「おおみや」「こうのす」「さいたま」と1943年12月8日の追記

発見
ある人物が書いた文書がどこかで発見れた。
その文書の冒頭は作者が、顔のみえない人と「こうのす」を発見するまでの顛末が語られてる。
その文書では「こうのす」は、存在しない偽の百科事典か、偽の古文書に仕込まれたいたずらであるとされており、この世に存在しない生き物及び存在しない民族や人物、あるいは古代にのみ存在した文明や、思想宗教、民族の記述を織り交ぜながら、捏造された架空の土地であることが明確に示されている。「おおみや」という言葉は「こうのす」の、神話や民話、伝説などが記された古文書の、物語の舞台となる場所の名として挙げられており、
この時点ではこうのすという存在をそれらしく見せるためのギミックでしかない(この文書の作者が、ではなく、この文書の主張では存在するはずの「おおみや」創案者が、である)。

こうのす
その文書の「こうのす」とは、アジアかもしれない、日本かどうかわからない、埼玉県ではありえない場所に存在した文明の一つ。滅ぼされる寸前には、現在のさいたま市の市町村及び鴻巣市の周辺の市町村あたりに勢力を置いた。奈良以降、平安以前に、現在の鴻巣市の片隅に興り、14世紀後半から末あたりに終わりを迎えたと言われる。こうのすの経済基礎は主として、王とその一族及び、王とその一族達に代々仕えている、6人の村長が住み支配している村々の農産と、
その他の勢力下の地に住む人々の半放浪の畜産であり、王といっても、形式あるいは象徴だけのものが存在するのみで、事実上は王以外の一族の有力な村長達の、6人による合議制の集団指導体制で、勢力下の村々に対して間接的な支配を敷いた。王の一族郎党は、西洋、あるいは中東にあるような石造りの神殿のような王宮に住み、王の一族郎党に代々仕える村々の6人の村長の、一族郎党は、竪穴式で、土と木でできた、雪で作るかまくらのような入り口があり、
そこから入るとすぐに、アリの巣のように張り巡らされた、事実上ほぼ地下の住居に住み、その村々に住む人々は、規模は大、中、小さまざまで、ほぼ地下、あるいは半地下の竪穴式住居で生活していた。
文化及び伝統の特徴としては、王の一族郎党や、王の一族郎党に代々仕える6人の村長達は、叙事詩的な歌や、こうのすの祭りの歌や、こうのすの民謡及び、こうのすの周辺の村々の、祭りの歌や、民謡などの歌の替え歌を後援することに力を注ぐ伝統があった。