道によって誘い得るであろうか?
181 正しいさとりを開き、念いに耽り、瞑想に専中している心ある人々は世間から離れた静けさを楽しむ。神々でさえもかれを羨む。
182 人間の身を受けることは難しい。死すべき人々に寿命があるのも難しい。正しい教えを聞くのも難しい。もろもろのみ仏の出現したもうことも難しい。
(´・(ェ)・`)つ そうじゃ、少ないチャンスをいかすのじゃ。
精進あるのみなのじゃ。 >>694
鬼和尚、こんばんは。
預流果とは、「煩悩を断じ終って、もはや地獄、餓鬼、畜生の三悪道に堕ちることがなくなる状態」だそうでありますが、
具体的にどんな状態になったら預流果と言えるのでありましょうか?
(´・(ェ)・`)つ 真理のことば(ダンマパダ)
第十四章 ブッダ
183 すべて悪しきことをなさず、善いことを行ない、自己の心を浄めること、──これが諸の仏の教えである。
184 忍耐・堪忍は最上の苦行である。ニルヴァーナは最高のものであると、もろもろのブッダは説きたまう。他人を害する人は出家者ではない。他人を悩ます人は<道の人>ではない。
185 罵らず、害わず、戒律に関しておのれを守り、食事に関して(適当な)量を知り、淋しいところにひとり臥し、坐し、心に関することにつとめはげむ。──これがもろもろのブッダの教えである。
186 たとえ貨幣の雨を降らすとも、欲望の満足されることはない。「快楽の味は短くて苦痛である」としるのが賢者である。
187 天上の快楽にさえもこころ楽しまない。正しく覚った人(=仏)の弟子は妄執の消滅を楽しむ。
188 人々は恐怖にかられて、山々、林、園、樹木、霊樹など多くのものにたよろうとする。
(´・(ェ)・`)つ >>695 いろいろ説があるのじゃ。
自分の身があるという見解や苦行などが正しいという見解や疑いを離れている状態というのじゃ。
正しい教えを受け入れる心境になった状態といえるのじゃ。
そうなればもはや三悪に堕ちる心配も無いのじゃ。 >>697
鬼和尚ありがとうであります。
くまは、
自分の身があるという見解からは、離れることができてないであります。
苦行などが正しいという見解は、離れてるであります。
正しい教えを受け入れる心境にはなってるのでありますが、
実感が伴わないのであります。
(´-(ェ)-`)つ 真理のことば(ダンマパダ)
第十四章 ブッダ
189 しかしこれは安らかなよりどころではない。これは最上のよりどころではない。それらのよりどころによってはあらゆる苦悩から免れることはできない。
190、191 さとれる者(=仏)と真理のことわり(=法)と聖者の集い(=僧)とに帰依する人は、正しい知慧をもって、四つの尊い真理を見る。
──すなわち(1)苦しみと、(2)苦しみの成り立ちと、(3)苦しみの超克(チョウコク)と、(4)苦しみの終減(オワリ)におもむく八つの尊い道(八聖道)とを(見る)。
192 これは安らかなよりどころである。これは最上のよりどころである。このよりどころにたよってあらゆる苦悩から免れる。
193 尊い人(=ブッダ)は得がたい。かれはどこにでも生れるのではない。思慮深い人(=ブッダ)の生れる家は、幸福に栄える。
194 もろもろのみ仏の現われたまうのは楽しい。正しい教えを説くのは楽しい。つどいが和合しているのは楽しい。和合している人々がいそしむのは楽しい。
195、196 すでに虚妄な論議をのりこえ、憂いと苦しみをわたり、何ものをも恐れず、安らぎに帰した、拝むにふさわしいそのような人々、もろもろのブッダまたその弟子たちを供養するならば、この功徳はいかなる人でもそれを計ることができない。
(´・(ェ)・`)つ
鬼和尚、おはようであります。
くまは、できるだけ「今」に意識をとどめおくことと、自己観察の実践により、
四つの尊い真理─(1)苦しみと、(2)苦しみの成り立ちと、(3)苦しみの超克(チョウコク)と、(4)苦しみの終減(オワリ)
(3)の途中くらいまで来れたであります。
鬼和尚のおかげであります。 >>698 更に実践あるのみなのじゃ。
>>699 善いことじゃ。
おぬしの実践の賜物なのじゃ。
更に精進あるのみなのじゃ。 真理のことば(ダンマパダ)
第十五章 楽しみ
197 怨みをいだいている人々のあいだにあって怨むこと無く、われらは大いに楽しく生きよう。
怨みをもっている人々のあいだにあって怨むこと無く、われらは暮らしていこう。
198 悩める人々のあいだにあって、悩み無く、大いに楽しく生きよう。悩める人々のあいだにあって、悩み無く暮そう。
199 貪っている人々のあいだにあって、患い無く、大いに楽しく生きよう。貪っている人々のあいだにあって、むさぼらないで暮らそう。
200 われわれは一物をも所有していない。大いに楽しく生きて行こう。光り輝く神々のように、喜びを食(ハ)む者となろう。
201 勝利からは怨みが起る。敗れた人は苦しんで臥す。勝敗をすてて、やすらぎに帰した人は、安らかに臥す。
202 愛欲にひとしい火は存在しない。ばくちに負けるとしても、増悪にひとしい不運は存在しない。
このかりそめの身にひとしい苦しみは存在しない。やすらぎにまさる楽しみは存在しない。
203 飢えは最大の病いであり、形成せられた存在(=わが身)は最もひどい苦しみである。このことわりをあるがままに知ったならば、ニルヴァーナという最上の楽しみがある。
>>700
鬼和尚ありがとうであります。
203 ニルヴァーナという最上の楽しみ て言うのは、苦を乗り越えた先の境地でありましょうかね。
(´・(ェ)・`)つ そうじゃ、苦を滅して永遠の喜びに至るのじゃ。
全ての苦の根本原因は自我であるからのう。
苦から観察して自我も滅する境地に至れば大悟も近いのじゃ。
実践あるのみなのじゃ。 真理のことば(ダンマパダ)
第十五章 楽しみ
204 健康は最高の利得であり、満足は最上の宝であり、信頼は最高の知己であり、ニルヴァーナは最上の楽しみである。
205 孤独(ヒトリイ)の味、心の安らいの味をあじわったならば、恐れも無く、罪過も無くなる、──真理の味をあじわいながら。
206 もろもろの聖者に会うのは善いことである。かれらと共に住むのはつねに楽しい。愚かなる者どもに会わないならば、心はつねに楽しいであろう。
207 愚人とともに歩む人は長い道のりにわたって憂いがある。愚人と共に住むのは、つねにつらいことである。──仇敵とともに住むように。
心ある人と共に住むのは楽しい。──親族に出会うように。
208 よく気をつけていて、明らかに知慧あり、学ぶところ多く、忍耐づよく、戒めをまもる、そのような立派な聖者・善き人、英知ある人に親しめよ。──月がもろもろの星の進む道にしたがうように。
>>702
鬼和尚、おはようであります(´・(ェ)・`)つ
くまは、おろかなくまであります。
おろかなくまとともに歩むのはつらくても、お釈迦さんはともに歩んでくれるのでありましょう。
けど、自分のことは自分でしなくちゃだれも救ってくれないのでありましょう。 >>703 そうじゃ、自分で自分を救うのじゃ。
ほかに救うものなどいないのじゃ。
自分を主として進むのじゃ。 真理のことば(ダンマパダ)
第十六章 愛するもの
209 道に違(タゴ)うたことになじみ、道に順(シタガ)ったことにいそしまず、目的を捨てて快いことだけを取る人は、みずからの道に沿って進む者を羨むに至るであろう。
210 愛する人と会うな。愛しない人とも会うな。愛する人に会わないのは苦しい。また愛しない人に会うのも苦しい。
211 それ故に愛する人をつくるな。愛する人を失うのはわざわいである。愛する人も憎む人もいない人々には、わずらいの絆が存在しない。
212 愛するものから憂いが生じ、愛するものから恐れが生ずる、愛するものを離れたならば、憂いは存在しない。どうして恐れることがあろうか?
213 愛情から憂いが生じ、愛情から恐れが生ずる。愛情を離れたならば憂いが存在しない。どうして恐れることがあろうか?
214 快楽から憂いが生じ、快楽から恐れが生じる。快楽を離れたならば憂いが存在しない。どうして恐れることがあろうか?
>>705
(´・(ェ)・`)つ
鬼和尚おはようであります。
頑張るであります。 そうじゃ、精進あるのみなのじゃ。
執着が無ければ恐れもないのじゃ。
囚われずに進むのじゃ。 真理のことば(ダンマパダ)
第十六章 愛するもの
215 欲情から憂いが生じ、欲情から恐れが生じる。欲情を離れたならば、憂いは存しない。どうして恐れることがあろうか。
216 妄執から憂いが生じ、妄執から恐れが生じる。妄執を離れたならば、憂いは存しない。どうして恐れることがあろうか。
217 徳行と見識とをそなえ、法にしたがって生き、真実を語り、自分のなすぺきことを行なう人は、人々から愛される。
218 ことばで説き得ないもの(ニルヴァーナ)に達しようとする志を起し、意(オモイ)はみたされ、諸の愛欲に心の礙げられることのない人は、(流れを上る者)とよばれる。
219 久しく旅に出ていた人が遠方から無事に帰って来たならば、親戚・友人・親友たちはかれが帰って来たのを祝う。
220 そのように善いことをしてこの世からあの世に行った人を善業が迎え受ける。──親族が愛する人が帰って来たのを迎え受けるように。
(´・(ェ)・`)つ220の「善業が迎え受ける。」とは、善行の結果がその人にあらわれると言う意味だそうであります。善因善果でありますね。
>>707
鬼和尚ありがとうであります。 そうじゃ、常に善事をしていれば善い所に生まれかわるのじゃ。
どんどん善事を積むとよいのじゃ。 真理のことば(ダンマパダ)
第十七章 怒 り
221 怒りを捨てよ。慢心を除き去れ。いかなる束縛をも超越せよ。名称と形態とにこだわらず、無一物となった者は、苦悩に追われることがない。
222 走る車をおさえるようにむらむらと起る怒りをおさえる人──かれをわれは<御者>とよぶ。他の人はただ手綱を手にしているだけである。(<御者>とよぶにはふさわしくない。)
223 怒らないことによって怒りにうち勝て。善いことによって悪いことにうち勝て。わかち合うことによって物惜しみにうち勝て。真実によって虚言の人にうち勝て。
224 真実を語れ。怒るな。請われたならば、乏しいなかから与えよ。これらの三つの事によって(死後には天の)神々のもとに至り得るであろう。
鬼和尚おはようであります。(´・(ェ)・`)つ
くまも観察により怒りを消し去ることが、だいぶできるようになったであります。
でもそれは過去の怒りであります。
今まさに直面する事態に対しては、反応として怒りを感じてしまうであります。
そんな時は、できるだけ怒りを感じてると観察、自覚するようにしてるであります。
くまも鬼和尚のように、くまは何も思わないのじゃ と言えるようになりたいであります。 ふむ。
>むらむらと起る怒りをおさえる人──かれをわれは<御者>とよぶ。
取敢ず、御者になればよいのでありますね。
くま、観察によりいろいろと楽になったのであります。
けど、不動心が身に付いたと言うよりも、生来怠け者のくまが、何もかもどぉ〜でもよくなっちゃったみたいな感じなのであります。
そのような自分に対して怒り、克己心を奮い起こす為に怒りを使えばよいのでありますね。
(´・(ェ)・`)b そうじゃ、何でも使うとよいのじゃ。
勇猛心で恐れも乗り越えるのじゃ。
実践あるのみなのじゃ。 真理のことば(ダンマパダ)
第十七章 怒 り
225 生きものを殺すことなく、つねに身をつつしんでいる聖者は、不死の境地(クニ)におもむく。そこに至れば、憂えることがない。
226 ひとがつねに目ざめていて、昼も夜もつとめ学び、ニルヴァーナを得ようとめざしているならば、もろもろの汚れは消え失せる。
227 アトゥラよ。これは昔にも言うことであり、いまに始まることでもない。沈黙している者も非難され、多く語る者も非難され、すこしく語る者も非難される。世に非難されない者はいない。
228 ただ誹られるだけの人、またただ褒められるだけの人は、過去にもいなかったし、未来にもいないであろう、現在にもいない。
(´・(ェ)・`)つ そうじゃ、世間の者は昨日褒めた者を今日は非難したりするものじゃ。
権力に阿ったりするためにのう。
世間の評価に真実は無いのじゃ。
ただひたすらに悟りを目指すのじゃ。 真理のことば(ダンマパダ)
第十七章 怒 り
229 もしも心ある人が日に日に考察して、「この人は賢明であり、行ないに欠点がなく、知慧と徳行とを身にそなえている」といって称讃するならば、
230 その人を誰が非難し得るだろうか? かれはジャンブーナダ河から得られる黄金でつくった金貨のようなものである。神々もかれを称讃する。梵天でさえもかれを称讃する。
231 身体がむらむらするのを、まもり落ち着けよ。身体について慎んでおれ。身体による悪い行ないを捨てて、身体によって善行を行なえ。
232 ことばがむらむらするのを、まもり落ち着けよ。ことばについて慎んでおれ。語(コトバ)による悪い行ないを捨てて、語によって善行を行なえ。
233 心がむらむらするのを、まもり落ち着けよ。心について慎んでおれ。心による悪い行ないを捨てて、心によって善行を行なえ。
(´・(ェ)・`)つ
むらむらくまくま 怒りを捨てて肉体と言葉と心で善事をするのじゃ。
そうすれば死んでも安心なのじゃ。 怒りは肉体も心も蝕むものでありますね。
しぶとく、克服しがたい感情でありますね。
けど、きっと、転化できれば凄いエネルギー源になるでありましょう。
そのエネルギーで善事を行えれば、よいのでありますが・・・・・
実戦あるのみでありますね。
(´・(ェ)・`)つ
鬼和尚、いつもありがとうであります! 真理のことば(ダンマパダ)
第十七章 怒 り
234 落ち着いて思慮ある人は身をつつしみ、ことばをつつしみ、心をつつしむ。このようにかれらは実によく己れをまもっている。
第十八章 汚 れ
235 汝はいまや枯葉のようなものである。閻魔王の従卒もまた汝に近づいた。汝はいま死出の門路に立っている。しかし汝には旅の資糧(カテ)さえも存在しない。
236 だから、自己のよりどころをつくれ。すみやかに努めよ。賢明であれ。汚れをはらい、罪過がなければ、天の尊い処に至るであろう。
237 汝の生涯は終りに近づいた。汝は、閻魔王の近くにおもむいた。汝には、みちすがら休らう宿もなく、旅の資糧も存在しない。
238 だから、自己のよりどころをつくれ。すみやかに努めよ。賢明であれ。汚れをはらい、罪過がなければ、汝はもはや生と老いとに近づかないであろう。
239 聡明な人は順次に少しずつ、一刹那ごとに、おのが汚れを除くべし、──鍛冶工が銀の汚れを除くように。
240 鉄から起った錆が、それから起ったのに、鉄自身を損なうように、悪をなしたならば、自分の業が罪を犯した人を悪いところ(地獄)にみちびく。
241 読誦しなければ聖典が汚れ、修理しなければ家屋(イエ)が汚れ、身なりを怠るならば容色が汚れ、なおざりになるならば、つとめ慎しむ人が汚れる。
(´・(ェ)・`)つ >>717 そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。
どんどん実践すると善いのじゃ。 真理のことば(ダンマパダ)
第十八章 汚 れ
242 不品行は婦女の汚れである。もの惜しみは、恵み与える人の汚れである。悪事は、この世においてもかの世においても(つねに)汚れである。
243 この汚れよりもさらに甚だしい汚れがある。無明こそ最大の汚れである。修行僧らよ。この汚れを捨てて、汚れ無き者となれ。
244 恥をしらず、烏のように厚かましく、図々しく、ひとを責め、大胆で、心のよごれた者は、生活し易い。
245 恥を知り、常に清きをもとめ、執著をはなたれ、つつしみ深く、真理を見て清く暮す者は、生活し難い。
246 247 生きものを殺し、虚言(イツワリ)を語り、世間において与えられないものを取り、他人の妻を犯し、穀酒・果実酒に耽溺する人は、この世において自分の根本を掘りくずす人である。
248 人よ。このように知れ、──慎みがないのは悪いことである。──貪りと不正とのゆえに汝がながく苦しみを受けることのないように。
(´・(ェ)・`)つ
無明こそは最大の「汚れ」なのでありますね。
うぅぅ 無明=自我があると思っている、>>244 のような、心のよごれた者は、生き易く、
無我に至った>>245 のような聖者は生き難いのでありますね。。
苦の根本原因は、我があるという誤った観念だからこそ、「無明こそは最大の「汚れ」」といわれ、るのでありますね。
たとえ生きにくくても、苦を克服したければ、無我に至る道を歩むべきなのでありますね。
(´・(ェ)・`)つ そうじゃ、無明が観察されてなくなるまで精進あるのみなのじゃ。
自分という固体があるという観念が無ければ一切の苦も無いのじゃ。
そして苦のない清浄の境地に至るのじゃ。 真理のことば(ダンマパダ)
第十八章 汚 れ
249 ひとは、信ずるところにしたがって、きよき喜びにしたがって、ほどこしをなす。だから、他人のくれた食物や飲料に満足しない人は、昼も夜も心の安らぎを得ない。
250 もしひとがこの(不満の思い)を絶ち、根だやしにしたならば、かれは昼も夜も心のやすらぎを得る。
251 情欲にひとしい火は存在しない。不利な骰(サイ)の目を投げたとしても、怒りにひとしい不運は存在しない。迷妄にひとしい網は存在しない。妄執にひとしい河は存在しない。
252 他人の過失は見やすいけれど、自己の過失は見がたい。ひとは他人の過失を籾殻のように吹き散らす。しかし自分の過失は、隠してしまう。──狡猾な賭博師が不利な骰(サイ)の目をかくしてしまうように。
253 他人の過失を探し求め、つねに怒りたける人は、煩悩の汚れが増大する。かれは煩悩の汚れの消滅から遠く隔っている。
254 虚空には足跡が無く、外面的なことを気にかけるならば、<道の人>ではない。ひとびとは汚れのあらわれをたのしむが、修行完成者は汚れのあらわれをたのしまない。
255 虚空には足跡が無く、外面的なことを気にかけるならば、<道の人>ではない。造り出された現象が常住であることは有り得ない。真理をさとった人々(ブッダ)は、動揺することがない。
(´・(ェ)・`)つ うむ。
狡猾な賭博師くまではなく、道のくまになるであります。
(´・(ェ)・`)つ そうじゃ、自分のしたこととしなかったことだけをみるのじゃ。
それが出来れば道の人にもなるのじゃ。
心を整えて進むのじゃ。 真理のことば(ダンマパダ)
第十九章 道を実践する人
256 あらあらしく事がらを処理するからとて、公正な人ではない。賢明であって、義と不義との両者を見きわめる人。
257 粗暴になることなく、きまりにしたがって、公正なしかたで他人を導く人は、正義を守る人であり、道を実践する人であり、聡明な人であるといわれる。
258 多く説くからとて、それゆえにかれが賢者なのではない。こころおだやかに、怨むことなく、恐れることのない人、──かれこそ<賢者>と呼ばれる。
259 多く説くからとて、それゆえにかれが道を実践している人なのではない。たとい教えを聞くことが少なくても、身をもって真理を見る人、怠って道からはずれることの無い人──かれこそ道を実践している人である。
260 頭髪が白くなったからとて<長老>なのではない。ただ年をとっただけならば「空しく老いぼれた人」と言われる。
(´・(ェ)・`)つ
空しく老いぼれたくまであっては、がっかりであります。 そうじゃ、日々の精進によって道を実践していることになるのじゃ。
精進しなければ白髪のじじいになるだけなのじゃ。
精進あるのみなのじゃ。 真理のことば(ダンマパダ)
第十九章 道を実践する人
261 誠あり、徳あり、慈しみがあって、傷わず、つつしみあり、みずからととのえ、汚れを除き、気をつけている人こそ「長老」と呼ばれる。
262 嫉みぶかく、吝嗇(ケチ)で、偽る人は、ただ口先だけでも、美しい容貌によっても、「端正な人」とはならない。
263 これを断ち、根絶やしにし、憎しみをのぞき、聡明である人、──かれこそ「端正な人」とよばれる。
264 頭を剃ったからとて、いましめをまもらず、偽りを語る人は、<道の人>ではない。欲望と貪りにみちている人が、どうして<道の人>であろうか?
265 大きかろうとも小さかろうとも悪をすべてとどめた人は、もろもろの悪を静め滅ぼしたのであるから、<道の人>と呼ばれる。
(´・(ェ)・`)つ
くま丸刈りでありますが、それだけでは当然、道のくまではないであります。うん。 そうじゃ、道を実践するのじゃ。
実践が全てなのじゃ。 真理のことば(ダンマパダ)
第十九章 道を実践する人
266 他人に食を乞うからとて、それだけでは<托鉢僧>なのではない。汚らわしい行ないをしているならば、それでは<托鉢僧>ではない。
267 この世の福楽も罪悪も捨て去って、清らかな行ないを修め、よく思慮して世に処しているならば、かれこそ<托鉢僧>と呼ばれる。
268 269 ただ沈黙しているからとて、愚かに迷い無智なる人が<聖者>なのではない。秤を手にもっているように、いみじきものを取りもろもろの悪を除く賢者こそ<聖者>なのである。
かれはそのゆえに聖者なのである。この世にあって善悪の両者を(秤りにかけてはかるように)よく考える人こそ<聖者>とよばれる。
270 生きものを害うからとて<聖者>なのではない。生きとし生けるものどもを害わないので<聖者>と呼ばれる。
271 272 わたしは、出離の楽しみを得た。それは凡夫の味わい得ないものである。それは、戒律や誓いだけによっても、また博学によっても、また瞑想を体現しても、またひとり離れて臥すことによっても、得られないものである。
修行僧よ。汚れが消え失せない限りは、油断するな。
(´・(ェ)・`)つ
鬼和尚こんばんは。
「無」としかあらわすことができない「概念A」と、概念Aをも否定しつつ、「無」としかあらわすことができない「概念B」があり、
ともにその内容は「無」としかあらわすことができない。
概念Bは「概念」そのものを否定しているとすると、概念Bは「概念を否定する概念」というパラドックスに陥ってしまう。
ABはほぼ同じ内容を表しており、
ただ、概念Aを追求する対象として設定するよりも、
ひたすら観察により自我の不存在を見極める方がおすすめだよ!って言うのが、お釈迦さんの説明でありましょうか?
