なお太平記「義貞夢想事 付諸葛孔明事」では孔明のほうが劉備や曹操より先に死んでいる模様

劉備三度彼の草庵の中へをはして宣ひけるは、
「朕、不肖の身を以て、天下の太平を求む。全く身を安じ、欲を恣にせんとには非ず。
只道の塗炭にをち、民の溝壑に沈ぬる事をすくはん為のみ也。
公若し良佐の才を出して、朕が中心を輔られば、残に勝ち、殺を棄てん事、何ぞ必しも百年を待たん。
夫、石を枕にし泉に漱いで、幽栖を楽しむは一身の為也。
国を治め民を利して大化を致さんは、万人の為也。」と、
誠を尽し理を究て仰せられければ、孔明辞するに詞なくして、遂に蜀の丞相と成りにけり。
劉備是を貴寵して、「朕有孔明如魚有水。」と喜び給ふ。
遂に公侯の位を与へて、其名を武侯と号せられしかば、天下の人是を臥龍の勢ひありと懼れあへり。
其徳已に天下を朝せしむべしと見へければ、魏の曹操是を愁へて、司馬仲達と云ふ将軍に七十万騎の兵を副へて蜀の劉備を責めんとす。
劉備は是を聞きて孔明に三十万騎の勢を付けて、魏と蜀との堺、五丈原と云ふ処へ差向けらる。
(以下、「死せる孔明生ける仲達を走らす」の故事)