ゆうきまさみ総合40【新九郎 奔る!】
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
!extend:on:vvvvv:1000:512
!extend:on:vvvvv:1000:512
上記を3行にわたって貼る
■前スレ
ゆうきまさみ総合39【新九郎 奔る!】
https://fate.5ch.net/test/read.cgi/comic/1660688867/
■作者公式サイト「ゆうきまさみのにげちゃだめかな?」
http://www.yuukimasami.com/
■ゆうきまさみtwitterアカウント
http://twitter.com/masyuuki/
■次スレは>>980がたてること
■>>1の本文一行目に「!extend:on:vvvvv:1000:512」
VIPQ2_EXTDAT: default:vvvvv:1000:512:: EXT was configured
https://twitter.com/5chan_nel (5ch newer account) >>677
それ、金が無い備中守家には無理なのでは…? 寺に送るにしても金や土地を寄進しないとな
それができない貧乏武家の子弟は雑用係に追いやられる >>679
つうても、金がある家の出ならともかく、一般人が出家しても僧兵にしかなれなくて、僧侶として学識を修める道なんてないんだよな
この家だと、僧侶の道はあるのかなあ? 義教の異母兄弟の義昭は寺に入ってても疑われ、逃げ、自害に追い込まれてるけどな
上が基地だと通用しない >>678
日本だけじゃなく、中世ヨーロッパでも貴族の次男坊、三男坊等が教会に行くのは割と普通
だから寺とか教会とかは基本的に特権階級との繋がりがある 現代のような宗教感覚じゃなくて国の根本って感覚だったからな
寺・仏教は聖徳太子の頃から日本の国教、教会・キリスト教はローマ帝国の頃(の途中)からヨーロッパの国教
国のトップも帰依して当たり前な場だったわけだし
学問が学べる当時は数少ない貴重な学校のような場でもあったわけだし まあ現代は神仏の存在を信じてる人なんて少なくなったが
中世はそれが常識のように皆信じてたからな
寺や教会の存在感は現代と中世じゃ全くの桁違いよ
足利将軍家から寺いって天台座主になってまた武士に戻った将軍もハクついたくらいに思ってたんじゃないの
新九郎もたしか仏門に出家してから早雲を名乗るんだっけな 信長の野望的な陣取りゲームで代替わりするたびに領地が分割されて、取り分以外は弟がNPC化して受け取る、とかちょっと腹立つ
寺に入れれば継承権失うから長男以外全部僧にして俺総取りとか気分良い
そんな感じか >>689
フランク王国のカール大帝の死後、3人の息子が領土を分割したみたいなのだな
鎌倉武士も普通は同じように分割してたようだ
室町時代になると、分割相続は珍しくなってる感 そういえば荏原を分割相続する前の盛定みたいな所領を持たない将軍の直臣みたいな立場の人ってどこから収入得てるの?
幕府から俸禄?をもらうわけ?
盛景伯父も一部ならしゃーないみたいなことを言ってたから僧籍に入らなかった以上はギリ食っていける分くらいはどのみち貰える見通しだったのかな 次男三男が寺送りや教会送りにされ易い件はなるほど理解
こういうのって日本史や世界史の授業で習った記憶が殆ど無いんだけど
ちゃんと出てきていた内容なのかな >>691
義尚の近江討伐は、配下の奉行たちに所領を与える目的で行われたというし、
幕府から所領給付のルートもないわではなかったのでは? 元就の、兄貴(興元)が生きてる時の貫高、笑えるくらい少なかったもんな
家督の予備に必要とか、補佐役が務まる才があるとかで、
弟に所領を与える場合の匙加減ってのも難しいんだろうな >>692
教科書にはないでしょうね
先生によっては雑談程度に話す人もいるだろうけど >>690
分割相続を続けた末に本家分家共に落ちぶれるのがたわけ(田分け)者の語源だっけか >>692
そこまで授業でやってたら到底入試範囲終わらん >>696
タワケは記紀の時代の古語で、田分けより古い >>676
八郎が存命でも、寝返りの罪で廃嫡だから状況は同じでは? >>700
兄ちゃんは良くて出家下手すりゃ切腹だったかな
盛定父ちゃんは庶子だったのかなやっぱ
盛景伯父さんとは腹違いっぽいね
ところで、父ちゃんが退場ってのも寂しいなあ
盛定スクリーンも最近見ないし
新右衛門さんも享年からいうとそろそろって気がする
二人とも本作の妖精さんになって末永く登場してほしいわ 最後に切腹で死んだ歴史上の人物って誰になるんだろう
第二次世界大戦辺りになるのかな >>600
三島由紀夫か西郷隆盛?乃木とか軍人は小粒 >>692
時代や地域によって価値観・常識が異なるって話はすごく重要なハズなんだけどね
「自分達の価値観・常識が唯一絶対」な人たち、例えば左派の日教組とかからすれば触れたくない話題なのよ、価値観の多様性って >>694
よその家の養子があったら御の字っていうよなあ
そーいや幕末の井伊大老は十四男だったねえ 確か、昭和天皇崩御の折に追い腹斬った人がいたような。
それが勘違いなら三島だな。 >>705
乃木よりかはカープの監督みたいな名前の軍人が後だろ
三島のほうが後だけど… カープの監督といえば古葉竹識
そんな名前の軍人というと? 別に長男が跡継ぎで次男三男が寺送りにされるわけじゃない
母親の実家が太い奴が跡継ぎになる
信長だって三男とかだ >>701
新右衛門さんは似たような顔の人が、
そのうち新九郎家に出現するかも。
※蜷川氏の家系図で親定という人が「仕北条氏」となってたので…信憑性は?だけど。 >>713
室町コラムも引き継ぐのかな
親元さんに憑依されたりして
珠龍は盛頼の弟だけど盛景の三男なんだな
次男はどうしてるんだろ 足利家は嫡子以外の子女は全部寺に入れてるね
戦国大名的な婚姻政策はずっと後までやらなかった >>701
盛定スクリーンが最後に出たのって、9巻で新九郎が道灌との交渉を双六に例えて説明した時? 今川義元は実際は庶子だったんだけど
僧侶だったときに今川家と京都の連絡役で活躍していてコネも沢山あったからごく自然に家督を継いだんじゃないかという話 >>689
パラドゲーにそういうのあるな
貴兄の想像通り腹が立つけど修道院に入れるのは面倒なので邪魔な子供は廃嫡で間引き >>715
でも義満は末っ子を還俗させてまでかわいがったんだよね
それで死後いろいろ鎌倉含めてごたごたしたわけで
やっぱり一度決めた方針は変えちゃいかんね
>>716
だね
あれ以来見てない
こっちが見てないとこで使ってるかもしれないけど 土地の相続の話聞いてると「名士」って文化資本を作った後漢~西晋までの中国って相当特殊なケースなんやな
名声さえあれば就職もタニマチも苦労しないで済む。
今日で言うところのインフルエンサー的な存在 >>720
ちうても、その名士ってのは、人口数千人から数万人規模のまとまった大領地を経営する、大名みたいな奴らやで
任官しなくても領地の収入だけで生活できるような連中や 信長の野望やってると北条家の一族って他の大名家と比べてすごく多いんだが
北条家は後継ぎになれない弟を寺に入れるって習慣なかったのかな?
今川は吉本と氏真くらい、武田も信玄信繁義信勝頼くらいしかいなくて少ないのに
北条という名字の武将はやたら多いのは謎 京からやって来た余所者で身寄りも地盤も無いし、強固な一門衆と家臣団を作るしかなかったんじゃないかと
見込みがあったら婿を取って一門に加えたり、毛利みたいに他家へ養子に出したりしてるね >>722
国人や小大名に養子に出して違う名字で出ているケースも多いぞ
武田だったら一条信竜(信玄の弟)や仁科盛信(信玄の子)なんかもゲームの常連だし
ちなみに北条は新九郎以来の健康長寿血統で
同時に何世代も生きてたりするから多く見えるのかも
あと養子にでてても長い統治の内に復姓してたり >>722
信廉、盛信、信勝、信豊も忘れないでね。
武田の一門衆は北条並みに多いと思う。
今川が少ないのは、氏親が則満、義元が玄広と内乱で身内を粛清してるからでしょうね。 ゼロから5代かけて支配域を拡大した都合上北条を名乗りながら重要なポストに着いてた人間の記録が多いんじゃない?
戦時と平時だと嫡男のスペアや士官候補の需要も増えるだろうから次男以下の扱いも変わりそうな気はする ゲームの場合は資料の量とかも影響してくるからなんとも
織田島津あたりもかなり多いはずよ >>722
そんな余裕かましている家のほうが珍しいよ
まず根本的な状況として乳幼児死亡率が激烈に高くて嫡子だって成人する保証無いし、成人しても病死戦死の危機が続くリアルサバイバルゲーム
嫡子と同じ腹の兄弟は嫡子を支える柱だし、腹違いの側室の子だって、側室だって有力家臣の家から出してる場合が多いから粗略になんてできない
嫁養子のクチはいくらでもあるし、それが外交でもある
皇室だけは、分家できないし他所に押し付けるわけにもいかないから容赦なく寺尼寺だが
まあ足利もそれに準じる状況だな
それでも関東公方に追い出されて堀越でgdgdやってた挙げ句に火種になる人とかいろいろいるわけだが 北条家の場合、庶家が御本家様に遠慮して別の名字(玉縄とか八王子とか)名乗るってのがあまりないイメージ 支配領域が広いから人材は余らないし寺に送る余裕もなかったんじゃないかな 内政チート一家だからな、北条家は
余裕があるから武田みたいに他家に送りまくる必要がない >>635
北条氏直と太田源五郎が双子説を提唱してるアマチュア史家がおってん >>732
あらむしゃだらけのかまくらぶしのなかで
読み書き出来たからでは(身も蓋もない) 醍醐の醍の字が書けない?そんなもん大でええねんwww >>723
同じような事情だったであろう鎌倉幕府の頼朝は親族を増やすどころか死滅してしまったんだよなあ >>725
織田信長は親族と折り合いが悪かったとはいえ、兄弟や叔父はそれなりに活躍してるんだよな、戦死者が多い
男兄弟だけで10人以上(何人かは早くに死んでるが)いるし。 >>729
今川の子供も出家してる率高いな
氏親の子供も嫡男以外全員出家だっけ?
花倉の乱の当事者2人とも還俗してる(つまり、兄の生前は僧侶やってた)んだよな
もう少しあとの時代の大名家では出家してる人が少ないな、義元の世代の当主たちは子供をあまり出家させなくなったのかな
氏真の弟たちはどうだったんだろ(いないことはないと思うが、ぜんぜん知らない) 信長の兄弟は本願寺戦でよく死んでる印象
そりゃ信長が怒るのも分かる これからの「新九郎、奔る!」で登場するであろう歴史的イベントってこんな感じ?↓
文明18年7月26日(1486年8月25日)
扇谷定正による太田道灌粛清
(新九郎、駿河に再下向)
長享元年11月9日(1487年11月24日)
小鹿範満自害
(新九郎、上京して将軍足利義材の申次衆になる)
延徳3年4月3日(1491年5月11日)
足利政知死亡
同年7月1日(1491年8月6日))
足利茶々丸、継母円満院と異母弟潤童子を殺害
(新九郎、伊豆に下向して堀越御所襲撃)
ちなみに弥次郎は延徳3年8月に将軍義材の近江出陣に従軍しているので、兄貴の伊豆討ち入りには参加してない(多分)。「後法興院日記」8月27日条では義材の申次衆として「伊勢肥前守(盛種)・同左京亮(貞泰)・同弥次郎(貞綱相続)・同下総守(貞仍)」の名を挙げている。 新九郎の伊豆襲撃は明応の変後の明応2年夏~秋頃らしいので、それだけでは弥次郎が居なかった証拠にはならないような。 >>742
私称官途かも知れないけど、弥次郎くんは後に伊勢丹波守と名乗る模様。
>>743
いけない、忘れてたw
ちなみに生年は長享元年(1487年)だけど月日は不明なんだっけ?小鹿さん死亡日と同じだったら怖いな。
>>744
兄貴と一緒に堀越御所を襲撃した後、途中経過報告のため上京しそのまま義材と近江出陣した、あるいは近江出陣後に伊豆へ下向した可能性あり? >>746
不明だけど32歳で伊豆に下向してから伊豆千代丸が生まれているのでその少し前の義尚の申次衆になった辺りだろう
その頃に東荏原を盛頼に引き渡して借財を整理し、身軽になったところで小笠原氏の娘と婚姻を行い、申次衆という討伐の仲間を集める手札となる身分も得て関東下向と小鹿討伐を決意したのでは >>734-735
あいつ、七巻以来ちょくちょくこういうことしてるよな。何かの伏線かも。 弥二郎もあのまま伊勢貞綱の養子になったとして、跡継ぎを作ったところで新九郎のところに戻って共に関東に向かったか、もしくはもう少し後の伊豆討ち入りの前後辺りというところか
養子については姉ちゃんが納得してなさそうでまだ一波乱ありそうでもあるけど >>749
あれは納得してないというか
申し訳ないの顔だろ >>747
借金抱えてたら(未来の)舅さん首縦に振らないからね。
で、ぬいちゃんは絶世の美女にクラスチェンジしている頃合い。 >>741
1483年、古河公方と関東管領の和睦→堀越公方、存在意義を失う
1485年、京の南部で起こる山城国一揆
これも追加かな 長享3年3月26日(1489年4月26日)
足利義尚、近江で陣没
重大事なのが抜けてた(汗)
伊勢兄弟にとって、公私ともに仲の良かった義尚の死がその後の関東下向に大きく影響するはず。 >>749
「伊勢系図」によると伊勢貞綱の家督は兄貞勝の子貞英が継いだように記されている。黒田基樹氏は貞英が早世したから弥次郎(弥二郎)盛興が養子に入って継承し義材の申次衆となったと推測している。
でも、弥次郎は最終的には兄貴と同じく伊豆へ下向して高橋家を継ぐから、貞綱さん的にはガッカリだろうな。 もしかしたら弥次郎が下向すると丸く収まる事態が発生するのかも
何かは知らん >>755
弥次郎が伊勢一族全体に泥を塗るような大失敗をやらかして、伊豆へ下向&高橋家へ養子に入るハメになったとか?
で、甥の氏綱もそのあおりを食って北条に改姓&通字を「盛」から「氏」に変えたとか?? 通字の氏は、元服の時に氏親から貰った(押し付けられた)が有力だと思うけどなぁ 義尚の死もだけど義視にあんな啖呵切ったのに御所の父親として帰って来られたら京に居場所ないよね
割とすぐ死ぬけど >>757
名実ともに今川の家臣&一門衆から独立した三代目の時点で、今川氏親由来の通字を変えても良かった気がするが、わざわざ今川家との関係を悪化させる気は無かったんだろうな。ね、氏康さん。 >>741
明応の政変 明応2年(1493年)4月22日
新九郎の堀越御所襲撃の前にこれを入れておかないと >>745
明応の変後という事は将軍義植は失脚してると言うことよ? 初名は義材(よしき)。将軍職を追われ逃亡中の明応7年(1498年)に義尹(よしただ)、将軍職復帰後の永正10年(1513年)には義稙(よしたね)と改名している。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E5%88%A9%E7%BE%A9%E7%A8%99
流れ公方は改名公方でもあった。
葛飾北斎「俺の方が凄いぜ!」
葛飾北斎は改名30回、本名は?生涯&性格について。引っ越しの数もすごい
https://asuneta.com/archives/70191 >>755
ありそうなのは実子が生まれた⇒内紛になるよりはと身を引くパターンかな >>763
細川勝元も山名家から養子として豊久をもらったのに、実子政元が産まれたら廃嫡した件。 >>762
流れ公方……
萬屋錦之介「破れ公方である!」 >>761
明応の政変が起きたのは明応2年(1493年)4月。義材追放を主導したのはした管領・細川政元、日野富子、伊勢貞宗という「新九郎、奔る!」でお馴染みの皆さん。義材(後の義稙)追放で申次衆だった弥二郎は京での居場所を失って伊豆へ下向したのかな? >>763
娘がいたとしら男の子が生まれたとかね
養父に血縁のある男子が登場すれば弥次郎は遠慮しちゃいそうだ >>767
ヨロキンは某大河ドラマで山名宗全演じていた件。 >>768
貞宗と政元が実権握ったら弥次郎はそれこそ我が世の春ですがな >>771
弥次郎は新将軍義澄に仕えればよかったのに、それを潔しとせず京を去ったと予想。
ゆうきまさみがどういう解釈でどう描写するか楽しみ。 新九郎は駿河館襲撃のあと一度は政知の奉公衆になるけど、政知の死後は京に戻って義材に申次衆として仕えてる
そして明応の政変後に「主命により」堀越御所を襲撃している
弥次郎が堀越御所襲撃に同道してたとすれば新九郎同様に義澄や政元の意を受けてのことだと思うが >>762
そういえば、なろうで現代人が流れ公方に転生する話があったな
真九郎奔る!の重要人物が実は女性で主人公との間に子供ができてたが >>773
普通に幕臣として義尚→義材→義澄とその時々の将軍に仕えてその命令で動いていたってことでOK?
でも、主命で動くのは堀越御所襲撃までで、その後は第1話冒頭での「明日からは俺の主は俺だ!」発言の通り独自行動を取るようになると。 >>773
なるほど弥次郎についてはその方が自然だな
でも新九郎と一緒にそのままいるんだよね >>765
宗全さんの子かあ
応仁の乱で敵対したけど
直前までは仲良しだったのが不憫や >>774
そういえば大沢たかおも「花の乱」で足利義材を演じてたわ。
南方仁が江戸でなく室町の方の幕末にタイムスリップして、足利義材の影武者兼侍医となるJINスピンオフが読みたくなったw ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています