【日本史】アンゴルモア 元寇合戦記 たかぎ七彦 part8
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>>609
いやそれ最後の最後でしょ
日本側に攻め立てられて追い込まれた結果だよ >>610
まぁ、あれやこれやと理由は付けられるが、時代柄推測の域を出ない部分は多いからなぁ
膠を多用するから高温多湿の日本じゃメンテナンスしにくいんじゃないかとか
(竹と木ですら剥がれやすい地域は、丸木弓も有用だったらしい)、
武士の弓矢は騎士のランスに相当(飛び道具というより、至近距離から鎧ごとぶち破る使い方なのと、権威の象徴で使いにくいものを使いこなすのが美徳)だからかもとか
義経が強い弓を引けなかったというから、もしかしたら半弓を使ってたかもね >>613
奥州は北方貿易でモンゴル人も来てたらしいからなあ 時代は違うけど、上杉謙信が傘下の成田氏?の烏帽子を公衆の面前で叩き落として顰蹙買ったんだっけ >>613
>武士の弓矢は騎士のランスに相当
>権威の象徴で使いにくいものを使いこなすのが美徳)だからかもとか
(´・∀・`)ヘー
勉強になるわ
確かにランスなんて派手で象徴的だけど、
武器としては扱いづらいやね
カトリックの教会がラテン語に拘ったのも、
ほかの日常語とは違う、
限られた聖職者や知識人しか理解できない使いにくさで、
権威を持たせてたってのもあるんだよね
それが結果として反発したプロテスタントを生む要因になり、
宗教改革にも繋がっていくんだけど >>612
いくら鎌倉時代が日本刀の最盛期とは言え、
片手切りで兵士の頭骨を両断するのはやり過ぎでねえかなって気はするが、
騎馬武者がかっけえからいいや >>617
この当時の人間はカルシウム不足で骨が脆く、
刀で両断するのも容易だったという(大嘘) 日本遠征軍は元寇の後、モンゴル王族のナヤンやカダアンの乱を鎮圧してるんだよな。
日本遠征軍は決して弱くはない。
それにモンゴル人だけで攻めてきたら、モンゴル人口が少なすぎる上に山がちな日本で不慣れな渡海などしたら自殺行為。
むしろ、海洋になれている旧南宋人や高麗人をフルで使う日本遠征軍以上に最適な日本遠征軍は無いよ。 世界史のなかの蒙古襲来 モンゴルから見た高麗と日本 宮脇淳子 (著)
モンゴル兵少ない理由がわかるよ 防衛大臣河野太郎の先祖といわれる伊予の河野氏も出てくる? >>617
この時期の日本刀は馬上で片手持ちする為の造りになってるし
古刀の威力はヤバイよ
兜の上から叩き斬るんだから 大福様って史実でもここで死ぬの?
つかオリキャラかも >>617
ホモの実力を舐めたらアカン
博多のハッテンバじゃあ、こんなん日常だぜよ!!!!! >>623
旧南宋軍が戦ったのは鷹島沖海戦や鷹島の戦い、御厨海上合戦などで戦っている。
それに東路軍にも少なからず旧南宋軍がいたしね。
あと、モンゴル側の史料に日本側の捕虜になった
モンゴル人や漢人、高麗人は処刑され、旧南宋人は助命されたとあるからモンゴル人も捕虜の中にいたことがわかる。 >>916
すまん、日本遠征軍ってなに?
倭寇の事? 銅剣で鎧ごとバターみたいにスパスパ両断する戦国漫画もあるからな チョンコロとチャンコロ処刑は気持ちいいな
流石わかってる
南宋人は元に強制されてただけだしな >>594
>>595
文永の役では蒙古・漢軍25000人、高麗軍8000人、水夫6700人である。
蒙古・漢軍25000の内、蒙古が何割だったか知らないけどそれなりには居たようだ。
騎乗率は全体の17%ほどという資料もあり、単純計算で騎兵は5600騎という事になる。
対する鎌倉武士は1000騎。
マムルーク朝もびっくりの健闘ぶりではないか。 >>635
ちょっと待った
1000騎?
