探究者のためにさらに詳しく説明する。
今に在る、今に存在するとは物理的な時間の今ではない。
存在の感覚とは、時間を超えたところにある。
存在は絶対的なものであり、
絶対的なものは相対的な世界の感覚では認識されない。
それは今という感覚を超えている。
今でもあり過去でもあり未来でもある。
存在に時間はないのだ。
それを頭で理解するのではなく、感覚として感じられる。
涅槃の境地のようなものだ。
ただ存在するとは、何かでありながら存在することではない。
誰かでいながら存在するということではない。
ただ存在するというのは、なにものでもなく存在する状態なのだ。
つまり、時間を超えて何ものでもなく存在している意識がある、
というそれだけのことなのだ。
それを感覚として感じられるのだ。
これは理屈ではない。
感覚的なものなのだ。
それを一言で言ってしまえば、無、ということになる。
無なのだ。時間もなくなにものでもない。
つまり、わたしはいないのだ。
わたしがいないとは、相対的に存在しないということ。
つまり他人も世界も存在しないのだ。
わたしは無であるのに、どうしてそれを知っているのか?
誰が気づいているのか?
なぜ無を知ることができるのか?
それが正体なのである。
無とはすべてなのである。無とは無限なのである。
無とは神だったのである。
神とはわたしだったのである。