【日本史】アンゴルモア 元寇合戦記 たかぎ七彦 part6
レス数が950を超えています。1000を超えると書き込みができなくなります。
実際7年後には善戦してその後は栄えてるんだから島民がほぼ全滅はありえない >>848
自然の山林で採集だけで食べていこうとすると大人一人当たり2キロ四方必要とされてるから
集団で山に入って食いつなぐってかなり困難だけど狩猟するならまとまっていた方が食料を分け合えるだけマシかも
でも当時の人間といえど外敵に怯えながら縄文人みたいな生活ができるかどうか 彼方の木とかまで実際にモンゴル兵って来たのかね?
劇中とは違い、あそこに立てこもってれば普通にやり過ごせそう
たかが通過点に過ぎない対馬をそこまで徹底して叩くとは思えないし そもそも征服に来たんであって皆殺しに来たわけじゃないからな 蒙古に朝鮮とか混じっていたというのが
イメージつかみにくかったが
アニメで理解できたように思えたよ
こんな感じでとりこんでいったんだな 一気読みしたが救いがまるでねえな
俺もササラさんは生き残ってほしかったな
ほかにも良キャラ多いな
というわけで光栄さん、アンゴルモア無双を頼むわ でも大筋では作者が正しいな
ただの戦闘機械だった迅さんに対馬を通して日本を守る武士の魂を入れるために
必要な犠牲だったわけで、中途半端に助かったら主人公の動機付けにならない
宗家の鎧を脱いで帝の剣だけで水から上がった姿が、生まれ変わったことを暗示してる ◆世界を見据えていた男・義経
源義経という男は国内にばかりひきこもっていた当時の日本における明らかな異常者であり、
たびたび世界規模で物事を考えていた。
『平家物語』によると平家追討を展開するにあたり、後白河院にこう奏聞している。
「今度義経に於ては、鬼界、高麗、天竺、震旦までも平家を責落さん限りは王城に帰るべからず」
(俺は琉球諸島、朝鮮、中国、インドまでも攻め入ってみせる)
義経は頼朝との仲が決裂した後、九州の有力者である緒方惟義を頼って船出しているが
『源平盛衰記』ではその際にこのように言っている。
「然ば即ち日本の外、新羅・百済・高麗・荊旦、雲の果て、海の果てまでも行幸の御供仕て、いかにもなり候はん」
(俺は遥か朝鮮半島からその先にある地の果てまでも逃げ伸びてやる)
頭のおかしい人物である。
この時代、そのような事に挑める筈もないからだ。
逆にもし本当にそんな事を成し遂げたとしたら途方もない英雄である。 ◆義経の死の謎
義経の死に関しては正史において鎌倉幕府の公式記録である『吾妻鏡』に簡素に記されているのみである。
・文治5年4月30日の条
「今日、陸奥の国において藤原泰衡、予州 (義経)を襲ふ。
予州は持仏堂に入り、まず妻子を害し、ついで自殺す」
・文治5年5月22日の条
「欧州の飛脚、鎌倉に参着す。申して曰く、先月30日、民部少輔(藤原基成)の館にて予州を誅す」
前者の文では義経は寺で自殺したとい、後者の文では義経は別の場所で殺されたと言う。
内容の整合性がまったく取れていない上、鎌倉の人間は誰ひとりこれを現場で確認していない。
ただ欧州藤原氏の泰衡からの報告だけがソースである。
焼け爛れた義経の首は酒に漬けられ、義経が死んだとされる4月30日から
43日後の6月13日(現在の8月初旬)に鎌倉に届けられて首実検がされた。
500kmの道を一日たった12kmしか進まず、異様なくらいノロノロ歩いて首を持って来たのである。
首は完全に腐って判別不能となっていた。
『義経薫功記』では検死約役の景時が「予州の首ではない」と難色を示したが、うやむやのうちに葬ったという。
水戸徳川家の歴代藩主が莫大な金と調査員と一級史料を使って編纂させた『大日本史』では
この出来事を「然らばすなわち、義経死したりと偽りて遁(のが)れ去りしか」と指摘している。
青森県八戸市の小田八幡宮には秀衡の遺言をもとにした古文書が残されており、
『敵の首を焼け首となして是を君に偽首となすべくお心得なさしめたまへ』と記されている。
義経の死についてはそもそも当時からして鎌倉側も信じてはおらず、
少し後には「生きていた義経が攻めてきた!」という噂が立って大騒ぎになったほどだ。
そもそも衣川の合戦からして実在しない作り話だったからだ。 ◆泰衡の死の謎
平泉・中尊寺金色堂には欧州藤原三代のミイラが眠っている。
そのうち3代頭首秀衡の櫃の傍らには首桶がある。
従来、それは泰衡の弟・忠衡の首だとされていた。
ところが戦後学術調査によって、首桶の中の首は
泰衡本人のものだという事が判明した。
さらにはこの頭蓋骨には鉄釘を打ち付けた痕跡があった。
ではなぜ、義経を討ったとされる功労者の泰衡が首を刎ねられ、
頭に釘まで打たれなければならなかったのか?
おそらく頼朝は義経を討ったとされる衣川の合戦そのものが
全て作り話である事を知っており、泰衡が義経を逃がした事を知って
このような仕打ちにしたのだろうと予測されている。
ではなぜ泰衡の首を忠衡と偽ったのか?
おそらく本物の忠衡は死んではおらず、義経や
作り話の中では立ち往生したが、そもそも死んでいない弁慶らと一緒に
北へと向かったためであろう。
義経たちが衣川を出発したのは衣川合戦の1年も前である事が
5通現存している『亀井文書』や、
岩手県下閉伊郡関口集落の佐藤家の古文書などに記されている。 ◆大陸へ渡った義経
東北各地に残された伝承を追う限り、義経は津軽半島を北上し、先端の三厩から
文治5年に津軽海峡を渡ったという。
当時の三厩は十三領であり、十三湊は藤原秀衡の弟・秀栄の支配下であった。
義経は十三湊を根拠地とする『安東水軍』の助力によって蝦夷地へ渡ったと考えられる。
北海道には平取の義経神社をはじめ、道南から道央にかけて広く義経伝説が点在している。
江戸時代には既に少女常生存説が史料から導き出される当然の結論であると幕府に看做されており、
義経の行方を探るため調査員が派遣されて蝦夷地各所で調査が行われたが、
アイヌの伝承では昔、本土からサムライがやってきて、各地で勇者を集め、
海を渡って西に行ったという。
それらの中には「昔、ホンカン様(判官の事か?)はカラフトに攻め入ってアイヌに敵対する酋長を殺し、
われわれの父祖が往来した海路をたどって、大河のあるクルムセ国に行った」という伝承もある。
クルムセ国とはアムール河が流れる現在の中国東北部からシベリアあたりの地域だろう。 事実、そちらにも幾つか義経が渡来したとみられる痕跡がある。
例えばウラジオストックの東北120kmにパルチザンスクという都市がある。
現在はロシア領だが、かつては中国領であり「蘇城」(スーチャン)と書いた。
「昔イーポンの武将が本国の難を逃れてこの地に至り、城を築いて蘇った」事が地名の由来だという。
なお近くにはハンガン岬という地名もある。
ハバロフスクの博物館には日本式の古い甲冑と笹竜胆が描かれた朱塗りのが収蔵されている。
ウラジオストックの西北にあるウスリースクという都市は以前は双城子と呼ばれていたが、
そこには義経を祭った石碑があったという。(現在は台石しか残されていない)
どうやら義経が大陸東北部に来たらしい事までは朧気にわかるが、そこから先の行方は杳として知れない。
なお、元軍と日本が戦ったのは対馬や九州北部だけではない。
元はアムール河下流までも攻め上ってグリヤーク族を征服し、その過程で蝦夷地にまで攻め入ってきた。
蝦夷管領であり、大陸の民と交易していた安東氏は権益を守るために、アイヌ人を率い、
樺太やシベリア沿岸部で元軍と戦ったという。
義経は日本からの脱出ルートとして最初は九州を想定し、
その後北海道から脱出したわけだが、奇しくも元軍はその両方のルートを逆流し
まるで恨みでも持っているかのように日本に攻めてきた事になる。 ◆義経=チンギス汗説
徳川御三家のひとつ水戸家の藩主でありながら、古典・史書に造詣の深かった水戸光圀は
『大日本史』の編纂に生涯を捧げた。
その中で光圀は「義経の死は多くの疑問に満ちている」と指摘。
中でも義経が衣川の合戦で自陣したという閏4月30日から、暑い盛りに43日もかけて
ノロノロ首を運び、6月13日に鎌倉に首を届けたのは明らかにおかしい。
腐乱が進み、本人の首とは調べようがなく、この首は僞裝であろうと述べている。
さらによく調べると首を届けられたという和田義盛と梶原景時は、鎌倉の手前の腰越で首を調べ、
首を鎌倉に持ち帰らずに腰越浜に捨ててしまったという。
とても持ち帰れるような代物では無くなっていたのは言うに及ばず、
義経ほどの重要人物の首はこの時消し去られてしまったのだが、これについても明らかに不自然である。
後に徳川幕府の外交顧問となるドイツ人医師シーボルトは、ドイツのヴュルツブルグ大学で
生物学、民俗学、地理学などを学び、徹底したドイツ実証主義のリアリストとして鍛え上げられた博物学者である。
彼は全7巻からなる大著『日本』を著し、ヨーロッパにおける日本ブームの端緒を開いた功労者であり、
その著書の中でも「義経は死んではいなかった」と紹介。
そして義経と同時代の大陸の覇者・チンギス汗を結びつけた「義経=チンギス汗」説を展開する。
それらにはきちんとした根拠があっての事である。
なお、どうして頼朝は義経討伐に異常なほどに拘り、奥州藤原氏に執拗な揺さぶりをかけたのか?
あれらについては藤原氏の黄金をめぐる兄弟間の確執があったという説がある。
マルコ・ポーロによって国外にまで知れ渡っていたほどの藤原氏の黄金が実際にどこから来たのか、
実は具体的にはわかっていない。
国外から運びこまれたものだという話もある。
頼朝は黄金がどこから来たのか、運搬法は何かについて義経に調べさせる心積もりであった。
やがて平家との戦いが一段落した後にいよいよ本格的に黄金奪取計画に本腰を入れたが、
ここで義経が反旗を翻したという。 ◆鎌倉武士化されたモンゴルの戦法
大陸ではどこからともなく出現したテムジンという謎の人物によって
モンゴルの戦闘技術が一変した。
どう変わったか?
具体的に言えば鎌倉武士の戦い方に変化したのである。
通常馬は前足と反対側の後足を同時に前に出し、
これを交互に繰り返して前に進む「斜対歩」という歩法を行う。
対してが義経から4代前の源氏である、八幡太郎義家は革新的な歩方を開発した。
馬上で射る弓の命中率を高めるために
同じ側の前足と後足を同時に前に出す「側対歩」と呼ばれる走法を馬に教え込む事に成功し
この走法によって馬上における弓の命中率が格段に向上した。
この方法は義経にも伝承された。
モンゴルでもずっと馬の走り方は互い違いの前足と後足を前に出すという
自然のままの斜対歩だったが、テムジンという人物が突如出現するや否や、
源氏と同じ側対歩走法を騎馬軍団に叩き込み、
既存の部族より遥かに弓の精度を上げる事に成功した。
テムジンという男がどこからこの走法を思いついたのかまったくの謎だ。
しかしこの男が義経であったとすればこの謎が氷解する。
また、チンギス汗の軍団は戦いにおいて長弓を使用したが、元々中国やモンゴルに長弓はなかった。
馬上で扱いやすい小さく短い弓のみであった。
これは義経が日本から持ち込んだものであるとシーボルトは主張する。 さらにそれまでのモンゴルの戦いは実は日本のそれによく似ており、
伝統的に騎乗した武将同士による一対一の牧歌的な戦いが行われていた。
日本でいう「遠からん者は音に聞け、近くば寄って目にも見よ」という例のやつである。
ところがチンギス汗の登場とともにこれが一変し、近代的な集団騎馬戦術が登場した。
古典的で牧歌的な戦闘しか経験のないモンゴルの諸部族はこれに対抗できえず敗退していったが、
これらについては宇治川の戦いや一の谷の戦いで数々の修羅場を潜った
シビアでリアリストである義経がモンゴルに持ち込んだものであろう。 ◆謎の人物・テムジン
モンゴル人は酒に強く馬乳酒を好むが、チンギス汗という男は
奇妙な事に酒を飲まず、かわりに緑茶を好んだ。
それまでモンゴルに緑茶を嗜む者はあまりなく、
現代のモンゴル人が緑茶を好むのはチンギス汗にはじまったと言われる。
(ちなみに義経も酒をまったく飲まなかったという)
チンギス汗という男はモンゴル人には珍しく、若い頃は鍛冶を嗜んでいたという。
対する義経も金属技術者集団である天狗に育てられ、弁慶によって
修験者のカスミ(ネットワーク)を通じて緑深い山中を逃げ延び、
奥州の金属技術者集団のもとに身を寄せ、そこで数年過ごしている。
とにかくチンギス汗という男は何から何まで当時のモンゴル人と比べて異質だった。
彼は男は異常に「九」という数字を好んだ。
シーボルトもチンギス汗が最初に中央平原に登場した時、
9つの房をつけた白い軍旗を掲げていた事に注目している。
チンギス汗は即位式には9本の白旗を立てて祝った。
この時チンギスが9という数字が大好きな事を知っているホンカンは
チンギスに金の皿を9枚、銀の皿を9枚、
男児を9人、女児を9人、駿馬を9頭、ラクダを9頭献上している。
ちなみに源義経も九郎判官と呼ばれるように、9という数字を好んでいた。
チンギスは白い色を好み、旗の色も白ならモンゴル宮廷の服と祭服も白に統一し、
天幕を「シラ・オルダ」と呼んだ。
シーボルト曰くこのこの「シラ」は日本語の「白」が語源ではないかという。
ちなみに源氏も平家の赤旗に対して白い旗を掲げた武装集団であり、白い色を好んだ。
また源氏の紋章は笹竜胆だが、チンギス汗の軍隊は笹と花の紋章を掲げて戦った。
左が源氏の紋章、日の丸のような穴が開いている右側がチンギス汗の紋章である。
http://asios.org/wp-content/uploads/2017/01/yoshitsune3.jpg ◆テムジン出生の謎
とにかくチンギス汗ンという男は謎が多い。
それまではまったく無名だったのにも、1184年に義経が衣川を脱出した
6年ほど後に突如“出現”して大きな功績を挙げ、
またたくまに領土を広げ、1206年にモンゴル帝国の皇帝に即位する。
皇帝の名をハーンないしカーン(汗)と呼んだが、江戸時代の博物学者シーボルト曰く
これはチンギス以前には存在しない称号で、日本語の「カミ」が
変化したものではないかという。
チンギスが歴史の表舞台に華々しく姿を現す以前、テムジンと呼ばれていた頃の話は
『元朝秘史』『集史』『元史』などに記されており、
学者らはこれらの史料を根拠にチンギス汗の生涯を語り、義経=チンギス汗説を否定する。
だが実際のところこれらの史料に描かれたチンギスの若い頃の話は
あまりにも荒唐無稽かつ現実離れしており、
史実というよりは伝説と文学的な叙事詩でしかない。
ぶっちゃけた話ある時突如としてモンゴルに現れ、その後成り上がったチンギスが
過去についてごまかすために吹きまくったホラ話としか言いようのない内容なのだ。
生まれた時に巨大な血の塊を握っていた? そんな事実があるワケがない。
そんな例など世界中を見渡しても医学的にまったく記録された例すらないのだ。 ◆テムジンの国籍の謎
『元史』や『元朝秘史』によると
チンギスの父はニロン族の貴族・キャト族の出身であるエゾカイ。
母はカエルン・イケだという。
これについては昔から
ニロン族ってぶっちゃけ日本民族の事じゃねーの?
キャト族って京都人の事じゃねーの?
エゾカイって義経が大陸に来る際に渡ってきた蝦夷海の事じゃねーの?
母のイケって、池禅尼の事じゃねーの?
などなどと各方面から突っ込まれている。
ちなみにミナモトノヨシツネという名前はモンゴル人には非常に発音が難しくうまく喋れない。
対して源義経(ゲン・ギケイ)という呼び名は言いやすく、
向こうの言葉で葉音すればだいたい「ヂンギス」になるという。
ついでにモンゴル人はモンゴル語を当たり前のように解すが、異民族である漢民族の言葉は理解できない。
ところが伝承ではチンギス汗は文盲だったという。
モンゴル文字が全く読み書きできなかったというのだ。
本当にこいつモンゴル出身なのか? と疑われる一方で、チンギス汗は漢字を解する事ができたという。
例えば西征時に長春真人という僧を呼び寄せ、その話を筆録させたが、
モンゴル文字ではなく漢字で記録させている。
ではいったいチンギス汗とは何人だったのか。
またモンゴルの冬は非常に厳しく、零下30度近くにもなる。
これについて『元朝秘史』ではテムジンに敵対するジャムカという武将がテムジンと同盟関係にあったワンカンに
「俺は一年中北にいる白令雀だ。だがテムジンは(モンゴル人とは尾も見えないほど)非常に寒さに弱く、
冬になると暖を求めて南方に移動する。まるで渡り鳥だ」と語っている。
これは暗にチンギスは生まれついてのモンゴル人ではなく、「渡り鳥」、
すなわち異邦人であると語ったものと考えられる。 チンギスハン「私はお前の父だ」
迅三郎「なんだってー!?」 長々貼る前になぜ少し前のレスにある結論を読めないのか >>866
>さらにそれまでのモンゴルの戦いは実は日本のそれによく似ており、
>伝統的に騎乗した武将同士による一対一の牧歌的な戦いが行われていた。
>日本でいう「遠からん者は音に聞け、近くば寄って目にも見よ」という例のやつである。
>ところがチンギス汗の登場とともにこれが一変し、近代的な集団騎馬戦術が登場した。
大嘘ついてんなよ
匈奴、スキタイ、パルティア等から連なる、
世界中の遊牧騎馬民族の歴史の流れぐらいはちゃんと把握して物言えよ >>859-869
聞かれてもいないのに長文でいきなりどうしたんだ・・・ ちなみにハンバーグの原型になったタルタルステーキはモンゴル発祥。そしてその源流は、1万年にわたって5大陸を統治した偉大な大韓帝国にあやかろうと、モンゴル人達がユッケを真似たのが始まり。 一万年も全世界統治したのに、直近半万年はずっと属国とか過去に対して恥ずかしくないの? >>875
>大韓帝国 は、1897年から1910年までの間李氏朝鮮が使用していた国号。
わずか13年間しか使われてないのが事実の情けない名称なのに、
一万年とか気の狂った妄想を垂れ流さないで下さい!>< >>877
日本しか知らなければ日本の学校でで教えている捏造史を信じているのでしょうから仕方がありませんね。あなたの無知を許します。
国連でも真実の歴史は、国連史上最も偉大な世界大統領を排出した韓国と証明されています。 他国の力を借りてやっといち局面でのみ日本に勝利した
数少ない事例なので元寇が誇らしいんですね
わかりますよ、私もあの盲腸みたいな国にルーツを持ち
たどった歴史を知っていたら・・・
恥ずかしくて憤死しますね 強国に脅され別の国への侵略軍のそのまた使い捨ての奴隷兵だったって誇らしいのかねえ
いろんなファンタジーにそういう国が描かれているけど滅んでもしょうがない国扱い ◆常時“偽装”していたチンギス
鎌倉武士は巻狩を好んだが、チンギス汗も巻狩を好んだ。
そのチンギスはでっぷりとした容貌を描いた肖像画が有名である。
ちなみに近年この肖像画の額にマジックでちんちんを描き、
「ちんちんハーン」と呼んで小馬鹿にして大笑いする漫画が
某児童漫画雑誌に掲載されたが、これに対してモンゴル側が激怒。
国際問題にまで発展し、全国で雑誌が回収されるという嘘のような騒ぎが起こった。
では、実際のチンギス汗はデブだったのか?
というと、かなり痩せていたようだ。
しかし諸部族に威を示すんがために常に暑く衣服を纏って肥大を装い、
着衣の腹部に綿を入れて脹服肥満を装い、靴の底を厚くして身長を補っていたようである。
これでは夏は苦労すると思われるが、夏の間チンギスは必ず
涼しいバルジュナ湖畔に移動し、側近中の側近以外には決してその姿を見せる事はなかったという。
この奇妙な行動の理由は本当の体型を側近以外に知られたくなかったためだろう。
モンゴルの歴史学者ドルジが著した『成吉思汗伝』には
『主君(チンギス汗)崩御の時、玉体は漸次縮小せり』という記録が残されている。
死亡したチンギスの遺体がどんどん小さくなっていったというのだ。
これについてもやはりチンギスは体系を偽っていたという証左である。
義経=チンギス説を否定する証拠の1つとして、
義経とチンギスはまったく似ていないというものがある。
というも義経の容姿については『源平盛衰記』に「色白くして長(たけ)短し。容貌優美」
と記されているからだ。
しかしチンギスの容姿がすべて僞裝であったとするのならこの矛盾も氷解するのである。 >>882
いや、普通は創世神話で他国には触れない
何もないところにその国だけが作られるor生まれる
神話が進んで世界が広がったときや歴史に突入したあとに他国は初めて現れる
その時点までは世界はその国だけなんだから先史時代に何千年もの間世界の全てを支配してたとか言ってもまあ許せる
五大陸とか近代に入ってからの概念持ち出さなけりゃ、おとぎ話信じてるようなもんで可愛いもんなんだけどな >>869
>ついでにモンゴル人はモンゴル語を当たり前のように解すが、
>異民族である漢民族の言葉は理解できない。
>ところが伝承ではチンギス汗は文盲だったという。
>モンゴル文字が全く読み書きできなかったというのだ。
>本当にこいつモンゴル出身なのか?
そもそもその当時モンゴル文字は存在してなくて、
ウイグル文字をモンゴル語に対応させ始めたのが当のチンギス・ハーンなんだが……
>モンゴル帝国時代の「モンゴル文字」
>モンゴル部がオノン川で発祥した時には元来文字を持たなかった。
>1204年にチンギス・ハーンがナイマン王国を攻略したとき、
>捕虜となったナイマンの宰相でウイグル人であった
>タタ・トゥンガ(塔塔統阿)という人物が >チンギスの詰問に答えて国璽と文字の効用を説いたことにより、
>モンゴルでも国事の遂行に印璽を使用するようになり、
>モンゴル人の子弟にウイグル文字を習わせた、とされている。 ◆謎に包まれた男・義経
源義経という人物は生涯の殆どが謎に包まれている。
義経が公認の歴史にはじめて姿を現したのは治承4年(1180年)10月20日、
何と22歳になってからである。
その日、黄瀬川で兄・頼朝と対面を果たした義経は、
1183年に木曽義仲追討のために鎌倉を出発するや、宇治・勢多の戦いで義仲を撃破。
ついで平家討滅戦を展開し、一ノ谷合戦、屋島合戦、壇ノ浦合戦で
空前の天才的戦方を用いて連戦連勝し、
わずか一年半ほどの間で平家を滅亡させてしまう。
しかしその功績にも関わらず頼朝の不興を買ったため離京を決意、
1185年に摂津から船出して九州に向かったが難破。
少数の家臣とともに雪の吉野山へと逃れ、山中へと姿を消した。
実は信頼できる資料において義経の履歴が判明しているのは、
たったこれだけの期間にすぎない。
それ以外の時期は明確な事がほとんどわからず、
さまざまな伝承、伝説、異説、創作などに覆われている。
幼い頃に天狗に育てられたとか、五条大橋の上で弁慶と戦ったとか、
逃走中に関所で弁慶にしこたま叩かれてお情けで通してもらった…
などという話もその一例である。 ◆義経の正体
ちなみに頼朝に追われた義経の逃走ルートは、近江(大津・日吉山王権現)、
越前(敦賀・気比神社、平泉寺)、加賀(白山比盗_社)、越中 (芦クラ、岩クラ両寺)、
越後(国上寺)、出羽(羽黒山)と連なるが、実はこれら全ての寺社が
比叡山延暦寺を頂点とする天台系である。
平泉の中尊寺も東北の天台宗大本山。
義経が修行した鞍馬寺も当時は延暦寺の末寺。
義経に同行した常陸坊海尊も天台宗円城寺の山伏、
弁慶も延暦寺の西塔で修行した僧侶である。
義経関連の人物は実はみな天台宗系で、義経もその正体は
天台宗によって作り出され、世に送られたエージェントと言えるだろう。
義経というエージェントは大きく分けて3つの特異なネットワークによって支えられていた。
1つは天台衆、1つは義経を奥州へ導いた金売り(金掘り)吉次という謎の商人。
その正体は全国にネットワークを持ち、探鉱・採掘、製鉄などを行っていた
金属技術者集団の有力者である。
もう1つは全国の陰陽師集団。
義経の側女には久我大臣の娘がおり、2度目の奥州下りの際にも同行していた。
久我家とは御門家の別名であり、史上最大の陰陽師と呼ばれた安倍晴明の系譜に連なり、
代々陰陽寮の長官を務め、全国の陰陽師を統制下に置いていた名家中の名家である。
その久我家の娘が義経に常に付き添っていたというのは大きな意味を持つ。
義経とは日本全土に巡られた、様々な“影のネットワーク”によって操られる傀儡だったのである。
この件やシーボルトの件については
詳しく説明すると日本を裏で操る秘密結社・八咫烏に行き着くが省く。 日本人の国民食とも言われるカレーライス。これは英国が植民地のインドから自国に持ち込んだものを英国の召し使いよ三等国日本が英国から教えてもらった料理なのは有名な話です。
では、インドにカレーを伝えた偉大な存在をご存知ですか?
カレーに使われる香辛料これらは韓方薬として、大韓帝国統治時代に今の中国や日本そしてインドに伝わったものだという事が分かっています。
世界に覇を打ち立てた大韓帝国の流れを汲む偉大な歴史強国である韓国の偉大さを示す好例の一端ですね。 ◆義経の死の謎
さて、平家を倒し武士の頭領として絶大な力を得るに至った頼朝は
朝廷を動かし、奥州藤原氏のもとに逃れた義経の追討を命じる院旨や宣旨を
再三再四にわたって出させている。
追討とは言うものの、義経を殺せとは命じていない。
「身を召し参らせよ」と捕縛を命じたものである。
しかし奥州藤原氏の泰衡はその気があったら捕縛は容易であったろうに、
「義経は平泉にはいない」と言い張って、
文治3年10月から1年半ほどもその命令をはぐらかし続けていた。
そして文治5年閏4月30日、泰衡は数百騎もの大軍で衣川の義経の高館を急襲。
炎上する館の中で義経は自刃したという。
不思議な話である。
たかだか数人にすぎない義経一行を襲うのにどうして数百騎の軍勢が必要なのか。
そしてズバ抜けた軍事的天才である筈の義経は、院旨や宣旨を携えた使者が
何度も平泉に来訪して自分の捕縛を命じていた事を知っていたはずなのに、
なぜ逃走もせず対策も練らず、その場にい続けた挙句、攻められた結果アッサリ自刃してしまったのか。
義経を討った証拠としてその首は43日もかけて鎌倉の手前の腰越に届けられた後、
その場に捨てられてしまったという。
ちなみに伝説によれば腰越浜に捨てられた義経の首は怨念とともに舞い上がったといい、
現在の神奈川県藤沢市にある白旗神社に祀られた。
神社のすぐ近くには義経の首を洗ったという首洗井戸も残されている。
ところが不思議な事に生首という証拠が届けられたにも関わらず、
鎌倉幕府はまったく義経の死を信用していなかった。
例えば鎌倉幕府の公式史書である『吾妻鏡』には義経の死から7ヵ月後、
「義経が藤原氏の残党を率いて奥州に挙兵したとの噂が鎌倉で広がり、
みな緊張した」と記されている。 ◆義経の首の正体
では、義経が生きていたとしたら、
鎌倉に届けられた義経の首とはいったい誰のものであったのか?
これについては『奥州南部封域記』には
「予州(義経)、神妙不測の計策をもってその危難を避けたるものなり。
時に杉目太郎行信という者あり。予州とよく同齢にして要望顔色少しも差(ちが)わず。…
行信、忠志を発し、主君の命に代わって死せん事を約す」とあり、
『可足記』にも、この杉目太郎という男が義経の身代わりとなって死亡し、
その首が鎌倉へと届けられたとある。
更には宮城県県栗原郡金成町の信楽寺跡にも「文治五年四月十七日に、
杉目太郎行信が義経の見代わりになった」と刻まれた碑文がある。
この碑文は正応6年(1293年)2月12日建立の古塔の碑文を写したものだという。
鎌倉に届けられた義経の首が真っ赤な贋物だとすると、義経は死亡してはおらず
どこかへ落ち延びたという事になる。
それを証明するものも多々ある。
平泉に隣接する衣川村の雲際寺にある義経の位牌。そこには次のような戒名が記されている。
『損館通山源公大居士 文治五年閏四月二十八日 源之義経』
戒名は個人の生前の業績に因むのが常だ。しかしこの位牌には
「館を損(す)て、山を通っていった」とおかしな字が刻まれている。
これは死んだはずの義経が衣川の館を脱出して山中を逃走していった事を示すものだ。
義経が日本を脱出して大陸へ渡っていった痕跡はいくつも残されている。
痕跡を辿る限り、蝦夷地から樺太に渡った後は北上し、対岸の現在のニコラエフスクに上陸、
南下してハバロフスクを経由してスーチャンにたどりつき、ついでナホトカへ。
その後ウスリースクを経由して北上、西へと進んでチチハルへと南下、
さらにそこからマンジュウリ、チタを経由してバイカル湖畔まで渡ったようだ。
その後の足跡は不明である。 ◆平泉黄金の謎
義経の足跡については水戸光圀が水戸藩の有識者による公式調査団を結成し、
藩の費用で蝦夷地をはじめとする各地に派遣して調べさせている。
その結果わかった事は、蝦夷地では遥か昔から義経が
オキクルミ(神)として地元民に崇められているという事だった。
同時代における日本を代表する学者・林羅山も
この件らついて並々ならぬ関心を寄せ、『本朝通鑑』の中で詳述し、
新井白石も『読史余論』の中で、当時の蝦夷地の民間信仰の中で見られる
『ホンカン様』という存在は、義経を意味する『判官様』が転じたものであろうと述べている。
なぜ江戸時代を代表する知性派の学者らが、これほど義経の行方に関心を寄せたのか?
なぜ頼朝は義経にあれほど拘泥したのか?
その理由のひとつは金であろう。
中尊寺金色堂の建立に使われた眩いばかりの黄金。
中国から輸入した5000巻を越える『一切経』の購入に支払われた4トンを越える莫大な黄金。
これらがいったいどこから出てきたのかまったく不明なのだ。
もちろん平泉周辺には砂金の採れる川がある。
奥州には金鉱脈もあり、奈良時代に今の宮城県のあたりで金が発掘され、
13kgを朝廷へ献上したという記録がある。
気仙沼には玉山金山や茂倉金山があった。
しかしそれではこれだけの黄金をとても賄えるものではない。
日本最大の金山である佐渡金山が発見されるのは1601年である。
平泉の黄金は実は東北で採掘されたものではなく、大陸で採掘され、
東北へ輸送されてきたものだという話もある。
それが史実なら義経一行が大陸へ渡った理由は、鎌倉幕府からの逃走だけではなく、
黄金の在り処を隠すための旅だったのではないかという推論も成り立つだろう。
以下めんどくさいので完 フビライの祖父にして、
モンゴル帝国の祖であるチンギス・ハンの言
「男たる者の最大の快楽は敵を撃滅し、
これをまっしぐらに駆逐し、
その所有する財物を奪い、
その親しい人々が嘆き悲しむのを眺め、
その馬に跨り、
その敵の妻と娘を犯すことにある」
そりゃユーラシア大陸中に子孫がいるわけですな 漫画しか読んでないんだが
作者は史実に忠実に描きたかったのかもしれんが、
味方側がモブも含めあっさりバタバタ残酷に死んでいって何も残らない
救いが無い胸糞漫画って感想。ラストも打ち切りだろ?コレ。
散々味方を倒した敵の将軍を主人公が討ち取らないのもハァ??
って思った。史実だと今後も生きてるから単なる作者の都合なんだろうけど、
読者納得できないでしょ。
主人公が討ち取ったけど、将軍が戦死しちゃうと士気に関わるから
モンゴル側で影武者を立てる事にしたって事にしても良いじゃんな。 それで相手が逆上し予定変更して殲滅戦を始めたらどうするよ
あくまで勝って油断している敵に意地を見せつけつつ子どもの救助が目的なんだから
まぁ避けてく敵兵にも武器無しに追い討ちかけない敵兵にも違和感はあるが
迅三郎の行動は妥当の範囲内、殺せと言うのはそれこそ物語や読者の都合だよ >>895
救いがないってなんだ?
最初から姫が生き残れば勝ちなんだよ
むしろハッピーエンドだと思うよ
あんだけ生きてたんだから 次の博多編ではモンゴル人も高麗人も女真族も死にまくるはずなので、
今回生き残れた人々的には十分救いがあります >>896
>まぁ避けてく敵兵にも武器無しに追い討ちかけない敵兵にも違和感はあるが
負けてる将軍がそれでも意地で、
「手を出すな!そやつは必ずこの手で首を刎ねてくれる」
と、あえて逃がしたように振る舞うとかでも良かった
「必ず あなたを見つけだしてあげる」
「本当に楽しみだわ」 蒙古でもなく高麗人でもなく女真でも漢人でもないクキョキョだか叫んで襲ってくるのは何?
9巻に出てきたけどあれは何人? >>901
アニメ化したせいもあるけど、原作が軽いノリで話せなくなってるのもあるかな
サナちゃんの乳首を今更見せてもらってもネタに出来る感じじゃないというか… 続編もクソ駄作だと判りきっているのに
まだスレが伸びるんか 夏休み終わったのにまだ「自分の望んだ展開じゃなかったから全世界にとってクソ」みたいなこと言う奴がくるのか 義経=ジンギスカン説はもういいからw
義経がモンゴル人の血を引いてましたってならワンチャンあるかもねw
常盤がモンゴル人との間に作った子が義経とかねw 後味悪すぎてツライ・・・。購入前のワイのワクワク返せや!
鹿乃はあんな目に遭うくらいなら首掻っ捌いて自害して欲しかった
一番好きなキャラやったのに 源氏も平氏も大陸とのつながりが深い一族らしいので義経がモンゴルの血を引いていてもおかしくないけどね
気性が荒い大陸系一族なので大人しい南方系日本人の中で抜きんでる事ができたとか 育った文化の影響が大なわけで、血を引いてるからこうなるってのは少ないと思うが >>908
姫から敵をできるだけ遠ざけるために自害も敢えてしなかったんやで… >>904
九州編のカタルシスの為に対馬編を後味悪い終わりにした、ってのは良くわかる
でもさ、この作者に材料を上手く調理する腕があると思うか?
対馬編にしろ、もっとやりようがあったはずなのに、なんとも煮え切らない流れになった
雑過ぎ コレに尽きる
九州編もグデグデになる間違いない
予言しておくわ >>897
感じ方は人それぞれだが、あの終わり方で手放しにハッピーエンドだと言える人は少ないだろ まだ7年後もあるんだからそこそこ生かしとけばいいのに
六百年備えて千人程度の小競り合いで全滅とかなんのために出てきたか分からんぞ 終わりつーか中締めだろ
こんなもんだよ
何かはっきり消息明かしてない面々もいるのは何か考えてるんだろうし
むしろ博多編は記録が多く残っているなかで架空の人物をどう動かしていくか、俺は期待してる 鹿乃は主要キャラに捕まって懇ろになるならまだよかったのにあの結末はあかん
取り合えず心の平穏を保つために、単行本新聞紙で包んでガムテでぐるぐる巻きにしてきた
輪姦されたの確定したら畑で燃やして二度と見らんで 気に入らなかったのはしょうがないが
他人の感想否定するのはちょっと病的じゃないか?
意味わからん 10巻だけまだ読んでないんだけどスカッとはしない?
援軍が来てくれてバッサバッサかと思ったけどそれも違うみたいだね
自衛隊が来てくれても面白かったかも… 9巻終わりら辺のモンゴル人、高麗人、女真族、漢人が押し寄せてくるシーン
何かしたわけでもない倭人が何であんな複数の民族に狩られるのか悲しかったなあ
やられて終わるのね
10巻は読まないままで置いておこうかな >>920
全てに朽井絡ますのは無茶だからストーリー中説明台詞でかたづけるやろ ロリコンはサナを好む
エロオヤジは鹿乃を好む
未熟な男は輝日を好む
紳士は麦藁帽みたいなのをかぶった子供を好む 駄作でも雑というほどでもないと思うがな
高麗編だって本来は対馬編と九州編の合間に入れるつもりが、アニメ放送中に対馬のラストを
ぶつけたほうが本が売れるから、時間稼ぎで発表の順序を入れ替えたんだろう >>706
それはおもった
朝鮮兵でも漢兵でも、モンゴル兵といざこざを起こしてただで済むわけがない
少なくともその隊の指揮官は処刑だよ 返事が「ハイ」じゃなくて「エイ」なのは何で?方言? >>929
調べてないから知らないけど、昔はそう言ってたのかと思ってた >>928
この作者なんだかんだで結構調べて書いてるし
このエピソードを入れたからにはなんらかの根拠となる資料がある筈 対馬組だけでなく、少弐家の郎党もエイと言ってるしな >>706
史実を元にした超僭王、いや朝鮮王の話の方が
ほぼ100%創作からなる金田城のしょうもない戦いを描いた
本編より遥かに面白かったんだが 朝鮮の話はつまらなかったろう
知ってる話だし、そもそも、作中の他の何処とも繋がらなかった >>936
味方の話ばっかり描いて、肝心の敵側のバックグラウンドがわからないと
話にのめりこめないだろ
そもそもこの物語の端緒である元軍はどういう経緯で日本侵攻を決めたのか、
元軍の通過点となる朝鮮はどういう理由で元軍に帰順したのかとか >>935
同意。
朝鮮王のは地続きで脅威に何十年も対する重荷と悲劇描いたのがレアで興味深く感じたが。
トイのは正直蛇足。キャラも最後は雑にやられてたし。 モンゴルの遊牧民というのはあの当時の日本人とはまったくかけ離れてて、
例えば日本の神道では「血の穢れ」という言葉がある
>滴り落ちた血液は不衛生、つまり「汚穢不浄」として嫌います
死んだ家畜の解体なんかも、穢れの極致みたいなものなので、
穢多(えた)という被差別身分に行わせていたぐらい
それに対してモンゴル民族は家畜の血液を重要な栄養源として重宝する
>彼らは必ず家畜の大動脈を切り、その血を体内に貯めておき、
>それを腸などに詰め、ソーセージにする。
また皆が当然のように家畜をバラすことができる
このように価値観が真逆ともいえる環境で、
雑草のような下々の民ではない、
源氏の御曹司という高い身分だった義経では、
あちらの生活習慣に馴染むだけでも相当に困難なことと思われる >>933
サンクス
真面目な場面でも使われて違和感あったが普通なんだね >>939
そのあたりの障害と困難を乗り越えて、自分に合った料理を見つけたりして
義経が何年もかけてうまくモンゴルに順応していく様を
いま連載している『ハーン 草と鉄と羊』って漫画じゃうまく描いてたな >>940
祁馬臺國の時代は倭人は上も下もみんな「あい」「あーい」と答えていたと魏志倭人傳にあるからな
あい→えい→はい と変遷してきたのかもな >>939
義経は武家の名門の血を引いていながら育ちは他の源氏と全く違うだろ
7歳(11歳説もある)から京の北の森深くにある鞍馬寺に預けられて暮らし、
僧になる事を拒否して寺を出た後、はるばる奥州の平泉にまで放浪してそこに身を寄せた。
伝説では幼少時は鞍馬山で天狗(修験者)に鍛えられてきたという。
当時の日本において山の中は里とは全く異なる世界であり
サンカなどに代表される異文化をもった山の民のテリトリーだった。
里の人間らは仏教に感化され四つ足などを食べないが
山の民はセブリと呼ばれる移動式天幕を張り、山々を巡り歩いて猪や山鳥を捕獲して解体し
さまざまな山菜や自然薯、川魚などとともにその内臓までも大切に食べてい。
広い田畑を持っていないため狩猟や採集が生活の中心だった。
修験者の生活はサンカなどとは勿論異なるが、急峻な山道を上り下りして食物を集め
過酷な環境の中で暮らさねばならない事は変わりない。
天狗に鍛えられていた伝説が事実とするなら、
義経は奥深い山中で幼い頃からそのような過酷な修行とサバイバルの日々を送ってきたという事になる。
さもなければ15かそこらで森深い山道を通って、
京都の山奥から遠い平泉まで移動する事すら難しいだろう。
なので、義経は屋敷や庭園で召使にかしづかれて暮らしてきた他のボンボン武士と一緒くたには語れないだろ いよいよ主役交代か
ベストキッドな展開になるのか? >>946
>中央ユーラシアの遊牧民は
>個々の遊牧集団の指導者層の家系に関してはうるさく、
(略)
>可汗位および主要な地位を独占し、
>それ以外の氏族はこの地位につけなかったことが知られている
>チンギス・カンに関する現存資料からは、
>源義経と関連づけるべき必然性や証拠は存在しないため、
>実証史学的に証明できない。
>またそのこと以上に、先述の遊牧民の政治文化の伝統ゆえに、
>この説は中央ユーラシア史の研究者からは
>否定的に受け止められている。
あんたらが言ってるのは、
「義経がチンギス・ハンだったらいいな」という、ただの願望説だろw
「1万年にわたって5大陸を統治した偉大な大韓帝国www」と同レベルの完全な妄想です 博多編は期待しない・読まないって言ってる人たちは
博多編始まったらもう来るなよ まぁチンギス・ハン説はともかくとして、
武家の子なら引けて然るべき強弓を引けない代わりに
身のこなしを活かした戦いが得意なあたり、
山寺育ちなところが出ていて面白くはある
当時の武術観としては、武家は弓馬、神職僧侶は打物体術って印象があるし >>939 >>946
それ以前に、言語が違うんだから当時の日本人がモンゴルに行って
モンゴル人になったり部族を率いるほど馴染めない気が……
今と違って日本にいながら漢語ならまだしもモンゴル語習うこともできないだろうし、
日本にモンゴル人がいたわけでもないだろうし レス数が950を超えています。1000を超えると書き込みができなくなります。