【大乱 関ヶ原】宮下英樹 250番槍【神聖ローマ帝国】
半兵衛が活躍したのは主に近江で浅井とやりあってた時期
官兵衛が活躍し始めたのも播磨で毛利や別所とやりあってた時期
と考えれば彼らが地元の調略で活躍するのは当然っちゃ当然なのよね
官兵衛はその後も色々やってるけど 関ケ原時も急ごしらえの軍で
九州虫部に侵攻制圧しているし
やっぱ軍師カンベーだな >>263
地元じゃないから何やっても構わないでござると調略で空手形振り出しまくったら九州に領地貰って針の筵、と考えるとなんかクスッと来ちゃうわなw
まあそれでも叛乱起こされりゃ騙し討で族滅だからメンタルパねえけど 半兵衛は全盛期に早逝したから伝説になっただけ
長生きしてたら絶対やらかしてるわ >>255
物量が圧倒してた魏が引きこもって泥臭い持久戦をやらないといけなかったほどの指揮官なのに
軍事面の能力が過小評価されがちだよな諸葛亮 戦国最強軍師だと
両兵衛以外やと誰や
山本勘介や小早川隆景やらか 部下につけたときの、毛利左馬頭、武田晴信、松永、宇喜多(直)もなかなか…
あと真田信繁 >>268
ド田舎すぎて攻めるのメンドクサイってだけだろ
無理な軍事作戦強行する割に投機的なことはできないし、軍事的な才幹は疑問符しかつかないな >>268
そもそも防衛側の魏が野戦でる意味ある? >>274
持久戦狙いの遼東の公孫淵を
一気に奇襲で叩き潰したろ >>275
史実は魏の防御線を突破して関中まで侵入したけどね
このままほっとけば長安まで入ってくるから物量が圧倒してたなら本拠地を叩くのが普通
実際後年はそうしたし
漢中から長安への進軍は劉邦が天下取って道だから魏が警戒しないわけないし >>276
蜀の山奥の諸葛亮がどうやって遼東の公孫淵を叩き潰すんだね? >>278
軍師のイメージだから元ネタの話になったじゃない? >>283
軍師らしい軍師がいる戦国大名のが珍しいと思う そもそもだけど、戦国時代の日本には軍師なんていない
軍師って言われてるやつって、調略が得意な武将とかだろ?単に
織田の重臣クラスはみんな得意だったと思うけど 信長は、ほんと軍師いらないタイプだったな。
でも、政治・軍事面でいちばん軍師になり得た光秀に殺されちゃったけどw >>283
だから軍師なんて後世のフィクションだっての
そんな都合の良いヤツがいなくても軍を運用できるものしか事を成せない
信長なんかはそうもいかずに方面軍制に移行して、したら早速一番信用していた家臣に裏切られたわけだがw >>291
その2人は軍師と言うより副将というか秘書というか
虎哉宗乙の方がまだそれっぽいんじゃないの? 大友宗麟の軍師に角隈石宗ってのがいたな
兵法、占い、天気予報までこなしたブレーン
島津に大友が大敗した時に
大友軍の軍師角隈石宗は「血塊の雲が頭上を覆っている時は戦うべきでない」と主張するも、田北鎮周と佐伯宗天は角隈石宗の主張を聞き入れず結局交戦に至った。
角隅の言葉に従ってれば大友も負けずにすんだかもしれないのに 角隅石宗かなり優秀だな
立花道雪、高橋紹運と優秀な配下いるのに
全く宗麟ときたら…
『明智軍記』によると真実は不明だが明智光秀の軍略・鉄砲術などの師匠は角隈石宗と書いている
天正6年(1578年)、薩摩国の島津氏を討伐しようとする宗麟を諌めたが、宗麟は石宗の諫言を聞かずに出陣する。このため石宗は、死の覚悟を決めて自身の書いた兵法書を全て焼き払って出陣し、耳川の戦いで戦死した。 ゴンベ軍には右腕的なのはおっても軍師様みてーなのはおらんなぁ
無用の助も別に 軍師というか治世や調略、謀略ができる奴らやろ
その点秀吉は武力以外全てできちゃうからやっぱりスゲーや 一番軍師のイメージに近いのは中国で有力者に
食客として招かれる知識人だと思う 全盛期の秀吉は
主君・軍師・軍の総大将・各部隊の大将、
さらに末端の兵士レベルの気持ちの把握とか、
もう全部できてそこは異次元な武将だったし、そりゃ天下人になるわな >>303
「秦から脱出しなきゃ」という目的に
いちばん適切な策と行動示したのそいつらやんか >>304
百姓からの成り上がりだから、下の気持ちは分かるのはデカい
ただだからこそ一代で終わってしまうのも仕方ない 譜代家臣いないのはあかんわな
秀吉に御恩はあっても豊臣家には御恩なんかねえわな さたけ(常陸大宮)ってなんで治部側についたんだっけ… >>312
小田原攻めの前から治部と交流あったので後北条みたいに滅ぼされなかった恩義 光る君で思ったけど
従兄弟婚や叔父姪で結婚したりと
貴族や豪族は親戚同士で結婚してるのなんで?
日本だけでなく世界的にもそうだし >>312
ついてないよ〜
最後まで旗幟不鮮明
戦後処分でも何もしてないから逆に最後までもめた >>319
義宣はバリ西軍で、義重は東軍寄りで、義宣が親父に止められたんじゃ あさきゆめみしだと
公達の日常の大半は女アサリだな
寝転んでいても租庸調が入ってくるし
いいの〜セレブ様は >319
諸説あるけど、七将襲撃のときに三成かばって避難助けたのは
佐竹じゃなかったっけ。大乱ではスルーされたけど、へうげは
そのエピソード採用してた >>315 のぼう さいてーくそ
本邦史上デビルマンの次にクソ映画だったな >>321
結果として全く動いてないからw
これが家康に連絡して上杉の南下食い止めます><背後はご安心ください!ってやってたら1/3にされて雪の秋田じゃなくてどっかもっとあったかいところで外様大名屈指の石高誇れたのにね
ただまあ位置的に常陸は不味すぎるから、どっか他国には飛ばされたろうけど
>>323
色のついてない地図しか見ないと実感ないだろうが、茨城北部で関東平野が終わって奥羽の山脈が始まるから、そっから先が東北って感じだな
常陸太田だとギリ関東
忠告しとくと、茨城県民と栃木県民に東北扱いするとマジで血を見るぞ 宮本浩次の冬の花MVのロケ地が神栖市だから
暴論だけどその辺まで東北でいいだろ じゃあなんで人取橋でSTKが出張ってきたのよ 普通カントーならトーホクまで来られないはずなんですけど!!
しかも雪の時期… イバラキ北部とと↓ち↓ぎ↓と南東北地方はわりとイントネーションが同じ
マジで…
守谷とかさいよわ界隈で有名な小田林さんを東北とかゆったら(?)つけられると思うけど…
一応総?の国らしいし 陸奥国や出羽国が置かれ開発が進めれる過程で前者は関東、後者は北陸長野辺りから住民を移住させたからイントネーションが似てるんだと思う。 >>326
多賀山地から東北という感じか
具体的には日立市以北
>>330
下総なのは取手から結城、古河にかけての県南西部
将門公の本拠地
天庵様のいたつくばは常陸だな >>332
厳密にはそうだよね つくば土浦は…
下館市とか古河あたりが下総
ほんとあのへんわかりつらい
伊豆が神奈川になるくらいわかりづらい >>335
神奈川だと川崎と横浜の一部は相模じゃなくて武蔵なのがややこしい
あと東京も隅田川より東は下総 >>336
逆だ逆横浜ほぼ武蔵国で一部相模国
あと川崎は神奈川で唯一相模かからない >>339
大乱は家康と輝元、三成メインに進めてるせいか
上杉征伐の流れは割と簡略化されてるよな
この時点で旗色鮮明にしてない佐竹の存在は結構な
不確定要素だったはずだけど
結果として佐竹は中立のままだったら、ふれなくても
困らないと言えば困らないだろうけど、なんか家康が
呑気過ぎてw >>332
いまの茨城埼玉千葉の県境あたりは利根川の付け替えのせいでいろいろごっちゃになってるからね
つまりは権現様のせい
つくばは常陸国風土記に筑波山についての記述があるぐらいで、律令時代からの由緒正しき常陸国だな 上杉もイキって30万石に減らされてんじゃあ情け無いわな >>345
あれはあれで結果的には勝利のうちだよ
家康の言いがかり(?)に前田利長みたいに尻尾を巻いて屈してたら、世間には舐められるし家臣からも非難轟々
前田家はまつさまが同調して江戸まで行ってくれさえしたからいいけれど、その意向次第では家長権発動されて当主挿げ替えまであった
戦国大名なんてヤクザの組長みたいなもんだから、対外的にはあくまでも武闘派強硬派でいなきゃならない
四面楚歌の絶望的な状況で景勝はひるまず男を張って武の家の世評を汚さず結果的には家を残した
先代の陰でどうにも立場の弱い男にとっては惨勝だが大殊勲だわ 対秀吉の長宗我部や島津とかと一緒だろ
国力差から敵わないのはわかってるが、とりあえず一戦してから和睦の条件闘争のつもりだろう
戦わずに膝を屈しても領地を減らされるのは確定事項なのだから >>348
領内での大規模な戦闘は行われてないので
民はあまり困らない
配下は上で言われている通り思考がヤクザなので…
そもそも恭順しても別の難癖付けられて取り潰される
危険性はあるから家が残っただけ結果オーライだと思う >>347
現代の戦国オタも、国滅びなきゃ武闘派の方が好きそうだしな
家康に屈服した前田家、まつの決断は褒められても、利長は
頼りないボンボンの印象のままでは。関ヶ原にも参戦できず
丹羽残党と馴れ合ってただけだし
上杉の場合、景勝が子作りに興味なくテキトーな人質候補すら
なかったのだから仕方ない面もあったんじゃないか。嫡子が
生まれたのは関ヶ原の後なくらいだし 島津は遠方だからなのも運が良かったな
まだ加藤らが生きてる間に九州征伐して決死隊になった島津と戦うのはメリットなさ過ぎる 関ヶ原の島津は竜伯とか悪久のラインで
内府と話が付いてたからのような気もする 島津もなんで西軍に参加したのかよく分からんね・・。
良くも悪くも、もう俺らは上方情勢や豊臣政権には興味ないしー、のスタンスだったし そもそもあれ義弘の独断なのか義久と何かの同意があったのかもよくわからないし
義弘が捕縛されてたら全責任被されて処刑されてたぐらいしか言えない 会津征伐いくつもりやったが、遅くて、鳥居の助力をしようと思ったが、スパイかなにかと勘違いされて
仕方ないからにしぐんへついた 西軍へついたものの、積極的攻勢はでず、終始防戦してて、しまいには逃亡 この漫画だと義弘は三成の土下座を受け入れたり、割と
好意的に見えるから、俗説の夜襲提案断られたから
不信感持ったとか、当日三成の出陣要請拒否した
ことにはならなそう。どんな行動とるのか…