実際のところ豊久が結婚した時期は正確には資料が残ってないはず

天正13年(1585年)8月に忠長の家臣 佐司兄弟が自領に来ていた家久の領地の住人をSATSUGAI
報復として家久の家臣が佐冶兄弟を殺してしまった事件があり
家老が仲裁に入るが双方納得せず義久の仲介になって家久がやりすぎだとして蟄居させた

この事件の後処理で豊久の弟が上井覚兼の娘を妻にもらったことならはっきりしている

家久は独断専行のきらいがあって島津の家老達の多くと仲が悪かったので、
義久の信任厚い家老上井覚兼を味方に引き入れようと以前から縁組を申し出ていたが断られていた
しかしこの件で家久と家老衆の関係修復のためにも、家久の行動に鈴をつけるためにも
上井覚兼に家久の面倒を見させようと義久が結婚話進めて成立

そして上井は家老衆と家久の間で板挟みになり胃の痛い日々を送ることになる