(A=真我、B=無我)
こんな、理解でよいでありましょうか? そのような理解でよいのじゃ。
知識や記憶で理解できない物事はただひたすら実践によって体感する以外にないのじゃ。
実践が全てなのじゃ。 真理のことば(ダンマパダ)
第二十章 道
273 もろもろの道のうちでは<八つの部分よりなる正しい道>が最もすぐれている。もろもろの真理のうちでは<四つの句>(=四諦)がもっともすぐれている。
もろもろの徳のうちでは<情欲を離れること>が最もすぐれている。人々のうちで<眼ある人>(=ブッダ)が最もすぐれている。
274 これこそ道である。(真理を)見るはたらきを清めるためには、この他に道は無い。汝らはこの道を実践せよ。これこそ悪魔を迷わして(打ちひしぐ)ものである。
275 汝らがこの道を行くならば、苦しみをなくすことができるであろう。(棘が肉に刺さったので)矢を抜いて癒す方法を知って、わたくしは汝らにこの道を説いたのだ。
276 汝らは(みずから)つとめよ。もろもろの如来(=修行を完成した人)は(ただ)教えを説くだけである。心をおさめて、この道を歩む者どもは、悪魔の束縛から脱れるであろう。
(´・(ェ)・`)つ 八正道
第一「正見(しょうけん)」。
一切の物事は無常であると言う見解。
第二「正思惟(しょうしゆい)」
欲に絡んだ思考、怒り憎しみに絡んだ思考、加害的な思考をやめる。
第三「正語(しょうご)」
粗悪語、無駄話、嘘などを語らない。
第四「正業(しょうごう)」殺生、窃盗、邪な行為をやめ。
第五「正命(しょうみょう)」仕事のために悪を犯すな。
第六「正精進(しょうしょうじん)」悪事をしないで、善事行うように、努力すること。
第七は「正念(しょうねん)」。空想せずにく、いまここで、自分が行う現実に気づいていること。
第八は、「正定(しょうじょう)」。落ち着いていること、集中力があること。
だそうであります。
(´・(ェ)・`)つ そうじゃ、修行者は実践によって自ら目覚めたものになるのじゃ。
お釈迦様も道標になるだけなのじゃ。
実践が全てなのじゃ。 >>734
道標はありがたいであります。
道標がなければ迷ってしまうであります。
鬼和尚、ありがとうであります。
くまは迷わずにすんでるであります。
(´・(ェ)・`)つ 真理のことば(ダンマパダ)
第二十章 道
277 「一切の形成されたものは無常である」(諸行無常)と明らかな知慧をもって観るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である。
278 「一切の形成されたものは苦しみである」(一切皆苦)と明らかな知慧をもって観るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である。
279 「一切の事物は我ならざるものである」(諸法非我)と明らかな知慧をもって観るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である。
280 起きるべき時に起きないで、若くて力があるのに怠りなまけていて、意志も思考も薄弱で、怠惰でものうい人は、明らかな知慧によって道を見出すことがない。
281 ことばを慎しみ、心を落ち着けて慎しみ、身に悪を為してはならない。これらの三つの行ないの路を浄くたもつならば、仙人(=仏)の説きたもうた道を克ち得るであろう。
282 実に心が統一されたならば、豊かな知慧が生じる。心が統一されないならば、豊かな知慧がほろびる。生じることとほろびることとのこの二種の道を知って、豊かな知慧が生ずるように自己をととのえよ。
283 一つの樹をを伐るのではなくて、(煩悩の)林を伐れ。危険は林から生じる。(煩悩の)林とその下生えとを切って、林(=煩悩)から脱れた者となれ。修行僧らよ。
(´・(ェ)・`)つ >>735 よかったのじゃ。
実践在るのみなのじゃ。
心を統一して智慧を磨くのじゃ。 真理のことば(ダンマパダ)
第二十章 道
284 たとい僅かであろうとも、男の女に対する欲望が断たれないあいだは、その男の心は束縛されている。──乳を吸う子牛が母牛を恋い慕うように。
285 自己の愛執を断ち切れ、──池の水の上に出て来た秋の蓮を手で断ち切るように。静かなやすらぎに至る道を養え。めでたく行きし人(=仏)は安らぎを説きたもうた。
286 「わたしは雨期にはここに住もう。冬と夏とにはここに住もう」と愚者はこのようにくよくよと慮って、死が迫って来るのに気がつかない。
287 子どもや家畜のことに気を奪われて心がそれに執著している人を、死はさらって行く。──眠っている村を大洪水が押し流すように。
288 子も救うことができない。父も親戚もまた救うことができない。死に捉えられた者を、親族も救い得る能力がない。
289 心ある人はこの道理を知って、戒律をまもり、すみやかにニルヴァーナに至る道を清くせよ。
(´・(ェ)・`)つ
うぅぅ・・・・いそがねばなりますまい。 愛するなではなく、執着するなでありますね。
自分以外に自分を救うことができるものはいないのでありますね。
そして、その自分とは幻想であり、自他の別ないのでありますから、自分を助けることか、他者を助けることなのでありますね。
(´・(ェ)・`)つ 真言や念仏を唱えたり、神仏に帰依して深く信仰したりすることも、集中力を高めて非日常の境地を体感するテクニックでありましょう。
そこで体感した感覚に執着すると、妄想の自我が強化されてしまうので、
お釈迦さんは敢えて、その示すところは同じでも「アートマン」の追求ではなく、「無我」の気づきの道を説いたのでありましょう。
しかし、ないものをないと気付くことより、
たとえその内容は「無」としか表現できないものであるとしても、追求する対象があった方が取り組みやすいと思えば、アートマンの追求でもよいのでありましょうか?
(´・(ェ)・`)つ それは人の素質によるのじゃ。
アートマンがやりやすい者にはアートマンがよいのじゃ。
そうでなければ別の道を行くがよいのじゃ。
自分に合った道を行くのじゃ。 >>741
(´・(ェ)・`)つ鬼和尚ありがとうであります。
マハラジの言葉をネットで拾い読みしてるであります。
> 真我の実現なしには、いかなる徳も本物ではない。
すべてを通して同じ生命が流れ、あなたがその生命なのだということを、疑いを超えて知ったとき、あなたはすべてを自然に自発的に愛するだろう。
あなたが、あなた自身へのあなたの愛の深さと豊かさを悟ったとき、すべての生きているものたちと宇宙全体があなたの愛情のなかに含まれていること を知るだろう。
しかし、何であれあなたから分離していると見るとき、あなたはそれを愛せない。
なぜなら、あなたはそれを恐れているからだ。
疎外は恐れを引き起こし、恐れは疎外をより深くする。
それは悪循環だ。
真我の実現だけがその輪を断ち切ることができる。
固い決意でそれに向かいなさい。
『私は在る』(p231)
無我を体得すれば、ほんもの(?)の慈悲が沸き起こる、と読み替えることができるでありますね。 真理のことば(ダンマパダ)
第二一章 さまざまなこと
290 つまらぬ快楽を捨てることによって、広大なる楽しみを見ることができるのなら、心ある人は広大な楽しみをのぞんで、つまらぬ快楽を捨てよ。
291 他人を苦しめることによって自分の快楽を求める人は、怨みの絆にまつわれて、怨みから免れることができない。
292 なすべきことを、なおざりにし、なすべからざることをなす、遊びたわむれ放逸なる者どもには、汚れが増す。
293 常に身体(の本性)を思いつづけて、為すべからざることを為さず、為すべきことを常に為して、心がけて、みずから気をつけている人々には、もろもろの汚れがなくなる。
294 (「妄愛」という)母と(「われありという慢心」である)父とをほろぼし、(永久に存在するという見解と滅びて無くなるという見解という)二人の武家の王をほろぼし、
(主観的機官と客観的対象とあわせて十二の領域である)国土と(「喜び貪り」という)従臣とをほろぼして、バラモンは汚れなしにおもむく。
295 (「妄愛」という)母と(「われありという慢心」である)父とをほろぼし、(永久に存在するという見解と滅びて無くなるという見解という)二人の、学問を誇るバラモン王をほろぼし、
第五には(「疑い」という)虎をほろぼして、バラモンは汚れなしにおもむく。
(´・(ェ)・`)つ そうじゃ、それを実現することが広大なる楽しみなのじゃ。
そのためにつまらぬ快楽は捨てるがよいのじゃ。
この世の全てを捨てて全てを得るのじゃ。 真理のことば(ダンマパダ)
第二一章 さまざまなこと
296 ゴータマの弟子は、いつもよく覚醒していて、昼も夜も常に仏を念じている。
297 ゴータマの弟子は、いつもよく覚醒していて、昼も夜も常に法を念じている。
298 ゴータマの弟子は、いつもよく覚醒していて、昼も夜も常にサンガ(修行者のつどい)を念じている。