それは余りにも少ないような・・・
この漫画でも4000騎って言ってなかった? >>559
平安鎌倉時代にどの程度馬鎧はあったのだろうか?
当時の合戦絵巻とか見ると馬鎧は描かれてない。
戦国時代や古代にはあったようだが。
一応、馬鎧以外にも日本の馬には下鞍や障泥という大きな物が備えつけてあり一番ヤバい腹の部分は守られている。
実物を見たことがあるが素材は革のようで、漆かニスの用な物が塗られており表面が硬くなっている。
革鎧のような役目になったかもしれないが、それにしても物足りない感じがする。
平安鎌倉時代にちゃんとした馬鎧は無かったのだろうか? >>636
1000騎て書いてある。
従者含めて2000人。 文永前後で南宋と同盟して、鎌倉の兵を援軍に送ったら、滅亡から救えると思いますか? 博多湾全体で4000人。
その内の騎兵1000、従者含めて2000人が博多に居たって事じゃね?
大友とか箱崎に居たんだろ?
博多湾全体だと騎兵2000、歩兵2000ってところか。
日本の騎兵強いよな。 >>640
無理。当時の日本の造船技術じゃ東シナ海を渡れない。
律令時代は官営の造船所が今の岡山県にあって、
遣唐使を送るだけの船は作ってた。
軍団は廃止しても、造船所は廃止しない方が良かったな。
そのせいで随分と船が沈没し人も米も無駄になったそうな。 のちの倭寇が海を渡り、慶元の城の守備隊を蹴散らして城を焼き払ってたり、日宋・日元貿易しているところをみると無理ってことはないだろうが、一所懸命の鎌倉武士が南宋を救う為だけの海外での戦いに何処まで戦意が上がるか疑問だね。 渡る手段があっても、
金を落とされてる時点で相当厳しいと思うな
北宋を倒した金をさらにモンゴル→元が倒してるわけだから 北方乾燥地帯を好む遊牧民が南の瘴癘の地を踏むのは容易な事じゃないんさ
モンゴルだって力押しじゃ秦嶺・淮河線を越えるのは無理だった
まあ色々諸事情を差っ引いて、鎌倉武士が戦力として加わったのなら、相当に活躍はしたのでない?
ただね・・・連中の真骨頂は勝てないとみると逃げる事にある
機会を伺い何度も何度も攻めては引き攻めては引きを繰り返し、徐々に獲物の体力を削っていく
正直大陸で奴らに勝つのは厳しいのでは >>646
まさにベトナムがそれでやられたよな。
元に大勝した事ばかり取り上げられるけど、結局はベトナムも元に服属した訳だし。 国外遠征に関しては白村江の実績があるから、
モンゴル帝国VS日本・南宋同盟軍という絵は夢物語ではないと思う
実際、当時は幕府内でそういう話もあったかもしれない >>648
どうかな?
承久の乱後50年以上経ってて幕府が実権を掌握してるとはいえ、
>当時の国政は、外交は朝廷の担当であったため、
>幕府は朝廷に国書を回送した。
>朝廷と幕府の仲介職である関東申次の西園寺実氏は
>幕府から国書を受け取ると、
>院政を布く後嵯峨上皇に「異国のこと」として提出した。
こうあるから、積極的に攻めて出る姿勢は感じられないと思うが
もし、下手に武士を遠方などへ出せば、
朝廷側が巻き返しに出る危険性もある
>鎌倉には南宋より禅僧が渡来しており、
>これらの南宋僧侶による進言や、
>大陸におけるモンゴル帝国の暴虐などの報告もあったとされる。
まあ、南宋の状況についての情報はそれなりに入っていたようだけど、
南宋と日本間ではどんな外交がされていたのかは気になるね モンゴルの使者を南宋の使いが博多で妨害しているのは面白いね。
モンゴルに対抗するのに南宋が日本に期待を持っていたということ。 そういえば大河ドラマのときに高麗ルートで元に攻め込もうとして
柳葉敏郎に止められる、という展開があったような。 ヒロインが足りん。
キングダム見習って竹崎季長を女にしろ >>654
そう
ピーターと柳葉敏郎で高麗出兵を巡って揉めた >>648
もともと大和王権は朝鮮人の日本征服により成立したものだから
当時はまだその勢力が現地に残っていた訳で外征とは性質が違うだろ つまり歴史的に朝鮮が日本に支配されるのは問題なしということだな >>657の言う通りなら
元寇からしばらく後には古代日本と関係のある挑戦勢力は半島からいなくなったんではないか
ならばただの隣国であり恩も讐も無い
まあ実際には高麗の朝鮮人どもがモンゴル誘って日本で虐殺略奪した上で惨めに敗走したのは現在の朝鮮人と繋がってるがな
日本とつながりの深かったら加羅、百済はそれよりずっと前に半島から駆逐済みだし
倭寇を名乗って同胞や明の海岸荒らし回った無法鮮人どもも日本には元祖倭寇が怖かったりして近寄れなかったようだが >>656
大河ドラマは大河ドラマとして、この漫画の時宗だと
逆に攻めたい部下を押さえてそう >>661
この漫画だと高麗王のヘタレぶりが強調されて
まともな将たちはだいぶ殺されてるんだよな
軍としては相当弱いという設定になってると思う 現実でも高麗兵なんてヘタレチンカスしか居なかったからな 考古学的痕跡や遺伝子解析から朝鮮半島からの大規模侵攻は約2300年前頃と考えられている
一方任那一帯で日本と共通する土器が普及したのも同時期の事であって
朝鮮半島における新興勢力が日本と半島南部で同時に攻略を進めたとも解釈できる 大規模侵攻w
始皇帝よりも昔の時代に、朝鮮人が、船でか?
ちょっとその考古学の成果どこに載ってるのか教えてくれよ
朝鮮人以外の作成した論文や記事で 韓国人には誇るべき歴史が何もないよな
高麗もモンゴルに征服されてて
駐屯地にされて略奪されまくってたしな 弥生時代の始まりは紀元前4世紀頃のこと
元は中国北部から移住してきた縄文人に中国南部や朝鮮半島から
大量の移民が流入して日本人のDNAの7割が弥生系に入れ替わったのがその時代
弥生時代紀元前10世紀開始説はあくまで稲作の開始年代だけを見ており
遺伝子が入れ替わったのは紀元前4世紀頃であることが近年分子生物学によって確認されている 稲作と弥生人は大陸の江南からの移入と言うのが定説だな だから稲作は縄文時代からあったって
シナが文明やら言ってる遥か昔から >>669は稲作を朝鮮人がもたらしたなんて考えていないので気を付けるように >>644
元寇で活躍した菊地氏が後の時代に倭寇となり朝鮮半島で襲撃・略奪を行ったのは
ちょっとロマンのある話だね。
倭寇は基本的に上陸してからの戦いだから、
当時の日本の船が、
朝鮮半島に渡る事はできたけど、戦闘に耐えるかどうかは別の話。 元寇直後に朝鮮半島に攻め込むのは無理でも済州島は取れんかっただろうかと思うよ。
済州島は馬の放牧地だから、馬が重要な当時の武士・御家人は与えられれは喜ぶだろう。
けど当時のお粗末な海上交通では朝鮮半島よりも遠い済州島はもっと難しいかもしれない。 >>571>>576
そういえば修道士ファルコ(14世紀後半の主にドイツが舞台)で
主人公(元スペインの騎士)が仲間の修道士に
君なら弓矢を使えるだろう?と言われて
「あれは平民の武器だ」と答えていた
全く経験はないのか?と問われたら
「狩猟の時はよく使った」と >>665
マジレスすると紀元前に大規模な戦争があった形跡はない
だから騎馬民族侵略説は否定されている
遺伝子解析では渡来したDNAも認められているが、
DNAでわかるのは混血したことだけで、
どういう経緯で混血したかまでわかるわけじゃないし、
別に遺伝子の流入は戦争によるものだけじゃない >>651
一応、元寇の後に高麗に逆侵攻をかけたらどうかって話はあった
結局検討したら無理げーだろってことになって実行はされなかったが
>>648
っても敗戦の記憶だからなあ
むしろ白村江のことを思い出すと、渡海戦争の困難さの方を連想したのかも >>678
侵略の痕跡はY染色体に露骨に表れるからね
非征服民の男は子孫を残せない
分かりやすいのがネイティブアメリカンで、ほぼ100%スペイン系の遺伝子受け継いでる 最近のY染色体解析では人口(男女両方)の激減が推測はされたが、
ちょうど寒冷化の時期なので食料が減ったためじゃないかと言われてた >>640
南宋滅亡の原因は、単に軍事力の不足だけではなく
当時実権を握っていた大臣が武官嫌いで
文官優遇、武官冷遇、前線で戦ってる武官の危機を隠蔽したり
といった失策をやらかしまくったことにある
自国の武官にすら冷淡なのに他国の武官に友好的にはならないだろうし、
国の滅亡に対する危機感自体が欠けていただろうから他国の力借りるほどの危機感あったかどうか
そいつが失脚した頃にはもうかなり不利になってるし、
皇帝は幼帝でリーダーシップをとれる人材が欠けてるから
反対も大きいだろう他国との同盟なんて決断して反論をとれる人間もいなかったと思う 反論をとれる→反論を抑えられる
>>647
日本にも弘安の役以後も遠征計画立ててたしな
ベトナム戦とか国力の疲弊とか色々あって中止になったが
それも日本遠征が元にとってそんなに優先順位高くなかったからだろうし
南宋と同盟してたら危険視されて遠征が続いてたかもな 3回目の元寇があれば朝廷は元側について鎌倉を攻める ?
六波羅探題もあるし、承久の乱の時のように軍事力を持ってはいまい
しかも結局九州の武士団で撃退できてるから、京から鎌倉攻めようとしてもいろいろ足りない
というか勅額書いてるように朝廷もそんなに呑気じゃない >>683
2度遠征して拠点すら確保できなかったんだから無駄
優先順位とかでなく不可能だと諦めた >>684
ないわー
高麗が略奪されまくって北朝鮮みたく貧困になるだけ >>684
朝廷は元寇の前に出す予定だった返書は喧嘩売るレベルで拒絶してるし
元寇中は亀山天皇は日本が侵略されるなら自分の命を取ってほしいと神に祈ったし
別に元に寝返るような動きもなかったし、そんな気配微塵もないよ
>>686
まあ何回やっても無駄だったろうけど、クビライは三回目の遠征する気満々で
その準備もしてたことが元史にも書かれてる >>684
つうか元と戦ってるのは鎌倉じゃなく『日本』で、
天皇の祈願みても朝廷は戦ってるのが武士だろうと
対岸の火事や他人の不幸は蜜の味じゃなく
ちゃんと『日本』の危機として受け止めてる
幕府に勝つために侵略を利用するほど頭お花畑じゃなかろう 世界帝国のモンゴル遠征軍を九州辺りの武士だけで撃退してたんだよな
モンゴル軍が戦ってのは日本の地方軍だと知ったらどう思っただろうか…鎌倉から本隊が出てきたら…
幕末も大英帝国が薩摩に返り討ちにされたりしてるし九州がヤバいだけかもしれないがな >>684
あと従属した高麗が日本遠征に参加してるのを見て、
日本が従属すれば高麗兵の運命は日本の民の運命かも、
ってことは考えるんじゃないかな当時でも
しかも弘安の役では高麗兵(というか南宋兵以外)は
生きて捕虜になっても皆殺しという末路を迎えてる
侵略の尖兵にされれば侵略に激怒したその地の民から
凄まじい報復を受けるということが実際に日本で行われた後でもある
元と組んで鎌倉滅ぼしたとしてもその後に、鎌倉以外には安穏とした未来があるなんて、
夢想できるような状況でもなかったと思う
まあ仮に朝廷が元についたところで、元が鎌倉にすぐに攻め込めるわけでも
長期的に持ちこたえられるほどの軍事力が朝廷にあるわけでもないから
承久の乱再びになって上皇は配流、帝も場合によっては廃位させられて
鎌倉にとって都合の良い皇族が即位して皇統が変わるだけじゃないかな >>587
家康は馬に乗りながらウンコするのも海道一 まあ実際対陣が何ヶ月も続くようなことも珍しくないし
戦闘が朝からずっと続いてたりみたいなこともあるわけで
そこらでのんびりとクソ垂れる暇もないことって割とあったと思うけどね
だから家康より上手い馬上グソの垂れ方を編み出した武将がいたかも
半ケツ出してクソ投げながら逃げるとか お前ら朝鮮人、朝鮮人って朝鮮の事そんなに好きなのか?
文永の役では朝鮮人は8000人で残り25000人はモンゴル人と中国人。
弘安の役にいたっては朝鮮人1万人に対して、残り13万人はモンゴル人と中国人。
朝鮮人は少数派なんやで? >>691
でも薩摩からビートルズは出てないから、イギリスの勝ちだな >>592
日本人も曲芸やるぞ。
↓の用な神事が伝わっているという事は日本の武士も似たような技術を持っていたのだろう。
しかしこれは、一歩間違えたら動物虐待になるな。
ちなみに、この藤森神社の宝物殿は重要文化財の大鎧をはじめ、
甲冑、刀剣、大筒、馬に関するものなど、戦いに因んだ社宝100点が展示してある凄い所である。
京都・藤森神社で駈馬神事 疾走する馬の上で曲技
https://www.asahi.com/sp/video/articles/ASL554W7QL55PQIP00F.html >>684
流石にこれは
小学校の授業受けてなかったの?ってレベル >>697
>↓の用な神事が伝わっているという事は日本の武士も似たような技術を持っていたのだろう。
そういう技術を持った武士もいるにはいただろうけど、
さすがに歩き始めてすぐ馬に乗り出すような、遊牧騎馬民族と比較しても仕方なくないか?
飼ってる馬の数も全然違うんだぞ? >>699
南宋人かなと思ったけど、南宋人は弘安の役だけだから
文永の役のは金やそれまでに落とされた地域の分かな >>695
まあ最大は南宋人だけど、南宋人のみ助命されたの見ても
当時の人も数は数が多いことと関与の深さを=にはしてなかったんじゃない 元の情報を知ってたんだろ
クソカスの高麗兵だけ処刑してるとこみると >>684
朝廷に攻める力がないのはもちろん、
御家人たちだって二度も元に攻め込まれて元の脅威がよくわかっていて
それでいえ防衛成功しているから降伏するほどの脅威ではないという状況だから戦意もあるだろうし
元につくなんていっても協力するような御家人はいないんじゃない?
勅命でどうにかなるもんじゃないのはそれ以前の朝廷と鎌倉との争いを見ても明らかだし
九州武士強すぎて、元の侵略と朝廷の鎌倉攻めが同時に起きたとしても
九州勢で元軍を抑えている間に鎌倉がさっさと京攻めて院と帝すげ替えてから
九州に向かって合流しても十分間に合いそう 【日韓】チューリヒ大教授、日本と韓国「家族げんかのよう」 朝鮮半島から人が入ってきて、縄文時代のものが民族浄化により絶滅した★3
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1569765945/
こんなこと平気で言う人もいる >>703
南宋人も日本にいるから、そのあたりの事情は伝わってただろうね >>694
人が恐怖で漏らすものなら、脱糞は戦場ではよくあることだったはず…
なんで家康だけそんなネタにされんのw >>696
イギリスから長渕も出てないから、やっぱり薩摩やろ >>697
藤森神社は馬の神社といわれるほど馬に因んだ物や行事や逸話が多い
最近は刀剣が某ゲーム関係で注目されてるなw
今は御物になってるからもう現物はないが ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています