【日本史】アンゴルモア 元寇合戦記 たかぎ七彦 part8
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
どうせ剣士のアーマーキラー二回攻撃であっさり死んじゃうんだお >>518
西部劇だと馬上からの射撃はよく見る気がするが >>523
その辺りの時代になると装填速度が上がって命中率下がっても弾数で押し切れそうではある 大河ドラマは予算かけてるわりには作りがいい加減なんだよ。
本気になれば騎射戦を撮影するくらいの予算はあると思う。
お金のかけ方間違えちゃってる。
NHKから国民を守る党の言い分は、ほんのちょっとだけ分かる。 大河ドラマの予算の多さと内容の酷さを見ると、
NHKの中に枕営業用の部屋とベッドがあるという話、
真実味が出てくるから困るw 渋谷のNHKの空き部屋にホームレスが長年住み着いてた話はあったな。
もっともらしいかっこで関係者と思われてたとか。 昔北条時宗の大河がNHKでやってたけど、武術考証に中国武術の人間を起用してるのに納得いかなかったな
そういういい加減さが嫌い
考証の人間が言うには日本の武術は全て中国の武術の影響があるということを言いたいらしく、とんちんかんな言説を垂れているなあと同時思ったものだ
アンゴルモアは主人公が義経流という剣術を修めてて、日本伝の武術を描写しようとして好感が持てる 大河の北条時宗は割と疑問な描写多かったなあ
原作は小説だけど、小説にないところでそういう疑問な描写入れられたり改変したりしてて、
普通に小説をそのままやった方がずっと面白くなったんじゃないかと 「NHKへようこそ!」長らく積ん読のままなの忘れてたわw
読まなくちゃ http://www.bajibunka.jrao.ne.jp/uma/event/event_20190906.html
馬事文化財団 馬の博物館 秋季企画展「名馬と武将」
日本の在来馬は速く走ることはできませんが、重量のある荷物を運搬するのは得意でした。鎌倉時代から戦国時代にかけて、
特に東国の武将たちは、弓矢、鑓、鉄砲と主要な武器が変わる中で、武具類を改良し甲冑を分厚く重いものとしました。
そのため歩いて合戦をすることが難しくなり、馬による軍勢の移動が重要な課題となりました。
企画展では、一般社団法人日本甲冑武具研究保存会会員のご協力を得て、時代がくだるにつれ重量を増していった甲冑や、
武将の体重に耐え長距離移動に対応した馬具類を、多方面からご紹介します。また、神奈川県にゆかりのある武士の
肖像画・甲冑などもあわせて展示します。 時宗はどうしても実写で見たいんじゃないなら小説の方がいいね どうせフィクションなら、300みたいにするべきだったな
鎌倉武士が赤パン一丁でも驚かないぜ 大勢の前で唄うだけで恥ずかしがってたあのマフラーの娘なら
もっと大勢の朝鮮兵にもっと恥ずかしいことされる人生を送ってるニダ 日本sageしたい人がよく日本馬は小さいどうの
言うが、蒙古馬と体躯が変わらないんだよな。
その小さい馬で世界を席巻したんだが。
あと、八幡愚童訓を出すのは恐縮だけど
「鎧が軽く、馬によく乗り」とモンゴル軍の馬術にも
触れている。
対して、モンゴル側は「騎兵は結束す」と日本側の
騎馬運用にも触れている。 >>533
うんNHKのアレはつまらなかったな
即効で見なくなったわ
気のせいでは無かったんだね 馬もだけど和弓も過小評価されてるのよね
確かに素材の強さとしては動物性素材を使ってるものよりは劣るが、
それは同じ長さ、同じ太さ、同じ張り方ならって前提が付く
現代の規格化された火器と違って個人や環境でカスタマイズするのが常だし、
どこの地域でも短所を補う改良を施してるから、単純比較は出来ない 蒙古襲来絵詞でも和弓の矢がモンゴル軍の盾を貫いているしね。
博多湾上陸後すぐ劉復亨が矢で貫かれたのも和弓の威力を見誤ったからとも思える。
秀吉の朝鮮出兵で上陸した初日に小早川隆景クラスの大将が射抜かれるようなもの。 和弓のほうがモンゴルの弓より威力、飛距離共に上だったんだよね
NHKの元寇を特集した番組が昔あって、高校生の弓道部員にモンゴルの弓を使わせて、こっちのほうが引きやすいとか言わせて、いかにもモンゴルの弓が優れ、日本の弓が劣っていたか、みたいな比較をしてて、その偏向ぶりに憤慨したものだ >>547
>その偏向ぶりに憤慨したものだ
なんか単純だなあ
>>545の言うように簡単には比較できないもので、
日本以外で騎兵があんな長い弓を使った例はないんだから、
取り回しや使い勝手の点では明らかに劣っていたはず
その代わりイギリスのロングボウ部隊が騎士を破ったこともあるように、
長い弓は威力の面から言えば、
合成弓にも負けてなかっただろうね 別に和弓がモンゴルのコンポジットボウに劣っていたとしても気にならないけどなあ
2回の元寇で日本が勝ったってのがすべて
向こうが想定した以上に武士が強かったってのは嬉しいし、
高麗兵が役立たずだったってのはそうだったろうなって思うけどね
モンゴルの弓って動物の腱や骨や角を本当に複合的に張り合わせて作る、
高度で合理性の高いものだし、
しかも身分・年齢・男女に関係なく、
それで日常的に狩りを行って使い慣れてたわけで、
そりゃ中央アジア・東欧でも連戦連勝して世界帝国を作れたと思うわ
それを撃退できたってだけで十分誇らしいよ >>547
本当に糞だわ
NHK
はよ解体して欲しい 元寇みたいなの受けて勝った国って
日本、ベトナム、インドネシア、中東のマムルークだっけか 南宋や金にしたって百戦百敗だったわけではないけどな
モンゴルが諦める訳のない地域だっただけで 無料だから贅沢言えないが、ページ数が少ないね
これで必要なシーンとかカットされては困るからのんびり描いて欲しい >>548
和弓は重い矢を使っており、飛距離に劣るが威力に勝る
弓の大きさも相まって矢ぶれが少なく命中率貫通性に優れる故に
矢防特化の大鎧を直射で打ち抜く為に特化した弓だね
日本独自のガラパゴス進化はこの時代からあったという・・・
しかしこの装備、モンゴル兵にとってはとことん相性悪いね
大鎧は敵の軽矢など受け付けない
矢の雨をかいくぐって近距離からの必殺の直射
こりゃ恐怖だわ 海外では弓の科学的解析が進んでいて色んな種類の弓の張力カーブが詳しく調べられている
和弓はイギリスのロングボウと同程度で平凡な性能
張力の強さそのものは単に使用者の腕力依存であって性能差は限界まで引いた時の張力に対する
蓄えられた力積の大きさと最終段階で張力が大きくなり過ぎず安定して引き絞れるかで決まる
遊牧民のコンポジットボウはロングボウやその類似品より明確に優れており、最も高性能なのは満州弓 >>557
乗ってる馬って狙われないの?
まあ即死はしないのか >>558
コンポジットボウの張力カーブは気になるね。
データある?
ネットで検索してもなかなか出てこない。
和弓やアーチェリーのデータとかは出てくるんだけど。 >>515
弓騎兵が蛮族っていうのはヨーロッパの一方的な見方だと思う。
その蛮族に近代まで負け続けたお前らの歴史は何なのかと。 >>559
劇中でもやってたが、向こうの矢の運用は基本的に集団運用で上空に向かって矢を撃ち、矢の雨を降らせる
直射出来る範囲になったらもう日本側の一方試合でしょ
もっとも当然馬も負傷したが、その時は馬を捨てて徒歩で突っ込んでいったらしいw >>558
満州弓は600メートル飛ぶんだっけ、ヤバいね
ただ運用方法の違いも考慮に入れて欲しいね
距離飛ばす為に軽い矢を使い、威力や命中性を犠牲にしてるのだから
元寇の際も、矢が軽く威力も大したことないが毒を塗っているのでやっかいみたいな事書いてるから
まあそういう事なんでしょ >>563
日本の熊襲とか蝦夷とかもそうだけど、あいつら野蛮な癖に強ぇじゃねぇかっていう、
侮蔑と敬意がないまぜになった複雑な感情もあるから、
蛮族呼ばわりが必ずしもマイナスイメージだけとは限らんがな
日本の鬼みたいなもんで、ドラゴンは悪の象徴といいながら紋章にして
どうだ、強そうでかっけぇだろーな中二心もあるという
エリートの武器と下っ端の武器の傾向が欧州と日本で真逆なのは面白いよな
鉄砲が出てきてから大して違いはなくなったが 竹崎季長の馬とか矢傷が悲惨だもんなあ
あれ、江戸時代の書き足し説もあるけど >>563
弓騎兵ってヨーロッパはないの?
civでもあったからわりと普遍的な技術かと思ってた >>566
巡洋艦足柄に「優雅さの欠片もねえなー飢えた狼やん」とか外人に評されて
「うひょー餓狼かっけーどんな敵にも恐れず襲い掛かりそう」とか受け取ったり >>568
騎士道精神からすると下賤な兵器だかららしい
むこうは正々堂々の決闘文化 弓って日本で言う鍬みたいなもんなんじゃね?
農民の日曜日と狩猟民の日用品の違い >>568
あってもモンゴル等騎馬民族の影響を受けた、ロシア・東欧までだね
西欧はキリスト教徒同士の戦い限定だけど、
ローマ教皇がクロスボウを残酷な武器として禁止した時期があるぐらいだからね
やっぱり飛び道具は卑怯者って感じだったんでしょ
以下はWikipediaから引用
>クロスボウは安易に扱える上に威力が高かったため、
>被弾した兵士に致命傷を与える危険性があった。
>致命傷を与えてしまうことは、
>生け捕りにして身代金を要求するという
>当時の戦争のやり方にもそぐわない物だった。
>その為、各地の騎士・貴族からこの武器に対して猛反発が起こり、
> 1139年にインノケンティウス2世が召集した第2ラテラン公会議で、
>「キリスト教徒への使用」は非人道的として
>禁止する教令が出されるほどにもなった。
>しかし、対異教徒に限定されず使用され、
> 1199年にリチャード1世がクロスボウによって死亡した事例なども見られる。 クロスボウはそうだろうが、普通の手で引く弓とは違うだろう >>574
普通の弓だって使い手は低い身分の者と騎士階級からは見下されてたやん
>他国では騎士は狩猟のほか弓を用いず、
>弓は主として身分の低い歩兵の武器とされた。
>その為、身分の低い兵士はたとえ弓を装備していなくても
>弓兵(アーチャー、アルシェ)と呼ばれた。
長弓隊を作ったイギリスだけは例外だったみたいだけど
>イギリスの弓は長弓となり
>(このあたりの描写は映画ブレイブハートなどに見ることができる)、
>弓が勝敗を決したので弓隊の長は名誉の職とされた。
>中世英国の自営農民も自衛のために
>イチイの木などで作った長弓を用い、
>その名手は300mも先の的を射たという。
どっちにしても、江戸時代まで「弓馬の道」を続けてきた、
日本の武士は世界でも特殊な重装弓騎兵だと思う(無論時代ごとに特性は違うが)
最高権力者の征夷大将軍だって弓の鍛錬は続けてたんだし そうではなく俺が言いたいのは
クロスボウは構えて引き金を引くだけだから安易に扱えるというのはわかる
剣や槍や斧や棍棒はとりあえず振り回せば兵士出来るのと比べれば
弓は習得には一番手間も時間もかかるだろう
安易に扱えるとは程遠いのではないか
そういう目で見られていたクロスボウへの蔑視をそのままロングボウに当てはめて弓はこんな風に思われていたと論じるのは無理ではないかとそういうことなんだが 陸上で弓撃つのも習得が大変なのにさらに馬上で射るんだからな
とうぜん馬を乗りこなすのも難しい
全部戦用だから 武士=弓騎兵じゃなくて、武士の中のエリート兵が弓騎兵なんじゃないの?
漫画でも大多数は徒歩なわけだし >>578
馬で駆けながら弓を撃つとか、基本遊牧民以外無理だからw >>579
当時の合戦ってのはそのエリート同士で戦うのであって、供回りは基本戦わないのよ >>571,573
ありがとう、なるほどね
>>579
騎射できるかどうかが武士にとってステータスで足軽との差になってるみたいなこと書いた本は読んだことある
どういう根拠だったかは忘れたが >>581
鎌倉時代の足軽兵士は戦わないのか
サンクス 鎌倉時代に足軽はいない
応仁の乱で出てきた存在だから
んで武士は何騎って数えるけど
弁慶みたいな徒士の戦士もいるにはいた
江戸時代でいう小者中原みたいな荷物持ちもいるけど、身を守るくらいの武装はしてる >>584
>弁慶みたいな徒士の戦士
アンゴルモアで烏帽子かぶって薙刀とか持ってる徒歩組? なんか徒歩は妙に烏帽子が多いんで、それが身分の証明になってるのかなと >>578
日本の武士はさらに、弓を射る時に鞍から腰を浮かせて二本足で立つ。
膝のバネで馬の上下動を吸収して上半身を安定させる。
こうする事によって弓の的中率をあげるらしい。
流鏑馬の必須テクニック。
ほとんど大道芸と言っていい。モンゴル人もここまではやらない。 この二本足で立つテクニックを立ち透かしと言い、
これをやるために舌長鐙という日本独自の鐙が作られたんだと。 >>588
あぶみ有ったのかな
無かったのなら落馬しかねないやろ 鐙なしでどうやって立つんだ
馬の背に立ち上がるのか
それで大弓射ったらもう曲芸だよ >>588
モンゴル人は平気で馬の側面にぶら下がったりとかするよw
それこそ曲芸のレベル
https://www.archery360.com/wp-content/uploads/2017/08/01-Parthian-Shot-Photo-Credit-Ali-Ghoorchian.jpg
>モンゴルの子供たちは、生まれたころから馬の上で育っており、
>足は鐙の形に変形していたという。
>モンゴル軍は小さいころから人馬一体となっており、
>馬に乗ったまま、片側にぶら下がり、馬を盾にしながら、
>敵に向かって矢を射る事が出来たという。
>敵と戦う時は、騎馬兵ならではの機動力を生かして、
>撤退戦を仕掛けながら敵を死地に追い込むのは常套手段だった。
>撤退戦は一歩間違えれば、
>軍隊が敗北の恐怖に包まれて潰走しかねない為、
>非常に訓練された軍団でないとできない芸当である。
その代わり徒歩になると厳しかったらしい
チンギス・ハンの孫のバトゥ(フビライの従兄弟)は足が弱かったとのこと >>592 なにかの動画で後ろ向きに座って弓を打ってるのがあったけど
こっちが普通か モンゴル兵は騎馬の扱いに優れてるけど元寇にそのモンゴル兵がほぼ居ないから意味ないんだよなあ(笑) 雑魚の高麗兵や南宋兵がほぼ占めてる元寇の元軍
その上兵站もままならないんだから最初から鎌倉武士団に勝てるわけないんだよな オスマン帝国の外人兵団も弱かったらしい
メリットのない徴兵だからなあ 久しぶりに読んだ
刀身の短い得物で、敵陣に駆け入るとか
相変わらず荒唐無稽な内容だな
朝鮮や宋の雑魚相手に勝ったくらいで、神国を名乗るジャップw
モンゴル兵が2〜3倍居たら、日本全国蹂躪されていただろ >>597 モンゴルの戦術は日本じゃ通用しないよ
当時は大阪や東京でさえ山だの谷だのだらけで騎馬など役に立たない
鎧も薄々だし
来れば一撃 >>598
ねえ
対馬編でもろくに騎兵出てこなかったんだから、
本土(>国土交通省は、
>北海道・本州・四国・九州・沖縄本島
>の5島を除く島を「離島」としている
この定義で)に移っても、
大陸の時と同じような蒙古騎兵無双なんて、
とても無理だよね
そもそも、
遠征航海にどれだけの馬を連れて来れてるかも怪しいし、
日本に上陸しても山ばっかりで、
遊牧しにくくてたまらないだろうし 西郷性なら皆、”ごわす”かよw
