純粋に論理化された不二一元論としての「ノンデュアリティ」が、
実感的な部分を蔑ろにしてしまうというのは確かにあると思います。

世界は「在る」

この実感こそ私たちの魂の本質であり拠り所ですが、
純粋な論理は「全ての存在は幻である」と結論付けてしまうのです。

しかしこれは逆説的なことなのですが、私個人が思うには、

覚醒の初期段階が実感(心)寄りのものとして起こるにしろ、
論理(言葉)寄りのものとして起こるにしろ、どちらでも良いのでは
ないでしょうか。