高麗軍の韋得儒、盧進義、金福大は日本侵攻での不手際で譴責され、金方慶に含むところがあった。
1277年、忻都との会見から帰還した金方慶を諸将が出迎えたが、盧進義が機嫌を取ろうとしてか酒を
注ごうとするも、金方慶腹心の韓希愈が「こんな奴の酒など飲むべきでない」と割って入り、金方慶も
無視して席を立った。韋得儒は韓希愈にとりなしの依頼をしたが侮辱され、殴り合いの喧嘩となった。

ここで韋得儒らは忻都に虚偽の告発をし、洪茶丘もその讒言に乗って、謀反と横領の罪でクビライに
捕らえられる。金方慶は針金を首に結ばれて引き回され、鞭打ちに処された後、大青島(忠清南道)に
島流しにされた。しかし、クビライに対して忠烈王が懸命に金方慶の無罪を主張し、最終的にはクビライ御前
での裁判となるはずだったが、その直前に韋得儒と盧進義が不審死したため、許されて帰還を果たす。

1281年、弘安の役に臨んでは、クビライから中善大夫管領高麗国都元帥の称号と四品の官位を与えられた。