日産藩も放漫財政のつけが回ったため、外戚の流濃藩から軽呂須轟音公を藩主に招いて
財政立て直しを図り成功したが、各地に自分用の御殿を建てさせたり公金を
巨額に着服して、幕府には過少報告していたため、捕縛となったらしい。