作者はかなりバカなの? >>601
ジャップなんて罵ってくる在日よりバカじゃないですよ♪ 更新しました
新キャラ西郷さん登場
徒歩兵が攻城戦でも全員烏帽子なのは下人は鉄兜?禁止なのかもしれない >>586
当時、烏帽子は成人男子の証なので、男は皆被ってる
脱ぐのは体洗う時と寝る時くらい
人前で烏帽子を脱ぐ、脱がされるのは、パンツ脱ぐのと同レベルの恥
高位武士→大鎧、もしくは胴丸鎧(大鎧と胴丸の折衷した鎧)、弓矢と太刀で武装して騎馬
烏帽子の上から兜をかぶって、天辺の穴に烏帽子の先を通すことで、
ずれ落ちないようになってる
下位以下の武士や家来郎党は胴丸や腹巻(大鎧の簡略版)に半首(鉄板で作ったヘッドギアみたいなもん)に
薙刀で武装(少し偉いのは、太刀や腰刀も)で徒歩
籠手は弓矢使う武士は操作性の都合から弓を持つ手にだけはめる
白兵戦やる武士は両手にはめる
武装は基本、自前で用意するので、各々の経済状況にもよる
褒美をやるから、鎧一領あつらえるのと屋敷一棟建てるのと、どっちがいい? という話もある >>594
騎馬で移動して戦うときは馬から降りる
移動は船だから騎馬が無意味だった 蒙古軍はモンゴル兵も馬もそれなりには居たよ。
兵数十人に馬1頭の割合だから1000騎くらいにはなるかな。 水軍を有する側は機動力を生かして相手の防備の弱いところを突くのが常道なのに
元はわざわざ小島に立てこもって自滅するどん判したあたり
水軍の戦を知る朝鮮側の将に発言力が全くなくてモンゴル人の奴隷状態だったんだろうな 日本にも半弓(と言っても160〜190cmだから世界基準で言えば長弓)というものがあり、
鯨の髭など動物素材が使われたものがある。
扱いやすそうだし、威力も2m超の物と比べて遜色なさそうだが、どうして普及しなかったのだろうか?
現物は比較的残ってるそうだが、この武器が合戦でどのように使われたたかは調べてもあまり出てこない。
流鏑馬神事で使われる弓は和弓にしては妙に短いが、もしかしてこれなのか?
↓参考
http://www.xn--u9j370humdba539qcybpym.jp/part1/archives/223 >>609
いやそれ最後の最後でしょ
日本側に攻め立てられて追い込まれた結果だよ >>610
まぁ、あれやこれやと理由は付けられるが、時代柄推測の域を出ない部分は多いからなぁ
膠を多用するから高温多湿の日本じゃメンテナンスしにくいんじゃないかとか
(竹と木ですら剥がれやすい地域は、丸木弓も有用だったらしい)、
武士の弓矢は騎士のランスに相当(飛び道具というより、至近距離から鎧ごとぶち破る使い方なのと、権威の象徴で使いにくいものを使いこなすのが美徳)だからかもとか
義経が強い弓を引けなかったというから、もしかしたら半弓を使ってたかもね >>613
奥州は北方貿易でモンゴル人も来てたらしいからなあ 時代は違うけど、上杉謙信が傘下の成田氏?の烏帽子を公衆の面前で叩き落として顰蹙買ったんだっけ >>613
>武士の弓矢は騎士のランスに相当
>権威の象徴で使いにくいものを使いこなすのが美徳)だからかもとか
(´・∀・`)ヘー
勉強になるわ
確かにランスなんて派手で象徴的だけど、
武器としては扱いづらいやね
カトリックの教会がラテン語に拘ったのも、
ほかの日常語とは違う、
限られた聖職者や知識人しか理解できない使いにくさで、
権威を持たせてたってのもあるんだよね
それが結果として反発したプロテスタントを生む要因になり、
宗教改革にも繋がっていくんだけど >>612
いくら鎌倉時代が日本刀の最盛期とは言え、
片手切りで兵士の頭骨を両断するのはやり過ぎでねえかなって気はするが、
騎馬武者がかっけえからいいや >>617
この当時の人間はカルシウム不足で骨が脆く、
刀で両断するのも容易だったという(大嘘) ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています