概説

奴隷はあらゆる地域、時代の文献からも広範にその存在が確認され、その様態もさまざまである[2]。奴隷の定義は古代から議論の対象となっており、アリストテレスは「生命ある道具」[3][4]と奴隷制を擁護し、ソフ
ィストの奴隷制批判に反論した[5]。マルクス主義においてはスターリ
ンの定義が最もよく知られている[6]。しかし福本勝清によれば多くの奴
隷制は生産と必ずしも結びついていないか、生産様式や生産関係を規定づけるほど主要なものではなく、本質的には「自己の勢力を増やす手段であった」とする[7][8]。パターソン[9]によれば「生まれながらに疎外され、
全体として名誉を喪失し…永続的かつ暴力的に支配される(人間の)こと」[10]。

人種差別、性差別、幼児売買などは奴隷に固有のものではないが、多くの場合密接に関係していた。暴力と恐怖による支配が社会階層におよぶ場合農奴制や奴隷労働者の階級が形成された。
古代

有史以来、人が人を所有する奴隷制度は世界中で普遍的に見られたが、風土・慣習・伝統の違いによる地域差が大きい。戦争の勝者が捕虜や被征服民族を奴隷とすることは、古代には世界中で程度の差はあるが普遍的に見られた。

古代ギリシアのポリス間紛争では敗れた側の住民で成年男性は殺害され、女性や子供は奴隷にされた。ギリシャやローマの社会は奴隷制を基盤にしたものであったが、ギリシャ世界のポリスはスパルタを除けば奴隷の収奪を
主要な目的とした社会組織ではなかった[11]。
奴隷交易はデロス島が著名であり、ストラボンの地理書では1日に1万人以上の奴隷を扱うことが出来たと記されている[12]。

奴隷は家庭内労働、鉱山、ガレー船員、軍事物資の輸送、神へ捧げる生贄など様々な場面において使用された[13]。スパルタは大量のヘイロタイを農奴として使役した。共和政ローマでは征服地の住民は多くが奴隷として使役された[14]が
、奴隷によるプランテーションが中小自営農家の没落を招いた。大規模な奴隷反乱はスパルタ、ローマでしばしば見られた(メッセニア戦争、奴隷戦争)。

古代中国の殷では神への生贄に供するために奴隷が用いられた。日本でも弥生時代に生口と呼ばれる奴隷的身分がすでに存在したとされる。また、日本に限らないが、中華王朝の周辺部族が皇帝に朝貢するときには、生口を貢物として差し出すことも珍しくはなかった。