【SUBARU】新型(2代目)レヴォーグ Part12

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0001名無しさん@そうだドライブへ行こう (ワッチョイW e97b-FtNs [14.9.86.32])2020/08/24(月) 13:39:59.70ID:hT0FsLc30


2019年10月(プロトタイプ)発表の『2代目レヴォーグ』について語り合うスレです。
※発売時期:2020年/後半
新型「レヴォーグ」プロトタイプを世界初公開
https://www.subaru.co.jp/press/news/2019_10_23_7922/
・第4世代エンジン(新開発) 1.8L水平対向エンジンに直噴ターボ&リーン"希薄"燃焼
 →加速性能と環境性能を高次元で両立 ※第3代エンジン:FA/FB(2010年〜)
・新世代アイサイト(新開発) 広角化ステレオカメラと4個のレーダーによる360 ゚監視
 →衝突被害軽減ブレーキの作動範囲を拡大
・高精度マップ&ロケーター(新開発) GPS/準天頂衛星[みちびき]のロケーターで現在位置と高精度マップで高速道路形状を把握
 →カーブ前減速や渋滞時のハンズオフ走行支援を実現
・コネクティッドサービス(スバル国内初採用) 衝突事故時に緊急通報を自動発信、オペレーターにより消防/警察に救援要請、協力病院と連携
 →先進の救急自動通報システム用 ※ボタン操作によるSOSコール機能も搭載
・SGP"SUBARU GLOBAL PLATFORM"&フルインナーフレーム構造
 →極限までゆがみを抑え高剛性化

新型レヴォーグプロトタイプ | SUBARU
https://www.subaru.jp/levorg/prototype/
「新型レヴォーグ プロトタイプ STI Sport」を初公開 〜電子制御ダンパー/ドライブモードセレクトを採用〜
https://www.subaru.co.jp/press/news/2020_01_10_8181/
VIPQ2_EXTDAT: checked:vvvvvv:1000:512:: EXT was configured

もし、四輪制御技術の真髄が知りたい人は三菱車乗ってみることをお勧めします。特に、アウトランダーPHEV。今トヨタが目指す四輪制御技術の解は既にここにある。

お前らどうでもいいけど新型レヴォーグはカニ目だからな。

ダライラマは「敵に感謝せよ」と言った
敵は、、身内や仲間よりも多くのことを教えてくれるからだ

スバルが嫌いなのか
スレを荒らすことに快感を覚えてしまった系か

インプットおよびアウトプットシャフトそれぞれに、ドライブ/ドリブンギヤを設けておき、間にインターミディエイトシャフトを加えて1速の伝達経路を形成するから。
インプットシャフトとドライブギヤ間、およびセカンダリーシャフトとセカンダリープーリー間に湿式多板クラッチを持っており、これをハンドオーバー制御することで、トルクフローを切り替えるんだなこれが、凄い。
インプットシャフトとプライマリープーリーの間に解放機構はないため、ギヤ伝達経路を使用している際にもプライマリープーリー〜ベルト〜セカンダリープーリーは回転するが、セカンダリープーリーとシャフトの拘束が解かれるため、そこでトルクフローが途切れる。
プライマリープーリー側にクラッチを付けて、CVTの伝達経路を止めてしまったほうが損失は少なくなるが、ここを回しておかないと、ハンドオーバーする際に、いろいろ問題が出てきそうなんだけどね。
ちなみにトヨタが公開している動画では、インターミディエイトギヤがシフトフォークで切り放される様子が見られるが、これはベルト駆動時に、ドリブンギヤからドライブギヤ方向に回転力を逆流させないための構造。
実走行で多用するベルト駆動領域でここを切り放さないと、引きずり抵抗が大きくなって効率が低下するため、MTと同じシンクロ+ドグクラッチ機構をここに設けているわけ、わかる?
このトランスミッションを初めて見たとき、プーリーとベルトのコンパクト化を図るのが主目的なのかと思った。
負荷が最大となる発進時をギヤに負担させれば、ベルトやプーリーの強度は落とせるし、滑りのリスクも減るから、ベルト挟圧を生み出す油圧も下げられ、機械損失も下げられるからだ。そういう効果もあるとのことだが、主目的はレシオカバレッジの拡大、マジで。
それでもプーリーの小径化やベルト幅の縮小で駆動系の慣性を40%減らせたというから、効果は決して小さくない。
挟み角を狭めれば、同じプーリーの変位幅でレシオの変化量が大きくなり、変速応答が速くなる反面、制御がシビアになる理屈。
燃費をハイブリッド仕様と較べたところ、概ね2割落ちという感触だったから「約6%の燃費向上」という公表値に偽りはなさそう。

優秀なネラーやの

「満足な豚より不満足なソクラテス」の由来と真意とは?@ミルとベンサムの功利主義の違い | TANTANの雑学と哲学の小部屋
https://information-station.xyz/5322.html

「満足な豚より不満足なソクラテス」または「太った豚よりも痩せたソクラテス」といった形で語られることが多いこの格言は、

正確には、

19世紀のイギリスの経済学者および社会思想家であるジョン・スチュアート・ミル(John Stuart Mill)が功利主義に質的な視点を導入するに当たって例として挙げた

「満足な豚であるより、不満足な人間である方が良い。それと同じように、
満足な愚者であるより、不満足なソクラテスである方が良い。」

という言葉に由来すると考えられることになります。

功利主義(utilitarianism、ユーティリタリアニズム)とは、
ミルと同じイギリスの経済学者であり法学者でもあったベンサムによって提起された倫理学および政治学上の学説であり、
それは、人間の行為の善悪は、その行為の結果としてもたらされる功利(utility、効用、有用性)によって決定されると考える倫理思想ということになります。
この場合の「功利」とは、すなわち、その行為がもたらす結果が行為者自身やその周りの人々にとって良い影響を及ぼすのか?それとも悪い影響を及ぼすのか?ということを示していると考えられるので、
それは、より日常的な言葉でいうならば、幸福や快楽といった言葉に極めて近い概念であると考えられることになります。

ただし、
こうした功利主義において語られている幸福や快楽については、
単に、美味しいものをお腹いっぱい食べて満足だ、とか、お金をいっぱい儲けられてうれしいといった肉体的・即物的な快楽だけではなく、
素晴らしい内容の本を読んで感動したとか、困っている人を助けて心が晴れやかになったといった精神的・知性的な効用のことも含めて「快楽」と呼ばれているので、
功利主義において求められている幸福や快楽とは、
より正確に言うならば、

肉体的快楽と精神的快楽の両者を含めた意味での幸福ということになるのです。

満足な愚者の生き方と不満足なソクラテスの生き方の質的な差異

そして、ベンサムが、功利主義において問題となる快楽と苦痛はそのすべてが量的に比較可能であり、快楽や苦痛の種類に質的な優劣はないと考えたのに対して、
ミルは、幸福や快楽の実現が人生や社会における最大の目的と考える功利主義の立場に立っても、そうした幸福と快楽には質的な差異が存在すると主張することになります。
上記の「満足な豚より不満足な人間、満足な愚者より不満足なソクラテス」という言葉に表れているように、
十分な餌を与えられ肥え太った豚が何頭合わさっても、飢えてやせ細った一人の人間の価値に満たないように、
盗んだ金でご馳走にありついたり、酒や麻薬に溺れて肉体的な快楽を味わい尽くしたりするといった目先の欲望を満たすことで満足する愚者の生き方よりも、
善美なるものについての普遍的真理を見いだせず、人々を善なる生き方へと導くことができずに悩み続けることで
いつまでも不満足であるソクラテスの生き方の方が、たとえ本人にとっては不満足な状態にあるとしてもより価値のある優れた生き方であると考えられることになります。

そして、こうしたソクラテスと愚者の双方における生き方の違いや、肉体的快楽と精神的快楽の違いに見られるように、
ミルは、幸福や快楽には、その質において大きな違いがあると考えたということになるのです。

そして、こうしたミルにおける質的快楽主義のことを分かりやすく示すための例えとして用いられたのが、
「満足な豚であるより、不満足な人間である方が良い。満足な愚者であるより、不満足なソクラテスである方が良い。」
という言葉であると考えられることになるのですが、
こうしたミルの質的快楽主義の例示における論理展開の真ん中の部分を取り去って、頭と末尾の部分をくっつけて簡略化した言葉が、

「満足な豚より不満足なソクラテス」という形で語られることが多い格言ということになります。

そして、ミルが肉体的快楽としては不満足な状態にあるが、精神的にはより価値の高い状態にある人物の例として
わざわざソクラテスのことを挙げている以上、そこには何か理由があると考えられることになるわけですが、
次回は、それではミルは、ソクラテスにおけるどのような思想のことを念頭において、
上記のような言葉を語っていると考えられるのか?ということについて考えていきたいと思います。

新車を乗り回したり酒やオンナに溺れて肉体的な快楽を味わい尽くしたりするといった目先の欲望を満たすことで満足する愚者の生き方よりも、
たとえ本人にとっては不満足な状態にあるとしてもより価値のある優れた生き方である

>>953
意味が違うって言ったの全く解ってないようだな
カニの目は出っぱって丸いからカニ目ってのはそう言う意匠なヘッドライトのことで
しかも特定の車の愛称なんだよ
https://gazoo.com/ilovecars/vehiclenavi/181215.html
だから全然意味が違うし
お前が作った言葉でもないし
違う車の事だし
車を知ってる奴からはバカにされるだけだからやめておけって

ただ生きることと善く生きることの違い

ソクラテスは、『クリトン』における友人クリトンとの対話の中で、人間が生きるべきあり方について以下のように語っています。

一番大切なことはただ生きることではなく、善く生きることである(プラトン著、『クリトン』、第8節)

それでは、ここでソクラテスが言う「善く生きる」とはいかなる生き方のことを指していて、
それは「ただ生きる」ということとはどのように違うのか?ということですが、
こうしたことについては、『クリトン』の中では、さらに以下のように語られている箇所があります。

『クリトン』では、アテナイの人々の手による民衆裁判によって死刑判決を下されたのち、毒人参の杯をあおいで死を迎えるまでの時を牢獄の中で過ごしているソクラテスの姿が描かれているのですが、

そのような中、面会に訪れた友人クリトンが牢獄からの脱獄とアテナイの国外への逃亡を勧めるのを聞いていたソクラテスは、

彼を思う友人の勧めとは反対に、法によって定められた裁判の結果を受け入れることが正義に適った善く生きる生き方であることを様々な論駁の議論によって示していくことになります。

そうした論駁の中で、ソクラテスは、

クリトンの勧めに従って国外へと逃亡することになった場合、自分が落ちのびることになる土地としてアテナイの北西にあったギリシア中部の都市国家テッサリアのことを例に挙げながら、自問自答していく形で、以下のように自分自身に語りかけることになるのです。

お前は、こうした地方を立ち退いて、クリトンの友人たちを頼ってテッサリアへと行こうとでもするのだろう。…

しかし、いったいお前はテッサリアに行って何をしようというのだ?ご馳走になること以外には、あたかもテッサリアへと引っ越したのは食事にありつくためであったとでも言うように!
(プラトン著、『クリトン』、第15節)

389 名前:名無しさん@そうだドライブへ行こう (ワッチョイ b32b-XGqV)[] 2019/04/16(火) 12:44:32.66 ID:EMLvChxX0 [19/126]
ここで、ソクラテスは、

自分が法を破るという行為を犯してまで国外へと逃亡した場合、
そのような正義を踏みにじる恥ずべき行為を犯した自分が道徳や正義について語っても、
そのことに聞く耳を待つ人はもはや誰もいなくなってしまうであろうし、

何よりも、そのようなことをしてまで生きのびても、ソクラテス自身の生き甲斐であり、生きることの最大の目的である善美なるものについての探究と、
善く生きることの追求が果たせなくなってしまうということを問題にしていると考えられることになります。

390 名前:名無しさん@そうだドライブへ行こう (ワッチョイ b32b-XGqV)[] 2019/04/16(火) 12:45:37.83 ID:EMLvChxX0 [20/126]
そして、そのようにしてまで生きながらえるとするならば、それはいったい何のためか?ということになりますが、
そこには、不正を犯しては食事にありつき、ただ食欲を満たし続けること以上の生きる目的はどこにもないと考えられることになります。
そして、ソクラテスは、こうした食事にありついてただ生きることのためだけに生きていくあり方は、
自分自身が目指している善く生きることによって、善く死ぬことを受け入れる生き方よりも価値がある生き方であるとは自分には到底思うことができない、
ということを語っていると考えられるのです。

以上のように、

『クリトン』の中で示されているソクラテスの人生観においては、

ただ食事にありつき、食欲を満たし続けるといったただ生きるだけの生き方は人間の生き方としては不十分であり、

人間が人間である以上、ただ生きること以上に、善美なるものについての知を探究し、自らが正義に基づいて正しく生きようとする善く生きることを求め続ける生き方がより価値のある生き方として求められていると考えられることになります。

392 名前:名無しさん@そうだドライブへ行こう (ワッチョイ b32b-XGqV)[] 2019/04/16(火) 12:47:24.43 ID:EMLvChxX0 [22/126]
そして、ソクラテスが自らの信念に従って、自らが善く生きるために法によって定められた死を受けいれた、
そのおよそ2000年後の時代を生きたミルも、こうしたソクラテスにおける人生についての考え方と
善く生きることの価値を念頭に置いたうえで、
冒頭の
「満足な豚であるより、不満足な人間である方が良い。満足な愚者であるより、不満足なソクラテスである方が良い。」
という言葉を残したと考えられることになるのです。

プラトン著『ソクラテスの弁明』の中で、ソクラテスは、自分が今まで行ってきた哲学探究の活動がどのようなものであり、
それがいかなる意味で善なる生き方に適った行いであるのか?ということについて以下のように語っています。

私は自分の息と力の続く限り、知を愛求し、諸君に忠告し続けることをやめないであろう。…

そして、また、私は以下のようにも信じてもいる。
神に対する私のこの奉仕以上に大きな善がこの国で行われたことがいまだかつてなかったということを。

なぜならば、私が歩き回ってしていることと言えば、身体のことも金銭のことも、どのようにすれば魂をできるだけ優れたものにすることができるのかということ以上に、
あるいは同じくらいにでも気遣ってはならないということを、老いも若きも諸君のすべてに向かって説いて回ることにほかならないからである。

(プラトン著、『ソクラテスの弁明』、第17節)

つまり、

ソクラテスにおいて、この世界で最も価値がある善なる行いとされることは、

経済活動を通じてお金を稼ぐことでも、運動や食生活によって体を気遣い、自らの健康と容姿を維持することでもなく、

ひとえに自分の魂をより優れた善なるものにするという魂への気遣いにほかならないということです。

そして、

こうした魂への気遣い、すなわち、自らの魂を善いものへと高め、さらには、周りの人々の魂をも巻き込んで、
それらを共により優れたより善いものへと高めていくための知の愛求こそが人生の最大の目的であり、
それが善く生きるという生き方の核心でもあると考えられることになるのです。

ところで、

上記のソクラテスの言葉において、金銭や身体への気遣いに比べて、魂への気遣いの方を重視してそれを優先すべきであるということが語られているからといって、

それは、もちろん、経済面や身体面への配慮をおろそかにしてもいいということを意味しているわけではありません。

身体が不調となり、健康を害して病気になってしまえば、魂を気遣うための思考活動にも支障をきたしてしまいますし、病状が悪化して重病となれば、最終的には、善く生きるための前提となる命自体が失われてしまうことになります。

そして、

経済面での困窮も、それが窮まれば、自由に知を愛求するための心理的な余裕も失われていきますし、
金銭面の不足を補うために無理を重ねれば、身体の不調も引き起こされやすくなることになります。

このように、
魂と身体と金銭の関係は、健全で幸福な人生を歩むうえでは、どれもが欠かすことができない三位一体の関係にある要素であると考えられることになるのです。

しかし、それでは、これらの三つの要素のすべてがその人の人生における意味と価値を決定づけるのに同等の重要性を持った要素なのか?
というと、必ずしもそうではなく、

例えば、いかに、身体が丈夫で有り余るほどの富に囲まれていたとしても、
その人の魂が未熟で悪しきものであるとするならば、その人生自体が無意味で無価値なものとなり、

世界にとっても、その人自身にとっても、むしろこの世に生まれてこない方がよかったという結論にさえ行き着いてしまう
と考えられることになります。

それに対して、

たとえ、健全な身体に恵まれず、十分なお金もなくて、経済的な困窮の内に短命の人生を終えるとしても、その人の魂が善きものであったとするならば、

その人の魂とそこから放たれる言葉と行為が周りの人々の魂にも働きかけ、これを癒し、世界に何らかの良い影響を必ず残していくことになるので、

その人の困窮の内に終えた短い人生がまったくの無価値で意味のないものであったということには到底なり得ないということになります。

そして、むしろ、そのような経済的困窮と病による身体的苦痛といった苦難を与えられてもなお、
自らの魂をより優れたより善いものにする探究を試み続けたその意志の強さと気高さこそが、
その人の人生が、世界にとってもその人自身にとっても大きな価値のある素晴らしいものであったことの確固たる証明となると考えられることになるのです。

それはちょうど、
ソクラテス自身の人生が、晩年は経済的にも困窮した状態にあり、最後には、無実の罪によって死刑判決を下されることになりながらも、
その判決から逃れるために自らの考えを曲げることもなく、
最期まで、自分の考えと生き方を貫き通した人生であり、
そうした知の愛求と善く生きることを探究し続ける姿勢を貫き続けたソクラテスの生き方と死に様自体が、
ソクラテス自身の魂の善さと気高さを明確に表しているのと同じ関係にあると考えられることになります。

以上のように、

ソクラテスの言う「善く生きる」ということの核心には、自らの魂を善くするための魂への気遣いと、それをもたらすための知の愛求があると考えられることになるのですが、

それでは、こうした善く生きるための魂への気遣いと知の愛求は、より具体的にはどのようにして実現されていくことになるのでしょうか?

善く生きるとは何か?A
四元徳に基づく善い生き方とソクラテスにおける知徳一致の思想

前回書いたように、ソクラテスの哲学における「善く生きる」ことの核心には、自らの魂を善くするための魂への気遣いがあると考えられるのですが、

ソクラテスにおいては、そうした魂への気遣いは、端的に言えば、徳の習得によってもたらされると考えられることになります。

ギリシア語における徳(arete、アレテー)とは、もともと、人間の持つ能力やその優れたあり方、卓越性のことを指す概念であり、

例えば、

ミケランジェロのように優れた彫像を作り上げることができる人物は、彫刻家としての徳を持った人であり、

優れた政治家のように、言論によって人々を説得する技術に秀でた人物は、政治家としての徳を持った人、または、弁論術の徳を持った人であると考えられることになります。

しかし、

ここでソクラテスが言っている徳とは、そうした人間が有する能力や技術の全般についての徳(アレテー)のことを指しているわけではなく、

人間が有するあらゆる徳のうちでも、特に、魂の善さを実現するのに関わる能力と卓越性を持った徳について語っていると考えられることになります。

そして、

そうした人間の魂の善さに関わる徳のあり方については、

のちに、ソクラテスの弟子であるプラトンにおいて、知恵と勇気と節制そして正義という四つの徳、すなわち、四元徳の形にまでまとめ上げられることになるのですが、

こうした四つの徳の相互作用によって人間の人格とその人の人生のあり方が形成されていくと捉えられることになります。

つまり、

善く生きるための魂の気遣いは、知恵・勇気・節制・正義といった人間の魂を善いものにするための徳の習得によってもたらされ、

それぞれの徳の力が十分に発揮された時に、善く生きるという人間にとっての理想の人生の実現がもたらされると考えられるということです。

そして、以上のことを踏まえると、

どうすれば善く生きることができるのか?という問いに対する一般的な解答としては、ひとまずは、四元徳のあり方に基づいて、

善悪についての十分な知恵と知識を持ったうえで、節制のある規則正しい生活を送り、それが自分の人生や社会にとって善い行いであるならば勇気をもって行動に移し、選択を迫られるあらゆる局面で不正を働かずに正義を行うことができれば、

それが人生の総体としての善い生き方につながっていくと考えられることになります。

それでは、次に、どうすれば、四元徳に適うような生き方が可能となり、人間の魂の善さに関わる徳を十分に習得することができるのか?ということですが、

そうした魂を善くする徳を身につけることは、知の愛求(philosophia、フィロソフィア)すなわち、哲学の営みによってのみもたらされるというのがこの問いに対するソクラテスの解答ということになります。

つまり、

自らの魂をより善いものへと高めていくための徳の習得は、そうした善なる徳についての知識を得ること、すなわち、善美なるもの(kalon kagathon、カロン・カガトン)についての知を得ることによってもたらされるということです。

そして、
こうした「徳とは知である」というソクラテスにおける知徳一致の思想は、
さらには、道徳の実現は、善なるものについての知によってのみもたらされるという
ソクラテスの主知主義の思想へとつながっていくことになるのです。

しかし、
善なる知からは必ず善なる徳、そして、善なる行いがもたらされるとするこうした主知主義の主張は、一見するとすぐに矛盾へと陥ってしまうようなパラドキシカルな議論を含んでいるとも考えられることになります。

例えば、もしも、

こうした主知主義の主張を通常の字義通りに解釈して、一般的な善についての知識を持っている人は、その知識に従って必ず善なる行動のみを行うとするならば、

善悪に関する道徳的な知識も含めた十分な教養を身につけた知性の面でも優れている人物は、必然的に善なる行動のみを行い、悪いことは一切しないと考えられることになりますが、
現実の世界では、そうした学歴も高く、知能も十分にある人間が悪事に手を染めるケースはあえて例を挙げるまでもないほどに、実際には数多く存在すると考えられることになります。

このように、
かえってそうした知識や知恵があるゆえに、それを利用して他人を騙したり、不正を働いたりして悪の道へと進んでしまう人間もいる以上、

知恵や知識自体は善い生き方だけではなく、悪い生き方にも同等に用いることができると考えられることになりますし、

単に知識として何が善で何が悪であるかを知っていたとしても、そのことだけですべての人が善人になるといったことは到底あり得ず、

むしろ、実際に人が悪事を行う場合においては、自分がやっていることが悪と分からずに行う悪人よりも、悪を悪と分かっていながら行う悪人の方がよっぽど多いと考えられることになります。

それでは、
ソクラテスは、こうした主知主義における矛盾をどのように解決し、善なるものについての知とそうした知への愛求のみから、善なる徳の習得と、ひいては、善く生きるという生き方の実現自体を成し遂げていくことになるのでしょうか?

スレ立て規制食らったので誰か頼むで

ソクラテスの主知主義のパラドックスの論理整合的な解釈と普遍的真理としての善なる知、善く生きるとは何か?B

 人間の魂をより善いものへと高めていくための徳の習得は、善なるものについての知を得ることによってのみもたらされるとするソクラテスの知徳一致の思想は、

さらに、善なる知からは必ず善なる徳、そして、善なる行いがもたらされるとする主知主義の思想へとつながっていきます。

そして、

こうした考え方は、ソクラテスのパラドックス、または、主知主義のパラドックスなどと呼ばれる議論へと結びついていくことになります。

前回も書いたように、知と徳、知識と行動の関係については、

通常は、知識をもっていることとその知識に基づいて行動することは必ずしも直接的には結びつかない問題であると考えられることになります。

例えば、

私たちは、地球一周がおよそ4万キロメートルであることを知識として知っているとしても、だからといって、実際に地球を一周してその長さを測ってみた人はほとんどいないように、

人は、必ずしも自分が知っていることのすべてを実際に行うわけではなく、通常の知識については、それを知っていることと実際に行うこととはまったく別次元の問題であると考えられるということです。

しかし、それに対して、

少なくとも、善に関する知識と行いについては、
両者は必ず一致する、

つまり、

善なることを知っていながら、それを自分の人生においては実際には行わずにいることや、真なる意味で何が善であるかを知りつつも、みすみす悪の道へと走ってしまうということは決してあり得ない

というのがソクラテスの主知主義における強い主張ということになります。

このように、

通常の知については、知を持っていることとその知に基づいて行動することは別問題であると思われるのに、
善に関する知と行いについては両者が直接結びつき、善なる知を持つ人は必ずその知に基づいて善なる行動をするというソクラテスの主張は、
一見すると矛盾する逆説的な主張であるようにも思われるわけですが、

こうしたソクラテスの主知主義のパラドックスは、どのようにして論理整合的に解釈することができるのでしょうか?

無抑制の克服と知の吟味に基づく普遍的な善なる知

そこで、まず、

人間が一般的に自らの知識と認識に反する行動をとってしまうとされる場合について考えてみると、

人が、自分では何をするのが善いことであるのか分かっているつもりでいながら、それに反して悪しきことを行ってしまう時、その人は、無抑制(akarasia、アカラシア)の状態にあると考えられることなります。

例えば、

明日仕事があるのに、前日についついお酒を飲み過ぎたり食べ過ぎたりしてしまって、翌日、二日酔いや胃もたれなどで、前日あんなに食べたり飲んだりしなければよかったと後悔するのは、

通常は、自分の行動を知識によって制御できない無抑制の典型例にあたると考えられることになります。

しかし、
よく考えてみると、翌日忙しい時にはお酒は飲まずに食事も何時までと明確なルールを決めておくとか、そもそもお酒は買いだめをせずに、飲める日に飲んでいい量だけを買うことにするというように、

事前にもっとよく吟味した計画を立てていれば、無理にその場で飲むか飲まざるかの感情的な葛藤を繰り広げなくても翌日仕事がある場合のお酒の飲みすぎや食べ過ぎを避けることはある程度可能と考えられることになります。

つまり、

翌日仕事がある場合にもついつい飲みすぎたり食べ過ぎたりしてしまうことの背景には、単に飲みたい食べたいといった欲求や感情を抑えきれないという無抑制の問題だけではなく、

それぞれの場合に、どのような選択をするのがより良い結果へと結びつきやすくなるのか?ということについての十分な知の吟味が不足しているという問題が根本にはあり、

そのために、後で後悔をすることになる悪い結果を招きやすい行動選択がなされてしまうと考えられることになるということです。

そして、それと同様に、

口論がエスカレートして思わず相手と殴り合いの喧嘩をしてしまったといったより倫理的問題が大きく関わるケースにおいても、

それは、単なる感情の抑制の問題としてだけではなく、自他の知のあり方の吟味の問題としても捉えられることになります。

つまり、

自分の発言が相手にどのように受け取られ、相手の発言がどのような意図によってなされているのか?といったことについての自他の知のあり方のより深い吟味ができていれば、殴り合いの喧嘩といった事態を避けることはできたと考えられ、

少なくとも、そういった破壊的な事態へと至ってしまう前に、互いに自制を促したり、口論がヒートアップする前に、いったん議論を打ち切って、場を改めるといった方策をとることは可能であったと考えられるということです。

 いずれにせよ、このように、

その物事が何であるか?といった技術や教養についての一般的な知識ではなく、
どうするのが善いことなのか?といった道徳や倫理、善悪の知については、

それは、十全なる知の吟味によって、知ることが知っている通りに行動することへと直結してくる問題でもあると捉えられることになります。

つまり、

十分な知の吟味を経ることによって普遍的で十全なる善なる知へと限りなく近づくことができるとしたならば、

そこにはもはや、感情や欲求のその時々の制御といった偶然性の付け入る隙はなくなることになり、

そうした普遍的真理としての善なる知のみによって、善なる徳の完全なる習得とそうした知に基づく善なる生が全うされると考えられることになるのです。

ソクラテスにおいては、普遍的真理としての善なる知においては、
徳(arete、アレテー)と知(sophia、ソフィア)は一致し、

そうした善なるものについての知をもっていることが
善く生きるための必要十分条件となっていると考えられることになるのです。

そして、

こうした普遍的真理としての善なる知とは、それが普遍的で絶対的な十全なる知である以上、神が有する善悪についての十全なる認識、すなわち、神の知のあり方とも一致する知のことを意味することになるのですが、

そうすると、次に、

普遍的真理としての善なる知によって善なる行動が必然的にもたらされるとしても、そうした知のあり方が神の知のあり方でもあるとするならば、

果たして、限られた人間の知性において、そうした全能なる神の知性における知のあり方へと到達することが可能なのか?という問題が生じてくることになります。

前回書いたように、
ソクラテスの主知主義においては、普遍的真理としての善なる知(ソフィア)と善なる行動をもたらす徳(アレテー)は一致すると考えられることになります。

そして、

こうした普遍的真理としての完全な善についての知は、善の行動と善なる生へと直結していくことになるので、

完全な善についての知を有する人は、いかなる意味においても悪しき行為を行うことがなく、完全なる善の生を全うすると考えられることになります。

つまり、

普遍的真理としての完全な善についての知を獲得するということは、全知全能である神と同等の知を手にし、神と同等の認識へと到達したことを意味することになるので、

そこにおいてはもはや、不合理で無抑制な行動である悪しき行為は、選択される余地自体が必然的になくなると考えられるということです。

しかし、

そうした完全な善についての知は、それが神の知である以上、
能力の限られた有限なる存在である人間にとっては、その限られた短い生の間には、到底到達し得ない領域にある知であるとも考えられることになります。

例えば、

前回取り上げた、翌日仕事があるのに食べ過ぎたり飲みすぎたりしてしまうといった無抑制な行動の例で言うならば、

確かに、

神の知性においては、すべての物事が一挙に把握され、それぞれの行動とそれによってもたらされるすべての結果の善悪が完全に吟味され尽くすことになるので、

そうした神のごとき認識においては、自分が過去になしたことに対する後悔も、そうした後悔をもたらすことになる誤った選択も、そうしたことの存在自体からあり得ないと考えられることになります。

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