神は命
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神はハートの位置にいる。
そこは心臓のある場所。
命がある場所。
魂はそこにある。
真我はそこにある。
そこは体の中心に位置する。
心がある場所。
神に祈るとき心で祈るのはそこに神がいるから。
一人一人に神がいる。
それが内なる神という意味。
人は神なんだ。
なぜなら命があるから。 あなたも神。
わたしも神。
それはこういうことだった。
誰しも命があるから。
命は神そのものだから。
命は魂。
魂は神。
ゆえにわれわれはみな神なんだ。 ブラフマンとか真我とか言うもの。
内在神とか仏性と言われるもの。
それは一言で言えば、命ということ。
人は神であると言われるのは、誰しも命を持っているから。
命はお金より大切だろう?
それは命こそ神でありすべてということをみんなちゃんとわかっているから。
霊的探求も修行も奉仕も、けっきょくはこの命を感じるための行いなんだ。
難しい単語は必要ない。
意識とか真我とか神とか魂とかそういうワードはもういらない。
命、ただそれだけでいい。
命はみんな持ってるだろう?だから覚者は言うんだ。
あなたはすでに悟っている、と。それは誰しも命があるからなんだ。 けっきょくは命、それだけでいいのに
なぜ難しく考えようとするのか。
複雑で難解な聖典や仏典を読み、様々な修行方法を試みる。
瞑想のためにマントラや真言を学んだりお香を焚いたりロウソクを灯したりする。
座禅の組み方や手の置き方からはじまり呼吸の仕方を学ぶ。
そして格好だけは探求者なのだが、彼は結局悟れずに終わる。
命を感じるだけでいい。
それが神。それが真我。それが魂。
あなたはすでにそれだった。
すでに神だった。すでに真我だった。
真理はこれだった。これのみだったのだ。 動物の魂は虫よりも重い。
人間の魂は動物よりも重い。
覚者の魂は人間よりも重い。
虫も人間も同じ命であり神の魂には違いないが、覚醒段階が違う。
虫の魂はほとんど霊的には目覚めていない。
覚者の魂は目覚めている。
目覚めの段階に応じて、その人の価値は重くなる。
それは同じ人間とて同じこと。
目覚めていない幼い魂の人間の魂より、
目覚めた覚者の命のほうが尊重される。
例えば自然災害で容易に命を落としたり、粗末な家庭に生まれ粗雑な生活を送る
幼い魂にはこのようなふうになるが、
覚者となるとそれは神を体現した神の化身なので
神のように尊重された生き方になる 自我のある人間はまるで動物。
野蛮で粗野で信用に値しない。
人間と付き合う暇があれば1人瞑想し、真我実現するのが一番いい。
それにより神との合一がはかれる。
人間関係の中に入っていくことは、泥沼のハイエナの群れの中にわざわざ自分から入っていくようなもの 人を信用するな。
人を信頼するな。
だれにも心を許してはいけない。
唯一、神のみを信頼し神に心を許し、神を追い求めよ。
この世界には神と自分しかいないことを知れ。
神と自分の関係の中で死んでいく。 あなたは神を知らない
出会っていない
ゆえに愛がなく感謝がない
だから世界に戻れない 可哀想に。
職場で仲間はずれにされてしまったのかな? 自分の意識それは神そのもの。
すべてはこの意識のみしか存在しない。
この意識の中に宇宙や世界はある。
この意識はあなたそれ自身。
そしてそれは神と言われるそのもの。
人は神だったのだ。 神との合一と言われるもの。
それは自我の死によって自我は真我に溶け込み
真我のみの意識となること。
それを神との合一という。
自我であるわたしが真我である神に溶け込み合一したということなのだ。
自我消滅を悟りという。
悟りを開けば自我はもうないので、カルマの因果が終焉し、輪廻を卒業する。
人間として生まれた最終段階の者はこの真理を必ず通る。 神とはどこか手の届かないところにいる遠くの存在ではない。
神は誰よりも近くにいる。
それはあなた自身であるから。
自分が神であるという自覚がでるまで、真理探求すべきである。
つまりそこがゴールなのである 青木 慈雲(あおき じうん、本名:青木理、1929年2月 - 1998年4月11日)は、僧侶
宗教法人 妙法山 龍覚寺)慈雲院 山梨県都留市朝日曽雄1138
山梨県都留市で「妙法山 総本山 龍覚寺」建立
慈雲院建立中に誤って悪霊を召喚してしまい 地域に悪霊の磁場が出現
朝日川キャンプ場殺人事件が発生してしまう
やすら園は悪魔祓いのための施設となっている
●霊障をおこす霊の種類
(イ)死霊・・・・死者の霊のこと。特に成仏(悟り)していない迷いの霊、
十界でいえば六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人界・天界)
の世界にある霊のことで、障りを起こすものを言う。
(ロ)生霊・・・・今現在、肉体を持って生存しているものの霊はすべて生霊
なのだが、特に怨念霊を指すことがある。
(ハ)水子霊・・・妊娠2ヶ月目から出産までの間に、堕胎したり、流産した
ものの霊のこと。
(ニ)地縛霊・・・生前にその土地に執着があったり、その土地で殺されたと
か、事故死したとか、何らかの深い関わりがあって、死ん
だ後も、その土地、その場所から離れることの出来ない霊
のこと。
(ホ)浮遊霊・・・生前の苦しみや怨みの念があって成仏出来ない霊のうち、
よりどころなくふわふわとさ迷っている霊のこと。
(ヘ)因縁霊・・・先祖の霊など、その人に関わりのある人の霊のことだが、
先祖代々の霊自体が、生前にそれぞれ深い関係を持ってい
た霊もこれに属する。私はそうしたヨコの関係霊のことを
”有縁霊”と呼んでいる。
(ト)畜生霊・・・動物霊ともいう。犬、猫、蛇、狐、狸の霊。そればかりで
なく、人間が畜生道に陥っている霊のことでもある。
(チ)タタリ霊・・霊障を起こしている霊一般のこと。
(リ)天魔・・・・悪霊ともいう。霊障を起こすもの全て。マイナスのエネル
ギーを持つものの最大なるものを天魔と呼んだりする。
令和元年9月28日の慈雲院龍覚寺 神も仏も
鑑定・修霊瞑想 PM 8:00
山梨県都留市朝日曽雄1138
http://www.myouhouzan.net/yotei.pdf
青木慈雲 - まいり -
https://mairi.me/-/1061797?reply
やすら園
山梨県都留市朝日曽雌1344
恐ろしい悪魔祓いの園 夜中にピエロや幽霊がが歩き回る異界
あの世とこの世を繋ぐ扉がある空間
日本で唯一の霊場 >>15
わたしはついに神を知ったのだ。
肉体から離れたわたしの意識は神そのものだった。
その世界には神しかいなかった。神以外いなかった。
わたしはその神そのものだったのだ。
神はわたしだったのだ。 太古から人々は神を知ろうとした。
神について多くのイメージをもった。
神聖で崇高な全知全能の人間を超越した存在と定義した。
しかしわたしの見た神はそのどれでもなかった。
あなたは自分のことを神聖で崇高だと思うか?
そうは思わないだろう。なぜなら神はそういうものではないから。
神はサットチットアーナンドと言われる。つまり、意識、存在、至福。
この3つが神なのだ。
そしてわたしの見た神もそうだった。
金色に輝く崇高な神殿に君臨する偉大なる存在ではない。
神とはすべてが一つ、ワンネスの集合意識、それだった。 守護霊と言われるものも
結局はわたしだったのだ。
人は自分中心に世界を認識するだろう。
誰もが自己中心的な世界観で生きている。
それは実は真理なのだ。
意識のみとなった君は、霊界では君のみしかいない。
そして君のみがすべての存在なんだ。
この真理に到達するとき、わかる。
守護霊も仏も天使もキリストも、自分でしかなかったと。
悪魔も堕天使も自分でしかなかったと。
その意識が再び肉体に入ると、様々な生命として生物として意識を持つように見える。
わたしとあなた、わたしと他人、わたしと世界、そのように見える。
しかしその感覚は肉体を脱ぎ捨てた時、消える。
すべてが自分でしかなかったと知る。
神とはじつは自分でしかなかったことを知る。
この宇宙には唯一、自分のみが存在していたことを知る。
それのみが存在していた。 あなたがた人間が生きる意味は、
真実の自分を発見するために生まれてきた。
そこが最終地点。
真実の自己はどのようにして見つけられるか。
これが真理の探求なのです。
真理とはこの物質世界の背後に存在するものに気づくこと。
大自然から洞察する真理から始まり、
最後に行き着く最終真理とは、神の実在と、自身が神であることと、宇宙には私である神しか存在しないということ。
これが答えです。
言ってしまいましたが、これを知識で理解するのではなく
体験で理解するまでにならねばなりません。
それには長い霊的巡礼の旅が待っています。
真理にもそれぞれ段階がありますが、最終真理は神を知ることです。
この段階に到達してようやく神人合一と言えます。
アハムブラフマスミ、わたしは神である、と宣言できるようになります。
まだ神が何なのか、聖典や霊訓を読んで神を想像している段階より先の、
自身で見て感じて体感するレベルに到達しましょう。
そこに至るためには、神に到達したい、神との合一を果たしたい、
神を見たい、と根気強く思ってねばなりません。
そうすれば必ず神はあなたの前に姿を現し、その正体を見せてくれるでしょう。
その見えた神の正体を知るときこう思います。
なんだそうだったのか。
必死に求めていた神の正体とは、じつは自分だったのです。
そして彼らは覚者と言われるようになりますが、
彼らは知っています、人はみな神である、人はみな仏である、と。
だからこう言うのです。
あなたはすでに悟っているんですよ。 >>22
神を求め続けた。
そしてようやく神は姿を現した。
わたしは神を見たのだ。
ついに成し遂げたのだ。
神は一つだった。そこには神しかいなかった。
その神がわたしだった。わたしの意識それが神の意識だった。
この神の意識はあなたの意識でもある。動物の意識でも虫の意識でもあるだろう。
とにかく肉体を離脱し見た世界は、わたしである神のみしか存在していなかった。
その大いなる宇宙意識とでも言おうか、
その中に全宇宙があり目に見える世界すべてがあったのだ。
つまり世界の中にわたしがいるのではなく、わたしの中に世界はあったのだ。
逆だったのだ。
意識が唯一の存在なのだ。それ以外はすべて存在しないのだ。
わたしのこの意識のみが実在で、目に見える世界は存在していないのだ。 >>24
神は意識ゆえ、姿などない。
もしあるとすればそれは偽の神ということになる。
神はサットチットアーナンダと言われるように、
神とは意識であり存在であり至福なのだ。
なので神は意識の存在ゆえ、姿というものはない。
あなたが目をつむり心と自我を鎮め、純粋な意識を感じるとき、
それが神そのものなのだ。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています