【日本史】アンゴルモア 元寇合戦記 たかぎ七彦 part8
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
>>574
普通の弓だって使い手は低い身分の者と騎士階級からは見下されてたやん
>他国では騎士は狩猟のほか弓を用いず、
>弓は主として身分の低い歩兵の武器とされた。
>その為、身分の低い兵士はたとえ弓を装備していなくても
>弓兵(アーチャー、アルシェ)と呼ばれた。
長弓隊を作ったイギリスだけは例外だったみたいだけど
>イギリスの弓は長弓となり
>(このあたりの描写は映画ブレイブハートなどに見ることができる)、
>弓が勝敗を決したので弓隊の長は名誉の職とされた。
>中世英国の自営農民も自衛のために
>イチイの木などで作った長弓を用い、
>その名手は300mも先の的を射たという。
どっちにしても、江戸時代まで「弓馬の道」を続けてきた、
日本の武士は世界でも特殊な重装弓騎兵だと思う(無論時代ごとに特性は違うが)
最高権力者の征夷大将軍だって弓の鍛錬は続けてたんだし そうではなく俺が言いたいのは
クロスボウは構えて引き金を引くだけだから安易に扱えるというのはわかる
剣や槍や斧や棍棒はとりあえず振り回せば兵士出来るのと比べれば
弓は習得には一番手間も時間もかかるだろう
安易に扱えるとは程遠いのではないか
そういう目で見られていたクロスボウへの蔑視をそのままロングボウに当てはめて弓はこんな風に思われていたと論じるのは無理ではないかとそういうことなんだが 陸上で弓撃つのも習得が大変なのにさらに馬上で射るんだからな
とうぜん馬を乗りこなすのも難しい
全部戦用だから 武士=弓騎兵じゃなくて、武士の中のエリート兵が弓騎兵なんじゃないの?
漫画でも大多数は徒歩なわけだし >>578
馬で駆けながら弓を撃つとか、基本遊牧民以外無理だからw >>579
当時の合戦ってのはそのエリート同士で戦うのであって、供回りは基本戦わないのよ >>571,573
ありがとう、なるほどね
>>579
騎射できるかどうかが武士にとってステータスで足軽との差になってるみたいなこと書いた本は読んだことある
どういう根拠だったかは忘れたが >>581
鎌倉時代の足軽兵士は戦わないのか
サンクス 鎌倉時代に足軽はいない
応仁の乱で出てきた存在だから
んで武士は何騎って数えるけど
弁慶みたいな徒士の戦士もいるにはいた
江戸時代でいう小者中原みたいな荷物持ちもいるけど、身を守るくらいの武装はしてる >>584
>弁慶みたいな徒士の戦士
アンゴルモアで烏帽子かぶって薙刀とか持ってる徒歩組? なんか徒歩は妙に烏帽子が多いんで、それが身分の証明になってるのかなと >>578
日本の武士はさらに、弓を射る時に鞍から腰を浮かせて二本足で立つ。
膝のバネで馬の上下動を吸収して上半身を安定させる。
こうする事によって弓の的中率をあげるらしい。
流鏑馬の必須テクニック。
ほとんど大道芸と言っていい。モンゴル人もここまではやらない。 この二本足で立つテクニックを立ち透かしと言い、
これをやるために舌長鐙という日本独自の鐙が作られたんだと。 >>588
あぶみ有ったのかな
無かったのなら落馬しかねないやろ 鐙なしでどうやって立つんだ
馬の背に立ち上がるのか
それで大弓射ったらもう曲芸だよ >>588
モンゴル人は平気で馬の側面にぶら下がったりとかするよw
それこそ曲芸のレベル
https://www.archery360.com/wp-content/uploads/2017/08/01-Parthian-Shot-Photo-Credit-Ali-Ghoorchian.jpg
>モンゴルの子供たちは、生まれたころから馬の上で育っており、
>足は鐙の形に変形していたという。
>モンゴル軍は小さいころから人馬一体となっており、
>馬に乗ったまま、片側にぶら下がり、馬を盾にしながら、
>敵に向かって矢を射る事が出来たという。
>敵と戦う時は、騎馬兵ならではの機動力を生かして、
>撤退戦を仕掛けながら敵を死地に追い込むのは常套手段だった。
>撤退戦は一歩間違えれば、
>軍隊が敗北の恐怖に包まれて潰走しかねない為、
>非常に訓練された軍団でないとできない芸当である。
その代わり徒歩になると厳しかったらしい
チンギス・ハンの孫のバトゥ(フビライの従兄弟)は足が弱かったとのこと >>592 なにかの動画で後ろ向きに座って弓を打ってるのがあったけど
こっちが普通か モンゴル兵は騎馬の扱いに優れてるけど元寇にそのモンゴル兵がほぼ居ないから意味ないんだよなあ(笑) 雑魚の高麗兵や南宋兵がほぼ占めてる元寇の元軍
その上兵站もままならないんだから最初から鎌倉武士団に勝てるわけないんだよな オスマン帝国の外人兵団も弱かったらしい
メリットのない徴兵だからなあ 久しぶりに読んだ
刀身の短い得物で、敵陣に駆け入るとか
相変わらず荒唐無稽な内容だな
朝鮮や宋の雑魚相手に勝ったくらいで、神国を名乗るジャップw
モンゴル兵が2〜3倍居たら、日本全国蹂躪されていただろ >>597 モンゴルの戦術は日本じゃ通用しないよ
当時は大阪や東京でさえ山だの谷だのだらけで騎馬など役に立たない
鎧も薄々だし
来れば一撃 >>598
ねえ
対馬編でもろくに騎兵出てこなかったんだから、
本土(>国土交通省は、
>北海道・本州・四国・九州・沖縄本島
>の5島を除く島を「離島」としている
この定義で)に移っても、
大陸の時と同じような蒙古騎兵無双なんて、
とても無理だよね
そもそも、
遠征航海にどれだけの馬を連れて来れてるかも怪しいし、
日本に上陸しても山ばっかりで、
遊牧しにくくてたまらないだろうし 西郷性なら皆、”ごわす”かよw
作者はかなりバカなの? >>601
ジャップなんて罵ってくる在日よりバカじゃないですよ♪ 更新しました
新キャラ西郷さん登場
徒歩兵が攻城戦でも全員烏帽子なのは下人は鉄兜?禁止なのかもしれない >>586
当時、烏帽子は成人男子の証なので、男は皆被ってる
脱ぐのは体洗う時と寝る時くらい
人前で烏帽子を脱ぐ、脱がされるのは、パンツ脱ぐのと同レベルの恥
高位武士→大鎧、もしくは胴丸鎧(大鎧と胴丸の折衷した鎧)、弓矢と太刀で武装して騎馬
烏帽子の上から兜をかぶって、天辺の穴に烏帽子の先を通すことで、
ずれ落ちないようになってる
下位以下の武士や家来郎党は胴丸や腹巻(大鎧の簡略版)に半首(鉄板で作ったヘッドギアみたいなもん)に
薙刀で武装(少し偉いのは、太刀や腰刀も)で徒歩
籠手は弓矢使う武士は操作性の都合から弓を持つ手にだけはめる
白兵戦やる武士は両手にはめる
武装は基本、自前で用意するので、各々の経済状況にもよる
褒美をやるから、鎧一領あつらえるのと屋敷一棟建てるのと、どっちがいい? という話もある >>594
騎馬で移動して戦うときは馬から降りる
移動は船だから騎馬が無意味だった 蒙古軍はモンゴル兵も馬もそれなりには居たよ。
兵数十人に馬1頭の割合だから1000騎くらいにはなるかな。 水軍を有する側は機動力を生かして相手の防備の弱いところを突くのが常道なのに
元はわざわざ小島に立てこもって自滅するどん判したあたり
水軍の戦を知る朝鮮側の将に発言力が全くなくてモンゴル人の奴隷状態だったんだろうな 日本にも半弓(と言っても160〜190cmだから世界基準で言えば長弓)というものがあり、
鯨の髭など動物素材が使われたものがある。
扱いやすそうだし、威力も2m超の物と比べて遜色なさそうだが、どうして普及しなかったのだろうか?
現物は比較的残ってるそうだが、この武器が合戦でどのように使われたたかは調べてもあまり出てこない。
流鏑馬神事で使われる弓は和弓にしては妙に短いが、もしかしてこれなのか?
↓参考
http://www.xn--u9j370humdba539qcybpym.jp/part1/archives/223 >>609
いやそれ最後の最後でしょ
日本側に攻め立てられて追い込まれた結果だよ >>610
まぁ、あれやこれやと理由は付けられるが、時代柄推測の域を出ない部分は多いからなぁ
膠を多用するから高温多湿の日本じゃメンテナンスしにくいんじゃないかとか
(竹と木ですら剥がれやすい地域は、丸木弓も有用だったらしい)、
武士の弓矢は騎士のランスに相当(飛び道具というより、至近距離から鎧ごとぶち破る使い方なのと、権威の象徴で使いにくいものを使いこなすのが美徳)だからかもとか
義経が強い弓を引けなかったというから、もしかしたら半弓を使ってたかもね >>613
奥州は北方貿易でモンゴル人も来てたらしいからなあ 時代は違うけど、上杉謙信が傘下の成田氏?の烏帽子を公衆の面前で叩き落として顰蹙買ったんだっけ >>613
>武士の弓矢は騎士のランスに相当
>権威の象徴で使いにくいものを使いこなすのが美徳)だからかもとか
(´・∀・`)ヘー
勉強になるわ
確かにランスなんて派手で象徴的だけど、
武器としては扱いづらいやね
カトリックの教会がラテン語に拘ったのも、
ほかの日常語とは違う、
限られた聖職者や知識人しか理解できない使いにくさで、
権威を持たせてたってのもあるんだよね
それが結果として反発したプロテスタントを生む要因になり、
宗教改革にも繋がっていくんだけど >>612
いくら鎌倉時代が日本刀の最盛期とは言え、
片手切りで兵士の頭骨を両断するのはやり過ぎでねえかなって気はするが、
騎馬武者がかっけえからいいや >>617
この当時の人間はカルシウム不足で骨が脆く、
刀で両断するのも容易だったという(大嘘) 日本遠征軍は元寇の後、モンゴル王族のナヤンやカダアンの乱を鎮圧してるんだよな。
日本遠征軍は決して弱くはない。
それにモンゴル人だけで攻めてきたら、モンゴル人口が少なすぎる上に山がちな日本で不慣れな渡海などしたら自殺行為。
むしろ、海洋になれている旧南宋人や高麗人をフルで使う日本遠征軍以上に最適な日本遠征軍は無いよ。 世界史のなかの蒙古襲来 モンゴルから見た高麗と日本 宮脇淳子 (著)
モンゴル兵少ない理由がわかるよ 防衛大臣河野太郎の先祖といわれる伊予の河野氏も出てくる? >>617
この時期の日本刀は馬上で片手持ちする為の造りになってるし
古刀の威力はヤバイよ
兜の上から叩き斬るんだから 大福様って史実でもここで死ぬの?
つかオリキャラかも >>617
ホモの実力を舐めたらアカン
博多のハッテンバじゃあ、こんなん日常だぜよ!!!!! >>623
旧南宋軍が戦ったのは鷹島沖海戦や鷹島の戦い、御厨海上合戦などで戦っている。
それに東路軍にも少なからず旧南宋軍がいたしね。
あと、モンゴル側の史料に日本側の捕虜になった
モンゴル人や漢人、高麗人は処刑され、旧南宋人は助命されたとあるからモンゴル人も捕虜の中にいたことがわかる。 >>916
すまん、日本遠征軍ってなに?
倭寇の事? 銅剣で鎧ごとバターみたいにスパスパ両断する戦国漫画もあるからな チョンコロとチャンコロ処刑は気持ちいいな
流石わかってる
南宋人は元に強制されてただけだしな >>594
>>595
文永の役では蒙古・漢軍25000人、高麗軍8000人、水夫6700人である。
蒙古・漢軍25000の内、蒙古が何割だったか知らないけどそれなりには居たようだ。
騎乗率は全体の17%ほどという資料もあり、単純計算で騎兵は5600騎という事になる。
対する鎌倉武士は1000騎。
マムルーク朝もびっくりの健闘ぶりではないか。 >>635
ちょっと待った
1000騎?
それは余りにも少ないような・・・
この漫画でも4000騎って言ってなかった? >>559
平安鎌倉時代にどの程度馬鎧はあったのだろうか?
当時の合戦絵巻とか見ると馬鎧は描かれてない。
戦国時代や古代にはあったようだが。
一応、馬鎧以外にも日本の馬には下鞍や障泥という大きな物が備えつけてあり一番ヤバい腹の部分は守られている。
実物を見たことがあるが素材は革のようで、漆かニスの用な物が塗られており表面が硬くなっている。
革鎧のような役目になったかもしれないが、それにしても物足りない感じがする。
平安鎌倉時代にちゃんとした馬鎧は無かったのだろうか? >>636
1000騎て書いてある。
従者含めて2000人。 文永前後で南宋と同盟して、鎌倉の兵を援軍に送ったら、滅亡から救えると思いますか? 博多湾全体で4000人。
その内の騎兵1000、従者含めて2000人が博多に居たって事じゃね?
大友とか箱崎に居たんだろ?
博多湾全体だと騎兵2000、歩兵2000ってところか。
日本の騎兵強いよな。 >>640
無理。当時の日本の造船技術じゃ東シナ海を渡れない。
律令時代は官営の造船所が今の岡山県にあって、
遣唐使を送るだけの船は作ってた。
軍団は廃止しても、造船所は廃止しない方が良かったな。
そのせいで随分と船が沈没し人も米も無駄になったそうな。 のちの倭寇が海を渡り、慶元の城の守備隊を蹴散らして城を焼き払ってたり、日宋・日元貿易しているところをみると無理ってことはないだろうが、一所懸命の鎌倉武士が南宋を救う為だけの海外での戦いに何処まで戦意が上がるか疑問だね。 渡る手段があっても、
金を落とされてる時点で相当厳しいと思うな
北宋を倒した金をさらにモンゴル→元が倒してるわけだから 北方乾燥地帯を好む遊牧民が南の瘴癘の地を踏むのは容易な事じゃないんさ
モンゴルだって力押しじゃ秦嶺・淮河線を越えるのは無理だった
まあ色々諸事情を差っ引いて、鎌倉武士が戦力として加わったのなら、相当に活躍はしたのでない?
ただね・・・連中の真骨頂は勝てないとみると逃げる事にある
機会を伺い何度も何度も攻めては引き攻めては引きを繰り返し、徐々に獲物の体力を削っていく
正直大陸で奴らに勝つのは厳しいのでは >>646
まさにベトナムがそれでやられたよな。
元に大勝した事ばかり取り上げられるけど、結局はベトナムも元に服属した訳だし。 国外遠征に関しては白村江の実績があるから、
モンゴル帝国VS日本・南宋同盟軍という絵は夢物語ではないと思う
実際、当時は幕府内でそういう話もあったかもしれない >>648
どうかな?
承久の乱後50年以上経ってて幕府が実権を掌握してるとはいえ、
>当時の国政は、外交は朝廷の担当であったため、
>幕府は朝廷に国書を回送した。
>朝廷と幕府の仲介職である関東申次の西園寺実氏は
>幕府から国書を受け取ると、
>院政を布く後嵯峨上皇に「異国のこと」として提出した。
こうあるから、積極的に攻めて出る姿勢は感じられないと思うが
もし、下手に武士を遠方などへ出せば、
朝廷側が巻き返しに出る危険性もある
>鎌倉には南宋より禅僧が渡来しており、
>これらの南宋僧侶による進言や、
>大陸におけるモンゴル帝国の暴虐などの報告もあったとされる。
まあ、南宋の状況についての情報はそれなりに入っていたようだけど、
南宋と日本間ではどんな外交がされていたのかは気になるね モンゴルの使者を南宋の使いが博多で妨害しているのは面白いね。
モンゴルに対抗するのに南宋が日本に期待を持っていたということ。 そういえば大河ドラマのときに高麗ルートで元に攻め込もうとして
柳葉敏郎に止められる、という展開があったような。 ヒロインが足りん。
キングダム見習って竹崎季長を女にしろ >>654
そう
ピーターと柳葉敏郎で高麗出兵を巡って揉めた >>648
もともと大和王権は朝鮮人の日本征服により成立したものだから
当時はまだその勢力が現地に残っていた訳で外征とは性質が違うだろ つまり歴史的に朝鮮が日本に支配されるのは問題なしということだな >>657の言う通りなら
元寇からしばらく後には古代日本と関係のある挑戦勢力は半島からいなくなったんではないか
ならばただの隣国であり恩も讐も無い
まあ実際には高麗の朝鮮人どもがモンゴル誘って日本で虐殺略奪した上で惨めに敗走したのは現在の朝鮮人と繋がってるがな
日本とつながりの深かったら加羅、百済はそれよりずっと前に半島から駆逐済みだし
倭寇を名乗って同胞や明の海岸荒らし回った無法鮮人どもも日本には元祖倭寇が怖かったりして近寄れなかったようだが >>656
大河ドラマは大河ドラマとして、この漫画の時宗だと
逆に攻めたい部下を押さえてそう >>661
この漫画だと高麗王のヘタレぶりが強調されて
まともな将たちはだいぶ殺されてるんだよな
軍としては相当弱いという設定になってると思う 現実でも高麗兵なんてヘタレチンカスしか居なかったからな 考古学的痕跡や遺伝子解析から朝鮮半島からの大規模侵攻は約2300年前頃と考えられている
一方任那一帯で日本と共通する土器が普及したのも同時期の事であって
朝鮮半島における新興勢力が日本と半島南部で同時に攻略を進めたとも解釈できる 大規模侵攻w
始皇帝よりも昔の時代に、朝鮮人が、船でか?
ちょっとその考古学の成果どこに載ってるのか教えてくれよ
朝鮮人以外の作成した論文や記事で 韓国人には誇るべき歴史が何もないよな
高麗もモンゴルに征服されてて
駐屯地にされて略奪されまくってたしな 弥生時代の始まりは紀元前4世紀頃のこと
元は中国北部から移住してきた縄文人に中国南部や朝鮮半島から
大量の移民が流入して日本人のDNAの7割が弥生系に入れ替わったのがその時代
弥生時代紀元前10世紀開始説はあくまで稲作の開始年代だけを見ており
遺伝子が入れ替わったのは紀元前4世紀頃であることが近年分子生物学によって確認されている 稲作と弥生人は大陸の江南からの移入と言うのが定説だな だから稲作は縄文時代からあったって
シナが文明やら言ってる遥か昔から >>669は稲作を朝鮮人がもたらしたなんて考えていないので気を付けるように ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています