「満足した豚であるより、不満足なソクラテスになれ」

1つめの間違い
これは大河内総長自身が考えついた言葉ではなく、19世紀イギリスの哲学者、ジョン・スチュアート・ミルの『功利主義論』という論文からの借用です。
東大の総長ともあろうものが、他人の文章を無断で剽窃したのか、と思われるかもしれませんが、もちろんそういうわけではありません。
式辞の原稿を見てみますと、そこにはちゃんと、「昔J・S・ミルは 『肥った豚になるよりは痩せたソクラテスになりたい』 と言ったことがあります」と書かれています。
「なれ」という命令ではなく「なり
」という願望になっている点が少し違っていますが、それはともかく、
ここでははっきりJ・S・ミルの名前が挙げられていますから、これは作法にのっとった正当な「引用」です。
ところが、マスコミはまるでこれが大河内総長自身の言葉であるかのように報道してしまった。
そして、世間もそれを信じ込んでそのまま語り継いできたというのが、実情です。

次に第二の間違いですが、これはもっと内容に関わることです。
じつは、ジョン・スチュアート・ミル自身は「肥った豚よりも痩せたソクラテスになれ」とも「なりたい」とも、全然言っていないのですね。
さきほど題名を挙げた『功利主義論』の日本語訳を見てみますと、こう書いてあります。

満足した豚であるより、不満足な人間であるほうがよい。
満足した馬鹿であるより、不満足なソクラテスであるほうがよい。
It is better to be a human being dissatisfied than a pig satisfied;
better to be Socrates dissatisfied than a fool satisfied.

ところが、間違いはこれだけではないんですね。
じつは、大河内総長は卒業式ではこの部分を読み飛ばしてしまって、実際には言っていないのだそうです。
原稿には確かに書き込まれていたのだけれども、あとで自分の記憶違いに気づいて意図的に落としたのか、
あるいは単にうっかりしただけなのか、とにかく本番では省略してしまった。
ところがもとの草稿のほうがマスコミに出回って報道されたため、本当は言っていないのに言ったことになってしまった、というのが真相のようです。
これが第三の間違いです。

この有名な語り伝えには、三つの間違いが含まれているわけです