299 ゴータマの弟子は、いつもよく覚醒していて、昼も夜も常に身体(の真相)を念じている。
300 ゴータマの弟子は、いつもよく覚醒していて、その心は昼も夜も不傷害を楽しんでいる。
301 ゴータマの弟子は、いつもよく覚醒していて、その心は昼も夜も瞑想を楽しんでいる。
302 出家の生活は困難であり、それを楽しむことは難しい。在家の生活も困難であり、家に住むのも難しい。心を同じくしない人々と共に住むのも難しい。(修行僧が何かを求めて)旅に出て行くと、苦しみに遇う。だから旅に出るな。また苦しみに遇うな。
303 信仰あり、徳行そなわり、名声と繁栄を受けている人は、いかなる地方におもむこうとも、そこで尊ばれる。
304 善き人々は遠くにいても輝く、──雪を頂く高山のように。
善からぬ人々は近くにいても見えない、──夜陰に放たれた矢のように。
305 ひとり坐し、ひとり臥し、ひとり歩み、なおざりになることなく、わが身をととのえて、林のなかでひとり楽しめ。
(´・(ェ)・`)つ そうじゃ、常に実践に精進するのじゃ。
修業を楽しむのじゃ。 真理のことば(ダンマパダ)
第二二章 地 獄
306 いつわりを語る人、あるいは自分でしておきながら「わたしはしませんでした」と言う人、──この両者は死後にはひとしくなる、──来世では行ないの下劣な業をもった人々なのであるから。
307 袈裟を頭から纒っていても、性質(タチ)が悪く、つつしみのない者が多い。かれら悪人は、悪いふるまいによって、悪いところに(地獄)に生まれる。
308 戒律をまもらず、みずから慎むことがないのに国の信徒の施しを受けるよりは、火炎のように熱した鉄丸を食らうほうがましだ。
309 放逸で他人の妻になれ近づく者は、四つの事がらに遭遇する。──すなわち、禍をまねき、臥して楽しからず、第三に非難を受け、第四に地獄に墜ちる。
310 禍をまねき、悪しきところ(地獄)に墜ち、相ともにおびえた男女の愉楽はすくなく、王は重罰を課する。それ故にひとは他人のなれ近づくな。
311 茅草でも、とらえ方を誤ると、手のひらを切るように、修行僧の行も、誤っておこなうと、地獄にひきずりおろす。
312 その行ないがだらしなく、身のいましめが乱れ、清らかな行ないなるものもあやしげであるならば、大きな果報はやって来ない。
313 もしも為すべきことであるならば、それを為すべきである。それを断乎として実行せよ。行ないの乱れた修行者はいっそう多く塵をまき散らす。
(´・(ェ)・`)つ
断乎として塵をまき散らさないくまにならねばなりますまい。 そうじゃ、なすべきことを断乎として実行するのじゃ。
そうすれば大きな果報を得るじゃろう。
実践あるのみなのじゃ。 >>748
鬼和尚、ありがとうであります。
そうでありますね。
たとえば、
他人のしたことしなかったことを見ない。
自分のしたことしなかったことだけを見る。
常に意識的であるように心掛け、妄想に囚われないように気を付ける。
そういうことだけを意識して断乎として実戦するだけでも、人生の在り様は様変わりするでありますね。
(´・(ェ)・`)つ 真理のことば(ダンマパダ)
第二二章 地 獄
314 悪いことをするよりは、何もしないほうがよい。悪いことをすれば、後で悔いる。単に何かの行為をするよりは、善いことをするほうがよい。なしおわって、後で悔いがない。
315 辺境にある、城壁に囲まれた都市が内も外も守られているように、そのように自己を守れ。瞬時も空しく過ごすな。時を空しく過した人々は地獄に墜ちて、苦しみ悩む。
316 恥じなくてよいことを恥じ、恥ずべきことを恥じない人々は、邪な見解をいだいて、悪いところ(=地獄)におもむく。
317 恐れなくてもよいことに恐れをいだき、恐れねばならぬことに恐れをいだかない人々は、邪な見解をいだいて、悪いところ(=地獄)におもむく。
318 避けねばならぬことを避けなくてもよいと思い、避けてはならぬ(=必ず為さねばならぬ)ことを避けてもよいと考える人々は、邪な見解をいだいて、悪いところ(=地獄)におもむく。
319 遠ざけるべきこと(=罪)を遠ざけるべきであると知り、遠ざけてはならぬ(=必らず為さねばならぬ)ことを遠ざけてはならぬと考える人々は、正しい見解をいだいて、善いところ(=天上)におもむく。
(´・(ェ)・`)つ
うぅぅ・・・地獄行きは嫌でありますが・・・怠け者は地獄行きなのでありますね。 (´・(ェ)・`)つ
地獄とは、この世のことと言う説もあるであります。
怠け者が苦しむのは当り前でありますかね。 >>749 そうじゃ、ただ一つの教えでも実践すれば大いに利益があるものじゃ。
自分を観る習慣がつけば社会でも役に立つのじゃ。
実践が全てなのじゃ。
>>750>>751 そうじゃ、この世でも怠けていれば苦しむことになるのじゃ。
老病死の苦が必ずやってくるからのう。
元気なときに修業していれば苦もなくせるのじゃ。
精進あるのみなのじゃ。 真理のことば(ダンマパダ)
第二三章 象
320 戦場の象が、射られた矢にあたっても堪え忍ぶように、われはひとのそしりを忍ぼう。多くの人は実に性質(タチ)が悪いからである。
321 馴らされた象は、戦場にも連れて行かれ、王の乗りものともなる。世のそしりを忍び、自らをおさめた者は、人々の中にあっても最上の者である。
322 馴らされた騾馬は良い。インダス河のほとりの血統よき馬も良い。クンジャラという名の大きな象も良い。しかし自己(オノレ)をととのえた人はそれらよりもすぐれている。
323 何となれば、これらの乗物によっては未到の地(=ニルヴァーナ)に行くことはできない。そこへは、慎しみある人が、おのれ自らをよくととのえておもむく。
324 「財を守る者」という名の象は、発情期にこめかみから液汁をしたたらせて強暴になっているときは、いかんとも制し難い。捕らえられると、一口の食物も食べない。象は象の林を慕っている。
325 大食いをして、眠りをこのみ、ころげまわって寝て、まどろんでいる愚鈍な人は、大きな豚のように糧を食べて肥り、くりかえし母胎に入って(迷いの生存をつづける)。
326 この心は、以前には、望むがままに、欲するがままに、快きがままに、さすらっていた。今やわたくしはその心をすっかり抑制しよう、──象使いが鉤(カギ)をもって、発情期に狂う象を全くおさえつけるように。
327 つとめはげむのを楽しめ。おのれの心を護れ。自己を難処から救い出せ。──泥沼に落ち込んだ象のように。
(´・(ェ)・`)つ
大食いをして、眠りをこのみ、ころげまわって寝て、まどろんでいる愚鈍な、大きな豚のようなくまであってはなりますまい。
射られた矢にあたっても堪え忍ぶように、われはひとのそしりを忍ぶ、ぞうのようなくまなならねばなりますまい。
324の象さんには、ダナパーラという名のある親孝行な象さんだそうであります。 正直なところ、くまは、大食いではないまでも、じゅうぶんに豚さんのようなくまなのである。
頑張ってぞうさんのようなくまにならねばならぬのである。
(´・(ェ)・`)つ しかし、
>ころげまわって寝て
と言う表現は、真に迫ってるでありますね。
もしや、お釈迦さんも怠け者の「苦」を実体験してるのではありますまいか?
(´・(ェ)・`)つ ↑そうかもしれん。
昔は王子であったからのう。
四門を出て怠けている場合ではないと気付いたのじゃ。 >>758
で、ありますよね。
きっとそうでありましょう。
どんなちっぽけな苦も本人にとっては深刻なものでありましょう。
その事をよく知っていたお釈迦さんであるからこそ、苦の克服法を編み出して、分かりやすく説いたのでありましょう。
それを現代によみがえらせて普及に貢献してる鬼和尚に感謝であります。
(´・(ェ)・`)つ 真理のことば(ダンマパダ)
第二三章 象
328 もしも思慮深く聡明でまじめな生活をしている人を伴侶として共に歩むことができるならば、あらゆる危険困難に打ち克って、こころ喜び、念いをおちつけて、ともに歩め。
329 しかし、もしも思慮深く聡明でまじめな生活をしている人を伴侶として共に歩むことができないならば、国を捨てた国王のように、また林の中の象のように、ひとり歩め。
330 愚かな者を道伴れとするな。独りで行くほうがよい。孤独(ヒトリ)で歩め。悪いことをするな。求めるところは少なくあれ。──林の中にいる象のように。
331 事がおこったときに、友だちのあるのは楽しい。(大きかろうとも、小さかろうとも)、どんなことにでも満足するのは楽しい。善いことをしておけば、命の終るときに楽しい。(悪いことをしなかったので)、あらゆる苦しみ(の報い)を除くことは楽しい。
332 世に母を敬うことは楽しい。また父を敬うことは楽しい。世に修行者を敬うことは楽しい。世にバラモンを敬うことは楽しい。
333 老いた日に至るまで戒しめをたもつことは楽しい。信仰が確立していることは楽しい。明らかな知慧を体得することは楽しい。もろもろの悪事をなさないことは楽しい。
本日も張り切って参りましょう!
(´・(ェ)・`)つ そうじゃ、張り切って精進あるのみなのじゃ。
楽しく修行するのじゃ。 真理のことば(ダンマパダ)
第二四章 愛 執
334 恣(ホシイママ)のふるまいをする人には愛執が蔓草(ツルクサ)のようにはびこる。林の中で猿が果実(コノミ)を探し求めるように、(この世からかの世へと)あちこちにさまよう。
335 この世において執著のもとであるこのうずく愛欲のなすがままである人は、もろもろの憂いが増大する。──雨が降ったあとにはビーラナ草がはびこるように。
336 この世において如何ともし難いこのうずく愛欲を断ったならば、憂いはその人から消え失せる。──水の滴が蓮華から落ちるように。
337 さあ、みなさんに告げます。──ここに集まったみなさんに幸あれ。欲望の根を掘れ。──(香しい)ウシーラ根を求める人がビーラナ草を掘るように。葦が激流に砕かれるように、魔にしばし砕かれてはならない。
338 たとえ樹を切っても、もしも頑強な根を断たなければ、樹が再び成長するように、妄執(渇愛)の根源となる潜勢力をほろぼさないならば、この苦しみはくりかえし現われ出る。
339 快いものに向って流れる三十六の激流があれば、その波浪は、悪しき見解をいだく人を漂わし去る。──その波浪とは貪欲にねざした想いである。
340 (愛欲の)流れは至るところに流れる。(欲情の)蔓草は芽を生じつつある。その蔓草が生じたのを見たならば、知慧によってその根を断ち切れ。
341 人の快楽ははびこるもので、また愛執で潤される。実に人々は歓楽にふけり、楽しみをもとめて、生れと老衰を受ける。
342 愛欲に駆り立てられた人々は、わなにかかった兎のように、ばたばたする。束縛の絆にしばられ執著になずみ、永いあいだくりかえし苦悩を受ける。
343 愛欲に駆り立てられた人々は、わなにかかった兎のように、ばたばたする。それ故に修行僧は、自己の離欲望んで、愛欲を除き去れ。
344 愛欲の林から出ていながら、また愛欲の林に身をゆだね、愛欲の林から免れていながら、また愛欲の林に向って走る。その人を見よ! 束縛から脱しているのに、また束縛に向って走る。
345 346 鉄や木材や麻紐でつくられた枷(カセ)を、思慮ある人々は堅固な縛とは呼ばない。宝石や耳環・腕輪をやたらに欲しがること、妻や子にひかれること、──それが堅固な縛である、と思慮ある人々は呼ぶ。それは低く垂れ、緩く見えるけれども、脱れ難い。
(´・(ェ)・`)つ
339の 三十六の激流=三十六の渇愛
1.愛欲 : 色、声、香、味、触の五欲に対する渇愛
2.有愛 : 生存に対する渇愛
3.無有愛 : 虚無への渇愛
・ 眼、鼻、耳、舌、身、意において上記三種類の渇愛がある。
・ 渇愛の対象として、色、声、香、味、触、法で渇愛が分類される。
→18十18=36
この渇愛がすべて快楽を求めて流れ、執着になる。
だ、そうであります。
ふむふむ。
生存や虚無への渇愛と言うのもあるのでありますね。
知らなかったであります。 鬼和尚、こんにちは。(´・(ェ)・`)つ
ダンマパダはもうじき読み終わるであります。
引き続きましての、自主ゼミでは、スッタニパータを取り上げたいと存じます。
スッタニパータの一部には、最もお釈迦さんの発した言葉に近いものが含まれるとされている反面で、解釈の別れるところや、原典の欠落してる部分もあるようでありますので、
この機に、じっくり読んでみたいとおもうであります。
如何でありましょうか? ↑善いことじゃ。
どんどんやるとよいのじゃ。
間違いなく勉強になるじゃろう。
実践在るのみなのじゃ。 >>764
鬼和尚こんばんは。
どんどんやるであります。
(´・(ェ)・`)つありがとうであります。 毎月のお支払い、生活費、携帯代でお困りの時はご相談下さい。お金の悩み、相談はエス ティー エーで
詳しくはHPをご覧下さい。 真理のことば(ダンマパダ)
第二四章 愛 執
347 愛欲になずんでいる人々は、激流に押し流される、──蜘蛛がみずから作った網にしたがって行くようなものである。思慮ある人々はこれをも断ち切って、顧みることなく、すべての苦悩をすてて、歩んで行く。
348 前を捨てよ。後を捨てよ。中間を棄てよ。生存の彼岸に達した人は、あらゆることがらについて心が解脱していて、もはや生れと老いとを受けることが無いであろう。
349 あれこれ考えて心が乱れ、愛欲がはげしくうずくのに、愛欲を淨らかだと見なす人には、愛執がますます増大する。この人は実に束縛の絆を堅固たらしめる。
350 あれこれの考えをしずめるのを楽しみ、つねに心にかけて、(身体などを)不浄(キヨカラヌモノ)であると観じて修する人は、実に悪魔の束縛の絆をとりのぞき、断ち切るであろう。
351 さとりの究極に達し、恐れること無く、無欲で、わずらいの無い人は、生存の矢を断ち切った。これが最後の身体である。
352 愛欲を離れ、執著なく、諸の語義に通じ諸の文章とその脈絡を知るならば、その人は最後の身体をたもつものであり、「大いなる知慧ある人」と呼ばれる。
(´・(ェ)・`)つ
352は、教典の語義を熟知して、正しく理解せよと言う意味だそうであります。
正しく理解するのは、簡単ではないようでありますね。 そうじゃ、本当に正しく知るのは悟った後なのじゃ。
それでもどんどん学ぶべきなのじゃ。
学び続ければ気付くことも多くなるのじゃ。 真理のことば(ダンマパダ)
第二四章 愛 執
353 われはすべてに打ち勝ち、すべてを知り、あらゆることがらに関して汚されていない。すべてを捨てて、愛欲は尽きたので、こころは解脱している。みずからさとったのであって、誰を[師と]呼ぼうか。
354 教えを説いて与えることはすべての贈与にまさり、教えの妙味はすべての味にまさり、教えを受ける楽しみはすべての楽しみにまさる。妄執をほろぼすことはすべての苦しみうち勝つ。
355 彼岸にわたることを求める人々は享楽に害われることがない。愚人は享楽のために害われるが、享楽を妄執するがゆえに、愚者は他人を害うように自分も害う。
356 田畑は雑草によって害われ、この世は人々は愛欲によって害われる。それ故に愛欲を離れた人々に供養して与えるならば、大いなる果報を受ける。
357 田畑は雑草によって害われ、この世は人々は怒りによって害われる。これ故に怒りを離れた人々に供養して与えるならば、大いなる果報を受ける。
358 田畑は雑草によって害われ、この世は人々は迷妄によって害われる。それ故に迷妄を離れた人々に供養して与えるならば、大いなる果報を受ける。
359 田畑は雑草によって害われ、この世は人々は欲求によって害われる。それ故に欲求を離れた人々に供養して与えるならば、大いなる果報を受ける。
(´・(ェ)・`)つ そうじゃ、執着から諸々の苦は起こるのじゃ。
それは人が苦しまないようにしようとか思っても出来ないものじゃ。
観察によってのみ執着は消え、苦は厭離されるのじゃ。
精進あるのみなのじゃ。 真理のことば(ダンマパダ)
第二五章 修行僧
360 眼について慎しむのは善い。耳について慎しむは善い。鼻について慎しむのは善い。舌について慎しむのは善い。
361 身について慎むのは善い。ことばについて慎しむのは善い。心について慎しむのは善い。あらゆることについて慎しむのは善いことである。修行僧はあらゆることがらについて慎しみ、すべての苦しみから脱れる。
362 手をつつしみ、足をつつしみ、ことばをつつしみ、最高につつしみ、内心に楽しみ、心を安定統一し、ひとりで居て、満足している、──その人を<修行僧>と呼ぶ。
363 口をつつしみ、思慮して語り、心が浮わつくことなく、事がらと真理とを明らかにする修行僧──かれの説くところはやさしく甘美である。
364 真理を喜び、真理を楽しみ、真理をよく知り分けて、真理にしたがっている修行僧は、正しいことわりから堕落することがない。
365 (托鉢によって)自分の得たものを軽んじてはならない。他人の得たものを羨むな。他人を羨む修行僧は心の安定を得ることができない。
366 たとい得たものは少なくても、修行僧が自分の得たものを軽んずることが無いならば、怠ることなく清く生きるその人を、神々も称讃する。
367 名称とかたちについて「わがもの」という想いが全く存在しないで、何ものも無いからとて憂えることの無い人、──かれこそ<修行僧>とよばれる。
368 仏の教えを喜び、慈しみに住する修行僧は、動く形成作用の静まった、安楽な、静けさの境地に到達するであろう。
(´・(ェ)・`)つ そうじゃ、身口意を慎み、真理に従うのじゃ。
名前と形象を離れて安らぐのじゃ。
そして悟りの境地に赴くのじゃ。
実践あるのみなのじゃ。 真理のことば(ダンマパダ)
第二五章 修行僧
369 修行僧よ。この舟から水を汲み出せ。汝が水を汲み出したならば、舟は軽やかにやすやすと進むであろう。貪りと怒りとを断ったならば、汝はニルヴァーナにおもむくであろう。
370 五つ(の束縛)を断て。五つ(の束縛)を捨てよ。さらに五つ(のはたらき)を修めよ。五つの執著を超えた修行僧は、<激流を渡った者>とよばれる。
371 修行僧よ。瞑想せよ。なおざりになるな。汝の心を欲情の対象に向けるな。なおざりのゆえに鉄丸を呑むな。(灼熱した鉄丸で)焼かれるときに、「これは苦しい!」といって泣き叫ぶな。
372 明らかな知慧の無い人には精神の安定統一が無い。精神の安定統一していない人には明らかな知慧が無い。精神の安定統一と明らかな知慧とがそなわっている人こそ、すでにニルヴァーナの近くにいる。
373 修行僧が人のいない空家に入って心を静め真理を正しく観ずるならば、人間を超えた楽しみがおこる。
374 個人存在を構成している諸要素の生起と消滅とを正しく理解するに従って、その不死のことわりを知り得た人々にとって喜びと悦楽なるものを、かれは体得する。
375 これは、この世において明らかな知慧のある修行僧の初めのつとめである。──感官に気をくばり、満足し、戒律をつつしみ行ない、怠らないで、淨らかに生きる善い友とつき合え。
(´・(ェ)・`)つ
370の 四種類の「五つ」について。
1) 「五つを断て」の五つ=「五下分結」
1.有身見 2.疑 3.戒禁取 4.欲愛 5.激怒
2) 「五つを捨てよ」の五つ=「五上分結」
6.色貪 7.無色貪 8.慢 9.掉挙 10.無明
3) 「五つを修めよ」の五つ=「五根」
1.信根 2.精進根 3.念根 4.定根 5.慧根
4) 「五つを超えた」五つはは
1.貪 2.瞋 3.痴 4.慢 5.見 です。
だ、そうであります。
専門用語は慣れるしかないでありますね。 「初めの5つの束縛」
1.「有身見(うしんけん)」=自分自身に執着する考え方。
2.「疑惑(ぎわく)」=原因と結果の法則に、疑いをもつこと。
3.「戒禁取(かいごんじゅ)」=ブッダの「教え・法」とは異なる異教者の教えを守ること。
4.「欲貪(よくとん)」=貪る欲。
5.「瞋恚(しんに)」=怒り。
4つの道
1. 預流道(よるどう)― 聖者の流れに入った人。
2. 一来道(いちらいどう)― 聖者流れに入っているけれど、一度だけ世俗の世界に戻ることがある。
3. 不還道(ふげんどう)― もう二度と世俗の世界には戻ることがない。
4.阿羅漢道(あらかんどう)―貪り、怒り、気づきのない愚かさが完全に滅した聖者。
「さらに上の5つの束縛」
1.「色貪(しきとん)」=色・形あるもの、身体に執着すること。
2.「無色貪(むしきとん)」=心に執着すること。
3.「慢(まん)」=慢心。
4.「浮つき」=後悔(こうかい)、興奮(こうふん)、動揺(どうよう)、感情(かんじょう)の高ぶり。
5.「無明(むみょう)」= 誤った見方、考え方によって、無常なものを、永遠と取り違えてしまうこと。
この「さらに上の5つの束縛」を捨断するために、煩悩の静まり、寂静のため「正しい覚り」にいたるために
五根―「信根」「勤根」「念根」「定根」「慧根」を練修修行する。
1.「信根(しんこん)」=「信」ブッダの道、中道、智慧に向かう正見です。教えを深く理解すること。原因と結果の法則を信じます。
2.「勤根(ごんこん)」=精勤(しょうごん)・勤勉・精進努力です。
3.「念根(ねんこん)」= 今の心に集中すること。正しく注意します。正しく専念します。
4.「定根(じょうこん)」=禅定:止― 静かに坐ります。息・呼吸に集中します。観― よく観て深く観透します。
5.「慧根」=、智慧。智慧そのものです。
貪(むさぼ)り・瞋(いか)り
痴(ち・気づきのない愚かさ)・
慢心・邪見
これら「5つの執着」を超えます。
「5つの執着」を超えたならば、
「4つの煩悩=暴流(ぼる)」、
欲・有(生存)・邪見・無明
これらの「暴流を渡った人」と言われます。
「4つの煩悩=暴流(ぼる)」:
1.「欲」とは、
好ましい色・形あるもの、
声(音)、香り、味、触れるもの、
これら5種に対する欲望「5種妙欲」です。
2.「有(生存)」とは、
身体と心に対する貪欲です。
また、魂は永遠不滅と考える欲です。
3.「邪見」とは、
原因と結果の法則によらない、
異教者の62ある見解です。
4.「無明」とは、
誤った見方、考え方によって、
無常なものを、
永遠と取り違えてしまうことです。
足に結ばれた紐(ひも)を、
刀で断ち切るように、
束縛、執着を断・捨・離します。
解説をネットから拾ってみたであります。
(´・(ェ)・`)つ 真理のことば(ダンマパダ)
第二五章 修行僧
376 その行ないが親切であれ。(何ものでも)わかち合え。善いことを実行せよ。そうすれば、喜びにみち、苦悩を減するであろう。
377 修行僧らよ。ジャスミンの花が萎れた花びらを捨て落とすように、貪りと怒りとを捨て去れよ。
378 修行僧は、身も静か、語(コトバ)も静か、心も静かで、よく精神統一をなし、世俗の享楽物を吐きすてたならば、<やすらぎに帰した人>と呼ばれる。
379 みずから自分を励ませ。みずから自分を反省せよ。修行僧よ。自己を護り、正しい念いをたもてば、汝は安楽に住するであろう。
380 実に自己は自分の主(アルジ)である。自己は自分の帰趨(ヨルベ)である。故に自分をととのえよ。──商人が良い馬を調教するように。
381 喜びにみちて仏の教えを喜ぶ修行僧は、動く形成作用の静まった、幸いな、やすらぎの境地に達するであろう。
382 たとい年の若い修行僧でも、仏の道にいそしむならば、雲を離れた月のように、この世を照らす。
(´・(ェ)・`)つ ご苦労さんなのじゃ。
そのように段階ごとに次々に完璧に心が整えられるわけではないがのう。
無明とは自分があるという観念なのじゃ。
全てと離れた個我としての自分という観念がある限り苦は生まれ続けるのじゃ。
それを厭離するために修業もあるのじゃ。 >>776
鬼和尚、おはようであります(´・(ェ)・`)つ
緻密に分析されるのはよいのでありますが、何が大切で、何処が要点なのかわけわからなくなってしまうでありますね。
要点は、
>全てと離れた個我としての自分という観念
を厭離するために修業するのだ!と言うことでありますね。
全て=ブラフマンでありますね。
バラモンの語源もブラフマンでありますね。 真理のことば(ダンマパダ)
第二六章 バラモン
383 バラモンよ。流れを断って。勇敢であれ。諸の欲望を去れ。諸の現象の消滅を知って、作られざるもの(ニルヴァーナ)を知る者であれ。
384 バラモンが二つのことがら(=止と観)について彼岸に達した(=完全になった)ならば、かれはよく知る人であるので、かれの束縛はすべて消え失せるであろう。
385 彼岸(カナタノキシ)もなく、此岸(コナタノキシ)もなく、彼岸・此岸なるものもなく、恐れもなく、束縛もない人、──かれをわれはバラモンと呼ぶ。
386 静かに思い、塵垢(チリケガレ)なく、おちついて、為すべきことをなしとげ、煩悩を去り、最高の目的を達した人、──かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。
387 太陽は昼にかがやき、月は夜に照し。武士は鎧を着てかがやき、バラモンは瞑想に専念してかがやく。しかしブッダはつねに威力もて昼夜に輝く。
388 悪を取り除いたので<バラモン>(婆羅門)と呼ばれ、行ないが静かにやまっているので<道の人>(沙門)と呼ばれる。おのれの汚れを除いたので、そのゆえに<出家者>と呼ばれる。
389 バラモンを打つな。バラモンはかれ(=打つ人)にたいして怒りを放つな。バラモンを打つものには禍がある。しかし(打たれて)怒る者にはさらに禍がある。
390 愛好するものから心を遠ざけるならば、このことはバラモンにとって少なからずすぐれたことである。害する意(オモイ)がやむにつれて、苦悩が静まる。
391 身にも、ことばにも、心にも、悪い事を為さず、三つのところについてつつしんでいる人、──かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。
392 正しく覚った人(=ブッダ)の説かれた教えを、はっきりといかなる人から学び得たのであろうとも、その人を恭しく敬礼せよ、──バラモンが祭の火を恭しく尊ぶように。
393 螺髪を結んでいるからバラモンなのではない。氏姓によってバラモンなのでもない。生れによってバラモンなのでもない。真理と理法とをまもる人は、安楽である。かれこそ(真の)バラモンなのである。
394 愚者よ。螺髪を結うて何になるのだ。かもしかの皮をまとって何になるのだ。汝は内に密林(=汚れ)を蔵して、外側だけを飾る。
395 糞掃衣をまとい、痩せて、血管があらわれ、ひとり林の中にあって瞑想する人、──かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。
(´・(ェ)・`)つ 真理のことば(ダンマパダ)
第二六章 バラモン
396 われは、(バラモン女の)胎から生れ(バラモンの)母から生れた人をバラモンと呼ぶのではない。かれは「<きみよ>といって呼びかける者」といわれる。かれは何か所有物の思いにとらわれている。無一物であって執著のな人、──かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。
397 すべての束縛を断ち切り、恐れることなく、執著を超越して、とらわれることの無い人、──かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。
398 紐と革帯と網とを、手網ともども断ち切り、門をとざす閂(カンヌキ)を滅ぼして、めざめた人、──かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。
399 罪がないのに罵られ、なぐられ、拘禁されるのを堪え忍び、忍耐の力あり、心の猛き人、──かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。
400 怒ることなく、つつしみあり、戒律を奉じ、欲を増すことなく、身をととのえ、最後の身体に達した人、──かれをわれは<バラモン>とよぶ。
401 蓮葉の上の露のように、錐の尖の芥子のように、緒の欲情に汚されない人、──かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。
402 すでにこの世において自分の苦しみの滅びたことを知り、重荷をおろし、とらわれの無い人、──かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。
403 明らかな知慧が深くて、聡明で、種々の道に通達し、最後の目的を達した人、──かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。
404 在家者・出家者のいずれとも交らず、住家がなくて遍歴し、欲の少ない人、──かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。
405 強くあるいは弱い生きものに対して暴力を加えることなく、殺さずまた殺させることのない人、──かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。
406 敵意ある者どもの間にあって敵意なく、暴力を用いる者どもの間にあって心おだやかに、執著する者どもの間にあさて執著しない人、──かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。
407 芥子粒が錐(キリ)の尖端から落ちたように、愛著と憎悪と高ぶりと隠し立てとが脱落した人、──かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。
408 粗野ならず、ことがらをはっきりと伝える真実のことばを発し、ことばによって何人の感情をも害することのない人、──かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。
(´・(ェ)・`)つ
398
紐(怒り)と革紐(渇愛)と綱(六十二邪見)を
手綱(煩悩)と共に切断し
門の鍵(無明)を開け、悟った人彼を私はバラモンと呼ぶ
だ、そうであります。
六十二邪見とは、長部経典第一「梵網経」にある「我」と「世界」に関する六十二の哲学的見解だそうであります。
401
欲望の対象になるものが目の前にあっても、それを欲しいというような欲望が心に少しも現われない、とどまらないことのたとえ
だそうであります。 真理のことば(ダンマパダ)
第二六章 バラモン
409 この世において、長かろうと短かろうと、微細であろうとも粗大であろうとも、浄かろうとも不浄であろうとも、すべて与えられていない物を取らない人、──かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。
410 現世を望まず、来世をも望まず、欲求がなくて、とらわれの無い人、──かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。
411 こだわりあることなく、さとりおわって、疑惑なく、不死の底に達した人、──かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。
412 この世の禍福いずれにも執著することなく、憂いなく、汚れなく、清らかな人、──かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。
413 曇りのない月のように、清く、澄み、濁りがなく、歓楽の生活の尽きた人、──かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。
414 この障害・険道・輪廻(サマヨイ)・迷妄を超えて、渡りおわって彼岸に達し、瞑想し、興奮することなく、疑惑なく、執著することなくて、心安らかな人、──かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。
415 この世の欲望を断ち切り、出家して遍歴し、欲望の生活の尽きた人、──かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。
416 この世の愛執を断ち切り、出家して遍歴し、愛執の生存の尽きた人、──かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。
417 人間の絆を捨て、天界の絆を越え、すべての絆をはなれた人、──かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。
418 <快楽>と<不快>とを捨て、清らかに涼しく、とらわれることなく、全世界にうち勝った英雄、──かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。
419 生きとし生ける者の生死をすべて知り、執著なく、よく行きし人、覚った人、──かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。
420 神々も天の伎楽神(ガンダルヴァ)たちも人間もその行方を知り得ない人、煩悩の汚れを滅ぼしつくした真人、──かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。
421 前にも、後にも、中間にも、一物をも所有せず、無一物で、何ものをも執著して取りおさえることの無い人、──かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。
422 牡牛のように雄々しく、気高く、英雄・大仙人・勝利者・欲望の無い人・沐浴者・覚った人(ブッダ)、──かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。
423 前世の生涯を知り、また天上と地獄とを見、生存を滅ぼしつくすに至って、直観智を完成した聖者、完成すべきことをすべて完成した人、──かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。
(´・(ェ)・`)つ
次回からスッタニパータの講読ゼミのはじまりであります。
自主ゼミバックナンバー
1)「潜在意識、マーフィーの法則」>>23〜
2)「マハムドラ-の詩」>>305〜
3) 「信心銘 」>>389〜
4)「真理のことば(ダンマパダ)」>>562〜 >>777 そうじゃ、厭離するのはそれだけでよいのじゃ。
そしてブラフマンにも至るのじゃ。
バラモンもブラフマンの徒であり、ブラフマンに至るものなのじゃ。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています