2017年度のノーベル平和賞に選ばれた国際NGO「核兵器廃絶国際キャンペーン」(ICAN)の活動を僕は否定するつもりはない。
彼ら彼女らの活動が核兵器禁止条約の国連採択に貢献したことは確かであろう。

しかし国連で採択されたとしても、核保有国や核保有国の核の傘に守られている国ばかりか、
核を持っていない国ですら各国で批准(国会等による承認)されるかどうかは分からない見通しのようだ。

国連で採択されることと、各国が批准することは別問題。国連は一国の政治について全責任を負っていない者たちが理想論だけで動ける場。
しかし国連加盟国各国の現実の政治行政の場に移ると、責任を負っている者たちが現実の判断をしているし、そうしなければならない。
そうすると、そこでは国連で採択されたものが直ちに採用されるということにはならない。
つまり国連の非現実的・理想論的な決定は各国の現実の政治行政の場で否定されることもあるだろう。

12月8日の朝日新聞に載ったICAN国際運営委員・川崎哲さんへのインタビュー記事を読めば読むほど、
責任を負わない者の主張と責任を負う者の主張との違いを認識させられた。

このインタビュー記事では、さっき述べたように国連で核兵器禁止条約が採択されたものの、
批准する国が少ない事実(現在2カ国)が指摘されている。そして何よりも、川崎さんの主張からは「核兵器は悪い兵器だ。
だから地球上からなくさなければならない」という意気込みは強く伝わってくるんだけど、「核兵器がなくなっても世界は本当に大丈夫なのか?」というところへの思考が全くない。この点について僕は大変な不安を感じ、恐ろしくもある。

核兵器廃絶を唱える人は、みんなそうなんだよね。廃絶しても本当に大丈夫なの? ということに関する思考がない。
廃絶することが絶対的に正しいという価値観が強すぎて、廃絶のデメリットについては完全に思考停止になってしまっている。
安全保障の専門家と言われる東大教授の藤原帰一さんですら「通常兵器に抑止力があるから大丈夫だ」くらいのことしか言えない。
そしてそんなロジックは幻想に過ぎないことは前号で述べた。

核兵器廃絶が絶対的な目的なのではない。戦争のない世界にすることが目的だ。核兵器廃絶は戦争のない世界にするための一手段だ。
そして戦争のない世界にすることに責任を持つ者は、その目的を達成するために手段の相当性をきっちりと検証する。
本当に核兵器廃絶という手段によって戦争のない世界が実現できるのか、と。ところが戦争のない世界を実現することに責任を負わない者は、
自分の持論である核兵器廃絶をとにかく叫んでしまう。それによって仮に戦争が起きたとしても知ったこっちゃないからね。

もし核兵器を廃絶するという現況を大きく変えるようなことをしていくならば、
そのことによっても大国・強国間の大戦は勃発しないということを確信してからでないとその変更を実行するわけにはいかない。
これが戦争のない世界の実現に責任を負う者の当然の思考回路だ。

ところが今のところ、核兵器が廃絶された後に世界がどうなっているのか、
大国・強国間で大戦が勃発しないのかをしっかりと論証したものは見当たらない。
あたかも核兵器が廃絶されれば地球上にパラダイス(楽園)が訪れるかのごとき主張ばかりだ。

http://president.jp/articles/-/23968