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北京大清華戦国秦秋月康秀浬据陽拓及安東大便利 [無断転載禁止]©2ch.net
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0001名無しさん@お腹いっぱい。
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2017/06/04(日) 23:58:43.32ID:2jBsf+TQ
当晚国家邮政局就此表态称已与当事双方高层进行沟通强调要讲政治
顾大局寻求解决问题的最大公约数重要削除切实维护市场秩序和消费者合法权益
决不能因企业间的纠纷产生严重社会影响和负面效应元人環境保全关于物流数据的争夺
让顺丰与菜鸟的决裂从台下搬到台面互联网时代大数据的搜集存储和利用和现代社会的
仓储物流行业紧密相连遼東京大无明论是顺丰的主业物流还是阿里巴巴的主业网购尽管
目前用户信息的产生延京都大会只是额外收获但大数据的发掘和利用存在着巨大想象空间
还有超乎物流网购行业本身的潜在商业价值这也是这么一场重量级的掰手腕会上演的根本原因
对整个行业来说神仙打架或是内耗但对数据源头的用户而言却是体验变得更不方便
——因为无论是菜鸟先飞还是顺丰称王对公众并无本质差别可公众最不想看到的
是自身利益成为商战的牺牲品菜鸟顺丰之争自有其逻辑但公众未必看得懂这些
他们最关心的还是更贴近自身权益的问题比如自己网购后的物流选择权和物流信息的可查询
0002名無しさん@お腹いっぱい。
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2018/06/04(月) 09:48:31.64ID:iU+fbPLi
2VLF9
0003名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2020/01/06(月) 12:04:03.11ID:1/zcjCYL
2020-01-06
このスレは死んでいるようなので個人利用で活用することにする。
レス3以降に他の人は書き込まないこと。
もし書き込んだら不幸が舞い込むので、見るだけにしておくこと。
海外AKB48GとSNH48のことについて思いついたとを雑多に書く。
0006書き込み禁止
垢版 |
2020/01/06(月) 15:21:44.82ID:1/zcjCYL
このスレに書き込んだら恐ろしいことになるから見るだけにしておくこと。
0020名無しさん@お腹いっぱい。
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2020/01/06(月) 19:24:15.49ID:1/zcjCYL
この世界だけがそれほど不公平ではなかったなら
結果がどうなるか誰にもわからない
まだいくつかのことは最初から運命づけられています
だから逃げるのをやめなさい。あなたの内なる声を見つける

これらすべての言い訳はあきらめる前のものです
この果てしない悲しみを止めて続けてください
やさしさで応えているので
そのような大きな幸せは永遠に続くことはできません
しかし、それはそれを決定することができます...

空の約束になりたい
私たちはお互いの最高の思い出だと思います
先の道は険しくてでこぼこです
手をつないでだけ進めることができる

あなたを笑顔にしたいのは、単なるリップサービスではありません
私は全力を尽くして、この美しい絵を描く
これ以上の躊躇はありません。私はとても幸運だ
私の小さな心はあなたでいっぱいです

それほど多くの選択肢がなかったならば
私たちはそのような貴重な記憶を手に入れることができませんでした
私たちの会議の瞬間はただ愚かです
しかし私達は私達の関係を培うために決心することができます

すべての会議にはそれぞれ独自の意味があります
毎分、毎秒私たちは一緒に過ごします
大切にする価値があります
そのような大きな幸せは永遠に続くことはできません
しかし、それはそれを決定することができます...

あなたに勇気を与えたいという気持ちはただの約束ではありません
人類の海で気楽に
回転する雲は穏やかに空に浮かぶ
もう恐れることなく、あなたの人生を楽しんでください

あなたと一緒に歩きたいのは、単なるリップサービスではありません。
途中のシーンはより豊かです
世界が終わっても、私はあなたを守ります
これは私の厳粛な約束です

空の約束になりたい
私たちはお互いの最高の思い出だと思います
先の道は険しくてでこぼこです
手をつないでだけ進めることができる

あなたを笑顔にしたいのは、単なるリップサービスではありません
私は全力を尽くして、この美しい絵を描く
これ以上の躊躇はありません。私はとても幸運だ
私の小さな心はあなたでいっぱいです
0021名無しさん@お腹いっぱい。
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2020/01/06(月) 19:42:19.71ID:1/zcjCYL
 万治三年七月十八日。
 幕府の老中から通知があって、伊達陸奥守《だてむつのかみ》の一族伊達|兵部少輔《ひ
ょうぶしょうゆう》、同じく宿老《しゅくろう》の大条兵庫、茂庭周防《もにわすおう》、
片倉小十郎、原田|甲斐《かい》。そして、伊達家の親族に当る立花飛騨守《たちばなひだ
のかみ》ら六人が、老中酒井|雅楽頭《うたのかみ》の邸へ出頭した。
 酒井邸には雅楽頭のほかに、同じく老中の阿部|豊後守《ぶんごのかみ》と稲葉|美濃守
《みののかみ》が列坐していて、左のような申し渡しがあった。
「伊達むつの守、かねがね不作法の儀、上聞に達し、不届におぼしめさる、よってまず逼塞
《ひっそく》まかりあるべく、跡式《あとしき》の儀はかさねて仰せいださるべし」
 こういう意味の譴責《けんせき》であったが、
「但し堀ざらいの普請はつづけるように」
 ということが付け加えられた。
 堀ざらいとは、その年の三月から幕府の命令で、伊達家が担当していた、小石川堀の修築
工事をさすものである。
 申し渡しのあと、太田|摂津《せっつ》守が上使を命ぜられ、立花飛騨守と伊達兵部との
三人で、伊達家の上屋敷へゆき、陸奥守|綱宗《つなむね》にその旨を伝えた。
 綱宗はすぐに品川の下屋敷へ移った。

 明くる七月十九日の夜。
 伊達家の浜屋敷の内にある坂本八郎左衛門の住居へ、二人の訪問者があった。坂本は浪人
から取立てられた者で、食禄《しょくろく》は六百石、目付役を勤めていた。
 坂本は二人に会った。
 二人は密談があるようによそおい隙をみて坂本に襲いかかった。坂本は抜きあわせるひま
もなく、その場で即死した。二人は坂本の家人に、「上意討である」と云って、たち去った


 同じ夜、同じ時刻。
 やはり浜屋敷の内にある、渡辺九郎左衛門の住居に、二人の訪問者があった。渡辺も浪人
から取立てられた者で、疋田《ひきた》流の槍の名手であり、刀法にも非凡な腕があった。
食禄は二百四十石、家中の士に槍術《そうじゅつ》を教えていた。
 渡辺は会うのを拒んだ。
 訪問したのは渡辺金兵衛と渡辺七兵衛といい、二人とも小人頭《こびとがしら》であるが
、どちらも親しいつきあいはないし、そんな時刻に訪問されるような、用件があるとも思え
なかった。
「いや、急用があるのです」二人は取次の者に云った。
「こんど御門札を新らしくするので、印鑑をいただきたいのです、明朝から新らしい御門札
になるので、ぜひとも今夜のうちに印鑑をいただかなければならないのです」
 まえの日に、藩主が幕府から逼塞を命ぜられて、品川の下屋敷へ移った。しぜん門札の更
新ということもあり得るので、渡辺は二人に会うことにした。
 常着《つねぎ》の上へ袴《はかま》をはき、脇差だけ差し、印鑑の入った鹿皮の小さな袋
を持って、渡辺九郎左衛門は客間へ出ていった。二人の訪問者は、膝《ひざ》の前に帳面よ
うの物を置いて、坐っていた。渡辺はかれらを見たが、二人のようすに変ったところはなか
った。
「――御苦労」と云って渡辺は坐った。
「夜分にあがりまして」と渡辺金兵衛が云った。そして七兵衛と共に両手をついて、低く辞
儀をした。
 渡辺は袋を膝の上に置いた。低く辞儀をした二人の右手は、それぞれの刀をつかんだ。
 渡辺は袋の口の紐《ひも》をゆるめ、中から印鑑を出そうとした。そのとき金兵衛が片膝
立ちになり、刀をすばやく取り直して、抜き打ちに渡辺へ斬《き》りつけた。刀は渡辺の右
の肩を斬った。
「なにをする」
 渡辺は腰の脇差へ手をかけながら立った。その手には印鑑の袋が絡まっていた。袋の口の
紐が指に絡まっていたのである、――渡辺が立ったとき、七兵衛が左から突を入れた。渡辺
はとっさに脇差を抜いて横に払った。七兵衛の刀は渡辺の腰を刺し、渡辺の刀は七兵衛の肩
を斬った。
0022名無しさん@お腹いっぱい。
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2020/01/06(月) 19:42:55.05ID:1/zcjCYL
「なんのためだ」と渡辺が叫んだ。
 そのとき右から、金兵衛が踏み込んだ。そして、腰を刺されて体の崩れた渡辺の脾腹《ひ
ばら》を十分に斬った。渡辺は襖《ふすま》へよろけかかり、襖といっしょに次の間へ転げ
こんだ。金兵衛は追っていって、もう一刀、頸《くび》から胸へかけて斬った。渡辺は「う
ん」と呻《うめ》いた。七兵衛は肩の傷を押えながら客間のまん中に立っていた。
 そこへ三人の若侍と、一人の若い女が走って来た。侍たちは廊下の左から、――女は奥の
ほうから走って来て、客間の前で立竦《たちすく》んだ。
「騒ぐな、上意討だ」
 金兵衛が云った。彼は渡辺九郎左衛門が死んだのを慥《たし》かめてから、客間のほうへ
出て来た。
「あとから検視が来る、それまで死躰《したい》に手を付けてはならない、家の中もそのま
ま、慎しんで待っておれ」
 女が叫び声をあげた。
 金兵衛が女を見た。女は十八九歳の、小柄な躯《からだ》つきで、勝ち気らしい、だが美
しい顔だちをしていた。女は金兵衛の脇を走りぬけ、渡辺の死躰のところへいって、死躰に
とり縋《すが》った。そして声をあげて泣きだした。
「あれはなに者だ」と金兵衛が訊《き》いた。
 三人の若侍たちはすぐには答えなかった。しかしようやく、その中の一人が云った。
「側女《そばめ》のみや[#「みや」に傍点]という者です」
 金兵衛は刀を拭きながら七兵衛を見た。
「大丈夫、浅手だ」と七兵衛が云った。そして、二人はたち去った。

 同じ夜の、ほぼ同じ時刻。
 伊達家の桜田上屋敷内にある畑与右衛門の住居へ、三人の訪問者があった。畑は納戸《な
んど》役[#1段階小さな文字](禄高不明)[#小さな文字終わり]で夫婦の間に宇乃《
うの》という十三歳の娘と、虎之助という六歳の男子があった。訪問者と聞いたとき、畑は
ふと不吉な予感におそわれた。漠然としたものではあったが、まったく無根拠ではなかった
。彼は妻をよんで訊いた。
0023名無しさん@お腹いっぱい。
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2020/01/06(月) 19:43:33.36ID:1/zcjCYL
「子供たちは寝たか」
「はい、寝ております」
「すぐに起こせ」と畑は云った、「二人とも起こして、おまえ宮本へつれてゆけ、おまえが
つれてゆくんだぞ」
「こんな時刻にですか」
「わけはあとで話す、いそいでゆけ」
 妻女は立っていった。彼女は子供達を起こした。どちらもまだ眠ってはいなかった。虎之
助はとび起きて、よろこんで云った。
「どうするの、また遊ぶの」
「静かになさいな」
 宇乃がそう云った。宇乃は十三歳であるが、躯つきも大きく、顔もおとなびてみえ、気持
もませていた。彼女は母親のようすで、なにかただならぬ事が起こったのだと直感した。そ
れで着替えを終ったときには、もっとおとなびた顔つきになった。
「遊ぶんじゃないの」と虎之助が母親に訊いた。
 母親は帯をしめてやりながら「静かになさいな」と云った。虎之助は姉の顔を見て、そし
て黙った。支度のできた二人をつれて妻女が裏から家を出たとき、客間のほうで高い叫び声
と、足踏みをするような物音が聞えた。
「あれ、なに、お母さま」
 虎之助が云った。妻女は怯《おび》えたように娘の顔を見た。宇乃はおちついた声で、母
親をなだめるように云った。
「まいりましょう、お母さま」
 妻女は歩きだした。外は暗かった。まっ暗で、爪先も見えないようであった。宇乃はしゃ
んとしていた、彼女には母親の怯えているのがわかり、自分がしっかりしていなければだめ
だと思った。
「お母さま、どこへゆきますの」
 宇乃が訊いた。母親が答えた。
「え、ああ、宮本さまよ」
「ただゆけばよろしいの」
「あなた、いっておくれか」
 母親は家へ戻りたいようすであった。それが宇乃にはよくわかった。宇乃は云った。
「ええ大丈夫よ、お母さま」
「ではそうしておくれ」
 母親は握っていた虎之助の手を宇乃にわたした。そしてなにか云いたげに、娘のほうをす
かし見たが、虎之助を押しやって云った。
「いっておくれ」
 彼女は家のほうへ引返した。
 宇乃は弟の手を握って、闇のなかを歩いていった。虎之助の手はふるえていた。彼も幼な
いなりに、ようやく不安を感じだし、それをがまんしているのだということが、宇乃にわか
った。
 宮本又市は三百石の無役《むやく》で、無役のまま藩主綱宗の側近に仕えていた。住居は
小者長屋の近くにあった。姉弟が掃除井戸のところまでいったとき、向うから走って来た者
があった。足袋はだしだったので、足音が聞えず、宇乃がそうと気づいて、よけようとした
とき、激しく突当られてよろめいた。
「お姉さま」と虎之助が叫んで、姉にしがみついた。
 相手もびっくりしたらしい、脇のほうへよけながら、かすれた声で云った。
「誰だ、――」
 宇乃はその声を知っていた。それは宮本又市の弟で、十六歳になる新八の声であった。宇
乃は虎之助を抱きよせながら云った。
「わたくしと弟ですの」
「宇乃さんか」新八は喘《あえ》いで、宇乃のほうへ近よった。
「宇乃さん、貴女《あなた》の家へゆくところだ」
「わたくしも」
「えっ、貴女も――」
 新八が荒い息をした。宇乃が弟といっしょに出て来たことで、彼には事情がわかったらし
い。新八は絶望したように云った。
「ではだめだ、外へ出よう」
「外へですって」
0024名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2020/01/06(月) 19:44:53.51ID:1/zcjCYL
「大変なことが起こるらしい、兄は畑さんに知らせて、それから浜屋敷の渡辺さんのところ
へゆけと云った」
「わたくし弟といっしょですの」
「不浄門から出よう」
 宇乃は弟をひきよせた。
「さあ虎之助さん、あたしに負ぶさるのよ」
「いやだ、自分で歩くよ」
 虎之助は姉の手を拒《こば》んだ。
 新八がせきたて、いっしょに走りだしたが、すぐに五人の人たちにゆくてを塞《ふさ》が
れた。かれらはお厩《うまや》のほうから来た。提灯《ちょうちん》を持った二人の小者と
、ほかに侍が三人いた。かれらはとつぜんお厩のほうから現われて、こちらの三人をとり巻
いた。
 新八は畑姉弟をうしろに庇《かば》った。虎之助は姉にしがみついた。
「こんな処でなにしている」と侍の一人が云った。
 小者たちが左右から提灯をさしつけた。呼びかけた侍は三十歳ばかりで、固肥《かたぶと
》りの小柄な男だった。声は低く、穏やかであった。
「私は、私たちは、――」
 新八は吃《ども》った。すると侍が宇乃に云った。
「そちらは畑どのの御姉弟だな」
「ええそうです」と新八が吃りながら云った、「そして私は、宮本の新八です」
 侍は宇乃を見、新八を見た。
「私は原田家の村山喜兵衛という者だが」とその侍は新八に云った、「こんな時刻にこんな
処でなにをしているのだ」
「私にはわかりません」新八はふるえながら云った、「私は兄に云われて、客が二人来たの
ですが、兄は私に畑さんへ知らせにゆけと云ったのです、畑さんへ知らせて、それから浜屋
敷へゆけと云われたので」
「こんな時刻にか」と村山喜兵衛が云った、「こんな時刻に御門を出られると思うのか」
「不浄門から出るつもりでした。不浄門に兄の知っている人がいるものですから」
「いったいそれは、――」ともう一人の侍が云った、「それはどういうことだ、なにがあっ
たのだ、なんのために浜屋敷などへゆくのだ」
「わかりません」と新八はまた吃った、彼の声はいまにも泣きだしそうに聞えた、「兄のと
ころへ客が来たのです、私にはわかりませんけれど、なにか大変なことが起こりそうでした
、兄のようすではなにか尋常でないことが起こるように思えました」
「矢崎、――」と村山喜兵衛がもう一人の侍を見た。矢崎という若侍は頷《うなず》いて、
小走りに向うへ走っていった。村山喜兵衛は新八に云った。
「こちらへおいでなさい」
「どうするんですか」
「いまようすを見にやったから、どんなぐあいかわかるまで、向うで待つがいいだろう」
 村山喜兵衛は虎之助のほうへ歩みよった。
「坊、いっしょにおじさんのうちへゆこう」
 虎之助は姉を見た。喜兵衛は跼《かが》んで云った。
「抱いていってやろう」
「歩いていく」と虎之助は云った。
 村山喜兵衛は、三人を、自分の小屋へつれていった。それは、宿老原田甲斐の住居に付属
する、長屋の一と棟であった。
 三人は部屋へあがった。新八はひどく昂奮《こうふん》していた。顔色もまっ蒼《さお》
だし、唇も白く乾いて、そうして、絶えずぶるぶると躯をふるわせていた。灯のあかりでそ
のようすを見て、宇乃はまた自分はしっかりしていなければならない、と思った。
「おうちへ帰ろう」
 虎之助がそっと云った。宇乃は弟の背中をさすった。
「おとなしくしていてね」
「おうちへ帰ろう」
「そんなことを云わないの、もうすぐお母さまが迎えにいらっしゃってよ」
「お母さまが来るのか」
「ええ、いらっしゃるわ」
 村山喜兵衛は戸口にいた。
 虎之助が云った。
「お母さま、ほんとに、迎えに来るのか」
「そうよ、だからおとなしく待ってるのよ」
「泣かないでか」
0025名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2020/01/06(月) 19:45:34.12ID:1/zcjCYL
 宇乃は聞き耳をたてた。
 戸口にいた村山喜兵衛が、戸口から出ていった。矢崎という侍が戻ったらしい、小屋は狭
いので、戸口の外で二人の話すのが、宇乃の耳にもあらまし聞えて来た。宮本新八は立とう
とした。彼にも聞えたのか、それとも聞くために出ようとしたのか、立ちかけて、宇乃の顔
を見た。
 宇乃はそっと首を振った。
 新八はそのまま坐った。
「二人とも斬られたって」
 戸口の外で、村山喜兵衛が云った。
「どちらもです」
 矢崎|舎人《とねり》が云った。彼は喜兵衛よりずっと若く、まだ二十一歳であった。
「宮本又市も畑与右衛門も斬られました、畑では妻女も斬られたそうです」
「妻女まで斬った」
「邪魔をしたので斬られたということです」
「なに者が斬ったのだ」
「わかりません」と矢崎舎人が云った、「畑どのへ来たのは三人、宮本へ来たのは二人、ど
ちらも家人の知らない顔で、名もなのらなかったといいます」
「意趣も云わずにか」
「いや、上意討だと云ったそうです」
「上意討だって、――」と村山喜兵衛が訊き返した。
「たしかに、両家ともそう云ったといっています」
「ばかなことを」と喜兵衛が云った、「殿は昨日、御逼塞になった、お上《かみ》といえる
のは御幼君だけだ、まだお二歳《ふたつ》の亀千代さまが、そんなことをお命じになるわけ
はない」
「かれらはそう申したということです」
「これは穏やかでないぞ」と村山喜兵衛が云った、「昨日の今日、上意を僣称《せんしょう
》してこんな事が起こるのは尋常ではない、おれはすぐ御家老に申上げよう、あの三人をた
のむぞ」
「承知しました」
「誰が来ても渡すな」
「承知しました」と矢崎舎人が云った。
 村山喜兵衛はそのまま、原田家の住居のほうへ去った。部屋の中で、新八と宇乃はこれを
聞いた。全部ではないが要点は殆んど聞きとれた。新八はまた宇乃を見た。宇乃はしずかな
動作で、そっと弟の肩を抱きよせ、そうして、なだめるように云った。
「そうよ、泣かないでね」
 虎之助は姉を見あげた。彼はすっかり眠そうな顔をしていた。

[#3字下げ]女客[#「女客」は中見出し]

 七月二十五日の早朝。
 原田|甲斐宗輔《かいむねすけ》は、自分の居間で手紙を書いていた。彼は六尺ちかい背
丈で、色の浅黒い、温和な顔だちをしている。濃い眉はやや尻あがりであるが、静かな色を
湛えた眼は尻さがりであった。おもながで、額が高く、その額に三筋の皺《しわ》があり、
その皺が四十二歳という年齢を示しているようであった。
 甲斐は黙っていると四十五六にみえる。彼はあまりものを云わない、たいていのばあい黙
って、人にしゃべらせている。話しをするときにも饒舌《じょうぜつ》ではないし、決定的
な表現は殆んどしなかった。彼は稀《まれ》にしか笑わないし、それも声をあげて笑うよう
なことはない。一文字なりの、かなり大きな唇と、その尻さがりの穏やかな眼で微笑するく
らいであるが、眼尻《めじり》に皺のよる眼のなごやかな色と、唇のあいだからみえるまっ
白な歯とは、ひどく人をひきつける。そんなとき彼は、三十四五にも、また、三十そこそこ
のようにも若くみえた。
 甲斐は手紙を書いていた。机は北向きの窓の下にあり、あけてある窓の外に、矢竹《やだ
け》が茂っていた。時刻は五時。戸外はかなり濃い霧で、矢竹の葉はびっしょりと濡れ、そ
よとも動かず、重たげに垂れていた。
 ――自分が江戸へ来たのは、去年の六月だから、この五月が御番あけであった。
 甲斐はそう書いていた。
 ――御番があけて帰国したら、おめにかかって申上げるつもりだった。しかし御承知のよ
うな大変が起こって、まだしばらくは帰国ができないようである。そこで、こんど里見十左
がくにもとへ使者に立つというので、それに託して近況をお知らせする。
 甲斐はそう書いた。
0026名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2020/01/06(月) 19:47:06.56ID:1/zcjCYL
 彼が手紙を書いている居間の、ひと間おいた向うの座敷から、高い話し声が聞えて来る。
一人は伊東七十郎であった。そのよくとおる、傍若無人な声で、伊東七十郎だということは
すぐにわかった。
「いったい、なんだって決闘なんか申し込んだんだ」と七十郎の云うのが聞えた。
「このおれに意見をしおった」と相手の云うのが聞えた。
 それは里見十左衛門の声であった。その声には、実直で頑固な性分がよくあらわれていた

「へえ、あの新参者がか」
「あの新参者がだ」と十左が云った、「知ってのとおり、おれは堀普請の目付《めつけ》役
をしておる、坂本も相い役だったが、――おれのところへやって来おって、小日向《こびな
た》の普請小屋に、不取締りのことがあるから、注意するようにと申しおった」
「斬ってしまえばよかった」
「それでおれはどなった」
「おれなら、そのとき斬ってしまう」
 七十郎のそう云うのが聞えた。甲斐は手紙を書いていた。
 いま甲斐の書いている手紙は、茂庭佐月《もにわさつき》に送るものであった。佐月は周
防定元《すおうさだもと》[#1段階小さな文字](現に国老)[#小さな文字終わり]の
父で、周防|良元《よしもと》といい、やはり国老を勤めていたが、いまでは隠居して、く
にもとの志田郡松山の館《たて》に、ひきこもっていた。
 ――七月十八日、酒井邸へ召されて、殿さま逼塞の沙汰があったこと、それから連日連夜
の重臣会議や、十九日夜、坂本、渡辺、畑、宮本ら四人が刺殺されたことなどは、すでに御
子息の周防どのから、使者で申上げたと思う。
 甲斐はそのように書いた。ひと間おいた向うの座敷では、里見十左衛門がなお話していた
。むきになったその声は、こちらの居間までよく聞えてくる、十左はこう云っていた。
「おれはどなりつけた、おれは忠宗《ただむね》さま御代から二十余年、ずっと目付役を勤
めておる、きさまのような新参者に意見されるほど、不鍛練な人間ではない」
「おれなら、その場で斬ってしまうよ」
「すると坂本八郎左、まっ赤になった、まっ赤になりおって、かように面罵《めんば》され
ては男の道が立たぬ、と申した、そうか、とおれは云った、そうか、男の道が立たぬか、そ
れなら男の道の立つようにしてやろう、とおれは云った、まず場所と時刻をきめよう」
「それで殿へ訴えたのか」七十郎のそう云うのが聞えた。
「やつめ、宿老に泣訴《きゅうそ》し、殿のお袖にすがりおった」
「それでおしまいさ」
 七十郎が笑った。十左はさらに云った。
「おれは怒ったのではない、彼を怒らせたかったのだ、そうして決闘へもってゆきたかった
のだ、それをあの八郎左め」
「即座に斬ればいいんだ」と七十郎が云った、「坂本はむろんのこと、畑も宮本も渡辺も、
もっと早く斬ってしまえばよかった、そうして君側の奸《かん》を除けば、殿の御逼塞など
ということにはならなかったろう」
「そこもとは身軽だからそう云えるのだ」
「殿が御逼塞になってから斬るくらいなら、そのまえに斬るのが当然じゃないか」
「そこもとは身軽だから、そう簡単に云うことができる」
 と十左が云った。すると七十郎が云った。
「ばかをいえ、もともと侍の身命は軽いものだ」
「おかしなことを云うぞ」
「なにがおかしい、義に当面すれば、身命を鴻毛《こうもう》よりも軽《かろ》しとするの
が、侍の本分ではないか」
「おかしなことを申す」と十左が云った、「それではおれが、身命を惜しんだように聞える
ぞ」
「これは一般論だ」
「いやそうではあるまい」
 十左の声が高くなった。甲斐はちょっと筆をとめた。筆をとめて、十左と七十郎の高ごえ
を聞き、あるかなきかに頬笑んだ。
「二人よればすぐに始まる」と彼は呟《つぶや》いた。
「困ったお国ぶりだ」
 そしてまた手紙に向かった。
0027名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2020/01/06(月) 19:47:37.81ID:1/zcjCYL
 ――自分は筋目《すじめ》の家柄ではあるが、まだ評定役《ひょうじょうやく》でしかな
いし、それに考えることもあるので、重臣会議にはなるべく出ないようにしている。聞くと
ころによると、会議は殆んど一ノ関[#1段階小さな文字](伊達兵部少輔宗勝)[#小さ
な文字終わり]さまの自由にされているらしい。御承知のように一ノ関さまは、酒井侯と昵
懇《じっこん》のうえ、姻戚《いんせき》関係にもあることだし、酒井侯はまた幕府閣老の
なかでも権勢のさかんな人であるため、一ノ関さまの発言には、誰も正面から反対ができな
いもようである。
 甲斐がそこまで書いたとき、向うの座敷の声がさらに高くなり、里見十左衛門のかん高く
どなるのが聞えた。伊東七十郎の声も高いが、それは平然として動じない調子をもっていた

「こらえ性のない男だな、なにをそう喚くんだ」と七十郎が云った。十左が喚き返した。
「そのもとはなんだ、そのもとは伊達家でどんな身分の人間だ、どれだけの身分でおれにそ
ういうことを云うんだ」
「おれはどんな身分でもない」と七十郎が云った、「おれは小野の館の厄介者だ、隠れもな
い、おれは伊東新左衛門の厄介者だ、そんなことは誰でも知っているさ」
「その厄介者がおれにそんな口をきくのか」
「そう怒るな、まあそう怒るな、おれはつまりこう云いたかったんだ」
 甲斐は書きつづけていた。
 ――自分が重臣会議に出ないようにしているのは、一門宿老の確執反目にまきこまれたく
ないのと、これが要《かなめ》という大事をしっかり見ていたいためである。
 たとえば七月十九日夜の、四人刺殺の件にしても、誰が命じたものかいまだにわからない
。刺客は十人ないし十一人らしい、だが姓名のわかっているのは、渡辺金兵衛、渡辺七兵衛
、そして小者の万右衛門、という三人だけである。かれらは「上意討である」と云ったそう
でこれは明らかに僣称であるが、重臣会議では、結局この件はうやむやに終るらしい。理由
は、刺殺された四人は殿さまに放蕩《ほうとう》をすすめ、それがもとで御逼塞という大事
にいたらしめた奸臣《かんしん》だから、というのである。殿を誤らせた奸物。それだけの
理由で、いちどの審問もなく、ふいに襲うて刺殺するという法はない。しかし会議の席で一
ノ関さまはこう発言された。
 ――金兵衛らはよくやった。
 それで重臣の人々は黙した。
 ――金兵衛らはよくやった。
 一ノ関さまのその一と言に、誰も異議をさしはさむ人がなかった。坂本ら四人は討たれ損
、刺客どもの責任は不問。そして宿老の一人は云った。
 ――詮索《せんさく》すればなにが出てくるかわからないし、こんな事で悶着《もんちゃ
く》を起こすときではない。
 この点に重要な問題がある。自分がいま一例として挙げたこの件にこそ、一門宿老の複雑
な関係と、それが深い禍根をなしていること、また、ひいては綱宗さま逼塞という大事にも
及んでいることの、もっとも端的なあらわれがあると思う。
 甲斐がそこまで書いたとき、次の間でひくい咳《せき》ばらいをし、申上げますという声
が聞えた。
 甲斐は「うん」といった。
 襖をあけたのは、家扶《かふ》の堀内|惣左衛門《そうざえもん》であった。甲斐は筆を
とめて振返った。
「湯島がみえました」と惣左衛門が云った。甲斐は黙って惣左衛門の顔を見た。惣左衛門は
云った。
「おくみ[#「くみ」に傍点]どのでございます」
「いまなん刻《どき》だ」
 甲斐はごく僅か眉をしかめた。すると額の皺《しわ》がはっきりあらわれた。
「やがて六時になります」
「用を聞いておいてくれ」と甲斐が云った。惣左衛門は当惑したように云った。
「おめにかかりたいと申しておられます」
「用を云わないのか」
「おめにかからなければ、と申しておられます」
 甲斐は窓のほうへ眼をやり、それから云った。
「では待たせておけ」
0028名無しさん@お腹いっぱい。
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2020/01/06(月) 19:56:10.31ID:1/zcjCYL
 惣左衛門は襖を閉めて去り、甲斐はまた書き継いだ。
 ――宿老の人達の、十余年にわたる権勢あらそいは、現に貴方の知っておられるとおりで
ある。お国びとの忠誠に疑いはないが、その性の頑固一徹で、我執の激しさ、利己心の強さ
はかくべつである。そのために排他的な徒党がうまれ、それが離合集散をくりかえし、反目
と誹謗《ひぼう》がいりみだれて、事が起こっても、殆んどその是非の判断がつかないよう
なありさまであった。さらにそこへ、兵部少輔宗勝《ひょうぶしょうゆうむねかつ》という
人の存在が、大きく、重くのしかかって来た。これが宿老から家中一般の不和反目を、いっ
そう複雑にしたことは事実で、なにか事が起こるたびに、その弊害のはなはだしさが表面に
あらわれる。こんど里見十左衛門が使者に立つのは、家督の君を選ぶために、在国の一門一
家重臣に「入れ札」を求めるわけであるが、これまた一ノ関さまの主唱であり、異議なく一
決したものであった。
 ――ここをよく記憶しておいてもらいたいのである。
 甲斐はそうつづけた。
 ――一ノ関さまの存在が、このように重くなったのは、御先代[#1段階小さな文字](
忠宗)[#小さな文字終わり]の御他界このかたである。御他界のおり、みまいに来られた
水府[#1段階小さな文字](水戸|頼房《よりふさ》)[#小さな文字終わり]卿が、「
つな宗どの若年なれば、兵部どのにはよくよく家中の取締りをたのむ」と仰せられたそうで
、これが一ノ関さまの立場を決定的にした、といってもよいであろう。古内主膳《ふるうち
しゅぜん》[#1段階小さな文字](故国老)[#小さな文字終わり]どのが御先代に殉死
されるとき、「兵部さまのことが気がかりでならない、よくよく注意せよ」と遺言されたが
、それから僅か二年、どうやらすでにその懸念があらわれはじめたように思われる。
 ――これまで自分は、幸いにして紛争の局外にいることができた。これからもできるだけ
局外に立って、事のなりゆきを見まもっているつもりである。世継の君が決定しても、それ
で一藩が平安におさまるとは思えない。不測の事の起こる心配は、むしろそのあとにあると
考えられるが、これについては、帰国のうえで申上げることにする。
 甲斐はそこで筆をとめた。彼は初めから読み返し、結びの挨拶を書くと、筆を措《お》い
て、その手紙を封じ、それから、硯箱《すずりばこ》の脇にある鈴を取って振った。
 次の間に答えがあり、矢崎|舎人《とねり》が襖をあけた。
「里見どのをこれへ」と甲斐が云った。
 舎人が承知してさがると、すぐに里見十左衛門が来た。年は四十六歳なのだが、五十以上
にも老けてみえる、色の黒い、骨ばった、ごつごつした躯つきで、癇《かん》の強そうな顔
をしていた。
「待たせて済まなかった」と甲斐が云った。十左は坐りながら、息張った口ぶりで云った。

「いま七十郎めを緊めてくれました」
 甲斐は封書を渡した。
「では松山へこれを」
「ひと緊め緊めてくれました」
 十左は封書を受け取りながら云った。甲斐は机の上を片づけた、十左はさらに云った。
「あいつ若輩にしては胆力もあり、頭も悪くはないらしいが、厄介者の分際をわきまえぬや
つで、ずにのると暴慢無礼なことを申す、私は元来かれが好きなのですが」
「そうらしいな」と甲斐が云った、そして机の前から立ちあがった。
「ではあちらで、――」
「あの若輩者は手綱をしめておかねばいけません、こなたさまは寛容すぎる、こなたさまは
誰に対しても御寛容すぎます、あまりさもない人間はお近づけなさらぬがよい」
「ではあちらで、――」
 甲斐は次の間へ去った。十左もようやく立ちあがった。
 甲斐は納戸《なんど》へいった。そこには塩沢丹三郎が、着替えの支度をして待っていた
。丹三郎は十五歳になる。成瀬久馬という同じ年の少年と二人、甲斐の身のまわりの世話を
する役で、十日ほどまえに風邪をひき、小屋にさがっていたものであった。
「もういいのか」と甲斐が云った。
「はい、――」
「顔をあげてごらん」
 丹三郎は顔をあげた。甲斐はその額と眼をみて、そして、頷いて云った。
「畑の子供を預けた筈だな」
「はい、――」
「親たちのことを聞かせたか」
「いいえ、聞かせないようにしておりますが、姉のほうは気づいているようすでございます
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2020/01/06(月) 19:56:39.92ID:1/zcjCYL
「悲しがっているか」
「いいえ、そのようにはみえません」
 丹三郎が帯をさしだした。甲斐は帯をしめながら云った。
「いずれ良源院へやるつもりだが、それまで面倒をみてやるようにと、母に申しておけ」
「はい、――」
 丹三郎は暗い顔をした。甲斐はそれを認めて、「どうした」と云った。
「母が哀れがりまして」
 甲斐は「うん」と眼をそらした。
「ふた親を亡くし、私どもで少し馴れましたのに、また知らぬ人の中へやるのは可哀そうだ
、よろしければ、ずっと世話をしてあげたいと、申しております」
「袴は黒にしよう」と甲斐が云った。
 丹三郎は箪笥《たんす》からその袴をとり出した。甲斐が云った。
「今朝の膳《ぜん》は誰と誰だ」
「蜂谷《はちや》さまと伊東さま、里見さまのお三人です」
「では湯島のも出してやれ」
 丹三郎は「はい」と答えた。
 甲斐はそのまま内客の間へいった。おくみ[#「くみ」に傍点]は茶菓を前にして、坐っ
ていた。二十八という年よりは五つ六つも若くみえる。内庭の植込に、もうかなり高くなっ
た朝の日光がつよくさしつけ、その反射で、おくみ[#「くみ」に傍点]のふっくりとした
おもながな顔が、緑色に染っているようにみえた。
「これから朝の飯だ」甲斐は立ったまま云った、「いっしょに食べよう」
「どうなすったのですか」
 おくみ[#「くみ」に傍点]が云った。甲斐は穏やかに彼女を見た。
「いったい、どうなすったのですか」とおくみ[#「くみ」に傍点]は云った。
「もう十五日にもなるのに、お顔もみせて下さらないなんて」
「出られなかったんだ」
「まる十五日もですか」
「飯を食べよう」と甲斐が云った。
「お待ち下さい、そのまえに申上げたいことがございます」
「あとにしてくれ」
「あたしのことではないんです。お国から奥さまがいらしったんです」とおくみ[#「くみ
」に傍点]が云った。甲斐の高い額に、はっきりと皺がよった、彼はけげんそうに、おくみ
[#「くみ」に傍点]の顔を見た。彼女は頷いた。
 甲斐は訊き返した、「なんだって、――」
「ゆうべおそくお着きになったんです」
「奥がか、――」
「中黒さまがお供ですわ」
 甲斐の額の皺が深くなった。彼はひくく「うん」といい、足もとへ眼をおとした。
「なんだろう、――」
「御病気の治療をするために、江戸の良い医者にかかりに来たのだ、と仰しゃっていらっし
ゃいます」
「供は達弥《たつや》だけか」
「あたしの存じあげているのは中黒達弥さまだけですけれど、ほかにお二人、中年の御家来
がごいっしょです」
 甲斐は顔をあげた。おくみ[#「くみ」に傍点]は甲斐の顔を、ぎらぎらするような眼で
見あげた。もう七八年も世話をしているが、彼女がそんな膏《あぶら》ぎった眼つきをする
のは、初めてである。
「あたしにはわかってます」とおくみ[#「くみ」に傍点]は云った、「ごぜんのお帰りが
延びたので逢いにいらしったんですわ、御病気なんて嘘、御病気どころですか、お顔色もい
いし、なが旅をしていらしったのに、ずいぶんお元気ですもの」
「なにを怒ってるんだ」
「怒ってなんかおりません」おくみ[#「くみ」に傍点]は赤くなった。
「怒ってなんかいるもんですか、奥さまがあまりお若くてお美しいので、びっくりしている
んです」
「あれはもう三十七だ」
「あたしは幾つだとお思いになって」
「いって飯を食おう」
「あたしが幾つだか御存じないんでしょ、あたしだってもう二十八ですよ、八年の余もお世
話になっていて、ごぜんはまだいちども」
 甲斐は襖のほうへ歩きだした。
0030名無しさん@お腹いっぱい。
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2020/01/06(月) 19:57:06.85ID:1/zcjCYL
「待って下さい」
「おまえどうかしているぞ」
「ええ、どうかしています」おくみ[#「くみ」に傍点]はすばやく眼を拭いた、「初めて
おめにかかった奥さまが、あんまりお若くっておきれいなので、かっとしてしまったんです
、堪忍して下さい」
「向うへゆこう」
「お客さまはどなたですか」
「伊東七十郎と、里見、蜂谷の三人、みんなおまえの知っている者ばかりだ」
「伊東さまは一昨日おめにかかりました」
「どこで、――」
「湯島へいらっしゃいました、お友達という方とごいっしょに」
 そして「ちょっと顔を直してまいります」と云った。甲斐は襖をあけて去った。

[#3字下げ]朝粥の会[#「朝粥の会」は中見出し]

 原田甲斐はよく朝の食事に人を招いた。
 ――粥《かゆ》をさしあげたい。
 と云って人を招待するのである。これは十年ほどまえからの習慣で、「原田の朝粥《あさ
がゆ》」と、かなりひろく知られていた。もちろん粥を出すわけではない。正餐《せいさん
》ほどではないにしても、ひととおり椀や皿や鉢ものが並ぶし、殆んど例外なしに酒が付い
た。
 客は定《きま》っていなかった。原田は「筋目《すじめ》」といって、国老になる家柄で
あり、柴田郡船岡で四千二百石ほどの館主《たてぬし》である。つまり重臣のひとりだから
、つきあいもひろいが、甲斐は誰にも好かれていた。
 甲斐には敵がなかった。彼は自分ではあまり口をきかず、人の話を聞くほうであった。い
つも穏やかで、感情を表にあらわさないし、乱暴な動作や、高い声をだすようなことも稀《
まれ》にしかなかった。甲斐と対坐していると、人はなごやかな、ゆったりとした気分にな
り、心のなかを残らずうちあけたくなる。どんな秘密なことを話してもこの人なら大丈夫だ
、という気持になるらしい。そして、それがたしかであることは、すでに誰でもよく知って
いた。
 それが「朝粥の会」によくあらわれた。
 客はさまざまであった。重臣たちも多いが、身分の軽い者も少なくなかった。甲斐はどち
らとも公平につきあった。身分によって態度や言葉つきを変えるようなことは決してなかっ
た。重臣たちのあいだには、いろいろな事情で、仲のよくない者や、反目しあっている者が
あり、ふだんは出会っても顔をそむけるか、すぐ口論になるかするのであるが、そんな人た
ちでも、ふしぎに「朝粥の会」には出るし、そこで声を荒げるような例は、殆んどなかった

 その朝の客は三人、――仙台へ使者に立つ里見十左衛門と、蜂谷六左衛門に伊東七十郎と
いう顔ぶれで、それにおくみ[#「くみ」に傍点]が加わった。蜂谷は四百石の物頭《もの
がしら》で、去年から江戸|定番《じょうばん》になって来ていた。伊東七十郎は伊達の家
臣ではなかった。
 桃生《ものお》郡小野に、二千七百石で、伊東新左衛門という館主がいる。やはり「筋目
」であるが、七十郎はその新左衛門の妻の弟であった。彼はいま二十七歳になる。ずっとま
えから、義兄の縁で、伊達藩の諸家へ出入りをしていた。ことに原田家はいごこちがいいと
みえ、船岡の館でもそうだし、江戸のばあいでもしばしば原田家に滞在した。七十郎は多能
多才で、弓、馬、刀、槍となんでもやる。また会津藩の小櫃《こびつ》与五右衛門と、幕臣
の山下甚五左衛門から兵学をまなび、そのほうでも一見識をもっていた。彼は奔放なたちで
、ひとところにじっとしていない。仙台、江戸、京、大阪、また北は津軽から南部、越後あ
たりまで気がるに歩きまわるのであった。
 甲斐が席についたとき、もうそこでは酒がはじまっていた。七十郎がそうしたらしい。成
瀬久馬と、あとから塩沢丹三郎が給仕に坐った。里見十左衛門はむずかしい顔をして、まっ
四角に構え、七十郎は蜂谷になにか話していたが、おくみ[#「くみ」に傍点]が来て坐る
と「お」と云った。
「今日は客なんだ」と甲斐が云った、「たまには女客もよかろう」「お酌をいたしますわ」
「いや坐っておいで」と甲斐が云った、「おくみ[#「くみ」に傍点]は今日は客だ、七十
郎などは酌をする義理があるんじゃないのか」「義理はともかく酌はよろこんでしますね」
と七十郎が云った。
0031名無しさん@お腹いっぱい。
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2020/01/06(月) 19:58:31.84ID:1/zcjCYL
 おくみ[#「くみ」に傍点]は十左と蜂谷に会釈をした。二人はそれぞれ会釈を返した。
かれらはみなおくみ[#「くみ」に傍点]を知っていた。おくみ[#「くみ」に傍点]の湯
島の家で、しばしば馳走になっているので、甲斐とおくみ[#「くみ」に傍点]との片づか
ない関係もわかっていた。しかし、ここで彼女に逢うのは初めてであった。
「里見さん怒らないかね」と七十郎が云った、「藩家の大変で、重臣諸公は蒼《あお》くな
り、会議、密議とごった返しているのに、ここでは朝から酒肴《しゅこう》をならべ、おま
けに美人まで御臨席とある、これで里見老の怒らない道理はないと思うがね」
「それなら自分で怒ったらどうだ」と十左が云った、「私は昔から船岡どのをよく知ってお
る、会議だの寄合いだのと騒ぐばかりが能ではない、船岡どのがどういう人物であるかは、
そこもとなどには理解の外《ほか》のことだ、いやなら退席するがいいだろう」
「私は里見さんが好きだ」と七十郎は云った、「里見さんは冗談がわからない、私はその冗
談のわからないところが好きだ、いったい仙台藩には冗談のわからない人間が多いけれども
、里見さんほど生一本で、混りけなしに冗談のわからない人は珍らしい、生死をともにする
というのは里見さんのような人だと思うな」
「それも冗談か」と十左が云った。
 するとおくみ[#「くみ」に傍点]が成瀬久馬から銚子《ちょうし》を取って立ち、十左
の前へいって坐った。
「失礼ですけれど、どうぞ」
「たのむ、救いの神だ」と七十郎が云った。
 十左はそれを睨《にら》みつけて、盃《さかずき》をおくみ[#「くみ」に傍点]のほう
へ出した。七十郎は閉口するようすもなく、こんどは甲斐に向かって、新吉原へいって来ま
したよ、などと話しだした。甲斐は聞くとも聞かぬともはっきりしない表情で、黙って静か
に飲んでいる。七十郎は云った。
「京町の山本屋という店で、薫《かおる》という名の、きれいな妓《おんな》を、御存じで
しょう」
「それは、――」と蜂谷がおどろいたように云った、「それは殿のおかよいなされた遊女で
はありませんか」
「原田さん御存じでしょう」と七十郎は云った、「年は十九だといっていますがね、本当は
十六かせいぜい十七というところでしょうな、うれい顔で、しんとした、陰気な妓ですよ」

「つまり湯島へ寄ったのはその帰りですか」と甲斐が云った。
「はぐらかしますね」七十郎は微笑して云った、「これはまじめな話です、私は侯のおもい
ものというのが見たかった、なにしろ奥州六十万石の領主を棒にふらせた妓ですからね、ど
んな美人か拝見したかったし、侯の御執心ぶりも聞いてみたかった」
 十左がまた彼を睨んだ、しかし七十郎は知らぬ顔でつづけた。
「ところが驚いたことに、妓は侯をまるで知らないんです。毎日かよって来る客はいくらも
あるし、中国へんのなにがし侯などは二年もかよいつめているそうですがね、これが仙台侯
と思い当るような人はいないというんです」
「そうだとすると」と十左が云った、「売女《ばいた》などにも口の軽いものばかりはいな
いとみえるな」
「ああいうところでは」とおくみ[#「くみ」に傍点]がいそいで云った、「お客さまのこ
とは決して話さないものだそうです、ことに御身分のある方ならなおさらでしょう」
「そのくらいのことを知らずに、この私が曲輪《くるわ》へいったと思うのかね、とんでも
ない、妓は本当に知らないんだ、ねえ、そうでしょう原田さん、貴方《あなた》はそれを御
存じの筈だ」
 甲斐は「う」といって彼を見た。
「なにか云ったか」
「貴方は、――」
 七十郎は盃を置いた。甲斐は静かに彼の眼をみつめた。あたたかい光を湛えた、静かな視
線であった。七十郎は眼をそらした。
0032名無しさん@お腹いっぱい。
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2020/01/06(月) 20:01:30.95ID:1/zcjCYL
 七十郎は盃を置いた。甲斐は静かに彼の眼をみつめた。あたたかい光を湛えた、静かな視
線であった。七十郎は眼をそらした。
「貴方にはかなわない」と彼は云った、「だが、これだけははっきりさせておきます、侯が
幕府から逼塞を命ぜられた理由は、侯が薫という遊女にのぼせて、放蕩に身をもち崩したか
らだということです、しかし実際はどうかというと、侯が京町へかよわれたのは僅かに八日
か九日、それもただ酒を飲んで帰られただけで、相手の妓は侯がたれびとであるかも知らず
、お顔さえよく覚えてはいないんです。いったいこれが放蕩といえるでしょうか」
 七十郎はすばやく十左の顔を見た。
「曲輪がよいをする諸侯はいくらでもいます」と七十郎は云った、「名をあげてもよろしい
、五人や七人はすぐあげることができますよ、いま云った中国筋の、薫という妓にかよいつ
めている大名、それから榊原《さかきばら》」
「おくみ[#「くみ」に傍点]、酌をしてやれ」と甲斐が云った。
「よろしい、わかりました」七十郎はおくみ[#「くみ」に傍点]に頷いた、「他家のこと
はやめましょう、ただ、諸侯のなかにも曲輪がよいをする人はたくさんあるし、珍らしい例
ではないということを忘れないで下さい、――にもかかわらず、侯だけが譴責された、六十
万石の、まだ二十歳そこそこの若い大守が、僅か八日か九日、お忍びで曲輪へかよったとい
うだけで、放蕩とか身をもち崩したとかいうのはおかしい、しかも、十日目には早くも、老
中の酒井|雅楽頭《うたのかみ》から注意が来ている、――十日目にですよ、いったい雅楽
頭はどうしてそれを知ったんですか、雅楽頭は新吉原の目付でもしているんですかね」
 甲斐が云った、「やっぱり七十郎は酒が足りないようだ、おくみ[#「くみ」に傍点]、
おまえ酌をしてやらないか」
「痛いですか原田さん」と七十郎は云った。
 甲斐は穏やかな眼で彼を見た。
「痛いんですね」と七十郎は唇で笑った、「しかしもう少し云わせて下さい、侯にはたしか
に酒癖がある、そのために酒を断っておられたし飲みはじめてからはだいぶ諸方から小言が
出た、去年あたりは水戸家からも意見されたそうですがね、ではどんな御乱行かというとこ
れといって数えるほどのことはない、飲みはじめるとだらしがなくなるという程度でしょう
、なにしろまだお若いのだし、おまけにそばからすすめる者さえあった、――なにか仰しゃ
いましたか」
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2020/01/06(月) 20:02:00.83ID:1/zcjCYL
 七十郎は甲斐を見た。甲斐はよそ見をしたまま「いや」と首を振った。
「そうですか」と七十郎は頷いた、「私はまた口止めされたかと思いました」
「そう思ったらやめるがいい」と里見十左衛門が云った。
「あんたにも痛いのか」
「少ししゃべりすぎるというのだ」
「では里見さんが発言するか」
 七十郎の顔が赤くなった。
「あんたは知っている筈だ」と七十郎は十左に云った、「禁酒しておられた侯に、誰が酒を
すすめたか、誰が侯を曲輪へつれ出したか、こんどの大事で責任をとらなければならない人
間が誰であるか、里見さん、あんたは知っている筈だし、その人間を憎んでいる筈だ」
「おれが誰を憎んでいるって」
「黒川郡吉岡の館主《たてぬし》奥山大学どの、げんざい江戸家老の第一人者をさ」
 七十郎の言葉は十左と蜂谷を驚かした。甲斐は眉も動かさなかったが、十左と蜂谷とはほ
とんど色を変えた。
 いま江戸家老[#1段階小さな文字](伊達家では「奉行」といった)[#小さな文字終
わり]は四人いる。茂庭周防、奥山大学、古内肥後、大条兵庫であるが、そのうち奥山大学
がもっとも年長であり、また強い権勢をもっていた。大学はもともと剛愎《ごうふく》な独
善家だったが、さらに藩家の一門である伊達兵部少輔から信任され、四国老のなかでは、誰
よりも大きな権力と威勢を張っていた。
「ちがいますか里見さん」と七十郎は続けた、「もっともあんただけではない、これは御家
中の多くのかたがたが知っていることだ、侯が悪いのではなく、責任は他にある、責任のあ
る人たちが、侯のことをよそにして、各自の権力の拡張に没頭していた、各自の権力を拡張
するために、侯を利用しさえした、もしも侯に、幕府から譴責されるほどの不行跡があった
とすれば、それを傍観していた重臣のかたがたに責任がある筈だ、ところが、――雅楽頭か
ら注意があると、まるでそれを待っていたかのように、すぐさま、重臣会議をひらいて、侯
の隠居をきめてしまった、むつの守《かみ》綱宗公は、おと年《とし》、万治元年九月に家
督されてから、まる二年にもならぬのに、早くも御隠居ときめられたのですよ」
 里見十左衛門の四角に構えた躯《からだ》が、感情の激しい動揺のために、こまかくふる
えだし、温和な蜂谷六左衛門は途方にくれたように、ぎごちなく持った盃に眼をおとした。

「それもいい、隠居願いがとおればまだしもだったが、幕府はそれをにぎりつぶして、なん
と、逼塞という手を打って来た、――かねて不行跡のおもむき、上聞に達して、という、八
日か九日の曲輪がよいが将軍家に知られたという、いかに形式とはいいながらあまりにばか
ばかしい、かてて加えて、渡辺、坂本、畑、宮本の四人が、侯に放蕩をすすめたという理由
で暗殺された、それも上意討という名目でです」と七十郎はなお続けた、「かれら四人は忠
臣ではなかったかもしれない、坂本八郎左などは、――さっき聞いたばかりだが、里見さん
でさえ斬ろうとしたことがあるそうだ、おそらく、曲輪などへ供をしたのも事実でしょう、
けれども、その罪を糾明もせずに、いきなり暗殺するという法はない、しかも暗殺者たちは
上意討だと云ったそうです、上意とはいったい誰の意志ですか、侯が逼塞になり、まだ跡式
のきまらない現在、上意といえる人がいるんですか、原田さん、暗殺者たちが上意と云った
、その人が誰だか、聞かせてくれませんか」
「貴方は御存じでしょう」と七十郎はさらにたたみかけた、「その人は誰ですか、原田さん
、伊達家六十万石の藩主に代って、上意と云うことのできるのは誰ですか、聞かせてもらえ
ませんか」
 甲斐の額に皺がよった。
「わかったよ」と甲斐は微笑した。やや尻下りの眼が細くなり、唇のあいだから、白いきれ
いな歯が見えた。いかにもなごやかな、温かい微笑である。「もうそのくらいでいい」と甲
斐は云った、「七十郎が武芸の達者で、兵学にくわしくって、放浪癖があって、酒が強くっ
て、女に好かれるということはよくわかっている、しかしもういい、――飲まないか」
 七十郎は甲斐の顔をみつめた。その眼は刺すようにするどかったが、しだいに嘆賞の色を
おびてきた。彼は太息《といき》をつき、甲斐に向かって微笑した。
「飲みますとも」と七十郎は盃を取った、「しかし、もうひと言だけ訊《き》いていいです
か」
 甲斐は七十郎を見た。七十郎は云った。
「貴方はいったいなにを考えているんです」
0034名無しさん@お腹いっぱい。
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2020/01/06(月) 20:09:18.58ID:1/zcjCYL
 甲斐は七十郎を見た。七十郎は云った。
「貴方はいったいなにを考えているんです」
「そうだね、――」と甲斐はおくみ[#「くみ」に傍点]を見た、「まずこのおくみ[#「
くみ」に傍点]と、もう一人の女のことだろうかね」
「もう一人ですって」とおくみ[#「くみ」に傍点]が振返った。おくみ[#「くみ」に傍
点]は甲斐が、出府して来た妻女のことを云うのかと思い、それは云ってはいけない筈だと
、眼がおで注意した。
「ああ、もう一人」と甲斐は云った、「七十郎に云われるかと思ってはらはらしていたんだ
、このあいださる人にさそわれて、新吉原へゆきましてね、偶然なんだが、それが山本屋と
いう店だった」
「まあ、曲輪へいらしったんですか」
「人にさそわれたんだ」
「御用で出られなかったと仰しゃったじゃあございませんか」
「ひとつやろう」甲斐は盃をおくみ[#「くみ」に傍点]にさした。おくみ[#「くみ」に
傍点]は盃には眼もくれなかった。
「御用で出られなかったって、湯島へは半月もいらっしゃらなかったのに、曲輪へいらっし
ゃるひまはおありになったんですか」
「この話しはよそう」と甲斐は云った、「おまえの罪だぞ、七十郎、おまえがへんなことを
訊いたからだ」
「貴方には負けます」
「飯にしようか」
「貴方には負けです原田さん、だがいいですか、私はいつか貴方から本音をひきだしてみせ
ますよ、いつかはね、必ずですよ」
「飯にしよう、丹三郎」と甲斐が云った。
「それがようございましょう」とおくみ[#「くみ」に傍点]が云った、「ですけれど、曲
輪へいらっしった話しは、これで済んだのでございませんからね」
「今朝の会は、充実した話しが多かったようですな」と甲斐が云った。
 みんなが笑った。七十郎は笑いながら、しかし原田さんはみんなうまく躱《かわ》しまし
たよ、と云った。里見十左衛門は黙っていた。
 蜂谷やおくみ[#「くみ」に傍点]や、給仕の少年たちは、ぎらぎらするような話題から
解放されて、みんなほっとしたような顔になった。だが十左だけは、暗く重苦しげな表情で
、ひとりだけなにか思いつめていた。単直でいちずな彼の性分には、七十郎の言葉はあまり
に重大すぎたし、その内容と、暗示するものとに圧倒された。
 ことに、――貴方は奥山大学を憎んでいる、と云われたことが、十左の肝にこたえた。十
左は奥山大学を憎んでいた、大学が兵部宗勝をうしろ盾にして、勝手な横車を押しとおすあ
りさまは眼に余った。
 ――御家《おいえ》を毒するやつだ。
 十左はそう思っていたが、それは心の中のことで、誰に話したこともなく、また人に話す
ようなことでもない。それを七十郎はむぞうさに云い当てた。この男にはゆだんがならぬぞ
、と十左は心の中で呟いた。
 成瀬久馬と塩沢丹三郎が食事をはこんで来た。蜂谷は小鉢の味噌を味わって、これは珍ら
しいと声をあげた。
「これはくるみ味噌でございますね」
「そうです」と甲斐が云った、「味はどうですか」
「結構でございます、うもうございますね、久しぶりで故郷の味にめぐりあいました」
「湯島でも出ましたな」と七十郎がおくみ[#「くみ」に傍点]を見た。
「船岡で作るんだ」と甲斐が云った。
 おくみ[#「くみ」に傍点]があとを続けた。
「船岡で作ってこちらへ送って来るのを、わたくしの実家の雁屋《かりや》で売るんですの

「売るんですって」
「しょうばいを始めたんだ」と甲斐が云った。七十郎が眼をみはった。
「どういうことです」
0035名無しさん@お腹いっぱい。
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2020/01/06(月) 20:09:46.82ID:1/zcjCYL
「湯島の家をまかなうんですね」
「からかってはいけません」
「そんな暇はないさ、七十郎などは世間がひろいから、見本を持ってひろめに廻ってもらう
つもりだ」
「貴方という人は、――」と云いかけて、七十郎は首を振った。
 その日の午後、甲斐は評定役の会議に出た。

[#3字下げ]断章(一)[#「断章(一)」は中見出し]

 ――里見どのは立ちました。
「集まった顔ぶれは」
 ――伊東七十郎、十左どの、蜂谷《はちや》六左衛門どの、それからくみ[#「くみ」に
傍点]と申す女です。
「七十郎は泊っているのか」
 ――十日ほどまえから滞在しております。
「どんな話しがあった」
 ――伊東がこのような放言を致しました、ここに書いてまいりましたが。
「あとで読もう」
 ――速筆のままですから、御判読がむずかしいと思います。
「あとで読む、ほかにはないか」
 ――ございません、伊東の放言には誰も相手になりませんでした。もちろんあの方《かた
》も同じことで、伊東がなにを申してもとりあわず、まったく知らぬ顔でございました。
「あれは賢い人間だ」
 ――ただ一つ、伊東の話しによりますと、数日まえに新吉原へまいり、山本屋へあがった
ということですが。
「それは知っている」
 ――あの方は人にさそわれたと云っておりました。
「おれが命じたのだ、おれが命じてつれてゆかせたのだが、彼はついに尻尾《しっぽ》を出
さなかった」
 ――それだけでございます。
「畑の子供たちと宮本の弟はどうしている」
 ――宮本新八は里見どのがひきとり、畑の姉弟は塩沢丹三郎の家におります。
「動かしたら知らせろ」
 ――そのつもりです。
「裏をかかれるな、彼は賢いぞ」
 ――そのつもりでいます。
「くみ[#「くみ」に傍点]のことは聞いている」
 ――湯島に家があります。
「彼のそばめだと思うか」
 ――それがはっきり致しません。
「はっきりしないとは」
 ――あの女は日本橋石町の、雁屋信助《かりやしんすけ》という海産物問屋の妹で、八年
ほどまえから、湯島に家をもち、あの方がそこへかよっておられるのです。
「雁屋の娘か」
 ――御存じでございますか。
「雁屋は石巻《いしのまき》から出た筈だ」
 ――いまの信助は二代めでございます。
「雁屋は石巻から出て、石巻にも店を張っている筈だ」
 ――石巻の店は弟の政吉がやっているということです。
0036名無しさん@お腹いっぱい。
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2020/01/06(月) 20:10:08.51ID:1/zcjCYL
「そうか雁屋の娘か」
「いや待て、それでは雁屋の年間あきない高をしらべておけ」
 ――いそぎましょうか。
「気づかれてはならんぞ」
 ――すぐ手配を致します。
「くみ[#「くみ」に傍点]という女はそばめではないと思うか」
 ――まだ契りはない、と女が自分で申しております。
「女が自分でか」
 ――八年にもなるのにと、うらみ言を申しておりました。
「真実そのようか」
 ――湯島の家へはあの方の知友もしばしばゆかれますが、みんなそれを知っており、それ
を不審に思っているようでございます。
「あの男らしいやりかただ」
 ――それに、湯島の家は雁屋で買い、数寄屋《すきや》の増築や、庭の造り変えなど、ず
いぶん金をつぎこんだうえ、四人の召使をいれた家計も、ずっと雁屋でまかなっているよう
です。
「彼はそういう人間だ」
 ――一家ぜんぶが心服しきってるようです。
「彼はそんなふうに人を深入りさせる男だ」
 ――それだけでございます。
「待て、くみ[#「くみ」に傍点]はなんの用があって来た」
 ――忘れておりました、昨夜あの方の御内室が出府されたということです。
「原田の妻がか」
 ――くみ[#「くみ」に傍点]はそれを知らせに来たのです。
「彼の妻がなんで出て来た」
 ――くみ[#「くみ」に傍点]の申すには、江戸で良医の治療をうけるためだと申してお
られるが、病気のようにはみえないということでした。
「彼は知らなかったのだな」
 ――知っているようには思えませんでした。
「おれは彼の妻を知っている」
 ――はあ。
「あれはいまの玄蕃《げんば》の姉に当っている、茂庭家の娘だ、おれは松山の館《たて》
で、まだ少女だったあれを見た、顔だちの美しい賢い娘だった」
 ――私はまだおめにかかったことはございません。
「どういう供立《ともだて》だ」
 ――中黒達弥という若侍と、ほかに二人ということで、供立は略式のようでございます。

「もちろん無届けであろう」
 ――糺《ただ》しましょうか。
「みていよう、いそぐことはない、但し網の目からもれぬようにしろ」
 ――湯島へ人を増しましょうか。
「必要に応じてやれ、よほど気をつけぬとさとられるぞ」
 ――ほかにお申付けはございませんか。
「彼はまだ品川へゆくようすはないか」
 ――わかりません。
「品川へは必ず供をしろ」
 ――はい。
「密行するかもしれないが、彼はそうしないと思うが、密行するもようだったら三段の法を
とれ」
 ――わかりました。
0037名無しさん@お腹いっぱい。
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2020/01/06(月) 20:22:00.85ID:6BFpHzrk
「これを遣《つか》わす」
 ――これは、めっそうもない。
「取っておけ、おまえは役に立つやつだ」

[#3字下げ]夕なぎ[#「夕なぎ」は中見出し]

 評定役の会議は、思いがけなく揉《も》めて、それから四日もつづけて開かれた。甲斐は
もっとも古参だったので、そのあいだぬけることができず、もちろん湯島へゆくひまもなか
った。
 会議の議題は、渡辺金兵衛ら三人を、どう処置するかという件であった。
 七月十九日夜の暗殺事件には、少なくとも十人の刺客がいた筈であるが、なのって出たの
は、渡辺金兵衛、渡辺七兵衛、そして小者の万右衛門だけであり、その三人は「自分たちだ
けで坂本、畑、渡辺、宮本らを仕止めた」と云い、ほかに参加した者はない、と主張した。

 この事件はうやむやに片づけられそうであった。というのが、出来事のすぐあとで、重臣
の評議があったとき、伊達兵部がまっさきに発言して、「かれら四人は侫奸《ねいかん》な
人間であった、金兵衛らはよくやった」と云ったからである。
 綱宗は逼塞《ひっそく》、跡目もまだきまらず、六十万石がどうなるかわからない。いま
は全藩が一心同体となって、あらゆることを堪忍し、謹慎これつとめて幕命を待つときであ
る。金兵衛らの行為は、藩家のおためをおもう「斬奸《ざんかん》」であって、いささかの
私心もないし、これを詳しく糾明すれば、どこまで累が及ぶかもわからない。ここは金兵衛
らの忠志を認めることで打切り、紛争のひろがらぬようにすべきである。そういう意味のこ
とを力説した。
 つまり暗殺事件は不問に付そうというのである。
 藩家興廃のせとぎわであった。世継の件について、誰を推すかということが全藩の懸案に
なっているところだし、それが決定したにしても、幕府がどう出るかわからない。現在もっ
とも大切なのは「諸事穏便」ということであった。重臣たちは、兵部宗勝に同調した。
 ――なにごとも堪忍しよう、家中《かちゅう》ぜんたいで謹慎の実を証明しよう。
 そういう黙契が交わされたようであった。
 したがって、評定役の会議も、それに準ずるかと思われた。仮にも異議をさしはさむ者が
あろうとは考えられなかったのであるが、その第一日で、新任の遠山|勘解由《かげゆ》が
、まったく予想もしないことを云いだした。
「――渡辺金兵衛ら三人の行為がしんじつ斬奸であるにしても、その手段が法を無視してい
る点は、ゆるすわけにはいかない」勘解由はそう云った、「もしもこれを黙認すれば、第二
、第三と同じような事が起こるおそれがあるし、藩家のおため――という名目が、不当に愛
用される心配もある、これはぜひ審問にかけて、はっきりと裁きをすべきだと思う」
 甲斐は黙って聞いていた。
 勘解由の説に他の四五の者が反対した。根拠のはっきりした反対ではなく、重臣たちの意
向を盾にとったもので、伊達家の浮沈とか、大事のまえの小事とか、すべて穏便になどとい
う、当り触りのない言葉を並べるだけであった。その漠然とした反対意見を、かれらは辛抱
づよく固執した。
 勘解由もあとへひかなかった。
 甲斐はなにも発言せず、両者の云い分を聞いていた。
 遠山勘解由は、奥山大学の弟であった。大学はいま仙台にいる、勘解由が自説をつよく主
張するのは大学の意志によるものと考えられた。仙台にいる大学から、勘解由になにか命じ
て来たに違いない。そうでなければ、新任早々の彼にそんな頑強な態度がとれる筈はなかっ
た。
 甲斐はそう推察していたが、他の者は気がつかないらしい。なぜ勘解由がそんなに強硬な
のか、どうして彼だけが異説をたてるのか、まるで理解がつかないようであった。
 四日目の午後になって、とつぜん兵部少輔があらわれた。――兵部宗勝は四十歳になる。
おもながの、気品の高い相貌《そうぼう》で、いかにも政宗の末子《ばっし》らしく、その
眉間《びかん》には威厳のあるするどさと、ねばり強い剛毅な性格があらわれていた。甲斐
より二つ年下であるが、見たところは甲斐より老けている。しかし声は細く、女性的で、わ
かわかしい響きをもっていた。
0038名無しさん@お腹いっぱい。
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2020/01/06(月) 20:22:40.49ID:6BFpHzrk
 兵部はまえぶれなしにその席へあらわれ、上座に坐ってみんなの顔を見た。
「評議がまとまらないそうだが、なにが問題になっているのか」と兵部が云った。
 みんなは勘解由を見た。勘解由は自分の意見をのべた。兵部は半ばまで聞いて、勘解由の
言葉をさえぎった。
「それはもう重臣会議で決定していることではないか」と兵部は云った、「評定役は三人の
処置をきめればよいので、すでに重臣会議で決定したことを論評する権限はない」
「お言葉を返すようですが」と勘解由が云った、「かような出来事は、まず評定役が審問し
、その決定をまって重臣がたの御裁決に移るのが順序ではございませんか」
「そこもとの名を聞こう」
「遠山勘解由でございます」
「いつ評定役になられた」
「当月の拝命です」
 兵部は唇で笑った。それから云った。
「たしか奥山どのの身内ではなかったか」
「大学の弟でございます」
 甲斐は黙って聞いていた。
 兵部は他の人たちを見まわした。
「ほかにも同じ意見の者がいるのか」
 みな黙っていた。兵部は甲斐を見た。甲斐は衝立《ついたて》のほうを見ていた。兵部は
云った。
「ほかに同意見の者があるとしても、すでに重臣会議で決定したことを再評議する必要はな
い、この問題は打切って、処置の件にかかってもらいたい」
「失礼ですが暫く」と勘解由が云った、「一ノ関さまの仰せですから、それはまずそうと致
しましょう、しかし評定役として、どうしても審問しなければならぬことがございます」
「よろしい、聞きましょう」
「金兵衛ら三名は暗殺のとき」
「暗殺ではない斬奸だ」と兵部がするどく遮《さえぎ》った。
 勘解由は口をつぐみ、いどみかかるように兵部を見た、しかしすぐに頷《うなず》き、怒
りを抑えた声で云った。
「そのとき三人は、上意討であると申したそうですが、これは容易ならぬことで、ぜひ審問
して事実かどうかをたしかめなければならぬと思います」
 とつぜん座がしんとなった。六人の評定役も、兵部少輔宗勝も、その一瞬、呼吸をとめた
。勘解由の要求は重大であった。いま家中ぜんたいの関心は、金兵衛らの行為よりも、「上
意」と云ったことのほうに集まっていた。
 詮索《せんさく》すればなにが出て来るかわからない。
 誰もがそう思った。暗殺された四人が、近年ずっと綱宗の側近に仕え、寵遇《ちょうぐう
》されていた事実はよく知られていた。なかでも坂本八郎左衛門と渡辺九郎左衛門とは、新
参であるのに傍若無人なことが多く、一部の者からは憎まれてさえいた。したがって、四人
が刺殺されたことは、かれらが「藩主逼塞」という大事に致らしめた奸臣であるという理由
で、それほど問題にすべきこととは考えられなかった。
 だが「上意」という言葉は軽くはない。
 綱宗が藩主の位地をはなれ、世子《せいし》がまだきまっていない現在、「上意」という
表現はもちいられない筈である。それをあえて呼称したからには、それだけの理由がある筈
である。これについては、朝粥の席で伊東七十郎も指摘したが、伊達家中ぜんたいが同じ疑
問をもっているといってもよかった。
 ――金兵衛らの背後になにかがある。
 ――だがうっかりそれに触れてはならない。
0039名無しさん@お腹いっぱい。
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2020/01/06(月) 20:23:07.18ID:6BFpHzrk
 ――なにが出て来るかわからないぞ。
 だから表立っては、誰一人としてそのことは口にしなかったし、そうする者があろうとも
思わなかった。だが、いま勘解由は正面から、それにいどみかかったのであった。
 一瞬の緊張した沈黙は、やがて、甲斐の静かな咳《せき》の声でやぶられた。兵部と勘解
由とが振向いた。
「なにか意見がおありか」と兵部が甲斐に云った、甲斐は「いや」といってもういちど咳を
した。
 兵部は勘解由を見た。
「ぜひ、――というのだな」
「そうです」と勘解由は云った、「私は新任ですが、評定役としてかれらの審問を求めます

「よかろう」と兵部は云った、「いいだろう、すぐに此処《ここ》へ呼んで調べるがいい、
必要なら万右衛門とかいう小者も呼べ」
「両人だけで充分です」
 甲斐は黙って、兵部の冷やかな、嘲弄《ちょうろう》するような声と、勘解由の年にもに
あわず[#1段階小さな文字](彼はもう三十六、七であった)[#小さな文字終わり]む
きに昂奮《こうふん》した声とを、聞いていた。
 渡辺金兵衛と、渡辺七兵衛がよびだされて来た。同姓ではあるが親族関係はない。金兵衛
は二十五歳、七兵衛は二十七歳、どちらも小者頭を勤めていた。
 二人は縁側に坐った。押籠《おしこめ》ちゅうなので、両者とも無腰であり、月代《さか
やき》も髭《ひげ》も伸びていた。それで、ぜんたいに憔悴《しょうすい》して見えたが、
肩を張って端坐した姿勢や、屹《きっ》と額をあげた顔つきには、昂然とした意気があらわ
れていた。
 勘解由は、自分が訊問《じんもん》に当っていいか、と甲斐にきいた。甲斐は他の五人の
意向をきいてから、よろしいと答えた。勘解由は兵部を見た。
「うん、おれも立会おう」と兵部は云った、「おれは伊達一門、分家として審問を聞く」
 勘解由は兵部に礼をし、座をすすめて、訊問をはじめた。
 午後のつよい日光が、深い庇《ひさし》をすべって、縁側の端に照りつけていた。仕切り
塀《べい》をまわした坪庭《つぼにわ》には、高さ一丈ばかりの槇《まき》の木が五本あっ
て、庭の白く乾いたぎらぎらする裸の土の上へ、染めたように黒く影をおとしていた。
 甲斐はその黒い木影を眺めていた。
 ――良源院へゆかなければならない。
 彼はそう思った。
 ――畑の子供たちが今朝ついた筈だ。
 ――それから湯島へも。
 彼はまたそうも思った。
 ――だが、律《りつ》はなんで出て来たのだろう。
 彼は審問には興味がないようであった。少なくともその態度はそのようにみえた。兵部の
眼はそれとなく、そういう甲斐のようすを絶えずうかがっていたが、甲斐はそれにさえ気づ
かないふうであった。
 坪庭の槇で法師蝉《ほうしぜみ》がなきだした。法師蝉の金属的な声は評定所いっぱいに
かんだかく反響し、渡辺金兵衛はちょっと答弁のでばなを挫《くじ》かれたようであった。

「どうした、――」と勘解由が促した、「はっきり云え、紛らわしい返答はゆるさんぞ」
「お答え申します」と金兵衛が云った、「上意を僣称《せんしょう》いたしましたことは申
し訳ございません、また、それはどなたの指図でもなく、私の一存でしたことですが、そう
するよりほかに致しかたがなかったのです」
「――なぜだ」
「私どもはかの四人を討取るつもりでした、四人だけ討取ればよいので、そのほかに不必要
な死傷者はだしたくなかったのです」
0040名無しさん@お腹いっぱい。
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2020/01/06(月) 20:23:36.32ID:6BFpHzrk
 兵部の顔をなにかがさっとかすめた。それは安堵《あんど》の色のようでもあり、賞讃の
色のようでもあった。
「――それで」と勘解由が云った。
「まだ申上げるのですか」と金兵衛が反問した。
 勘解由はなお云った、「ほかに死傷者をだしたくなかったから、というだけではわからな
い、もっと具体的に申してみろ」
「しかし現に、――」
 金兵衛はちょっと言葉を切った。勘解由の頭がわるいのか、それともわざと諄《くど》く
いうのか、どちらにしてもばかげている、といったような眼つきをした。
「現に、御承知のとおり」と金兵衛はつづけた、「四人のほかには一人のけがにんもありま
せんでした、上意、というひと言に威服したのです、もし上意と申さなかったとしたら、か
れらにも家従がおり、なかには斬って出る者があったでしょう、しぜんにほかにも死傷者が
出ずには済まなかったと思います」
「よい思案だ、よい思案だ」と兵部が云った。まるでなにか飛び去るものを慌てて捉《つか
》まえでもするような、ひどく性急な云いかたであった。
 甲斐はそっと眼をつむった。
「上意の僣称は咎《とが》めなければならないが、斬奸という大事を決行するのに、それだ
けの用意をしたのはあっぱれだ、申すとおり、もし上意討の一言がなかったら、もっと多く
不要の死傷者がでたに相違ない、その心懸けはあっぱれだ、余の一存ではあるが褒めてやる
ぞ」
 勘解由は云った、「では、僣称したことは事実なのだな」
「それはもうわかっている」と兵部が云った、「僣称を咎めるより、そこまで思案した点を
とりあげてやらなければなるまい、同時に、もう一つの大事なことがある」
 こう云って兵部は甲斐を見た。
「これはいずれ重臣会議にも出るであろう、まず評定職の意見をきいておきたいのだが」と
兵部は云った、「それは、斬られた奸臣四名の遺族のことだ、坂本には係累なし、九郎左衛
門にはそばめが一人で、これも放逐すれば済むであろう、だが、畑与右衛門には子が二人お
り、宮本又市には妻と弟があるという、評定職でもこれらの処置は考えておるであろうが、
もしあったらいまきいておきたいと思う」
「しかし、それは」と勘解由が云った、「四人の者が奸臣であったという、たしかな証拠が
認められてからのことではないでしょうか」
「たしかな証拠だと」
「そうです、一般の評《うわさ》や漠然とした伝聞などでなく、現実にこれということので
きる証拠です」
「そのほうはいまになって」と兵部が高い声をあげた。すると初めて、甲斐が静かに口を切
った。
「遠山どの、まず、――」と彼は勘解由を抑えた。それから兵部のほうを見て云った。
「これはまだ評議にはかけておりませんが、畑の伜《せがれ》は六歳の幼年、娘は十三歳と
か申しましたが、私の一存で伜は出家させることにし、姉をつけて、とりあえず良源院へ遣
わしました」
「なるほど、姉をつけてか」
「いちじに父母をうしなって哀れでもあり、まだ六歳では寺かたでも迷惑でございましょう
、八歳になるまでと思って、いっしょに遣わしました」
 甲斐は膝《ひざ》の上で扇子をひらいたが、べつに風をいれるでもなく、半ばひらいたま
ま膝に置いてつづけた。
「宮本の遺族は国許《くにもと》へ押籠《おしこめ》、畑の娘も弟が八歳になりましたら、
国許のいずれかへ永預《ながあず》けということにしたらいかがと思います、もちろん評議
のうえでなければわかりませんけれども」
「うん、うん」兵部はじっと甲斐を見た、「それで評定職の意向もほぼ推察がつくようだが
、奸臣の遺族に対する処理としては、少しゆるいようではないか」
0041名無しさん@お腹いっぱい。
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2020/01/06(月) 20:25:04.56ID:6BFpHzrk
「そうでございましょうか」と甲斐は云った、「私はまた厳しすぎるかと思いますが」
 兵部の眼が光った。
「もし必要なら、あの夜、金兵衛ら三名が、親といっしょに仕止めたでございましょう、そ
う致さなかったのは、家族まで斬る必要がないと認めたからだと思います」
 金兵衛と七兵衛は眼を伏せた。
「わかった、――」と兵部が云った、「その旨を覚えておこう、いらぬ席へ押掛けたようで
あるが、分家の身としてやむを得なかったのだ、ゆるせ」
 そして兵部はまもなく座を立った。
 六人の評定役は坐ったまま挨拶をした。遠山勘解由はまだ忿懣《ふんまん》がおさまらな
いとみえ、肩肱《かたひじ》を張ってむっとふくれていた。甲斐は兵部といっしょに立ち、
いっしょに廊下を歩いていった。
「どうも困ったことができまして」と歩きながら甲斐が云った。
 兵部は「うん」といった。兵部はほかのことを考えていたらしい、甲斐はそ知らぬ顔つき
で、また呟《つぶや》くように云った。
「宇田川町のお屋敷へ、お願いにあがろうと思っていたのです」
 兵部は振向いた。甲斐はつづけて云った。
「ほかにお願いする方《かた》もありませんので」
「なにをそんなに」と兵部はじっと、甲斐の表情を見た。
「船岡どのともあるものが、なにをそんなに困っておられるのか」
「お力を貸して頂けましょうか」
「勘解由のことか」
「それもありますが、――」
 甲斐は微笑した。すると両の頬に一と筋ずつ、竪《たて》に深い皺《しわ》が刻まれ、眼
がやわらかく細められて、どんな人間をもひきつけずにはおかないような、温かい、魅力の
ある表情になった。
「それもありますが」と甲斐は云った、「じつは、国許から妻が出て来たのです」
「――――」
「私にも知らせず、どうやら藩庁にも届けずに来たもようで、まことに当惑いたしました」

「それはそれは」兵部の顔に「しまった」とでも云いたげなものが現われた。
 ――先《せん》を越された。
 という感じで、あらわれるとすぐに消えたが、それはいかにもはっきりと、彼の心の内部
をあらわしているようにみえた。
「そのくらいのことで、船岡どのがお困りとも思われないが」と兵部は云った、「この私に
できることなら、お役に立ちましょう」
「こなたさま以外にはお願いできません、無届け出府のことをよろしくおたのみ申します」

「いいでしょう」
「まことに、女というものには手を焼きます」
「いかにも」――と兵部は皮肉に云った、「ことに船岡どのはな」
「これはお言葉でございます」
「聞いておるぞ」
「私は人が好《い》いものですから」と甲斐は云った、「他人の艶《つや》ごとまでかぶせ
られるようで、いつもよく迷惑をいたします」
「さもあろう、さもあろう」
 兵部はちょっと声をあげて笑った。甲斐は甲斐で、微笑していた。

[#3字下げ][#中見出し]※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水
準2-13-28]花[#中見出し終わり]
0042名無しさん@お腹いっぱい。
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2020/01/06(月) 20:25:58.77ID:6BFpHzrk
 その朝、――宇乃《うの》は丹三郎に呼ばれて、これから良源院へゆくのだ、ということ
を聞かされた。
 宇乃は「はい」といった。
「私は、母や私は」と丹三郎はせきこんで云った、「もっとながく、いつまでもお世話をす
るつもりだった、そのようにお願いもしたのだが、それでは貴女《あなた》たちのために悪
いらしい、此処にいては貴女たちのためにならないのだ」
「はい、わかりました」
「さぞ心ぼそいだろうが」と丹三郎はいそいで云った。
「しかし、良源院は芝の山内《さんない》で、愛宕下《あたごした》のお屋敷からはひとま
たぎだし、此処からもさして遠くはない、母や私は、これからもできる限りお二人のちから
になろう、どうかそう思って、向うへいっても心丈夫に辛抱して下さい」
「はい、よくわかりました」と宇乃は丹三郎を見あげた。
「わたくし大丈夫でございます」
 丹三郎はなおなにか云いたそうだった。宇乃は心のなかでそっと呟いた。
 ――この方にはもう会えなくなるだろう。
 塩沢の家に預けられてから、丹三郎はよく虎之助の面倒をみてくれた。丹三郎はひとり息
子なのに神経質なよく気のまわる性分で、宇乃に対しても、うるさいほどしんせつにしてく
れたが、虎之助のことになると、まるで親身の弟のように熱心で、そのために、却《かえ》
って虎之助は幼ないながら、すっかりあまくみるようになっている。
 宇乃が支度をしていると、虎之助がみつけて叫んだ。
「あ、おうちへ帰るのか」彼はおどりあがった。
「静かになさいな」と宇乃が云った、「おうちへはまだ、今日はよそへゆくのよ、おとなに
なさらないと、おばさまの御迷惑になりますからね」
「おとなしくすれば」
「おえらいわ、皆さまが褒めて下すってよ」
「そして、おうちへ帰るのか」
「おとなにしていればね」
 塩沢のたつ[#「たつ」に傍点]女に作ってもらった、二、三枚の着替えや、肌着などが
一と包みあった。家のほうは「お咎《とが》めちゅう」ということで、表も裏も厳重に閉鎖
され、まだなに一つ持出すことができなかったのである。――包みを拵《こしら》え終った
とき、たつ[#「たつ」に傍点]女が来て、もう一つ小さく包んだものを渡した。
「この中に書いたものがあります」とたつ[#「たつ」に傍点]女は云った、「まだ御存じ
ないようだけれど、もうまもなく、あなたのお躯に変ったことが起こるでしょう、そうした
らこれをあけて、書いたものを読んでごらんなさい」
「お手紙でございますか」
 たつ[#「たつ」に傍点]女は首を振った。
「いいえ、手紙ではありません」
 宇乃はじっとたつ[#「たつ」に傍点]女を見た。
「手紙ではありません」とたつ[#「たつ」に傍点]女は云った、「お躯にこれまでになか
ったようなことが起こったとき、それがどういうわけで、どうすればいいかということが書
いてあるのです、そして、必要な品も一と揃《そろ》えはいっていますからね、それをよく
みて、あとは御自分で作ってなさるんですよ」
「はい、おばさま」
「これは母親の役目なのです」とたつ[#「たつ」に傍点]女は云った、「たぶん、――そ
のときが来れば、わたくしにこんなことを教えられたことを、たぶんあなたは恥ずかしくお
思いになるでしょう、でもしかたがなかったのです、あなたにはお母さまがいらっしゃらな
いのですからね、わたくしがしてさしあげるよりほかに、しようがないのですから」
 云いかけて、たつ[#「たつ」に傍点]女は指でそっと、両の眼がしらを押え、それから
気を変えるように云った。
「お支度ができたらまいりましょう」
0043名無しさん@お腹いっぱい。
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2020/01/06(月) 20:26:57.86ID:6BFpHzrk
 三人で門を出るとき、宇乃は振返って、邸内をなつかしそうに眺めやった。もうこのお邸
へも戻ることはないだろう。宇乃はそう思いながら、ちょっと眼をつむった。
 ――お父さま、お母さま。
 虎之助さんを護ってあげて下さい。と宇乃は心のなかで云い、それから歩きだした。
 良源院は増上寺の塔頭《たっちゅう》で、伊達家の宿坊になっていた。増上寺で将軍家の
年忌行事などのあるとき、それに列する藩主や重臣が、そこで装束を改めたり休息したりす
るのである。それで藩主のための客殿もあるし、重臣たちの部屋も定《きま》っていた。
 たつ[#「たつ」に傍点]女と畑姉弟は、方丈《ほうじょう》と同じ棟にある客間へとお
され、そこで原田甲斐の来るのを待つことになった。風のない、残暑のつよい日で、なにも
することがないから、虎之助は姉にまといついては欠伸《あくび》をしていたが、午後の茶
菓が出ると、辛抱がきれたように眠ってしまった。
 そのあとでたつ[#「たつ」に傍点]女が、「お庭を拝見しましょう」と云い、二人で庭
へおりた。
 庭はかなり広く、鉤形《かぎがた》になっていて、客殿の前には泉池があった。白い土塀
《どべい》をまわした、どちら側も塔頭だろう、左のほうから(法事でもあるとみえ)鉢鐘
と読経の声が聞えて来た。
「こちらへいらっしゃい」
 たつ[#「たつ」に傍点]女が手招きをした。庭の一隅に井戸がある。彼女はそれを指さ
して云った。
「これが殿さまのお井戸です」
「はあ、これが、――」宇乃はそっと頷いた。
 ――これがそうだったのか。
 その井戸は白木の低い柵《さく》でかこまれ、青銅で葺《ふ》いた屋根が掛けられていた
。柵には錠のおりた出入口があり、内部は石だたみで、井戸も石であった。伊達家では、そ
の井戸の水だけを、藩主の用にあてている。煮炊きにも、飲料にも、藩主にはその井戸の水
だけしか使わなかった。そのために定った足軽がいて、一日も欠かさず、水を汲《く》みに
かようのであった。
「此処にも鍵《かぎ》を預かったお役僧がいて、そのたびごとに錠をあけるのだそうです」

「お水を運ぶ方たちは、たいへんですのね」と宇乃が云った、「品川のお下屋敷まではずい
ぶん遠いのでございましょう」
「まさかお下屋敷へはね」たつ[#「たつ」に傍点]女は苦笑した、「水を運ぶのは御本邸
の殿さまだけですよ、陸奥守さまは御逼塞になられたのですから、いまは亀千代さまのいら
っしゃる、桜田のお屋敷へ運ぶのです」
「――お可哀そうに」と宇乃は口の中で呟いた。
 たつ[#「たつ」に傍点]女には聞えなかったらしい、振返って、増上寺の山門が見える
と云った。振返ると、松林の梢《こずえ》をぬいて、意外なくらい近く、その山門が見えた
。来るときには御成門《おなりもん》から入ったので、いちどまぢかに眺めたのである。い
まは高い屋根と、丹塗《にぬ》りの掲額のある二重までしか見えないのに、ぜんたいを眺め
たときよりは、よほど大きく、重おもしいように感じられた。
 客殿のほうに近く、重臣諸氏の宿坊の並んだ棟がある。そのほぼ中央どころに、高廊下か
ら庭へおりる階段があるが、たつ[#「たつ」に傍点]女はその前で立停って、そこにある
部屋を指さした。
「あれがわたくし共の御主人のお部屋です」
「原田さまのですか」
「そうです、それから」とたつ[#「たつ」に傍点]女は振向いた、「これが、船岡のお館
《たて》から御自分でお移しになった、樅《もみ》ノ木です」
「はあ、――」
 宇乃はそれを見た。彼女には初めて見る木であった。根まわりは両手の指を輪にしたくら
いの太さで、高さはおよそ八尺ばかりある。枝はみな上に向かって伸び、葉は榧《かや》に
似ていた。
0044名無しさん@お腹いっぱい。
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2020/01/06(月) 20:27:56.96ID:6BFpHzrk
「原田さまが、自分でお移しになったのですか」
「この木がお好きなのです」とたつ[#「たつ」に傍点]女が云った、「北ぐにの木ですか
ら、なかなかこの土地では根づかないのでしょう、これまでに二度も枯れてしまって、これ
が三度目なのです、お移しになってからもう五年経つので、こんどこそ大丈夫だろうという
ことです」
「――お国の木なんですわね」と宇乃が呟くように云った。
「そうです」とたつ[#「たつ」に傍点]女は頷いた、「船岡のお館のまわりには、この木
が美しい林になっていますし、お館のお庭にもかなりあります」
「おばさまは船岡を御存じですの」
「わたくしは船岡で育って、塩沢へ嫁にまいったのです。もちろん亡くなった塩沢もあちら
の者でしたわ」
 宇乃はまた樅ノ木を見た。榧に似たその葉や、枝のなりは、いかにも寒さのきびしい土地
の木らしく、性が強そうにみえるが、宇乃には、なんとなくさびしげな孤独のすがたをして
いるように思えた。
 甲斐が来たのは、もう日の傾きかけるじぶんであった。供は村山喜兵衛と塩沢丹三郎の二
人で、丹三郎が姉弟を呼びに来たが、宿坊へいってみると、甲斐はくつろいで扇子を使って
いた。
 姉弟が坐ると、喜兵衛も丹三郎もすぐに出ていった。
「もっとこちらへおいで」と甲斐は云った。
 宇乃は虎之助の肩に手をかけながら、僅かに前へ出た。
「宇乃というんだね」
 甲斐は微笑した。温かく包むような、云いようもなく人を魅する微笑であった。宇乃もわ
れ知らず微笑した。
「そちらが虎之助か」
 虎之助はこくりと頷いた。
「お利巧らしいな、幾つになる」
 虎之助は黙って片手の指をひろげ、それに片手の指を一本加えてみせた。甲斐は笑った。
すると白いきれいな歯が見え、眼尻がやや下がった。
「どうした、坊、口では云えないのか」
「云わんない」
「虎之助さん」と宇乃が云った。
 甲斐がよしよしと云った。それから、静かな眼で宇乃を見た。
「お父さんやお母さんのことは、いまはなにも云わない、いま話してもわかりにくいような
、むずかしいゆくたてがあるのだ」
「はい」と宇乃は頷いた。
「そして、そのために、おまえたち二人、とくに男の子にはまだ危険がある」
 宇乃は眼をあげた。
「もちろん心配することはない、私がまちがいのないように気をつけている。しかし、男の
子はこのままではいけないのだ」と甲斐は云った、「虎之助に畑の家名を続けさせようとす
ると、どうしてもまた危険が伴う、それで、私は出家させたいと思うのだが」
 宇乃は黙って甲斐を見ていた。
「出家すれば俗世の因縁も切れるし、非業《ひごう》に亡くなられた両親の供養もできる、
そのほうがいいとは思わないか」
 宇乃はそっと眼を伏せた。
「それとも、出家させるのはいやか」
「いいえ」と宇乃は眼をあげて云った、「そうするほうがよいと仰《おっ》しゃるのでした
ら、そのようにお願いしたいと思います」
「つぎにおまえのことだが」と甲斐はつづけた、「弟が八歳になるまでは、此処にいて世話
をしてやるがいい、それからあとは、私の国の船岡へひきとるつもりだ、江戸にいては、い
ろいろと面倒なことが多い――両親を討ったものが誰だかということも、いつかはわかるこ
とだろうし」
0045名無しさん@お腹いっぱい。
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2020/01/06(月) 20:28:51.84ID:6BFpHzrk
 宇乃の眼がきつく光った。甲斐はその眼に気づいて、そのきつい光をなだめるように、や
さしく、ゆっくりと頷いた。
「この話しはあとにしよう」と甲斐は云った、「いまはまず、二人が無事に生きてゆくこと
を考えればいい、そのほかのことはすべてあとのはなしだ、わかるな」
「はい、おじさま」
 そう云いかけて、宇乃ははっと、口を押えた。
「よしよし、おじさまでいい」甲斐は微笑した、「私が二人のおじさんになってやろう、虎
之助、立ってこっちへおいで」
 虎之助は姉を見た。
「宇乃もおいで、宇乃にはみせるものがある」
 宇乃は弟の手を取って、立ちあがった。
 甲斐は虎之助を抱いて立った。虎之助は躯をかたくして抱かれた。甲斐は高廊下へ出て左
手を宇乃の肩にかけた。宇乃はぴくっとふるえた。甲斐は宇乃を静かにひきよせた。宇乃は
やわらかくより添ったが、そのときまたぴくっとふるえた。
「向うに木が一本あるだろう、あの蘚苔《こけ》の付いた石の右がわのところに」
「樅ノ木でございますか」
「樅ノ木だ、宇乃は知っているのか」
「はい、塩沢さまのおばさまに教えていただきました」
「そうか」と甲斐は頷いた、「それでは船岡から移したことも知っているね」
 宇乃は「はい」と云った。
「私はあの木が好きだ」と甲斐は云った、「船岡にはあの木がたくさんある、樅だけで林に
なっている処もある、静かな、しんとした、なにもものを云わない木だ」
「木がものを云いますの」
「宇乃は知らないのか」宇乃は甲斐を見た、甲斐はその眼を見返しながら云った、「木はも
のを云うさ、木でも、石でも、こういう柱だの壁だの、屋根の鬼瓦《おにがわら》だの、み
んな古くなるとものを云う」
 宇乃は悲しげな眼をした。
「そのなかでも、木がいちばんよくものをいう」と甲斐はつづけた、「いまに宇乃が船岡へ
いったら木がどんなにものを云うか、私が教えてあげよう」
「はい、おじさま」
「この樅ノ木を大事にしてやっておくれ」と甲斐は云った、「この木は育つようだ、これま
で移したのは枯れてしまったが、こんどはうまく育つようだ、宇乃が此処にいるあいだは、
この木を大事にしてやっておくれ」
「はい、おじさま」
 すると虎之助が云った、「坊も大事にする」
「坊も大事にするか」
「大事にする、坊は木を揺《ゆす》らないよ」
「えらいな――」
 甲斐は微笑した。それから、左手で、またやさしく宇乃の躯をひきよせた。
「宇乃、この樅はね、親やきょうだいからはなされて、ひとりだけ此処へ移されてきたのだ
、ひとりだけでね、わかるか」
 宇乃は「はい」と頷いた。
「ひとりだけ、見も知らぬ土地へ移されて来て、まわりには助けてくれる者もない、それで
もしゃんとして、風や雨や、雪や霜にもくじけずに、ひとりでしっかりと生きている、宇乃
にはそれがわかるね」
「はい――」
「宇乃にはわかる」と甲斐は云った。彼はふと遠いどこかを見るような眼つきをした。
 宇乃は思った。おじさまはお淋しい方なのだ。宇乃は甲斐の言葉をそのようにうけとった
。自分に云ってくれた言葉とは思わず、甲斐が彼自身の心のなかを語ったのだというふうに
0046名無しさん@お腹いっぱい。
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2020/01/06(月) 20:29:50.26ID:6BFpHzrk
「おじさま」と宇乃が云った、「宇乃はいつか、お国へつれていっていただけますのね」
「虎之助が八歳になったらね」
「宇乃はお国へつれていっていただきとうございますわ」
「二年たてばゆけるよ」
「坊もいっしょにか」と虎之助が云った。
 甲斐は穏やかに笑った、「坊は重いな、これはずいぶん重いぞ」
「坊もいっしょにか」
「虎之助さん」と宇乃が云った。
 甲斐は虎之助をおろした、「さあ、おじさんはもうゆかなければならない、また来るから
な、坊、おとなしくしているんだぞ」
 虎之助は黙っていた。甲斐は宇乃に云った。
「向うへつれておいで、また来るけれども、用があったら遠慮なく使いをよこすがいい、―
―ではあちらへおいで」
 宇乃は弟の手をひいて、そこを去った。彼女はもっとそこにいたかった。甲斐のそばから
離れずに、いつまでも彼と話していられればいいと思った。
 まえにも、宇乃は甲斐を見たことがある。桜田の邸内で、いちどは着ながしのまま、一人
で歩いていた。ほかのときは家従の人か、他の重臣の人たちといっしょだったが、それが原
田甲斐だということは、いつもすぐにわかった。誰に教えられたのか、教えられた記憶はな
い。ずいぶんまえから、見かければその人だということがわかった。
 甲斐は一人のときも、伴《つ》れのあるときも、なんとはなしに際立《きわだ》ってみえ
た。背丈の高い躯を少し前跼《まえかが》みにして、ゆっくりと歩く。顔つきは温かく穏や
かで、微笑すると白いきれいな歯がみえた。
 ――宇乃は知っているわ、宇乃はまえからあの方を知っていることよ。
 宇乃はよくそう思った。それは実感であった。ずっとまえからよく知っていたし、自分と
は特に親しかった。いまでも、お互いがわかりさえしたら、まえのように親しくなれるのだ
。宇乃はひとりでそう思っていた。
 ――思ったとおりだった。
 弟と廊下をゆきながら、宇乃は心の中で呟いた。でもずいぶん淋しそうな方だわ、きっと
なにか淋しい、悲しいようなことがあったにちがいない、まるでひとりぼっちなような話し
ぶりをなすっていたわ。
 高廊下を曲ると、そこに塩沢丹三郎がいた。待っていたのだろう、宇乃に微笑し、すぐに
虎之助を抱こうとした。
「歩いてゆく」と虎之助は拒んだ。
「いいじゃないか、もうしばらく抱《だ》っこはできないよ」
「歩いてゆくんだ」
「なんだ、怒っているのか」
 丹三郎は笑って、宇乃の顔を見た。それから二人で虎之助の手を左右から取って、たつ[
#「たつ」に傍点]女の待っている部屋へ戻った。その途中、丹三郎は声をほそめて、宇乃
にすばやく云った。
「あのことを訊《き》いたか」
 宇乃は答えなかった。丹三郎は訝《いぶか》しそうに宇乃を見た。
「訊かなかったのか」
「はい」と宇乃は云った。
「両親の仇が誰だったか、討たせてもらえるかどうか、訊いてみなかったのか」
「訊きませんでした」
「どうして」
 宇乃は答えなかった。丹三郎はじっと宇乃の顔をみつめ、それから気を変えるように、ま
あいいと云った。
0047名無しさん@お腹いっぱい。
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2020/01/06(月) 20:30:39.25ID:6BFpHzrk
「私が付いているからね、いつかは、私がきっと仇を討たせてあげるよ」
 宇乃は振返って、庭の向うの樅ノ木を見やった。土塀をすべって来る午後の日ざしが、そ
の木の上半分を照らしていた。

[#3字下げ]風のまえぶれ[#「風のまえぶれ」は中見出し]

 良源院を出た甲斐は、そこから湯島へまわった。
 その家は湯島台の、上野に近いほうにあった。和泉《いずみ》橋を渡って、神田明神社の
脇の坂をあがり、林|大学頭家《だいがくのかみ》の馬場[#1段階小さな文字](そこに
は後に聖堂が建てられた)[#小さな文字終わり]から本郷通りへ出てゆけば、門口まで駕
籠《かご》を乗りつけることができた。また、これは殆んど知られていないが、広小路のほ
うへぬける裏道もあった。それは椎《しい》や松やみずなら[#「みずなら」に傍点]の深
い林と、灌木《かんぼく》や藪《やぶ》の繁った丘の斜面で、じめじめした、細い、危なっ
かしく折り曲った石段である。――のちに丘上の叢林《そうりん》をひらいて天満宮が建て
られ、そこから北よりに切通しができてからは廃絶してしまったが、それ以前からあまり登
りおりする者はないようであった。
 甲斐がいったときには、女たちはみな留守だった。おくみ[#「くみ」に傍点]が案内し
て、木挽《こびき》町へ芝居見物にでかけたのだそうである。その年の三月に、木挽町五丁
目は森田|勘弥《かんや》の芝居が建ったが、おくみ[#「くみ」に傍点]はそこへ律を案
内したのであった。
 中黒達弥は供をしたそうで、船岡から付いて来た他の二人、岡本次郎兵衛と松原十右衛門
がいた。
 甲斐は風呂の支度を命じて、二人に会った。妻の律も、かれら供の者たちも、江戸へ着い
て以来五日、無届け出府のため、甲斐のおもわくを案じて、ずっと湯島の家から出ずにいた
のである。
 二人は恐縮していた。甲斐は小言らしいことは云わなかった。いつもの穏やかな調子で、
船岡の人事や、農地のようすなどを訊いた。国許《くにもと》には老母と、長男の采女宗誠
《うねめむねもと》がいる、留守家老は片倉|隼人《はやと》であるが、みな丈夫で変りが
ない、采女は来年十五歳になると元服する筈なので、いまからそれをたのしみにしている、
ということであった。
「烏帽子親《えぼしおや》は、松山のお祖父《じい》さまにお願いするのだと、仰しゃって
おられました」
 松山の祖父とは茂庭佐月のことで、母親の律が佐月の女《むすめ》であり、采女は佐月の
外孫に当っていた。
 甲斐は黙って聞きながした。松原十右衛門は、さらに農地のもようを語ったが、夏のはじ
めに低い気温が続いたので、米も麦も減収はまぬかれまい、という口ぶりであった。
「減収くらいで済みそうか」と甲斐は云った。かくべつ苦にしているふうはみせなかったが
、十右衛門には主人がどんな気持でいるかわかった。
「少なくとも二割、これからの天候によっては、三割を越すかもしれぬということです」
「では今年もまた、館《たて》の修理は延期だな」と甲斐は云った。
 岡本も松原も、綱宗逼塞による藩家の興廃が知りたいらしい、それとなく、遠まわしに触
れてみたりしたが、甲斐はなにも云わなかった。
 女たちが芝居から帰ったのは、日が昏《く》れてからであったが、そのまえ、ちょうど部
屋に灯をいれているとき、銀座の鳩古堂《きゅうこどう》から、手代《てだい》の助二郎が
筆を届けて来た。
 鳩古堂は唐物商で、明《みん》国と取引があり、書籍や紙、筆、墨、硯《すずり》などを
扱っていた。あるじは仁左衛といい、伊達家の御用もつとめていたし、甲斐とはまえから、
親しいつきあいがあった。甲斐は自分で手代に会った。助二郎は「御注文の虎毛《とらげ》
がはいりましたので」と云って、箱のまま出してみせた。
 甲斐は頷いた。そして、選ぶから待っておれと云い、立って自分の居間へいった。丹三郎
がついて来て、すぐに灯をいれようとした。
0048名無しさん@お腹いっぱい。
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2020/01/06(月) 20:31:19.23ID:6BFpHzrk
「燭台《しょくだい》をつけてくれ」と甲斐が云った。
 丹三郎は燭台を出し、蝋燭《ろうそく》に火をつけた。甲斐は手を振った。それで、丹三
郎は次の間へさがった。
 甲斐は机の前に坐った。机の上で箱をあけると、筆が五本、枠《わく》に入って並んでい
た。彼はそのまん中にある斑《ふ》入りの軸の一本を取り、用心ぶかくその軸を捻《ひね》
った。するとその軸は、七三分のところで上下二つになった。つまり嵌込《はめこ》み細工
で、――軸の下のほうを振ると、その中から、細く筒に巻いた紙が出て来た。
 甲斐は燭台をひきよせ、筒になったその紙をほぐした。その紙は上質の薄葉《うすよう》
で、細かい文字が五行ほど書いてあった。甲斐は読み終るとすぐに、燭台の火をつけて灰に
した。それから筆を元のようにして箱へ戻し、べつの二本を取って机の上に置くと、丹三郎
を呼んで箱を渡した。
「二本だけ求めた」と甲斐は云った、「あとは返すと云ってくれ」
 丹三郎が去ると甲斐は机に両|肱《ひじ》をつき、そのままじっと顎《あご》を支えてい
た。女たちが帰って来るまで、彼はそうして坐っていた。
 やがて賑《にぎ》やかな声がし、女たちの帰ったことがわかったが、妻の律がそこへはい
って来るまで、甲斐は机によりかかっていた。律はうしろから良人《おっと》を見た。彼女
は三十七歳になるが、年よりはるかに若くみえる、眉と眼のあいだがひろく、鼻がかたちよ
く高い。口はやや大きいが、ひき緊った顎と、ゆたかな頬とで、ぜんたいがゆったりしたう
いういしさと、優雅ななまめかしさをもっていた。
 律は良人のうしろ姿を、立ったまま、やや暫くみつめていたが、やがて、そっと近づいて
ゆき、身を跼《かが》めて、うしろから、そっと良人を抱いた。
「怒っていらっしゃるの」と律は囁《ささや》いた。
「ねえ、怒っていらっしゃるのね、あなた」
「汗を拭いておいで」と甲斐が云った。
「怒っていらっしゃるのね」
「汗を拭いて来ないか」
「怒ってはいない、と仰しゃって下されば」
「怒ってはいないよ」
「怒っていらっしゃるわ」
 甲斐は黙った。
 律はやさしく、しかもすばやく、良人の耳に唇を触れ、そうして、躯《からだ》ぜんたい
で、良人を包むようにした。甲斐は動かなかった。温かく、重たく、そして粘るように軟ら
かな妻の躯が、妻の躯の弾力のあるまるみや、厚みが、自分の背中にじんわりと押しつけら
れるのを感じながら、甲斐はやはり無抵抗に動かなかった。
「なんとか仰しゃって」と律が云った、「ねえ、わたくしどうしても出て来ずにはいられな
かったんですのよ、一年だってがまんするのは辛いのに、こんどは一年半にもなるわ、それ
でもいつお帰りになるか、ということがわかればいいけれど、それもまるでわからないし」

「暑い、そっちへ坐らないか」
「怒っていらっしゃるんですもの」
「帰れなかったわけは知っている筈だ」
「知っていました、けれどもそれはよそから聞いたので、あなたはなにも知らせては下さい
ませんでしたわ」
「知らせてなんになる」と甲斐は云った、「ここにいる私にだってどうすることもできない
、知らせれば母上やおまえに気をもませるだけではないか」
「噂《うわさ》で聞くほうが、もっと心配だとはお思いになりませんの」
「そのために出て来たのか」と甲斐が云った。
 律は黙って、ふと躯をかたくした。背中にぴったり接している妻の躯が、かたく硬ばった
のが甲斐にわかった。
 律は良人からはなれた。
0049名無しさん@お腹いっぱい。
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2020/01/06(月) 20:31:50.97ID:6BFpHzrk
「わたくし汗をながしてまいりますわ」
「うん」と云って、甲斐は振返った。
 律はさりげなく、眼をそむけながら立ったが、その額が白くなっているのを甲斐は認めた

 ――またか。
 と甲斐は心のなかで云った。
 ――また起こったな。
 出てゆこうとした律が、くるっと振向いて、良人の眼をまともにみつめた。なにか哀訴す
るようでもあり、挑むようでもある眼つきであった。甲斐は微笑しながら、頷いた。
「汗をながしておいで」と甲斐は云った。
 律は眼を伏せながら云った、「今夜はゆっくりしていらっしゃれるのでしょう」
「そうらしいな」
「一年半ぶりですわ」
「いっておいで」
「きっとですよ」律はまた良人を見た、「きっと泊っていって下さいますわね」
 甲斐は微笑した。
 律の眼は、しばしば彼女の意志を裏切る。心のなかになにか動揺や変化が起こったとき、
それを隠そうとすると、彼女の眼は隠そうとする意志とは反対に、その動揺や変化をあから
さまに表白してしまう。結婚して十六年。甲斐はその事実を、幾たびかの経験でよく知って
いた。
「おくみ[#「くみ」に傍点]さん、きれいな方ね」律はそう云って、良人に笑いかけ、そ
れから部屋を出ていった。
 甲斐は村山喜兵衛をよんで、本邸へ使いにゆくように命じた。腹痛が起こったから今夜は
湯島で泊る、という届けをするためであった。喜兵衛はすぐに出ていった。
 まもなく数寄屋で酒宴がひらかれた。日本橋から雁屋信助《かりやしんすけ》と、その妻
のきわ[#「きわ」に傍点]がよばれて来た。男芸者が三人、唄や踊りをする若い女芸者が
五人。みんなよくこの家へよばれて来る者たちで、賑やかな酒宴になった。
 雁屋信助は四十二歳。肥えた、背丈の低い、精悍《せいかん》な躯つきだし、眉の太い、
眼や口の大きな顔にも、商人というには逞《たくま》しすぎる、重厚な、つらだましい、と
いったものが感じられた。甲斐もあまり口はきかないほうだが、信助も無口らしい。なにか
怒ってでもいるような、むっとした表情で黙ってぐいぐいと飲んでいた。
 律は甲斐と並んでいた。おくみ[#「くみ」に傍点]と信助の妻のきわ[#「きわ」に傍
点]とが給仕に坐っており、律は苛立《いらだ》っていた。
 なぜこんな賑やかな酒宴をはじめたのか、彼女にはまるでわからなかった。彼女は良人と
ふたりきりになるつもりでいた。ふたりだけで食事をし、ふたりだけで話したかった。それ
は良人にもわかっている筈だし、良人はふたりだけになるようにしてくれる筈であった。
 ――こんな酒宴はあまりお好きではなかったのに。
 律は良人の注意をひこうとし、その眼をとらえようとした。けれども甲斐には通じないよ
うであった。三味線も唄も、踊りも、軽口《かるぐち》も面白くなかった。
 ――いっそ立ってしまおう。
 律はそう思った。それはほぼ半刻《はんとき》くらい経ってからのことであるが、彼女が
そう思ったのと符を合わせたように、甲斐がおくみ[#「くみ」に傍点]と呼びかけた。
「私はちょっと横になる、支度をさせてくれ」と甲斐は云った。
「お支度ですって」
 おくみ[#「くみ」に傍点]はけげんそうな顔をした。甲斐は信助を見た。そして、信助
がその眼で頷くと、おくみ[#「くみ」に傍点]に向かって云った。
「私は腹痛を起こしたことになっているんだ。喜兵衛にそう届けさせたのでね、密告でもさ
れたときの用心に、いちど横になっておくほうがいいと思うんだ」
0050名無しさん@お腹いっぱい。
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2020/01/06(月) 20:32:27.47ID:6BFpHzrk
「このうちにはそんな者はおりませんわ」とおくみ[#「くみ」に傍点]が云った、「どう
してそんなことを仰しゃいますの、このうちにそんな、密告なんぞするような者が、いるわ
けはないじゃございませんか」
「そうらしいな」
「らしい、ですって」
「気にするな」と甲斐は笑った、「そんな者がいないことはわかっている、いまのは冗談だ
、しかしひと休みするから、向うへ支度をさせてくれ」
「本当にお横になるんですか」
「雁屋は待っていてくれる」と甲斐は云った。
「おくみ[#「くみ」に傍点]」と信助が云った。
 おくみ[#「くみ」に傍点]は振向いて、兄のきつい眼を見、それから立って出ていった
。律は眩《まぶ》しそうに良人を見た。甲斐は芸者たちに休めと云い、信助に話しかけた。
しょうばいのぐあいはどうだ。面白くありません。面白くないか。おもわしくありません、
と信助が云った。唐船《からぶね》が停ったも同様なありさまですから。どうしたのだ。明
国の戦乱がまだ片づかないのです。明軍はまだもちこたえているのか。そんなようです、と
信助が云った。五月に聞いた話では去年二月に明王は緬甸《ビルマ》へ逃げたそうですが。
それでまだ片づかないのか。そんなもようです。もう清《しん》王の時代になるのではない
か。どんなものですか、と信助が云った。まだ鄭成功《ていせいこう》が暴れているようで
すし、なにしろ国土がおそろしく広大らしいですから。鄭成功が幕府へ援軍を求めて来たの
は、あれは一昨年でございました。うん一昨年だった、と甲斐が云った。私は船岡にいて聞
いたのだが、九州あたりでは密航しようとする者たちでだいぶ騒いだそうではないか。そん
な噂でございましたな、と信助が云った。島原の乱から二十余年、浪人が殖《ふ》えるばか
りで、この狭い島国では生きる方途のない人々がだいぶおりますから。むずかしいことだな
。いろいろむずかしくなるばかりでございます、と信助が云った。いま唐船あきないが停っ
たかたちになっていますが、そこをつけこんで、媽港《マカオ》あたりの英国商人がわれわ
れの荷を買占めにかかろうとしています。これにひっかかると交易の市場《しじょう》をか
れらに独占されかねません、それで英人商社には荷を捌《さば》かないという協約をまとめ
にかかっているのですが、なにしろ金繰りに詰まってくると、そんなわけにもゆかぬ者が出
て来ますから、と信助が云った。
 おくみ[#「くみ」に傍点]が戻って来たので、信助は話しをやめた。おくみ[#「くみ
」に傍点]は硬い表情をしていた。
「お支度ができました」
「では雁屋」と甲斐は信助を見た。
 信助はにこりともしないで云った、「お待ち申しております」
「おくみ[#「くみ」に傍点]、松原たち三人を呼んで、雁屋の相手をさせてくれ、それか
ら駕籠《かご》だ」と甲斐が云った。
 おくみ[#「くみ」に傍点]はまた訝《いぶか》しそうな眼をした。甲斐は妻を見て立ち
あがった。
「律、ゆこう」
 律はしんなりと立った。
 おくみ[#「くみ」に傍点]はもの問いたげに、なお甲斐の眼を見まもった。「駕籠だ」
という言葉が、聞きちがいではないかと思ったらしい。甲斐はその言葉をもういちど繰り返
すかのように、おくみ[#「くみ」に傍点]の眼を見返してから、座敷を出た。
 母屋《おもや》の奥の、寝所とみえる八|帖《じょう》の間に、屏風《びょうぶ》をまわ
して、寝る支度ができていた。裏庭に面した腰高窓の、明り障子の左右があけてあり、庇《
ひさし》に吊《つ》った風鈴が、ときおり、もの憂そうにリリと鳴っていた。
「狭いお寝間だこと」律は立ったままで云った、「夏でもこんな狭いお寝間でおやすみなさ
いますの」
「町なかはたいていこんなものだ」
「そうでしょうか」律は衣桁《いこう》のほうへゆき、掛けてある良人の寝間着を取った、
「もういくらか馴れましたけれど、来たばかりのときはあんまりどのお部屋も狭いので息が
詰まるような気持でしたわ、お着替えあそばせ」
0051名無しさん@お腹いっぱい。
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2020/01/06(月) 20:32:53.87ID:6BFpHzrk
「いま誰か来るよ」
「わたくし致しますわ」と律は云った、「館《たて》ではこんなことはできませんけれど、
ときには着替えのお世話くらい致しとうございますわ」
「館だってできるさ」
「あらそうでしょうか」
 律は良人に着替えさせ、うっとりしたような眼で良人の顔を見まもった。ようやく二人き
りになれたのと、芝居を観て来た昂奮《こうふん》が、こころよい酒の酔いとともに、彼女
の血を熱くするようであった。
「ねえ」律は微笑しながら、良人をやさしくにらんだ、「おくみ[#「くみ」に傍点]さん
のこと、うかがってもよろしくって」
「こっちから頼みがある」
 甲斐は坐って、窓の障子をあけひろげた。
「うかがってはいけませんの」
 律がそう云ったとき、襖《ふすま》の向うで声がし、若い小間使がはいって来た。律は良
人からはなれた。小間使は礼をし、律の着替えを手伝うために坐った。
 律の着替えが済むと、小間使はいちどさがり、つぎに、もう一人の小間使が、大きな水盤
を運んで来て、夜具の枕もとのほうへ、三尺ほど離して置いた。その水盤には玉石《たまい
し》を敷いて水を満たし、若木の柳と葦《あし》とが活けてあった。
 小間使たちが去ると、律は団扇《うちわ》を持って夜具の上に坐った。
「私はでかけなければならない」と甲斐が云った。律は片方に団扇を持ったまま、両手を良
人のほうへさしのべた。
「人が待っているんだ」
「おでかけになるのですって」
「松山が待っているんだ」と甲斐が云った。
 律はさしのばしていた手をおろした、「松山って兄でございますか」
「周防《すおう》どのだ」と甲斐が云った、「国から涌谷《わくや》さまが来られた、藩邸
にはまだ内密で、小石川の普請小屋に周防どのとおられる」
「普請小屋ですって」
「堀普請のことは知っているだろう、周防どのは総奉行で、三日にいちどずつ吉祥寺の支配
小屋へ泊られるのだ」
「涌谷さまがそんなお小屋へいらしっているんですか」
「二人で私を待っておられる」と甲斐が云った、「それ以上にはなにも云えない、そして、
私のでかけることは、おくみ[#「くみ」に傍点]のほかには誰にも気づかれてはならない
のだ」
「では、わたくしは――」と律は良人を見た。そのとき床脇の三尺のひらきが、音もなくあ
いて、衣類をひと揃《そろ》え抱えたおくみ[#「くみ」に傍点]がはいって来た。
「ここで寝ていてくれ」
 と甲斐は妻に云い、立っておくみ[#「くみ」に傍点]のほうへいった。
「私が戻って来るまで、ここで寝て待っていてくれ」
「なにか大事な御用談があるんですのね」
「律には縁のないことだ」
「いいお役目だこと」と律が云った。
 彼女は振向いて、甲斐に着替えさせているおくみ[#「くみ」に傍点]を見た。
「くみ[#「くみ」に傍点]さん、いつもこんなことがあるんですか」
「いつものことですわ」とおくみ[#「くみ」に傍点]が云った、「お泊りになるのはごく
たまですけれど、そういうときにはたいてい、お忍びでおでかけときまっていますわ」
「ながく待たなければならないのでしょうか」
 律が良人に訊いた。甲斐は紺染めの麻の帷子《かたびら》に、黒い帯をしめ、袴《はかま
》は着けず、黒い足袋をはいて、腰には脇差だけ差した。
「一刻ほどで戻るだろう」と甲斐は云った、「おくみ[#「くみ」に傍点]、提灯《ちょう
ちん》だ、――」
0052名無しさん@お腹いっぱい。
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2020/01/06(月) 20:33:24.84ID:6BFpHzrk
 裏木戸から外へ出た甲斐は、やはり紺染めの麻の布で顔を包み、白張りの小提灯で足もと
を照らしながら、石段の坂をおりていった。稲妻型におりてゆく石段の一方は、掩《おお》
いかぶさるような叢林《そうりん》で、やかましいほど虫が鳴きしきっていたし、ときどき
その虫が、提灯をめがけて飛びついて来た。
 石段をおりきって、その道を広小路に向かってゆくと、角から二軒手前に駕籠屋があった
。「政右衛門」という店で、甲斐の姿をみつけると、あるじの政右衛門が自分で出て来た。

「吉祥寺橋だ」と甲斐は提灯を消しながら云った。政右衛門は黙って頷き、若い人足を三人
呼んで自分も身支度をした。
 政右衛門は三十五歳になる、不動の政といって、ひところは男達《おとこだて》として暴
れまわった。数年まえ、神田明神の祭礼のときに、五人づれの侍たちと喧嘩になり、危うく
斬られようとしているところを、通りかかった甲斐が仲裁にはいって、彼を助けた。それ以
来、政右衛門は甲斐に心服し、甲斐のためならいつでも命を捨てるつもりでいた。甲斐も政
右衛門のひとがらを愛し、金を出して駕籠屋の店をもたせてやった。
 ――お屋敷で下郎にでも使って下さいませんか。
 と政右衛門はせがんだ。
 ――いつもお側にいて御用を勤めたいんですが。
 しかし甲斐は駕籠屋の店をもたせた。
 むろん自分の都合ではない、いつか役に立てようなどとは考えもしなかった。彼を正業に
つかせ、妻を娶《めと》らせて、尋常な生活がさせたかったのである。だが、政右衛門は妻
はもらわなかった。いまでは酒もあまり飲まないし、遊侠《ゆうきょう》の群とのつきあい
もせず、くそまじめなくらい堅く稼《かせ》いでいた。
 去年から若い者も十五人になり、車坂のほうへ子店《こみせ》も出した。そうして、店を
もつとき甲斐の出してやった金を、少しずつ返すようになった。
 ――お返し申すのではございません、旦那の御恩はお返しできるものじゃあございません
、この金は預かっていただくのです。
 政右衛門はそう断わった。自分は自分が信じられない、と彼は云った。いまは堅気で稼い
でいるが、どんな機会にまたぐれだすかもしれない。いつかまたぐれだすような気がしてし
かたがない、そのときのために預かっておいてもらうのだ。そういうふうに政右衛門は云っ
た。
 甲斐に断わられるか、怒られるかと思ったからであろう。甲斐は「そうか」と云っただけ
で、その金はすなおに受取っていた。
 今年の三月、幕府から伊達家に小石川堀の普請が命ぜられたが、それ以来、甲斐はときど
き政右衛門の駕籠を使うようになった。それは人の眼を忍ぶ密会のためで、甲斐はなにも云
わなかったが、政右衛門は敏感にそれと察し、必ず供についた。
 政右衛門はその夜も駕籠の供についた。しりきり半纒《ばんてん》に、草鞋《わらじ》ば
きで、腰に木刀を差し、印のある提灯を持って、駕籠の先に立って駆けた。
 普請小屋まで十七八町。お茶の水を越しておりると、まもなく吉祥寺の前へ出る。その寺
はすでに駒込へ移ることになっており、境内の木などもおおかた伐《き》られていたが、そ
こにある橋は、まだ吉祥寺橋と呼ばれていた。
 甲斐は寺の前で駕籠をおりた。
「お待ち申しますか」と政右衛門が訊いた。
「うん」と甲斐は囁《ささや》いた、「駕籠は隠しておこう、おまえは木戸まで来てくれ」

 政右衛門は若い者たちに手を振った。甲斐は歩きだしながら、暗い道の左右にするどく眼
をくばった。
0053名無しさん@お腹いっぱい。
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2020/01/06(月) 20:34:00.08ID:6BFpHzrk
 一丁ばかりゆくと、小屋の柵があり、伊達家の定紋《じょうもん》のある高張《たかはり
》提灯が見えた。それが表木戸である。甲斐は柵の手前を北に曲り、低い声で「望月」をう
たいだした。政右衛門は提灯で足もとを照らしながら、甲斐の斜め前を歩いていた。
「……往き来の旅人を、とどめ申して、身命を継ぎ候」と甲斐はうたい続けた。酔った者の
微吟というふうな、ごく低い声であった、「……今日も旅人の、御通り候わば」
 そううたいかかると、柵の中から、これも低いさびた声で、こうつけるのが聞えた。
「おん宿を申さばやと、存じ候」
 甲斐は咳《せき》をした。政右衛門は振返って、甲斐の手まねを見て、提灯を消した。す
ると柵の中に提灯が見えた。
「待っていてくれ」
 右側に石置場がある、政右衛門はそっちへ隠れ、甲斐はさらに歩いていった。
 柵の中を動いていた提灯が停り、そこにある小者《こもの》用の木戸があいた。甲斐が木
戸をはいると、中年の武士が一人、提灯を持って、無言のまま案内に立った。それは茂庭家
の用人、紺野四郎兵衛という者であった。
 仮屋《かりや》造りの小屋の、坪庭へはいり、縁側へあがると、茂庭周防が待っていた。
周防|定元《さだもと》は甲斐より三つ若い、背丈も甲斐より少し低いが、肉づきはよく、
躯は逞《たくま》しい。濃い眉、きれあがった大きな眼、そしてひきむすんだ口つきなどに
、意志のつよい性格があらわれているようであった。
「途中、大丈夫でしたか」
「だと思います」
「どうぞ、お待ちかねです」と周防が云った、「夕方の五時から酒で、まだ続いているが、
酔ったような顔もなさらない、むかしからあんなにお強かったのですか」
「そういう噂ですね、私は酒のお相手をしたことはないが」
 甲斐はかぶりものをとり、足袋をぬいだ。周防は奥座敷へ案内した。
 伊達安芸《だてあき》は酒を飲んでいた。給仕をしているのは、安芸の側用人の千葉三郎
兵衛であった。千葉は甲斐を見ると、少しその座をさがった。
 安芸|宗重《むねしげ》は白の清絹《すずし》の着ながしで、あぐらをかいて、右手に扇
子、左の手に盃を持って飲んでいたが、甲斐が坐ると、盃を持った手で「こちらへ」という
動作をした。
 甲斐は旅の無事を祝ってから、設けられた席へ坐った。
「久方ぶりだ、一つまいろう」と安芸が云った。甲斐は辞退した。
「人を待たせております、戻りをいそがなければなりませんので」
「こんな窮屈なことになっておろうとは思わなかった」と安芸が云った、「いつもこんなふ
うにして会わなければならぬのか」
「三月以来のことです」と周防が云った、「はじめは気がつきませんでしたが、密議に類す
ることが、筒抜《つつぬ》けに外へもれますので、注意してみると到るところに間者《かん
じゃ》が配ってあるようなのです」
「話しを聞こう」と安芸は甲斐を見た、「下総《しもうさ》の中田宿《なかたじゅく》で松
山どのからの密使に会った、藩家の大事について申し告げたいから、江戸入りは内密にして
、まず此処《ここ》へ来いということだ、それでゆうべ着いたのだが、そこもとが同席でな
ければ話しはできぬという」
「ひとり口では申し上げられないことでしたし、また船岡どのもまだ知らない、新たな秘事
がわかったのです」
「話しを聞こう」
 安芸はそう云って、盃を膳に置いた。
「五日まえのことです」と周防が云った、「久世《くぜ》侯、御存じでしょうか、将軍家|
側衆《そばしゅう》のひとりで、大和守広之《やまとのかみひろゆき》と申され、綱宗さま
御家督のときから、いろいろ便宜をはからって下さるのですが」
「そのことは聞いている」
「堀普請が始まって以来も、たびたび御周旋を願うことがございました」と周防は云った、
「その久世侯から五日まえに、夜ぶんに忍びでまいれという使いがあったのです、その日は
おりあしく、築き立てた堀堤が崩れまして、補強工事のため手があきません、それで夜が明
けてからまいったのですが」
0054名無しさん@お腹いっぱい。
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2020/01/06(月) 20:34:25.80ID:6BFpHzrk
「久世邸は近いのか」
「西丸下にあります」と周防が云った、「時刻はずれでしたが、すぐに会うとのことで、そ
のまま寝所へとおされました」
「――寝所へとな」
「密談のためだったのです」と周防は云った。
 甲斐はしずかに、扇子で蚊を追った。酒肴《しゅこう》の膳《ぜん》があるためか、ひど
く蚊が多かった。安芸や周防は扇子を使わなかった。二人は話しの重大さに気をとられて、
うるさいほどの蚊にも気づかないようすであった。
 たしかに周防の話しは重大であった。
 それは、老中の酒井|雅楽頭《うたのかみ》[#1段階小さな文字](忠清)[#小さな
文字終わり]と、伊達|兵部少輔宗勝《ひょうぶしょうゆうむねかつ》とが結託のうえ、仙
台六十万石を横領しようとして、その計画を現にすすめている、というのであった。
「不可能なことだ」と安芸が云った、「そんなことが実際にできるわけはない」
「しかしその第一はもう事実になりました」
「第一とは」
「殿の御逼塞《ごひっそく》です」
 安芸はぎらっと周防を見た。「――御逼塞が、その謀計の一つだというのか」
「第二は跡式《あとしき》の件です」と周防は云った、「御存じのようにいま御継嗣につい
て、入札《いれふだ》がおこなわれることになっておりますが、その結果によっては、六十
万石を二つに割り、三十万石を一ノ関さま、十万石を白石[#1段階小さな文字](片倉小
十郎)[#小さな文字終わり]どの、残余はしかじかに分配すると、数度にわたって談合が
あったというのです」
「久世侯が申されたのだな」
「しかも、所領分割のことは、すでにその人々にも通じているかもしれぬ、白石どのなどは
十万石ということであるから、さもあるまいが特に注意するように、とのことでした」
 安芸の躯が動かなくなった。甲斐は沈んだ眼つきで、しかし殆んど無感動に、黙って扇子
を使っていた。
「六十万石を二つにか」と安芸が云った。
「六十万石を二つにです」と周防が云った。
 安芸はしずかに顔をあげた。白いものの混っている髪が燭台の火をうけてきらきらと光り
、いままで酔った色のみえなかった顔が、赤く充血していた。
「――そうはさせぬぞ」安芸は低い声で云った、「もしそんな謀計があるとしてもそうはさ
せぬ、だが、いったいそれはなにが原因だ、なにがもとでそんな謀計が始まったのだ」
「わかりません、しかし思い当ることはございます」
「それを聞こう」
「その一つは酒井家と一ノ関さまとの縁組です」
 安芸はちょっと考えたが、すぐに頷《うなず》いた。去年、兵部宗勝の長子八十郎と、雅
楽頭の女《むすめ》とのあいだに、婚約が定《きま》ったことを思いだしたのであった。雅
楽頭の女とはいうが、事実はそうではない。雅楽頭の夫人は姉小路公量《あねのこうじきん
かず》の女で、その夫人の妹を、雅楽頭の養女として八十郎と婚約したものであった。
 また、八十郎は今年になって元服し、東市正宗興《いちのかみむねおき》となのったが、
年はまだ十二歳だった。
「姻戚《いんせき》関係になるとすれば、一ノ関さまを諸侯の列にあげたい、そういうとこ
ろから始まったのではないかと思うのです」
「しかし、現に一ノ関は一万石の直参《じきさん》大名ではないか」
「それも厩橋《うまやばし》侯の尽力によるものだったことを、御存じありませんでしたか

 安芸は答えなかった。
0055名無しさん@お腹いっぱい。
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2020/01/06(月) 20:34:56.15ID:6BFpHzrk
「私はこう思うのです」と周防はつづけた。
 兵部と雅楽頭の関係は古い。兵部宗勝は政宗の第十子で、母は側室の多田氏であった。十
六歳のとき父政宗が死んだあと、兄の忠宗の厄介になっていたが、正保元年、二十四歳のと
き、兄にすすめられて江戸へ出て来、まもなく一万石の直参大名になった。直参大名とは譜
代と同格の意味であって、明くる二年、従五位下の兵部少輔に任じ、同じ四年に立花《たち
ばな》[#1段階小さな文字](左近将監《さこんしょうげん》)[#小さな文字終わり]
忠茂《ただしげ》の妹を娶《めと》った。
 立花忠茂の夫人なべ[#「なべ」に傍点]姫は、兵部の兄忠宗の長女だから、つまり重縁
になったわけであるが、これらはみな雅楽頭の好意と助言によるものだといわれた。
「私はこう思うのです」と周防は云った、「厩橋侯がしんじつ一ノ関さまを直参大名にとり
たてるなら、所領は幕府から与えられなければならない、にもかかわらず、一万石は伊達領
から分けられたもので、名は直参でも事実は仙台御一門でございましょう」
 安芸は「うん」と頷いた。
「それと同じ意味で、こんどは仙台領を二分した三十万石を一ノ関さまに、という考えでは
ないかと思います。なにしろ侯は当代ならびなき権門であり、性質もとりわけ剛毅|豁達《
かったつ》で、思うことはとおさずにおかぬという人物のようですから」
「だがほかに人がいないわけではあるまい」と安芸が云った、「将軍家補佐として保科《ほ
しな》[#1段階小さな文字](正之《まさゆき》)[#小さな文字終わり]侯もおり、川
越の侍従[#1段階小さな文字](松平信綱)[#小さな文字終わり]もおられる筈だ」
「保科侯は御病弱です」と周防が云った、「そして、お忘れではないと思いますが、外様《
とざま》大名をとりつぶすことにかけては、川越侯は名手といわれている人です、そうでは
なかったでしょうか」
 安芸は答えなかった。伊達六十万石を寸断すると聞けば、信綱はむしろ歓迎するかもしれ
ない。信綱だけではない、幕府そのものが歓迎するだろう、安芸はこう思って、われ知らず
低く呻《うめ》いた。
 半刻ほどして、甲斐は小屋を辞去した。
 木戸まで紺野四郎兵衛が送って来た。空はいつか曇って、星一つ見えない、木戸を出ると
、外は闇であった。
 政右衛門は、もとの処に待っていて、甲斐が近づくと、「御前《ごぜん》ですか」と云っ
た。
「御前はよせ」と甲斐が云った、「変ったことはなかったか」
「ございませんでした」
「帰ろう」と甲斐は云った。
「すっかり曇っちまいました、足もとが危のうございますから、提灯をつけます」
「足もとは大丈夫だ」
「つけてはいけませんか」
「もう少し待とう」
 二人は用心しながら歩いた。
 注意しなければならないのは、来るときよりも帰るときである、と甲斐は思った。周防の
まわりにも見張っている眼があるにちがいない、対談を聞かれる心配はないが、跟《つ》け
られるおそれは充分にある、甲斐はそう思った。
 堀端《ほりばた》へ出て曲り、駕籠を待たせてある処へ来ると、そこでややしばらくよう
すをみた。そして、跟けて来る者のないことをたしかめてから、はじめて、甲斐は駕籠に乗
った。
 ――雅楽頭か。
 駕籠の中で彼は眼をつむった。
 ――これはむずかしいな。
 ひどくむずかしい、と甲斐は思った。綱宗の逼塞に、兵部と雅楽頭の連絡のあることはわ
かっていた。綱宗の遊蕩を、雅楽頭に通じたのは兵部である。綱宗が新吉原へかよい始めて
、僅か十日ばかりで雅楽頭から注意があった。酒井邸へ親しくでいりしているのは、兵部だ
けである。
0056名無しさん@お腹いっぱい。
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2020/01/07(火) 00:53:30.51ID:XHellqth
「そうです、ひどく苛《いら》いらしたおちつかないようすで、はかられた、はかられたと
申し、どうしたらいいか、などと、苦しそうに独り言を云っていました」
「その明くる晩、刺客が来たのか」
「その明くる晩でした」
 六郎兵衛は茶を啜《すす》った。
「兵部のしごとだ」と六郎兵衛は云った、「兵部が四人をそそのかし、そそのかした事実を
抹殺するために、四人を片づけたのだ」
「貴方《あなた》もそうお考えですか」
「みや[#「みや」に傍点]の話で推察したんだ」と六郎兵衛は云った、「みや[#「みや
」に傍点]の話しでは、渡辺どのは食禄を加増され、重く用いられる筈だった、一ノ関が明
らかにそう約束したと、酔ったまぎれに云ったそうだ」
「私は兄の恨みをはらします」
「まあおちつけ」
「私はおちついてはいられないんです」と新八は云った、「私はたよる親類もなし、親類は
あってもこんな事情だからたよってはゆけないし、それに、それに私は」
「金のことか」
「そうです、私はもう、二三枚の銭しか持っていないんです」
「心配するな」と六郎兵衛が云った。
「そうよ、お金のことなんか心配することはないわ」
 とおみや[#「みや」に傍点]が云った。
「おまえは黙れ」と六郎兵衛が云った、「兵部をうらみたいのはそこもとだけではない、妹
の主人を殺されたおれも、このまま手をつかねてはおらぬつもりだし、また、他の二人にも
遺族があるだろう」
「はい、畑さんに二人、宇乃という娘と、虎之助という小さい子がいます」
「そこもと一人の敵《かたき》ではない、そうだろう」
 新八は俯向《うつむ》いた。
 ――兵部め、搾ってくれるぞ。
 と六郎兵衛は思った。
 ――骨の髄まで搾ってくれるぞ。
 彼は茶碗を置いて、「着物を出せ」と云った。おみや[#「みや」に傍点]はすぐに立っ
ていった。
「時期を待て、このおれが付いている」と六郎兵衛は云った、「いつか必ず、おれが討たせ
てやるぞ」

[#3字下げ]こおろぎ[#「こおろぎ」は中見出し]

「もうよくってよ」とおみや[#「みや」に傍点]が云った、「着物はそっちで脱いでらっ
しゃい」
 新八は「ええ」といった。彼は六郎兵衛の単衣《ひとえ》を着ていた。この家へ来てから
十余日、肌着や下のものはおみや[#「みや」に傍点]が新調してくれたし、着物は六郎兵
衛のお古を着せられていた。
「なにをしているの」と勝手でおみや[#「みや」に傍点]が云った。
 新八は「いま」と云いながら、不決断に帯を解いた。おみや[#「みや」に傍点]が勝手
口から顔を出した、「なにしてるの、あたしが脱がせてあげましょうか」
「大丈夫です」新八は下帯だけになった。
 勝手はひどく狭い。そこに盥《たらい》が置いてあり、半分ほど湯が入れてあった。おみ
や[#「みや」に傍点]は手拭を渡しながら、新八と入れ換った。
「下帯をとりなさいな」おみや[#「みや」に傍点]が云った、「今日は代りのがまだ乾い
ていないでしょ、それを濡らすと緊めるのがなくってよ」
「ええ、でもこれで」
「いいじゃないの、よそではいるんじゃなし人が見るわけでもなし、あたしだっていつもそ
うするのよ」
0057名無しさん@お腹いっぱい。
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2020/01/07(火) 00:54:36.91ID:XHellqth
 新八は頷いたが、両手を脇に垂れたまま立っていた。
「どうしたの、新さん」
「ええ、いま」
「あらいやだ、恥ずかしいの」
「あっちへいって下さい」
「恥ずかしいのね」
 新八は黙っていた。おみや[#「みや」に傍点]は上気した顔で、可笑《おか》しそうに
彼を眺め、それからわざと強い調子で云った。
「冗談じゃないわよ、新さん、男のくせになによ、そんなこと恥ずかしがるなんてだらしが
ないじゃないの、はっきりしなさいよ」
 新八は下帯をとった。おみや[#「みや」に傍点]は彼の背中を平手で叩き、くくと笑い
ながら六帖のほうへ去った。
 新八は盥の中へはいった。盥は小さくはなかったが、片方が壁、片方に釜戸《かまど》が
あるので、躯をながすには窮屈であった。彼は片膝《かたひざ》を立て、手拭をぬるま湯に
浸しては、そろそろと躯をしめした。するとおみや[#「みや」に傍点]が覗《のぞ》いた

「そうね、男が行水をつかうには此処《ここ》はちょっと無理ね」とおみや[#「みや」に
傍点]が云った。
 新八はびくっと身をちぢめた。おみや[#「みや」に傍点]はそばへ来た。
「あたしがながしてあげる」
「大丈夫です」と新八が云った。
「ながしてあげるわよ」
「よして下さい、大丈夫ですから」
 新八は肩をすくめた。おみや[#「みや」に傍点]がすばやく手拭を取りあげると、壁へ
湯がはねた。
「ほらごらんなさい、湯がはねるじゃないの」とおみや[#「みや」に傍点]が云った、「
湯がはねるからながしてあげるっていうのよ、じっとしてらっしゃい」
 新八は固くなった。
「ずいぶんしっかりした躯をしてるのね、裸になると十六だなんて思えやしないわ、ここの
ところなんて肉がこりこりしてるじゃないの」
 おみや[#「みや」に傍点]は片手で彼の肩をつかみ、片方の手にまるめた手拭を持って
、それで彼の肩や背中をこすった。新八の白い膚は、こするにしたがって赤くなった。まだ
少年らしい柔軟な薄い膚であるが、育ちざかりの、新鮮な、活き活きした力の脈|搏《う》
っているのが、その膚の下に感じられた。
「あら、どうするのよ」とおみや[#「みや」に傍点]が云った、「そんなに逃げちゃあな
がせないでしょ」
「擽《くすぐ》ったいんです」
「子供のようなこと云わないの、しゃんと力をいれてなさいな、ずいぶん垢《あか》がよれ
るわ」
 おみや[#「みや」に傍点]の顔は赤くなり、力をいれるので息も荒くなった。おみや[
#「みや」に傍点]が立ったり跼《かが》んだりするたびに、彼女のからだの匂いと香油の
香が新八を包み、彼女の荒い呼吸が、うしろ頸《くび》や、肩や、背中を熱く撫《な》でた
。新八は息ぐるしくなり、ますます固くなった。
「こんどはお手て」とおみや[#「みや」に傍点]は彼の右腕をつかんだ、「もっと伸ばし
て」
「もう自分でやります」
「伸ばすのよ、そんなに世話ばかりやかせるとぶってあげるから」
0058名無しさん@お腹いっぱい。
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2020/01/07(火) 00:55:16.27ID:XHellqth
 新八は右手をあげ、右手のあったところへ左手を置いた。おみや[#「みや」に傍点]の
眼がすばやく動いた。彼女は脇へまわり、新八の腕をあげて、腋《わき》のほうを洗った。
新八は「あ」といいながら、左の手でおみや[#「みや」に傍点]の手をよけ、右手をふり
放した。湯を打ったので湯がはね、おみや[#「みや」に傍点]の顔にまではねかかった。
そのときまた、おみや[#「みや」に傍点]の眼がすばしこく動いた。
「まあひどい、乱暴ね」
「だって擽るから」新八は赤くなった。
「こんなに湯をはねかして」
「済みません」
 そのとき戸口に人の声がした。
「うちかしら」とおみや[#「みや」に傍点]が云った。
 その声は戸口でしていた。おみや[#「みや」に傍点]は「はい」と答え、持っている手
拭を絞って濡れたところを拭き、はしょっていた裾をおろすと、襷《たすき》をとりながら
出ていった。
 戸口にはみなれない侍が立っていた。
「柿崎さんのお住居はこちらですか」
「はい、柿崎でございます」おみや[#「みや」に傍点]は膝をついて、相手を見あげた。

 それは三十歳ばかりの、躯の痩《や》せた、おちくぼんだ眼のするどい、貧相な浪人者で
あった。
「私は野中又五郎という者ですが」とその侍は云った、「柿崎さんは御在宅ですか」
「ただいま留守でございます」とおみや[#「みや」に傍点]が答えた。
 浪人は「はあ」といった。その顔に失望の色がつよくあらわれ、おみや[#「みや」に傍
点]から眼をそらして、溜息をついた。
 ――どういう人だろう。
 とおみや[#「みや」に傍点]は思った。兄のところへは訪ねて来る者は殆んどない、兄
にもつきあう者はあるようだが、この家へ伴れて来ることはなかった。人とのつきあいは外
だけに限っているのだろう、野中というその浪人も、おみや[#「みや」に傍点]は初めて
見る顔であった。
「なにか御用でしょうか」とおみや[#「みや」に傍点]が訊いた。
「困ったな」浪人は困ったなと繰り返した。いかにも途方にくれたという云いかたであった

「お帰りはわかりませんか」
「昨日でかけたままですから、今日はたぶん戻るだろうと思いますけれど」
 新八にもその問答が聞えた。
 彼は戸口の声が侍だとわかったとき、伊達家の追手ではないかと思い、かっとなりながら
、濡れた躯をよくも拭かずに、手ばしこく着物を着た。彼が着物を着てしまい、こちらの六
帖でようすをうかがっていると、侍はまもなく帰ってゆき、おみや[#「みや」に傍点]が
戻って来た。
「誰ですか」
「あら、もう出ちゃったの」
「いまのは誰ですか」
「心配しなくっても大丈夫、兄のところへむしん[#「むしん」に傍点]にでも来たんでし
ょ、おちぶれた恰好をして、あたしも見たことのない人よ」
 新八は坐った。
「あたしも汗をながそう」とおみや[#「みや」に傍点]は云った、「新さん済まないけれ
ど蚊遣《かや》りを焚《た》いてちょうだい、わかるでしょ」
「わかります」新八は立ちあがった。
 彼が干した蓬《よもぎ》を火鉢で焚いていると、勝手でおみや[#「みや」に傍点]が、
盥の湯かげんを直すのが聞えた。
 それから彼女は六帖へ来て、着物を脱ぎ、裸になって勝手へ戻った。
0059名無しさん@お腹いっぱい。
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2020/01/07(火) 00:55:53.88ID:XHellqth
「新さん」とおみや[#「みや」に傍点]が勝手から云った、「お使いだてして済まないけ
れど、そこに糠袋《ぬかぶくろ》があるから取ってちょうだいな」
 新八は「はあ」といったが、煙にむせんで咳《せき》こんだ、「どこですか」
「鏡架けの脇に掛けてあるでしょう」
 糸で括《くく》った糠袋が、鏡架けに掛けてあった。煙がしみて涙の出る眼をこすりなが
ら、彼はそれを障子のところからさしだした。
「こっちへ来てよ、無精ね」とおみや[#「みや」に傍点]が云った、「そんなところから
じゃ届きゃしないわ、こっちへはいって来てちょうだいな」
 新八は勝手へはいって、眼をそむけながら糠袋を渡した。おみや[#「みや」に傍点]は
くくっと笑った。
「どこを見ているの、新さん」
「煙が眼にはいったんです」
「ちょっと」おみや[#「みや」に傍点]が呼び止めた、「あんた、ずいぶん薄情ね、その
ままいってしまうの」
「なんですか」
「あたしだってながしてあげたじゃないの、背中ぐらいながしてくれるものよ」
 新八は向うを見たまま立っていた。
「ねえ、背中だけでいいわ」
 新八は黙っていた。
「そんなにうしろ向きに石地蔵を置いたように突っ立ってないで、こっちを見てなにかお云
いなさいな、ねえ新さん、あんたあたしの裸を見るのが恥ずかしいの、そうでしょ、あんた
いろけづいたんだわ」
 新八は拳《こぶし》をにぎった。
「そうじゃなければ、背中ぐらいながせない筈はないことよ、だって、あたしたちきょうだ
いになるって約束したんですもの」
「蚊遣りが、消えますから」と新八がいった。
「いいわよ、たんとそうなさい、もう頼まないわ」
「済みません」
 新八は六帖へ去った。うしろでおみや[#「みや」に傍点]の、含み笑いが聞えた。
 彼はついにおみや[#「みや」に傍点]のほうを見なかった。しかし、もう薄暗くなりか
けた勝手のそこに、脂肪ののった、白い、素裸な女の体のあることは、眼で見るよりも鮮や
かに、なまなましく彼の感覚が見ていた。
 ――おれは堕落した。
 新八は心のなかで思った。これまで、かつてそんな感情を味わったことはなかった。異性
に対する漠然とした、あこがれの気持はあった。同じ年の友達のなかには、おとなぶったふ
りをして、ずいぶん露骨な話しをする者もある。なかには売女《ばいた》と寝たなどといっ
て、誇らしげにそのようすを語る者もいたが、新八には理解もできなかったし、そういうこ
とに興味もなかった。
 彼が身ぢかに知っていた女性は、母と一人の姉だけであった。母も姉も亡くなったが、母
や姉のところに来る女客のなかに、好きなひとがいて、そのひとが来るとよく母たちの客間
へいっては叱られた経験があった。おそらくそれも漠然とした興味、ごく単純な女性という
ものへの関心という程度であったろうが、それらの人たちには、母や姉とちがった、一種の
胸のときめくような感じを、与えられたものであった。
 おみや[#「みや」に傍点]のばあいは、そういう経験とはまったくかけはなれていた。
彼はいま、毎日、自分が汚れてゆくように思えるのであった。
 ――おれはだんだん堕落する、堕落してゆくばかりだ。
 新八はそう思った。おみや[#「みや」に傍点]との生活はまだ半月くらいにすぎないが
、彼を絶えず混乱と羞恥《しゅうち》で動揺させた。おみや[#「みや」に傍点]といっし
ょにいると、これまで彼の知らなかった感情や感覚が、彼のなかにめざめ、つよい力で彼を
支配しようとする。しかも彼は、自分がそれに抵抗できなくなるだろう、ということを感じ
、そのために自分が不潔で、けがらわしく思われる。
0060名無しさん@お腹いっぱい。
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2020/01/07(火) 00:56:26.39ID:XHellqth
 ――この家を出てゆこう。
 出てゆかなければならない。幾十たびとなくそう決心した。しかし出てはゆけない、彼は
その家を出てゆくことはできなかった。
 ――金も持ってはいないし、仙台藩の追手に捉《つか》まるだろう。
 たしかに、そのとおりだった。それは決して「口実」ではない。口実ではないか。たしか
に「口実」ではないか。新八は自分を恥じ、自分を不潔に思った。
 おみや[#「みや」に傍点]は浮き浮きしていた。夕餉《ゆうげ》の支度をしながら、あ
まえた声で新八に話しかけ、なにか楽しいことでもあるように、鼻唄をうたったりした。―
―二人が食膳に向かったとき、六郎兵衛が帰って来た。彼は酔っていた。そして、いつもの
ように酒を命じ、奥の六帖で飲みだした。
 六郎兵衛が飲みだすとまもなく、隣りのお久米が戸口へ来て、おみや[#「みや」に傍点
]と何か話しだした。お久米は日本橋のほうの、回船問屋をしている老人のかこい者で、お
みや[#「みや」に傍点]の話しによると、六郎兵衛に想いをかけているのだという。
 ――ずっとまえからよ。
 と新八に云ったことがある。
 ――でも兄はだめなの。ずいぶん辛抱づよく云いよるんだけれど、てんで見向きもしない
のよ、見ていて可哀そうなくらいだわ。
 いまもくどくど頼んでいるのは、なにか酒の肴《さかな》を持って来て、酌をさせてもら
いたい、とせがんでいるようであった。だがまもなく、六郎兵衛が「みや[#「みや」に傍
点]」と尖《とが》った声で呼び、云いさとされたのだろう、お久米はそっと帰っていった
。こちらにいる新八にも、お久米の落胆していることがわかるような、よわよわしく哀しげ
な挨拶ぶりであった。
「ああ、今日お客さまがみえましたよ」
 給仕をしながらおみや[#「みや」に傍点]の云うのが聞えた。
「野口、いいえ、あらいやだ、なんていったかしら、野口じゃなかったわね」
「もの覚えの悪いやつだ」
「さっきまでちゃんと覚えていたのよ」
 新八がこちらで咳をし、そして云った、「野中又五郎といっておられましたね」
「あら、そうかしら」
「野中又五郎といっておられましたよ」
「わかった」と六郎兵衛が云った、「野中ならわかっている、飯にしてくれ」
「あら、もういいんですか」
「飯にしよう」と六郎兵衛は云った、「すぐでかけなければならない」
「今夜もですか」
「茶漬で食おう」
 食事を簡単に済ませると、もういちど着替えをして、六郎兵衛は出ていった。
「野中さんがみえたら、なんて云っておきますか」
「来はすまいが、来たら寺へいったと云っておけ」
「お寺ですって」
「云えばわかる」
 そして彼は出ていった。
 その夜半、新八は夢でひどくうなさ[#「うなさ」に傍点]れた。断崖《だんがい》の裂
け目にはいったまま、どうしてもぬけだすことができず、断崖が両方から圧迫して来て、い
まにも圧し潰《つぶ》されるかと思うほど苦しい。殆んどみしみしと骨のきしむ音が聞える
くらいだった。おそらくごく短いあいだのことだったろうが、苦しさのあまり彼は呻《うめ
》き声をあげ、そして眼をさました。するとあまい香料がつよく匂い、自分が誰かに、上か
ら抱きしめられていることに気づいた。まだ眠りからさめきらず、半ば悪夢のなかにいなが
ら、彼は上から抱かれていることに気づき、その抱擁からのがれようとして、身をもがき、
手を振ろうとした。しかし呻き声が出るだけで、身動きもできず、手は、まるで金縛りにで
もされたように、まったく自由にならなかった。
0061名無しさん@お腹いっぱい。
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2020/01/07(火) 00:57:02.84ID:XHellqth
「じっとしてて」と耳のそばで喘《あえ》ぐのが聞えた、「じっとしてらっしゃいね、新さ
ん、じっとしてるの、わかって」
 新八は首を振った。ねっとりとした、火のように熱いものが、唇を押え、耳たぶに触れ、
また唇を痛いほど吸った。新八はようやく眼ざめ、殆んど恐怖におそわれながら、その腕を
つかみ、身をよじった。相手は手と足とで絡みつき、押え、のしかかって緊めつけた。ぬめ
ぬめとした火のように熱いものが、頬に頸に吸いつき、肩に歯を立て、そうしてあらあらし
い喘ぎで彼を包んだ。
「いやです」と新八は手を払った、「よして下さい、いやです」
 新八ははね起きた。相手は「痛い」といった。行燈が消えていて、部屋の中はまっ暗であ
った。
「ひどいのね」と闇のなかでおみや[#「みや」に傍点]が云った。新八は坐ったまま、う
しろへしさった。すると、背中が壁につかえた。
「ひどい新さん、あんまりよ」とおみや[#「みや」に傍点]が云った。
 新八は立って、手さぐりで襖をあけた。彼は外へ出ようと思った。
「新さん、どうするの」とおみや[#「みや」に傍点]の立つけはいがした、「どうするの
よ、新さん」
「ちょっと、――」と新八が吃《ども》った。その声はみじめにふるえていた。彼は三帖の
ほうへ出た。
「待って、待ってよ」おみや[#「みや」に傍点]が追って来た、「堪忍して、あたしが悪
かったわ、あやまるから堪忍して、ね、新さん、もうなんにもしないから、堪忍してちょう
だい」
「来ないで下さい」新八が云った、声はまだおののいていた、「こっちへ来ないで下さい」

「ええいいわ、いかないわ、おとなしくするわ、だからあんたも戻って来て」
「私は此処《ここ》にいます」
「もう決してなにもしないから、ねえ、お願いよ新さん」
「来ないで下さい」
「ゆきゃあしないことよ、ほら、こっちにいるじゃないの」
「構わないで寝て下さい、私は少しこうしています」
「だめよ、そんなこと、もうしないってあやまってるじゃないの、お願いだから戻って寝て
ちょうだい、お願いよ、新さん」
「私は少しこうしています」
 新八はその三帖で坐った。
 おみや[#「みや」に傍点]はなおくどいた。新八はもう返辞をしなかった。おみや[#
「みや」に傍点]は戻って行燈に火をつけ、ではあたしは寝ます、と云った。新八は黙って
いた。おみや[#「みや」に傍点]は本当にもうなにもしない、と誓い、あたしが眠って、
もう安心だと思ったらあんたも寝てちょうだい、と云った。
 新八は壁に背をよせて坐っていた。おみや[#「みや」に傍点]は寝床の中へはいった。

 ――こんなことになるだろうと思った。
 彼は心のなかで思った。寝しずまった夜半すぎの床下で、しきりにこおろぎが鳴いていた
。新八はそっと手の甲で眼を拭いた。
 新八の気のつかないうちに、おみや[#「みや」に傍点]は、ひと夜ごとに夜具の間隔を
ちぢめて来た。やがて気がついたが、彼にはなにを云うこともできなかった。彼は自分が、
そんなことで文句を云える立場ではない、と思った。おみや[#「みや」に傍点]は寝返り
を打って、手や足を、新八の夜具へのせることもあったが、彼はそっと躯をずらせるだけで
、押し返したり、よび起こして注意するようなことはしなかった。そして、とうとうこんな
ことになった。新八は寝衣の袖で、自分の唇や、顔や頸などを拭きながら、嘔吐《おうと》
の発作におそわれた。
0062名無しさん@お腹いっぱい。
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2020/01/07(火) 00:57:30.03ID:XHellqth
「堪忍してね、新さん」六帖でおみや[#「みや」に傍点]が囁《ささや》いた、「あたし
あなたを、弟のように思っていたの、弟のように思っているうちに、情が移ってしまったの
よ、辛いわ」とおみや[#「みや」に傍点]が囁いた。
「あたしもう決して、あなたのいやがるようなことはしないわ、だから、嫌わないでね」
 おみや[#「みや」に傍点]の啜り泣くのが聞えた。新八はこおろぎの声に聞きいってい
た。

[#3字下げ]石火[#「石火」は中見出し]

 住居を出た柿崎六郎兵衛は、旅籠町《はたごちょう》までまっすぐにゆき、二丁目を右へ
曲って、西福寺という寺へはいった。
 彼はそのまま出て来なかった。
 明くる朝、その寺の土塀《どべい》に付いたくぐり門から、二人の浪人者がはいってゆき
、十時ころ、さらに三人の浪人者がはいっていった。
 そして午後二時まえ、――六郎兵衛は一人の浪人者と、門から出て来た。その伴れは、あ
とからきた五人とはべつの男で、たぶん寺に泊っていたとみえるが、彼は野中又五郎であっ
た。
 旅籠町の通りへ出ると、そこで二人は別れた。野中は低頭して「では」と云った。六郎兵
衛は目礼もしなかった、彼は野中には眼もくれずに歩いてゆき、片町の角のところで辻駕籠
《つじかご》に乗った。
「宇田川町へやれ」と彼は駕籠の中で云った。
 駕籠が芝の宇田川町へかかると、そこで彼は駕籠をおり、宇田川橋を南へ渡って、伊達兵
部邸の門をおとずれた。
 名を告げると、わかっていたとみえ、番士が脇玄関へ案内し、そこで若侍にひきつがれた
。若侍は彼を接待の間へみちびき、「しばらく待つように」と云って去った。
 彼はながく待たされた。茶と菓子が二度出され、約二時間ちかく経ったとき、中年の侍が
あらわれて、自分は用人の只野内膳であるとなのった。六郎兵衛は黙って目礼した。
「御用のおもむきをうかがいましょう」と内膳が云った。六郎兵衛は黙っていた。内膳がも
ういちど、同じことを繰り返した。
「私は兵部少輔さまにおめにかかりたいと申し出てあります」と六郎兵衛は答えた。それは
わかっている、と内膳が云った。
「それは承知しているが、いちおう御用のおもむきをうかがうのが、用人としての私の役目
ですから」
 六郎兵衛は相手を見、それから冷やかに云った。
「いち言で申せば、一ノ関侯の御首にかかわることです」
 内膳は口をつぐみ、やがて、静かな声で云った、「それは一大事ですな」
 六郎兵衛は黙っていた。
「しかし、ただそれだけではあまりに唐突で、取次ぎの申しように困ります、もう少し詳し
いことをうかがえませんか」
「これでいけなければ帰るだけです」と六郎兵衛が云った。内膳はしばらく黙っていたが、
六郎兵衛が承知しないとみたのだろう、「しばらく」と云って立っていった。
 こんどもまた待たされた。
 そして四半|刻《とき》ほどして、四十五六になる小柄な、逞《たくま》しい躯つきの侍
が出て来、「家老の新妻隼人《にいづまはやと》である」となのった。
 六郎兵衛は、無遠慮に、相手を眺めた。
 新妻隼人も平静な眼で、六郎兵衛を見返していた。彼がなのったのに対して、六郎兵衛は
目礼はしたが、なにも云わなかった。隼人がまた云った。
「用向きを聞きましょう」
「わかりの悪い人たちだな」と六郎兵衛が云った、「同じことをなんど云わせればいいんだ
0063名無しさん@お腹いっぱい。
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2020/01/07(火) 00:58:00.80ID:XHellqth
「私が用向きを聞きます」
「侯には会わせないというんですね」
「用向きを聞きましょう」
 六郎兵衛は黙った。それから云った。
「私は非常な大事について、侯じきじきに会いたいと申しいれ、会うから来いという返事で
来たのだ」
「その返事は私が出したのだ」
「侯は知らぬというんですか」
「かようなことを、いちいち殿の採否にまつくらいなら、家老や用人はなくて済む、そうは
思われないか」
「これは尋常のばあいではない」
「どう尋常でないかを聞きたいのだ」
「侯に会って云いましょう」と六郎兵衛は云った、「さもなければ帰るだけだ」
 隼人はするどく彼を見た。
「よろしい」と隼人が頷《うなず》いた、「それではやむを得ません」
 六郎兵衛は眉も動かさずに、左手で刀を取って立ちあがった。
 隼人が声をかけると、案内をするために若侍が出て来た。六郎兵衛はその若侍について、
廊下を玄関のほうへと静かに歩きだした。そのとき、たぶんようすを聞いていたのだろう、
用人の只野内膳が、すり足で追って来た。
「しばらく」と内膳がよびかけた。
 六郎兵衛は黙って歩きつづけた。内膳は追いついて、「お上がお会いなされる」と云った
が、六郎兵衛は足を停めなかった。
「お待ち下さい、お上が会うと仰せられています、柿崎どの」
「いやだ」と六郎兵衛は歩きながら云った、「私は駆引きは嫌いだ」
「私どものおちどです、主人は知らぬことですから、どうぞ、どうぞしばらく」
 六郎兵衛は立停った、「貴方がたのおちどか」
「役目上やむを得なかったのです、どうぞ御了解のうえお戻り下さい」
「手数をかける人たちだな」
 六郎兵衛は冷笑し、そして頷いた。
「どうぞこちらへ」
 内膳が接待の間まで伴れ戻した。そこでまたひともめあった。刀をそこで預かるという、
六郎兵衛は拒絶した。刀を預かるというのは、さして不当な要求ではない。一万石あまりの
小大名にしろ、その前へ出るには作法がある。脇差はともかく、刀は置いて出るのが礼儀だ
った。しかし六郎兵衛は拒絶した。自分は誰の扶持《ふち》もうけていない浪人者である。
兵部どのには警告をしに来たのだから、対等でなくては会わない、と云った。
 そこにはすでに新妻隼人はいなかった。内膳は困って、いちど奥へ相談にゆき、戻って来
て「ではそのまま」と承知した。
 とおされたのは小書院であった。こんどは待たせなかった。六郎兵衛のそばには内膳がひ
かえ、兵部は小姓一人をつれて上段へ出て来た。六郎兵衛は軽く低頭した。
「――聞こう」と兵部が云った。六郎兵衛は大胆に、兵部の眼をみつめながら云った。
「人ばらいを願います」
 兵部は黙って見返し、それから云った。
「それほどのことか」
「侯のおためです」
 内膳がなにか云おうとした。兵部はそれを制止し、にっと微笑しながら云った。
「みなさがっておれ」
 小姓は持っていた佩刀《はかせ》を、刀架《かたなかけ》にかけて去った。内膳はちょっ
と躊《ため》らったが、しかしこれも入側《いりがわ》へさがった。
「聞こう」と兵部が云った。
「隼人どのからお耳に達したと思いますが、侯のおしるし[#「しるし」に傍点]を覘《ね
ら》っている者がございます」
0064名無しさん@お腹いっぱい。
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2020/01/07(火) 00:58:34.72ID:XHellqth
「どういう人間だ」
「おわかりの筈だと思います」
「では、なんのために来た」と兵部が云った、「おれが知っていると思うのなら、そのほう
が来る必要はなかろう」
「仰せのとおりです」
「ではなんのために来た」
「お役に立つかと思ったのです」
 兵部は黙った。
「誰が侯を覘っているか、それは御自身で知っておられると思います」六郎兵衛はゆっくり
と云った、「しかし、かれらが侯を覘う動機と、侯のお首を覘うだけでなく、べつに行動を
起こすかもしれないということは――」
 六郎兵衛は言葉を切った。兵部が笑ったからである。六郎兵衛が言葉を切ると、兵部は「
気にするな」と云った。
「聞いておる、つづけるがいい」
「私の申すことがお信じになれないようですな」と六郎兵衛が云った。すると兵部が云った

「おれは単直を好む、それだけのことだ」
「私は単直に申しています」
「よし、つづけるがいい」
 六郎兵衛は心のなかで、舌打ちをした。
 ――これは相当なやつだぞ。
 兵部が笑ったのは、意味があるのではなく、こちらの話しの腰を折るためである。こちら
の話しの調子に乗らぬために、わざと話しの腰を折ったのだ。
「かれらは」――と六郎兵衛は云った、「自分たちの父や、主人や、兄たちが、誰の手によ
って抹殺《まっさつ》されたか、その原因がなんであるかを、知っています」
「そのほうもか」
「私もです」
「妄想《もうそう》ではあるまいな」
「それは侯が御存じの筈です」
「あとを聞こう」と兵部が云った。
 六郎兵衛はずばずばと云った。さる人が渡辺ら四人に命じて、陸奥守に放蕩をさせ、綱宗
が逼塞になったこと、そこで放蕩をさせた事実を湮滅《いんめつ》するために、四人を暗殺
させたこと。これらはみな「さる人」の方寸によって行われたことであるし、暗殺された遺
族はみなそれを承知していることなど、まったく無遠慮に云ってのけた。
 兵部は聞き終ってから、「そのさる人と申すのが、余だというのか」と云って微笑した。

 六郎兵衛は答えなかった。兵部は微笑したまま云った。「それではさだめし、さる人がな
ぜそんなことをしたか、その理由もわかっておるだろうな」
「理由は表裏二面あります」と六郎兵衛が云った、「その一は、陸奥守どのが兄君お二人を
さし越して家督を相続された、これを正しくするということ、その二は、陸奥守どのに代っ
て、その人御自身が六十万石のあるじに直ろう、という御計画です」
「そして、それがこのおれだというのか」
「私はお役に立つつもりです」
「おれが六十万石のあるじに直るつもりだというのか」
「お断わり申しますが」と六郎兵衛は云った、「私がここへ参上するには、つかむだけのも
のをつかんだからのことです、御継嗣を誰にするかという入札《いれふだ》のことも、その
入札のなかに、一ノ関さまの御名のあったことも存じています」
 兵部の顔がひき緊った。六郎兵衛はそれをしかと認めてそうして云った。
「私はお役に立つつもりです」
「――望みを申してみろ」と兵部が云った。
0065名無しさん@お腹いっぱい。
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2020/01/07(火) 00:59:05.67ID:XHellqth
 六郎兵衛は平然と答えた、「さしあたり五百金、そのあとは月づき三百金、臨時の入費は
べつに頂戴いたします」
 兵部は六郎兵衛に興味をもったようであった。興味をもったという以上に、共通した性格
の一面が、つよく兵部をひきつけたといえるかもしれない。兵部は云った。
「おれは部屋住の苦いおもいを経験した」
「存じております」
「ひやめしの味も知っておる」と兵部は云った、「おれは金の価値を知らぬ大名そだちでは
ない、欲しいものがあっても、値段によっては買わずにがまんするようにそだって来た」
「私は使える人間を五人やしなっております」と六郎兵衛は云った、「かれらは素姓も正し
く、兵法武術にもひとなみ以上の心得がありながら、運の悪いために窮迫し、自分の命を売
って食わなければならない者たちです」
「その男たちも事情を知っているのか」
「私は必要のないことを情《じょう》にまかせてしゃべるような人間ではございません」
「そうらしいな」と兵部が頷いた、「金のことは隼人に申しつけよう」
「いや、侯御自身から頂きます」
「なぜだ」
「この契約は侯と私だけ、ほかには誰びとにも口だしをしてもらいたくないのです、お申し
つけになる御用も侯じきじき、お手当も御自身のお手から頂きます」
「家来どもは信用せぬと申すのか」
「私は人に頭を下げるのが嫌いでございます」
「覚えておこう」兵部は微笑した、「呼び出すにはどうしたらよいのだ」
「御用人に申しておきます」
「役に立つという証拠は」
「宮本新八という者を、御存じでございますか」
「知っておる」
「国もと預けになった筈でございますな」
「送る途中で脱走したそうだ」
「それを押えてあります」
「新八をか」
「宮本新八を押えておきました」兵部は懐紙を出して唇をぬぐった。唇を懐紙でぬぐいなが
ら、「どこへ」と云った。六郎兵衛は黙っていた。
「どこに置いてある」と兵部が云った。六郎兵衛は黙って、じっと兵部の眼をみつめた。兵
部は懐紙を捨てた。そして頷きながら云った。
「よし、手当を遣わそう」
 そして「これ」と振返った。
 六郎兵衛が兵部邸を出たのは、宵の八時にちかいじぶんだった。
 雨もよいの、ひどく蒸しむしする晩で、空には雲が低く道の上は暗かった。六郎兵衛は大
通りへ出て、宇田川橋のほうへ曲ったとき、そこでふと立停った。
 ――来るな。
 と六郎兵衛は思った。立停った彼は、振向きはしなかったが、うしろから人の跟《つ》け
て来るけはいは、まちがいなく感じることができた。
 それは兵部邸の、築地塀《ついじべい》の角《かど》に待っていたようである。そこで六
郎兵衛をやりすごし、間あいを計って跟けて来た。これだけのことが、かなりはっきりと感
じられたのである。斬るつもりか、それとも腕だめしか。いま尾行者は身を隠している。
 ――どっちだろう。
 六郎兵衛は道の左右を見た。辻駕籠をひろうにはどちらへいったらいいかと、迷っている
ようなかたちだった。
 彼はゆっくりと宇田川橋を渡った。道を左へはいると、伊達本家の中屋敷がある。そこは
左右ともずっと武家屋敷だから、まだ宵のくちではあるが、灯も少ないし人どおりもなかっ
た。
0066名無しさん@お腹いっぱい。
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2020/01/07(火) 00:59:37.13ID:XHellqth
 六郎兵衛はその道へはいっていった。尾行者は跟けて来た。伊達家の築地塀にかかり、門
長屋の武者窓の灯が、ほのかな光を、道の上に投げていた。そこへ来たとき、「いまだ」と
六郎兵衛は思った。彼の直感に紛れはなかった。それまでに間隔をちぢめて来た相手は、小
砂利の路上をつつと詰め、低い、ちぎれるような掛声と共に、うしろから突っかけた。
 的確な、みごとな突《つき》であった。六郎兵衛は相手の刀の切尖《きっさき》が、こち
らの躯《からだ》に当る刹那《せつな》、燕《つばめ》の返るように身を転じた。刀は六郎
兵衛の脇を――着物を貫き裂いたが、身を転じた六郎兵衛の手に、きらっと刀が光ったとき
、相手は毬《まり》のように走りぬけて、敏速に向き直っていた。
 相手はまだ若かった。黒っぽい着物に、袴《はかま》の股立《ももだち》をとり、襷《た
すき》をかけていた。汗止をする暇はなかったらしい、覆面もしていないし、足は足袋はだ
しであった。
「どうするんだ」と六郎兵衛が云った、「まだやるのか」
 相手は間あいを詰めた。黙ったままで、くいしばった唇のあいだに、歯が見えた。
「仕止めろといわれたのか」と六郎兵衛が云った、「きさまには無理だぞ」
 そのとき相手が斬りこんだ。真向から右胴へ、大きく跳躍し、くの字に身を沈めて。これ
もまたたしかな、呼吸も太刀さばきも水際立った打込みであった。
 真向へ来るとみえた刀が右胴へ切り返されたとき、六郎兵衛はすっと爪先だちになり、刀
を右に振りざま横へとんだ。相手は激しく膝をつき、その刀が地面を打った。刀は路上の石
に当り、火花がとんだ。石を打った刀の音と、そこから発した火花とは、その勝負の終った
ことを示すようであった。
 六郎兵衛は相手の面上へ刀をつきつけていた。
 相手は片方の膝をついたまま、はっはっと肩で息をしていた。六郎兵衛は上から、そのよ
うすをしばらく見ていた。門長屋の武者窓の、灯のさしている障子に、人の影が写った。い
まの物音を聞きつけたらしい、だが、障子をあけるようすはなかったし、その影もすぐに見
えなくなった。
「云いつけたのは誰だ」と六郎兵衛が訊いた、「兵部少輔か」
「斬れ」と相手が云った。
 六郎兵衛が云った、「兵部少輔の云いつけか」
「云うことはない斬れ」
「云わせてみせるさ」六郎兵衛は、相手の眉間《みけん》へ、刀の切尖をつきつけた、「云
わなければ、きさまを縛ってこのまま、出る所へ出てみせる、きさまがその人間の名を云わ
なくとも、仙台六十万石の名は出ずにはいないぞ」
「おれを斬れ」と相手は云った、「おれを斬ることはできるが、生きたまま縛ることはでき
ない、おれが自分で死ぬのをきさまが止めることはできないぞ」
「そうか、――」
 云うとたんに、六郎兵衛は相手の胸さきを蹴《け》あげた。彼は当身《あてみ》をくれる
つもりだったらしい、だが、そのとき、向うの暗がりから人が出て来た。
「もういい、そのへんでよしてやれ」とその男が云った。
 六郎兵衛は脇へとびのいた。尾行者は躯を横にねじって路上に片手をついたまま喘《あえ
》いでいた。男はこっちへ近よった。「誰だ」、と六郎兵衛が云った。
「そんなことを気にするな」と男は云った、「おまえさんの知りたいのは、その男におまえ
さんを斬れと命じた人間だろう。そいつはあの屋敷の家老で、新妻隼人という者だ」
「新妻隼人、――」
「一ノ関家の忠臣さ」とその男は云った、「それから、そこにいる気の毒な男は、渡辺七兵
衛という暗殺の名手だ」
「そこもとは誰だ」
「聞くことはそれだけか」
「そこもとは誰だ」と六郎兵衛が云った。
 男はくすくすと笑い、振向いて、たち去りながら云った。「おれは伊東七十郎」
 そしてなおくすくすと笑うのが聞えた。六郎兵衛は茫然と、みおくっていた。

[#3字下げ]柳の落葉[#「柳の落葉」は中見出し]
0067名無しさん@お腹いっぱい。
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2020/01/07(火) 01:00:04.78ID:XHellqth
 湯島の家の居間で、原田甲斐は机に向かって覚書《おぼえがき》を書いていた。
 その脇で、伊東七十郎が、酒を飲みながら、活発に話していた。午後四時すぎ。八月下旬
の日はもう傾いて、あけてある窓の外には、塀の向うの黒ずんだ松林と、その上に高くかか
った、茜色《あかねいろ》の夕雲が見えていた。――七十郎は酒肴《しゅこう》の膳を前に
、着ながしであぐらをかき、片手に盃《さかずき》を持って話していたが、ふと口をつぐん
で、夕雲のかかっている空を見あげた。
 座敷のほうから、唄や三味線の音が、賑《にぎ》やかに聞えて来る。そちらでは、甲斐の
妻のために、別宴がひらかれていた。律は明日、船岡へ帰るので、おくみ[#「くみ」に傍
点]があるじ役になって、小酒宴を催しているのであった。
「おかしいな、もうそんな季節かな」と七十郎が呟《つぶや》いた、「あれは雁《がん》で
しょう」
 七十郎は盃を持った手を、空のほうへあげた。甲斐は書きつづけていた。
 ――同じく八月十五日。
 と甲斐は行を改めた。
 ――老中より使者あり、酒井邸へまいる。一ノ関どの、涌谷《わくや》どの、弾正《だん
じょう》どの、周防《すおう》、大条、片倉どの、おのれとも七人。立花侯、奥山大学は不
参。
 老中がたは酒井[#1段階小さな文字](雅楽《うた》)[#小さな文字終わり]侯、稲
葉[#1段階小さな文字](美濃《みの》)[#小さな文字終わり]侯、阿部[#1段階小
さな文字](豊後《ぶんご》)[#小さな文字終わり]侯。またお側衆《そばしゅう》、久
世《くぜ》[#1段階小さな文字](大和《やまと》)[#小さな文字終わり]侯であった

 酒井侯より試問、周防その答弁に当り、大略左のような問答があった。
[#ここから2字下げ]
酒、――むつの守が不行跡によって逼塞を仰せつけられ、さきごろ跡式の儀を申し出るよう
にとお沙汰があったところ、亀千代をもって家督を願い出たようであるが、これに相違ない
か。
周、――亀千代をもって家督を願い出たに相違ございません。
酒、――亀千代は何歳になるか。
周、――去年[#1段階小さな文字](万治二年)[#小さな文字終わり]三月の出生にて
、当年二歳になります。
酒、――さような幼児に六十万石の仕置《しおき》ができると思うか。
周、――この儀については伊達一門、一家宿老ども熟談し、入札《いれふだ》のうえ決定し
たものでございます。
酒、――かような幼児に仙台六十万石の仕置はできない。故《こ》、政宗公の血統にて、十
五歳以上になる者を改めて願い出るがよかろう。
[#ここで字下げ終わり]
 酒井侯の言葉こそ藩家の大事であった。涌谷どのは身をふるわせ、息を詰めておられた。
酒井侯の言葉は、先夜、吉祥寺橋の普請小屋において、茂庭周防の語ったことと符を合わせ
るものである。
 涌谷どのはじめ、一同たましいも消えるおもいであった。周防は願いを繰り返し、酒井侯
は首を横に振った。
 酒井侯は平然と、亀千代君の幼弱を盾にとり、もっと年長の者を願い出るように、と繰り
返すばかりであった。そこで周防が云った。
[#ここから2字下げ]
周、――六十万石の仕置には後見を立てる法もありましょう、家督を相続する者は、むつの
守の実子のほかにはありません。亀千代こそ、故、政宗の正統であって、もし亀千代に家督
が許されないとなら、いっそ伊達家をとりつぶして頂きましょう。
0068名無しさん@お腹いっぱい。
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2020/01/07(火) 01:01:25.36ID:XHellqth
酒、――仙台をとりつぶせと。
周、――正統でない者に家督を命ぜられるくらいなら、むしろ六十万石をとりつぶされるほ
うがましでございます。
[#ここで字下げ終わり]
 周防の言葉には肺腑《はいふ》を刺すおもむきがあった。周防がそういう調子で、それほ
ど思いきったことを云おうとは、涌谷どのも予想しなかったらしい。また、さすがの酒井侯
も、拍子五つほどがあいだ、口をつぐまれた。
 そのとき久世侯が発言された。
 久世侯が将軍側衆として、その席に臨まれたことは、大藩の相続問題であるため、当然の
規式ではあったが、特にそれが久世侯であったということは、侯の周防に対する、並ならぬ
好意とみなければなるまい。
 久世侯は云われた。
[#ここから2字下げ]
久、――茂庭《もにわ》どのの申されるところは、伊達家臣として道理にかなっていると思
われる。
[#ここで字下げ終わり]
 すると老中の阿部侯がすばやく云われた。
[#ここから2字下げ]
阿、――自分も茂庭どのの申すことに理ありと思う、……しばらく次へさがって待つように

[#ここで字下げ終わり]
 阿部侯は老中の先任である。侯の発言は救いであった。涌谷どのの深い溜息《ためいき》
が聞え、硬くなった全身の、ほぐれるのが見えるようであった。待つこと約半刻、再びよび
出されたうえ、阿部侯より「吟味するであろう」という沙汰があり、われわれは退出した。

 甲斐はそこまで書いて、七十郎のほうは見ずに訊《き》いた、「雁がどうしたって」
「いま雁が渡ったのです」と七十郎が云った、「まだ雁が来るにははやすぎるでしょう、し
かしたしかにあれは雁でしたよ、いやな前兆だ」
「七十郎が縁起をかつぐのか」
「縁起じゃあありません。雁のはやく来る年は凶作だという、古くからの農民のいい伝えで
す」
「それでどうした」
「それで、つまり」と七十郎は甲斐を見、「ああそうか」といって、手酌で飲んだ。そして
云った。
「それで終りです」
「その男はなに者だ」
「知りません」七十郎はまた手酌で飲んだ。
「知らないって」と甲斐が云った。
 七十郎は「知りません」と云い、さらにつづけて云った、「私は午《ひる》すぎに宇田川
橋を訪ねて、酒を飲んでいるうちに寝てしまったのです、このうたた寝は私の特技でしてね
、ごろ寝をしているといろいろなことが聞けるもんです」
「このうちでもやるか」
「だからこそ、ここに間者のいることも、貴方に知らせることができたわけです」
 甲斐は笑った。七十郎はちょっと羞《はにか》んで付け加えた。
「もっとも、貴方はもう知っておられた、そうでしょう」
「どうだかな」
「貴方にはかないません」
 甲斐はまた書きはじめた。七十郎はつづけた。
0069名無しさん@お腹いっぱい。
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2020/01/07(火) 01:02:02.34ID:XHellqth
「ごろ寝をしていると、あの渡辺七兵衛の声が聞えたんです、御家老といったから、相手は
新妻隼人でしょう、単純なやつですからね、頼むといわれるとすぐ壮烈な気分になる、よろ
しい、というわけだったんでしょうな、――必ず仕止めてみせる、などと、たいそうりきん
でいました、そこでこっちも眼をさまし、おいとまをしてあとを跟けたわけです」
 甲斐は書いていた。
 ――同じく八月二十三日。
 鳩古堂から筆を届けて来た。周防よりの秘信で、「久世侯によばれてまいった、家督のこ
とは安心するように、とのことである、同慶これに及ぶものなし」とあった。
 ――同じく八月二十五日。
 すなわち一昨日の朝、老中より使者あり、酒井邸へまいる。一ノ関さま、立花侯、太田[
#1段階小さな文字](摂津守資次《せっつのかみすけつぐ》)[#小さな文字終わり]侯
。大条、片倉、周防、おのれとも七人。涌谷どの、奥山大学は不参。
 列座は、将軍家補佐、保科[#1段階小さな文字](正之)[#小さな文字終わり]侯、
酒井侯、阿部侯、稲葉侯、大目付、兼松[#1段階小さな文字](下総)[#小さな文字終
わり]どの、以上であった。
 お沙汰は、――
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
一、亀千代をもって伊達家の相続をゆるす。
一、兵部少輔宗勝、田村右京宗良の両人を、亀千代の後見とすること。
一、兵部、右京の二人に加増、おのおの本知とも三万石を与えること。
[#ここで字下げ終わり]
 右のとおりであった。
 ――同じく八月二十七日。
 すなわち今日、亀千代君の家督と、両後見のことを、幕府より諸侯に通達された。
 涌谷どの、周防はじめ、家中のよろこびはどれほど大きかったろう。周防は特に久世侯の
周旋を謝するため、水戸[#1段階小さな文字](頼房)[#小さな文字終わり]家より贈
られた毛氈《もうせん》十間に、酒肴をそえて届けたということである。
「まだ終らないんですか」と七十郎が云った、「今日は涌谷のじいさんの会もあるんでしょ
う、五時から涌谷のじいさんの会があると聞いていましたがね、そうじゃないんですか」
「七十郎も出るのか」
「あのじいさんだけは、苦手でしてね」
「そうらしいな」
 甲斐はまた書いた。
 ――明日の朝、涌谷どのは帰国される。
 そして彼は筆を措《お》いた。
「一ノ関などへも平気でゆくのに、涌谷どのが苦手というのは七十郎らしい」
「弁慶にも泣きどころといいますよ」と七十郎がいった。
 甲斐は覚書をしまい、片手で机の上を払った。あけてある窓から黄ばんだ柳の葉が、散り
こんで来るのである。柳の木は裏木戸のほうにあるし、それほど風があるとも思えないのに
、その枯葉は、しきりに窓から散りこむのであった。
「向うに里見がいるのだろう」と甲斐が云った。
 七十郎は手酌で飲んだ、「むろん来ています」
「ぬけて来たのは、いまの話しをするためか」
「なに、ひと口論やって、うるさくなったからです、この盃で一杯どうですか」
「あとにしよう」
「貴方は酒のみではない」
「酒は好きだよ」
「貴方は酒のみではない、よく酒を飲むし、酒好きのようにみえるが、貴方は酒のみではな
い」
「そんなにいきまくな」
0070名無しさん@お腹いっぱい。
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2020/01/07(火) 01:02:36.87ID:XHellqth
「貴方は女好きでもない」と七十郎は云った、「貴方はよく女に惚《ほ》れられる、ふしぎ
なほど女に惚れられるし、御自分も女にはあまいようなふうをしているが、貴方は決して女
好きではない」
「いきまくことはない」と甲斐が云った、「私は酒も女も好きだ」
「伊東七十郎は、ごまかせませんよ」
「どうだかな」
「では云いましょうか」
「ゆこう、好きな酒と女のところへゆこう、里見のほかに誰が来ている」
「後藤孫兵衛、真山|刑部《ぎょうぶ》の二人です」
「真山と後藤だって」
「堀普請の奉行です」と七十郎が云った、「貴方が慰労をしようといわれたと、十左衛門が
云ってましたよ」
「それは云ったが」
「奥方の別宴とかち合ったので、十左衛門はひどく恐縮していたようです」
「涌谷どのは五時だな」
「席は松山さんです」
「五時か、――いいだろう」
 甲斐は机の上の鈴を鳴らした。そしておくみ[#「くみ」に傍点]が来ると「着替える」
と云った。七十郎は盃だけ持って、立ちながら云った。
「時間になったら、私がそう云います」
 客は男四人、里見十左衛門と伊東七十郎、後藤孫兵衛、真山刑部という顔ぶれであった。
後藤と真山とは、小石川堀普請の奉行で、ほとんど現場の小屋に詰めきりであったし、その
精勤ぶりを十左衛門がしばしば話すのでいちど慰労しようと云っていたが十左衛門は今夜ま
ねかれたのを、律のための別宴とは知らずに、二人をさそって来たものであった。
 それで主賓の律は、しぜん主人役にまわり、おくみ[#「くみ」に傍点]とともに、客の
接待をしなければならなかった。芸人は男女とも七人いて、いかにも律の好みらしく、鳴り
もの、唄、踊りと、賑やかな酒宴になっていた。
 甲斐は自分の席に坐って、客に挨拶をし盃に三つほど飲むと、「涌谷どのの別宴があるか
ら」と断わって、その席から去った。すると律が追って来た。
「戻って来て下さるわね」と律が訊いた。
「そのつもりだ」
「戻って来て下さるわ」と律はつよい調子でいった、「だってまだ、いちどだってしみじみ
お話しもしないし、このまま帰るなんていやですわ」
「戻って来るつもりだ」
「わたくしお話しなければならないことがあるんです」
「船岡へ帰ってから聞こう」
「それではまにあわないかもしれませんわ」
「およそわかっている」と甲斐は云った。
 律はどきっとしたように良人《おっと》を見た。
「わかっていらっしゃるんですって」
「わからないと思うのか」
「わかる筈がありませんわ」
「それならそれでいい」と甲斐は云った。
「待って下さい」
「もう時間がないんだ」
「ひと言だけ聞かせて下さい」と律が云った、彼女の顔は硬くなり、眼がきらきらした、「
あなた本当にわかっていらっしゃるんですか」
「私はおまえの良人だ」
「本当にですか」
「こんどだけではない、このまえのときも、そのまえのときもだ」と甲斐が云った。
 律は蒼《あお》くなった。そして、なにか云おうとしたが、唇がふるえただけで、言葉は
出なかった。
0071名無しさん@お腹いっぱい。
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2020/01/07(火) 01:03:07.85ID:XHellqth
「お駕籠《かご》がまいりました」と襖《ふすま》の向うでおくみ[#「くみ」に傍点]の
云うのが聞えた。すると律は「待たせておおき」と答え、良人に向かって云った。
「それはどういうことですの、こんどとかこのまえとか、そのまえのときとかって」律の声
は怒りのためにふるえた、「仰《おっ》しゃって下さい、いったいそれはどういうことなん
ですの」
「船岡へ帰ってから話そう」
「いいえいまうかがいます」
「時間がないんだ」
 甲斐はゆこうとした。律はその前へまわり、両手で良人の腕をつかんだ。
「あなたの考えていることを仰しゃって下さい、今夜も戻っていらっしゃらないことはわか
っています、わたくしをこのまま船岡へ帰らせるなんてあんまりですわ」
「私はこんな性分なんだ」
「そうよ、あなたはそういうかただわ」と律はふるえながら云った、「あなたは冷淡で、無
情で、残酷なかたよ、十五年の余も夫婦でいて、ただのいちども本心をおみせになったこと
がない。いつも御自分のなかにとじこもって、誰ひとり近よせようとなさらない、ひとが苦
しんだり悩んだりしていても、ただじっと眺めていらっしゃるだけです、あなたはそういう
残酷な、いっそもう男らしくないかたですわ」
「おまえの眼は正しいようだ」と甲斐は頷いた、「しかし、私はもうこの性分を直すわけに
はいかない、それについては、船岡へ帰ってから話すことにしよう」
「帰ってからなにを話すと仰しゃいますの」
「断わっておくが」と甲斐は云った、「十五年以上も夫婦でくらしたのは、おまえだけのこ
とではない、私も同じ年数だけ、おまえと夫婦でいたのだ」
「そんなことうかがうまでもありませんわ」
「それなら結構だ」
「だからどうだと仰しゃるんですか」
「それなら結構だというのだ」
 甲斐はそう云って、つかまれていた手を、しずかにふり放した。律はうしろへさがった。
「一つだけお願いがあります」と律は低い声で叫んだ、「中黒達弥にいとまをやって下さい

「なんのためだ」
「理由は云えません」
 甲斐は眼をそらした、「親の代から仕えている者を、理由なしにいとまがだせるか」
「ですから一つだけのお願いと申しているんです」
「そんなことはできない」
「どうしてもですか」
 甲斐は襖のほうへゆき、襖をあけて出た。うしろから、律が、「あなた」と訴えるように
呼んだ。
 甲斐は振返って云った。
「母上によろしく伝えてくれ」
「あなた、――」
 甲斐は玄関へ出ていった。
 玄関には、松原十右衛門、岡本次郎兵衛、中黒達弥の三人が控えていた。甲斐が出るのを
待っていたように、おくみ[#「くみ」に傍点]が杉戸のほうから、刀を持って送りに出て
来た。律の来るようすはなかった。
「私は今夜は戻れないと思う」と甲斐は三人に云った。「十右衛門、奥は持病が出ているよ
うだ、途中よく気をつけてやってくれ」
「承知つかまつりました」
「達弥、――」と甲斐は彼を見た。
 手をついて見上げた中黒達弥の端正な顔が、きっと、するどくひき緊った。
0072名無しさん@お腹いっぱい。
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2020/01/07(火) 01:03:33.69ID:XHellqth
「おまえは江戸に残れ」と甲斐は云った。
 達弥は眼をそらさずに答えた、「おくち返しをするようですが、母親が病んでおりますの
で、できることなら帰国させて頂きとうございます」
「いや、おまえは残るのだ」と甲斐は云った、「正月に柴田[#1段階小さな文字](内蔵
介《くらのすけ》)[#小さな文字終わり]どのがのぼられれば私も帰国する、達弥はそれ
まで江戸にいるのだ」
 達弥はなにか云おうとしたが、黙って頭を垂れた。
 甲斐はおくみ[#「くみ」に傍点]から刀を受取って、玄関へおりた。駕籠のそばには、
矢崎|舎人《とねり》と成瀬久馬が待っていた。駕籠は二|梃《ちょう》あり、うしろの駕
籠を見ると、伊東七十郎がにやっと笑い顔を見せた。「考え直しましてね」と七十郎は云っ
た。
「涌谷のじいさんに会うことにしました、里見の頑固おやじよりましですからな」
「むずかしいぞ」
「なにがですか」
「涌谷どのもそうだが、松山[#1段階小さな文字](茂庭周防)[#小さな文字終わり]
もきちんとした人だ、七十郎が招かれているならべつだが、さもないと席へとおるのもむず
かしいぞ」
 甲斐は駕籠に乗った。駕籠は二ついっしょにあがった。
「なに大丈夫です」と七十郎がうしろの駕籠で云った。
「じいさんは格式と儀礼を第一にしますからね、私はそこが嫌いなんだが、懐柔するにはや
さしい相手ですよ」
「それは結構だ」
「貴方は信じないんですか」
「そんなことはないよ」
「よろしい、まあ見ていて下さい」と七十郎が云った、「きれいにまるめてみせますからね
、まあ見ていて下さい」
 甲斐は返辞をしなかった。
 茂庭周防の住居は浜屋敷の中にあった。甲斐は約束の時間にややおくれて到着した。客間
ではもう、酒宴がはじまっていた。

[#3字下げ]菊[#「菊」は中見出し]

 その夜、茂庭《もにわ》家には、八人の客が集まっていた。
 主賓は伊達安芸《だてあき》、つぎに現職の家老、奥山大学、大条兵庫、古内主膳。また
「一家《いっか》」の格式である片倉小十郎。ほかに原田甲斐、富塚|内蔵允《くらのすけ
》、遠藤又七郎、この三人は「着座《ちゃくざ》」といって宿老《しゅくろう》であった。

 酒は定刻よりも早くはじまったらしい。
 甲斐はわずかに遅刻しただけであるが、座はもう賑やかになり、奥山大学はもう酔って、
高い声でなにかきえんをあげていた。
 甲斐は古内主膳に挨拶した。主膳重安は五十二歳で、すでに老境にはいった人のように、
痩《や》せた蒼白い顔だちの、声の低い、柔和な男であった。彼の亡父、主膳重広は、故忠
宗に殉死した人である。こんど彼は忠宗の法事のため、高野山に使いし、三日まえに帰って
きたものであった。
 挨拶が済むと、主膳が声をひそめて云った。
「どうやら無事におさまったようで、さぞ安堵《あんど》なすったことでしょう」
 甲斐はあいまいに微笑した。
「周防どのにあらましのことを聞きました」と主膳は云った、「久世《くぜ》侯の話しも聞
きました、周防どのは、これで伊達家も壊滅かと、覚悟をきめたと申しておられました」
0073名無しさん@お腹いっぱい。
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2020/01/07(火) 01:04:44.21ID:XHellqth
「周防どのはみごとでした」と甲斐が云った、「酒井侯に向かって、亀千代さまに家督がゆ
るされないなら、いっそ六十万石をとりつぶしてもらいたい、と申された、あの一言がお家
を救ったのです」
「そのことは大条どのから聞きました、たしかにそのひと言は効果があったでしょう」と主
膳は頷いて、「しかし」と低い声でつづけた、「しかし周防どのの申されるには、そのひと
言が云えたのは、その座に久世侯がおられたからであるし、また久世侯が列席されたかげに
は、板倉[#1段階小さな文字](重矩《しげのり》)[#小さな文字終わり]侯の奔走が
あったからだということでした」
 甲斐は眼をそらしながら頷いた。
「誰か板倉侯に窮状を訴えた者があるのではないか、と周防どのは申されていました、久世
侯のくちぶりでは、たしかに誰かが板倉侯に窮状を訴えにいった、というふうであったと云
っていました」
「そうかもしれません」と甲斐は眼をそらしたまま云った。「私はどうとも申せませんが、
こんどの事はかなりひろく諸侯のあいだに知られているようですから、板倉侯は自分だけの
お考えで、お骨折り下すったのではないかと思います」
「原田さん、貴方はなにか」
「失礼ですが」と甲斐は主膳を遮《さえぎ》って云った、「ちょっと涌谷《わくや》さまに
挨拶をしてまいります」
 甲斐は立って、安芸のところへ挨拶にいった。そして、こんどは自分の席についた。
 彼の席は三人の宿老の中央で、古内主膳とは少しはなれていた。主膳は自分の席から、と
きどきさりげなく、甲斐のほうを見た。「岩沼どの[#1段階小さな文字](主膳)[#小
さな文字終わり]は知っている筈だ」奥山大学が云っていた、「亡き主膳どのは、殉死をす
るに当って、一ノ関さまの御聡明は、お家のために力づよいことであるが、しかし、あまり
に御聡明すぎるのが案じられる、あまりに御聡明であり、あまりにお知恵がまわりすぎる、
それがいかにも案じられる、そうではなかったか、岩沼どの」
「そういう意味でした」と主膳が云った。その声も、言葉の調子もよわよわしく、彼はつづ
けた、「しかしそれほど強い言葉ではなく、明敏でいらっしゃるのは心づよいが、お家のた
めには案じられるように思われてならない、と申したようにおぼえています」
「同じことだ」と大学は盃の酒を飲んだ。
 奥山大学は主膳より若く、そのとき四十六であった。彼は黒川郡吉岡、六千石の館主《た
てぬし》で、そこは仙台領のうちもっとも肥沃《ひよく》の地であり、したがって勝手向き
も豊かであった。彼の性質は傲岸《ごうがん》で、みずから直情径行を誇り、いかなるばあ
いにも、自分で「よし」と信ずることを枉《ま》げたためしはなかった。
「同じことです」と大学は云った、「亡き主膳どのは禍根がどこにあるのか、すでにみぬい
ておられた、私はその証拠を見たのです」彼は安芸を見て云った、「私が出府してすぐ、宇
田川橋へ挨拶にいったときのことですが、そのとき一ノ関さま御自身から入札の話しが出て
、右京どの、式部どのに入れた者もあるし、また、おかしなことに、このおれに入れた者も
ある、と申された」
「たしかにそうらしゅうございますな」と富塚内蔵允が云った、「二三の人が、一ノ関さま
に札《ふだ》を入れたということは、私も聞いております」
「私は胆《きも》がにえました」と大学は云った、彼は富塚の言葉をまったく無視して、安
芸に向かってつづけた、「それで、いかなる人が一ノ関さまに札を入れたのですか、とたず
ねました、そう訊かずにはいられなかったのです」
「それで」と片倉小十郎が訊いた、「一ノ関ではなんとお云いなされた」
「一ノ関さまはにが笑いをなされ、事が済んだあとだ、無用なせんさくをすることはあるま
い、と申されました。そこで私も云いました、事の済んだあとで無用ならこんな話しはなさ
らなければよい、聞いた以上は私もその名を知っておかなければなりません」
 大学の口ぶりは激しく、昂然《こうぜん》としたものであった。みんな黙って、聞いてい
た。大学はつづけた。
0074名無しさん@お腹いっぱい。
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2020/01/07(火) 01:05:25.01ID:XHellqth
「私は国老として、その名を知っておく必要がある、と申しました、すると、一ノ関さまは
尤《もっと》もらしく頷かれ、ではおれに入れた者の名だけ云おう、それは弾正《だんじょ
う》[#1段階小さな文字](安敏)[#小さな文字終わり]どのだ、と云われたのです」

「札の交換ですかな」富塚が云った、「弾正さまは一ノ関さまへ、一ノ関さまは」
 そのとき安芸が咳をした。から咳で富塚をさえぎり、そして云った。
「吉岡[#1段階小さな文字](大学)[#小さな文字終わり]どのはいつ帰国されますか

「私ですか、私は、――」と大学は持っている盃を見た。
 安芸はしずかに云った、「すぐ江戸番になるのだが、在国が解けておらぬのだから、いち
おう帰国しなければならぬでしょう、この老人といっしょにお帰りなさらぬか」
「有難うございますが、所用がございますので、四五日のうちに帰ろうと思います」と大学
は答えた。
 彼はむっとしていた。自分の話したことには重大な意味がある、伊達家の将来のために、
ここでぜひはっきりさせその対策をたてておかなければならないことだ。大学はそう思った
。ましてその相手は後見という役についた、これまでも藩政に干渉するふうがみえたのだか
ら、今後はそれがもっと激しくなるだろう。相《あい》後見の田村右京は温厚だけの人だし
、周防にしても、主膳にしても、大条はむろんのこと、一ノ関を抑えることはできまい、大
学はこう思った。
 ――かれらに一ノ関を抑えることはできない、周防も主膳も兵庫も、おそらく一ノ関に操
縦されるのがおちだろう。
 と大学は思っていたのであった。
「船岡どの」と安芸が云った、「久方ぶりで、一つまいろう」
 甲斐は目礼した。
 給仕の少年が、安芸から盃を受取って立ち、甲斐の前へ来た。甲斐が盃を取ると、侍して
いた若待が酒を注いだ。甲菱は盃の中を見、その眼で安芸を見た。
「それは私が焼いたものだ」と安芸がいった、「涌谷でなぐさみに焼いたものです、船岡ど
のは酒好きだそうだから進呈しようと思って持って来た、お気にいらぬかもしれぬが、持っ
て帰って下さい」
 甲斐は「頂戴いたします」と云い、酒を飲むとすぐ、その盃を懐紙に包んで、ふところへ
入れた。
 奥山大学がまた話しだした。甲斐はしばらくして、手を洗いに立ったが、戻ってくると、
しきりに飲みはじめ、やがて酔いつぶれてしまった。甲斐が酔いつぶれるまで、奥山大学は
きえんをあげつづけた。
 大学は誰をも好かない、ことに茂庭周防とは仲がわるかった。家老として、茂庭周防は首
座である。七つも年下の周防が、自分より上位にいるので、気にくわないということもあろ
う。しかし、同じ席にいる大条兵庫や、古内主膳とも、うまが合わなかった。
 安芸がいたからよかった。さすがの大学も、伊達安芸に盾をつく勇気はないらしく、同じ
いきまくにしても、ふだんよりずっと毒が少なかった。
 甲斐が酔いつぶれると、周防は自分で立ち、若侍三人をよんで、寝所へ伴《つ》れてゆか
せた。伴れてゆくというより、殆んどかついでいったというくらいの、酔いぶりであった。

 そして夜明け前、寝所へはいって来る人のけはいで、甲斐が頭をあげて見ると、茂庭周防
であった。
「まいろう――」と周防が云った。
 甲斐は起きあがった。袴はぬいでいるが、着たままである、周防も常着《つねぎ》の着な
がしであった。
「四時ちょっと前だ」と周防が云った。
 廊下へ出てゆきながら、甲斐が囁《ささや》いた、「供のなかに内通者がいる、こういう
ことはよくない」
「やむを得なかったのだ」
0075名無しさん@お腹いっぱい。
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2020/01/07(火) 08:13:26.64ID:XHellqth
「盃を使うなどは乱暴すぎる」と甲斐は云った、「私はこういうやりかたは好まない、筆の
軸もそうだが、盃へ紅《べに》で書いて知らせるなどということは、危険をもてあそぶよう
なものだ」
「それがやむを得ないということは、わかっている筈だ」と周防が云った、「隠れた伝言や
人使いなどでは、却《かえ》ってかれらに嗅《か》ぎつけられてしまう、人の面前でやるほ
うが、かれらの眼を眩《くら》ます、もっとも安全な手段なのだ」
「私は好まない」と甲斐は云った、「私はこういうことには不向きな人間だ」
「此処だ」と周防が立停った。
 そこは八帖ほどの、書院窓の付いた部屋で、周防の常居《つねい》の間という感じだった
。二人がはいったとき、安芸のうしろにいた一人の若い女が、立って、こちらへ目礼をして
、静かに出ていった。
 安芸は白の寝衣に白の括《くく》り帯。出ていった女も寝衣で、解いた髪を背中でむすん
でいたのと、扱帯《しごき》のはなやいだ色と、そうして、裾をさばく素足の、しなやかな
美しさが甲斐の眼に鮮やかに残った。安芸が寝所から出て坐り、女がうしろから、安芸の髪
を直していたものらしい、周防は燭台《しょくだい》を近よせた。
「みごとな酔いぶりだった」と安芸が云った。
 いま女が出ていったことなど、まったく関心のないようすで、二人が坐るとすぐ、甲斐に
向かって云った。甲斐は黙って低頭した。
「わしは本当に酔いつぶれたのかと思った、飲むことも相当に飲んだようだが、これは本当
につぶれたなと思ったくらいだ」
「もう少しお低く」と周防が注意した。
「田舎者は声が高いな」
 安芸は苦笑し、敷物の上で坐り直した。それまでは右の膝《ひざ》を立て、その上に右手
の肱《ひじ》をのせて、割れた寝衣の裾から、日にやけた、毛深い脛《すね》をみせていた
が、坐り直すとともに、両手を膝の上にそろえた。
「さて、――」と安芸は声を低めて云った、「どうやらこれで、当面のことは切りぬけた、
六十万石を寸断される危険は、いちおう去ったといってもよかろう、しかし終ったのではな
い」
 甲斐は床の間を見ていた。
 周防がじまんの、青磁の壺に、白い菊がいちりん※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き
抜けている、第4水準2-13-28]《さ》してあった。燭台の光からはなれた、暗い床の間で、
そのいちりんの菊が、ひっそりと白く、この場の話しに聞きいっているようにみえた。
 ――もう菊が咲くのだな。
 甲斐は心のなかで呟いた。
「岩ヶ崎[#1段階小さな文字](田村右京・このとき栗原郡岩ヶ崎一万五千石)[#小さ
な文字終わり]さまはともかく、一ノ関を後見に据えたのは酒井侯の主張であろう、右京さ
まは篤実温順なお人で、とうてい一ノ関の敵ではない、六十万石を分割寸断する陰謀は、い
ちおう危機を避け得ただけで、決して消滅したのではない、決して」と安芸は云った、「外
に酒井侯があり、一ノ関は伊達家のまん中へ、後見役という実権をもって坐った、問題はま
ぎれもなくこれからだ、しかも、老臣どもの多くが、いずれを敵ともわかち難く、信じて事
を計りうる者は極めて少ない、困難なのはこの点にある」
 安芸は二人を交互に見た。
「内と外と呼応する、敵の力の強大であることよりも、家中《かちゅう》に信じうる者の少
ない事実のほうが、われわれにとっては困難であり、むずかしいところだ。このことを、初
めによくたしかめておく、われわれが今後なにをするにせよ、忘れてならぬのはこの事実だ

「そのことのほかに」と周防が云った、「涌谷さまとわれら、私と船岡とも、従来どおり疎
遠の関係をつづけなければならぬと思います」
「むしろ不和な仲のようにだ」
「不和であるように致しましょう」
 安芸は頷いて、云った、「では相談にかかるとしよう」
0076名無しさん@お腹いっぱい。
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2020/01/07(火) 08:13:56.84ID:XHellqth
 三人の相談は、半|刻《とき》あまりかかった。
 甲斐はなにも意見を云わず、二人の話しを聞き、打合わせた条件を認めただけであった。
それが終って、もとの寝所へ戻ったとき、連子窓《れんじまど》がほのかに白んでいた。寝
所まで送って来た周防が、帰ろうとするのを、甲斐が呼びとめた。
「ちょっと坐ってくれないか」
「もう人の眼につく」
「ひと言だ」と甲斐は云った、「かれらが、特に松山と私に眼をつけていることは、わかっ
ているな」
 周防は頷いた。
「いま相談したことをやってゆくには、これまでのように単に不和をよそおっているだけで
はだめだ、もっとはっきりと、互いに離反しているかたちを、とらなければならないと思う

「たとえば」
「ここでは云えない」と甲斐は云った、「手段を話したうえでやれば、計った離反だという
ことは、かれらにもすぐわかってしまう、松山は松山で考えてくれ、私には私で手段がある

「そこまでやる必要があるだろうか」
「私はどちらでもいい」と甲斐は云った、「なんども云うとおり、私はこういうことは好か
ない、一ノ関さまの陰謀にしても、その陰謀に対抗する、こんどの計画にしても、私にとっ
ては興味もなし、むしろ迷惑なくらいだ、私は誰にもかかわりなしに、そっとしておいても
らいたいのだ」
「それは本心か」と周防が反問した。
「松山には本心が云える」
「ではなぜ、板倉侯のところへいった」と周防が云った、「そういうやりかたを好まないな
ら、すすんで板倉侯に会い、継嗣問題に助力をたのんだのはなぜだ」
「誤解しないでくれ」と甲斐は苦笑した、「あれはただ茶に招かれただけだ、まえから七十
郎が板倉侯の知遇を得ている関係で、新らしい席が出来たから来い、という伝言を下すった

「忍んで来いとか」
「忍んでゆくものか、私が板倉侯を訪ねたことは、一ノ関さまのほうにもとっくにわかって
いる、松山がいまそんなことを云うのはおかしいくらいだ」
「わかった、それはそうとしよう」周防は云った、「では船岡はこの問題から手をひきたい
というのか」
「ひいてよければだ」
「よければ手をひくか」と周防はつめ寄った。
 甲斐は静かに周防を見た。
「もし涌谷さまやおれが、手をひいてもいいと云ったら、船岡は手をひくか」
「そのほうがいいね」
「たしかだな」周防は唇を歪《ゆが》めた、「その言葉にまちがいはないな」
「まちがいはないよ」
「原田、――そこもとは、そんな人間だったのか」周防の声はふるえた、「いや、信じられ
ない、そんなことがあるわけはない、おれはそこもとを知っている。そこもとが小四郎とい
っていた時代から、口には出さなかったが、心から敬服し頼みに思っていた、それがいまお
家の大事に当って」
「ああ」と甲斐は静かにさえぎった、「そう誇張するのはよそう、誰だって少年時代には、
近い親族の年長者をたのもしく思うものだ、まして松山と私とは重縁になっているし、年も
三つちがいで、そこもとには男きょうだいがなかった、だから、少年時代の感情がいまでも
消えずに残っている、敬服されるのも頼みに思われるのも有難いが、そういう誇張した感情
で見ることだけは勘弁してくれ」
「私がなにを誇張したというのだ」
0077名無しさん@お腹いっぱい。
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2020/01/07(火) 08:15:17.11ID:XHellqth
「なにもかもだ」甲斐はそう云って、じっと周防の眼をみつめ、それから肩をゆりあげた、
「私は帰ることにしよう」
「このままでか」と周防が云った。
 甲斐は立ちあがった、「このままでだ、もう話すことはない」
「いや、まだ話しは済んでいないぞ」
「久馬、いるか」と甲斐が呼んだ。
 周防はさっと色を変えた。次の間に誰かいた、ということに気づき、殆んど水をあびせら
れたような表情で、口をあけて、甲斐を見た。甲斐はまた呼んだ。
「久馬、まいれ」
 こんどは答える声がした。ひと間おいた向うで答える声がし、すぐに成瀬久馬が来た。
「袴――」と甲斐が云った。少年はすぐに、次の間から袴を持って来、甲斐がそれをはくの
を手伝った。
「眠れたか」と甲斐が訊いた。
 久馬は「はい」と答えた。
「うたたねをしておりましたので、お呼びになったのが聞えませんでした」
「聞えなかったか」
「二度めのお声で、やっと眼がさめました」
「そうか」と云って、甲斐は周防を見た。
 周防は眼を伏せた。
「舎人に乗物をまわせと云え」
 久馬が去ると、周防が眼をあげた。甲斐は刀を取りながら云った。
「床の間の菊はみごとだった」

[#3字下げ]断章(三)[#「断章(三)」は中見出し]

 ――涌谷《わくや》さまはお立ちになりました。
「そうか」
 ――船岡どのの御内室がいっしょです。
「もう帰ったのか」
 ――なにかもめごとがあったそうでございます。
「夫婦でか」
 ――そう申しておりました。
「二人は仲がいい筈だ」
 ――御内室が船岡どのに向かって、あなたは冷酷で無情なかただ、と云われていたそうで
ございます。
「それは初めて聞く評だな」
 ――はあ。
「これまで原田は、情の篤《あつ》い、心の温かい人間だといわれて来た、彼だけは敵がな
く、みんなに好意をもたれて来たそうではないか」
 ――さように存じます。
「しかもその妻は、冷酷無情だと申したのか」
 ――あなたとは十五年以上もいっしょに暮して来たが、と云われたということです。
「まさか嫉妬《しっと》ではあるまい」
 ――湯島の家ではくみ[#「くみ」に傍点]という女といっしょでございます。
「そんなことはない、あれは側女《そばめ》などに嫉妬するような、ふたしなみな女ではな
い、おれは娘時代のあれを知っているが、おうようで暢《のん》びりした、とうてい嫉妬な
どをするような性質ではなかった」
 ――はあ。
「たぶん、冷酷無情というのにはなにか意味があるのだろう、十五年もともに暮した妻の口
から、原田甲斐が冷酷な人間だと云ったとすれば、よし、覚えておこう」
 ――別宴のことを申上げます。
0078名無しさん@お腹いっぱい。
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2020/01/07(火) 08:16:50.88ID:XHellqth
「集まったのは誰だ」
 ――四家老、三宿老、それに片倉どのでございます。
「大学もいったか」
 ――奥山どのお一人で、声高《こわだか》に云いつのっておられたそうです。
「なにを申した」
 ――近よることができず、内容は聞きとれなかったそうですが、奥山どのお一人だけの高
ごえが聞えた、と申していました。
「原田はどうした」
 ――酔いつぶれて、途中で寝所へ移られたといいます。
「しめし合わせたな」
 ――酔いつぶれたのは事実のようで、彼は眠らずにようすをうかがっていたと申しました

「なにもなかったのか」
 ――明けがたまでなにごともなく、彼がうとうとしていると、松山どのの声が聞えたそう
です。
「しめし合わせたのだ」
 ――そうでしょうか。
「涌谷もいっしょだ」
 ――いや、松山どのだけで、涌谷さまの声はしなかったと申します。
「周防はなにを云った」
 ――船岡どのと口論になり、船岡どのは手をひくと云われたそうです。
「手をひくとは」
 ――こういうことは好まない、自分はやりたくない、と船岡どのが申され、板倉侯には新
らしい茶室の釜《かま》びらきに招かれたので、ほかになにも意味はない、と云われていた
と申しておりました。
「原田が周防にか」
 ――まちがいなしとのことでございます。
「あの狸《たぬき》が」
 ――はあ。
「周防は騙《だま》されてもおれは騙されぬ、だがまあよし、みていてやろう」
 ――それだけでございます。
「隼人にもまいれと云え」
 ――お召しにございますか。
「西福寺のことはどうした」
 ――不首尾でございました。
「聞こう」
 ――六人とも、柿崎六郎兵衛に心服しているもようで、こちらの申し出を拒絶いたしまし
た。
「扶持《ふち》を受けぬというのか」
 ――われらは身命を柿崎に預けてある。進退生死とも柿崎の命にしたがう約束だ、いかな
る条件でも彼にそむくことはできない、と申しました。
「六人の姓名は」
[#ここから1字下げ]
――蒲生浪人  野中又五郎。
  同じく   島田市蔵。
  肥後浪人  石川兵庫介。
  和州浪人  砂山忠之進。
  中国浪人  藤沢内蔵助。
  同じく   尾田内記。
0079名無しさん@お腹いっぱい。
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2020/01/07(火) 08:17:13.37ID:XHellqth
[#ここで字下げ終わり]
 以上でございます。
「みな困窮していると申していたな」
 ――野中、尾田、砂山の三人には家族があり、他はみな独身ですが、それぞれみな窮迫し
ているとのことです。
「それでなお扶持を拒むのか」
 ――よほど柿崎にほれこんでいるものとみえます。
「六人にはそのほうが会ったのだな」
 ――そういうお申しつけでございました。
「七兵衛の刀で失敗し、隼人の説得で失敗した、しかも、七兵衛のときには伊東七十郎に見
られている、これはおれの負けだな」
 ――取詰めましょうか。
「使うことにしよう」
 ――仰せではございますが。
「いや、使ってみよう、あいつは役に立ちそうだ、ましてそこまで心服している六人を抱え
ているとすれば、これからいくらも使いみちはあるだろう」
 ――はあ。
「手当は求めて来たら呉《く》れてやれ、申しつけたぞ」

[#3字下げ]孤燈のかげ[#「孤燈のかげ」は中見出し]

 伊達安芸といっしょに、妻の律が帰国したあと、甲斐はかるい風邪にかかって、四五日|
籠居《ろうきょ》した。
 九月二日に、仙台へ派遣される幕府の国目付[#1段階小さな文字](幕府から諸国へ出
される監察使で、仙台は毎年二人、任期は半年であった)[#小さな文字終わり]が、将軍
の墨印を持って、伊達家の桜田本邸へ来た。国目付は津田平左衛門[#1段階小さな文字]
(幕府使番)[#小さな文字終わり]柘植《つげ》兵右衛門[#1段階小さな文字](同)
[#小さな文字終わり]という二人。墨印は将軍家綱の花押《かおう》で、朱印より重いも
のである。亀千代は抱守《だきもり》にかかえられて、表広書院《おもてひろしょいん》で
二人に会い、墨印を受取った。これは、幕府が公式に、亀千代を伊達家の当主と認めたこと
になるので、伊達家では一藩こぞって安堵するとともに、祝いの宴を張った。
 甲斐は「墨印受領」の席へも出なかったし、祝宴にも出なかった。
 柴田内蔵介は早ければ十二月、おそくとも正月には出府する筈で、そうすれば甲斐は船岡
へ帰ることができる。彼は松山の茂庭佐月に、そのむねを手紙で知らせ、また、同じ意味の
手紙を二通書いた。一は船岡で山守りをしている与五兵衛、一は青根の温泉《いでゆ》の宿
へあてて、どちらも、在国ちゅうの甲斐にとっては、身のいこいに欠くことのできない相手
であった。
 九月五日の夜。中黒達弥が自殺しようとした。達弥は江戸に残されてから、ひと間にこも
ったきり、人と話しもせず、なにかひどくおもい悩んでいた。
 彼は七歳のとき父に死なれ、いまは母が船岡にいるだけで、二十二歳になるが、まだ妻は
なかった。亡父の代からの家従で、住居も館の内にあり、四年まえまでは、ずっと甲斐の側
に仕えていた。達弥は色が白く、眉が濃く、おもながで、端麗な顔だちだった。口かずの少
ない、潔癖な、気のつよい性分で朋輩《ほうばい》とのつきあいはあまりないほうであった

 五日の夜十時ころ、甲斐が覚書を書いていると、侍部屋のほうで、ざわざわと人の騒ぐ声
がした。甲斐は筆をとめて、しばらくようすを聞いていたが、ふつうの騒ぎとは思えないよ
うすなので、机の上の鈴を鳴らした。
 すぐに塩沢丹三郎が来た。
「茶をくれ」と甲斐が云った、「なにを騒いでいる」
 丹三郎は「みてまいります」と答えて去った。するといれちがいに、堀内惣左衛門がはい
って来た。
0080名無しさん@お腹いっぱい。
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2020/01/07(火) 08:17:51.15ID:XHellqth
「どうした」と甲斐が訊《き》いた。
「中黒達弥が切腹しようとしております」
「達弥が」
 甲斐は眉をあげた。すると額に深く皺《しわ》がよった。惣左衛門が云った。
「矢崎がみつけて押止めましたが、どうしても腹を切らなければならぬ、武士のなさけだ、
切らせてくれと申してききません」
 甲斐は筆を措《お》いた。
「ここへ伴れて来てくれ」と甲斐は云った、「力ずくでもいいから伴れて来てくれ」
 惣左衛門は去った。
 丹三郎が茶道具を持って来た。甲斐はそれを膝の前へひきよせ、静かな手つきで、自分で
茶を淹《い》れた。丹三郎がさがると、惣左衛門につきそわれて、中黒達弥がはいって来た
。彼は袷《あわせ》の着ながしに、無腰で、髪毛が乱れ、蒼ざめた硬い顔をしていた。
「堀内はさがってくれ」と甲斐は云った、「呼ばぬうちは誰も来ないように、丹三郎も小屋
へさがるように云ってくれ」惣左衛門は承知して去った。
 甲斐は静かに茶をすすった。かなり冷える夜で、壁のどこかにかねたたき[#「かねたた
き」に傍点]が一匹、それから床下に二匹ばかりのこおろぎ[#「こおろぎ」に傍点]が、
とぎれとぎれの声で、互いに、なにかを嘆き交わすかのように、ほそぼそと鳴いていた。
「どうしたのだ」と甲斐が云った。
 達弥は黙って、膝の上の両手を、こまかくふるわせていた。
「なんのために死ぬのだ」
「申上げられません」と達弥が云った。
 甲斐はまたゆっくりと茶をすすった。それから、茶碗を持った手を、膝の上におろし、低
い静かな声で云った。
「奥が、達弥にいとまを遣《や》ってくれ、と云ったことを知っているか」達弥は頭を垂れ
た、「なぜいとまを遣れと云ったか、その理由がわかるか」
「はい」達弥の声は低かった。
「そのために、死のうというのか」達弥は黙っていた。
「その理由のために、おまえは死のうとしたんだな」
「――はい」
 頭を垂れた達弥の眼から、涙がこぼれおちた。彼は手の甲でそれをぬぐった。
「達弥、おまえは、このおれをなんとおもう」
「三世までの、ただ一人の、御主人とおもいます」
「そのおれがゆるさぬのに、おまえはなぜ死のうというのか」
「おゆるし下さい」達弥は崩れるように、両手を畳について泣きだした、そして、泣きなが
ら云った、「理由も申上げず、お心にそむいて死ぬのは不忠のかぎりですが、どうしても生
きてはいられないのです、どうしても、生きてはいられないわけがあるのです」
「わけは知っている」と甲斐が云った。
 達弥はびくっとし、涙で濡れた眼で、見あげた。甲斐は云った、「理由はおれが知ってい
る」
 甲斐を見あげた達弥の顔は、疑いと怖《おそ》れのために硬ばった。
「だから、おまえが自殺しようとする気持も、およそ察しがつく」と甲斐は云った、「ほか
の者なら、べつの手段をとるだろうが、おまえは自分で死ぬ覚悟をきめた、おまえは自殺す
るのがもっともいい方法だと考えたのだろう、おれはおまえの性分を知っている、そう思い
つめた気持もよくわかる、できることなら死なせてやりたいが、おまえには生きていてもら
わなければならない」
 甲斐は茶碗を下に置いた。
「どんなばあいでも、生きることは、死ぬことより楽ではない、まして、いまのおまえは死
ぬほうが望ましいだろう、しかし、達弥、おれはおまえに生きていてもらわなければならぬ
、単に生きているだけでなく、死ぬよりも困難な、苦しい勤めを受持ってもらいたいのだ」
0081名無しさん@お腹いっぱい。
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2020/01/07(火) 08:18:28.97ID:XHellqth
 達弥は両手を膝に戻した。
「もしこのおれを、しんじつ三世までの主人とおもってくれるなら、おれのたのみもきいて
くれる筈だ、こう云っては無理か」
「私にできることでございますか」
「それはおまえの肚《はら》ひとつだ」
「私はもう死んだ人間も同様です」
「話しを聞くか」
「はい」と達弥は答えた。
「ではもっと寄れ」と甲斐が云った。
 達弥は涙をぬぐい、膝で前へとすすみ出た。
 話しは半刻あまりかかった。甲斐はうちあけて語った。達弥は初め驚愕《きょうがく》し
た。甲斐は、おまえのほかにたのむ者はないと云い、達弥は哀訴した。それだけはできませ
ん。むしろいま自殺させて下さい、と云った。甲斐は辛抱づよかった。藩家の将来にかかっ
ている複雑な問題と、自分の立場の微妙な困難さを語り、彼に助力を求めた。
 侍にとって「忠死」が本望であることにまちがいはない。しかし侍の「道」のためには、
ときに不忠不臣の名も甘受しなければならぬばあいがある。自分もその覚悟だから、おまえ
も自分に助力してくれ。甲斐は、繰り返してそう云った。
 達弥はついに承知した。
「おれを憎め」と甲斐は云った、「おれのたのみは無法なものだ、しかし、どうしてもそう
しなければならない、ということはわかってくれるだろう」
「はい」と達弥は頭を垂れた。
「おまえのほかにも、幾人か、同じような役を受持ってもらわなければならぬと思う、こう
いうとき侍に生れあわせ、おれのような主人を持ったのが不運だった、おれを憎め、おれを
恨め、だが、役目だけは果してくれ」
 達弥は「はい」といってさらに低く頭を垂れた。短い沈黙をぬって、こおろぎ[#「こお
ろぎ」に傍点]の音が、たえだえに聞えた。甲斐はしずかに云った。
「ではさがって寝るがいい」
 達弥は静かに去った。
 風邪が治って、甲斐が出仕した日に、小石川の普請場で事が起こり、評定役に検分を求め
て来た。朝から雨が降っていたが、甲斐は上席なので、他の五人と共にでかけていった。
 普請場には総奉行の茂庭周防が待ってい、自分で六人を案内してまわった。事というのは
、工事の終った堤の一部が、五十|間《けん》ばかり崩れて、初めからやり直さなければな
らなくなったのである。これは命ぜられた期日に遅れるばかりでなく、費用の嵩《かさ》む
点で、一藩にとって大きな打撃であった。
 堀普請は伊達家にとってたいへんな重荷だった。
 神田川の筋違《すじかい》橋から、西へ遡《さか》のぼり、お茶の水の堀、吉祥寺橋、小
石川橋を経て、牛込御門、土橋に至るあいだ。それまで堀形のあったのを、浚《さら》って
深く掘り下げ、船の運漕《うんそう》ができるようにするのだが、この長さ六百六十間。幅
三十間。深さ二間半。掘りあげた土で、両岸の土堤《どて》を築くという、大きな工事であ
った。
 高一万石について、土工人夫百人という積りだから、六十二万石で六千二百人。幕府は人
数だけの扶持米を支給しあとはぜんぶ伊達家の負担だった。それで、全藩士に加役金が課さ
れたが、難工事のために、人夫の賃銀をつぎつぎに増さなければならなかったし、すでに三
回も堤が崩れたりして、工費の予算はもうぎりぎりになっていた。
 そこへまた、五十間余も堤が崩れたのである。案内してまわる普請奉行、茂庭周防はじめ
、後藤孫兵衛、真山刑部、そして目付役の里見十左衛門や北見彦右衛門など、誰一人ものを
云う者がなかったし、六人の評定役も嘆息するばかりであった。
 検分のあと、吉祥寺橋の小屋場で、一刻ほど話しあった。――会談が終って、出ようとし
たとき、小屋の表で、真山刑部と里見十左衛門とが、人夫頭と見える男たち五人と、こわだ
かに云い諍《あらそ》っていた。
0082名無しさん@お腹いっぱい。
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2020/01/07(火) 08:18:59.25ID:XHellqth
 甲斐が立停ったのを見て、里見十左衛門がよって来た。
「人足どもが賃増しを求めて来たのです」と十左が云った、「寒さに向かうし、水にはいる
仕事で、現在の賃銀では人夫に出る者がない、一日金一分にしてくれ、などと無法なことを
云うのです」
「四日で小判一枚か」と甲斐が云った、「辛いところだが、結局は出さなければならぬだろ
う」
「一日一分ですか」
「かれらは賢いからな」と甲斐は云った、「工費の嵩むほど幕府はよろこぶだろうし、人足
どもはそれをよく知っている。こちらの負けとわかっていることに肚は立てぬものだ」
 そして甲斐は、非番の日に朝粥《あさがゆ》をたべに来い、と云って、そこを去った。
 雨は三日つづけて降った。そして雨のあがった午後、綱宗に伺候するため、甲斐は品川の
下屋敷へいった。
 綱宗は酒を飲んでいるということで、下屋敷の家老、大町備前[#1段階小さな文字](
定頼《さだより》)[#小さな文字終わり]は、甲斐の伺候を拒もうとした。公儀から逼塞
《ひっそく》を命ぜられているので、現職の老臣が会うことは、違法に問われはしないか、
というのであった。
 甲斐はおだやかに頷《うなず》き、ごくさりげない調子で、亀千代君に家督のゆるしが下
り、将軍の墨印まで受領したのだから、綱宗侯は「隠居」ということになった筈である。改
めて沙汰はなくとも「逼塞」は解かれたとみてよいと思うが、と云った。
 すると備前は話しを変えた。綱宗がいま酒を飲んでいること、このごろは酔うと狂暴にな
る癖があるから、酔っていないときに会われたらどうか、と云った。甲斐はやはりさからわ
ずに、酒はたびたび飲まれますか、と訊いた。殆んど連日連夜です、と備前が答えた。それ
では貴方もたいへんですね、そのたびに乱暴をなさるのですか。いやそのたびとも限りませ
んが、なにか気にいらぬことがあるとか、常に会わない人に会ったりすると、昂奮して狂暴
になるようです、と備前が云った。
「私はちかく御番あきで、国へ帰ることになるようです」と甲斐が云った、「そういうごよ
うすでは、またといってもいい折はなさそうですから、おいとま乞いのために、今日おめど
おりを願うとしましょう」
「たってと云われるならやむを得ません」
「どうぞお取次ぎ下さい」と甲斐は云った。
 備前はやむなく立っていったが、殆んどいれちがいに、一人の若侍がその部屋へはいって
来た。備前がいるものと思ったらしく、はいって来て甲斐の姿を見ると、おどろいて目礼し
ながら去ろうとした。
「待て、善太夫」と甲斐が声をかけた、「今村善太夫ではないか」
 若侍は「は」といってそこへ膝をついた。
 それは目付役の今村善太夫という者であった。甲斐は珍らしい物でも見るような眼つきで
、じっと彼の顔をみつめた、善太夫は顔を伏せた。
「そのほう役替えにでもなったのか」と甲斐が云った。
 善太夫は両手をおろし、ふるえ声で「そうではない」と答えた。
「では使者にでも来たのか」
「はい」と善太夫は口ごもった。
「使者に来たというのか」と甲斐は問い詰めた。
 善太夫は答えなかった。そこへ大町備前が戻って来、このようすを見て、ちょっと色を変
えた。
 甲斐は備前を見た。
「どうぞ、御前へ、――」と備前が云った。
0083名無しさん@お腹いっぱい。
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2020/01/07(火) 08:19:29.47ID:XHellqth
 どうぞ御前へ、という大町の口調には、明らかにその場をとりつくろう響きがあった。
 甲斐は立ちあがった。今村善太夫のほうには眼も向けなかったし、まったく気にもとめて
いない、という態度であった。備前はするどく、善太夫に一|瞥《べつ》をくれて、甲斐の
案内に立った。廊下へ出たとき、なにか云いたそうに甲斐を見たが、どうやらすぐには舌が
動かないようすであった。
 ――善太夫のいたことを弁明するつもりだな。
 と甲斐は察した。
 ――それだけで充分だ。
 と甲斐は心のなかで思った。
 この下屋敷には、大町備前のほかに、侍が七人いるほか、男は小者だけで、あとは奥女中
十三人、お末《すえ》や端下《はした》四十七人という、女ばかりの生活であった。
 大町備前が品川の家老に選ばれたのは、綱宗がこちらへ移った直後であり、選んだのは兵
部宗勝である。また、今村善太夫が本邸詰の目付になったのも、ごく最近のことであるし、
これまた兵部の選であることは、甲斐にはよくわかっていた。
 ――低いところから、水がしだいに土地を浸してゆくように、じりじりと、一分、二分ず
つ、眼につかぬちからで、兵部はその手をひろげてゆく。
 いま甲斐には、それが眼に見えるように思えた。
 錠口には藤井という老女が待っていた。甲斐は立停った。どうやらそこで老女にひきつが
れるらしい。とすれば、綱宗は奥にいるのであろう。表と奥の区別はひじょうに厳重だから
、さすがに甲斐も少し迷った。
「どうぞ御遠慮なく」と備前が云った、「召されるのですからどうぞ」
 老女も「こちらへ」と会釈をした。甲斐は錠口から、奥へとはいった。
 綱宗は数寄屋にいた。
 そばには三沢はつ[#「はつ」に傍点]女《じょ》がい、五人の侍女が給仕に坐っていた
。はつ[#「はつ」に傍点]女は綱宗と同じ年の二十一歳であるが、去年亀千代を産んでい
るので、年よりはかなりふけてみえる。また、あとでわかったのだが、そのときは懐妊して
いたためだろう、しもぶくれの、おっとりした顔も、血色がよかったし、躯《からだ》も健
康そうに肥えていた。
「よく来た、さあ、これへ」綱宗は手で招いた、「おれは隠居だから、無用な辞儀はいらな
い、もっとこれへ寄れ、よく来てくれた、甲斐は酒がつよい、まず盃をやれ」
 綱宗はせかせかと云った。いかにもうれしそうで、そのうれしさが抑えられないというよ
うすだった。
 甲斐は盃を受けた。綱宗は云った。
「重ねるがいい、おれも飲む、よく来てくれた、飲みながら話そう、久しぶりだった」
 綱宗はひとりで話し、よく飲んだ。
 甲斐は黙って聞き、云われるままに盃を重ねた。綱宗のうれしそうなようすを見ると、酒
を辞退する気にもなれなかったし、話しの腰を折ることもできず、知らぬまに一刻あまりも
経ってしまった。やがて、綱宗はしだいに昂奮し、まるく肉づきのいい顔がいつか白く硬ば
ってきた。
「おれは哀れな人間だ、どんなにおれが哀れな人間だか、甲斐は知っているだろう」と綱宗
は云った、「父上はおれを憎んでいた」
「おそれながら」
 甲斐はとめようとした。話しが先君[#1段階小さな文字](忠宗)[#小さな文字終わ
り]に及ぶことだけは、避けなければならぬと思った。しかし、綱宗は頭を振って云った。

「いや、おれは云う、おれが云わなくとも、誰でも知っていることだ、父上はおれを憎んで
いた、おれがこのはつ[#「はつ」に傍点]を知るまで、父上はおれに妻えらびもしなかっ
た、六十万石の世子でありながら、二十歳になるまで婚約者もないということがあるか、そ
んなことがほかにあると思うか、甲斐」
 甲斐は自分の盃を見た。
0084名無しさん@お腹いっぱい。
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2020/01/07(火) 08:20:01.63ID:XHellqth
「このはつ[#「はつ」に傍点]を娶《めと》ったゆくたても、甲斐はよく知っているだろ
う、はつ[#「はつ」に傍点]はおれの妻になる約束だった、これの叔母の紀伊は、正室な
らばと云い、父上はよしと仰しゃった、そうではなかったか」と綱宗は云った。
 甲斐は静かに眼をあげた。綱宗の云うとおりである。それが誇張でも誤りでもないことを
、甲斐は知っていた。
 はつ[#「はつ」に傍点]女の父は美濃の浪人で、三沢権佐といい、母は朽木氏であった
。鳥取で生れたが、江戸へ出て、十三歳のときから叔母の紀伊に養われた。紀伊は初め江戸
城の大奥に仕えていたが、池田輝政の女《むすめ》、振姫《ふりひめ》が、将軍秀忠の養女
として忠宗に嫁したとき、その侍女として伊達家へ来た。はつ[#「はつ」に傍点]女はそ
の手許《てもと》でそだてられたもので、綱宗が妻にほしいと求めたとき、紀伊は「御正室
ならば」とはっきり云った。綱宗はそれを父に告げ、忠宗は承知して、二人は祝言をした。
だが、祝言の盃を交わしただけで、正式な披露はなく、結局はつ[#「はつ」に傍点]女は
側室ということになった。
「そればかりではない」と綱宗はつづけた、「父上は亡くなる直前まで、家督の決定をなさ
らなかった、周防[#1段階小さな文字](茂庭定元)[#小さな文字終わり]が病床へ幾
たびもまいり、切諫《せっかん》を重ねたうえで、ようやく承知をなすったのだ、これも甲
斐は知っているだろう、父上はおれを憎んでいた、憎まぬとしても疎《うと》んじておられ
た。またそのことが、おれをこの哀れな境遇に追いやったのだ、わかるか、甲斐」
「おそれながら、感仙殿[#1段階小さな文字](忠宗の廟号《びょうごう》)[#小さな
文字終わり]さまについて、これ以上うかがうことはできません」と甲斐が云った、「これ
以上なお仰せられるなら、私はおいとまを頂戴いたします」
「いや帰さぬ、帰れもしない筈だ」と綱宗は云った、「おれが心をうちあけて話せるのは、
周防と甲斐の二人だけだぞ、逼塞になって以来、周防にもそのほうにも会えない、呼ぶこと
もできず、手紙をやるたよりもない、いま久方ぶりに会って、この胸に溜《たま》っている
おもいを聞いてもらおうとするのに、耳をふさいで帰ることはできない筈だ、甲斐にはそう
はできない筈だぞ」
 綱宗の声がふるえ、甲斐をみつめる眼は、うるみを帯びてきらきらと光った。甲斐は眼を
そむけた。
「それでも帰るというか」と綱宗が云った、「そのほうまでがおれからそむくなら、もうな
にも云うことはない、帰るなら帰れ」
「原田さま」とはつ[#「はつ」に傍点]女が云った。
 甲斐は頷いた。
「御機嫌を損じて申し訳ございません」と甲斐は云った。
「感仙殿さまのことさえ仰せられなければ、よろこんでお話しをうけたまわります」
「事実であってもか」
「いかような事実があろうともです」
「そのほう怖れているな」と綱宗は云った、「そのほうは事実を知っている、おれがなぜ逼
塞になったか、その裏にどんな策略があったか、その策略が誰の手から出たものか甲斐には
よくわかっている筈だ」
「お部屋さま」と甲斐ははつ[#「はつ」に傍点]女を見た。
 人ばらいの必要はないか。という意味である、はつ[#「はつ」に傍点]女は淋しげに微
笑し、「どうせ同じことです」という意味のことを云った。
「もちろんだ、聞くなら聞け」と綱宗はたか声になった、「おれは身を慎しんでいた、酒も
ずっと飲まなかった、それがどうして酒を飲みだしたか、誰が飲むきっかけを作ったか、甲
斐は知らない、甲斐はそのとき船岡だった」
「私も聞いております」
「浜屋敷のことをか」
「お席から遠い端に、里見十左が詰めておりました」
「遠くでわかるか」と綱宗はつよく云った、「浜屋敷は普請祝いであった、祝宴が設けられ
て、おれが盃を三つで置くと、大学が飲めとすすめた、もう家督もすんで六十万石のあるじ
になったのだ、いまこそ誰に憚《はばか》ることもない、充分に飲めとすすめたのだ、十左
はそれを知っていたか」
「彼はそのように申しました」
0085名無しさん@お腹いっぱい。
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2020/01/07(火) 08:20:31.37ID:XHellqth
「おれは弱い人間だ、特に、酒に対して弱い人間だということは、おれ自身がよく知ってい
る、だから慎しんでいたのだ」綱宗は云った、「だからずっと慎しんでいたんだぞ、それを
大学は飲めと云った、いまは家督も済み伊達家のあるじである、もう誰に遠慮もないのだか
ら飲めと――だからおれは飲んだ」
 綱宗ははつ[#「はつ」に傍点]女に手を伸ばした。はつ[#「はつ」に傍点]女は大き
な盃を取って渡し、侍女が、なみなみとその盃に酌をした。綱宗はひと息に呷《あお》り、
そして云った。
「おれは飲んだ、大学はみごとだと褒めた、おれは大盃を重ねた、大学はますます褒めたし
、誰ひとりとめる者はなかった、これを十左が知っているか」
「そのあとで」と甲斐が云った、「十左は奥山どのを責めた筈でございます」
「甲斐ならどうする」と綱宗が云った、「甲斐もやはり大学を叱るか」
 甲斐は黙っていた。
「十左にはわからない、誰にもわからないかもしれない、しかし、その席に一ノ関がいて、
大学の隣りに坐っていたと聞けば、少なくとも甲斐には事情がわかる筈だ」
 綱宗はまた酒を注がせて飲み、侍女たちに手を振って「なぜ船岡に酌をしないか」と云い
、そして、片手を膝に突いて肩を張った。
「大学は単純な癇癪《かんしゃく》もちにすぎない」と綱宗は云った。「あいつはいかのぼ
り[#「いかのぼり」に傍点][#1段階小さな文字](紙凧)[#小さな文字終わり]だ
、自分の意志ではなく、操つる者の糸によってどうにでも動かされる、現にいまでは、浜屋
敷で酒をすすめたのは茂庭周防《もにわすおう》だと、しきりに悪声を放っているそうでは
ないか」
「私はまだ聞きません」
「ではすぐに聞けるだろう、ここに押籠《おしこ》められているおれの耳にも聞えたのだ、
甲斐にも聞える筈だからよく聞くがいい、彼はいま周防を誹謗《ひぼう》することでやっき
になっている、糸に操つられるいかのぼり[#「いかのぼり」に傍点]だということは気が
つかずに」
 そして綱宗は笑った。かさかさと乾いた、自分をあざけるような笑いであった。
「もっとも、いかのぼり[#「いかのぼり」に傍点]は大学ひとりではない、ほかにもずい
ぶんいる、ずいぶんいるぞ甲斐」と綱宗は云った、「おれが逼塞になったこともそうだ、お
れは幕府から譴責《けんせき》された、なぜだ、どうして幕府から譴責されたか、逼塞を命
ぜられるような、なにをしたか、おれがなにをしたか、なるほどおれは廓《くるわ》へかよ
った、僅か十日あまり、それも普請小屋の見廻りを終ったあとで、……しかも自分から望ん
だのではない、京の伯母上《おばうえ》[#1段階小さな文字](綱宗の母の姉で逢春門院
。当時の今上、後西天皇の生母)[#小さな文字終わり]から暑気みまいが来たとき、そう
精勤しては躯にこたえる、少しは気ばらしをするがよいといって、四人の者におれを伴れだ
させた者がいる、むりにおれを伴れださせ、そして廓へ案内をさせた、そいつが誰だか、甲
斐は知っているだろう、――一ノ関だ、糸を操つっているのは一ノ関だ、これまでのことは
すべて、兵部少輔宗勝の策略だ」
 綱宗の顔はすっかり蒼くなり、充血した眼がきらきらと光りだした。彼は盃を持っている
ことも忘れたとみえ、その手で膝を打ちながら叫んだ。
「しかも誰ひとり抑える者がない、すべて兵部の策略だと知っている者でも、手を束《つか
》ねて傍観している、ただ黙って、なに一つせずに見ているだけだ」
「おくち返しを致すようですが」
「おまえもだ、甲斐」と綱宗は叫んだ、「おまえもその一人だぞ、原田甲斐」
「原田さま」とはつ[#「はつ」に傍点]女が云った。
 甲斐は「大丈夫です」というように、はつ[#「はつ」に傍点]女に頷いた。
「おくち返しを致すようですが」と甲斐は静かに云った、「私にはお言葉の意味がよくわか
りません」
「なにがわからない」
0086名無しさん@お腹いっぱい。
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2020/01/07(火) 08:21:03.59ID:XHellqth
「仰せになることのすべてです」と甲斐は云った、「すでに若君が御家督あそばされ、伊達
家御安泰となったいま、なんのためにさようなことを仰せられますのか、さような酔余のお
言葉から、もし騒動でも起こったらいかがあそばす、せっかく御安泰となった御家に、万一
のことがあったらいかがあそばしますか」
「黙れ甲斐、仙台六十万石はおれのものだ」と綱宗は叫んだ、「兵部の陰謀にはまって、こ
のまま一生ひかげの身になるくらいなら、六十万石はいっそ潰《つぶ》れるほうがいい」
 甲斐は悲しげな眼で綱宗を見た。
「おれは潰すぞ」と綱宗は叫んだ、「なんの六十万石、おれがみごとにとり潰してみせる、
こんな無道《むどう》なことを黙っているほど、綱宗が木偶《でく》だと思ったらまちがい
だ、おれはきっと潰してみせるぞ」
「ええわかっております」とはつ[#「はつ」に傍点]女が云った、「殿さまの御心中は、
原田さまもよくおわかりです、もうおやめあそばせ、小浪に踊らせましょうから御機嫌を直
して」
「黙れ、甲斐になにがわかる」
 綱宗は「こいつに」と云い、持っている盃を甲斐に向かって投げつけた。甲斐は除《よ》
けなかった、盃は彼の胸に当り、それから膳の上に落ちて音をたてた。
「こいつも一味だ」と綱宗は怒号した、「甲斐も兵部の一味だ、おれが成敗してくれる、佩
刀をもて」
「原田さま」とはつ[#「はつ」に傍点]女が叫んだ。
 綱宗は立ちあがり、うしろにあった刀架から刀を取って抜いた。
「原田さま、どうぞ早く」とはつ[#「はつ」に傍点]女が叫んだ。
 甲斐は動かなかった。はつ[#「はつ」に傍点]女に「大丈夫です」と頷いたまま、片手
に盃を持って坐っていた。
 綱宗は抜いた刀を持って、上段からおりて来た。逆上のために眼はつりあがり、乱酔して
いるので足もとがきまらなかった。
「殿さま」と老女の藤井が叫んだ。そして綱宗を追って来て、その腕にすがりついた。綱宗
はふり放した。
「甲斐、動くな」
「殿さま」藤井が再びとりすがった。
 綱宗は激しく突きとばした。藤井はよろめいて膝をつきながら、「原田さまお逃げ下さい
」と悲鳴をあげた。
 はつ[#「はつ」に傍点]女は泣いていた。上段の自分の席に坐ったまま、彼女が両手で
顔を掩《おお》っているのを、甲斐は見た。
 甲斐が動かないので、綱宗は斬りつけた。もちろん斬るつもりはなかったろう。甲斐は上
体を捻《ひね》って、むぞうさに綱宗の右手をつかんだ。綱宗は身をもがいた。
「おしずまり下さい」と甲斐が云った。
 綱宗が叫んだ、「手向いするか」
「おしずまり下さい」
 綱宗は「おのれ」と云って足をあげた。蹴《け》ろうとするのを、甲斐は僅かに避け、綱
宗の腕を逆にねじあげ、刀を奪い取って、突き放した。
 綱宗はうしろへ倒れた。
「藤井どの」と云って、甲斐は刀をさしだした。
 老女は両袖を重ねて受取り、すばやく上段のほうへいった。綱宗は尻もちをついたまま、
苦しそうに「はっはっ」と喘《あえ》ぎ、両手を前について、頭を垂れた。
「おれは、まだ、二十一だ」と綱宗は云った、「おれはまだ、二十一だぞ、甲斐、わかるか
、おまえにわかるか、世に出たのは僅か二年たらず、この年で、これからさき、ずっと、ひ
かげの身でくらさなければならない、この気持がわかるか」
 甲斐は黙っていた。
 綱宗は顔をあげて甲斐を見た。綱宗の眼は濡れていた。甲斐はじっと、その濡れている綱
宗の眼をみつめた。
「ゆるせ、悪かった」と綱宗が云った、「また来てくれるか」
「正月には船岡へ帰ります」
0087名無しさん@お腹いっぱい。
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2020/01/07(火) 08:21:31.64ID:XHellqth
「また来てくれるな」
「御番であがりましたら伺候いたします」
「待っているぞ」綱宗は顔をそむけ、片手をうしろへ伸ばしながら云った、「はつ[#「は
つ」に傍点]、手をかせ」
 綱宗は、はつ[#「はつ」に傍点]女に支えられて、奥へ去った、数寄屋の中は、すでに
暗く、手燭を持った侍女が、二人の先に立ち、老女を残して、他の侍女たちも、うしろを護
っていった。
 甲斐はそれを見送った。
 はつ[#「はつ」に傍点]女に支えられた、綱宗の姿を、手燭の光が、ぼうと、いかにも
心もとなくうつし、そして上段の襖《ふすま》のかなたへ、蹌踉《そうろう》と去っていっ
た。甲斐はしんと、それを見送っていた。綱宗の姿が見えなくなると、彼は静かに眼をつむ
り、ややしばらく、黙って坐っていた。それはあたかも、いまの綱宗の姿を、記憶にきざみ
つけようとしているかのようにみえた。
 ふと啜《すす》り泣きの声が起こった。老女の藤井が泣きだしたのであった。彼女は低く
、囁《ささや》くような声で、云った。
「おいたわしいと、お思いになりませんか」
 甲斐は答えなかった。
「お酔いあそばすと、いつもあのとおりでございます、なにか手だてはないのでしょうか」

「さて――」と甲斐は眼をあげた、「私もおいとまをいただくとしましょう」
「原田さま」と藤井がふるえ声で云った、「あなたは、いまのごようすを、おいたわしいと
は、お思いにならないのですか、なんとか手だてはないのですか」
「なにをです」
「殿さまを御本邸へお迎えするということです、このまま御隠居おさせ申すのは、あんまり
おいたわしすぎます、なんとかお咎《とが》めを解く手だてはないのですか」
「私は評定役にすぎない」と甲斐は穏やかに云った、「そういうことには不案内でもあり、
また口を出す立場でもありません」
「ああ、原田さま」
「これでおいとまをいただきます」
 そして彼は立ちあがった。
 駕籠《かご》に乗ってから、甲斐はふところ紙を出し、それで眼を押えた。駕籠が下屋敷
の門を出て、すっかり黄昏《たそが》れた街を、四五町ばかりゆくあいだ、懐紙で眼を押え
たまま、彼はじっと息をひそめていた。
 その月の末に、船岡で留守をしている家老の、片倉隼人から手紙が届いた。
 ――案じられた秋の収穫が思ったよりよく、年貢米もそろそろ集まりだしている。気温は
いつもより低いが、ずっと晴天つづきで、白石川の鰍《かじか》も肥えた。
 数日まえ、山から与五兵衛が来て、山のけもの[#「けもの」に傍点]の動きぐあいでは
、この冬は雪が多いだろう、ということであった。また百姓たちは、麦の作も例年より豊作
になる、と云いあっている。
 幕府から国目付が来るので、自分は仙台へいって来た。
 到着したのは十一日で、当日は、御一門、御家老、町奉行までが、麻上下で河原町まで出
迎え、自分もそれに加わった。宿所へ案内したのは、柴田[#1段階小さな文字](内蔵介
《くらのすけ》)[#小さな文字終わり]どの、富塚[#1段階小さな文字](内蔵允《く
らのすけ》)[#小さな文字終わり]どのであった。
 明くる十二日。国目付の招きで、御一門、御一家、御一族が宿所にゆき、国目付から、将
軍家墨印、奉書の披露があったが、これには御家老がたは出なかった。
0088名無しさん@お腹いっぱい。
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2020/01/07(火) 08:22:01.05ID:XHellqth
 二十二日。奥城二ノ丸において、両目付の饗応《きょうおう》があり、自分も接待に出た
。御相伴《おしょうばん》は涌谷[#1段階小さな文字](伊達安芸)[#小さな文字終わ
り]さま。両目付に随行して来た中里|道朔《どうさく》という医者と、兎玉玄程とで、囃
《はやし》の座興があった。宴のあと、両目付を本丸へ案内し、それで饗応は終った。
 涌谷さまは二十三日に領地へ帰られ、自分はそれを見送ってから、船岡へ帰った。
 お留守はほかに変りもない、奥方はじめ小四郎さまも御息災であるし、万事平穏にいって
いる。
 隼人の手紙はそうむすんであった。
 その月は事が多かった――兵部少輔宗勝と、右京亮宗良《うきょうのすけむねよし》の二
人に、亀千代の後見役として、所領加増のことが決定した。兵部は一万石あまりのところ、
三万石に増され、宇田川橋の本邸のほかに、飯倉かわらけ町に中屋敷、麻布新堀に下屋敷を
もらい、その子の東市正《いちのかみ》は土器町の中屋敷へ移った。
 田村右京はもと栗原郡岩ヶ崎で、一万五千石だったが、名取郡岩沼にところ替えして、や
はり三万石となり、愛宕下《あたごした》に屋敷をもらった。右京は綱宗の庶兄で、年も三
歳上であった。
 両後見の加増が決定したあと、家老の任命について、兵部と右京から提案が出た。主唱者
は兵部で、右京はそれにひきずられたらしい。柴田内蔵介と富塚内蔵允が候補にあがり、「
三千石ずつ加増」という条件を、兵部から付けて来た。
 そこで三家老と四評定役のあいだに、合議があり、立花飛騨守に相談のうえ、二人を家老
に加えることが定《きま》った。柴田内蔵介は承知した。彼は登米《とめ》郡|米谷《まい
や》三千石の館主であったが、これで六千石の家老となり、名も外記朝意《げきともおき》
と改めた。
 富塚内蔵允からは、任命は受けるが加増は辞退する、と断わって来た。自分の知行は二千
石を越え財用は充分に足りている、もし加増されるなら、幼君が御成人のうえで頂戴したい
。ということであったが、しかし結局は加増も承知し、二人は家老に就任した。
 そして十月になった。

[#3字下げ]霜柱[#「霜柱」は中見出し]

 よく晴れた朝の九時、――浄妙院の裏門から出て来たおみや[#「みや」に傍点]は冬空
に高く棟を張った、浅草寺の本壁の屋根や、五重塔を眺めるようすで、すばやく道の左右に
眼をはしらせながら、伝法院の脇を歌仙茶屋のほうへぬけていった。
 黒っぽい小紋の小袖に、納戸《なんど》色の被布《ひふ》をかさね、やはり納戸色の縮緬
《ちりめん》の頭巾《ずきん》をしている。小さな包みを抱えた手に、水晶の数珠をかけ、
袖に入れた右手で、その包みを押えた姿は、このまえと同じように、寺まいりに来た若い後
家というふうにみえた。
「お福茶をあがってらっしゃいまし、お福茶をめしあがれ」
 並んでいる茶店では、もうしきりに客を呼ぶ声がしていたし、参詣《さんけい》する人た
ちもかなり出ていた。
 おみや[#「みや」に傍点]は端から五軒めの茶店へ、「おばさん、お早う」と云いなが
らはいっていった。腰掛けの並んだ店の奥に、「お吉」と染めた色のれん[#「のれん」に
傍点]が掛けてあり、そこから五十歳ばかりになる肥えた女が、こちらを覗《のぞ》いた。

「おや、お帰んなさい、今朝は早いのね」
「法事があるんですって」
「そう、まあこっちへおいでなさいな、まだ誰も来ていないのよ」
 おみや[#「みや」に傍点]は奥へはいった。奥には茶釜や器物の棚や、水瓶《みずがめ
》などの置いてある土間の片方に、三帖ばかりの小部屋があり、茶釜からは湯気が立ってい
た。
「いま火を取るからね」
「あたしすぐに帰りますわ」
 おみや[#「みや」に傍点]はその小部屋の、あがり框《がまち》に腰をかけ、持ってい
た包みを解いた。
0089名無しさん@お腹いっぱい。
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2020/01/07(火) 08:22:59.23ID:XHellqth
「まあいいやね、この時間に帰ると近所がうるさいんでしょ、いまお茶を淹《い》れるよ」

 女は釜戸《かまど》から、焚きおとしを十能《じゅうのう》に取り、小部屋の火桶《ひお
け》に入れて、炭をついだ。おみや[#「みや」に傍点]は包みの中から、なにがしかの金
を出し、紙に包んで、女の前へさしだした。
「おばさん、これ、いつもの」
「あらそう、済まないね」
 女はすぐに取って袂《たもと》へ入れ、十能を持って茶釜のほうへ戻った。
「頭巾はぬがないほうがいいよ、今朝はめっぽう冷えるからね」
「もう十一月ですものね」
「十一月だよ、本当に、そうするとおみや[#「みや」に傍点]さんは、浄妙院へはもう幾
月になるかしら」
「八月からですから」
「四つきだね、へえ」と女は茶を淹れながら云った、「うっかりしてたけれど、四つきも続
くなんて、おまえさんが初めてだよ」
「あらそう」
「あの和尚《おしょう》さんときたら、はいお茶」
 女はこっちへ来て、茶碗をのせた盆を置き、おみや[#「みや」に傍点]にすすめながら
、自分も取った。
「あの和尚さんときたら、これまで一と月と続いた人がないんだから」
「あらそうかしら」おみや[#「みや」に傍点]は茶を啜った。
「そうかしらって、おまえさん思い当ることはないの」
「いいえ、べつにそんなことはないわ」
「へえ、それじゃあ合っているんだね」と女は云った、「これまでは和尚さんのほうで気に
いらないか、和尚さんが気にいれば女の人のほうで逃げだすかで、ほんとのところ一と月と
続いたためしがなかったのよ」
「だって、どうして逃げだすのかしら」
「わる好みをするっていうじゃないの」
「いやだわ、おばさん」とおみや[#「みや」に傍点]はにらんだ。
「そうじゃないの」
「いやだ、おばさんったら」
「ひどくつよいうえに、わる好みをするっていうじゃないの」と女は云った。女は茶碗を置
き、莨盆《たばこぼん》をひきよせて、いっぷく吸いつけた、「いちど花魁《おいらん》を
ひかせたことがあったけれど、廓づとめをしたその人でさえ、躯がもたないって逃げだした
くらいよ」
「そうかしらねえ」
「思い当るでしょ」
「わからないわ」とおみや[#「みや」に傍点]は云った、「あたしは親切で思い遣りのあ
る、いい人だと思うけれど」
「だからあたしが合ってるって云うんだよ」と女が云った。
 女は唇を舐《な》めながら、あけっぱなしな口調で、露骨なことをずけずけと云った。お
みや[#「みや」に傍点]はさして恥じるようすもなく、頬を赤くしながら、これも興あり
げに、なんでも答えた。女は乾いた声で笑い、眼をぎらぎらさせた。
「相当なもんだ、おまえさんて人も」
「あらどうして」
「まえの武家の旦那っていうのに仕込まれたんだね」
「ぶつわよ、おばさん」
 やがて表てから、雇いの茶|汲《く》み女がはいって来た。
「おそくなって済みません」
「いまじぶんよく来られたもんだね」と女は険のある声で云った。おみや[#「みや」に傍
点]はそれをしおに立ちあがった。
0090名無しさん@お腹いっぱい。
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2020/01/07(火) 08:23:31.17ID:XHellqth
「あたし帰りますわ」
「まあいいじゃないの」
「でもそうしてはいられませんから」
 おみや[#「みや」に傍点]は包みを抱えた。
 茶汲み女は「母親のぐあいが悪いので」と云いわけを云っていた。おみや[#「みや」に
傍点]は女に挨拶をして、その茶店を出た。
 材木町の家へ帰り、隣りへ声をかけると、お久米が慌てたように出て来て、「ちょっと」
と囁《ささや》きながら、手まねきをした。おみや[#「みや」に傍点]は土間へはいった

「あの人があんたのあとを跟《つ》けてったらしいわよ」
「あの人って」
「新八っていう人よ」
 おみや[#「みや」に傍点]はどきっとした。
「ちょっとあがらない」とお久米が云った。
 おみや[#「みや」に傍点]は首を振り、声をひそめて訊いた、「あたしのあとを跟けた
んですって」
「そうだと思うの」とお久米が云った、「ゆうべあんたがでかけると、すぐにあの人も出て
いったわ」
「そして、――」
「帰って来たのは十二時ちかいころよ」とお久米は云った、「まさか女あそびにゆく筈はな
いし、帰って来てからもようすが変だったわ」
「どんなふうに」
「いつまでも寝ないで、家の中を歩きまわったり、ぶつぶつなにか独り言を云ったり、ずい
ぶん変なようすだったわ」
「いま、いるのね」
「いる筈よ、あの調子だと朝まで寝なかったかもしれないし、いま静かなのは寝ているのか
もしれないわ」
「有難う、いってみるわ」
「みや[#「みや」に傍点]ちゃん」とお久米が囁いた、「あんた、あの人と、できたんで
しょ」
「まあ、お久米さんたら」
「とうとうものにしちゃったのね、にくらしい」
「そんなんじゃないのよ、まだ十六のまるっきり子供じゃありませんか」
「隠してもだめ、壁ひとえよ」とお久米はにらんだ、「あたしのほうは旦那も足が遠のくば
かりだし、あんたのお兄さんは見向いてもくれないし、よく眠れない晩のつづくときもある
んですからね、あんまり聞かせるのは罪だよ、みや[#「みや」に傍点]ちゃん」
「ずいぶん云うわね」おみや[#「みや」に傍点]は冷淡に云った、「旱《ひでり》のお百
姓は、砂が飛んでも雨だと思うっていうけれど、そんな邪推はあんたらしくないことよ」
「いいからいらっしゃい」とお久米は云った、「あたしあんたを怒らせるつもりはないわ、
でもおかしいわねえ、あんたって人はずいぶんすご腕なくせに、まるでうぶなところもある
のね」
「あたしがすご腕ですって」
「いいからいらっしゃい」おみや[#「みや」に傍点]の唇が片方へひきつった、お久米は
やさしく云った、「さもないと、あんたの可愛い子に、もっといやなことを聞かれるかもし
れなくってよ」
「あとで来るわ」とおみや[#「みや」に傍点]は眼を伏せた、「怒らないでねお久米さん
、あたし今朝はどうかしているのよ」
 お久米は黙っていた。
 おみや[#「みや」に傍点]はもういちど、あとで来るわねえと云い、お久米に別れて自
分の家へはいった。
0091名無しさん@お腹いっぱい。
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2020/01/07(火) 08:24:00.57ID:XHellqth
 新八はごろ寝をしていた。こっちの六帖で、着たなりで、一枚の夜具にくるまって、ちぢ
まって寝ていた。
 雨戸が閉めてあるので、部屋の中は暗く、あけた襖からの片明りで、新八の顔はみじめな
ほど窶《やつ》れてみえた。もとからひよわそうな顔だちであったが、このごろは色艶《い
ろつや》もめだってわるく、頬もこけたし、唇も乾いて、いつもかさかさしていた。お久米
の云うとおり、ひと晩じゅう寝ずに待っていたのかもしれない。いまは眠っているのに、お
ちくぼんだ眼が少しあいており、額には深い皺《しわ》がよっていた。
 おみや[#「みや」に傍点]は身ぶるいした。浄妙院の住持との、飽くことを知らない、
膏《あぶら》ぎった時間のあとで、新八の憔悴《しょうすい》した姿が、却《かえ》ってお
みや[#「みや」に傍点]を強く唆《そそ》った。
 彼女はおののきながら、手ばやく下衣ひとつになり、襖をしめて、新八のくるまっている
、夜具の中へすべりこんだ。新八は呻《うめ》いて躯を伸ばした。おみや[#「みや」に傍
点]は彼にしがみついた。新八はまだよく眼がさめず、呻きながら首をぐらぐらさせたが、
おみや[#「みや」に傍点]の足が絡まったとき、
「あ」といって眼をあいた。
「眼がさめて、新さん」おみや[#「みや」に傍点]は荒い息をした。
 新八は彼女を突きのけ、なおしがみついてくる手足を乱暴にふり放して、立ちあがるなり
手で唇を拭いた。
「けがらわしい、たくさんだ」
 おみや[#「みや」に傍点]は起き直った。裾が捲《まく》れて、太腿《ふともも》まで
見えるのにも気がつかず、おみや[#「みや」に傍点]はびっくりしたような眼で、茫然と
新八を見あげていた。
「私は騙《だま》されていた」彼は手の甲でまた唇を拭き、ふるえ声でつづけた、「でも、
もう騙されやしない、私はすっかり聞いてしまった、貴女《あなた》は、みだらな、けがら
わしい人だ」
「けがらわしいですって」
「けがらわしいさ」
「なにがけがらわしいの」
「自分で知らないのか」
「大きな声をしないでちょうだい、隣りへ聞えるじゃないの」とおみや[#「みや」に傍点
]は云った、「ちょっと坐って、新さん、あたしあんたに話さなければならないわ」
「たくさんだ」と新八は首を振った。
「坐ってちょうだい、あたしあんたを騙したおぼえもないし、あんたにけがらわしいなんて
云われるおぼえもないことよ」
 新八は「それじゃあ」と吃《ども》りながら云った、「あの浄妙院はいったいなんだ」
「浄妙院がどうしたの」とおみや[#「みや」に傍点]が訊き返した。
 新八は口ごもった。
 浄妙院がどうした、というおみや[#「みや」に傍点]の反問は、あまりに平静で、いさ
さかの恥も、うしろめたさもなかった。
「浄妙院のことはあんたに云ってある筈よ」とおみや[#「みや」に傍点]は云った。
「いや、ちがう」
「なにがちがうの」
「貴女は、おこもり[#「おこもり」に傍点]にゆくのだと云った、お父上の遺骨を預けた
から、供養のために、ときどきおこもり[#「おこもり」に傍点]にゆくのだと云った」
「まあ、新さん」
「私はそう信じていた」
「まあ聞いてちょうだい」
「けれども嘘だった、私はゆうべ浄妙院へいって、寺男にすっかり聞いたんだ」
「なぜそんなことをしたの」
0092名無しさん@お腹いっぱい。
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2020/01/07(火) 08:24:30.95ID:XHellqth
「お父上の遺骨が納戸の中にあったからだ」と新八は云った、「お父上の俗名と戒名の付い
た遺骨の壺が、隠しもせずに置いてあった、おこもり[#「おこもり」に傍点]というのは
嘘だと、私の感づいたのがむりか」
「まあ聞いてちょうだい」
「たくさんだ」
「聞いてちょうだいったら、新さん」とおみや[#「みや」に傍点]は云った、「あたしは
そう云ったわ、たしかに云ったことよ、でも嘘をついて騙すつもりじゃあなかったわ」
「これが嘘じゃないって」
「そんなつもりはこれっぱかりもなかった、ほんとよ、もしあんたを騙すつもりなら、お骨
《こつ》をあんなところに置いときゃあしない、いくらあたしだってそのくらいの知恵はあ
ってよ」
「ではいったいどういうことなんだ」
「あたし新さんが察してくれると思ったのよ」
「察しるって」と新八は拳《こぶし》をふるわせた、「貴女がかよいだいこく[#「かよい
だいこく」に傍点]といって、あの寺の住持のところへ身を売りにいくことをか」
「新さんには無理だったのね」とおみや[#「みや」に傍点]は云った。捲れていた裾を直
し、弱よわしくうなだれながら、おみや[#「みや」に傍点]はゆっくりとつづけた、「あ
たし初めの日に、あんたに云ったでしょう、兄のために苦労する決心をしたって、兄は呑ん
だくれの我儘《わがまま》者だけれど、それでも苦労してあげていい値打があるし、そのう
え新さんって人まで殖《ふ》えたでしょう」
「それも嘘だ」と新八が云った。
「あら、なにが嘘なの」
「私はいつか柿崎さんが貴女に云っているのを聞いた、もう稼ぐ必要はない、金はおれが遣
るって、柿崎さんははっきり云ったし、貴女が金を貰っていることも知っているんだ」
「あんたって子供ねえ」
「まだ私を、ごまかせると思うのか」
「まあ聞いてちょうだい」とおみや[#「みや」に傍点]は坐り直した、「それは新さんの
云うとおり、兄は月づきのお金を呉れるようになったわ、あたしにはどういうお金だかわか
らないけれど、とにかく暮しに不足しないだけのお金は呉れるわ、けれどね、新さん、世の
中はそれで済むっていうものじゃなくってよ」
 新八は黙っていた。おみや[#「みや」に傍点]はつづけた。
「兄のお金がどんな性質のものかわからない、いつまでも続くのか、ほんの当座だけのもの
かわからない、もし兄のほうがだめになったら、またあたしが稼がなければならないでしょ

「それなら、もしそれが必要なら」と新八が云った、「そんな恥ずかしいことをしなくった
って、私だって人足ぐらいの仕事はやりますよ」
「その躯で、――」おみや[#「みや」に傍点]は首を振った、「ねえ、聞いてちょうだい
」とおみや[#「みや」に傍点]は云った、「あたしに渡辺の旦那を世話してくれたのも、
浄妙院を世話してくれたのも同じ人なのよ、その人にはずいぶん厄介になっているし、これ
からのことはべつとしても、こっちの都合がよくなったからといって、ではおさらばという
わけにはいかないわ」
「私は自分で稼ぎます」
「世の中はそう簡単じゃあなくってよ」
「私はこの家も出ます」と新八が云った、「御厄介になったことは忘れません、しかし私が
ここへ来たのはまちがいでした、私はもっと早く出てゆかなければならなかった、自分でも
それを知っていたのに」
「新さん、あんたそれ本気で云ってるの」とおみや[#「みや」に傍点]が云った。
 新八は腕で顔を押えながら、壁へよりかかって泣きだした。おみや[#「みや」に傍点]
は「新さん」と云い、はね起きて、新八にすがりついた。新八の泣きだしたことが、彼女の
躯に新しく火をつけたようであった。おみや[#「みや」に傍点]は狂ったように新八を抱
きしめ、頬ずりをし、そして声をふるわせて云った。
0093名無しさん@お腹いっぱい。
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2020/01/07(火) 08:25:00.87ID:XHellqth
「あんたはゆきやしない、ゆけやしないわ、外には伊達さまの追手の眼が光ってるのよ、あ
んたはお兄さんの仇を討たなければならないでしょ、あたしの兄だってあんたを放しゃしな
いし、あたしだって放しゃしないわ」
 おみや[#「みや」に傍点]の言葉はしどろもどろだった。新八は啜りあげながら、しか
しもう、おみや[#「みや」に傍点]からのがれようとはしなかった。
「あたしを捨てないで、新さん」とおみや[#「みや」に傍点]は云った、「あんたはあた
しにとって初めての人よ、躯はよごれてるかもしれないけれど、あたしの心はきれいよ、あ
たしは娘のままの、汚れのない心であんたに恋したのよ、わかるでしょ、わかるわね、新さ
ん」
 おみや[#「みや」に傍点]は泣きだした。
「あたしを捨てないで、もし新さんに捨てられたら、あたしもう生きてはいられないわ、お
願いよ、わかるわね、新さん」おみや[#「みや」に傍点]は彼を抱きしめた、「わかって
ね、ね」
 彼女は新八をひきよせた。新八は不決断に反抗した。けれどおみや[#「みや」に傍点]
は力まかせにひきよせ、殆んど狂暴にしがみついた。二人はよろめき、絡みあったまま、そ
こにある夜具の上へ倒れた。どうなるんだ。新八は自分をつなぎとめようとした。きさま、
それでも、武士の子か。恥を知れ。だが、彼は包まれてしまう。
 綿のように軽く、温かく、柔軟な重みが彼を包み、彼を押え、緊めつけ、痺《しび》れさ
せてしまう。彼は落ちてゆき、舞いあがり、快楽のなかでひき裂かれる。
 ――おれは逃げるんだ、逃げてみせる。
 新八は放心のなかで叫ぶ。逃げなければならない。しかし彼は落ちる。彼には自分をつな
ぎとめることはできない。その単調な動作の繰り返しは、彼を縛りあげ、彼をばらばらにし
てしまう。
 ――逃げるんだ、早く早く、逃げだすんだ。
 そうして彼は、まったく、自分をみうしない、溶けて、地面のなかへ吸いこまれてしまう
。新八は、自分の躯が自分で支配できなくなってゆくことに、気がついていた。一と月ほど
まえに初めて経験し、それ以来ずっと繰り返されてきたその習慣は、彼の躯を縛りつけるば
かりでなく、考える自由をさえ縛りつけるようであった。
「しかしおれは逃げだすぞ」と新八は口の中で呟《つぶや》いた。
 おみや[#「みや」に傍点]の、陶酔のあとの、やすらかな寝息を聞きながら、彼は、自
分が逃げだすだろう、と思った。必ずここから逃げだしてみせる、おれにもまだそのくらい
の力はある、彼はそう信じた。
 どのくらい経ってからか、新八はふと眼をさました。するとそこに人が立っていた。彼は
痺れるような眠りのなかで、眼をさまし、そこに立っている人を見た。その男は新八を見て
いた。
「みや[#「みや」に傍点]、起きろ」とその男は云った。
 新八ははっきり眼をさました。しかし動けなかった。その人は柿崎六郎兵衛であった。六
郎兵衛は冷やかな表情で眠りこけているおみや[#「みや」に傍点]の肩へ足をかけて揺す
った。おみや[#「みや」に傍点]はねぼけ声をだした。新八はぞっとして眼をつむり、吐
きそうな気持におそわれながら、寝返りをうった。
 おみや[#「みや」に傍点]のねぼけた声は、無知と、卑しさそのものであった。自分の
そんな姿を見られた、救いようのない汚辱感のなかで、新八はおみや[#「みや」に傍点]
を呪った。
「新八も起きて来い」と奥の六帖で六郎兵衛の呼ぶ声がした、「きさまにも話すことがある

 その家へ六郎兵衛の帰って来るのは、ちかごろでは珍らしいことであった。
 まえにも帰らないことはよくあったが、十月はじめあたりからは帰って来るほうが稀《ま
れ》であり、帰って来ても、用事を済ませるとすぐに出ていくのであった。それでおみや[
#「みや」に傍点]はゆだんしていたのであるが、六郎兵衛の話しを聞くと、おみや[#「
みや」に傍点]はすっかり戸惑いした。
0094名無しさん@お腹いっぱい。
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2020/01/07(火) 08:25:30.09ID:XHellqth
 彼は妹に、屋敷奉公にゆくのだから、すぐに支度をしろと云った。おみや[#「みや」に
傍点]はいやだと云った。自分にはもうかたくるしい武家勤めはできない。ならん、おれが
命ずるのだ。どうしてですか。それはおまえの知ったことではない、すぐに支度をしろ。新
さんはどうなるんですか。宮本はここに残る。一人でですか。野中又五郎と妻子が来る。で
は新さんはその人たちといっしょに暮すんですか。そうだ。なにか不服があるか、と六郎兵
衛が云った。
 おみや[#「みや」に傍点]はすぐに諦《あきら》めた。兄に反抗することなどは不可能
である。おみや[#「みや」に傍点]は新八と別れたくない、新八とそういうわけになって
から、いっそう別れることは辛い。しかし兄の意志にはさからえないだろう、「この呑んだ
くれの悪性者は」とおみや[#「みや」に傍点]は心のなかで思った。もし反抗でもしたら
片輪になるほど自分を折檻《せっかん》し、そうしてやはり、思いどおりにするだろう。と
おみや[#「みや」に傍点]は思った。六郎兵衛は妹を「すぐに支度しろ」とせきたて、こ
んどは新八に向かって、畑与右衛門の遺族のことを訊いた。
 新八は宇乃と虎之助のことを話した。
「親しくしていたのか」と六郎兵衛が訊いた。
 新八はそうだと答えた。
 六郎兵衛はさらに訊いた、「姉弟とも、おまえの云うことを信ずるくらいにか」
「それはどういう意味ですか」
「あらゆる意味でだ」と六郎兵衛は云った。
「わかりません」と新八は眼を伏せた、「私たちは家族どうしでつきあっていましたし、あ
の晩はいっしょに逃げて、原田さんに助けられたのです」
「それはもう聞いた」
「ですから、信じてくれているとは思いますが、どれほど信じてくれるかは、事と次第によ
ると思います」
「よかろう」と六郎兵衛は頷《うなず》いた。
 新八は不安そうな眼で、六郎兵衛の顔を見た。
「あの二人に、なにかあったんですか」
「救い出すんだ」と六郎兵衛は云った。「その姉弟も、救い出さぬとなにをされるかわから
ない、そうだろう」
「そうでしょうか」
「そう思わないのか」と六郎兵衛は不審そうに見た。
「はい」と新八ははっきり云った、「あの姉弟は原田さまに保護されています、原田さまは
どんなことがあっても、きっと二人を保護して下さると思います」
 六郎兵衛は新八を見まもった。
「おまえは、護送される途中で脱走し、江戸へ戻って来たときに、原田どのを頼るつもりだ
と云っていたな」
「――そうです」
「そんなに信頼できる男か」
「そうだと思います」新八は唾をのんだ。
 六郎兵衛はさらに不審そうな眼で、新八の表情を見まもった。
「そう思うというのは、自分で直接知っているわけではないのだな」
「直接には知りません、原田さんは着座《ちゃくざ》といって、家老になる家柄ですし、私
の家とは身分がちがいますから」
「ではどうして、信頼できるということがわかるんだ」と六郎兵衛が云った。新八はちょっ
とためらった。六郎兵衛は冷笑するように云った。
「家中の評《うわさ》か」
 新八は「そうです」と云った。
「ばかなやつだ」
 六郎兵衛の顔に、冷笑と、するどい怒りの色があらわれた。
0095名無しさん@お腹いっぱい。
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2020/01/07(火) 08:27:16.45ID:XHellqth
「きさまはばかなやつだ」と六郎兵衛は云った、「おれも原田甲斐の評判は知っている、彼
は誰にも好かれ、信頼されている、反感をもつ者も少ないし、憎んだり、敵対するような者
は一人もないようだ、そうだろう」
 新八は頷いた。
「しれ[#「しれ」に傍点]者だ」と六郎兵衛は毒のある調子で云った、「そういう男をし
れ[#「しれ」に傍点]者というんだ、人間というものは一方から好かれれば、一方から憎
まれる、好評と悪評は必ず付いてまわるものだ、あらゆる人間に好かれ、少しも悪評がない
というのは、そいつが奸譎《かんけつ》で狡猾《こうかつ》だという証拠のようなものだ」

「でも原田さんは」
「黙れ、きさまになにがわかる」と六郎兵衛は云った、彼の表情には、怒りの色がもっと強
くあらわれた、「きさまはいま、着座だとか家老になれる家柄だとか、軽輩だとか身分がち
がうなどと云った、なにが身分だ、身分がなんだ、原田が着座かなにか知らぬ、柴田郡船岡
で四千百八十石の館主《たてぬし》かしらぬが、伊達の家臣ということではきさまと同格だ
ぞ、なんのためにそう自分を卑下するんだ」
「私は卑下なんかしません」
「卑下でなければ卑屈だ」と六郎兵衛は云った、「食禄を多く取り身分が高いということは
、奸知と策略に長じた、成りあがり者だということだ、しかも、他の多くの人間から掠《か
す》め取ってだ」
 六郎兵衛は唇を曲げた。彼はいま、憎悪と敵意のために、自分を抑えることも忘れたよう
であった。
 彼は安穏に暮している家族や、権力や名声のある者、富貴で人望のある者などにがまんが
できない。それらの条件は、かれらが不当に手にいれたものである。奸知と策略とで、他の
多くの人間から掠め取ったにすぎない。それらの身分や富や権力は、六郎兵衛のものであっ
たかもしれないし、少なくとも他の多くの者の所有だった筈だ。
 そのことが、絶えず六郎兵衛を、敵意と憎悪に、駆りたてるのであった。
「もっと額を高くあげろ」と六郎兵衛は云った、「この世はなにもかも闘いだ、相手をたた
きふせるか自分がたたきふせられるか、どちらか一つだ、自分を信じ、自分を強くしろ、世
評などに惑わされて人を信ずるのは、それだけですでに敗北者だ、しっかりしろ」
「それでは」と新八は不安そうに云った、「原田さんは、信頼できない人なのですか」
「それは事実をたしかめたうえのことだ、事実をたしかめるまでは、なに者も信頼すること
はできない」と六郎兵衛は云った。
「ではやはり」と新八は六郎兵衛を見た、「やはり畑姉弟を救い出すんですか」
「ぜひともだ」
「いつですか」
「それはおれがきめる」と六郎兵衛は云った。
 おみや[#「みや」に傍点]が出て来て「支度ができた」と云った。髪化粧を直し、着替
えをし、包みを持っていた。六郎兵衛は顔をしかめて、妹の姿をためすように眺めた。おみ
や[#「みや」に傍点]はもじもじしながら「これでは派手かしら」と訊いた。
 六郎兵衛は新八を見た、「あとで野中の家族が来る、夫婦と子供が一人だ、妻女は病身ら
しいから、これまでのように客のつもりでいてはいかんぞ」
 そして「おれは二三日うちに来る」と云って立ちあがった。
 おみや[#「みや」に傍点]は新八をみつめた、「では新さん」
「みや[#「みや」に傍点]、ぐずぐずするな」と六郎兵衛が云った。
 おみや[#「みや」に傍点]は泣きそうな眼で新八をみつめ、おろおろと云った、「あた
しいきますからね、あなたはそんなにお丈夫ではないんだから、よく躯に気をつけて下さい
よ」
 新八は「ええ」と云った、彼はおみや[#「みや」に傍点]のほうは見なかった。
「宿下《やどさが》りにはきっと来ます、不自由でしょうけれどがまんしてね、そのうちに
はまた」
0096名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2020/01/07(火) 08:28:00.88ID:XHellqth
「みや[#「みや」に傍点]」と六郎兵衛が云った。
「ではさよなら、新さん」
 おみや[#「みや」に傍点]は指で眼がしらを押えながら、包みを持って立ちあがった。
新八は顔をそむけ、黙って、弱よわしく頷いた。
 昏《く》れがたになって、野中又五郎と、その妻子が来た。このまえ訪ねて来たときは、
新八は声だけ聞いたので、会うのはそれが初めてだった。
 又五郎は三十二歳、自分でなのるところによると、蒲生《がもう》家の浪人で、妻の名は
さわ[#「さわ」に傍点]、九歳になる娘はお市といった、浪人生活がながかったのであろ
う、夫婦とも痩《や》せて、膚の色が悪いし、着ている物も貧しく、荷物も包みが三つしか
なかった。又五郎もさわ[#「さわ」に傍点]も、礼儀ただしく新八に挨拶をし、「よろし
く頼む」と云って、挨拶が済むとすぐに、又五郎は妻を横にならせた。
 新八は奥の六帖をとり、かれらは勝手に続いているほうの六帖をとった。
 ――客のようなつもりでいてはいかんぞ。
 と六郎兵衛は云った。新八はこれまで、客のようなつもりでいたこともないし、そういう
扱いをうけた覚えもなかった。しかし、野中の人たちの、生活に疲れきったような姿を見る
と、自分にできる限りのことはしよう、と思ったのであるが、さてなにをしたらいいかとな
ると、まったく見当がつかなかった。
「なにか用があったらそう云って下さい」と新八は、繰り返した。
 又五郎は礼を云い、迷惑をかけて済まない、なにも頼むような用はない、どうか心配しな
いでもらいたい、と云うばかりであった。
 お市も静かな子で、なにか用事をするときのほかは、母の側に坐ったまま、黙ってしんと
していた。あとでわかったのだが、そういうときその少女は、読書か習字をしているのであ
った。素読は父の又五郎が教え、母が習字や針の使いかたなどを教えていた。しかし素読の
ときのほか、教える声も答える声も低く、殆んど囁くようで、うっかりすると、誰もいない
かと思われるほどであった。
 妻を寝かせてから、又五郎はお市をつれて買い物にゆき、帰って来ると、勝手で炊事を始
めた。――新八はそのもの音ではじめて気がついた。食事ごしらえなどということはしたこ
ともないし、しなければならないと考えたこともない。おみや[#「みや」に傍点]が去っ
たので、これからは自分で煮炊きをしなければならない。当然そこに気がつく筈であったの
に、又五郎が始めたのを知って、ようやく気づいたのであった。
「いや大丈夫です」又五郎は米をとぎながら、微笑をうかべて云った、「妻が弱いので、い
つのまにかこんなことが上手になりました、手数は同じことですから貴方のもいっしょに作
りましょう、どうか坐っていて下さい」
 新八は押してどうとも云えなかった。
 寝ている妻女の咳《せき》と、勝手でお市の「はい、はい」と答える声と、燃えだした釜
戸の、焚木《たきぎ》のはぜる音を聞きながら、新八はぼんやりとおみや[#「みや」に傍
点]のことを想っていた。
 移って来た翌日は、又五郎は一日うちにいて、自分たちの部屋をととのえたり、娘をつれ
て買い物に出たりした。
 新八はなんとなく居づらかった。食事ごしらえなどは、年からいっても当然、自分がしな
ければならないだろう、する気持はもちろんあるのだが、又五郎が先へ先へとやってしまう
し、どう手を出したらいいか、彼にはまったくわからなかった。
 それで夕餉《ゆうげ》は外で喰べようと思い、又五郎が買い物にいったあと、なにも云わ
ずに家を出た。彼が出たとき、隣りの家では、ちょうどお久米が帰って来たところで、格子
をあけながら、新八のほうへ笑いかけた。
「あら、おでかけ」新八は「ええ」と頷いた。
「あなたのとこ、誰かお客さまらしいわね」
「移って来たんです」と新八は低い声で答えた。
「移って来て、いっしょに住むわけ」
「そうです」
0097名無しさん@お腹いっぱい。
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2020/01/07(火) 08:28:30.65ID:XHellqth
 お久米はへえ――といい、ふと思いついたように、「ちょっとお寄りなさいな」と云った

「昨日みや[#「みや」に傍点]ちゃんが寄ってったわ、どこかお屋敷へ奉公にあがるんだ
って、あんた淋しいでしょ」
 新八は赤くなった。お久米は彼が赤くなったのを見て、さらに「寄ってらっしゃい」と云
った。
「あたしみや[#「みや」に傍点]ちゃんからあなたのこと頼まれたのよ、ほんとよ、隣り
どうしだから面倒をみてあげてくれって、あたしあのひとみたようにいろんなこと上手じゃ
ないけれど、でもあんたのお世話くらい大丈夫よ」
「ちょっと用がありますから」
「いいじゃないの、ねえ、寄ってらっしゃいよ」
 お久米は首をかし[#「かし」に傍点]げ、媚《こ》びた笑いをうかべながら、じっと新
八の眼をみつめた。
 新八はもっと赤くなり、逃げるように路地を出ていった。すると通りへ出たところで、帰
ってくる野中又五郎と会った。買い物の包みを持って、娘といっしょに来た又五郎は、新八
を見ると、いそぎ足に近よりながら、首を横に振った。
「いけませんね、外へ出てはいけません」又五郎が云った、「柿崎さんからそう云われてい
るのでしょう、なにか用事でもあるのですか」
「ええ、ちょっと」新八は口ごもった。
「あるなら云って下さい、私がいって来てあげます」
 新八はあいまいに首を振り、それほどいそぐことでもない、と口の中で云った。
「では戻りましょう」と又五郎は云って歩きだした、「これからはどうか無断でお出になら
ないようにして下さい」
 その次の日、つまり移って来て三日めには、又五郎は午前八時ころ家を出てゆき、夕方の
、もう暗くなるじぶんに帰って来た。高価な品ではないが、羽折、袴《はかま》をきちっと
着けた野中の姿は、清潔でりりしくみえた。柿崎は着る物もぜいたくだし、顔だちも美男の
ほうであるが、又五郎のように清潔な感じもないし、「りりしい」などというところは少し
もみえない。
 ――野中さんは志操の正しい人なんだな。
 と新八は心のなかで思った。夕餉が済むと、又五郎が「ちょっとでかけましょう」と云っ
た。新八は彼を見た、「柿崎さんのところです」と又五郎が云った。
 新八は着替えをした。着物も帯も袴も、みなおみや[#「みや」に傍点]が新調して呉れ
たものである。又五郎は娘に向かって、戸じまりと火のもと、母の世話などを注意した。「
今夜は帰れないかもしれない」そういって、新八といっしょに出た。
 隣りの前をとおるとき、お久米が障子をあけて、こちらを見ているのが、新八の眼の隅に
はいった。彼が一人なら、呼びとめようとしたらしい、路地を出てゆきながら、新八はおみ
や[#「みや」に傍点]とのひめごとを思いだしていた。
 二人は半|刻《とき》ちかく歩いた。新八には、浅草御門をぬけたことだけはわかったが
、それからさきは、どの町をどう曲ったのか見当がつかなかった。
 ――駿河台のほうへ来ているのかな。
 そんなことを思っていると、裏通りの新らしい家の前で、又五郎が此処《ここ》ですと云
った。門柱に「菅流柿崎道場」という看板が掛けてあった。新八はあっけにとられた。
 ――柿崎さんの道場。
 妹にあんな賤《いや》しい稼《かせ》ぎをさせておいて、自分はこんな立派な道場を持つ
とは、なんという人だろうと新八は思った。
 又五郎は正面の玄関でなく、横へまわって、住居のほうの玄関からはいった。道場のほう
は灯もついていず、人のいるけはいもなかった。
0098名無しさん@お腹いっぱい。
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2020/01/07(火) 08:29:00.84ID:XHellqth
 六郎兵衛は居間で酒を飲んでいた。若い女が三人、ひどく派手な拵《こしら》えで給仕を
していた。十七か八くらいの、きりょうのいい女たちで、髪かたちも着ている物も、立ち居
、身ぶりや言葉つきも、まるでいろまちの者のように嬌《なま》めいていた。
「向うへ向うへ」と六郎兵衛は手を振った。
 新八がはいって、坐ろうとするとたん、手を振ってそう云った。又五郎は立って、新八に
めくばせをし、その部屋を出た。
 暗い廊下をいって曲ると、右側に灯で明るい障子があった。「石川うじ」と又五郎が呼び
かけ、中から答える声が聞えた。又五郎は障子をあけてはいった。
 中年の待が一人、そこに寝ころんでいた。

[#3字下げ]こがらし[#「こがらし」は中見出し]

 宇乃《うの》は朝の食事をしていた。
 まだ部屋の中は暗かった。掩《おお》いをした行燈の光が、寝ている虎之助の顔を、頭の
ほうから照らしている。宇乃はときどきそっちを見ながら、歯の音もさせまいというように
ひっそりと食べていた。
 宇乃の顔には疲れがみえる。彼女はまる二日のあいだ眠っていない、虎之助は七日ほどま
えから風邪ぎみであったが、一昨日になって、医者が麻疹《はしか》であると診断した。
 ――すっかり発疹《はっしん》してしまうまでは風に当てないように。
 医者はそう念を押した。宇乃は九つの年に麻疹を済ましていた。ちょうど夏の暑いさかり
で、幾日も幾日も、閉めきった部屋で寝かされていた苦しさを覚えている。いまは幸い冬だ
から、閉めきっていてもさして辛くはないだろうし、虎之助はききわけがよく、姉のいいつ
けをよく守った。
 良源院へ来てからずっと、寺男の弥吉と、その妻のおきわ[#「きわ」に傍点]が、二人
の世話をしてくれていた。――食事は三度とも運んで来るし、縫いものや洗濯や、そのほか
こまごました雑用も、すべて弥吉夫婦がやってくれた。もちろん原田家から頼まれた責任も
あるだろうが、かれらに子がなかったし、うすうす姉弟の身のうえを聞いて、同情のあまり
大事にしているようであった。
 宇乃が食事を終りかけているところへ、弥吉が廊下から声をかけた。
「原田さまからお使いの方がみえました」
 宇乃は「はい」といった。
 昨日、虎之助のことを、手紙に書いて甲斐に知らせた。麻疹はいのち定めという、そんな
こともないだろうが念のために、そう思って簡単に知らせたのである。――それにしても、
こんなにまだ時刻が早いのに、と思いながら、宇乃は箸《はし》を置いて立った。
 虎之助はよく眠っていた。宇乃は襖《ふすま》や障子のあけたてに注意しながら、高廊下
のほうへ出ていった。曇っているのと、時刻が早いのとで、あたりはまだうす暗く、かなり
強く風が吹いていた。
 刺すような冷たい風に、衿《えり》をかき合わせながら、宇乃はちらと庭の向うを見た。
高廊下へ出ると、必ずそうするのが癖になったようである。樅《もみ》ノ木は静かに立って
いた。そこは風が当らないのだろうか、かなり強く吹いているのに、甲斐の樅は枝を張った
まま、しんと、少しも揺れずに立っていた。
「宇乃さん、こちらです」と呼ぶ声がした。
 庭へおりる踏段のところに、宮本新八がこっちを見ていた。身なりが変っているだけでな
く、どこか顔ちがいがしたようで、すぐには彼だということがわからなかった。宇乃は静か
に近よっていった。
「しばらくでございました」と宇乃が云った。
 宇乃はそう云って会釈しながら、なつかしそうに新八を見た。新八の顔は蒼《あお》ざめ
て硬ばり、寒さのためだろう、色をなくしたような、乾いた唇がふるえていた。
「原田さまからと仰しゃったのは、あなたでしたの」
「そうです」と新八は唇を舐めた、「もちろん、私です」
「わたくしまた、あなたは仙台へいらしったものとばかり思っていましたわ」
「いちどいったんですが」
「たしか国もと預け、ということだったとうかがいましたけれど」
0099名無しさん@お腹いっぱい。
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2020/01/07(火) 08:30:46.71ID:XHellqth
「ええ、そうです」新八はすばやく、背後のほうを見た。
「それで」と宇乃は云った。
 新八はまた唇を舐め、ふるえながら、せかせかと云った、「仙台へ送られる途中で、原田
さんに救ってもらい、それからずっと匿《かく》まわれているんですが」
「まあ、原田さまに」
「それで今朝、ここへ来たのは」彼は口ごもった。いそいで云おうとするのだが、舌がよく
動かない、というようすであった。彼はまたすばやく左右を見た、「じつは、貴女をお伴《
つ》れする、ためなんです、貴女と虎之助さんをです」
「どこへですの」
「わかりません」と新八は云った、「原田さんの御家老で堀内惣左衛門という人を知ってい
るでしょう、あの人が青松寺《せいしょうじ》のところで待っているんです、それからさき
はどこへゆくのか、私は聞いていません」
「でも、どうしたのでしょう」と宇乃は訊《き》いた、「そんなに急に、ここを出なければ
ならないようなことでも、できたのでしょうか」
「危なくなったからです」と新八はせきこんで云った、「私も同様ですが、貴女や虎之助さ
んも危ないんです、いま詳しいことを話している暇はないが、兵部どの一味が、われわれを
掠《さら》おうとしているんです」
「なぜでしょう」と宇乃が云った、「わたくしたちには、もうちゃんと御処分がきまったの
ではございませんか」
「陰謀なんです、ええ」と新八が云った、「兵部どの一味の陰謀なんです、詳しいことは原
田さんが話すでしょう、一刻を争うばあいだそうですから、早くしてください」
「でも困りますわ」と宇乃は新八を見た、「原田さまからお聞きではなかったでしょうか、
弟は一昨日から麻疹で寝ておりますの」
「しかし、駕籠《かご》が待たせてありますから」と新八は云った、「麻疹くらいなら駕籠
でゆけば大丈夫ではありませんか」
「原田さまがそう仰しゃいましたの」
「もちろん、そうです」と新八は云った。宇乃はなお訊いた。
「麻疹を御承知ですのね」
「貴女はなにか疑っていらっしゃるんですか」
「いいえ、疑ってなんかおりません、ただお医者さまに、すっかり発疹してしまうまでは、
風に当ててはいけないといわれておりますの、そして弟はまだ発疹し始めたばかりなのです
から」
「それはそうでしょうが」と新八は苛《いら》いらと云った、「駕籠があるし、なにかでよ
くくるんであげて、貴女が抱いてゆけばそんなに風に当ることもないと思いますがね」
「そうでしょうか」
「かれらに掠われれば、まちがいなく命にかかわるのですから、どうかできるだけ早くお支
度をなすって下さい」
 宇乃は「ええ」と頷いた。
 彼女は迷った。新八は追われる者のような眼つきで、左右やうしろに、絶えず眼をはしら
せながら、せきたてた。宇乃にはそれが、危険の迫っている証拠のように感じられた。それ
でようやく決心し、奥へはいっていった。新八は唇を噛《か》み、がたがたとふるえた。
 宿坊《しゅくぼう》の高い屋根をかすめて、さっと風が吹きおろして来、彼の袴《はかま
》や袂《たもと》をたたいた。新八はちぢみあがった。
「とうとうやった、おれはとうとうやってしまった」彼の呟きはふるえていた、「しかも、
宇乃さんを騙した、おれは、いやそうじゃない」
0100名無しさん@お腹いっぱい。
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2020/01/07(火) 08:31:30.61ID:XHellqth
 彼は首を振った。彼は口の中で「そんなばかなことがあるか」と呟いた。どうしてこんな
ことを思ったのだろう、騙しただなんて。おれは騙しなんかしやしない、おれは畑姉弟を救
い出すんだ。そうだろう。柿崎さんは一ノ関の陰謀を知っている、おれたちの仇《あだ》を
討たせてくれる、宇乃さんたちも、此処に置いては危ないから救い出すんだ。そうじゃない
か、と彼は思った。
「そうだ、おれは二人を救い出すんだ」と新八は口の中で云った。
 しかし、まもなく宇乃が出て来たとき、彼は踵《かかと》が地につかぬほどふるえだし、
殆んど恐怖におそわれたような眼つきになった。宇乃のうしろに、着物でよくくるんだ虎之
助を弥吉が抱き、おきわ[#「きわ」に傍点]が包みを持ってついて来た。
「いま駕籠を呼びます」新八は門のほうへ走っていった。
 塩沢丹三郎が良源院へ来たのは、宇乃たちの駕籠が、門を出たすぐあとであった。彼は虎
之助のみまいに来たのであった。
 昨夜、甲斐から虎之助が麻疹で寝ていると聞き、明日はみまいにいってやれ、と云われた
。そのとき、みまいの品を持ってゆくようにと、幾らかの金も渡された。もちろんこんな時
刻に来るつもりはなかったが、眼がさめると、にわかに気がせきたって、すぐにも宇乃に会
い、虎之助のようすが知りたくなった。
 ――さぞ困っているだろう。
 宇乃はまだ十三歳にしかならない。いくらおとなびていても、病気の弟をかかえては途方
にくれるにちがいない。丹三郎には、宇乃の途方にくれた、悲しそうな顔が見えるようであ
った。
 ――みまいの品はあとでいい。
 彼はそう思った。母親は「早すぎる」と云い、朝食をたべてからゆくように、と云った。
まだ御門もあきはしないでしょう。いや、不浄門へいって頼みます。そんな問答をしながら
、さっさと身支度をして、家を出て来たのであった。
 良源院へ着くと、彼は横から裏へまわり、寺男の小屋を訪ねた。弥吉は薪を割っていた。
丹三郎が近よってゆくと、弥吉は鉈《なた》を持ったまま、けげんそうにこっちを見た。
「畑さんへみまいに来ました」と丹三郎が云った、「虎之助さんが病気だそうで」
 弥吉は「へえ」となま返辞をし、左手の甲で鼻をこすった。風が吹きつけて、彼の半ば白
くなった髪毛が、はらはらっと顔にかかった。
「その」と弥吉は云った、「畑さまの御姉弟は、お迎えが来て、いま出てゆかれたところで
すがな」
「迎えが来た、どこから」
「それはその、お屋敷からでございます」
「屋敷とはどこの」
「それはもう、原田さまにきまっております」
 丹三郎は不安になり、しかし弥吉がなにか勘ちがいをしているのだ、と思った。だが弥吉
は間違いではないと云った。事情はわからないが、たしかに原田家から迎えが来、宇乃は虎
之助といっしょに、たいそう慌てて出ていった。迎えの者は駕籠を待たせていて、姉弟をそ
の駕籠に乗せていった、と弥吉は云った。
 丹三郎は色を変えた。
「そんな筈はない」と彼は云った、「屋敷から迎えの来る筈はない、そいつは偽せ者だ」
「なんでございますって」
「駕籠はどっちへいった」と丹三郎は叫んだ。
 話し声を聞きつけたのだろう、勝手口からおきわ[#「きわ」に傍点]が覗いた。
 弥吉は「出るな」というふうに、片手を振りながら、丹三郎に向かって、駕籠はおなり道
のほうへいった、と答えた。
「私どもは門までお見送りしたのですが、たしかに御本邸のほうへゆきました」
「私は追いかける」と丹三郎が云った、「済まないが中屋敷へ知らせてくれ、いや待て」彼
は唇を噛んだ。
 誘拐者が誰だかわからない、迂濶《うかつ》な者には知らせられないぞ。そう気づいて彼
は首を振った。
「よし、その必要はない」
「わしもまいりましょう」と弥吉が云った。
 丹三郎はもう走りだしていた。
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