悟りを開くことは神と同義語じゃないですよ。
悟りなんてそんな特別すごいことじゃありません。
自我を失うというだけのこと。
それだけでしかありません。
なので普通に性欲ありますし、寝ますし食べます。
肉も美味しいです。大好物です。

禁欲主義菜食主義を信念として生きるのは実は自我によるものです。
自我が消えればそれらさえこだわらなくなります。

つまりなんでもありになるのです。
したければすればいいのです。食べたければ食べればいいのです。
それはカルマにならないと知りました。
自我消滅によって一切のカルマが存在しませんが、それにもかかわらず快楽に生きれています。
不思議ですね。
自分のような快楽主義者が、悟りを開き解脱するのに、
禁欲主義の修行僧がいつまでたっても解脱できないのはどういうことでしょう?
つまりそれは、禁欲主義の信念こそ彼を解脱から遠ざけてしまっているのです。
わたしのように一切の信念を捨て去った者のほうが、到達しやすいんでしょうか。